01/31/13

石内都「絹の夢」/ Miyako ISHIUCHI « Silken Dreams » @MIMOCA

石内都 絹の夢 / Miyako ISHIUCHI « Silken Dreams »

丸亀市猪熊源一郎現代美術館(MIMOCA)
2012/10/07→2013/01/06

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2013年1月6日、石内都さんの展覧会「絹の夢」を訪れた。この日は本展覧会の最終日で、美術評論家の光田由里さんと石内都さんとの対談も予定されていた。石内都さんの作品は、おそらく中学生か高校生の時だと思うが、1995年に出版された『手・足・肉・体』の写真集をどこかで目にしたのが初めての出会いであったと記憶している。はっきりと覚えているのは『キズアト』(2005年)以降の作品、『マザーズ』や『ひろしま』には、見たことのないものを目にしたときに感じる強い衝撃を受けたし、彼女が被写体を選択するその方法や切り取り方というものに心を動かされた。とはいえ、写真集を見ることは何度もあったが、展覧会に実際に足を運ぶ機会には頻繁には恵まれなかったので、今回初めて丸亀のMIMOCAに訪れ、ここでの石内さんの展覧会を観ることができ、ましてやご本人のお話を拝聴することが出来たのはものすごく幸せなことだった。

展覧会のタイトルは「絹の夢」。本展覧会では石内さん自身が幼少期を過ごされた群馬県桐生市(織物の産地)で2010年から撮影した織物工場や製糸工場の写真とともに、明治•大正•昭和にかけて日本の若い女性たちがお洒落に纏った一代限りの絹織物である「銘仙」に焦点が当てられていた。『ひろしま』から『マザーズ』をへて『絹の夢』にいたる石内さん自身の経験や物語が絹の道にやさしく導かれながら、その奇跡を感じ取ることができるような展覧会であった。

「ひろしま」から始まった、あるひとつの絹の道。(略)広島で出会った絹織物は故郷の土地を呼びおこし、導かれるように桐生に向かう。
遠い日に聞いた蚕が桑の葉を食べる音、蚕棚がびっしりと天井まである部屋の空気の匂い、赤黒い桑の実の甘ずっぱい香り、機械織機の規則正しい音のする小道、そんな土地に生まれたことを初めて意識する。そして銘仙というきもの。… (「石内都:絹の夢」青幻舎、2012年)

「ひろしま」で石内さんが撮影した被爆した女性たちの遺品はその八割が絹製であったそうだ。ワンピースやブラウス、花柄のスカートに美しいドレス。彼女の撮影する広島は、もちろん血痕が刻印され、爆風でちぎれてしまっているが、その衣服たちは今日もなお色鮮やかで美しい。この絹で作られた遺品たちが、彼女を故郷の桐生へ赴かせ、製糸工場に足を運ばせ、そして銘仙の撮影に至らせたという。蚕が桑の葉を食べる音とはどんな音だろう、むしゃむしゃという音の一つ一つが重なり合うように広がって聞こえてくるのだろうか。そして、蚕棚の部屋の匂いや、桑の実の香りを私は知らない。私が生まれ育った北海道では、屯田兵入植の明治20年代当初、養蚕が奨励され札幌農学校(現北海道大学)にも養蚕学を学ぶ授業があったそうだが、今よりもずっと寒い気候だった当時の北海道には養蚕はなかなか定着しなかった。私にとって、養蚕にまつわる描写、クワノハ、カイコ、マユといった言葉の響きは、ただそれだけで、見知らぬ関東の農村のある晴れた夏の日、子どもが遊んでいたり母親たちが仕事をしていたりするような、いつも小説で読むたび熱心に想像した風景を私に思い描かせた。

