09/14/13

55th La Biennale De Venezia Part4 / 55th ヴェネチア•ビエンナーレ No.4

55th Biennale de Venezia  part 4

 part3では、Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palaceにおけるドローイングとペインティングに焦点を当て、Daniel Hesidenceの様々なスタイルを越境する抽象絵画、オーストリアの画家Maria Lassingが »Body Awareness Painting »と呼ぶところの奇妙な身体イメージの絵画、自らが手に取るように自然を再構成しながら描くLin Xue(林雪)の竹を使った繊細なドローイング、また、Hans Bellmerのサド侯爵の引用による版画では性倒錯の想像力と両性具有の自己充足的な身体が描かれている。Ellen Altfestは描かれ抜いてきた女の裸体に目もくれず、男の裸体を隅々まで描いて鑑賞者の目を奪った。

part4では、Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palaceを離れ、88カ国が参加した各国のパビリオン展示について、ダイジェストのダイジェストを紹介したい。ちなみに、フランス館(ドイツ館の建物を利用しての)におけるアンリ•サラのRavel Ravel Unravelは別の記事(アンリ•サラ、フランス館)において紹介しているので、そちらを参考にしていただければと思う。

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Greece Pavilion/ギリシャ

欧州債務危機まっただ中のギリシャでは、マネーに関わる映像作品が上映された。このことは様々な意味で真っすぐな問題提起であるのだが、そこには言うまでもなく、社会的あるいは政治的立場、利害関係、価値観、世代や出自によって支配される相異なる主張を持つ個人が重なり合いながら生きている。
ギリシャ館のアーティストに選ばれた、Stefanos Tsivopoulosは1967年から7年間続いた軍事政権や冷戦時代のギリシャを包み込んでいた世界的な文脈にもういちど疑問を投げかける。ある非常に豊かな環境にうまれた人間が一生涯にわたって大きな困難を経ずに豊かな生活を送り続けることがあるのと同様の理由で、一つの国が歴史の中でしばしば困窮し、破綻の危機に陥るようなことも、原因をその国の内側に求めるようなことは殆どが的外れである。
Stefanos Tsivopoulosは、3つの異なる部分から成る映像作品において、人間関係形成において金銭が演じる役割、そして金銭の所有を巡る政治的•社会的な諸要素について三人の人物の経験に焦点をあててこれを明らかにする。

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目に留まったのは500euro札を次々に折り紙にして、完成した折り紙の花に茎を付け、花瓶に追加して行く年老いた女のイメージだ。女はひたすら折り紙の花を折っていおり。丁寧に折っては、水の入っていない大きな花瓶に追加して行く。使っているのは500ユーロあるいは200ユーロ札という金額の大きな紙幣ばかり。女は熱中していて、花が出来上がると嬉しそうでもある。老女は城のような家に住み、家には人気も無く、家族もない。出来上がって行く花の山は、ただの折り紙の塊だ。女の価値観はひょっとすると既に破壊されていて、この女にはそのような物差しが無いのかもしれないとも思う。しかし、女は紙幣を大切に閉まってある場所から取り出す。あるいは不意の電話を受けたのち、急に切羽詰まった様子で丁寧に折ったたくさんの花束をゴミ袋に突っ込み捨ててしまう。この女は、それが金であるということはわからないにせよ、それが彼女の家を一歩出た世界では、尋常でなく重要な物で、それが自分の身に危機的状況を作り出しうるということをいずれにせよ、忘れることができずにいるのだ。

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Israeli Pavilion/イスラエル – Gilad Ratman

イスラエル館のアーティストに選ばれたGilad Ratmanは、盛大なパフォーマンスを行った。Ratmanは、言語や国籍、国家や政府によって規定され、一見それが普遍的な人間の行動パターンや現在性にまつわる強迫のモデルを形作っていることに対して疑問を投げかけるような表現を行っている。それらを取り去った原始的なジェスチャーやコミュニケーションのあり方に立ち戻ることによって、既存のシステムを異なる視点で見始めるための提案をしている。
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第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、人々のグループをイスラエルからヴェネチアに旅行させるというワークショップを提案した。洞窟の中を進んで行けば、それが地下深い洞窟ならば、言葉の壁も、国と国の境界線も無いはずである。そのときには、政治の壁も宗教の壁も、ない。文明以前の小さな人々の共同体として生きてみるというアイディアは、前社会的、前言語的な想像的世界において、普段当たり前でぬぐい去ることなどできないと信じていたものを人々が一斉に失うという経験を作り出した。
想像上のヴェネチアまでの旅行をした一段は、イスラエル館に到達し、そこで粘土でこしらえた自分の像に向かって、前言語的な声によって話しかける。それは直接的な感情や意志の本質のような音を奏でながら、だんだんと高揚して叫びのようになるものの、他者には共有されがたい。それは、しかし、重なり合うことによって「音楽」と呼べるものになる。
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Georgian Pavilion/グルジア Kamikaze Loggia/カミカゼ•ロッジア

