09/29/17

今日から1週間「自然」に関する写真を公開します

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À la demande d’Hélène Fleckinger, 1er jour du défi nature. J’invite Miki Gadenne Okubo. Si elle le veut bien, Miki postera elle aussi chaque jour pendant une semaine des photos de nature en invitant chaque fois quelqu’un-e à faire de même…
#DéfiNature #CEstReparti #EffetBoomerang #HaHaHa #AQuiLeTour

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ある友人からfacebook上で、一週間一日一ポストずつ「自然」に関する投稿をするプロジェクトに招待された。私は普段から写真をたくさん撮影しているが、その中でも大多数を占めるのは植物の写真だ。「自然」といって「植物」を思うのはなんだかな、と思ったりする。うだうだ考える前に提案を引き受けて毎日一ポスト投稿してみようと決めた。よい機会とも思うので、このブログでも連日の投稿についてまとめ、付すべきことばがあれば加えて行きたい。
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プロジェクト参加一日目(2017/09/29)
さて、このイメージは私が今年の8月に東京に数日滞在した際に撮影したものである。植物と動物と分解者が強めのコントラストの中に共存する一枚の写真は、上述したように自然と言えば植物を選んでしまいそうになる思考から少し説明可能になったと言う点で少しは気持ちがいい。蝉が菌類によって分解されて行く、その時間が早くすぎるのか、どれほどゆっくりなのか、十分な知識がなく分からない。蝉は成虫となってから短くしか生きないことはよく知られているし、長く生きないので食物を摂取しないことも知られている。長い間かかって少しずつ作られた身体はヴォリュームがあり、重たく、分解するべきあるいは食べられるべき幾ばくかの養分を他者に与える。

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プロジェクト参加二日目(2017/09/30)

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プロジェクト参加三日目(2017/10/01)

02/18/17

Nyotaku – empreinte des femmes nues, colloque international: Corps et décors. Avatars de la philosophie du corps entre Orient et Occident

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Miki OKUBO (Université Paris 8 Vincennes-Saint-Denis) : Nyotaku – empreinte
des femmes nues : esthétique de la corporalité japonaise par rapport à Femme
en bleu d’Yves Klein

Nyotaku – empreinte des femmes nues : esthétique de la corporalité japonaise par rapport à Femme en bleu d’Yves Klein
Miki Okubo
Chargé du cours à l’Université Paris 8, Arts Plastiques
Chercheur attachée à l’équipe de recherche TEAMeD (Théorie Expérimentation Arts Médias et Design, Arts, images et Art contemporain, à l’Université Paris 8

Résumé :
Dans mon intervention, j’analyserai la corporalité japonaise vue dans une performance-vécu intitulée Nyotaku des points de vue esthétique, culturel et sociologique. Une compréhension très présente concernant les expressions artistiques et la conscience corporelle dans la performance met en lumière l’esthétique du corps en Asie en opposition avec celle de l’Occident. La corporalité asiatique souligne l’importance de l’intuition, du souffle et de l’énergie intérieure (气 ou Qi en chinois) car l’expression physique ne se limite pas à la maîtrise physique ou à la technique fondée sur les acquis théoriques tandis qu’en Occident le corps est discipliné, perfectionné et censé d’exprimer des acquis techniques et théoriques, afin d’accomplir ses enjeux artistiques. Cette simple explication s’appliquait historiquement à la comparaison de deux importantes œuvres dont le procédé semble « similaire » : Nyotaku de Shozo Shimamoto et Femme en bleu ou Anthropométries d’Yves Klein.
Shozo Shimamoto (1928-2013), un des fondateurs de Gutai (un mouvement artistique d’avant-garde japonais fondé en 1954), réalisa Nyotaku dans les années 1990. Il s’agit de l’empreinte des femmes nues sur un papier ou un tissu. Pour prendre cette empreinte du corps, ce sont les femmes-participantes nues qui se mettent volontairement dans l’encre noire. Nyotaku se compare à la célèbre performance d’Yves Klein (1928-1962), Femme en bleu, (1960), dans laquelle les femmes peintes en bleu sont sévèrement dirigées, voire instrumentalisées, par l’artiste lui-même dans tous les détails tant de leur posture de leurs mouvements. La différence entre ces deux œuvres est fondamentale pour refuser une hypothèse naïve : Nyotaku est une appropriation de Femme en bleu ou une variation japonaise du fait de leur approche semblant « similaire ». Leur présentation complétement différente témoigne également de leurs propres esthétiques sur la corporalité et les enjeux artistiques.
Dans cette présentation, à travers l’observation des travaux artistiques, notamment Nyotaku, je voudrais poser la question de la véritable signification des esthétiques et de la corporalité japonaise afin de mieux comprendre la phénoménologie du corps et des sciences cognitives dans l’expression artistique.

