03/19/15

表現の自由のこと: Steven Cohen, COQ (2013) /スティーヴン・コーヘン「ニワトリ」

表現の自由のこと

2015年1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件があってから、フランスはもちろん、世界中で今一度、表現の自由のことを多くの人が語るようになった。だがそれは、いわば、世界単位でシャッターがきられた瞬間に過ぎず、たとえば日本では、検閲や思想統制の危機に直面して、あるいは憲法改善の危機や個人の表現の自由を脅かす様々な法令の制定の危機に直面して、2015年1月7日以前にすでに、今と変わらない危機感が既にあった。思想や文筆の領域はもちろん、現代アートの領域にも、表現者を見せしめにするような象徴的な事件があった。たとえば、釈放されては再逮捕される、ろくでなしこさんの女性器3Dデータに関する問題は、法に触れるという明確な理由があったとしても、その周辺に存在するより商業的なポルノグラフィティの問題や、男性器に関する同質の行為は果たして同等に制裁をうけているのか、といった疑問をぬぐい去ることができない。また、昨年、愛知県立美術館の「これからの写真展」で鷹野隆大さんの写真作品が男性器を露にしているという理由で、わいせつ物として撤去を指示された問題も、今日のヴィジュアル・アートを俯瞰したならば、一瞬にして、ナンセンスな事件であったというしかない。ただし、「ナンセンスな事件」がもっともらしく、あるいは威圧的にまかり通り、人々がそれに従順にならざるをえないという状況こそが、もっともナンセンスであり、しかも、深刻な破綻を意味している。アートの空間は、美術館であれ、一時的に設定されたスペースであれ、そこに非常事態を抱え込む覚悟をしなくてはならない。アートの出来事は一種の非常事態にほかならないからだ。それは、アートが存在する理由にも、アートの存在する意味にも関わる。

何も覚悟することなく、人を驚かすつもりもなく、あるいは人々が驚いてしまったときに即座に「今のは噓でした!」と言ってしまうような表現が、我々に何かを残すだろうか。我々の何かを与えるだろうか。

このエッセイで書くのは、Steven Cohenという作家のパフォーマンス作品、COQのことだ。本作品は、前回のエッセイ、MAC VALの展覧会《Chercher le garçon》(Link : Last article)において現行展示中の作品だ。作者であるスティーヴン・コーヘン(Steven Cohen)は1982年に南アフリカ生まれた。アフリカ出身、ホモセクシュアル、ドラグクイーンとしてパリに暮す。2013年に、「人権広場」(エッフェル塔を見るための観光客があつまるシャイヨー宮殿)にて、自分のペニスにリボンを結び、そのリボンのもう一端にニワトリを繋いで、15センチあるいは20センチほどあろうというハイヒール、下半身をほぼ露出したコスチューム、ニワトリを思わせる羽飾りを纏って優雅に舞うというパフォーマンスを行なった。始終はヴィデオに収められており、その奇異な外観ーリボンを巻いた性器を露出し、ニワトリを引き連れているーにも関わらず、人権広場の観光客たちはさほど動揺した様子はない。スティーヴン・コーヘンは、パフォーマンスを続け、青空の中にそびえるエッフェル塔を背に、鳥の羽根のシルエットが美しいコスチュームで舞う。アーティストはフランス国家「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)を歌い続ける。飛べないニワトリはときどき一メートル程の高さより羽ばたいては歩き、スティーヴン・コーヘンは始終このニワトリを真のパートナーあるいは分身のように大切に扱う。程無く、警備の男が近寄る。数分の後、二人の警官がスティーヴン・コーヘンを囲み、壁際に連行する。アーティストは激しくは抵抗しないもののニワトリを守ろうと抱きかかえる。さて、この広場は先に書いたように1948年以降「人権広場」と呼ばれている。それは、1948年の世界人権宣言を採択した国際連合の総会が、このシャイヨー宮殿で行なわれたからだ。全ての人々は平等である、つまり、それがアフリカンでもホモセクシュアルでも、どの宗教を信仰していようと変わらず平等である、そして宣言によれば皆表現の自由を有する。スティーヴン・コーヘンの実験は、彼が警官に捉えられるという形で幕を下ろし、この作品は長い間訴訟によって公開も叶わなかった。
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スティーヴン・コーヘンの奇妙な行為をよりよくわかるために幾つかの情報を書き加えておきたい。

(I)
まず、なぜニワトリなのか。

ニワトリは、フランスの象徴の鳥だったのである。つまり政治的・国民的エンブレムを担っていた。中世より使用され始め、ルネッサンス期以降フランスの国王の象徴、とりわけヴァロワ朝とブルボン朝の時代、国王はしばしば肖像画にニワトリを伴ったり、銀貨にニワトリが描かれたりした。ナポレオンが « Le coq n’a point de force, il ne peut être l’image d’un empire tel que la France ».(ニワトリなんかダメだ!強い鷲にしよう!)といって国鳥を鷲にしてしまうまではニワトリこそフランスを象徴する鳥だった。つまり、元フランスを象徴する鳥であるニワトリを、性的被差別者であるペニスに結びつけたリボンによって引き連れることの比喩的意味が明らかになるだろう。

