04/18/20

Covid-19の感染拡大をフランスで生活しながら書いたこと

ものを書くのをこんなに躊躇ったことはない。これまで、くだらないことを恥ずかしげもなく散々書いてきたのに。天邪鬼な性分もあり、多くの人々が同じ主題についてものを書いているな、と思うにつけ、私は書かないぞと意固地になってしまったのだが、<書きたい>というただ一つの動機から、結局はこのエッセイを書いている。

私は現在パリの南郊外に住む。つまり、3月17日から外出禁止体制下となったフランスで、今日が4月17日だからちょうど丸一ヶ月生活していることになる。外出禁止「令」というからには法令であり日本の自粛要請とは異なりはっきりした法強制力がある。<不要不急の外出>は警察によって取り締まられ、違反すると罰金の支払いを命ぜられる。不要不急の外出ではない外出ー許可される外出ーの定義は、3月17日以降数週間かかって制限を加えつつ明確化され、現在は、1)どうしても外出しないとしかたない仕事(会社ならば雇用主による証明書が要求される)2)買わないと生活できない食料品や薬の買い出し 3)持病の治療などどうしても行かなければならない病院 4)自宅付近で独りぼっち限定での散歩やスポーツ、犬の散歩 4)その他裁判や行政呼び出し関係の義務的外出 に制限され、外出時は外出日時を記載した証明書を持ち歩く。非常事態宣言と外出禁止の強制の開始と延長は大統領演説によって国民に伝えられたが、細々としたエラー(あるいはロックダウンが遅すぎたとか諸々)に批判はあるものの、そのいざ決まってからの機動力には率直に感心した。3月15日には外出自粛要請にも関わらずパリジャンが小春日和を全身で満喫していたのが16日に大統領演説を受け、17日には外出禁止となり18日には政府のウェブサイトから証明書がダウンロード可能となり携帯が義務付け警察によるコントロールが開始できたのだから。ちなみに学校という学校が全休校になったのも、教員がオンライン授業のための云々を用意する暇など与えられる間も無く16日から一切休校になったことにも、おお!と唸ってしまった。

私個人といえば、今学期は、勤務するグランゼコールの一校で定期試験を残していたので、オンラインシステムを利用して学生と連絡を取りながら試験を実施した。参加学生数も多くなく、顔見知であるのをいいことに、また、自宅勤務だと家事とか子どもと遊ぶとか中々学校勤務のように時間をやりくりできないため、これまで機会がなくて一度も利用していなかった学校指定のオンラインシステムを隈無く勉強して巧みに運用してやるほどちゃんと準備する時間も体力も気力も義理もないよなと即判断し、オーラルテストは電話で実施した。その当時、外出禁止開始から一週間しか経っていなかったが不安からか人恋しさからか世間話したくてたまらない勢いで近況を喋ろうとする学生もあった。いうまでもなく、一人で下宿している学生や、学生のみならず一人暮らしの者にとって、何週間も誰とも直には会わずに引きこもっておれ、というのは、たとえ日々イライラしながらも家族と顔を合わせて会話を交わして生活しているのとは比べ物にならない「インパクト」があるに違いない。こんな時に思うのは、「ポジティブに頑張ろう!」と<頑張る>ことや、「我慢しよう、いずれ元の生活が戻ってくるのだから!」と<我慢する>ことが逆効果だということである。頑張ったり、我慢することはそもそも無理の塊で、結論からいえばこの状況が、しばしばナイーブに語られる意味で<終息>することや<元に戻る>ことなどあり得ないからである。多少落ち着き、我々は現在よりもフィジカルな意味であるいはソーシャルな意味で活動的な生活を送り始めるかもしれないが、それは、頑張ったり、我慢したりしなくてもやってくる。ある意味で、受け入れるということが大事ではないかと考えているのだ。

ウイルスは撲滅できない、と述べた科学者の記事がソーシャルメディア上でも広く支持されて共有されていたが、多くの人がそんなことはわかっており、ウイルスはそもそも生命体でもないタンパク質の殻の中にDNAをバラバラ含んだ遺伝情報のヴィークルであるのだが、そして我々の遺伝情報もまた数%以上はウイルス由来のものであるとか今日の研究ではそんなことまで明らかにされており、従って、私たちは本当は、見えもしないナノ級(nmナノメートルは1メートルの10の9乗分の1)のウイルスと「戦争」をすることも、「撲滅」することも、気の遠くなるような妄想だということを感覚としてわかっているのではないだろうか。「我々はウイルスと戦争状態にある!」と宣戦布告していたのは、フランスの大統領であったけれども、彼自身ももちろんウイルスを撲滅しようなど考えていない。ただ、国民の配慮ある行動(三密を避ける、不要不急の外出を控える、医療崩壊を食い止める)を呼びかけるために、ここまでアホな言い方で理解を呼びかけなければならない(しかも二十分程度のスピーチの中で7回も連呼した)ほど、国民が馬鹿にされているということは、情けないというほかはない。(しかし、のちに述べるがこの国民を馬鹿にした演説と強制措置は一定の変化を促しただろう。)

