04/20/20

« œ » – 共生のための(?)新しい思考の枠組み

下に添付したテクスト(« œ »と題されている)は、昨年と一昨年前に神戸Gallery8と京都の想念庵で展示されたフロリアン・ガデン の巨大なドローイング(2m×4m)について、作家本人がコンセプトの説明および自身の研究について記述したものである。« œ »というのは作品のタイトルであり、フランス語で使われるoとeが合わさった特殊な文字だが、ラテン語由来のいくつかの単語をかき表す時に使われている。フロリアン・ガデン がこの作品のロゴと言おうかかサインとしてデザインした記号(図)はサケの稚魚がまだ腹部に卵嚢をつけてそこから養分を得ているような様子もうかがわれる。絵画は寸法こそ大きいが、その内容は細部が詳細に描かれたミクロスコピック曼荼羅のようであり、鬱蒼としている多種多様な器官や(非/)生命体の群はしばしば共依存の関係を築く様を描き出す。あるいはそれは一時的に一方がもう一方を侵食する脅威となっていても、それらは時間の経過の中で(短いスパンも途方も無い長いスパンもある)やはり共生的な生を営むことが運命付けられている。

絵画の構造を端的に振り返るならば、作品« œ »は、多数の器官や生命体(およびウイルス)が成す複雑な建築物であり、バベルの塔から着想を受けた上部と、ダンテの時獄篇からイメージした下部の建築が中央のゾーンで地平線を対称軸としてつき合わされた形となっている。上部構造では生命の起源としての「卵」が輝かしく君臨するのを最上部として、それにまとわりつくように精細胞が続き、神経細胞や毛細血管の構造が複雑にレゾーを織り成しながら、やがてそれらが退廃したり、細胞が変異を起こして病的な分裂を反復する様子を表す中央のゾーンへ降りてくる。そこには食細胞が免疫反応のために活躍しており、次第にそれらは変異した細胞や、人類が歴史的に直面してきた多数のバクテリアやウイルスが蠢くエリアへと変貌する。地獄の構造は下へ下へと降りてゆき、無数のウイルスが棲息する深遠な穴へと遠ざかってその絵は終わる。

この絵画の「上」「中」「下」の構造は、人類中心主義的なヒエラルキーの思想と二元論的パースペクティブに基づくものだ。テクストで作家自身が述べているように、« œ »が敢えてこの形をとったのは、まさに、現社会に浸透したその人類中心の視点を覆すためにほかならない。上部が「健全」、下部が「病的」という説明そのものが、意味をなさなくなる瞬間がある。はりめぐらされた毛細血管が生命体において正常に機能している、変質した細胞が無制限に分裂を続けるような現象がある、バクテリアがそれぞれの生命活動を営む上で宿主の中に留まってそこから栄養を取り、ウイルスが同じく宿主にタンパク質からなる殻を突き立てて、そこに自身のDNAを送り込んでいる…。これらの出来事に、善悪の価値判断が与えられたとすれば、それは、ひとえに物語のせいである。例えば、ヒトという生命にとって有益か害かといった枠組みが、本質的にニュートラルな現象を意味付ける。« œ »にはエボラウイルスやHIVウイルスのような、これらのウイルスによる死を避けるために人類が真の脅威として「戦って」きた対象も描かれている。現在世界で感染が広がるCovid-19もまた、「戦争」とか「撲滅」などの語彙によって意味付けられ、« œ »においては下部に挿入されるべきキャラクターということになるのだろう。

さて、人類中心主義的な二元論の物語を覆すと言っても、「生命は視点を変えれば皆ただ生きているだけだ、上下などない」など言い放つことしかできないのであれば、わざわざ絵を描いたり、ものを書いたりしなくてもいいと思うのである。そんなつまらないことしか言えないのであれば。「生命は皆同じ」なんて言ったって、私たちが生きているのはヒトの生であり、生命として生き続けているからには物語がつきまとってくるのは当たり前だ。それでもなお、いやそれゆえに、つまり、生き続けるために考えるべき(あるいは考え直すべき)ことがあり、フロリアン・ガデンの絵画も、新たなエコロジーに焦点をあてるアーティストたちの挑戦も、結論を言い放ちたいのではなくて新しい思考に見る人を巻き込み、それによって生き方を作り変えて行こうとしているのだと思う。

