「粒はほころぶ。粒の存ることは、糾弾されない。」
どこまでも具体的にあるいは抽象的に、
かぎりなく実践的にあるいは観念的に、
ひとは生きることができるだろう。
極と極のあいだで、折衷しながら生きることも。
積年の、個別の生の積み重なりの、
「連続」と見なされる歴史、文化あるいは叡智。
あたかも織られた絹糸のように物語られているのは、
僅かに互いを引き寄せたり突き放したりする、
独立した粒のようなものである。
かぞく、ムラ、クニ、世界、宇宙に
触れ、関わり、包まれ、育まれ、
マテリアルである肉体のマテリアルとしての限界まで、
世界を浮遊し時間を潰す、
粒のようなものである。
ミズナラの木は地面を覆うほどのドングリを与え、
蝉は夜明けまでじっと羽のパリっとした乾燥を待つ。
食べ物がなければ在る場所を探す他なく、
それでもなければ施しを乞うしかない。
凍えて生きられないほど寒いなら智惠をしぼって暖まるか、
他者の恩恵に与って温めてもらうしかない。
そこに選択の余地はなく、
生はつまり粒のように、
マテリアルがほころびて、運動をやめるまで、
そっとされるだけである。
意味を創り、詩を書き、音を奏で、ダンスする。
食欲を満たし、性欲を分け合い、睡眠し排泄する。
生そのものは、そっとされるだけである。
粒はほころぶ。
粒の存在は、糾弾されない。
創られた意味の糖衣がたとえ失われても、
そこに在り、生きることは、
ひたすらに明らかである。