01/13/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.2

本記事は、12月28日および12月30日に大阪の日常避難所511において開催された、miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)です。講演前半においては、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flânerie »(そぞろ歩き)に関して、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索が主題となり、Robert Filiouや谷崎潤一郎、Francis Pongeらの思想からの引用を紹介しながら、考察を行ないました

講演会の後半では、このような制作の背景を踏まえた上で、具体的に作品とそのコンセプトを解説しながら、「モノの記憶」、「身体の記憶」、「物々交換」、「動物―植物ー無機物間のインタラクション」という主題について考察しました。

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Objets cultes 

« Culte »は、宗教的な「カルト」である以前に第一義的に、崇拝や敬愛を表す。Objets cultesはしたがって、モノに対する崇拝、あるいは注意を払われるべき物に関する一連のコレクションである。関心を向けるのは、我々が普段思いを寄せることすらほとんどない道具のくたびれた様子だとか、使用によってほころびた状態、人々のエネルギーが物体に何らかの変化をもたらした形跡や、時間の経過をそのヴォリュームに留めた数えきれない「オブジェ」たち。

たとえば摩耗しきったスコップや、人々の流れを記憶に留めるメトロの出口(最も人が通るドアの表示がすり減っている)、歩き方のクセが現れる靴の底や、画家が筆を洗い続けたことによって穴の空いた石けん。それらのオブジェは、何らかのエネルギーを受けて、変形したり摩耗したり本来の機能を失ったりしている。

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*「物々交換」の実践

« flânerie »(そぞろ歩き)の二つ目のシチュエーションに、se perdre(道に迷う)があった。宛もなく歩き、見知らぬ人に出会う。目的地への最短ルートを急ぐことと対極にある、彷徨い歩いて見知らぬ人々と出会って会話をするような行為。Objets cultesとしてコレクションされている物には、アーティストがオブジェの持ち主と交渉して物々交換した物が幾つも含まれている。アーティストは持ち主に、くたびれたオブジェを模倣して作ったレプリカあるいはオブジェの弱点を修正して作った補強されたレプリカとオブジェを交換してくれないかと提案するのだ。「物々交換」については、またの機会に焦点を当ててじっくりと考察してみたい。

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Expérience hasardeuse

偶然的体験は、化石や動物の骨の鋳型、絵の具の軌跡、動物の骨や奇妙な環境下に栽培された植物などを含む。このコレクションは、インスタレーションとして展示された。

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Chitine-kératine-céllulose

chitineは生き物の抜け殻を構成しており、kératineは髭や爪のような死んだ表皮細胞を構成している。アーティストは、蝉の抜け殻をコレクションした。蝉の種類にもよるが、一般に知られているように、蝉は成虫としては非常に短い期間だけを生き、それ以外の生の大半は、脱皮をしながら木の中で過ごす。アーティストはこれについて、木と蝉の一生のアナロジーを見いだし、インスタレーションとして展示した。また、2013年より三年間、12ヶ月ずつ髭を伸ばし続け、各年のケラチン質をラボラトリーで分析するために保存している。ケラチン質は、食生活や生活環境、ストレス状況など心身の状態を反映する他、金属(水銀、銅など)や放射能の影響を受けることが知られている。生の記憶が身体から切り離された形で、解読を待っている。

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cellule babélienne

“ alors que les hommes parlent plusieurs centaines de langues (en diminution avec le temps), le code génétique, le langage de la nature qui traduit les gènes en protéines, est le même partout. le langage génétique, fondé sur l’arn et l’adn, a émergé de la babel chimique des temps archéens.”

バベルの塔としての細胞は、デッサン、石彫刻など多様な作品形態をとりうる、バベルの塔という一つのコンセプトを共有する作品群である。人類は世界中で異なる言語を話すにもかかわらず、遺伝子のコード、つまりは塩基配列のパタンが基本構造となっている遺伝情報を翻訳する「自然の言語」は異なる言語を話す人々の間でも共通なのである。遺伝子言語は、RNAおよびDNAに基づいていて、それは太古から変わらない化学のバベルの塔を形成する。
lynn margulis et dorion sagan – “l’univers bactériel” – p.57. ed. albin michel 1986.