さて、私たちの日常生活の変化は、世間の多くの人々の「大きな変化」に比べたら、天地がひっくり返るほど無茶苦茶になった!というほどではない。私たちというのは、夫のフロリアン・ガデン と一歳を少しすぎた息子と私である。三匹の猫もいる。私たちは子どもが小さいことがあり、また今年は保育園の定員も満員で、これまでずっと息子は私と夫に見られている。見るというのも世話してやってますみたいな感じでおこがましいから、まあただ一緒に過ごしているという感じである。ウイルスによる症状は当初から、風邪くらいの感染力とか、高齢者が重症化するとか、子どもに関してとりわけ高い注意を呼びかけるものではなかったが、自分の子どもを敢えて苦しませたいという親はおらず、私たちも感染拡大にしたがって、子どもを外ーとりわけ買い物など不特定多数の人々の群に出会う場所ーには連れ出さなくなっていた。そういった必要は大人が一人ですませ、その間は私か夫が留守番をするというのが少なくとも3月になる前から習慣づいていた。子どもは毎日外で遊ぶ。ただし親以外の誰にも会わないし、家以外の屋根のあるところにも行かない。だが、既に学校に行き、友人と遊ぶ事に慣れた子どもの日々への違和感には率直にシンパシーを抱く。

フランスで感染が拡大した。日本では両親の住む北海道での感染拡大が一時深刻化したように見えたが踏みとどまり、東京での感染拡大などを受けて日本でも非常事態宣言が出され、ただの外出自粛よりも強い語調で人との密着接触を避けるべき過ごし方について実践され始めた。誰かも既にのべていたが、日本の感染拡大は、比較されるヨーロッパやアメリカのそれとは様子が全然違う。しばらく拡大は続くものの拡大の仕方が同じにはなりえない。台湾はマスク着用を法的に強制して効果を上げたそうだが、日本では、そもそも病気じゃないときにもマスクを着用できる。(マスクがアイデンティティになるとかマスクだけで論考が書けてしまうほどマスクをする国民である。)中には、しなきゃならんとなると意固地になって自分は大丈夫とマスクをしない困った老人がいることなども耳にしているが、基本的にこれだけ多数の国民がマスクをすれば感染拡大に効果があるのは確実である。そして手を洗うしうがいもする。食べ物も基本的に清潔にする(みんながベタベタその辺に置いてしまうフランスの<パン>みたいなもんはあんまりない)
フランスでは外出禁止令発令以降しばらくして、いよいよ、メディアがただまくしたてるだけで左の耳から右の耳に筒抜ける情報ではなく、なんんといおうか、<感染へのリアルな恐怖>たるものが人々の内側からこみ上げてくるにしたがって、道ゆく人がマスクをしているのを普通に目にするようになった。だがそれまでは、マスクは病気の人がするものであり、自己防衛のためにマスクをするということはなく、つまり「マスクをしている」=「病原菌」(!)みたいに見られることを恐れて、とくに、各国で中国人差別からのアジア人攻撃が加速する情勢に至っては恐ろしくてマスクなどできないという、馬鹿げた状況であった。私なぞ誰がどう見てもアジア人なのであるから、2月ですら出勤にメトロに乗るのが気が重かったし、近所で買い物に行くのすら、例えば、哀れな愚か者が何か罵声を浴びせてこようものなら、気が向けば説き直してやろうくらいの気概はあるけれども、もっと「熱くなった」人が恐ろしい薬品とかかけてきたら絶対に嫌だなとか、無駄に想像力を膨らませてしまうのであった。コンシャスネスを持っている人がマスクをできなかった数週間はやはり馬鹿げたことであったと心から思う。