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彼女がこの展覧会で光を当てた「銘仙」という絹織物について、少しだけお話ししたい。絹の着物がふつうは代々受け継がれるものであるのに対して、銘仙は一代限りの絹織物であると言われる。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に組み合わせる平織りの織物で、その歴史は亨保・文政年間に遡り、伊勢崎の太織り(ふとり)という屑絹糸を使った手織りのざっくりした庶民の普段着として愛用された。明治になると糸屋・染屋・機屋などさまざまな専門業者もあらわれ、銘仙となる。織り方に様々な工夫が加わり、生地も丈夫になっていくが、本格的に女性のお洒落普段着として大流行したのは大正時代のことである。大正の時代、女性は前時代に比べて大変お洒落になった、というより、やっと普通の女も時々はおめかしして外に出かける時代になったようだ。銘仙は実は、洋服がもっともハイカラだった大正末期、銀座のギャルズに最も着られていたとする調査もある。こんなにもヴァリエーション豊かで、自由で、想像力豊かな着物がけっして次の世代に受け継がれなかったというのは、一見不思議な気さえする。石内さんは、彼女の母親の遺品の中に銘仙は一枚もなかったことや、着物を彼女に譲った女たちも持っていたに違いないのに絶対に手渡されなかったという事実から、銘仙は、一般的な絹織物のコンテクストにおいて、日本の伝統の本流になったものからおそらく最も遠いところにある着物であったと解釈している。そしてそれが当時の生きた女達による最も本当らしい絹のあり方だったのだろうともおっしゃられた。つまり、元々は屑繭糸で織られた安物で、色や柄は過剰なほど個人趣味で、世代を超えて受け継ぐに値しないもの、と女たちが思ってきたのが銘仙であり、しかし同時にその繊細で大胆な色や柄、そして儚い運命はまさに「絹の夢」と呼ぶにふさわしい存在なのだということが、私の中ですっきりと納得された。

石内さんの凄いのは、彼女の写真それ自体なんですといきなり言ったのでは慕ふ者失格である。私としては、まず被写体が凄いと言わなければならない。彼女の被写体はいつも凄いのである。それは私が石内さんの作品を観るようになってから一貫して変わらない印象の一つだ。写真集が出版されてから何度も見た『キズアト』では、女性の身体に刻まれた時間の記憶としての傷は、古い傷でありそれ自体は傷むことはないのに、その身体が苦しみ、それでもずっと生きて時間を重ねてきたことを物語る。刻まれた傷は少しも風化せず、あたかも傷ついた瞬間をそのまま観るものの目の前に突き出すかのような迫力。それでいて、傷をもつ女性たちの身体は写真の中で美しい。女性たちは、印画紙上で写真として物質化される以前にそもそも、その生きている様が石内都の直観を惹き付けた女性たちなのである。傷ついた身体を被写体に選び取る作品は世界に数えきれないほど存在する。しかし、石内さんの『キズアト』はそれらのどれにも似ていない。

(略)彼女はヒラリと羽衣を天空から引き寄せ、自分のからだにフワリと巻きつけた。何も着ていないからだにまとわりついた羽衣は、しだいに皮膚の一部となり、肌理を整え、からだに染みて、きれいな表層を作り出す。それがいつだったのか思い出すのをやめてしまうと、羽衣が傷だったことも忘れ、そのわずかな痕跡からにじみ出る体液のような密度のある力によって、黒いひと粒の粒子が生まれる。粒子は粒子を呼びおこし、光と影の無彩色が白い印画紙に焼き付き、羽衣は写真の中によみがえる。…(「キズアトの女神たち|石内都」あとがきより)

石内都さんは、1970年代後半に生れ育った横須賀の町を撮影し、『絶唱•横須賀ストーリー』を発表、78年に第四回木村伊兵衛賞を受賞した。この頃から一貫して、35ミリ、自然光、手持ち撮影を貫く。写真は、曖昧なイメージでなく、物質的であることを明確に意識して写真を作ってきた。彼女が写真を語る言葉には、例えば上記のような「黒いひと粒の粒子」という表現がよく登場する。そしてその粒子は「わずかな痕跡からにじみ出る体液」に由来することから解るように、同じくマテリアルである被写体から放たれる生き生きとした力に深く関係があるのである。彼女は撮影よりも暗室作業が好きだときっぱり言う。できるだけ写真は撮りたくないが、暗室で粒子を数え、粒子と粒子の間にあるものを観るのが好きだと語る。この作業の意味するところは、被写体が持つ何らかの力と石内さん自身が暗室で対話することであり、つまりは写真を媒介にした被写体と自己との関係を結ぶ、もっとも本質的な作業なのである。

