01/19/13

現在住んでいる家の隣に当たる敷地は土木工事関係の仕事をしている個人企業を経営している男性が住んでおり、日頃から作業の騒音と3頭もいる猟犬の吠える声に悩まされている。彼はもっと若い時には、とても活字には出来ないような悪いことを沢山したらしく、そのことをときどき誇らしげにご近所に語っている。罪というのはシステムで決められた方法で償いさえすれば、その後の人生において底抜けに楽しく生きることが出来るという奇妙であるが、そのようである。

 

さて、その男性は犬を連れて狩りにいくのが趣味だそうだ。フランスでは免許を持っていて、申告していれば銃を問題なく所持できる。私は釣りには時々行ったが狩りには行ったことが無い。たぶん生涯行かないのではないかと予想している。家族も狩りにいく人はいなかった。ただ、父方の叔父が時期になるとやはり犬を連れて、シカやイノシシなどを捕っていたようだ。記憶の限りで私はそうやって叔父が捕ってきたシカやイノシシを口にしたことはなく、そもそもシカとイノシシは食べたことがないのではないかと思う。馬はある。馬刺というのが非常に貴重であるとか美味いとかいうことで、いつかの新年に親戚が叔父の家で集まっていた折に馬刺を食すという経験をしたのを、味も食感も全く覚えていないにも関わらず、肉の色とその表面が鮮やかに瞼の裏側に蘇ってくることによって、その事実が存在したということが裏付けられる。ちなみに、私はこの8年くらいの間、ほとんど肉を食べていないのだが、それは宗教上の理由にも動物愛護の理由にも体質的な理由にも拠っておらず、なんとなく、ということなのである。合理的な理由はない。なぜなら、私にとって、羊の肉と鯖の肉とイカの肉の間には本質的な違いが何もないのであり、子羊も子鯖も子イカもちっとも可哀想ではない。あるいは、どなたもおしなべて可哀想である。つまり、鯖とイカは食べて羊を食べない理由は、なんとなくでしかないのである。

 

昨年の11月はパリは寒い日が続いた。そんなひんやり澄み渡ったある日、事件は起こった。いや、事件などそうそう起こるものではないので、包み隠さず、一階から大家さんの悲鳴が聞こえた、とでも描写しておこう。悲壮な声である。いやむしろ、この世の悲痛を寄せ集めてしぼったような声である。私はとりあえず、ドキュメントをセーブしてから椅子から立ち上がった。階段から眺めおろすと、身体的に全く異変のない大家さんの姿があったが顔がへんである。というか、殆ど泣いている。これはただ事ではないと思ったのだが、よくみるとポーズも変である。かかしのように立ち、右腕が胴体から全力で離れるような格好になっている。右腕が、激しくつったのであろうか?

 

冗談はこれくらいにしておくが、要するに彼女は例の隣に住む前科者のおっさんから一羽の雉を、撃ち落とされたままプレゼントされたらしかった。雉の羽というのは間近で観るととても美しい。そしてさっきまで元気でいらっしゃったためにやはりつややかに感じられた。彼女は私に殆ど泣きながら雉を袋に入れてくれるように懇願した。私はそのことが非常に滑稽に感じられ、あなたはこの雉を食べるのかとたずねると、彼女は右手に雉を持ちながら、雉は美味しいと答えたので、私はさらに驚いて自分の仕事部屋に戻り、カメラを探してきて記念撮影した。タイトルは、雉とかのじょである。写真はとても良く撮れており、いい表情である。さんざん撮影して満足した後に私は雉を丁寧に袋に入れて、手渡した。あたりまえだが、すでに温かさはなかった。

 

私は魚はさばくが鳥やほかのほ乳類も解体する技術は身につけておらず、羽もむしったことはない。羽をむしれるかと聞かれたので、やったことは一度もないと答えた。彼女は、事件より一時間半くらいたってやっと平常心を取り戻しながら、そういえば友人に出来る人がいるからやってもらって調理してもらうと話した。

 

私は昔から、少しくらいならアニマルに関わるグロテスクなものは平気である。魚を初めてさばいたのも子どもの頃であったが、もちろん平気であった。食べ物はどこからくるの?的なドキュメント番組も凝視しても平気、小学校の理科の実習で牛の眼球の解剖をして、カッターでかなりアグレッシブに切り開かなければならないプロセスなどがあったがこれも平気、猫が捕ってきてしまう鳥を片付けるのも平気。というか、食べるのであれば、それが半身で海を泳いでいないことや、ハムが草原を走っていないことを知っているのは当然だし、そのプロセスを凝視しないまでも、最低限無視しないというか、存在は認めてあげるというか、そのレヴェルのことは感じてしかるべきであるように思ってきた。フランスでは毎年2月ころSalon d’Agriculture というのがあり、その一画で、最優秀賞に選ばれた1600キロくらいある肉牛が誇らしげに(あるいは迷惑そうに)メダルを下げて立派な衣を引っ掛けられて一週間ぼーっとしているのであるが、そのすぐに横ではお肉の販売もしているというタイムスリップ感満載のイベントである。このイベントは、普段食べているステーキがどんなアニマルか予想もつかない都会の子ども達に、これがその牛さんですよ、っていうのを見せてあげることも目的としているらしいのだが、それならばもう少しうまく間をつなぐことが出来そうであると残念にも思う。

 

さて、雉は翌々日幸いにもこれを扱い調理してくれる彼女の友人のおかげで3人の大人に美味しく食されたようである。私は捕られたアニマルがまっとうに被食されるのならそれでいいと思っている。それ以上でもそれ以下でもない。アニマルと食にまつわる、矛盾するようなことやすっきりと割り切れないことなどはヌーの群れの数よりも多く存在するのであろうから、多少滑稽なことや、奇妙なことがあろうとも、プロセスを割愛した断片化した知識であれども、とにかく、それでもいいと思っている。ひとつだけ、望むことがあるとしたら、撃ち落とされた雉は、あなたを襲ったり食べたりしないので、そんなに怖がらないでほしい。それらは少しもあなたを脅かすものではない。

 

kiji copy

01/13/13

眠ることについて/ about the sleep

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眠ることは気持ちがいい。このことを後ろめたくなく言えるようになったのは、ここ数年のことである。眠ることが気持ちが悪かったのでは決してなく、素直に気持ちがいいと言えなかったのである。

 

私が覚えている限り、あるいは聞いて知っている限り、私は眠らない赤ん坊であったし眠らない子どもであった。赤ん坊は眠るはずであるから、眠らないならばなにか眠れない理由があったからに違いない。子ども時代の思い出としてよく覚えているのは、眠る時間が無駄であるという強烈な信念を小学生の自分が持っていたことであり、あまりに遅く眠ると親に怒られるというので、朝5時に目覚ましを掛けてこっそり起きて本を読んだり、算数の問題集を解いたり理科の資料集や恐竜や生き物の図鑑を眺めたりしていた(むろん、眠いのでそれが目覚ましい効果をあげたとも思えない)。とにかく、5時間以上眠ることは自分の中のルール違反であり、ナマケモノの始まりであり(ちなみに、アニマルとしてのナマケモノは素敵な生態で大好きなのだが)、限られた人生の時間を無駄にする悪いことなのだと思っていた。なぜだか分からないが眠ることへの罪悪感は殊の外深く、昼寝も出来なかった。学校の授業中、殆ど授業を聞いたことがないのは眠っていたからではなく内職(その授業の内容とは異なる単元あるいは教科の自習をすること)をしていたからであり、寝落ちしても自分を責めずに済んだのは、せいぜい、電車や地下鉄の中くらいである。もっぱら、移動手段は自転車だったので、こぎながら居眠りというわけにはいかず、したがってこれもあまり叶わぬルール違反だった。

 

この思い込みと習慣は大学に入って一人暮らしをするようになっても続き、私は引っ越すと凝りもせず実家で使っていたのと同じタイプのロフトベッドを買って、超低い天井なのにこれを組み立てて設置し、ロフトベッドというか、イメージとしてはカプセルホテルの域というか、寝台列車のいちばん低い等級の3段ベッドの真ん中というか、そんな寝床が十代終わりかけの私の日常だった。時々頭をぶつけたし、酔っぱらって帰ってきた日にはよじ登るのが一苦労だ。大学一年生の時いちど、自力で家に辿り着けなくなり友人が搬送してくれたが、さすがにカプセルホテル級の窮屈さを誇るロフトベッドまで私を運ぶことは諦めて、広々とした床に放置してくれたということもあった。(そうそう、いちばん自己への思いやりに欠けた、あるいは自己鍛錬に晒していた経験としては、インテリア的にとてもブサイクに思えて、ハシゴを設置をやめた時期であろう。これはかなりスポーティーな決断で、つまり眠るためには本格的に天井付近までよじ登らねばならない。もちろん、不可能ではないのだが。)この頃私は、それでも少しずつ、眠りを魅力的に語る人々に憧れを抱き始めていたように思う。自分は得体の知れない罪悪感のため、心おきなく眠ることができないので、友人や知人がうっとりしながら彼らの眠りの素晴らしさを語るのを聞くたびに、自分が辿り着けない至高の幸福がそこにあるように感じられて、純粋に、憧れた。

