12/7/15

ソーシャルメディアを生きること、守られることの意味

Facebookにアップロードした写真がひとりのユーザーから「ヌード」報告を受けて、不正画像アップロード防止の委員会の審査対象となっているとの連絡を受けた。実はこの報告を受けたのは初めてではない。以前、9月に日本で撮ったプリクラをアップロードしたところ、同じように「ヌード」報告された。もちろん、ヌードのプリクラではない。露出度が高い服を着ているのでもない。ただのセーターとジーパンを履いたプリクラ写真であった。(写真1)

ご存知の方も多いかと思うが、不快な写真や暴力的な写真がFacebook上でシェアされた場合に、それぞれのユーザーがこれを「不適切なコンテンツ」であると判断した場合に「報告」することができる。さて、どのようなものを「不適切なコンテンツ」であると、判断するべきなのだろうか。Facebookの提案するカテゴリーとしては、「ヌード」「差別発言」「脅迫」などが「不適切なコンテンツ」としての報告の対象となっている。

私の場合だと、報告された二つの写真はいずれも1名のユーザーからの「ヌード」としての報告を受けて、審査対象となったということである。
ちなみに、二件目の写真は次の写真であり、プロフィール写真として昨日設定したものである(写真2)。ヌードかヌードでないか判断するという以前に、顔しか写っていないのでそもそも報告者の意図が分からない。

写真1

写真1

写真2

写真2

そこで、Facebookの「報告」についてもう少し調べてみた。
参考:https://www.facebook.com/help/263149623790594/

質問:Facebookに何かの問題を報告するとどうなりますか。私が報告する問題の人物には通知が送信されますか
回答:Facebookに何か問題が報告されると、弊社でその内容を確認し、弊社のコミュニティ規定に違反する内容はすべて削除されます。責任を負うべき人物に連絡をとる場合でも、報告者に関する情報は一切開示されません
Facebookに何か問題を報告しても、その対象が削除されるとは限りませんので、ご了承ください。Facebook規約には違反していないが、Facebook上で気に入らない内容が表示されることがあります

なるほど、私の場合は二件とも言うまでもなくヌードでないし、誰を傷つける内容を含んでいた写真ではなかったため、審査の結果、次の連絡を頂き、削除されなかった。つまり、報告者にとっては依然として「気に入らない内容が表示される」事態が継続することになった訳だ。

Facebookからの返信
あなたの写真がヌードに関するFacebookコミュニティ規定に違反しているという報告がありましたが、審査の結果違反していないと判断されたため、削除されませんでした。

ところで、報告する側とされる側の立ち位置について考えてみたいのだが、そもそもこの機能は、Facebook上で公共のために「不適切なコンテンツ」が表示されることを阻止し、ユーザーの心の平和を守るための目的で設定されている。つまり、報告する側が報告される側を訴えるために最良の気配りがされている。報告する側は報告される側の投稿によって不快な思いをし、傷ついたり、辟易したりしているのだから、ここでは、報告する側は報告される側に対して一方的に「報告する権利」を与えられる。それは次のような報告の仕組みによっても明らかである。

質問:写真を報告するリンクをクリックしましたが、友達にメッセージを送るよう求められました。写真を報告したら、そのことが友達に通知されますか。
回答:いいえ。これらの報告は匿名です。写真をFacebookに報告したくない場合は、報告リンクを使って友達にメッセージを送り、その写真を削除するよう依頼できます。この方法では、Facebookに報告は送られません。

質問:Facebookに報告した内容の状況を確認することはできますか。
回答:Facebook利用規約に違反する内容を報告した場合は、サポートダッシュボードから報告の状況を確認できます。あなたのサポートダッシュボードを見られるのはあなた自身のみです。
このページで、以下のことを実行できます。
▪ 報告をクリックして、弊社のポリシーの詳細を確認する
▪ 報告をキャンセルする
▪ 報告に対して何らかの措置が取られた日時、および措置の内容を確認する