« œ »についてのテクストでは、我々の生命がそもそもウイルスやバクテリアや菌類と共に在るものと認識することを促すことによって、異なる物語を紡ぎ始めようと試みている。事例が列挙される。
*バクテリア、菌類、ウイルスは代謝の均衡維持の役割を担い、消化機能を助け、免疫機能を高める
*腸内菌が脳の機能に影響を与え、腸内菌と同じ種類の菌類が脳内にも存在する
*人間の遺伝子の一部はウイルスに由来している(ウイルスは人の進化に貢献してきた)
*人間はしたがってこれらの微生物に恒常的に侵されながら変化してきた

フロリアン・ガデン は次のようにテクストを締めくくる。
ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?
このテクストを日本語に翻訳したのは私なのだが、「貢献」と訳出しているのはもちろんcontribution (/contribuer)である。ラテン語のcontribuereの語源には「分け与える」とか「何かを共有するために与える」といった意味がある。多様な地球上の生命の一つの種にすぎない人類がその生態の進化に貢献するとは、なにやらそれでもやはりヒトという種を過大評価しているように聞こえる。一方で、ウイルスはヒトの遺伝子に自らのDNAを組み込むことに成功してきたように、ヒトもまた共に生きる(生きている、あるいはこれから共生する)微生物のホストとして彼らの乗り物になり続けていくだけであると結論するだけであれば、人類がこれまで少しずつ追究してきた地球の生命についての営みについての理解をあまりに蔑ろにしている。

私たちが生命について考える新しい枠組みをつかみとるために、« œ »を通じて再考できることがあるように思われ、作品について書くことにした。

注)
*本作品は、フロリアン・ガデン が2018−2019年にわたって取り組んだリサーチおよびドローイングであり、私が企画した2018年の展覧会「ファルマコンーアート×毒×身体」にて公開制作を行い、2019年には神戸のギャラリー8での「ファルマコンー生命のダイアローグ」で天井絵のように展示された。
*展覧会リンク:http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=339http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=347
*作家HPリンク:https://floriangadenne.com/2019/10/29/oe/

« œ »

« œ » において、科学、錬金術、神話的・宗教的物語が混在している。この作品は、マクロとミクロの視点による生物の観察に基づいている。

下にあるものは、上にあるものに等しく、上にあるものもまた下にあるものに等しい。
La Table d’Emeraude, Hermès Trismégiste, 3e ou 2e av. J.-C.

« œ »は « œcuménique »という単語に現れる。« œcuménique »は、16世紀の使用例では<全世界的な、普遍的な>という意味である。この言葉は、 « oecumene »つまり<我々の住む地球、宇宙>に由来している。
(« oe » comme « œcuménique » adj. est emprunté, sous la forme ecuménique (1547 budé) rectifiée en œcuménique (1599), au latin ecclésiastique oecumenicus « de toute la terre habitée » et « universel ». ce mot est dérivé de oecumene « la terre habitée, l’univers ». )

« œ »の形態は、バベルの塔の螺旋構造およびDNAの二重螺旋構造に基づく。この構造はボッティチェリが描いた地獄にもみられ、それはバベルの塔の上下を逆さにした建築となっている。
バベルの塔に関して、私たちはその崩壊を真っ先にイメージするが、塔を建設した時、人類は世界全体と調和しており神にも匹敵できると考えていた。楽園を追われ、人間は神々の言語を失わずにすんだ。人間は、無機物、植物、動物界の言語を理解する能力を持った。したがって、神への挑戦としてのこの塔の建設は、人間の際限のない傲慢さと自信過剰を明らかにした。この普遍的言語は、RNAとDNAに基づく遺伝情報という自然界の言語のことであると再解釈することができる。今日人間は生物を操作し、修正する、つまり<神の役割を演じる>技術を発達させた。

