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鹿児島大学法文学部レクチャー&ワークショップ「アーカイブと自己表象」

鹿児島大学法文学部レクチャー&ワークショップ
開催2015年9月2日
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「あっ!」という間に1ヶ月が経ってしまいました。なんてことでしょう!1ヶ月前、鹿児島大学でレクチャー&ワークショップをさせていただいたのでその報告です。

2015年9月2日、鹿児島大学法文学部にお邪魔し、レクチャー&ワークショップを行ないました。テーマは「アーカイブと自己表象」。今日の芸術作品を制作する手法として顕著である「アーカイブ的な方法」に着目し、アーカイブ的な方法を通じて表現される作品の意味や有用性、アーティストの意図について考えることを目指しました。そして、確かに今日、美術館・ギャラリー・アートイベント、さまざまな展示空間で頻繁に<オブジェの集積>のような形をとる作品を目にするのですが、この潮流はいったいどのように解釈することができるのでしょうか?

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具体的に、現代美術史のなかから、アーカイブを手法とした<オブジェの集積>たる作品を思い起こすことはそう難しくありません。たとえばゴミを集めたアルマンとか、クリスチャン・ボルタンスキーのMonumentaにおける大量の古着の展示( »Personne »)とか、ソフィ・カルのLe rituel d’anniversaireやジャン=ルイ・ボワシエのMémoire de crayonsなど、多くの作品がなるほど、絵画や彫刻のように芸術家の手仕事によって創作したオブジェではなくて、なんらかのルールによって集積したものを分類し、展示しているのですね。

込められた意味は様々です。産業的に大量生産されたオブジェを文脈から切り離して大量に見せることによって、モノを異化することもできるでしょう。大量の古着は、かつてそれを着たはずの身体が不在となる状況のなかで、逆説的にも衣服の身体性を感じさせるでしょう。私が忘れられるのが怖いという全く主観的な悩みから毎年盛大に誕生日パーティーを行い、そこでいただいた誕生日プレゼントを詳細にメモをとって保存する奇妙な儀式は、自己存在の記憶について鑑賞者にひとつのアイディアを与えるでしょう。個人のコレクションの1024本の鉛筆をコンピュータのデータから探したり、気に入った鉛筆のレジェンドを読んだりすることは、一個人の思い出に留まったはずのオブジェが潜在的な複数の鑑賞者の記憶まで広がって共有されることが可能になるでしょう。

つまり、単なるコレクションと、それを芸術作品として作り上げることの間には、言うまでもなくそれが作品として鑑賞者に共有されることの意味が見いだされる必要があります。

ワークショップでは、参加してくださった先生がた、学生のみなさんそれぞれが、<「私の思い出/私のコレクション」を芸術作品にするにはどうしたらいいか?>という一見本末転倒のような問題について考えました。つまり、アーカイブ的な手法をとる芸術作品が芸術作品たる必要条件をあとから考える、といったようなちょっとしたチャレンジです。

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みなさんの作品は、それぞれのコレクションが非常に異なるものであったために、また、皆さんが時間の制約もありながらできるだけその場で作品を作る、ということにこだわってくれたために、ユニークなものが完成しました。ワークショップでは、アイディアを考え、つくり、発表する、という肯定をだいたい2時間ちょっとで行ないました。全員が発表できて、他の人の作品も体験したり鑑賞することができたので、良かったと思います。

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作品を簡潔に説明していきましょう。まずは「Ne pas toucher」不可触の作品です。これは作者が実際に日々の記録をとり、研究や論文のアイディアを綴ったり、スケジュール管理に利用してきた手帳を展示するというリスキーな作品です。そこにある手帳の束は単なる紙の束である以上に作者の十数年分の記憶が物質化したものです。見る者はそれに触れることを禁止されていますが、そこにある個人にって非常に大切なものを物理的には提示されています。

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また、1990年代後半より現代でも撮影されているプリクラは、長年に渡って少女たちの友人や恋人との思い出、家族との思い出や旅行の思い出の小さなフォトアルバムとしての役割を果たしてきました。この作品では、作者のプリクラコレクションを人生のフェーズや撮影の機会に分類し、プリクラによる自分史を構築しています。

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ペットと過ごす時間もまた、個人の人生の大切な時間を築きます。作者は、飼い猫と過ごす思い出を「家」という空間の記憶と結びつけました。空っぽの間取り図に配置される飼い猫の写真は、それが配置されることによって撮影された瞬間の思い出として色鮮やかに蘇ります。作者は間取り図に写真を貼るのではなく、敢えてこれを配置する、という方法を選びました。このことも、空間が孕んでいる自由な可能性と開放性、私たちの存在が刹那的なものであることと関係するように感じられます。

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もっともニューメディアな作品でした、AR(拡張現実)を構築する携帯のアプリケーションを利用した作品です。私の人生にとって(ラジオ番組に関するものでした)思い出深い数冊の本があります。これには、様々なレジェンドがあるのですが、携帯の画面で本の部分(表紙や特定の頁)をキャッチするとそのストーリーが浮かび上がってきます。

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漫画やイラストを長年描いてきた作者は、自分の画風が誰に/どんな絵に/どんな影響を受けてきた結果、現在の画風が出来上がったのかを、数枚の絵と自分の絵を比較することによって私たちに説明しました。絵の変化や文字の変化といった表現の歩みは、身体的動作に由来するものですから、その経験や痕跡は常にひとりの人間の身体と結びついた個人的なものでしかないのですが、個人のストーリーは、共有されることによって本当の話となったり、同時に作られたりする、そのような不思議なものでもあります。

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自分の名前をインターネットの検索エンジンで検索する「エゴサーチ」を題材に作られた作品もありました。張り巡らされたレゾーの中に日々クラス私たちには、パノプティコンの牢獄で始終監視され続ける囚人たちのように、ある意味で「隙のない」人生を送っています。私のイメージは、あるいは私の行動は、私が意図するしないに関わらず常にウェブ上を漂っているかもしれません。この作品では著者は、私のコントロールの外側にある、つまり他者によって公表され、名付けられた「私のイメージ」を集積し、メディアタイズされた私の輪郭を描き出しました。

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ほつれたジャージの裾がアップで映し出された一枚のイメージがあります。コレクションを元にした作品を作る、というとモノがたくさんなければならない気がしますが、作者は敢えてたった一枚の写真を選びました。アーカイブは実は、写真というマテリアルにあるのでなく、ほつれたジャージの裾に隠されています。ボルタンスキーが示したように、肉体から放り出された衣服はそこにあるだけで、不在の意味を強烈に訴えてきます。ほつれた裾には、ジャージの持ち主がそれを履いて歩き回った時間の蓄積とその歩行の特徴や行動の積み重ねが刻印されています。

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さて、そういえば私もプロトタイプとして、皆さんにアンケートをお願いして二つの証明写真コレクションに関わる作品を作りました。ご協力いただいた皆さんにお礼と結果を申し上げられずじまいで一ヶ月が過ぎてしまいましたが、本ワークショップで作品アイディアを考えるために提示させていただきました! というわけで、次回プロトタイプの結果を掲載しようと思います。

本レクチャー&ワークショップ、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。開催に当たって全てにおいて大変お世話になりました鹿児島大学の中路先生、太田先生に感謝を込めまして。

2015年10月2日