 

そういえば私が出会った人々のうち、かなり多くの人々は、友人、男友達も女友達も、眠るのが好きな人たちだった。眠るのがいちばん好きだと断言する人もおり、趣味は寝ることだと言い放つ人もおり、鼻血が出るほど驚いた。

 

いっぽう、私にも眠りに関して自慢できることがひとつだけあり、それは、私は今まで眠れなくて困ったことがないということだ。それは私に悩みがないからとか本気の心配事がないからだと言われそうだが、私にもそれなりに悩みくらいあり本気で心配している物事も幾つもある。でもぜったい眠れるのである。私は、猫の言葉も社会生活も、亀の欲望もサボテンの体調も手に取るように聴こえてくるのだが、不眠症の方々の苦しみはほんとうに未知なるものである。私はこのことを次のように考えている。

私は眠る時いつでも眠ることが出来る、なぜなら私は眠ってしまうときにならないと眠らないから。

 

。。。

 

人生の、少しずつではあるが、時間が経つにつれ、友人達が言い放った憧れの名ゼリフ、「眠るのは気持ちいい!」に実感を伴って賛同できるような気がしてきた。たしかに、カプセルホテル的ロフトベッドより、しっかりしたお布団とパリっとして同時にちょっとひんやりするシーツとか、固めのマットレスのごろごろ寝返りがうちまくれるベッドとか、身体が垂直から水平になったときに地球にしゅーっと吸い込まれそうになる感じとか、そういった感覚は、たしかに「気持ちいい」。それでもやっぱり私は眠ることそれ自体に興味がない。なぜなら、眠るためには眠る以外の意味が必要であり、その意味が充溢していると感じられるときにのみ、眠ることが幸せに思えるからだ。眠るのに眠る以外の意味があるというのは、たとえば、進まない仕事があって寝てしまえば明日フレッシュなアイディアが思いつくかもしれない、とポジティブに信じられる夜であったり、睡眠時間を確保することによって体調が維持できると思い込める時であったり、あるいは見たい素敵な夢の続きがあるとか、一緒に眠ることによって愛する人と過ぎ去っていく時間を共有することができるとか、そういったことである。常に意味は外側にあり、その何かに身を任せているときにしか、眠りの喜びを享受することが出来ないのである。

 

こういったことは、眠りだけに言えることではない。現代の私たちの生活では様々な行為ー生物的に本質的であるような行為ーがしばしばこのような方法で納得されており、このような方法でしか納得されていない。たとえば、食べることや、セックスをすることなどもその例にもれない。

 

なぜそれ自体に喜べず、なぜそのものの幸福を感じられないのか。あるいは、それをキャッチするレセプタが誰も知らないところでこっそりと破壊されているのかもしれない。

 

私は、すこし仲良くなった猫や犬であれば、どのように触ってあげると最も気持ちがいいかわかる。人間でもわりと、わかる。そうやって触ってもらって喉をごろごろ鳴らしている猫のとても繊細な表情の移り変わるのを見ていると、羨ましく思えた睡眠礼賛の精神も、あるいは、可哀想なアンチ睡眠主義の想い出も、つまりはその猫の細めた目の、切れ目の中に吸収されてしまって、そのディテールはもはや知ることができないということになる。それはほんとうのことで、それで、いい。

12/31/12

月子

月子

 

個人的なことを書きます。私自身のことであり、別の誰かのことでもあり、むしろ私とそのもう一人の人についてのお話をしようと思います。今から書くことはしたがって、本当の話のようでもあり、私の記憶がしばしばそうであるように、曖昧で朦朧としたものであるために、知らないことを書こうとするがために作り話のようでもある、そんなとりとめのないものです。

 

私には高校の時、部活動で多くの経験を共にすごしたかけがえのない友人とは別に、15歳から18歳という人生の中で少しだけ特別な時間において精神的な交流を交わしていた友人がふたりいます。ふたりはそれぞれ、私にとっては全然違う性格や趣味や関心を持っており、家族との関係やほかの友人達との対峙の仕方もまったくちがっているように思えました。私たちはみんなちがっていたけれど三人でよく一緒に過ごしました。

 

彼女らの持っている世界は私の知らないことに満ちていたし、私の考えていた思考も必ずしも同意が得られるわけではなかったが、私たちはときどき、不必要に拡張高い文体でハイソな主題を持ち寄って「交換日記」のようなものを通してお互いの思考を読み合ったり、その間私たち三人の輪郭に外在する空間で何が起こっていたかということがほぼ意識されないくらい、議論に没頭することもありました。そのときに語られたことは、哲学の詳しい知識がなにもなかった私には言葉遊びのようにも聴こえたし、退廃的な思想には必ずしも賛同できないままそのうちのひとりの語る内容を消化不良でのみ込んでいることもありました。交換日記なんていうと可愛らしいですが、今思えば、あんな可愛くない交換日記が2000年の札幌の女子高生によってこつこつ付けられていたなんて、そのこと自体が可愛らしいことだとも言えます。

 

そのうちの一人はものすごく学校の成績が良い人で、ちなみに私も相対的にとてもよかったと言えますが、彼女は理系で、もう一人の友人は数学が大嫌いで、モノを書くセンスが素晴らしく、思想に詳しく、典型的な文系でした。わたしは非常に中途半端だったので数学もサイエンスも好きでしたが、なんとなく文系でした。理系の彼女は医学部に進学して医者になり、文系の彼女は文学部に進学しました。私は一年浪人して京都大学の、やはり文学部に進学しました。

 

二人は北海道におり、私はここを離れました。

 

私たちは時々会い、近況を話しました。私たちは離れて半年ぶりに会っても、一年ぶりに会っても、こんな言い方はおかしいのかもしれませんが、何も変わらないようでした。何も変わらないというのは、私たちを取り巻く環境や直面する問題や、生きていること、生きていくことへの漠然とした期待や不安が具体的なレベルで移り変わって行ったとしても、そのことよりももっと深いところにある何か大きな部分は私とその人の関係においてゆがんだりしないという直観です。そしてこのことはある程度ほんとうでありました。

 

医者になった彼女とは今でも表面的に形を変えながらしかしいつも私は彼女の人生のことを応援しているし味方しています。

 

ちがう大学でしたが、文学部に私よりも一年早く進学し、おそらくは先生になるために勉強していた友人にはもう会えなくなりました。彼女の送ってくるメールや書くものや口語で話しているときですら何かひっかかってくるような特別な感じが私はとても好きであり、それがもう発見できなくなってしまったことは、存在の喪失感というよりもむしろ自分が生き続けるためのモチベーションを失うこととか、世界に対する絶望感とか、そういうけだるくてしかし取り払うことの出来ない、また、全く取り払いたくもない身体的感覚をもたらすものでした。

 

ある類いの小説を読んだり、ふと一人で札幌の街を歩いたり、あるいは昔自分が書いていたものを読もうとするときなどには、彼女がそこにいるような気がします。彼女の言葉感覚が、自分の中に入ってくるように感じる瞬間があります。そんなことは勘違いかもしれないし妄想かもしれません。ただ、そう感じる、というだけのことなので。

 

私がこれからも生きていて、必要な食物を摂取するおかげで活動するためのエネルギーがあって、何かを書いたり考えたりできるための体系的な思考力が与えられるのだとすれば、私には書きたいものがたくさんあります。それは私の意志であるかどうかさだかではないことだが、逆説的なことだが何年も経った後に今はそのことが、死なないためのモチベーションの一つになるということを理屈でなく感覚として感じることができるのは、たしかに、すこしだけしあわせなことであるように、いまここにある私の身体と頭は思うようなのです。

11/30/12

PETITS RÉCITS SUR LE BONHEUR EPISODE 1 : RÉCIT SUR AMOUR ET SERRURE

このエッセイは、吉岡洋編集の批評誌『有毒女子通信』第10号 特集「ところで、愛はあるのか?」のために書かせていただいた、連載 《小さな幸福をめぐる物語》―第一話 「愛と施錠の物語」 のフランス語バージョン作りました!『有毒女子通信』購入ご希望の方は京都のVOICE GALLERY、あるいは吉岡編集長まで直接ご連絡ください。Twitterは@toxic_girls)(old posts of blog de mimi, salon de mimi)

(本文冒頭:「愛と施錠の物語」
愛とは、しばしば、お互いのセックスに錠を掛け合うことである。(ここでの「セックス」とは、性交渉だけでなく性器そのものや性的イヴェントなど、広義の性をさす。)
「貞操帯」というオ ブジェをご存知だろうか。「貞操帯」は被装着者の性交や自慰行為を管理するために性器を覆うように装着する金属製のオブジェである………

Cette version française d’un article est une traduction d’un article japonais publié sur une revue « Toxic Girls Review » (Twitter account @toxic_girls) pour laquelle je travaille comme essayiste. 
Si vous vous intéressez à cette revues, contactez moi via ce blog ou via Twitter @MikiOKUBO.