この建築に棲むのは、微生物、細胞、ウイルス、バクテリアなど、大きさの異なる生命体や器官である。« œ »の構造は一見すると二元論的である。つまり、上部は<健全な>生物が描かれ、下部は<病的な>生命体が描かれている。« œ »はこの二つの構造を一つに統合する。

上部構造には、共通言語の概念を象徴的な翻訳としての毛細血管と神経のレゾーが見られる。それらはその頂点に君臨する卵細胞によって司られている。卵細胞から八本の精細胞が伸び、それは二本ずつ撚った四本の糸となる。錬金術において、卵は宇宙の創造を象徴する。また、世界の創造について語る異なる神話においても<世界の卵>があらゆるものの起源として登場する。

下部構造は、<下にいるもの>を意味するラテン語のInfernus=地獄に関連する概念を想起させ、そこには、苦痛、退廃、略奪、死病がある。何かによって侵略され、氾濫するような感情や、差し迫った生命の危機を描き出すことを試みた。病原菌が鬱蒼としているその部分には、無数のウイルス、バクテリアを描きこんだ。また、癌細胞の密集し糸をひくような構造に私たちは思わずぞっとする。 « patho- »の語幹は « pathogenic »(病原体)や « pathology »(病理学)多くの単語に見られ、ギリシャ語のパトス pathos は「やってくるもの、被った経験、不幸、魂の感情」を意味する。私たちもまた、白血球やマクロファージが生命の危険に対して防衛する様子を目の当たりにし、畏れに似た感情を抱くかもしれない。例えば、マクロファージの中には癌細胞のような恐ろしい見た目を持つものがある。侵入者を捕らえるために吸盤のある無秩序なレゾーを広げている。病原体なのか健全な器官なのか、見た目にはもはや不明瞭だ。ウイルスはタンパク質からなる膜を実に多様な形態に発展させている。しばしば対称性の高い形態であり、円柱や球体、正二十面体など正多面体である。特に正二十面体はプラトンの正多面体の一つで非常に頑丈な携帯とされる。

ウイルスは、私たちの生命を脅かすという点で<悪>にカテゴライズされるが、その形態からは何の危険も機能不全も暗示されてはいない。それどころか、彼らの完全な形態は今日までその原始的生命が生き残ることを可能にした原因ですらある。たった5kbから200kbで可能になる完全な幾何学的形態に、嫌悪感よりむしろ魅惑されてしまう。

上と下二つの世界が出会う場は、ドローイングのなかでもっとも複雑な部分である。なぜなら、病原体、健全な細胞、免疫細胞の間で起こる多様な相互作用を描いているからだ。<健全>と<不健全>という二つの構造が出会う場はつまり、バベルの塔と地獄の二つの建築が上下対称に組み合わさる境界面になっている。そこでは、様々な戦いが繰り広げられており、<攻撃><防御><侵略><警戒><保護><武器><戦略>などの戦いに関わる語彙でしばしば描写される。
もっとも知られた免疫反応の形態は食細胞だろう。その名の通り、吸収する機能を持った細胞であり、異物を消化吸収してしまう。これはまさに、動物が自らを養うために行うような捕食行動であるのだが、ここでは生命維持の必要よりむしろ生き延びるための防衛としての意味がある。

病原体の例としてよく知られているのはパラサイト(寄生)だろう。健全な細胞の代謝機能を利用し、その細胞膜に穴を開け、自分の遺伝情報を送り込む。犠牲となった細胞は乗っ取られて自らのアイデンティティを失う。実はこのことは « host »という言葉の定義をよく表している。つまり、« host »とは、歓迎するものであり、歓迎されるものという相反する二者のことである。

この境界が不明瞭な二つの世界を結びつけるため、次のことを考えて見たい。私たちがふつう<病原体>と呼んでいる生命体は、単に私たちの視点から(私たちの利害関係から)判断してそのようにみなしているに過ぎない。

