09/8/13

55th La Biennale de Venezia part3 / 55th ヴェネチア•ビエンナーレ no.3

 55th Biennale de Venezia  part 3

 Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palace

パート2では、人形/彫刻とインスタレーションに着目し、Paweł Althamerによるプラスチックテープの90人のヴェネチア人、繊細な作風で想像上の生き物の世界を表すShinichi Sawadaの陶器彫刻、サイズやプロポーションを異化することによって見る人の印象を変える彫刻を作るCharles RayPaul McCarthyの子どもの解剖学のための巨大ぬいぐるみ、女性のアイデンティティや家庭での立場を問うCathy Wikesのインスタレーション、日常に潜む生と死を描いたRosemarie Trockelの表現、そして、小さな人形を作り続けたMorton Barlettの想像上の家族たちを紹介してきた。
パート3では、ペインティングとドローイングについて紹介したい。

resize_DSC07534 

Daniel Hesidenceは1975年アメリカのAkronに生まれる。彼の抽象画にはArt Informel(アンフォルメル)からの強い影響が見られ、視覚的情報から意味を抽出し、彼独自の哲学的考察とそれを詩的な方法で表すということをテーマとしてきた。プリミティブな洞窟絵画からモダニストの抽象表現までを視野に収め、それらの重なりから浮かび上がるイメージは、時代も色も形も、ただ一つの意味において確定することができない。Il Palazzo Enciclopedicoでは、Untitled (Martime Spring)が提示された。そこには何層にも重ねられた距離や深さ、異なる固さが混在し、溶け合っているのだが、キャンバスの宇宙の中にもういちど再構成されて調和しているようでもある。

 resize_DSC07930

Maria Lassingは1919年生れのオーストリアの画家である。ヴェネチア•ビエンナーレには1980年にも参加しているほか、1996年にはポンピドーで回顧展も行っている。彼女の絵画の特徴は、一貫して、肉体が持っている意識に着目して、セルフポートレートを描き続けているということなのだが、彼女自身はそれを »body awareness painting »と呼ぶ。絵の中の彼女はいつも裸で、髪の毛もなく、年老いた肉体として描き出されているのだが、色彩も表情も全く奇妙である。drastic paintingのシリーズであるDu oder Ichは両手に持った銃の一方を自分のこめかみに当てながらもう片方はこちら側にはっきりと向けているLassingが描かれている。あるいは、Mother Natureにおいて彼女は森や動物、虫たちを両手に持ち頭部の髪の部分が自然と一体化している。いずれの絵画も背景が描かれず、非常に静謐としたムードを持つ。

SONY DSC 

Lin Xueは1968年生れ、香港出身の画家である。彼の特徴である細かいドローイングは、先を尖らせた竹に墨をつけて描くことによって実現する。生態系における動植物のあり方を自分自身が山に入って行く経験をもとに紡ぎだして行くためには、この方法がもっとも基本的で根源的なやり方であると作家は信じる。竹で描く選択も、非常にリアルな細部も、この作家の自然への態度を反映している。今回のヴェネチア•ビエンナーレに彼が発表した作品はNature’s Vibration(振動する自然)。彼が自分の肌で確かめた生ける自然の相互にネットワークを築き上げている様を想像的に描いている。自然は彼によって分断され、再度複雑な塊に再構成される。結びつき合ったあたらしい「自然」は、エネルギーをその中心に帯び、その波は視る我々にも届きそうだ。

 resize_DSC07502

 

 

resize_IMG_4327

Hans Bellmerのドローイングについて、敢えて何かを言うのは滑稽であると感じて止まない一方、だとすればそれらはそんなに明らかなのかと言えば、そういうわけでもない。ハンス•ベルメールは1902年生れ1975年に亡くなった。1934年にナチス政権下のドイツで、等身大人形を発表し、その写真集『人形』を発行する。これがパリ•シュールレアリズムの芸術運動に受け入れられる。後にはそれを発展させて球体関節人形を作成し、1957年、著作『イマージュの解剖学』を記す。今回出展されたドローイングは1968年に作成された版画、Petit traité de moraleで、Marquis de Sade(サド侯爵)から着想を得た。ベルメールは日本では、現在も球体関節人形や、リアルドールのイメージがその上に重ねられてきたので著名であるが、身体の分解や部分的な複製、性倒錯の主題はベルメールの独創性を示す指標でも何でもない。傷ついた身体萌えや廃墟萌え的な想像力の普遍性をむしろ明らかにする。人形や版画という形での「作品」、そのオブジェとしての再現度の高さが彼を結局は著名にしたのではないか。

resize_IMG_4325 

 