PETITS RÉCITS SUR LE BONHEUR
EPISODE 1 : RÉCIT SUR AMOUR ET SERRURE

L’amour est souvent représenté par le geste commun des deux partenaires de fermer la serrure à une sexualité extérieure au couple. Ici, j’utilise le mot « sexe » qui comprend non seulement « faire l’amour » mais aussi « le sexe de l’homme et de la femme » et certains événement sexuels, bref, au sens plus large.

Connaissez-vous cet objet appelé « la ceinture de chasteté » ?

La ceinture de chasteté sert principalement à empêcher le rapport sexuel et la masturbation de celle (ou celui) qui porte cet outil en métal fermé autour de son sexe. Son apparence est bien intimidante : cette ceinture en métal ne possède qu’un trou de quelques millimètres qui permet d’uriner. À part ce trou, le sexe de cette personne est entièrement couvert pour empêcher ou plutôt pour interrompre l’envahissement de n’importe quel objet. Aujourd’hui, il existe la ceinture de chasteté pour les hommes, mais historiquement, dans la majorité des cas, cet instrument a été produit pour les femmes. Selon la recherche archéologique, il semble que l’origine de cet instrument se situe pendant les croisades du Moyen Age. Cette ceinture est apparue pour la première fois dans un dessin d’Adolf Willette, vers 1900. Certains soldats qui partaient pour de longues batailles et qui craignaient l’infidélité de leurs femmes les ont obligées à porter la ceinture de chasteté. Autres victimes ont été les jeunes filles de très bonne famille, équipées de cet outil par leurs parents pour protéger leur virginité.

French caricaturist Adolf Willette ca. 1900
Scanned from an early 20th-century book edited by Eduard Fuchs (probably Die Frau In Der Karikatur, 1907)

Pour enfermer le sexe, le fonctionnement de cet outil s’effectue en fermant la serrure physiquement. Cela va sans dire que la personne portant la ceinture ne pourra jamais elle-même ouvrir la serrure. C’est pourquoi une femme portant cet instrument qui ne possède plus de la liberté sexuelle de « faire l’amour » ou de « se masturber », n’a qu’à attendre le retour de la guerre de son mari avec patience, car c’est lui qui garde la clé. Si jamais il meurt à la guerre, la pauvre veuve est obligée de continuer sa vie castrée violemment de tous ses désirs sexuels.

Entre parenthèses, comme « la ceinture de chasteté » privatise violemment et unilatéralement la liberté sexuelle, de nos jours, elle est très présente sur la scène théâtrale des événements sexuels en tant que châtiment ou punition, afin de mettre efficacement en scène le sadomasochisme ou les rôles de « dominateur » et d’« esclave ». Au Japon, Nori Doi, artiste japonaise, plasticienne (sculpteur de poupées), a présenté les ceintures de chasteté pour les deux sexes en 1968. Son travail était véritablement scandaleux pour certains féministes et critiques, et pour cela, cette artiste a été gravement critiquée.

ceinture de chasteté, Nori Doi, 1968

« Revenons à nos moutons » sur le thème de l’amour et de la serrure. Pourquoi parle-t-on de la ceinture de chasteté dans ce numéro de Toxic Girls Review consacré spécialement à l’amour ? Ma réponse à cette question touche en effet à une intuition hypothétique sur l’amour qui pourrait s’exercer largement aussi bien en Orient qu’en Occident.

« La sexualité de l’être humain, ainsi que l’être humain lui-même, désirent être contrôlés par quelque chose comme une serrure et une clé. »

À Paris, quand vous passez sur le Pont des Arts sur la Seine, vous trouverez des milliers de cadenas accrochés sur ses rampes d’appui.  Si vous visitez Paris avec votre amoureux, qui que vous soyez (touristes ou parisiens), vous n’avez qu’à réaliser une seule chose : acheter un cadenas appelé « cadenas d’amour », l’accrocher sur la rampe d’appui, bien fermer la serrure, et ensuite, jeter la clé dans la Seine. Ainsi par ce geste, la seule clé qui permet de briser ce sceau DISPARAÎT de ce monde. Le cadenas restera éternellement fermé comme une trace du vœu d’amour et il existera toujours à Paris sur la Seine… Quelle belle histoire ! Certes, historiquement, la clé est employée en tant que symbole du vœu des amoureux dans de multiples situations romantiques. Cependant, le nœud de la relation amoureuse chez l’être humain se situe dans les règles du jeu : fermer la serrure réciproquement au sexe hors du couple. Ce que les visiteurs souriants en couple sur le Pont des Arts font en plein bonheur est équivalent à la fameuse cérémonie effrayante de privatiser la liberté sexuelle et de contrôler son sexe : la fermeture de la serrure de la ceinture de chasteté. L’espèce humaine ne peut avoir l’esprit paisible qu’avec ce vœu permanent, comme fermer le cadenas et ensuite jeter la clé.

Pont des Arts, Paris, photo by Miki OKUBO, 2010

Malheureusement, ou bien il faut plutôt dire « heureusement », personne ne croit sincèrement à l’éternité de ce cadenas, ainsi qu’à ce vœu. En 2010, il y a eu des nettoyages complets des rampes d’appui de ce pont pour le respect du paysage. Il semble que ce nettoyage a été effectué par la mairie de la ville de Paris. Les milliers de cadenas représentant des milliers vœux d’amour ont tous disparu en une nuit. D’autre part, il doit y avoir des gens qui viennent mettre un deuxième (ou un troisième) cadenas avec un autre amoureux. Evidemment, le sexe de ces couples , en réalité, n’est pas emprisonné comme avec la ceinture de chasteté. Ils restent donc physiquement toujours libres d’avoir une relation sexuelle et de se masturber. Il existe aussi la modalité d’amour « platonique » sans rapport sexuel. Lorsque l’on enarrive là, nous trouvons qu’il est difficile de définir clairement ce qu’est la signification du geste « fermer le cadenas pour protéger l’amour ».
Cependant, les rampes d’appui du Pont des Arts accumulent continuellement des cadenas d’amour. Les gens n’arrêteront pas d’y mettre leurs cadenas. C’est la même logique qui fait que, nous, êtres humains, n’abandonnerons jamais de nous engager pour le futur, et continuerons à croire à nos vœux d’amour réciproque.
En effet, « croire à l’amour » et « fermer la serrure de chacun » ne sont pas si nuls puisque c’est cela que nous désirons et ce pourquoi nous pouvons continuer à vivre. Autrement dit, cela peut être le seul moteur de la vie.
Même si ce vœu est très fragile et ambigu, l’énergie potentielle produite par l’amour est intense. Un petit truc dont nous avons besoin pour continuer à vivre, me semble-t-il, se cache tranquillement dans ces efforts quotidiens et dérisoires.

Miki OKUBO
(grand remerciement pour L.T. pour cette version française)

(日本語のエッセイは、『有毒女子通信』第10号 特集「ところで、愛はあるのか?」でお読みください。次回もお楽しみに!)

10/7/12

追記:添い寝/Soine論 少女達のぬくもりを、さがすなかれ。

追記:添い寝/Soine論 少女達のぬくもりを、さがすなかれ。

数日前、ソイネ屋という新たなニッポンの癒し産業についてテクスト(salon de mimi, soine)を書いた。「不穏に感じた」このサービスのまわりをウロウロする幽霊のような存在について、私自身が幽霊のようにしか言及できなかったことを残念に思ったし、そのことに関連して、いただいた感想のいくつかとコミュニケートしてみたいと感じた。私がここに、まだしつこく添い寝考を綴っているのは、そういうなりゆきである。

数日前に当ブログに掲載した添い寝論「添い寝 / soineがなぜ気になるのか」は、次のように締めくくられている。

我々は、あたたかく、やわらかく、いごこちがよく、おだやかで、へいわなものに向かって歩いているようだ。そこにむかう視野が極端に不明瞭であったとしても。

このことについて、ひとつ大切なことを付け加えたい。それは、「おだやかで、へいわな」添い寝は、何がどのように転ぼうと、明日目が覚めたら白亜紀の恐竜達が地球上に蘇っていようとも、そこにセックスの匂いはないということだ。添い寝サービスはとても不穏であるのだが、それは歪んだ欲望のかたちや本来ならば精神衛生上不自然な人と人との距離の均衡をつくりあげるからであって、それが「添い寝」という仮面を被った遊郭@秋葉原であるからでは、けっしてないのだ。