ポーランド出身の女性キュレーターであるJoanna Warszaが今回のグルジア館をオーガナイズした。Gio Sumbadzeがデザインしたこのロッジは、カミカゼ•ロッジアと名付けられている。作家たちによって作られ、生活できるよう家具も手作りされ、彼らがともに食事する場となり、オープニング時にはパフォーマンスも行われた。グルジア語でკამიკაძე(神風)だが、この名前についてKamikazeの-azeはグルジア人の名前に多いのだそうだ。だが、このグルジア館が、アルセナーレの多くの国のパビリオンが一通り並び終わった後に、1990年代末、ソヴィエトが崩壊した後に住居スペースを広げるために盛んに建てられた違法建築という形態をとって併設されていることを考えると勿論კამიკაძე(神風)のコノテーションを意識させるのが目的だと思われる。これまで、メイン会場の敷地内にパビリオンとしてではなくこのような建物を造った国は初めてである。ソヴィエト崩壊後、無法状態に置かれた国の記憶や、崩壊以前に中途半端に残された土地計画の遺物、様々な政治的、宗教的、民族的衝突の記憶を、十分に明確な形で訴えている。
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 Portugal/ポルトガル

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ポルトガルはメイン会場にパビリオンを持たない。パビリオンを構えることも、何ヶ月も続く会期中ヴェネチア内の展示空間を借り続けることも、大航海時代を制したポルトガルにとっては魅力の無いことであるに違いない。ポルトガルパビリオンは、海の上に浮かぶ。毎日クルージングにも出かける。ヴェネチア共和国は15世紀最強の海軍を持つ都市国家で、大航海時代のリスボンもまた多くの遠征隊を送り出し、交易の中心として栄えた港町であった。船全体に行き渡っているのはジョアンナ•ヴァスコンセロス(Joana Vasconcelos)の温かく不思議な世界だ。ヴァスコンセロスは、2012年、ヴェルサイユ宮殿の現代アート展示に最年少女性アーティストとして抜擢され、宮殿をオブジェで染めた。その時の様子はsalon de mimi過去記事にも記録している。ヴァスコンセロスは、ヴェルサイユでみたようにタンポンや料理用具、エクステンションといった女性的アイテムを作品に積極的に用いるし、その性の意味を描くのに長けた作家だ。この船も、外観は、港都市として反映したリスボンの歴史的威厳を感じさせるにも関わらず、その内部に一歩足を踏み入れると、くらい中に温かく丸い毛糸製のオブジェが光っており、その穏やかでぬくぬくした感じは、母の子宮につつまれた記憶を想起させる。
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Angora Pavilion/アンゴラ館

アンゴラ館はご存知のように、参加型の展示が高い評価を受け、ルアンダ•エンサイクロペディック•シティ展が金獅子賞受賞を獲得した。安定してパビリオンを構える豊かな国々が獲得することの多い金獅子賞受賞によって、当然メイン会場外であるにもかかわらず、アンゴラ館は予想を上回るヴィジターを迎え入れることに「なってしまった」。写真作品が大量にコピーされて、それを鑑賞者が自由に持ち帰れるというアイディア自体は無論ちっとも新しいアイディアではない。ポスターや新聞、ビラのような印刷物がインスタレーションになっていると同時に自由にそれを持って帰れるスタイルは今日なかなか人気がある。勿論、ルアンダ展が評価されたのはそれだけではないのだが、とにかくそういった「態度」に注目が集まったことは確かである。
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実はこのアンゴラ館、8月上旬には既にこのもてなしをやめてしまった。というか、ファイルも写真のコピーもすべて有料になってしまった。中の写真を全て持って帰ると総額40ユーロほどにもなるらしい。繰り返すが、コピーである。
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訪れた際アンゴラ館で働く人と少し話をする機会があったのだが、アンゴラ館の方針転換の理由は簡単で、予想外のヴィジターが詰めかけたことによって予算を上回って写真のコピーがはけてしまったのだ。
壁にはイタリアのルネッサンス絵画がギラギラとした額に収められて飾られている。そのパレスの床には、そのヒエラルキーと言おうか、経済的状況と言おうか、そういったことを象徴するようにして、ルアンダの街角で撮影された、置き去りにされたモノたちの写真の大きなコピーが積み上げられている。
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 Japan Pavilion/日本館