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デッサンは、50cm×60cmのものと、さらにカオティックで複雑なバベル的細胞の建造物を表した2m×1.5mの巨大なデッサンがある。石彫刻では、植物―動物ー無機物のインタラクションが象徴的あるいは物理的に実験されており、2015年より生き続け、現在も変化し続けている作品である。

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miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)をお読みくださって有難うございました。十分に言及できなかった「物々交換」や「禅」的思想と表現の関係については、また番外編で掲載したいと考えています。

フェイスブック、Twitterやブログを通じて、もしご質問やコメントがあればどんどん声をかけてくださいね。

最後に、今回企画を引き受けてくださった日常避難所511リーダーの田中さん、28日オーガナイズを中心にしてくださったみゆきちゃん、30日の段取りをたくさんしてくれた阿曽沼くん、またお料理や設営などたくさんお仕事をしてくださった皆々様、お越し下さった皆様、本当に有難うございました。 miki okubo & florian gadenne

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01/11/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.1

miki okubo & florian gadenne

2016.12.28 and 12.30

12月28日および12月30日、大阪の日常避難所511において、miki okuboとflorian gadenneによるトークイベントを行ないました。講演において主題となったのは、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flâner »(そぞろ歩き)に関する考察、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索。

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flâner, flaneur, flanerie ぶらぶら歩く、そぞろ歩きをする人、そぞろ歩き。

今日の生産性を重視し時間を無駄にしない事を善しとする社会では、目的なくぶらぶら歩くことは否定的に捉えられる典型的な行為の一つでしょう。時間を無駄にしないために、予め目的地までのルートを調べ、交通手段を調べ、最短の乗り換えを調べ、インストラクションを遂行する。私たちの日常はそのような最短距離の目的地間移動によって構成されています。そぞろ歩きによって私たちは何をするのか。これについて、florian gadenneは3つのシチュエーションを見いだしています。

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FLÂNER, verbe intransitif.:ぶらぶら歩く、そぞろ歩きする (仏、他動詞)

Étymologie. et Histoire. :語源と歴史
1.1638 « paresser, perdre son temps » (D. Ferrand, La Muse normande, éd. A. Héron, t. 2, p. 177):ダラダラする、時間を無駄にする
2. 1808 « se promener sans hâte, au hasard » (Hautel).
« marcher, se précipiter étourdiment » (De Vries Anord.)
« se promener » (Falk-Torp, s.v. flane). :急ぐことなく散歩する、偶然に任せて歩く /焦らないで歩く

そぞろ歩きをめぐる3つのシチュエーション:
シチュエーション1 見知らぬ場所を発見する ー散歩、自分を取り囲んでいる環境の観察(表面上の観察→細部の観察)、ものの時間の経過による摩耗、しみやよごれ、あらゆる物が時間と空間においてどのように摩耗しくたびれるのか。

シチュエーション2 Flanerie(そぞろ歩き)は、perdre le temps(時間の無駄) ー現代社会において私たちは日々「時間を無駄にすべきでない」「時は金なり」といった強迫を生きているが、se perdre(道に迷う)ことを本質とする“そぞろ歩き”は、金銭を基準としないかつての物々交換に似た事なるechelle(価値観)に基づく。

シチュエーション3 このような “そぞろ歩き”の一つの結果は、環境(山、自然、都市)から探し集めて来た様々な物がごちゃごちゃと堆積するAtelier(アトリエ)の形をとりうる。動物の骨、すっかり乾燥した物体、死骸、泥の塊や出来事の軌跡を私たちに伝えるオブジェ。それらの集積は、意味を成し、詩的なヴィジョンを私たちに与える。

以下に、このそぞろ歩き的思考によって導かれる表現活動についての解釈、あるいは芸術行為と我々の生死についての考察を、幾つかのテクストを引用することを通じて表す。

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Notion de la participation:参加の概念
« La principale différence est que je ne suis pas un peintre qui à l’ aide de pigments va créer une peinture. J’utilise le lait et j’utilise le pollen ou la cire d’abeille, que je n’ai pas créé. Je participe aux plus belles choses dans le monde, que je ne pourrais jamais créer. Je ne pourrais jamais créer cette beauté du pollen. Donc, la tragédie pour moi serait si je tentais de faire une peinture de pollen. »
Wolfgang Laib