もう一度確認のために暗誦してみよう。
へいわなニッポンの癒しサービスである「添い寝」に、性の匂いを嗅ごうとするのは間違いである。今後まんがいち、このようなサービスをめぐって現実に性的な危機が立ちのぼってきたとしても、それは「添い寝」のほんとうの意味にとって、所詮文字揺れのようなものでしかない。

ニッポンの癒しである「添い寝」のお供は、ホイップクリームとイチゴやベリーがたくさん入った甘くてキレイなクレープみたいなものであり、あるいは、早く食べなきゃ溶けてしまうけれどスプンを入れるのが可哀想なほど素敵に盛りつけられたパフェのようなものである。添い寝にカクテルは必要ないし、ウイスキーの水割りを作る必要もない。私たちは甘いおやつでおなかを満たすのは自由だが、しらふでなければならない。

それから、彼女達が隣にいるからといって、あなたは「可愛い女の子がよこで寝ていて、緊張して眠れない」などと気の効いたセリフを言ってあげる義務もない。あなたは全力で眠ってよく、ワクワクするのもソワソワするのもあなたの自由であるが、その先には何もない。何もないというのは、その期待や欲望にたいして何らかの「行き止り」があるのではなく、文字通り「空虚」なのであるから、あなたの思いがどこかに跳ね返って戻ってきたり、あなた自身がどこかに衝突してしまうこともない。あるのは、ただ、「眠るあなたが独りぼっちではない」という事実だけである。誰かがそこにおり、あなたが眠ることができ、その瞬間あなたは物理的にその空間において独りぼっちではない。求めることができるのは、このことである。

彼女のぬくもりをさがすなかれ。あなたがそこで出会うのは、あなたが世界で一人にならないために、あなたの隣に静かに寄り添う「オンナノコ」なのである。彼女らにぬくもりはなく、その身体の触覚の深いところにある何かを求めても、あなたはもうどこにも行けない。

「少女達のぬくもりを、さがすなかれ。」それはあなたがいつかとても混乱してしまわないための、ひとつの魔法の呪文のようなものなのである。

10/5/12

Sophie Calle / ソフィカル:見えることと見えないことをめぐる3つの対話 1986〜2011年

ソフィカル:見えることと見えないことをめぐる3つの対話 1986年〜2011

『盲目の人々/ Les Aveugles(1986)

『最後のイメージ/La Dernière Image(2010)

『海を見る/ Voir la mer(2011)

 この短いテクストにおいて、ソフィカルが80年代以降引き続き取り組んできた、「見えること」と「見えないこと」にかかわる問題提起と、彼女なりの現時点での結論をあえて言語化してみることにより、美のイメージと人々のコミュニケーションの主題について考えてみたい。
ソフィカル(1953年生、パリ)は、1981年に写真とテクストで構成された『眠る人々/Les Dormeurs』(制作は1979年)を発表し、アーティストとしての活動を始める。物議を醸し出したストーカー行為の『尾行/À Suivre』(1978−)や、自身の想い出や物語を写真とテクストで綴った『本当の話/Des Histoires vraies』が国際的に評価を受ける。2008年の第52回ヴェネツィアビエンナーレでは、フランス代表のアーティストとして選出され、ダニエル•ビュランのキュレーション協力を得て、年齢も国籍も職業もさまざまである107名の女性達にカル自身が過去に交際男性から受け取った別れの手紙を朗読してもらうというプロジェクト『Prenez soin de vous』を発表した。現代では、フランスのみならず世界的のコンセプチュアルアーティストのうち、もっとも重要な作家の一人になっている。

30年間に及ぶ様々な表現行為のコンセプトから垣間見られるソフィカルのアート表現の特徴を確認しておこう。
1980年代前後から、自分のベッドに友人や知人を招待して眠っているところを撮影し(『眠る人々』)、街で見知らぬ人々を尾行して写真を撮影するという一風変わったコンセプチュアルな作品を作る(『尾行』や『ヴェネツイア行進曲/Suite Vénitienne』(1980))。彼女の制作のテーマは、しばしば偉大なアーティスト達がするような、人間の生死や人類全体の記憶という普遍的テーマに正面きって訴えようとする取り組みとは、きっぱりと対照的なアプローチをとる。きわめて個人的で親密な主題の選択。アーティスト自身の身の上話や想い出、見も知らぬ他人のとりとめのない語り、感傷に満ちた家族との想い出、恋人とのストーリー。それらは多くの場合、彼女自身による写真とテクスト、そしてその記憶を証明するオブジェとの組み合わせで展示される。ソフィカルアートにおける鑑賞者の態度の一つの典型は、アーティストの個人体験を追体験することだ。

本当のことと本当ではないことが混ぜこぜになっている事実を「どうでもよいこと」として受け止めるのが、ソフィカルアートに楽しく対峙するための第一歩でもある。どこまでが本当で、どこからがフィクションか思い悩む事は無意味だ。そもそも、彼女の作品の中で提示される写真の大半が後撮り(つまり、記憶からの再発見もしくは再構成)である。物語の真実性を裏付ける目的で挿入されるべき数々の写真はつまり、「証拠写真」でありながら、同時に、あからさまな噓であるのだ。彼女のコンセプトを作品として表現するプロセスにおいて、各々の物語やナラティブの真偽は本質的にどうでもよい。カメラのレンズを通して写真に収められたイメージが「リアル」でありえないのと同様に、ひとびとが思い出し語る物語というものは、いわゆる「たったひとつの真実」とは似ても似つかないものだからだ。

ソフィカル本人の経験を、追体験する事、これはソフィカルアートの一つの典型的方法であったのだが、『盲目の人々/Les Aveugles』(1986)のコンセプトとその実践は、この典型的方法をまったく逆の方向にたどるための試みであると言う事が出来る。盲目の人々の「ことば」によって再構築されたイメージ、これが彼女の唯一の創作であるわけだが、これを得るためのプロセスは、盲目の人々の想像力に基づく「ことば」を、カル自身が追体験しようとすることに依存しているのだから。

さて、『盲目の人々』(豊田市美術館展示2012年salon de mimi みえるもの/みえないもの)はスキャンダラスな作品であった。この作品ではソフィカルが生まれつき盲目の人々に「美のイメージ」を尋ねる。その答えをもとにソフィカル自身がそのイメージを再構成する。イメージというのは、なるほど目で見るものである。好ましい、気持ちがいい、愛するといった感情や感覚のために視覚は要求されない。触りごこちのよいものが美しいものであるということも出来よう。しかし、「美のイメージ」といったとき、それは視覚的な像であり、一枚の絵画や写真のようなものなのだろう。インタビューから得られた盲目の人々の答えから出発し、一枚のイメージを再構築するという行為は、なるほど、アーティストと彼らの想像力を重ね合わせるという点で、素敵な協働作品であると言えないことはない。

ソフィカル作品において、したがって、盲目の人々との対話、あるいは見えることと見えないことをめぐる問題提起は多岐にわたるようにみえるアーティストの表現コンセプトの中でももっとも長い期間取り組まれているテーマの一つである。というのも、盲目の人々との対話は、今をさかのぼる26年前、1986年カルが27歳のときのインタビューに始まる。上述した、盲目の人々が語る美のイメージをヴィジュアル化するといういわば協働作品だ。

2010年にはイスタンブールで13人の、かつて見えていたけれども今は見えない人々に出会う。(『La Dernière Image』,2010)彼らが最後に見たものは何か、という質問を投げかけ、その証言に基づいて、彼らの最後のイメージをヴィジュアル化する。彼らの答えは、しばしば強いエモーションやショックを我々に共感させるものだ。目の手術の医療ミスで見えなくなった人は、手術直前に見た医者の白衣を脳裏に焼き付けており、事故で見えなくなった人は物体が顔面に向かって飛んでくるまで見えていた緑色の風景を鮮明に語る。少しずつ見えなくなった人は、かつてぼんやりと見えていた家のソファや家具の様子を思い出すが、「私には、最後のイメージはありません」とはっきりと述べる。ここでもまた、カルは、彼らの最後のイメージを追体験しヴィジュアル化することを目指し続ける。

La dernière image, Aveugle au divan, 2010

La dernière image, Blind with minibus, 2010

2011年に舞台となったのは同じくイスタンブールの地で、人生の中で一度も海を目にした事のない人々に初めての海を見せるというプロジェクト『Voir la mer』を実現する。トルコの内陸からやってきた、これまで一度も海を見たことのない人々14人が海辺でその風と波の音に包まれたのち、自らのタイミングでこちらを振り返る、という数分間の短いヴィデオ作品14本である。最も長く見ていた人は4分、短い人は1分半ほど、噛み締めるように波の音と風と匂い、そして空と海の色で構成される環境としての「海」に包まれ、それを知り、振り返るときの表情をヴィデオは鮮明に捉える。