日本館では、田中功起さんの抽象的に話すことー不確かなものの共有とコレクティブ•アクト展が高い評価を受けた。協働とはなにか、抽象とはなにか、を問うパフォーマンス作品はその各々は非常に興味深いものである。キュレーターの蔵屋美香さんとともにアーティストがコンセプト「抽象的に語ること」の出発点とした震災との関わりは、非直接的体験であるそうだ。アメリカで活動するアーティストであること、日本の土壌で震災を経験していないということ。私自身、震災の2011年当時すでに海外での生活が2年目を迎えていたので、震災を日本という国の中でその瞬間もその後も経験していないということが如何なることか、分かっているつもりである。それがどのように問題を具体的に扱うことを自問させ、不安を掻き立てるかということも。
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この展示については、コレクティブ•アクトの意味である「協働」が重要な概念として照明が当てられ、それが重要なのは「一国では解決できないも問題が山積みの今日にふさわしい」からだと説明される。私は、抽象的なアプローチに対する、このあまりに安直な説明が嫌いである。先日開催が決まった東京オリンピックに関する、日本の最終プレゼンテーションをポジティブに評価する折に語られるロジックと同じものである。

抽象的に語るのは、問題を解決できないからではない。問題を解決するためである。

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08/9/13

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
June – September 2013

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)のことを書くのは緊張感がある。それは、他のアーティストや他の展覧会、あるいは社会問題や現象についてのエッセイを書くことと比較して「相対的」に緊張するのではなく、艾未未について書く行為そのものが「絶対的」にしんどいのである。それでも書こうと私が感じているのは、彼がこの第55回ヴェネチア•ビエンナーレで鑑賞者に提示した3つのストーリーを全て目の当たりにしたからであり、私にとってはこうすること以外に選択肢がないからである。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)は1957年北京生まれの現代美術家、キュレーター、建築家でもある。世界各地で積極的に展覧会を行い、国際展に参加するほか、よく知られているように、多くの中国人に協力を仰ぎながら社会運動を繰り広げている。1980年代前衛芸術グループの活動に関わったが、政府圧力を受けて、ニューヨークに渡り、そこでコンセプチュアルアートの手法を学ぶことになった。艾未未は実に1981年から93年の12年間の間ニューヨークに滞在している。中国帰国後現在まで続くアトリエ•スタジオ「Real/Fake」を構える北京郊外の草場地芸術区(Caochangdi)を築いた。

艾未未の参加国際展は数多い。そしていつもセンセーショナルな評判を世界に轟かせた。とりわけ、2007年のドイツカッセルにおけるドクメンタ12では、 »Housing space for the visitors from China »という企画で会期中1001人の中国人をカッセルに招待し、会場に滞在させるというプロジェクトを行い、カッセルの街が中国人で溢れる事態を引き起こし、人々を驚かせた。あるいは同国際展の屋外展示であった »Template »という明時代の扉から成る建築が悪天候のため崩壊したのだが、自然現象の結果としてそのまま展示したことにより、人々は艾未未のコンセプトのスケールを理解した。

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2013年、現在会期中の第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、フランスパビリオンで行われているドイツ展(Susanne Gaensheimerのキュレーション)に招待され、 »Bang »というインスタレーション作品を出展している。文革後の何ものも顧みない超高速の近代化は、それまでの文化や歴史が一つ一つその足場を踏みしめるようにして築き上げてきたものを一瞬にしてゴミにした。インスタレーションは886台の三脚の木椅子からなっている。1966年に始まった文化革命は、この三脚の木椅子に代表される、どこの家庭にもあり、伝統的な物作りのマニュファクチュアー技術の賜物である家具や道具や物を、一夜にして時代遅れのみっともない代物におとしめた。家具はアルミやプラスチック製がオシャレで文化的な物だと画一的に信じさせられ、何世紀も渡り親から子へと引き継がれてきた年期の入った木椅子は「遅れの象徴」として追放された。艾未未は、このインスタレーションで、古い木椅子を再利用したのではない。今日では貴重となった木椅子の制作技術をもつ作り手に依頼して、この典型的オブジェをインスタレーションのために作ってもらったのだ。椅子は、大木の木の根が地中を繁茂するように広がって配置されており、それは目を見張る速さで広がったポストモダン世界の網の目と、その過剰な網の目の中に絡みとられて自由を失った「個人」の今日におけるあり方を象徴しているようでもある。