バクテリア、菌類、ウイルスは私たちの代謝の均衡を保つのに重要な役割を果たし、消化機能や免疫機能を高め、そのほかの病原体から私たちを守ることにも貢献している。さらに、最近の研究により、腸内菌が脳の機能に影響を与えるという驚くべきことが明らかになった。私たちはしたがって微生物に恒常的に<侵され>ており、彼らは私たちにとって<病原体>でないどころかなくてはならない存在といえる。この考え方は比較的新しいものである。私たちのアイデンティティは人間に由来する細胞だけではなされず、複数のバクテリア、ウイルス、菌類と共にある。我々の遺伝子の一部はウイルスに由来するものであり、ヒトという種は彼らによって侵されることによって進化してきたということを決して無視することはできない。
Jacques Lependu, directeur du Centre de Recherche en Cancérologie Nantes- Angers (CRCNA), Nouveaux concepts sur les microorganismes dans leurs relations avec leurs hôtes, exposition « L’un l’autre », 2015.

« œ »のバベルの塔と地獄は蔓延る微生物に棲みつくされ、その状況は、地球規模でみると人間とは、地球上の生命群の一部である取るに足らない種の一つに過ぎないことを象徴している。2011年8月現在一千万もの異なる種が地球上に生息していると言われるが、人類は、ものすごい速さで人口を増やしながら地球上の生態を破壊に導く唯一の種なのである。宿主と微生物の関係性が均衡を失った時、それは<病原体>と呼ばれる。« œ »は、人間がほかの生命体に対する支配者として自らを切り離しながら作り上げてきたヒエラルキーを突き崩すことを目指す。なぜなら、ヒトという種がすべきなのは、地球に対する病原体として振舞うことではないからである。宿主と病原体は長い時間をかけて相互に影響を与えながら共に進化してきた。ヒトという種は、地球にとってはむしろ寄生者なのだ。さらに、ジャック・レパンデュが上の引用で述べているように、ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?

フロリアン・ガデン Florian Gadenne(アーティスト)

テクストはPDFファイルもダウンロード可:20042020 œ text final jp

04/18/20

Covid-19の感染拡大をフランスで生活しながら書いたこと

ものを書くのをこんなに躊躇ったことはない。これまで、くだらないことを恥ずかしげもなく散々書いてきたのに。天邪鬼な性分もあり、多くの人々が同じ主題についてものを書いているな、と思うにつけ、私は書かないぞと意固地になってしまったのだが、<書きたい>というただ一つの動機から、結局はこのエッセイを書いている。

私は現在パリの南郊外に住む。つまり、3月17日から外出禁止体制下となったフランスで、今日が4月17日だからちょうど丸一ヶ月生活していることになる。外出禁止「令」というからには法令であり日本の自粛要請とは異なりはっきりした法強制力がある。<不要不急の外出>は警察によって取り締まられ、違反すると罰金の支払いを命ぜられる。不要不急の外出ではない外出ー許可される外出ーの定義は、3月17日以降数週間かかって制限を加えつつ明確化され、現在は、1)どうしても外出しないとしかたない仕事(会社ならば雇用主による証明書が要求される)2)買わないと生活できない食料品や薬の買い出し 3)持病の治療などどうしても行かなければならない病院 4)自宅付近で独りぼっち限定での散歩やスポーツ、犬の散歩 4)その他裁判や行政呼び出し関係の義務的外出 に制限され、外出時は外出日時を記載した証明書を持ち歩く。非常事態宣言と外出禁止の強制の開始と延長は大統領演説によって国民に伝えられたが、細々としたエラー(あるいはロックダウンが遅すぎたとか諸々)に批判はあるものの、そのいざ決まってからの機動力には率直に感心した。3月15日には外出自粛要請にも関わらずパリジャンが小春日和を全身で満喫していたのが16日に大統領演説を受け、17日には外出禁止となり18日には政府のウェブサイトから証明書がダウンロード可能となり携帯が義務付け警察によるコントロールが開始できたのだから。ちなみに学校という学校が全休校になったのも、教員がオンライン授業のための云々を用意する暇など与えられる間も無く16日から一切休校になったことにも、おお!と唸ってしまった。