何を言いたかったか、さて、まとめていきたい。重要なのは、状況がだいぶん変わったということだと思う。自己防衛のためのマスクが普及したのはもちろん、「他者を見たらウイルスだと思え!」というメディアのわかりやすいキャッチコピーのおかげで(そんな端的なコピーがあったかわからないが、上に述べたように言うことをなかなか聞かない国民にどうにかして、人々間の距離を取らせ外出制限を守らせるため、政府とメディアがかなりの荒っぽいマインドコントロールを試みたことは確かであり、それは結果として浸透したのだが、それはそれで阿呆として扱われ結局阿呆でしたというところもあって情けない)、多くの人々が、潜在的な感染可能性を前提として配慮した行動ができるようになった。具体的には、顔を触らない、手を洗うなどは当然として、人同士が近寄らない(唯一可能なスーパーでの買い物は入店制限があり、しばしば長蛇の列に並んで何十分も待たねばならない。その際2メートルくらい前後と間隔を保つ)、外から家に持ち運ぶものは消毒する、着替える、ビズとかせずに<よそよそしく>する。

ビズというのは、フランス人が挨拶の時にする、会釈でも、握手でもなく、チュッチュとするやつで、これは家族や仲良しでは性別を問わず行われるほか、ある程度親しい(親しくもなくてもする)異性間で、会った時と別れるときにホッペにチュッチュッとやっているあれである。風邪をひいていたりすると相手にうつす危機を気にして自主的に「今日風邪なのでビズしないからー」と言ってくれる人もいるが、まあいいやと思ってビズする人がいるのは明らかだし、そもそもまだ発症してないだけで気がついていないかもしれない。とにかく、顔にウイルスを撒き散らすという点で、これほど効果的な方法はあろうか!郷に入れば郷に従えで、これまで10数年間仕方ないのでチュッチュと挨拶してきたものの、そんなよく知らん異性とほっぺをくっつけるほど密着するのも、毎回儀礼的にチュッチュとやるのも、正直面倒だなと思うことの方が多かったので、おそらくこの習慣は、この期間を機に急激に廃れて、家族と親しい人間にとどまるだろうと思う。それでよいのではと思っている。家族が大人になってもスキンシップするのは文化的でなんの批判もないが、親しくない人との制度化されたスキンシップというのは苦痛だし、手を洗ったり、物を拭いたりする習慣もあまりなかっただろうから、これ以降、人と人の距離についての配慮はコンシャスネスが高まるに違いない。

何より素晴らしいことだなあと感じているのは(それが政府により強制される事によってしか実現しなかったのは残念というか当たり前というか、そしてさらにこの騒動そのものがウイルスの感染を装ったグローバルで政治的な茶番のような気さえしているので、高く評価していると同時に全面的に幸福を感じるには至って居ないのであるが…)、私たちのこれまでの日常はほぼ「不要不急」で成り立っていたという事実を認識することだ思う。私が言いたいのは、我々の日々を構成する要素が無価値の塊だったという意味ではない。そうではなく、私たちがこれまでずっとやらなければならない!と信じていたものは、実は日々をただ生きるためには不必要なことで、焦ってやるべき義務も責任もなかったのだな!と気がつく瞬間というのは素晴らしいということが言いたい。(今日現金収入がないと今日食べるのが困難という場合はもちろんこの限りでないのは承知の上だ。)大事だと思っていたルーティーン、私が行かないと皆困ると思っていた業務、そんなものは幻であったという事実!時間という点で1日の多くを占めていた事柄が、それをそっくりそのまま別の行為と取り替えても、日々というものは営まれ、肉体は維持され、季節は変わって行くという、当たり前のこと。当たり前であるのに、不要不急のタスクで忙殺される日常の中でこれに気がつくのは簡単ではなく、一挙にこの自覚を促した「状況」は、その意味で意味があると言わねばならない。