いったい彼らが目にしたのは、どんな海だろう。実は、かつて目にしたことがなく初めて海に臨む14人それぞれの見る海は、カル自身が見る海と同一ではない。我々は時間と空間を共有してもなお、同じ視野を持つことがなく、そこにはつねに齟齬がある。この事実はつまり、ディスコミュニケーションが「見えること」と「見えないこと」の間に横たわっているという言説を根本的に打ち消す。見える我々自身が見ていると信じる対象はそれぞれの視覚によって捉えられた主観的なものであり、本質的な意味でのディスコミュニケーションが内在するのはまさにこの段階においてである。我々は誰ひとりとして誰かと同じイメージを「見る」ことが出来ない、という人間の根本的な謎のようなものに接近する。

voir la mer, Jeune fille en rouge, 2011

voir la mer, Jeune fille en rouge, 2011

「私が美しいと思うもの、それは海です。視野の果てまで(視覚を失うまで)広がる海です。広がる海です。」
ひとりの盲目の男性のこのような言葉にインスパイアされて始まったカルのプロジェクトは、
「美しいもの、私はそれを断念しました。わたしは美を必要としないし、頭の中でイメージを必要ともしません。自分が美を鑑賞できないので、私はいつもそれを避けてきました。」
という美のイメージを拒絶した男性の言葉を手がかりに、表層を遠ざかることに成功する。最後のイメージを尋ねるその意味は、見えることと見えないことの境界をカルなりに探ろうとした実践でもあった。そして、最終的に、一枚のイメージ(海)の前に、見えていたカルと見えていなかった人々を並べ、そのイメージの共有を試みる事に行き着く。しかしながら、明らかになったのは、我々が一枚の美のイメージの前に、美の存在を共有できるという幸せな幸福ではなく、我々は誰ひとりとして、海という大きな存在を前にしてすら美のイメージを共有する事はないという、皮肉に満ちた本質的な結論であった。我々の認識は、我々自身もよくわからない内部を通り抜け、たとえそこに絶対的に在ると信じられる母なる海を前にしてすら、だれかと分かち合うことはできない。
そのことは、寂しいことでも辛いことでもなく、ごく当たり前であるが故に、とても平和なことである。カルの一連の歩みを追体験する鑑賞経験においてもまた、我々は、それが変奏的追体験のだと納得した上でなお、なにかを感じる。それは、心の深い部分がかすかに「共振」するのを感じるような、繊細な感触なのだ。

*Sophie Calle « Pour la dernière et pour la première fois »
本テクストで取り上げた、二つの作品『最後のイメージ/La Dernière Image(2010)、『海を見る/ Voir la mer(2011)は、現在、Galerie Perrotin201298日〜1027日にかけて開催中の展覧会においてご覧になれます。

Galerie Perrotin: 76 rue de turenne 75003 Paris
 / www.perrotin.com

Galerie Perrotin, Sophie Calle « Pour la dernière et pour la première fois », 2012

10/4/12

添い寝/Soine がなぜ気になるのか

image from http://soineya.net/

そうか、「添い寝」もサービスになったのか。Facebook上で東京のイベント情報をアナウンスするアカウントから発されたリンクが偶然目に飛び込んできて、ふとそう思った。秋葉原という立地、この周縁の文化的なものが築き上げてきたムードを思えば、目新しさも驚きもない、一見すると、既に存在する数々の日本的サービスのヴァリエーションのひとつに過ぎないと見なし、素通りすることもできた。これまでも、日本の風俗産業はおそらく世界のそれよりもクライアントの熱い要望に応えて「癒し」を重視するかたちで、今日まで試行錯誤を続けてきた。ラブホテルひとつとったって、利用者が主たる利用目的以外の部分でも様々な行き届いたサービスが受けられるように細かな気遣いがなされているし、いわゆる売春に関わらない飲食業(そもそも売春は禁止ですから)、たとえばメイドカフェのような空間でも「癒し」がなんたるか不明確なままに、キャッチコピー、およびイメージとしての癒しは追求され続けている。

この添い寝サービスにあえて私が注目したのは、これまでの癒し産業、メイドカフェの手を替え品を替えたあの種類とはどことなく異質で不穏な印象をキャッチしてしまったからである。

(ソイネ屋ウェブサイト→ http://soineya.net/

添い寝サービスを提供するソイネ屋では、ウェブサイトに掲載されている情報によると、アダルトな行為は禁止されており、強制した場合は退場願われるらしい。このことは、各々のお昼寝部屋に落ち度なく監視カメラが設置されており、サービスを受けるお客様たちの行動は全て短期的にあるいは長期的に録画保存され、提供サービス以外の出来事が起こる事態を未然に防ぐ準備があることを明らかにする。お客様は添い寝の恩恵を受ける間中、それが「眠ること」に関わるある程度プライベートなシチュエーションであるにもかかわらず、他者から見つめられ、客観的な方法で管理されている。

サービスの内容を詳細に見てみると、そこには、「女の子と見つめ合う」「女の子になでなでしてもらう」といった添い寝と全く関係ない(横にならなくても可能、という意味で)サービス内容、あるいは「女の子に腕枕してあげる」「女の子の膝枕で眠る」などの身体的接触を伴うサービスも含まれている。
料金プランは特別なサービスを受けた場合に加算されるほか、基本的に添い寝の時間によって決定されていて、20分、30分という短いコース(これは、眠るためでなく、添い寝という恩恵を享受するためのプランと見なすべきである)。および2、3時間という、確かに人が眠ることが出来るであろうシエスタ級のプランもある。問題は、記載コースで最長の10時間というプランである(延長は可能だ)。人が普段眠るときですら、睡眠時間は6時間~8時間であるのだし、10時間という時間の長さは、変な言い方だが生物的におそらくは両者にとってある意味苦痛を伴う長さであるとすら思える。つまり、添い寝という目的で「癒し」効果を放つかわいい女の子と規定されたサービス内容に従って過ごすために、10時間は遥かに長過ぎる時間なのだ。

10時間がどんなふうに長すぎるか、少しだけ考えてみよう。

Les dormeurs, Sophie Calle, 1980

私が作品を調べたり分析しているアーティストに、Sophie Calleというフランス人の現代作家がいるのだが(another posts here, aveugles, salon de mimi)、彼女が1979年に行った変なパフォーマンスに『眠る人々(Les Dormeurs)』(publié en 1980)というのがある。この作品の中で、Sophie Calleは自分のアパートに8時間ごとに28人(母、自分を含める)を招待し、自分が毎日眠っているベッドで8時間、眠ってもらい、彼女はその間彼らの寝姿を撮影する。28人の招待者達は、人と決してすれ違わない日本のラブホテルとは違って、交代がしらお互いに顔を見合わせる。そして、彼らが寝ていたぬくもりの残るベッドに入り、8時間を過ごす。シーツを変えたのはたった数回であるらしいから、シーツも枕も共有することになる。
この作品において、Sophie Calleは彼らと添い寝している訳ではない。しかし、彼女はある意味で、添い寝を仕事として雇われる少女達のように他者として眠る人々の横(à côté)に存在し、彼らを見つめている。「見守っている(observe)」といった方がいいかもしれない。彼女は眠る人々と共にベッドに入ることなく、一定の距離を保ってプロジェクトを遂行するが、それでも、知らぬ人々(4人だけが知人で、見知らぬ人もたくさん含んでいた)の寝息を聴き、寝返りを打つ姿を眺めながら、狭い寝室で8時間という時間の長さを共有することは、「眠る」という行為が本質的にもつ親密さゆえに、奇妙な感情を呼び起こす経験であったことを証言している。

このことは、あなたがもし懐に余裕があって、極度の睡魔を抱えていて、秋葉原に立寄り、10時間コースのサービスを受けた後、10時間もあなたのすぐそばですやすやと寝息を立てていたかあるいはあなたを見つめていたとても若い女の子に、「ありがとう、良く眠りました、ばいばーい」っと言わなければならない瞬間を想像すれば、その奇妙さの類いが伝わるであろう。

添い寝それ自体について、私はこのテキストを夜中の2時に書いていてとても眠いので、当ウェブサイトに写真が掲載されているような、可愛らしい女の子が何も言わず添い寝してくれるなんて、なんと魅力的なサービスであろうかと、おおかた好意的な感想を抱いている。多分昼間に書いていたとしても状況はそう変わらず、依然として想像の範疇では、なんだか気持ち良さそうなものに感じてしまうだろう。添い寝を「癒し」の範疇でとらえるとき、それはウェブページに掲げられたキャッチコピーが象徴しているように、誰かがそばにいてくれるだけでいい、という一言に尽きるのである。「好意的な感想」と述べたことについて、もう少し詳しく説明しよう。