私個人といえば、今学期は、勤務するグランゼコールの一校で定期試験を残していたので、オンラインシステムを利用して学生と連絡を取りながら試験を実施した。参加学生数も多くなく、顔見知であるのをいいことに、また、自宅勤務だと家事とか子どもと遊ぶとか中々学校勤務のように時間をやりくりできないため、これまで機会がなくて一度も利用していなかった学校指定のオンラインシステムを隈無く勉強して巧みに運用してやるほどちゃんと準備する時間も体力も気力も義理もないよなと即判断し、オーラルテストは電話で実施した。その当時、外出禁止開始から一週間しか経っていなかったが不安からか人恋しさからか世間話したくてたまらない勢いで近況を喋ろうとする学生もあった。いうまでもなく、一人で下宿している学生や、学生のみならず一人暮らしの者にとって、何週間も誰とも直には会わずに引きこもっておれ、というのは、たとえ日々イライラしながらも家族と顔を合わせて会話を交わして生活しているのとは比べ物にならない「インパクト」があるに違いない。こんな時に思うのは、「ポジティブに頑張ろう!」と<頑張る>ことや、「我慢しよう、いずれ元の生活が戻ってくるのだから!」と<我慢する>ことが逆効果だということである。頑張ったり、我慢することはそもそも無理の塊で、結論からいえばこの状況が、しばしばナイーブに語られる意味で<終息>することや<元に戻る>ことなどあり得ないからである。多少落ち着き、我々は現在よりもフィジカルな意味であるいはソーシャルな意味で活動的な生活を送り始めるかもしれないが、それは、頑張ったり、我慢したりしなくてもやってくる。ある意味で、受け入れるということが大事ではないかと考えているのだ。

ウイルスは撲滅できない、と述べた科学者の記事がソーシャルメディア上でも広く支持されて共有されていたが、多くの人がそんなことはわかっており、ウイルスはそもそも生命体でもないタンパク質の殻の中にDNAをバラバラ含んだ遺伝情報のヴィークルであるのだが、そして我々の遺伝情報もまた数%以上はウイルス由来のものであるとか今日の研究ではそんなことまで明らかにされており、従って、私たちは本当は、見えもしないナノ級(nmナノメートルは1メートルの10の9乗分の1)のウイルスと「戦争」をすることも、「撲滅」することも、気の遠くなるような妄想だということを感覚としてわかっているのではないだろうか。「我々はウイルスと戦争状態にある!」と宣戦布告していたのは、フランスの大統領であったけれども、彼自身ももちろんウイルスを撲滅しようなど考えていない。ただ、国民の配慮ある行動(三密を避ける、不要不急の外出を控える、医療崩壊を食い止める)を呼びかけるために、ここまでアホな言い方で理解を呼びかけなければならない(しかも二十分程度のスピーチの中で7回も連呼した)ほど、国民が馬鹿にされているということは、情けないというほかはない。(しかし、のちに述べるがこの国民を馬鹿にした演説と強制措置は一定の変化を促しただろう。)

さて、私たちの日常生活の変化は、世間の多くの人々の「大きな変化」に比べたら、天地がひっくり返るほど無茶苦茶になった!というほどではない。私たちというのは、夫のフロリアン・ガデン と一歳を少しすぎた息子と私である。三匹の猫もいる。私たちは子どもが小さいことがあり、また今年は保育園の定員も満員で、これまでずっと息子は私と夫に見られている。見るというのも世話してやってますみたいな感じでおこがましいから、まあただ一緒に過ごしているという感じである。ウイルスによる症状は当初から、風邪くらいの感染力とか、高齢者が重症化するとか、子どもに関してとりわけ高い注意を呼びかけるものではなかったが、自分の子どもを敢えて苦しませたいという親はおらず、私たちも感染拡大にしたがって、子どもを外ーとりわけ買い物など不特定多数の人々の群に出会う場所ーには連れ出さなくなっていた。そういった必要は大人が一人ですませ、その間は私か夫が留守番をするというのが少なくとも3月になる前から習慣づいていた。子どもは毎日外で遊ぶ。ただし親以外の誰にも会わないし、家以外の屋根のあるところにも行かない。だが、既に学校に行き、友人と遊ぶ事に慣れた子どもの日々への違和感には率直にシンパシーを抱く。