また、「不便さ」への順応も重要だ。人は一度変化に慣れたのちにはそれが当たり前と感じられる能力を持っているので、さしあたり色々なことを「不便」と感じるのも私たちが慣れてきてしまった(無理の上に成り立つ)偉大な便利さとのギャップという相対的な意味でしかない。日本でも思い切りこの「不便化」が進み、我々の享受する至れり尽くせりの生活と全く違う生活を数週間から数ヶ月にわたってかなりの人口が経験できれば、日本社会はリフレッシュするだろうなあと思う。たかだか食料品の買い出しのスーパーへの買い物のために、店に入るのに並ばなければならずたいそう時間がかかるとすれば、おのずと無駄足は運ばないように気をつけるようになり(いまだに買い占めを続ける愚か者を除けば)買うべきものを買わねばならぬ時にようやく買うようになるだろう。宅急便が届かないのでネットショッピングで無駄なものを便利さを糧に買いまくって空輸と陸運と海運を極限まで苛め(おこがましくエコロジストを自称しながら)環境汚染に加担することを避けられるだろう。オンラインショッピングはアマゾンでさえも多くの場合数週間待ちとなっている。店にいっても買いたいものがあるとは限らない。それは誰に怒りをぶつける筋でもなく「仕方ない」ので待つしかない、あるいは、諦めるしかない。また、最初は少し驚いたが、医療機関で働く人にも外出禁止と業務停止が徹底されている。もちろん感染症に対応している医療機関はフル稼働であるし、持病患者のケアをするような大きな病院も機能している。妊婦も問題なく出産ができるだろう。しかし、歯医者や皮膚科や小児科といった、我々が気軽にお世話になっていたはずの病院やクリニックに全く通うことができないのだ。個人的なことだが私は3月末にインプラントの手術をする予定がかなり前から日にちが決まっていたのだが、非常事態宣言とともにクリニックが閉鎖され、いつだか知れぬ再開まで先延ばしになった。この間に別の差し歯が外れてしまい、食事のたびにいちいち痛い思いをし、万一衛生に不備があって炎症を起こして他の歯に及んでもすごく面倒だし、酷い事になる前にぜひ解決したいと医療機関に連絡をとったのだが、その程度では、歯科のある緊急病院へ行ってもいつ見てもらえるかわからないし、多分見てもらえないだろうと言われた。これは、<耐えられない痛みを10としてどのくらい痛いかレベル>というのがあるのだが、それで表すと7以上(つまりものすんごく痛胃からすぐに助けろ!と絶叫している患者)でないと、緊急病院では扱わないからだ。まあ、そんな程度じゃ命にかかわらないから見ませんよ、ということである。これまでの私が当たり前と思ってきた健康の基準に照らして見ると大変不便な生活を送っているのだが、これもまた、仕方ないのである。あるいは、この点でちょっといいことがあるとすれば、人々が無駄な通院や検査に行き過ぎないことだろうか。医療機関に行くのは散歩したり買い物したりするのと違うのだから、必要最小限であることが望ましい。健康マニアが不健康になる事例や、検査のしすぎがむしろ身体に及ぼす悪影響もなきにしろあらずであるのに、今日の私たちはメディアによって多すぎる健康についての情報を与えられて大いに脅されているために色々と心配になって過剰に医者にかかってしまうのだから。

要するに、これまで無数のエコロジストたちが高らかに叫んできた理想論:「一人一人が不便な生活に慣れるちょっとの努力をすれば環境汚染がくいとめられるでしょう!」という絵に描いた餅みたいなこと(そもそもそれをどうやって実現する?一昔前に戻る?そんなことどうやって実際にどのように実現するか言って御覧なさい、と突っ込まざるを得ない空論)が、たったの数週間でまさに実現してしまった。便利すぎる社会を支えるために人々が苦しい思いをして頑張っている日本社会に、もしこのことが起こったら、最初はワーっとびっくりし、たくさんの人が行き所のない憤りに熱くなってしまうかもしれないが、そんなこともすぐに過ぎよう。それが生活として定着したとき(人は一定時間以上その営みを続けていればどんな事にも必ず慣れてしまう)、生きることをまた違って考えられるようになるのではないかと、真面目に思う。

最後に、「この騒ぎが終わったら」「これが収まったら」「元の生活に戻ったら」「通常モードになったら」などなどの言い回しは、メディアが/政府が/市長が/社長が/先生が/親が/家族が、私たちをなだめすかそうとしている時の欺瞞に満ちた表現に過ぎない。それが万が一心から発せられていたとしても、である。ある意味で「この騒ぎが終わ」り、「これが収ま」ったように見える日は必ずやってくるが、それは「元の生活に戻」ることや「通常モード」(それ以前にそうであったという意味での)を私たちが取り戻すことではない。