「絹の夢」において撮影された数々の銘仙も、実はそういった対話の中で生まれてきたマテリアルとしての写真が鑑賞者に提示されているに他ならない。石内さんが撮影した銘仙とは、それをかつて個人趣味で一代限りの絹織物として纏っていた女たちの身体そのものであり、着こなしであり、今は亡き彼女たちの生き物としての質量や温度や、匂いである。石内さんの写真がしばしば、物を撮りながらもそれを観る私たちに別の存在を想起させるのは、そういったわけである。生き物は死に、物はそこに残り、彼女の撮ろうとしているものは、しかし、もうそこには存在しない。

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石内さん自身が述べているように、「絹の夢」は、「ひろしま」から続く絹の道である。そして、第11回宮崎ドキュメンタリー「Mother’sからひろしまへ」という展覧会が象徴しているように、この二作品も一本の道で繋がっている。「マザーズ」は石内さんが自身の母親の遺品を2000年から2005年に渡って撮影した作品で、第51回ヴェネツィア•ビエンナーレで発表した作品である。真っ赤な口紅がつややかに浮かび上がる一枚の写真は、母親の遺品と聞いて普通連想するような「想い出」とか「亡くなった人への思い」というキーワードが全く似合わない。今まさに物を残したその人が、観る人の前で紅を引き、その深紅の瑞々しい唇を微笑ませるでもなく静かにこちらに向けているような、どきっとする写真だ。撮影者が語っているように、化粧品や下着という身体にとても近い物たちを撮影することは、亡くなった母親の「皮膚の断片」を感じる行為である。そして、ここに浮かび上がるのは、「失われた身体ー物」ではなくて、「撮影者ー物の所有者」。つまり、「マザーズ」は、遺品を仲立ちに母との関係を切り取った作品なのだ。この作品は、ヴェネツィア•ビエンナーレおよび国内の展覧会を通じて鑑賞者によって、それぞれに視られ、語られ、解釈され、そしてまた観られることを繰り返す。遺品は、ある娘が撮影したひとりの母の遺品であることを離れ、ある種の普遍的な「遺品」となる。私写真としての私のお母さんの遺品は、共有されるなかで皆の母の遺品、さらには遺品そのものになり、個別性を越えていく。ここにこそ、「マザーズ」から「ひろしま」へ、そして「絹の夢」にまで繋がる主題「遺品」の意味があり、石内都さんの表現する作品がたとえ文脈から切り離されてひとりぼっちで投げ出されたとしても、しっかり自立して存在する表現であることの理由なのだと、私は考えている。さらに、このことは、しばしば個人的な記憶や想い出、個別的な動機から端を発する芸術における表現活動(あるいは、芸術領域におけるそれに限らない)の存在意義それ自体に深く関わると私は考えている。人々は、自分の抱えているとてつもなく大きくて強いものを、物質化し、可視•可触化し、それを独り歩きさせる。そのプロセスを通して、これを表現した人は、別の誰かによって(あるいは何かによって)、救われたり、共感されたり、非難されたりするだろう。しかし、表現活動には当然ながら、表現されたものをうけとった人にとっての意味が生じなければならない。このことは表裏一体かと思われるかもしれないが、決してそうではない。

私にとって、表現行為の存在意義はごく単純でありうる。個別性を越えてそれが共有されること、そしてそのことが表現者と鑑賞者を深い場所で関係させるようなこと。
私が石内都さんの表現されるものが好きなのは、きっとそれらが閉じた孤独の中ではなく開かれた場所にあり、そのことを感じた瞬間、ある種の救いや幸福ともいうべき何かを直観的に感じるためなのだと思う。

 

*「遺品」という被写体について、書きたいこと等もあったのだが、長くなってしまったので、このことについては次回に改めて書きたいと思う。

2013.1.6 MIMOCAにて。興奮し過ぎて手がグーになっています

2013.1.6 MIMOCAにて。興奮し過ぎて手がグーになっています