私は、絵の具の力をかりて、“peinture”(絵画)を作る“peintre”(画家)ではない。私は、牛乳や花粉や蜜蝋を使って描くがそれらは私が創り出したものではない。私は世界に存在するもっとも美しいものに“参加”しているのであり、それらを産み出しているのではない。例えば、花粉の美しさなどは私には到底作り得ないものだ。だから、もし私にとって最も悲劇的なことがあるとすればそれは、花粉の画料を産み出そうとすることであろう。
Wolfgang Laib

Signification de l’art:芸術について
« l’art c’est ce qui rend la vie plus intéressante que l’art »
Robert Filiou

芸術とは、芸術そのものよりも人生を興味深いものにしてくれる何かである。
Robert Filiou

mémoires du temps, ou effets du temps:オブジェの記憶
« effets du temps », voilà certes qui sonne bien, mais, à dire vrai, c’est le brillant que produit la crasse des mains. les chinois ont un mot pour cela, « le lustre de la main » ; les japonais disent « l’usure », le contact des mains au cours d’un long usage, leur frottement, toujours appliqué aux mêmes endroits, produit avec le temps une imprégnation grasse ; en d’autres termes, ce lustre est donc bien la “crasse des mains”. »
junichiro tanizaki – éloge de l’ombre.

われ/\は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳かげりのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる/\撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。
陰翳礼讃、谷崎潤一郎

égard et regards des objets:モノによる配慮、モノによる視線
« Nous ne sommes pas seuls ici. Nous sommes loin d’être entre nous. Permettez-moi, Mesdames et Messieurs, d’invoquer, en même temps que je vous invoque, toutes les choses présentes dans cette salle, ces choses à qui une fois de plus nous avons ôté leur silence, ces choses que nous traitons, que nous avons traitées jusqu’à présent avec la désinvolture et la brutalité coutumières à cette espèce de sauvages à leur égard que nous sommes.  Je ne sais pas si je me fais bien comprendre; je parle de ces murs, des lattes de ce parquet, je parle des clefs que vous avez dans vos poches, de tous ces objets qui nous ont accompagnés, et qui nous ont attendus ici, et qui sont ici avec nous, et qui doivent par force se taire – peut être à contrecœur – et dont nous ne tenons compte jamais, vous le savez, jamais. » 
                                             Francis Ponge, Méthodes, Tentative Orale, 1983, pp. 250-251. 

我々は全く持って我々自身で存在しているのではない。我々だけで自律してるのでもない。この部屋にあるあらゆるオブジェ(モノ)は、少なからず我々がその沈黙を破った事のある対象であり、我々が普段は習慣化から思うままに時には乱雑に扱ったり利用しているモノであると同時に、我々がモノたちの配慮の対象になっているとも言えるのである。例えば、壁や床の木の板、ポケットの中の鍵など。それらは我々と共にあり、沈黙するように強いられ(時には嫌々)、そして我々はその事実について盲目であり、絶対に知り得ないことなのである。
Francis Ponge

Le Zen, comme non-raison ou raison inopérante:非理性あるいは無益なものとしての禅
« Le Zen ne se saisit pas par la raison. Il est avant tout du côté du non sens, en affirmant la présence simultanée des contraires (ordre-désordre, vie-mort, nécessité-hasard, etc.). De cette manière, la pensée Zen est porteuse de paradoxes qu’elle dévoile constamment comme inopérant. » 
Ullrike Kasper – Écrire sur l’eau – L’esthétique de John Cage

禅とは、理性によって摑みとることのできないものである。それは何より先に、意味を成すものにあらず、今ここにある相反するものの存在を肯定する。例えば、秩序ー無秩序、生ー死、必然と偶然など。このように禅を考えたならば、禅とは、矛盾を孕んでおり、それ自体として役に立たないものである。
Ullrike Kasper 

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講演会では活発な質問や議論が行なわれ、参加していただいた皆様には非常に感謝しています。
次回の記事では、この前半の部分に続く講演会後半の作品紹介についての記事を掲載します。どうぞお楽しみに。

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09/13/16

un récit lucide d’une survie rituel

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expérimentation physique – isolation volontaire – tentation déshabituée