人間は80年くらい生きる生き物で、これは長いとも短いとも言えるが、刺激が与えられれば、生き延びるために可能な限り素早く適応していく。個体の集合である社会や国家が、したがって、個体のキャパシティを無視したはるかに長いスパンで考えていくことはないだろうと思う。数ヶ月の経験もそれが決定的なら刻印される。それを経験していない以前に戻るということはあり得ない。経験とは生きることで、我々の身体は不可逆な時間を生きている。ブリュノ・ラトゥールなど著名な理論家も「この機会はチャンスなのだ!」みたいな言い方でインタビューを受けたり記事を書いたりしているが、私はそれはメディア的パフォーマンスで、「ポジティブに活かさなきゃいけない絶対の好機だよ!さあ、変わって行こうよ!」みたいなことを意識せよと叫んでいるとは思っていない。そうではなくて、彼らが言うのは、「そうなってしまいましたよ」程度のことだと思っている(どうなってしまったかを項目をわかりやすくまとめてくれはいる)。活かす/活かさない、なんて自由なものではなくて、私たちに選択肢のないもの、だと考えている。受け入れるのみ、というと、いやいや能動的に働きかけるべきポイントがたくさんある!と批判を受けそうだが、もちろん抗うべき項目があるのは認める。それでもやはり、戦う相手など本質的にはおらず、ただ生きているのが続いていくだけである。

2020年4月17、18日
大久保美紀

02/4/15

心の平和のために書いた文章

海外は治安がわるいからと、時々心配される。外国は恐ろしい事件とかあって、銃による事件とか、薬物の事件とか、宗教や民族の問題とかあって、あぶないんじゃないの、と心配される。

たしかに、1月7日の事件は、それがあまりに近くで起こったということや、多くの人々と同じようにそのとき外出中で、「気をつけて!犯人は逃走中よ!」と言われてもどう気をつけたらいいのか気をつけようがないという事情から、数日間とても治安のわるい感じ、ではあった。

だがハッキリ言うが、それは、道を歩いていたら危ないとか、周りの人が怖いとか、銃撃される危険とか、突然捕らえられるかもしれない危機とは、似ても似つかないものだ。世界には、戦争状態の非常事態としての日常が実在しており、あやまってもそういった非常事態の日常とは比べ物にならないほどに、パリの1月7日以降の世界は平和である。

なるほど、たしかにそれは日本の平和感とは全く違う。誤って電車でウトウトしたり、鞄やズボンのポケットからスマホやお財布をペロリとしたまま優雅に歩いたのでは、一瞬にしてそれらは失われてしまうかもしれないし、本当は楽しくとも悲しくともある程度つねに戦々恐々とした雰囲気だけ演じて歩かないと、体力のなさそうで優しそうな日本人はしばしば金銭的価値ある物を盗まれる標的になってしまう。そういった意味で、めんどくさいといえばめんどくさく、ぴりっとしてなければならないといえばその通りだ。でも、平和だ。

そんな平和に対して日本のほうが心穏やかに過ごせるし、危険もすくないし、安心だ、とも思わない。むしろ、こちらでは思いのよらないことが日本にいると日常的に起こる。「キレる大人」を見ることはかなり印象的な出来事のうちのひとつだ。いや、誤解を避けて先に言っておくが、フランス人もかなりキレる。かなりのキレキャラであるし、突然怒って喧嘩して、見事なスペクタクルが繰り広げられる。が、わりとすぐにおさまる。キレたあと、言い尽くしたあと、20秒くらいしてから追いかけて行って殴ったりしないし、今生に渡って人々に悪行を言い継ぎながら引きずったりもなかなかしない。あくまでも印象だが、ノーコントロールでキレるというよりは普通に怒って静まる、という、ふつうの怒った人、なのである。そこにきて、日本社会での「キレる大人」はキレ方が本気である。コントロールがないのはもちろんのこと、ほとんどがキレている内容ではなくて、外的要因についてのストレスが限界で、なにかのキッカケでキレるのである。たぶんこのキレ方は、日本社会だけでなくて、先進国の、大都会の、ストレス過多の、どうしようも忙しくてイライラしてしまうような日常生活の、中にしゅっと起こりやすい。これからの世界はこんな「キレる大人」が増えるんだろうか。

約束か仕事に遅れそうなのか、それとも疾走したい気分なのか、ゆーっくり歩くおばちゃん二人のスレスレを豪速のチャリンコ男性が走り抜けた。たのしく歩いていたのにあんまり暴力的な出来事だったので、おばちゃんは思わず「危ないじゃない!」と口走ってしまいました。チャリンコ男性は、急いでいたなら走り抜けたらよさそうであるのに、止まって、折り返してきて、口汚い言葉でさんざんおばちゃんを怒鳴りつけました。男の人の怒鳴っているのって、子どもでなくても怖いと思うよね。それも、急に近づいてきて、感情的に制御無しに怒鳴っているのはとても怖いと思うよね。このおばちゃんたちは、この経験を一生忘れることはなく、ずっと、怖かったなって、思い続けるのですよ。