Coq gaulois, monument dédié aux Girondins, Esplanade des Quinconces, Bordeaux

Coq gaulois, monument dédié aux Girondins, Esplanade des Quinconces, Bordeaux

Écu constitutionnel, 1792

Écu constitutionnel, 1792

(II)
つぎに、世界人権宣言採択の現場であるシャイヨー宮殿をパフォーマンスの場として選択する意味についてである。シャイヨー宮殿は、世界中からエッフェル塔の名写真を撮影するために観光客や写真家がおとずれるほど、フランスのイメージのひとつであるエッフェル塔が最も美しく俯瞰できる場所として知られている。おそらくその強烈なシチュエーションからか、1940年6月にナチスドイツの侵攻によって陥落したパリを、ヒトラーが訪れ、ここでエッフェル塔を背景に撮影した写真が有名である。したがって、この場所は、ナチスドイツによって陥落したパリと、世界人権宣言が採択された人権擁護の象徴としてのパリと、今日のフランスのあらゆるイメージを背負ったモニュメント「エッフェル塔」が見える場所、という三重の意味を担うのだ。スティーヴン・コーヘンがこの場所を選択し、警官に連行されることも戦略的計算に入れた上で、エッフェル塔を背景にパフォーマンスを行なった意味もこれで明らかになるだろう。

Paris, Eifelturm, Besuch Adolf Hitler

(III)
ちなみに、パフォーマンス中、アーティストが口ずさんでいたフランス国家「ラ・マルセイエーズ」は、フランス革命の際にマルセイユの義勇軍が歌ったとされ、それ以来のものである。

ご覧のように、スティーヴン・コーヘンのパフォーマンス「COQ」(ニワトリ)は、彼自身の抱える性的な問題の個人的苦悩を越えて、人類の人権の問題、移民の人権、性的マイノリティの人権、人種差別撤廃の希求という大きなディメンションに及んだ作品である。
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もう一つ、全く別の問題を指摘して、このエッセイを締めくくりたい。それは、この作品を展示する側の戦略的態度である。本作品はスティーヴン・コーヘンの下半身や性器が殆ど露出された映像作品で、客観的なヴィジュアルの美しさとエキセントリックな状況のコントラストのなかで、一見するとただただ滑稽、「なぜこれがアートなの?」という議論のなかに煙に巻かれる作品でもあるし、あるいは性的マイノリティーと表現の自由の問題に収斂される可能性もある作品だ。しかし、この展覧会が2015年3月より始まっていること、それがはっきりとシャルリー・エブドの後の社会的・政治的文脈の影響下にあるということ(もちろん作品選択や企画はその前に決定されているが、展覧会開催に当たり美術館側は問題に意識的にならざるをえないし、鑑賞者も当然考慮するに違いないということ)、そして上述したように様々な政治的エンブレムが散りばめられていることを思えば、この作品が展示されるという意味は、極めて愛国主義的なものであると考える。つまり、政治的で、戦略的な態度であると、思うのである。そしてこれもまた、美術館の「権利」であると思う。

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(コーヘンの作品に関連して以下に世界人権宣言の部分を添付した。)
『世界人権宣言』
(1948.12.10 第3回国連総会採択)
〈前文〉
人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、

人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、 

人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、(略)

人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、

人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、 

人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、(略)

よって、ここに、国連総会は、

社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この人権宣言を公布する。

第2条
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基ずくいかなる差別もしてはならない。

第19条
すべて人は、意見及び表現の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

03/17/15

chercher le garçon MAC VAL /展覧会「少年をさがせ」

Chercher le garçon
MAC VAL
7 mars – 30 août 2015
Commissariat : Frank Lamy
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MAC VAL の今回の企画展が「100人の男性アーティストの展覧会」だというのは、2009年にCentre Pompidouで行なわれた展覧会《ELLES》が200人の女性アーティストを集めた展覧会であったのを意識し、今度はそのカウンターとして男性性の再定義を試みる展覧会を行なおうとしたのだろうと思う。今日の世界で、男性性を再定義する…。最初の問いは、今日、男性性の再定義が必要なのか?である。このことは、例えば、後に紹介するし別の記事でもとりわけ論じようと思っているSteven Cohenのパフォーマンスなどを通じて、問わざるを得ないことが明らかになる。この展覧会の特徴は、男性性を問いながらも別の様々な社会問題と精神的問題、さらには一定の方法で政治問題にも鑑賞者の目を向けさせることを意図している。
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Saint Titre 2009, David Ancelin