したがって、報告された側は、報告されるままにサポートダッシュボードからの審査報告の連絡を待つことしかできず、それがなぜ報告されたか、誰によって報告されたか、サポートセンターの決定の過程にどのような話し合いがあったか、等の詳細を一切知ることはできないのである。知ることができるのは、あるユーザー(匿名)によって不適切なコンテンツとして「報告された」という事実と、その後のサポートセンターによる「決定事項」のみである。

この仕組みについて、今一度考えてみたい。先ほど書いたように、私の件では2度に渡り、まったくヌードではない写真が「ヌード」として不適切なコンテンツとしての報告がなされ、アップロードは一時的に審査対象となり、履歴においても不適切コンテンツのアップロード報告歴としてこの情報は保存され続けている。結果として、「ヌードではない」というサポートセンターの審査報告を受けて、「あなたの写真は削除されませんでした」と連絡されるのみである。

私はなぜ、誰の報告か、なぜヌードではない写真をヌードだと報告されたのかわからないまま、この審査状況と結果報告を甘受しなければならないのだろうか?

この一方通行性はソーシャルメディア、ひいてはインターネットやマスメディアの性質ですらある。わたしたち一人一人は、ユーザーの権利という名目で最大限に暴力や脅迫やイジメから守られている。困ったことがあったらサポートセンターに迷惑報告できる、ヘイトスピーチや差別発言は許されない、悪いユーザーの発言力や発進力は正義の名の元に阻止しましょう。すばらしい善意のシステムにも落とし穴がある。報告される側の、実は、差別を受けているような事態、イジメをうけているような事態、悪意で発言権を阻害されているような事態にはこのシステムでは十分に対応できないのではないかと思う。

実際、ネット上に散らばる画像には、それらが特定の文脈から切り離されたとき(あるいはそもそも文脈などなしに)直ちに、わいせつだとか暴力的だとか不快だと、ある個人が認識しうる画像がやまのようにある。それらに対し、いちいち、発信者の意図を予測することとか、自分の報告が発信者の権利に対してどのような影響を及ぼすかなどを、頭をかかえている時間も労力もわれわれにはないのだろう。そういった意味では、上述してきた一方的な匿名の報告により、報告される側が傷つくことも、報告する者が万が一恣意的(あるいは悪意)に報告を行うことも、あとからその事実に着いて十分に検討されることなどないのだ。

私たちの生きているソーシャルメディアの世界というのは、それほどに膨大で、途方もなく、時間もなく、配慮もなく、したがって、今まさに私がこの文章を通じて行なっているように、「立ち止まって考える必要がない」。

この世界はずっと向こうまで広がっており、色調を増しており、大きな音で私たちの鼓膜を絶えず震わせているけれど、そのこともまた、「立ち止まって考える必要がない」。

02/10/14

「リアル」になる「おしゃべり」

ツイッターやフェイスブック、あるいはブログやチャットに至るまで、ソーシャルメディアは、人々がある程度気が済むまで嘆き、怒り、語り、喧嘩し、捨て台詞や負け惜しみ、思い切りペシミスティックなレトリックを言い放つための、プラットフォームを与えることによって我々の心を穏やかにしてしまう最も恐るべき装置である。その覇気に満ちた言葉を発する「前」と発した「後」で世界は全体として何ひとつ変わっていない。我々がその充実したプラットフォームで繰り広げているのは、その程度の「おしゃべり」に過ぎないことを忘れてはならないのだ。

 誤解を避けて断っておけば、私は「おしゃべり」が世界を変えないなどとは一言も言っていない。むしろ、おしゃべりは世界を創りかえる。私たちの活動の多くはおしゃべりだ。私はよく何かを書き、大学や学校で様々な人と喋り、メールも電話もする。ブログも書くし、フェイスブックも使う。そのおしゃべりが無駄だとは思っていないし、喋ること、おしゃべりによって物事を解決すること(=和平)は、戦争の対義語として教えられており、そこまでの敬意をこめて、人間のおしゃべりは価値があると我々は生まれてからずっと教えられている。