「添い寝」は、人が眠るためには必ずしも必要のないものである。そもそも人は、慣れ不慣れの問題を除けば本質的に、たった一人で立派に熟睡し「眠り」を全うすることが出来る。誰かと眠るということは、それが恋人や家族であれば、日々の繰り返しの中で、お互いのぬくもりと続く呼吸を聞きながら眠ることが一つの当たり前の「習慣」となるのである。したがって、このときはじめて、眠る行為は自分一人のものではなくなり、誰かと触れ合いながら、誰かの存在をすぐ近くに感じながら、あたかもそのことによって安心感を得るから眠ることが出来る、というふうに自分の境界線を越えて行く。

では、人間にとって、一人で眠ることと誰かと眠ることは、いったいどちらが「癒し」なのか。
身も蓋もない言い方だが、一日中獲物を探して走り回ったけれど餌にあり付けなくてボロ切れのように疲れきった動物がようやく行き着いた寝床でばたりと眠りこけてしまうように、人間もまた、言葉もでないくらい身体的にも精神的にも疲弊している時、重要なことは眠ることそのものであり、その疲れを気遣う誰かによって癒されることではない。
いっぽう、その疲れというのが »exhausted »まで到達していないその時、人は添い寝のような癒しをまっとうに享受するキャパシティがあるし、その恩恵を被りたいという希望を持つ。「添い寝」を人が欲する時、それは、ほんの少しであれ精神的肉体的エネルギーに余裕があり、自己と異なる個体であるはずの他者をすぐそばにおいて(se coucher à côté)、眠りを共有したいと思える瞬間である。つまり、添い寝はけっこうオシャレでソフィスティケートされた贅沢な楽しみなのだ。

ただし、人は本質的に一人で眠るという一見動物的なテーズを少しだけ不安にする事例がある。それは、「母の添い寝」である。赤子の時、本人の記憶はないにせよ母はしばしば添い寝をしてやる。赤子はそもそも母の中に生きていたのであり、10ヶ月という期間を母が眠るのを内部で共有し続けてきた。それがある日、突如別の一個体として世界に放り出されたからといって、その後もしばらく彼らが共に眠り続けることは少しも不自然ではないように思われる。添い寝が癒しであり、人は誰かと眠ることにより安心するのだとすれば、我々がその昔母の中におり、生まれてきた後にすらしばしば引きずられた「母の添い寝」によって、我々のソイネ屋利用願望が掻立てられてしまっていると主張しても怒られはしないのだろう。

添い寝に我々が惹かれるのは、ひとえに、その非暴力性と平和なイメージに拠る。添い寝をしてくれるのは、無力で無害な、ただひたすらに可愛らしい少女でなければならない。そこに性的に誘惑するグラマラスな女が介入すべきではない。それはまた異なる次元のおはなしである。
我々は、あたたかく、やわらかく、いごこちがよく、おだやかで、へいわなものに向かって歩いているようだ。そこにむかう視野が極端に不明瞭であったとしても。

09/21/12

Ré- White Drama / 白ドレスに犯される少女たちは幸福か?

Ré-White Drama
白ドレスに犯される少女たちは幸福か?

Comme des Garçons コレクションについての展評を昨日当ブログにアップした。その後、コレクションのうちの一着(写真上)、クリノリンを肩から足首まですっぽりとかぶり、名和晃平のヘッドドレスは奇怪なモンスターのように目元をのぞいて少女の頭部を覆っているこのドレスに関して、ある人から、「ここまでくると、もはや拷問かも」といった感想をいただいた。そのことについて、いくつか考えたことがあったので、ここにまとめてみる。

川久保玲の作品では、今回のWhite Dramaに限らず、「少女性」がしばしば重要な鍵をにぎる。リボンやフリルは女の子らしさを象徴するアイテムであり、それが同時に、身体の正面で結ばれることによって、着物においては帯の前結びの隠喩として娼婦を象徴し、少女の両手に結ばれたリボンを自由を奪う縄や手錠と見るならば奴隷的支配を意味する。あるいは、コルセットが女性の胴体を変形するまでに締め付けてきた歴史的事実や、肉体の物理的形状からかけ離れた「型」のクリノリンやパニエという造形用具が彼女らに与えてきた不自由さへの同情は、なるほど、身体をありのままに露出することもゆるされている現代の着衣行為を無条件に肯定する信仰を生み出したのであろう。

いったい女性達は、歴史の中で不幸せだったのだろうか?
ほんとうに?
彼女らがこれらの造形道具を脱ぎ捨てたがっていると言ったのはだれか?

少女の身体を覆うクリノリンをもう一度見てみよう。彼女は肩からストンと円錐状に広がるコートをまとっているようであり、彼女の身体が締め付けられている様子も、彼女の存在が蹂躙されている様子も微塵もない。それどころか、緩やかに彼女の身体にまとわりつくクリノリンの下には、柔らかな生地をたっぷり使った暖かそうなロングスカートが、彼女の歩調に合わせて揺れている。白いブーツは安定感があり、彼女の足下のバランスを危うくしたりすることはない。

彼女の顔は、よく見えない。彼女の長く豊かであるか、あるいは短く撫で付けられている髪の毛は、ぐるりと頭部を囲うヘッドドレスによって守られていて、埃っぽい空気にも強すぎる日差しにも晒されていない。我々は、彼女の表情がよくわからない。しかし、彼女には我々がとてもよく見えている。

不自由に見えることと、ほんとうに不自由であることは決して同一ではない。
幸せそうにみえることと、ほんとうに幸せであることも必ずしも一致させられない。

執筆者として参加させていただいている批評誌『有毒女子通信』の次号(第10号「特集:ところで、<愛>はあるのか?」)に、「貞操帯」についてエッセイを書いた。(近日中発行予定なので、何を書いたかはまだ秘密です。ぜひ、お読みください。)その中にもちょこっと紹介した話だが、「貞操帯」は十字軍出征する兵士の妻が、夫不在中の貞節を守るために装着させられるという用途で11世紀のヨーロッパにおいて使用されていたことが歴史的記述として残っているそうだ。

なんてことだ、留守を守る女だけが一方的に性的自由を奪われてしまうなんて。と、憤慨するのは浅はかである。
貞操帯は外部から女性器へ物体が侵入するのを妨げる。貞操帯を装着された女性達は、性的に去勢されており、レイプの対象になることができない。戦時の混乱の中で、女性が犠牲になるということは、ただ単に生命を奪われるという危険に加え、性的な暴力によって犯される可能性を抱えこむことでもある。「貞操帯」が外からやってくる暴力を無に帰す役割を果たすのであれば、これは、女を救い、生きさせる装置であると言うべきである。性の対象になることができないという状況は、ときどき、女の平和を意味しさえする。

ヘッドドレスが口元までを覆っていること、そのヘッドドレスは少女の頭部から外れないということ、このこともまた、少女を救うために神様の愛の表れである。本能的あるいは自発的発生の外にあるフェラチオやイマラチオの強制、これらの行為の残酷さは、人間が人間にできうる幾つもの悪行の中でも最も酷い振る舞いであるからだ。

さあもういちど、少女について、尋ねよう。
少女が自由になりたいと、誰がその声を聞いたのか。
少女がこの服を脱ぎすてることを欲していると、なぜそう思うのか?

少女を、この頑で執拗な、それゆえに暖かく平穏なシェルターから引き摺りだし、裸にしてしまおうとするのは、とても明瞭であるけれども同時に冷酷なアイディアであるということを心から伝えたい。

貝は、貝の中に生きているのであって、殆どの貝は一生その殻を脱がない。
そういえば、宿借が宿を代えるとき、彼らは怯え、命をかけている。

「かおなし」的フォルムのドレスを私が素晴らしいと思ったのは、すっぽりと包まれることによって、指先ほどしか見られることがなく、上手に歩くことができなくて、おそらくは自分自身で脱ぎ捨てることのできそうにない白ドレスが、その柔らかそうなレース編みや素材がとても温かくて心地よいものではないかと、感じられたためであろう。あの展覧会場で、あの白ドレスを目の当たりにイメージしたのは、たしかにそのようなぬくもりであった。

彼女らはそう、白ドレスに犯されてその内部に沈黙する。
少女たちが幸福か?
その声に耳を澄ますだけでいい。

08/29/12

Louisiana Museum of Modern Art @Humlebaek, Denmark

世界で最も美しい環境に佇む美術館と言われている、ルイジアナ美術館/Louisiana Museumを訪れた。ルイジアナ美術館は、デンマークの首都コペンハーゲンから国鉄ローカル線でHelsingør行きに乗り、約35分、Humlebæk駅で下車し、そこからデンマーク情緒溢れる田舎道を10分強歩く。駅からの道はいたって簡単、案内板が丁寧に出ているし、だいたい皆目的地が同じであるので、迷うことは無い。海と緑に囲まれて、空気がひやり澄んだ北欧の地に静かに建っている。