SONY DSC

Ellen Altfestは、ハイパー•リアリストの画家で、静物画は、風景画に加え、肉体労働者の男性の裸体を描き続けている。最近パリのFondation Cartier pour l’art contemporainで展覧会を行ったRon Mueck(Ron Mueck exhibition review)のように、彼女は肉体を毛穴と毛と皺の一本まで描く。ありのままに描くということは、逆説的なことで、飼いならされた鑑賞者である我々は、しばしば描かれない見慣れないものを見つけるとむしろそれに着目してしまう事態に陥る。産毛やホクロ、皺やシミ、膨らんだ腹部や垂れた皮に目がいく。それは彼女の戦略通りだ。歴史の中でさんざん描かれてきた女性の裸に人々は免疫と知識とステレオタイプな鑑識眼を持っており、その一方で、男性の裸体にはひょっとするとナイーブなのである。彼女は、アトリエで男の裸を描く。しばしば毛むくじゃらの胸部や腹部、背から尻、あるいは男性器をその細部まで描く。我々は目を開けながら実は殆ど何も見つめてはいない。

SONY DSC

 次回は、各国パビリオン展示について、ダイジェストのダイジェストを書きます。

 

08/9/13

マーク•クイン展 / Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice

Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice

Solo Exhibition
29 May 2013 – 29 September 2013
@Fondazione Giorgio Cini, Venezia
Site of Cini Foundation click

The Giorgio Cini Foundation, Venice

The Giorgio Cini Foundation, Venice

55th la Biennale di Veneziaとほぼ会期をあわせて、Saint Marco広場のちょうど向かいのSan Giorgio Maggiore島のFondazione Giorgio Ciniでは、 »Marc Quinn »展が開催されている。キュレーションは、1988よりNYのグッゲンハイム美術館のキュレーターを務めGermano Celantによるものである。(Germano Celantは1967年、当時のイタリア前衛アートムーブメントを »Arte Povera »と命名したことで知られる。)Marc Quinnは1964年生れ(ロンドン)のアーティストであり、1988年の自主企画展覧会 »Freeze »を行ったことからその精力的な活動が世界に知られることとなる若手コンセプチュアルアーティストYoung British Artists(YBAs)の一人として数えられている。ケンブリッジのロビンソンカレッジで美術史を学び、これまでSolo Exhibitionでは、ロンドンのテイト•モダン(1995)、ミラノのプラダ財団(2000) テイト•リヴァプール(2002)、また国際展では、第50回ヴェネチア•ビエンナーレおよび2002年の光州ビエンナーレにも参加している。

Alison Lapper Pregnant, Breath(2013)

Alison Lapper Pregnant, Breath(2013)

夏のヴェニスの光は強い。空も海も底抜けに青く、褐色の煉瓦はカクテルのような色に輝く。あらゆる白っぽいものが真っすぐ目を当てられないほどに眩しい。そんな風景の中に、巨大な短髪の女の彫像がSan Giorgio Maggiore島の教会を守るかのようにして在る。あまりにも強いコントラストと強烈な色彩の中で、非常に意外なことなのだが、Alison Lapperが放つ薄紫色の表面は、世界にある全ての白いものより一層透き通り、我々の視線を捉えるのであった。11メートルもある両腕を持たず、極端に短い足を我々に投げ出して上体をすこし捻るようにして一点を見つめているその女性は、Alison Lapper、Marc Quinnと同世代の1940年生れのイギリス人アーティストである。彼女はPhocomediaつまりアザラシ肢症と呼ばれる身体的特性を持ってこの世に生まれてきた。彼女の両親も親戚もこれを奇形として遠ざけ、否定し、目をそらした。17歳の時、両親が人工四肢(義手、義足)を彼女に「表面的に普通の身体的外見を得るため」だけのために与えようとしたとき、彼女は家を出て独立することを決めた。運転免許を取得し、筆を口でくわえる方法でペインティングを学び、良い成績で美術学校を卒業した。33歳の時妊娠し、現在はもう中学生になっている息子と共に絵を描いている。

resize_スクリーンショット 2013-08-08 22.41.16

Marc Quinnは、2005年、彼女の妊娠をテーマに »Alison Lapper Pregnant »(妊娠8ヶ月当時の彫像)をカララ大理石で制作し、2007年までロンドンのTrafalgar Squreに置かれた。さらにこの彫像は2012年ロンドン•パラリンピックにおいて、 »Disability »のイコンとして、彼女のメンタリティやポジティブシンキングを新しい一つの女性像と受け入れる多くの人々によって愛された。彼女は述べる。「子どもの時からあなたは一人で生きられないと言われた。すぐに障害者のための施設に入れられてまわりから可哀想な目で見られた。絶対に母親にもなれないと言われた。(略)私はどうやったら親が子どもを否定することができるのか分からない。私は自分の子どもをこんなにも愛しているから。」
San Giorgio Maggiore島のAlison Lapper像は、オリジナルのレプリカで »Breath »と呼ばれるヴァージョン作品で日の出と共に現れ日の入りと共に闇の中に消える。セキュリティー管理の事情から、膨らませるタイプの作品にしてあるそうだ。(参考ビデオがこちらに!click