 では何がよろしくないのか? それは、おしゃべりによって得られる予定された「満足」である。人はある程度言葉を吐き出してしまうと、それが、書いた物であれ、語りであれ、やり取りの有無や他者の反応を問わず、満足してしまう愚かで幸せな習性をもっている。

 江戸時代、8代将軍の徳川吉宗の治世に「目安箱」が設置されたことは小学生も歴史の授業で習う。将軍様が民衆の声に耳を傾けた、画期的な仕組みであり、町人や百姓の要望や訴えを真摯に検討するためのすばらしいシステムだった、などと教える学校の先生があるかもしれない。あれも一種のプラットフォームであろうか? などと考えては大間違いである。目安箱に投函されるのは訴状であり、現代のカスタマーサービスについてのアンケートなどとは緊張感が違う。江戸時代の町人や百姓の識字率は、寺子屋が本格的に普及するのが天保年間(1830年代)であったことからわかるように、その100年前に、百姓が身の回りで生じた困ったことについて、訴えることなどできなかったはずである。当然のことながらこの起訴は、住所•氏名を明記する記名制で、将軍が直接目を通して対応したと言われていることから分かるように、よほどの決意とリスクを背負う覚悟なしには使用されなかった。目安箱は一方で、「民衆の意思を汲む幕府」というプロパガンダには一役買ったに違いない。

 そのように、発言することが死の恐怖と隣り合わせであり、そもそも何かを書いたり語ったりするために伝播力あるメディアをもたなかった人たちに比べれば、現代の私たちは、自由である。いくらでも思ったままの荒削りの言葉を、それがどこに飛んで行くか見定めることなく放ることができる。ある大統領の顔写真を偽札に貼付けて、その紙幣の金額が示されるべき場所に「ゼロ」と記してソーシャルメディア上で拡散しても、翌朝獄中で手記を綴る危険などを覚悟する必要が全くないほどに、私たちは奔放だ。

 奔放な我々は激しく怒り、暴言を吐き、悲観し、慰め、勇気づけ、分かり合う。現実世界のそれと変わらず、インターネット上での他者との交わりもまた、抵抗を伴う。異なる意見、批判、議論、応答。人はこれらのことに疲労する。疲労はやがて充実感となってその人の、不満と怒りに満ちていたはずの心に穏やかさをもたらし、魔の満足は、忘れることを望まない心象を永遠に麻痺させる。本当に変えたかったそのものには何一つ届いておらず、現実世界はまだ変わっていないのに、勢いあった心象は突如希釈されてしまう。これが、プラットフォームの力だ。

 繰り返される衝動の麻痺と、現実世界で実現される結果への違和感。私たちは、このプラットフォームを、自分自身を慰めるためでなく、それが現実世界を震動させるエネルギーとなるよう、新たに考え認識するべきだ。サイバースペースが「ひみつ」を共有する、閉じられて匿名的な温室であったのは昔の話だ。我々は、ミクシーに飽きてフェイスブックやツイッターを始めたとき、「ひみつ」も同時に放棄したのだ。我々は、ソーシャルメディアには「アラブの春」を勇気づけるようなリアルなエネルギーへのキャパシティがあることを知っている。どれほどのフィジカルな動きが、それを介したかということを。

 我々のそれが、依然としてヴァーチャル(潜在的)なのだとすれば、それは、まだ我々が未だそれを使いあぐねているからである。それを利己的で繊細で虚飾的な道具としてしか使えていないからである。ネットは「リアル」に繋がる。傷つきやすく自己防御的なディスクールと、ドラッグに似た機械的満足感で、小さな世界を慰めようとするのを諦め、ほんとうのおしゃべりに身を乗り出すとき、ネットは「リアル」になるのだ。