Emilio Lopez-Mencheroはベルギー生まれのアーティストである。Trying to be Cindy(2010)は、1950-60年代のステレオタイプなアメリカ社会の女性表象に問いかけたシンディー・シャーマンの有名な作品のパロディである。この作家は、ピカソやフリーダ・カルロといった人物に成りすます作品も制作しており、男性的な顔や肉体をもつEmilio Lopez-Mencheroがシンディー・シャーマンの画面にあてはめられることによって、アイデンティティの問題に訴えかける。
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日本人現代美術家の森村泰昌の手法もEmilio Lopez-Mencheroと共通項を持つ。ブリジッド・バルドーに扮したアーティストは、明るすぎる光の中で、Emilio Lopez-Mencheroがしたのとは異なる方法で、対象のイコンをすり替えようとしている。
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John Coplansは2003年に亡くなったニューヨークを拠点に活動したアーティストだ。本作品は1993年のものである。拡大され過ぎて、毛穴も毛も皮膚のやや乾燥した質感も、ホクロも全てがさらけ出された脚のプロフィール。この写真は、どれだけ拡大して部分だけが提示されても、他には何の個人を特定するアイデンティティや全体のイメージがなくても、それが女性の肉体ではなく、男性の肉体であるということが分かってしまう。肉体の性的アイデンティティは、それが明確な差異と認められる性器などでないとしても、一部を認めるだけで、いとも簡単に識別できるほど、時には明らかなものである。そうかと思えばそれは別のコンテクストでは揺るがされて、識別不能に陥ることすらある掴みにくいものだ。
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Florent Matteiは1970年ニース生まれの写真家である。シリーズ《The World is Perfect》(2000-2001)では、ゴージャスなホテルで過ごす一組のカップルのある意味理想的で典型的なイメージを構成する。念入りに組み立てられた画面は、ステレオタイプな豪奢や愛のイメージに忠実にしたがっているものの、どこか重要な場所がすり替えられたりこわされたりすることによって、滑稽なイメージとして作り直される。なぜ小柄な男性の腰を後ろから抱く大きな女性という構図が違和感を想起させるのだろう。それは、我々がいかに日頃典型的イメージを刷り込まれているかを明らかにするばかりである。
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Denis Dailleuxのシリーズ《Mère et Fils》(母と息子)は、また異なる男性性の物語を我々に伝える。母と息子の結びつき、母の絶対的な愛とそれを受けた息子の母との関係性は、それぞれの写真を見ても人目で分かる、異なる歴史と物語がある。Denis Dailleuxは、このシリーズをカイロで撮り始め、のち、ガーナとブラジルでも撮影している。モデルとなるのはボディビルダーの息子とその母親である。磨き上げられたボディビルダーの肉体はおそらく、非常に「男らしい」はずであり、それは女である母親が彼らを産んだにも関わらず似ても似つかない形をしている。だが、その男性性の象徴であるようなボディビルダーの肉体もまた、何らかの成り行きによって創り出されたものなのだ。ボディビルダーのうちの一人が言う。「母親は自分の一部だ。子供の時学校でいじめられていた。そのとき、身体を鍛えなさい、自分を守れるように筋肉をつけなさい、と言ったのは母親だった」、と。男性性は産んだ子を守ろうとする女性性によっても創られることができる。
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子供が書いたような筆致で描かれたネオン、《Now I wanna be a Good Boy》(いい子になりたい)は、Claude Lévêqueの作品である。Claude Lévêqueは、ネオンという一般に街頭広告に用いるメディアを、個人的な声明やアイデンティティに関する問いなど、まったく異なる目的に使用することによって、その親密な問いを明るみに出す。いい子にならなければならない、子供時代に受け続けるそんなプレッシャーは、皆の目に触れるネオンとなることによって、異化されるだろうか。
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Steven Cohenは南アフリカ共和国生まれのアーティストで、ホモセクシュアル、ドラグクイーンである。2013年9月10日、トロカデロの人権広場にてパフォーマンスCOQを行なった。人権広場というのは、エッフェル塔をセーヌ川を挟んで臨むのに最適な観光スポットとして、いつも観光客で溢れている。15センチはあるのではないかというハイヒールに下半身を殆ど露出した白いコスチュームで、自らの性器にリボンを巻き、そのリボンは一羽の立派な鶏に結ばれている奇妙な姿で、悠々と観光客の前に登場し、エッフェル塔をバックにダンスする。人権広場は歴史的に、人々がありのままに存在する自由、それがホモセクシュアルであれ、外国人であれ、宗教を異にし、ドラグクイーンでも、人権を認められるべき空間である。そこで、Steven Cohenは下半身をほぼ露出し、性器をリボンで飾り立てたような格好で登場し、約10分ほどすると、二人の警官によって捉えられた。Steven Cohenの対峙したものは大きい。それは彼自身のセクシュアリティのみならず、民族や政治の問題に及んだのだから。
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このSteven Cohenのパフォーマンスの意味については次回のエッセイでより発展させたいと思う。

展覧会《Chercher le garçon》(少年をさがせ)は、男性性の再定義よりもむしろ、男性性のあり方の発見をアーティストの研究成果として見せる機会だったのかもしれない。

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