ある日飛行機が少し遅れて、そういうときは搭乗口の近くで、ボーディングタイムが更新されるのを待ちます。放送もかかるし、どっちにしても、チェックインしていたら、最悪たとえトイレに行ってて一人だけ搭乗しそこねていたりなんかしても、かなりしつこく探してくれるから、空港に取り残されるなんてことは殆ど有り得ません。数十分機材の整備などで搭乗時間が押していて、なんどか放送がかかったし、やれやれみんな、どんどん機内に流れ込んで行く。60歳くらいの男性が、ゲートの女の子二人に怒鳴りつけている。いつ放送がかかったんだ!(だから、今だよ…)とか、いつお客様を呼んだんだ!(だから、今だってば…)とか、失礼じゃないか!(なんでだよ…)とか、こんなんで分かるか!ふざけるな!(じゃあ他にどうするアイディアがあるかね…)とか。とにかく怒鳴り続けて、女の子たちは、ほかのお客さんのチェックをしながら、泣きそうになりながら、すいません、とか言っている。どう見ても、そのおじさんがキレているのは、アナウンスの仕方や飛行機の遅延についてじゃないよね、人はその程度のことでは本気で憤ることなどできないものだよ。ただの、八つ当たりだし、別のイライラの放出だよね。でもねー、係の子たちは本気で怖い思いをして、怒鳴られて、近くで汚い言葉を浴びせられて、しかも縁もゆかりもない怒りによって。この子たちはこのことをずっと忘れられないくらい、怖い思いをするのだよ。

「キレる大人」はいけないんです。なぜなら、本当に人を傷つけるから。本当に怖い思いをさせるから。傷ついたたくさんの心がこれ以上傷つけられませんように。こんなくだらない経験が、世界に増えませんように。
friends

02/21/13

ICOMAG 2013「批評」のテーマから考えたこと/reflexion on the aim of ICOMAG 2013

先日、文化庁主催のメディア芸術コンヴェンションが東京六本木で開催された。私は遠方におり、非常に関心があったにもかかわらず参加することが出来なかった。しかし、海外でメディア芸術に携わるアーティストや研究者からもこの会議のコンセプトについてのコメントをもらうという座長吉岡洋さんの提案のおかげで、第3回メディア芸術コンヴェンションのテーマ(icomag site)について、すなわちハイブリッドカルチャーにおける批評の可能性について、パリ第8大学のジャンルイボワシエさんおよび彼のセミナーに所属する数名の研究者と意見を交換することが出来た。日本で行われたリアル会議とは別の文脈であるが、日本のポピュラーカルチャーについての考察(あるいは、一般的に文化の越境という現象を考えること)にかんして、あくまで私自身が日頃抱いている問題をまとめながら、この議論のことをこのブログに記録したい思う。

今日よく知られているようにフランスは、世界的で日本に次ぐマンガの消費国である。パリでは毎年(昨年は20万人を動員)ジャパンエクスポや、大規模なコミケ、パリ•マンガサロンなどが盛況を収め、日本のマンガは、彼らのオリジナルカルチャーであるバンド•デシネ(Bandes desinées)を経済効果の点で遥かに上回って(しまって)いる。日本のアニメやゲームの人気も高い。その勢いは日本食、日本語教育、伝統文化も一緒くたに波及し、ジャポンは、所謂「クールジャパン」でプロモーションされてきたセクターのみならず全体的にクールである。こういったファンタジー的憧れは、ワンダーランドとしての遠き島国を思い描く想像力がいかにも簡単に紡ぎだしそうな物語のひとつである。そしてこのシステムは、日本に対してのみ向けられる特異な視点を裏付けるものでは全くないのであり、むしろ、日本のガールズが花の都パリ(死語?)に憧憬の念を抱く際の一生懸命さ(およびそれを支える日本のコマースとツーリズムの努力)のほうがよほど素晴らしいし、この程度のファンタジーは世界中に溢れている。ただ、日本を巡る物語についてやや驚くべきことがあるとすれば、そのファンタジーが今日においてもまだ機能するという日本のしつこいワンダーランド性である。