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sensation honnête – simulation naturelle – illusion réaliste

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mythe spatiale – rite animalier – prêtresse sonore

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peinture dynamique

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douleur extasiée

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intuition – soif – lucidité

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vide – cure – bonheur

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compréhensibilité réspirable – oxymoron inquiétante – pluralisme théâtral

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art mur – but simple – ouverture intelligente

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affection relative – sympathie cathartique – cycle répétitif

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nid – acte – vie

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images par miki okubo et florian gadenne (blog d’artiste)

tous droits réservés. toutes utilisations, reproductions sans accord des auteurs ne seront pas aimées

08/17/16

平等を主張し、自由を讃えるということ, Qu’est-ce que l’égalité? Qu’est-ce que la liberté?

10年ほど前に見た以来、忘れがたいイラストがある。
バーナード・ルドルフスキーの著書『みっともない身体』に掲載されていたイラストである。言わんとしていることは実にシンプルで、身体のどこを隠すか、何を恥ずかしいと感じるか、どのような服装が普通と認められるか、そんなことは全て文化によって決められており、我々はそれを当たり前として生きている、ということだ。

何の変哲もないテーズである。

我々は例えば20年前や10年前よりも、ルールのない世界に生きているような気がしているかもしれない。とりわけ私の生活環境であるこの土地では、毎年「テロ」が大きな事件を引き起こし、それらは報道が作る物語として定着し、定型化してさらに語られやすくなったキャッチフレーズは、誰もが口ずさめる流行歌のようにすり切れるまで反復され、認識はそのように、鋳型に収められていく。

自由の国であり、平等の国である。全ての民の人権を、尊重する国だそうだ。
男女は平等であり、異なる宗教を進行する民もまた平等である。肌の色の違う人民も、収入の異なる人々も、教育レベルの異なる人々もまた、同じ権利を持ち、同じように扱われるそうだ。

思うことがある。

果たして、髪の毛をむき出しに道を歩いたことのない人々が、それを露わにすることを強要されたり、膝下なぞ決して見せることなく覆っていた人々が突如そのふくらはぎや足首を露出して、その慣れない不格好な歩みを、誇らしげに闊歩する人々と並べられながらさらけ出さねばならないということを、自由と呼ぶことができようか。

果たして、肉体の露出を自由と信じる民を前に、肉体の不露出こそ自由であると解いたとき、それはあなたが洗脳されているのだとか、文化や教育によって現在そのようにしか思うことのできない不憫極まることだるとか説かれるとき、その人々は肉体を露出することを強要されており、それは実際には強烈に暴力的なことでもあるのだと、想像する想像力を、一方的に自由と平等を主張する民が持っているかどうかは定かでない。

そのように語るとき、全ては構造の中にあるということを、言い放つことは残念ながらできず、それでもなお、確かに不幸な状況の存在を認めることは、世界に幾つものケースがあると思われる。

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08/15/16

Redonne-lui une vie, もういちど球根が花を咲かせるか試すこと

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Redonne-lui une vie.
球根がもう一度花を咲かせるか試すということ。
それはすっかりカラカラになったヒヤシンスの球根がもういちど暫くの期間準備を行なって、水や空気の恩恵を受けながら再び芽吹くのかどうかを知ろうとすること。それを成すために行なわれる全てのオペーレションと、このカラカラになった球根がなるべきだった生というのは、命をコントロールする実験を行なう介入者がその介入を行なわなかったら、というパラレルワールドの中にしか思うことができない。あらゆる生は、動物的な生も、とりわけ我々の人間的な・社会的な・文化的な生も、我々が既に認識することから突き放されている数多くの異なる場合的世界の中で、「なるべく」過ぎていくことができているのかもしれないことを想像するのは自由だ。

Quand on fait n’importe quelle expérimentation: pensons que nous essayons de donner à une bulbe gravement séchée jusqu’à la perte de vie, quand nous voulons savoir si elle est capable de revivre encore l’année prochaine pousser, fleurir, grâce à l’aide de l’eau et de l’air du sol riche, tout en attendant l’éventuelle renaissance, il ne serait plus possible de visionner une vie « telle quelle », comme elle était sans intervention du pouvoir l’un ou l’autre, nous ne pourrions plus savoir comme cette bulbe séchée pose la fin de sa vie si toute opération extérieure ne la amenait pas vers une déviation proposée.  « La vie telle quelle » n’existe que dans un monde parallèle, un monde qui alors n’est pas choisi. Toutefois nous sommes tout à fait libre d’imaginer, soit sur la vie végétale soit sur la vie animale, notamment celle humaine, « la vie qui vit comme elle est destinée de nature », bien que nous soyons souvent forcés à nous éloigner de toute cognition humaine, sociale et culturelle, à propos de ce sujet.
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08/15/16