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「艾未未 (アイ•ウェイウェイ)はどこ?」という言葉が、ポスターやメッセージボード、インターネット上の記述が世界中を右往左往した2011年の4月から6月のことを記憶に留めている人も多いだろう。2010年11月より北京の自宅に軟禁されていた艾未未は、翌年4月3日、香港行きの飛行機に乗る手続き中に行方が分からなくなった。国際人権救護機構(Amnesty International)や、ドイツやイギリス、フランス外務省、さらにはアメリカの国務省もただちに艾未未を釈放することを求めたが、この拘留は81日にも及んだ。4月7日の中国外務省からの情報によると艾未未はスタジオ脱税容疑による経済犯であるとされたが、この原因が2008年5月に起こった四川大地震の被害の実態を明らかにし、犠牲の原因を明らかにする社会的活動を艾未未が主導していたことであるのは明らかであった。

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ヴェネチア•ビエンナーレでは、ビエンナーレメイン会場とは離れて二つの »Disposition »展が開催された。その一つがメディアでも話題になったが、81日の拘留生活の実態を再現した模型を教会で展示したS.A.C.R.E.Dである(2011−2013) 。彼が体験した81日間の監獄での「日常生活」の一部始終が6つのシーンとして再現されている。鑑賞者は、規則的に置かれた6つの大きな部屋を小さな窓穴から覗くか、あるいは上についているガラス窓越しに覗き見ることによって、艾未未の体験を知ることが出来る仕組みになっている。何もない部屋。薄汚いベッドや洗面所。食事、睡眠、排泄すべてにおける厳重な監視。

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もう一つの »Disposition »展の会場に行くためには船で本島の向こう岸に渡らなければならない。あるいはもちろんアカデミア橋を渡って迷いながらとぼとぼと歩くことも出来るだろう。とにかく、孤立した展示でなければならなかったのだ。その展示は、Chiesa di S.Antoninにある。150トンの鉄骨が真っすぐに整然と並べられて部屋一杯に敷き詰められている。長さもそろえられて、それは海の波にもオシロスコープで見る幾何学的な波にも見える。これは彼の2008年12月より様々な圧力にも屈せずに取り組み続けてきた艾未未とその協力者の一つの集大成とも言える。彼らの目的は、多くの子どもたちが人為的原因によってその命を落とすことになってしまった犠牲の全貌を明らかにし、その犠牲者名簿を明らかにして、被災者のために祈念することだ。命を落とした子どもたちはもはや彼の活動に関わらず戻ってこない。しかし、残された人々はもう一度このことが起こらないように、起こったことの原因を知り、そのことがこれからは起こらないよう世界を変えることが出来る。あるいは、そうすること以外に、死んだ人々に祈りを捧げる方法はない。

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当スペースで放映されるドキュメンタリービデオは、艾未未と彼らの協力者たちがどのようにしてこの150トンもの鉄骨を四川大地震に関わるモニュメントとして提示したかのプロセスとコンセプトを明らかにする。まず知らなければならないのは、このプロジェクトのせいで艾未未は脳内出血で手術を受けるまでの暴力行為を受けているし、上述したように81日の拘留に遭っている。アートは困難を越えて続ける必要のある行為であり、艾未未という個人を越えてその協力者と鑑賞者とそれに触れる者に影響を与えるべきものである。150トンのグニャグニャに曲がって折れた鉄骨は彼を支持する中国人たちの手作業によって、真っすぐに戻された。このめちゃめちゃに組み立てられて建物を支えるに至らなかった鉄骨こそが、子どもたちの命を奪った直接的原因であり、その苦しみの象徴である。鉄骨をいっぽんいっぽん真っすぐにする作業は何年もかかる。その間、どれほどにこの粗悪な鉄骨が地震で姿を変えたのか、その記憶を残すために曲がった状態でのレプリカも150トン全てについて制作された。

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4年に及ぶ年月は、原型を留めないほど曲がっていた全ての鉄骨をぴんと真っすぐにした。人間の一所懸命の作業は4年間を要したが、これを捻り曲げた震災の衝撃は一瞬のことであったのだ。

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鉄骨はその暴力性をもう我々の目の前に提示しない。4年間の艾未未とその仲間たちの仕事は、見る我々をただただ茫然とさせる。たしかに、生きることは繰り返すことで、人類の歴史は作って壊すことであった。しかし、それは、壊して、直すことでもあったのだ。