フランスで感染が拡大した。日本では両親の住む北海道での感染拡大が一時深刻化したように見えたが踏みとどまり、東京での感染拡大などを受けて日本でも非常事態宣言が出され、ただの外出自粛よりも強い語調で人との密着接触を避けるべき過ごし方について実践され始めた。誰かも既にのべていたが、日本の感染拡大は、比較されるヨーロッパやアメリカのそれとは様子が全然違う。しばらく拡大は続くものの拡大の仕方が同じにはなりえない。台湾はマスク着用を法的に強制して効果を上げたそうだが、日本では、そもそも病気じゃないときにもマスクを着用できる。(マスクがアイデンティティになるとかマスクだけで論考が書けてしまうほどマスクをする国民である。)中には、しなきゃならんとなると意固地になって自分は大丈夫とマスクをしない困った老人がいることなども耳にしているが、基本的にこれだけ多数の国民がマスクをすれば感染拡大に効果があるのは確実である。そして手を洗うしうがいもする。食べ物も基本的に清潔にする(みんながベタベタその辺に置いてしまうフランスの<パン>みたいなもんはあんまりない)
フランスでは外出禁止令発令以降しばらくして、いよいよ、メディアがただまくしたてるだけで左の耳から右の耳に筒抜ける情報ではなく、なんんといおうか、<感染へのリアルな恐怖>たるものが人々の内側からこみ上げてくるにしたがって、道ゆく人がマスクをしているのを普通に目にするようになった。だがそれまでは、マスクは病気の人がするものであり、自己防衛のためにマスクをするということはなく、つまり「マスクをしている」=「病原菌」(!)みたいに見られることを恐れて、とくに、各国で中国人差別からのアジア人攻撃が加速する情勢に至っては恐ろしくてマスクなどできないという、馬鹿げた状況であった。私なぞ誰がどう見てもアジア人なのであるから、2月ですら出勤にメトロに乗るのが気が重かったし、近所で買い物に行くのすら、例えば、哀れな愚か者が何か罵声を浴びせてこようものなら、気が向けば説き直してやろうくらいの気概はあるけれども、もっと「熱くなった」人が恐ろしい薬品とかかけてきたら絶対に嫌だなとか、無駄に想像力を膨らませてしまうのであった。コンシャスネスを持っている人がマスクをできなかった数週間はやはり馬鹿げたことであったと心から思う。

何を言いたかったか、さて、まとめていきたい。重要なのは、状況がだいぶん変わったということだと思う。自己防衛のためのマスクが普及したのはもちろん、「他者を見たらウイルスだと思え!」というメディアのわかりやすいキャッチコピーのおかげで(そんな端的なコピーがあったかわからないが、上に述べたように言うことをなかなか聞かない国民にどうにかして、人々間の距離を取らせ外出制限を守らせるため、政府とメディアがかなりの荒っぽいマインドコントロールを試みたことは確かであり、それは結果として浸透したのだが、それはそれで阿呆として扱われ結局阿呆でしたというところもあって情けない)、多くの人々が、潜在的な感染可能性を前提として配慮した行動ができるようになった。具体的には、顔を触らない、手を洗うなどは当然として、人同士が近寄らない(唯一可能なスーパーでの買い物は入店制限があり、しばしば長蛇の列に並んで何十分も待たねばならない。その際2メートルくらい前後と間隔を保つ)、外から家に持ち運ぶものは消毒する、着替える、ビズとかせずに<よそよそしく>する。

ビズというのは、フランス人が挨拶の時にする、会釈でも、握手でもなく、チュッチュとするやつで、これは家族や仲良しでは性別を問わず行われるほか、ある程度親しい(親しくもなくてもする)異性間で、会った時と別れるときにホッペにチュッチュッとやっているあれである。風邪をひいていたりすると相手にうつす危機を気にして自主的に「今日風邪なのでビズしないからー」と言ってくれる人もいるが、まあいいやと思ってビズする人がいるのは明らかだし、そもそもまだ発症してないだけで気がついていないかもしれない。とにかく、顔にウイルスを撒き散らすという点で、これほど効果的な方法はあろうか!郷に入れば郷に従えで、これまで10数年間仕方ないのでチュッチュと挨拶してきたものの、そんなよく知らん異性とほっぺをくっつけるほど密着するのも、毎回儀礼的にチュッチュとやるのも、正直面倒だなと思うことの方が多かったので、おそらくこの習慣は、この期間を機に急激に廃れて、家族と親しい人間にとどまるだろうと思う。それでよいのではと思っている。家族が大人になってもスキンシップするのは文化的でなんの批判もないが、親しくない人との制度化されたスキンシップというのは苦痛だし、手を洗ったり、物を拭いたりする習慣もあまりなかっただろうから、これ以降、人と人の距離についての配慮はコンシャスネスが高まるに違いない。