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim

本テクストは、『有毒女子通信』第12号 特集:「食べないこととか」(2013年刊行)のために執筆・掲載した食と産業についてのエッセイです。庭で赤くなるまで太陽を浴びたトマトがなぜこんなにも美味しいのかと反芻することは、グロテスクな口紅のようなピンク色のトマトの、それらもまた食べられるべくしてそれらを基盤として生計を立てる人々の関係から関係を通って、我々のフォークを突き立てるその皿にスライスされて登場するにいたっているということを了解した上でもなお、それを摂取することへの苦痛を催すきっかけとなる。あるいは、食物がクリーンであることへのオブセッションや、それが肉体に与えうる恩恵や損害を思うとき、ひょっとするともう何ものも摂取することができないのではないかという恐れと、いっそのこと一切の執着を捨てるのが良かろうとする相反する二つのアイディアの板挟みになるかもしれない。

環境においてのみ生きる我々が、それを望むエッセンスのみに収斂することなど叶わず、同時に思うことを放棄することもまた叶わないことを、どこかで直観しているにも関わらず。

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim
大久保美紀

We Feed the Worldは、オーストリアの作家・映画監督のエルヴィン・ヴァーゲンホーファー(Erwin Wagenhofer, 1961-)の撮影による長編ドキュメンタリーである。2005年の初上映以来、ドイツ、フランスを始め、ヨーロッパ諸国で反響を呼び、日本でも字幕を伴って 『ありあまるごちそう』 というタイトルで上映された。映画は、食糧生産やその廃棄に携わる人々の日々をありのままに伝え、彼らの率直な言葉と労働の現状を淡々と映す。あるいは、 「世界は120億人を養えるだけの食料を生産しながら、今この瞬間にも飢餓で死ぬ者がいる。この現実は、殺人としか言いようがない」と 当時国連の食糧の権利特別報告官であったJean Zieglerが憤慨し、他方、遺伝子組み換えの種子開発の最先端を行き、世界の食糧大量生産を支えるネスレの元ディレクター、Peter Brabeckがこの世界の行く先を語る。

 この映画を見て震え上がり、明日の食卓をゼロからの見直し決意し、スーパーの安価な魚や鶏を貪るのを断念し、最小限の消費と廃棄を誓って、貧しい国で今も飢える幼子の苦しみに心を痛める、ナイーブで心優しい鑑賞者を前に、「この偽善者め!」と言い放って彼らの気を悪くするつもりはない。しかし、その程度のインパクトに留まるのなら、このフィルムは所詮、これまで幾度となくマスメディアが特集し、ドキュメンタリー化し、国際社会が早急に取り組むべきだと声高に叫ぶその問題を描く無数の試みの水準を逸することなく、今日の世界を変えはしないだろう。我々は、もはや聞き飽きてしまった問題を別の方法で聴く努力をするべきなのだ。そのことより他に、不理解という現状を乗り越える術はない。