座長吉岡洋さんが昨年の3月にブログに掲載した「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか?」を先日フランス語に翻訳し、ウェブに掲載した。( text in French on salon de mimi, on blog by Hiroshi Yoshioka, original text in Japanese is here.) その記事の末尾は「「メディア芸術」をめぐる過去2回の国際会議の企画とはわたしにとっては、日本におけるポスト植民地主義を目指す文化的闘争であったのだ。」と結ばれている。このテクストは、1980年代に成熟し90年代には既に海外で積極的に受容されたマンガやアニメを、生みの親である日本がなぜ、2000年代後半になるまで自らのナショナルな文化と認め、外交戦略化しなかったのかをクリアーに説明する。(なるほど、そういえば精華大学におけるマンガ学部設置は2006年、京都マンガミュージアムの会館も2006年、外務省のポップカルチャー発信士/通称カワイイ大使任命は2009年である。)このテクストは、さらに、なぜ海外で日本人としてポップカルチャーを発信する際になんとなく後ろめたさが伴うのだろうという私個人の内省的体験にも、ひとつの解釈を提示してくれた。(このことは自分のブログでゴシックロリータの装いで文化レクチャーをすることを綴った記事や、高嶺さんの展覧会を論じた記事でも書いた。) 私はこのテクストを次の二つの点で重要と見なし、日本語以外の言語に訳される意義を見いだしている。一つ目は、日本人が日本のポップカルチャーをに対して抱いている「恥ずかしさ」(「恥ずかしい」というのはつまり、何らかの後ろめたさやそれを認めたくないとする気持ち)の存在を率直に肯定したこと。二つ目は戦後日本の植民地主義/意識を巡る問題について、日本社会がこの問題を隠蔽し直接対峙することなく現代まで先延ばしにしてきたという筆者の考えを通じて正面から文章化したことである。もちろんこの二つの点は互いに強く関係し合っていて切り離すことは出来ない。

まずは、「恥ずかしさ」を切り開らくことから始めよう。

当たり前のことだが、我々日本人がクールジャパンを恥ずかしく思っているなどということは、特定の社会的コンテクストを共有しない外国人には知られておらず、この内実は理屈で理解されることは可能であれ、いささか複雑化され過ぎており、日本人自身が言語化しきれずにいるという事実がある。ともあれ、そんなことは彼らの日本現代文化への熱意を邪魔もしなければその魅力を傷つけもせず、つまりは比較的どうでもいいことですらある。つまり、日本の外(あるいは内)でサブカルで括られる表現活動を受容吸収する多くの若者(あるいは若くない人々)にとって、異種混交的文化(hybride culture)とは、ある程度国際的で一般的な状況に収集できる事態である。誤解を恐れず言うなら、大きな流れとして今日の世界は、日本でもヨーロッパでも共通の枠組みに置かれていると見なしうる。文化の商業化•脱政治化傾向もまた、国際的なコンテクストで語られ得る。

それはそれでよいのだと私は考えている。日本固有の社会•歴史的背景に基づき、日本的ハイブリッドの特殊性を分析し、それを語ることは繊細で丁寧な仕事であり、必要不可欠なプロセスである。一方、日本でしばしば議論されてきた「メディア芸術/Media Geijutsuとは何か?」に代表される問いはとても厄介である。なぜなら、「メディア芸術」という言葉をMedia ArtではなくMedia Geijutsuと英訳すること自体がややもすれば対話を拒絶する姿勢の表明であると解釈されかねないからだ。このことはもっと丁寧に説明されるべきであり、ひょっとしたら語弊があるかもしれないが、私は「メディア芸術とはなにか」とか「メディア芸術のどの点をもって芸術なのか」という命題の答えを定めることに重要性を感じていない。むしろ、芸術という日本語の言葉が予め持っている特性に関わりすぎることに拠って、もっと大きなものが見えなくなる恐れがある。こういうのこそ実は、潜在的にotaku-likeな言説の一つになりかねない議論であり、言語ゲームに終始するならばただのdis-communicationに陥ってしまう。

オタクは「彼らが属するコミュニティー内では社会的態度でふるまうが、その社会性はコミュニティー内部に限られる」という側面がその意味の核を作っており、オタク的○○あるいはotaku-likeな○○という表現に応用されることによって、マンガ•アニメのフィールドに関わらず、広く使用できる。たとえば、メディアートを語るための専門的でテクニカルな言葉、科学の研究者が使う一般人の理解を全く期待しない専門用語、あるいは、(言語の壁までもその対象になるとすれば)、日本人にしか理解しがたい議論、それをあたかも翻訳不能であるかのように努力もせずに語る態度はすべてotaku-likeである。じつは、日本のマンガやアニメ、ゲームの領域が自己再生産的に成長できる自給自足のシステムをもっていることが、この領域の批評の難しさの本質をついている。フィールドのオタク的なあり方それ自身が、自らが理解される可能性を自己閉鎖していると言えよう。専門化したフィールドに対話の可能性を見いだしていくのが批評だとすれば、そのプロセスは、そのフィールドの内側にある言葉を大切にし、その言葉を通じる言葉(もっと意味のある言葉)に言い直すことから始まるに違いない。