何より素晴らしいことだなあと感じているのは(それが政府により強制される事によってしか実現しなかったのは残念というか当たり前というか、そしてさらにこの騒動そのものがウイルスの感染を装ったグローバルで政治的な茶番のような気さえしているので、高く評価していると同時に全面的に幸福を感じるには至って居ないのであるが…)、私たちのこれまでの日常はほぼ「不要不急」で成り立っていたという事実を認識することだ思う。私が言いたいのは、我々の日々を構成する要素が無価値の塊だったという意味ではない。そうではなく、私たちがこれまでずっとやらなければならない!と信じていたものは、実は日々をただ生きるためには不必要なことで、焦ってやるべき義務も責任もなかったのだな!と気がつく瞬間というのは素晴らしいということが言いたい。(今日現金収入がないと今日食べるのが困難という場合はもちろんこの限りでないのは承知の上だ。)大事だと思っていたルーティーン、私が行かないと皆困ると思っていた業務、そんなものは幻であったという事実!時間という点で1日の多くを占めていた事柄が、それをそっくりそのまま別の行為と取り替えても、日々というものは営まれ、肉体は維持され、季節は変わって行くという、当たり前のこと。当たり前であるのに、不要不急のタスクで忙殺される日常の中でこれに気がつくのは簡単ではなく、一挙にこの自覚を促した「状況」は、その意味で意味があると言わねばならない。

また、「不便さ」への順応も重要だ。人は一度変化に慣れたのちにはそれが当たり前と感じられる能力を持っているので、さしあたり色々なことを「不便」と感じるのも私たちが慣れてきてしまった(無理の上に成り立つ)偉大な便利さとのギャップという相対的な意味でしかない。日本でも思い切りこの「不便化」が進み、我々の享受する至れり尽くせりの生活と全く違う生活を数週間から数ヶ月にわたってかなりの人口が経験できれば、日本社会はリフレッシュするだろうなあと思う。たかだか食料品の買い出しのスーパーへの買い物のために、店に入るのに並ばなければならずたいそう時間がかかるとすれば、おのずと無駄足は運ばないように気をつけるようになり(いまだに買い占めを続ける愚か者を除けば)買うべきものを買わねばならぬ時にようやく買うようになるだろう。宅急便が届かないのでネットショッピングで無駄なものを便利さを糧に買いまくって空輸と陸運と海運を極限まで苛め(おこがましくエコロジストを自称しながら)環境汚染に加担することを避けられるだろう。オンラインショッピングはアマゾンでさえも多くの場合数週間待ちとなっている。店にいっても買いたいものがあるとは限らない。それは誰に怒りをぶつける筋でもなく「仕方ない」ので待つしかない、あるいは、諦めるしかない。また、最初は少し驚いたが、医療機関で働く人にも外出禁止と業務停止が徹底されている。もちろん感染症に対応している医療機関はフル稼働であるし、持病患者のケアをするような大きな病院も機能している。妊婦も問題なく出産ができるだろう。しかし、歯医者や皮膚科や小児科といった、我々が気軽にお世話になっていたはずの病院やクリニックに全く通うことができないのだ。個人的なことだが私は3月末にインプラントの手術をする予定がかなり前から日にちが決まっていたのだが、非常事態宣言とともにクリニックが閉鎖され、いつだか知れぬ再開まで先延ばしになった。この間に別の差し歯が外れてしまい、食事のたびにいちいち痛い思いをし、万一衛生に不備があって炎症を起こして他の歯に及んでもすごく面倒だし、酷い事になる前にぜひ解決したいと医療機関に連絡をとったのだが、その程度では、歯科のある緊急病院へ行ってもいつ見てもらえるかわからないし、多分見てもらえないだろうと言われた。これは、<耐えられない痛みを10としてどのくらい痛いかレベル>というのがあるのだが、それで表すと7以上(つまりものすんごく痛胃からすぐに助けろ!と絶叫している患者)でないと、緊急病院では扱わないからだ。まあ、そんな程度じゃ命にかかわらないから見ませんよ、ということである。これまでの私が当たり前と思ってきた健康の基準に照らして見ると大変不便な生活を送っているのだが、これもまた、仕方ないのである。あるいは、この点でちょっといいことがあるとすれば、人々が無駄な通院や検査に行き過ぎないことだろうか。医療機関に行くのは散歩したり買い物したりするのと違うのだから、必要最小限であることが望ましい。健康マニアが不健康になる事例や、検査のしすぎがむしろ身体に及ぼす悪影響もなきにしろあらずであるのに、今日の私たちはメディアによって多すぎる健康についての情報を与えられて大いに脅されているために色々と心配になって過剰に医者にかかってしまうのだから。