頑張って10分間歩いたら、向こう側にはすぐにスウェーデンが見えるという海岸沿いでかつ小高い丘で緑が鮮やかな一画に佇むルイジアナ美術館に到着する。
ルイジアナ美術館は近現代アートの美術館で、3000点以上のコレクションを所有する、スカンジナビア諸国最大級の美術館である。1945年頃のピカソの絵画を初め、ジャコメッティ、デュビュッフェ、ルイーズ•ブルジョワ、バゼリッツ、イヴ•クラインといったヨーロッパのアーティストの作品から、アンディー•ウォーホル、ラウシェンベルグのようなアメリカの絵画までを網羅している。年間4回〜6回ほどの企画展を開催し、北欧の地元アーティストやスカンジナビアならであの展覧会や、一挙にはとても並べきれない豊かなコレクションの中から、様々な表現形態を横断するようなコンセプトで鑑賞者に芸術における表現様式の問題について問いかけるような展覧会を行っている。

Lundgaard & Tranberg Arkitekter, Installation shot, a pavillon

コペンハーゲンから35分、駅から10分以上歩かなければならないという立地は、日本であるとヨーロッパであろうと、不便とは言わないまでも、交通の便がよいとは言えない。にもかかわらず、日々こんなにもたくさんのヴィジターを世界中から招き入れ、魅了し続けている美術館は世界に例を見ないのではないだろうか。ルイジアナ美術館が産声を上げたのは1958年、いまから半世紀以上も前のことだ。当初、美術館はデンマークアーティストの作品をコレクションし展示することを目的として開館された。しかし、後にニューヨークで大成功を収めたMOMAにインスピレーションを受けて、国際的な美術館へと方針転向したということだ。ルイジアナ美術館の名前は、1855年に現在の美術館のもとになるお屋敷が建てられた時の家主Alexander Brunが彼の生涯のおいて結婚した3人の女性がすべて「ルイーズ/Louise」といったことから名付けられたそうだ。(なんと!)

Alexander Brun邸が原型となっているmuseum house

皆さんは北海道は札幌の南にある、「札幌芸術の森」という施設をご存知だろうか。個人的な話だが、私は札幌出身なので、こういった自然とアートの融合というコンセプトを聞くと、自ずとこちらの野外美術館の森に囲まれた風景などを思い浮かべる。(札幌芸術の森野外美術館)あるいは、以前訪れた霧島アートの森(霧島アートの森HP)のイメージも近いかもしれない。どちらも豊かな自然に囲まれた野外スペースを彫刻や大きな作品に当てて、四季の営みや時間の流れを肌に感じるような異空間を作り上げている。とはいえ、ルイジアナ美術館が見事なのは、何と言っても海があることだ。スウェーデンを間近に臨む海岸線は空の青と混ざるようだが、よく目を凝らすとくっきりと独立しており、良く手入れされた芝生に腰を下ろし、それを眺めることには飽きがこない。

café, belle vue de la colline

アメリカ人人アーティスト、カルダー/Alexander Calderの例の彫刻がカフェの向かいに。カルダー/Calder(1989-1976)は、若い頃機械工学を学び、エンジニアとして働いたがパリに移り住んでからは、針金彫刻を作ったり、サーカスのパフォーマンスを行うなどして表現活動を始めた。動く彫刻、モビールというアイディアはそれまで動かないのが当たり前であった彫刻にまったく新たな可能性を付与した点で高く評価された。丘の上で森と海からの風を独り占めするルイジアナ美術館のモビールもまた、世界中に佇むモビールと同様にして、それ固有の時間を生きている。

vue face à la mer

Henry Mooreの彫刻。ヘンリー•ムーア/Henry Spencer Moore(1989-1986)は、イギリスの彫刻家である。モダニズム美術をイギリスに紹介し、「横たわる像」のような特徴あるフォルムの彫刻を多数制作した。Reclining Figure(横たわる像)のフォルムを追求することを通じて、既存のFormから自由になり、そして新しいFromを手に入れることを目指していた。多作であった彼の作品は日本でもたくさんの美術館のみならず、なんと、パブリックスペースにおいても出会うことが出来る。

Sculpture, Henry Moore

アーウィン•ワーム/Erwin Wurm(1954-)は、オーストリアの彫刻家。インパクト絶大の滑稽な彫刻を発表し続ける。実はウィーン•クンストアカデミー絵画科への入学を拒否され、彫刻に転向したというキャリアを持っている。後に両親の死に大きなショックを受け、1996年からは精力的に「一分間彫刻」と呼ばれるユーモア溢れるパフォーマンス(と呼ぶべきだろうか)をドローイングして展覧会場で展示するというアプローチをとった。一分間どんなことをするかというと、2つのメロンの上にバランスよく立ち続ける、とか、鼻の穴にキノコを入れてそれを一分間保つ、とか、敷き詰めたテニスボールの上に横になってバランスをとる、とかそういった行為である。写真は、ルノー社と1960年代からコラボレーションした後に実現した、斜めにプレスされたR25。これは、実際に走ることが出来る。

Renault 25/1991, Blue, 2009-2010, Erwin Wurm

ロニ•ホルン/Roni Horn(1955-)、アメリカ人女性アーティストである。30枚のポートレート写真に収められているのは、年齢も性別も職業も様々な人々、しかしよく見ると非常に良く似た眼差しをもっている人々。30人の人々は言うまでもなく、変装したロニ•ホルン彼女自身だ。

a.k.a., 2008-2009, Roni Horn

2008-2009年の作品だが、ポートレートの時代設定は古そうだ。ロニ•ホルンは彫刻、写真を経て、現在はヴィジュアルアートも手がけている。変装ポートレートと言えば、シンディー•シャーマンや森村泰昌が著名中の著名であるが、彼らとさほど年齢の変わらないロニ•ホルンが現代あえてこのクラシカルな主題を引き出してきた背景には、情報化時代のアイデンティティのあり方への興味が深く関わっている。インターネットである人の名前を入力し、画像検索すると、実にたくさんの写真の集合を目にすることが出来る。同姓同名の全くの他人もいるし、色々な折にどこかのサイトに掲載された自分自身の写真であることもある。ロニ•ホルンは、このような時代にひとりの人間をその人と認識し、同定するのはいったい何を意味するのか、という問題について思索する。

Roni Horn

 

ソフィ•カル/Sophie Calle(1953-)はフランス生まれの女性アーティスト、現実とフィクションを織り交ぜたような、日記のようなドキュメンタリーのような作品を作ることで知られている。日本を旅したせいで愛する人に振られてしまった、という悲劇的な幕開けから、出会った人々に彼ら自身の人生における最も辛かった経験を語ってもらうことによって失恋の傷が癒えていく課程を写真と短い日記で記録した「限局性激痛/Douleur Exquise」(1997)は東京の原美術館で2000年に行われた展覧会において注目を集めたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。

Kampfgruppendenkmal, 1996, Sophie Calle

今回展示されていたのは、1996年に彼女が発表した一連の写真と本の断片。「そこにあったモノ/ヒトの記憶」は彼女の表現に貫かれているテーマである。かつての東ドイツに存在していた– 今は消滅したものたちーの記憶。モノがなくなった後には、その跡が残っている。その跡が残っていないように見える場合にすら、それについて書かれたテクストが何かを語り続けるということがある。壁に吊るされた「不在のイメージ」は、それらがどれだけ時間が経って、一見歴史から洗い流されたように見えようとも事実は事実として残り続けるのだ、ということを静かに語る。

Square Bisected by Curve, 2008, Dan Graham

さて、ダン•グラハム/Dan Graham(1942-)のパビリオン、ガラスの壁とそれによって分けられた空間だ。ダン•グラハムは1960年代ニューヨークでドナルドジャッドやソルウィットらの影響を受けてミニマリズムに傾倒していた。後に、写真、ビデオ作品、そしてパフォーマンスを経て、建築ーとりわけ空間の「虚無/nothingness」について考えるような彫刻を作っている。ギャラリーのホワイトキューブではなく、庭という要素の多い空間に置かれたこのガラスの壁は、全く異なる印象を与える。

Temporary Exhibition « NEW NORDIC – Architecture & Identity »

Temporary Exhibitionの »NEW NORDIC »の展示の様子。ルイジアナ美術館では、コレクション展の他に年間に幾つかのこのような特別企画展示を行っている。

Alberto Giacometti collection

そして、ジャコメッティのお部屋。もはや、ジャコメッティをこんなに持ってるんですか、なんて野暮な感嘆をする気にはならない。そうこうしているうちに、日は暮れて、絶対に行きたかった美術館カフェは閉まってしまった。なんてことだろう。
22時半頃の、Humlebaek駅の様子。電車は20分に1本はあった。コペンハーゲンからの往復については、さすがに美術館訪問者のことを考慮しているのだろう。