現代のハイブリッドカルチャーにおける批評可能性は、したがって、通じる言葉で語る人々とそれに心静かに対応するotオタクの人々のやりとりを活性化することにある。私はotaku-likeな言説それ自体を否定しない。なぜなら、otaku-likeな語りこそ、各々の表現活動の現場にもっとも違い場所で生まれて語られる言葉だからだ。それらはただ、開かれて相互理解可能になればいい。

また、マンガやアニメ、ゲームが堂々と日本文化の仲間入りするのを長年妨げた日本的思想に「文化や芸術を経済•産業に結びつけるなんて、なんだかはしたない!」という暗黙の了解がたしかにある。(「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか」で指摘された通りである。)マンガやアニメ、ゲームの強力な経済活動との結びつきに批判的な目を向ける考え方だ。この妙にエレガントで日本的な思想は話し合いの参加者を驚かせることとなり、いわゆるハイアートであっても本質的に経済活動のコンテクストから逃れられないのだから、その点をもってハイとローの文化•芸術を分けることは出来ないという結論に至らせた。このハイとローの価値観、カルチャーとサブカルチャーといった対比そのものが今日やや時代遅れの議論ではないかという率直な感想も上がった。

ポピュラーカルチャー(大衆文化)の意味するところは、4つある。大衆にさし向けられる文化、大衆が消費する文化、既存のものを覆すために大衆が生みだすアヴァンギャルド的な文化、そして、消費者の大衆が生産者も兼ねるような過渡段階に位置する文化。ポピュラーカルチャーと言う時、一般には大衆が消費する文化をさす場合が多いのだが、上述の4つの意味を考えるならば、なるほど、現在いわゆるハイカルチャーと考えられているフィールドだって一定時間よりも以前、オリジナルのものが大衆により「日本化」したこともあるし、既存のものを破壊する芸術運動から作り出されたものだって含まれる。そう思ってみれば、この区別も線を引くことに目くじらを立てずともよろしい。たしかに我々は、誰から教わったのか今となっては思い出せない超謙虚な姿勢を美徳として共有している。日本のハイカルチャーにはオリジナリティがなくていつも西洋の真似をしてきた、マンガとアニメくらいしかソフトパワーになってない、という考えがその典型だ。この考え方はいささかペシミスティックすぎる。

さて、otaku-likeなパロールの(悪)循環は、各々のフィールドのみならず、「日本語」という言葉すらその仕組みのなかにそのまま含むことができてしまう。どういうことか。特定の社会や文化についての共通知識を前提として要求するような話(存在する殆どの議論はもちろん何らかのコンテクストをもっているが)では、デリケートな内容はなかなか翻訳されにくいので、そこには高い言葉の壁があるように見える。あるストーリーが言語間を越境する困難はあっていい。それがうまく伝わらないのも、理解が難しいと受け止められるのも、いい。ただ、それを自己を防御し他者を攻撃する手段として利用するようなくだらないスタンスがあるとすれば、それは直ちに放棄するべきだと思う。非日本語話者に解らないからとインターネット上で日本語で誹謗中傷すること。水戸芸術館における高嶺さんの展覧会「高嶺格のクールジャパン」の「自由な発言の部屋」という大事な章は、日本社会のそういった問題にも焦点を当てる。ネットの言論は本来すべからく誰の目にも触れ、誰にも理解される可能性を孕む。今日明日ではなく、いつまでも。なぜなら、それはひとたび書かれたものだからで、ネットに接続された世界で生き、そして書き、そこで何かを語るクリティークという行為は、すべてそういう性質を請け負う。展覧会「天才でごめんなさい」の会田誠さんが、膨大なツイートを無許可転載し作品に利用したことがたいそう騒がれたようだが、そんなことに目くじらを立てることほどナンセンスなことはなく、現代における発言とはもはやそのようなものだと諦め認めて、むしろそれを慈しむ「おしゃべり/talkative」な語り手になることが、異種混交文化の中で「生きた」批評をすることに繋がるのではないかと今のところ信じている。