 さて、We Feed the Worldはヨーロッパの食糧問題に焦点を当てたドキュメンタリーである。ヴァーゲンホーファーはまず、最重要の食糧であるパンの生産と廃棄に携わる人々の声を聴く。十年以上の間毎晩同じルートを往復し、トラック一杯のパンを廃棄場に運ぶ男は、時折、年配者の厳しい批難に遭う。彼が廃棄するのは、少なくともあと二日は食べられるパンである。年間に捨てられる何千トンのパンで救える飢餓民を想像せよという憤りは勿論理解可能だが、豊かな国で過剰生産されたパンはいずれにせよ廃棄される。そこに在るのは、「 あなたはこのパンを買うか、買わないか」という問いのみだ。我々の無駄な消費の有無に関わらず、店には常に品物が溢れて大量のパンが捨てら、そのことはもはや、我々の行為と直接的因果関係を持たない。
 トマトを始めとするヨーロッパ産の野菜の多くは、その生産をアフリカ人移民の低賃金労働力に頼っている。国産の三分の一という破格で農産物を売りつけるヨーロッパ諸国のダンピングはアフリカの農業を破綻に追い込み、彼らを不安定な移民労働者にする。
 ついさっき生まれたばかりのひな鳥が養鶏場から屠殺・加工工場へ送られて行くシーンは、このドキュメンタリーのクライマックスと言える。にもかかわらず、一切の付加的演出がないどころか、ブロイラーと加工場労働者は、短期間・低コストで若鶏を生産し、効率的に加工するメカニズムの情報を我々に与えるのみである。詰め混まれた雌鳥の中に数羽の発情期の鶏が放り込まれ、たった数秒で雌と交尾を済ませる。産み落とされた卵は大きなマシンに回収され、40℃の温かい構造の中で数日保存された後、数十日後の屠殺を予め運命づけられた雛が殻を突き破る。雛鳥の小さな足ですら足の踏み場がない場所にどんどん詰め込まれ、飼料を頬張って成長する。「鶏には暗闇に感じられ、動物のパニックを避けることが出来る」と屠殺業者が説明する青い光の中で、鶏は撲殺から鶏肉パックになるまでのベルトコンベアーに乗る。ハンガーのような機械に両脚を引っ掛けて宙づりされ、撲殺、脱羽機をくぐり抜け、頭と両脚を失ってパックされる。

 ある日理科の授業で眼球の構造を学ぶため、少し生臭くなった牛の目の解剖をし、子どもたちの多くがその日の給食で「もう肉は食べられない」と言って残した。ならば一生食べなければよろしい。そう心の中で呟いた。
 フランスでは年に一度、ヨーロッパ最大の農業国としてのこの国のパワーを眩しすぎるほど誇示するイベント、国際農業見本市 が開催される。食肉業者も数多く出展し、1600キロもある巨大な肉牛や可愛らしい子豚などの食用動物が日頃動物など目にすることのないパリジャンの大人と子どものアイドルとなる。見本市は商品販売を同時に行っており、立派な食用動物がちやほやされているすぐ隣には、おぞましい様子で飾り立てられた最高品質の肉が販売されている。(写真1)フランスは飽食の国である。さすがは食糧自給率が120%の国だ。マルシェがたたまれた後の午後は大量の野菜や貝などが置き去りにされ、レストランで大盛りの御馳走を平らげることを皆あっさりと諦め、食べ物は余るくらいで丁度良く、食べ物のケチは悪徳である。
 日本人は、「もったいない」の精神を歌い、食べ物を粗末にしたがらず、ビュッフェレストランですら余分にサーブしないよう注意され、生ゴミを極力出さない食材使いを提案する料理をオシャレで「粋」と見なす。ひょっとすると、世界の他の先進国と比較しても食物の扱いに敏感だ。だからこそ、それが全くの事実であるにも関わらず、一人当たりの食糧廃棄量が世界一と批難されても全くピンと来ない。背景には問題の根本的な不理解がある。なぜ、日本語のタイトルは『ありあまるごちそう』なのか。わざわざ平仮名表記し、飢えるアフリカの子どもをキュートなイラスト化して、かわいらしい演出で「食の社会見学」と銘打つのはなぜか。態度の端々に滲むもの全てが、問題に対する我々の無関心と、世界現状の因果に自分が無関係だという認識を暴露する。(写真2)我々は、表層的なエコの賛美歌を熱唱し、欺瞞に満ちた「地球に優しい市民」を演じるのを直ちにやめ、それが途方もない狡猾な悪であるために、皆がこぞって我々の認識から乖離させようと必死になっている巨大なメカニズム、産業構造そのものを凝視せねばならない。食糧廃棄の構造的カムフラージュに甘んじる時代は終わった。
 ちなみに、フランス語タイトルはLe Marché de la Faim(飢餓市場)、世界全体が飢餓を生産する巨大な歯車の部品である。それは、我々が日々恩恵を受ける構造そのものへの懐疑であり、ハイブリッド野菜が地力を貪り尽くした畑に立つ男は、引き過ぎた手綱を緩めることを我々に問う。「ヒヨコが可哀想」などと戯言を言っているヒマは、本当はない。

“We Feed the World”(2005) by Erwin Wagenhofer, 96分, Allegro Film
http://www.we-feed-the-world.at/index.htm

写真1
ありあまるごちそう2

写真2 『ありあまるごちそう』チラシ(2011)
ありあまるごちそう1