"Self"

« Self »

Marc Quinnの表現のテーマはしばしば、Alison Lapperの像に見られるように人間の身体に関わるものや、生命の存続と死、生命の存続のシステムと我々の肉体との関係、もっと広くはアートとサイエンスの関係にまで及ぶ。著名な作品では、自身の血液を凍結させ一定温度環境の中で保存されている、 »Self »という血液による自己像の作品が有る。 »Self »はヴェネチアで今回展示されたもののほかにもいくつかバージョンが有り、かなり色鮮やかな赤を持つものもある。4.5リットルの血液を5年ほどかけて採血した。私の血液からなる私の頭部彫像が複数存在するという事態は興味深い。それはそのコンポジッションが実際にも血液から成るという客観的事実が有るからであろう。

Flesh Painting(2012)

Flesh Painting(2012)

resize_DSC08188

そして、2枚の大きな »Flesh Painting »(2012)は、遠くから見ると鮮やかな真っ赤な肉の写真にしか見えないのだが、近づくと、その赤い色がグラデーションされている様子や、脂肪や筋の部分にペインティングのタッチが見えることによって、それが絵画であることを認めざるを得ない。生肉は、我々のボディの一部分であり、血や皮膚と同じである。生肉にも美しさがある。それは、動物である我々が動物的本能で否応無しに知る直観であるところのもので、つまり、われわれは、くすんで脂肪部分が黄ばんだ生肉よりも、鮮やかな朱色とはっきりとした白い筋を見せる生肉を体内に取り込むことに魅力を感じ、それを喰らう。描かれたFleshはうっとりするほどに、美しい。 »The Way of All Flesh »(2013)は、モデルであるLara Stone(妊娠した女性)が生肉を背景に横たわっている絵である。その名前の通り、全ての生命の起源と運命を暗喩的に表している。

The Way of All Flesh (2013)

The Way of All Flesh (2013)

resize_DSC08173

10人の彫刻。タイトルがモデルの名前である。10人はそれぞれ、冒頭に言及したAlison Lapperの身体を彷彿とさせるように、身体の一部を欠いたり、大きすぎる乳房を持っていたり、男性的身体的特徴を有しながら妊娠している。

Thomas Beatie (2009)

Thomas Beatie (2009)

屋外のかつての船倉のスペースを利用して、 »Evolution »の展示がある。 »Evolution Series »(2005−2007)はさて、9体のピンクマーブルの彫刻および一つの巨大な岩石で構成される。9体の彫刻は、純粋なマテリアルとしての岩石の真向かいに置かれた人間の胎児と、8体の奇体な生き物。それら8体の生き物は時にはいつかバイオロジーのテクストで見た受精卵が数回分裂した後の胚や、は虫類の発生途中、種は分からないが何らかの動物の赤子のようにみえる。 »Evolution »は実は、われわれが世界に生まれるまでの初期胚から一ヶ月ごとの成長を10体の彫刻で表した作品である。つるっとした表面に一筋のくびれだけをもつ胚も、エイリアンのように見える胚も、かつての我々一人一人の姿だ。Alison Lapperもわたしたちも、一つの岩石が象徴する起源としての「母」から生れ、それは非常にシンプルな胚であった。

Evolution Series (2008)

Evolution Series (2008)

resize_DSC08213

resize_DSC08214

« Evolution »というタイトルは明らかに今日では誰もが信じている「進化論」を連想させ、それは天地創造の世界観と共存しない。妊娠する女神像 »Alison Lapper Pregnant »は我々にとってリアルなものだが、San GIorgio Maggioreの教会周辺の保守的な人々の間には、この像の設置を批難する声もあるそうだ。Marc Quinnは言う。「歴史的に、障害者のDisability(不能性)は常にネガティブに表象されてきた。そうでないポジティブな表現をすることには意味が有ると信じる。」

resize_DSC08164

光の中にひときわ輝くAlison Lapper像は綺麗だ。人々は目を奪われる。ひとたび釘付けになった彼らの視線をみればわかる。それが哀れなものをなでるように見つめるような、あるいは恐れるような眼差しではなく、一つの命をそのおちついた腹部に伴って豊かで強い体躯のぬくもりを確かめるようにじっと見つめる眼差しであるということを。

われわれがそれを伴って生きる「身体」は、リアルにも潜在的にも、健かなのである。