Humlebæk Station

今回主に紹介させていただいたのは、3000点あると言われているルイジアナ美術館のコレクションに2009−2011年の間新しくアキジッションされた150作品56人のアーティスト作品展示風景からの一部だ。ルイジアナ美術館はスカンジナビア一の近現代アート美術館として、コレクションは美術館のDNA鎖である、という信念のもと新しい作品の購入、新しいアーティストとの出会いに熱心である。インドのグプタや中国のアイウェイウェイ、日本の草間彌生といった欧米のみならずアジアの芸術家も視野に入れている一方で、ここでしか見られない充実したコレクションとして、地元であるHumlebaek、デンマークおよびスカンジナビア諸国のアーティストたちの貴重な作品群をとっても大切にしているということも忘れてはならないだろう。そうでなければ、ヴィジターをはるばる電車に乗せて、海と丘のある素晴らしい場所に彼らを招待する意味は半減してしまうに違いない。

07/16/12

Exposition « Joue le jeu » @Gaîté Lyrique, Paris

ゲームの展覧会がアートの領域で市民権を得るのが難しいなんて議論は、もはや時代遅れですらある。ゲームやメディア・アートを芸術の中にどう位置づけるか、それが従来のアートカテゴリーに対してどのような存在であるか、難しい議論を繰り広げているうちに、アーティスティックなゲームは多くの人の目に触れ、経験され、いずれは当たり前のものになってゆく。そう、こういったものは、人がどうにかして収まるべき場所を与えるというよりもむしろ、現象として蔓延し、浸透するなかでむしろ我々が中に取り巻かれていくというふうに、肩の力を抜いて受け止めたほうが楽ちんだ。

ゲームは、任天堂などの大手の世界的活躍や携帯ゲームの目を見張る発展の具体例をあげるまでもなく、日本が世界の注目を集めながら今日まで飛躍的にヴァリエーションを作りあげてきた分野である。日本でゲームがアートとして認められようと、そうでなかろうと、世界が各国のゲーム史のなかで、日本の果たした重要な仕事を最大限にリスペクトしながら受け止めていることは事実として間違いないのである。その日本で、学術的視点を豊かに備えた大規模な「ゲームの展覧会」が未だ実現されてこなかったことは、ある意味、奇妙なことであるようにすら感じられる。

パリでは昨年(2011年)11月から、グランパレで開かれたGame Story( site here )という、どちらかというと歴史的・回顧展的な大規模な展覧会が2ヶ月に渡って開催され、5.7万人の鑑賞者を集めた。(はっきりいって、この入場者数は、たとえばParis Game Weeksが5日間で18万人、ジャパン・エクスポが4日間で20万人を動員することを鑑みれば勿論微妙な数字ではある。) TVゲームの始まりの、非常にプリミティブなゲームカセットがその場で遊べるようになっており、歴代のゲーム機やコントローラの展示、ゲームボーイやもっと簡単なポータブルゲーム機がコレクションされていた。あるいはたまごっちのような変わり種、戦士モノやポケモンのフィギュアもちゃっかり展示され、そこは自分の子供時代過ごしたゲーム環境がくまなく復元されているかのような空間であった。ふと我に返ってみると、化石のような古めかしいルールに難色を示す現代の子供たちを尻目に、夢中になっているのはもちろん懐かしいオブジェに数十年ぶりに対面した大人たちの方だ。(blog de mimi)

 

game, street fighter 2で遊ぶ少年とわたし。

この展覧会は全体として、歴史、思い出、ノスタルジーを大人のヴィジターが共有し、子供たちがその隙間を走り回りながら、設置されたゲーム機で遊びまくるような展覧会であった。

 

さて、今回2012年6月21日~8月12日、パリのGaîté Lyriqueで開催される展覧会”Joue le jeu »はどうだろう。Gaîté Lyriqueはパリの中心、Arts des métiersの近くにある非常に新しいメディア・アートのための展示空間。現代アートのポンピドゥー・センターからも歩いていけるくらいよい場所に、昔のテアートルを改装する形で昨年オープンした。petite salleやgrande salleといった独立した展示室・イヴェントルームの他、図書館やオープンゲームスペースでは会館中常にゲーム機が開放されており、そこで遊ぶこともできる、まだまだ若くて注目の施設である。


7月には子供たちが夏休みに入ってしまうフランスなので、この展覧会はもちろん、子供の夏休みアトラクションを念頭に構成されている。展覧会のサブタイトルはParcours(小旅行)、スタンプラリー的な4つのアトラクションが用意されており、子供たちはそこで、Gaîté Lyriqueという擬人化された巨大な構造物と電話をしたり、音楽を奏でたり、見つめたり、触れたりする。子供たちのパフォーマンスがどれくらいGaîté Lyriqueをわくわくさせることができたかによって、ポイントが与えられ、次のステージに進んでいく。展覧会自体を一つのゲームコースに見立てるという発想だ。

parcoursを攻略するために渡されるカード。

上述の、グランパレにおける展覧会が、テレビゲームとディヴァイスの歴史をたどるゲームの回顧展であったとすれば、今回のjoue le jeuはゲームの中でもまだ市場に発表されていないもの、実験的なもの、アーティスティックな色彩が強いもの、あるいは複数の人が参加することの出来るインタラクティブ・インスタレーションとしてのゲームなどにポイントを絞って作品選びがなされたようだ。(blog de mimi:more pictures)

Gaîté Lyriqueに電話してみる?

Parcours一つ目のインタラクティブゲームはGaité Lyriqueに電話をかけ、何か言葉を投げかけるというもの。個人の携帯電話から定められた電話番号に電話する。最近、アートと名乗ったり、名乗らなかったりだが、ソーシャルアプリといってメールアドレスをその場で簡単に登録させたり、smsで画像がゲットできるといって携帯電話番号を登録させたり、Gaîté Lyrique内に来ているというのに、Gaîté Lyriqueに電話をかけろというのは何事か。とは言わず、仕方ないのでかけてみる。

さて一番下の階には、Fred & Companyの光と音のインタラクティブ作品が。光のプロジェクションと音楽が、鑑賞者の足が触れた場所によって反応する。動きの速さや性質によって反応するのではなく、それぞれのプロジェクションの前に敷かれたカーペットが幾つもの正方形に区切られており、それぞれが音楽のリズムと光り方に対応している。未来的なイメージのインタラクティブ楽器を構想したようだ。

Electricity Comes From Other Planets, Fred & Company

繰り返しになるが、今回の展覧会のあるべきところは、展示されたゲームがまだ市場にでていないということ。ゲーム市場に出ることを目前にエンジニアがパブリックオピニオンを得て、改善・修正するために展示しているものや、どちらかと言うと非商業的な実験的インタラクティブ作品として、鑑賞者を歓迎しているゲームもあった。下の写真のゲームは、4人用。4人のキャラクターがそれぞれシステムに認識されると、動物の被り物がとれて、人間になる。この状態でやっとキャラクターを自分の動きとシンクロさせることができるようになる。この4人のキャラクターのうちの一人は、ブロックにつっかかっていて前に動くことができない。4人で力を合わせて一旦後ろに下がり、彼の動きを自由にしてやらなければならない。なるほど、2Dのパズルよりも肉体的で、面白そうではある。この他にも、一人や二人でできるTVゲームも幾つかは並べられており、自由に体験できるようになっている。

Games of Interactivity for 4 persons

一番下の階の、音と光のインスタレーションのすぐ近くに、Petite Salleの入り口がある。ここは、音とプロジェクションのインスタレーションをやるのに最も適した部屋となっており、天井も高く、すべての壁は格子状に区切られているので、ピクセル的にも使用出来るし、全面スクリーンとして利用できるようになっている。パフォーマンスなどもここでしばしば行われてきた。今回は、Opéretteのインスタレーションだ。実は歴史的にGaîté Lyrique、1862年に劇場としてオープンした。沢山のお芝居やオペラがここで上演された。その歴史にインスピレーションを受けたDaily tous les joursとKrista Muirは、この会場内を体験オペレッタ劇場に作り変えてしまった。鑑賞者はもはや鑑賞者ではなく、役者となり、舞台でダンスをし、コスチュームを身につけ、歌い、オペレッタを構成する一員となるのだ。
このインスタレーションでは、アイテムが多く、場所も広いため、10人以上で同時に体験することが可能になっている。(もちろん鑑賞するためには何十人も入ることができる。)

Opérette/ Daily tous les jours

体験する展覧会。展覧会の一つの在り方が変わっていく、その途中に私達はいるのかもしれない。これを見ろと言われるのでもなく、このビデオを3分間じっと鑑賞しろ押し付けられるのでもなく、触らないでくださいと怒られるためのマテリアルもなく、必要なルールを与えられることなく。いや、本当は、ゲームのルールは私達のどうすることもできない根本的な段階で、すでに与えられているのかもしれない。私達が、あたかも自由であるなどと錯覚してしまうほどに。