要するに、これまで無数のエコロジストたちが高らかに叫んできた理想論:「一人一人が不便な生活に慣れるちょっとの努力をすれば環境汚染がくいとめられるでしょう!」という絵に描いた餅みたいなこと(そもそもそれをどうやって実現する?一昔前に戻る?そんなことどうやって実際にどのように実現するか言って御覧なさい、と突っ込まざるを得ない空論)が、たったの数週間でまさに実現してしまった。便利すぎる社会を支えるために人々が苦しい思いをして頑張っている日本社会に、もしこのことが起こったら、最初はワーっとびっくりし、たくさんの人が行き所のない憤りに熱くなってしまうかもしれないが、そんなこともすぐに過ぎよう。それが生活として定着したとき(人は一定時間以上その営みを続けていればどんな事にも必ず慣れてしまう)、生きることをまた違って考えられるようになるのではないかと、真面目に思う。

最後に、「この騒ぎが終わったら」「これが収まったら」「元の生活に戻ったら」「通常モードになったら」などなどの言い回しは、メディアが/政府が/市長が/社長が/先生が/親が/家族が、私たちをなだめすかそうとしている時の欺瞞に満ちた表現に過ぎない。それが万が一心から発せられていたとしても、である。ある意味で「この騒ぎが終わ」り、「これが収ま」ったように見える日は必ずやってくるが、それは「元の生活に戻」ることや「通常モード」(それ以前にそうであったという意味での)を私たちが取り戻すことではない。

人間は80年くらい生きる生き物で、これは長いとも短いとも言えるが、刺激が与えられれば、生き延びるために可能な限り素早く適応していく。個体の集合である社会や国家が、したがって、個体のキャパシティを無視したはるかに長いスパンで考えていくことはないだろうと思う。数ヶ月の経験もそれが決定的なら刻印される。それを経験していない以前に戻るということはあり得ない。経験とは生きることで、我々の身体は不可逆な時間を生きている。ブリュノ・ラトゥールなど著名な理論家も「この機会はチャンスなのだ!」みたいな言い方でインタビューを受けたり記事を書いたりしているが、私はそれはメディア的パフォーマンスで、「ポジティブに活かさなきゃいけない絶対の好機だよ!さあ、変わって行こうよ!」みたいなことを意識せよと叫んでいるとは思っていない。そうではなくて、彼らが言うのは、「そうなってしまいましたよ」程度のことだと思っている(どうなってしまったかを項目をわかりやすくまとめてくれはいる)。活かす/活かさない、なんて自由なものではなくて、私たちに選択肢のないもの、だと考えている。受け入れるのみ、というと、いやいや能動的に働きかけるべきポイントがたくさんある!と批判を受けそうだが、もちろん抗うべき項目があるのは認める。それでもやはり、戦う相手など本質的にはおらず、ただ生きているのが続いていくだけである。

2020年4月17、18日
大久保美紀