Hors les murs du Musée Galliera
Exposition de Comme des Garçon
du 13 Avril 2012 au 07 Octobre 2012
34 quai d’Austerlitz
75013 Paris
セーヌ川に浮かぶ、緑色の奇妙な建造物。ここはパリの東南、リヨン駅やベルシー駅そしてオーステルリッツ駅というフランス国鉄主要駅が集まっている、パリの東の玄関的界隈である。さて、このキリギリスの腹部みたいな建築は、JAKOB+MACFARLANEというグループによって設計され、デザインとモードのクリエイティブな活動を盛り上げるために、展覧会スペースを提供したり、アートイヴェントの会場となるほか、Institut française de la Mode/パリ•モード研究所(IFM)の校舎がある。
Dock en Seineは2008年にオープンしたのだが、そういえば2010年の秋に一度、Chic Art Fairというアートの催しの際にアーティストの古市牧子さんと訪れている。その際には、アートフェア会場が完全に屋内に限られていたため、こんなに風通しがよい空間があったことなども知らずじまいだった。ここでは、アートフェアやモード、デザインに関係する展覧会が開かれて、現在とりわけ閉館中(改装工事のため)の世界最大級の服飾美術館であるパリ市立ガリエラ美術館の離れMusée Galliera hors les mursとしての役割を果たしている。
今回訪れたのは、コムデギャルソンの2012年春夏コレクション(ガリエラ美術館所蔵品より)である。バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)の展覧会も同時開催されており、どちらも訪れたのだが、今回、2012年春夏コレクションを一挙に見られるということで、ビニールに反射する光のせいで写真の撮りにくいことは甚だしかったが、プレゼンの仕方もなかなか素敵であったので、こちらの展覧会について紹介したい。
初めて目にしたものを解読したり、楽譜を初見することをフランス語でDéchiffrageというが、ときどき自分が何も知らないということに感謝することができ、それは、何かを読み砕いていくDéchiffrageの楽しみゆえなのだ。コムデギャルソンのデザイナー、川久保玲は新たなコレクションに取りかかる際にはまず、その類希なインスピレーションによって毎シーズンのテーマを紡ぎだしている。テーマあるいはタイトルとしての作品コンセプトは、知ってしまうのがよいこともあればつまらないこともある。幸か不幸か何も知らずに足を踏み入れた今回の展覧会は、今まで見てきた川久保玲作品をヒントにDéchiffrageを楽しむよい機会となった。
Show video here!(youtube)
白のドラマ »White Drama » が、2012年春夏のプレタポルテコレクションに川久保玲が与えたタイトルだ。薄暗いランウェイに現れる、白いドレスを纏ったマヌカンたちは、胸を張ることも、腕を振ることも、大きな歩幅で歩くということも、つまりは、まったく誇らしそうな様子を欠片ほども見せず、とぼとぼ、うつむき加減にすら見える様子で、こちら側に歩いてくる。一つの服は「作品」と呼ばれながらもそれ自身で独り立ちして語られることがおぼつかないアイテムだ。私が展覧会会場で目にした白いドレス達はマヌカンの身体を離れて沈黙しており、このドレスをまとう少女達がいったいどんな足取りでこちらへ向かって歩んでくるのか、何を想いこちらへ視線を投げ掛けているのか、その解釈は鑑賞者が自由な想像力にまかされる。しかし、その勝手な妄想の中で、自身の想像力の脆弱さを常に問い続けなければならないという点で見る者は不安から逃れられない。あるいは、そもそもショーが唯一の答えでないと主張するなら、もっとも気が楽になる。
ひとり目のマヌカンは少女らしいふわりとしたドレス、手元に大きなリボンがアクセントとなっている。しかしよく彼女の歩きを眺めていると、非常に歩きにくそうだ。実はスカートはタイトであり、バランスをとって歩くために十分足が開かないのではないかと思う。そして正面に結ばれた大きなリボン。浴衣や着物の前帯の結び目のようにも、西洋のドレスのリボンにもみえるこの結び目は、少女の両手の自由を奪っている。
あまりに長過ぎてそれを纏うマヌカンの肩から重そうにぶら下がるしっかりとした膝までの袖は、なるほど、振り袖のシルエットを彷彿とさせないこともない。もちろん、振り袖において長いのは、腕の長さ自体でなく袖の袂(たもと)である。いずれにせよ、男性的ジャケットのスタイルでありながら、なぜマヌカン達はなおも不自由を抱え込まなければならないのだろうか。
花飾りは女性性に結びつけられ、それをカッコいいジャケットに添えることによって、たちまち中途半端なものになってしまう。
パニエ型のシリーズが進むにつれて、現代アーティスト名和晃平とのコラボレーションにより実現したヘッドドレスも加速度を増してくる。ヘルメットのように顔面を半分、目の部分以外覆うような造形。このマチエールの質感は、骨折したことのある人なら自分の身体にぴったりと寄り添ったまま何週間も人生を共にしたことがあるだろう、あの忌々しい石膏の感触を思い出させる。この髪彫刻といべきものは、これを被り続けたまま長い間を生き続けていると、いつの日かこの石膏が生き物のように成長して、やがてこの可哀想な少女の身体を顔面をすっぽりと覆ってしまうのではないだろうか。石膏の型のように、いや、生きたまま、ミイラにされてしまうかのように。箱(パニエ)に入れられて、彼女は既に、自由を失っているのだから。
見るからに重そうで、非常に背が高く、ビニル素材でできた奇妙な帽子。一瞬顔のようにも見えて不気味だが、そのエレガンス漂うドレスと、ヘッドドレスのシルエットだけを見ていると、マリーアントワネット時代の超豪華な船飾りの帽子のように見えないことも無いが、内実はそんなにさらりとしていない。これはセクシュアルなオブジェに見えないこともなく造形されているのであり、むしろそのものでしかない。これをセックスドール的オブジェと気がつかないふりをする大人を私は信用しない(!)(つまり、本質的なことはアーティスト本人の意図というよりはむしろ、White Dramaシリーズにおいて白ドレスを纏う少女達が支配されている性的コンテクストを読み下すということなのだ。)
私が最も素晴らしいと思ったのは、『千と千尋の神隠し』の「かおなし」的なフォルムのドレスだ(上)。このドレスは形の無駄の無さが素晴らしい。人は美しいフォルムのなかに自由の不在を見る。美しいと思えることと自由であることは両立しないのだろうか。纏うことの本質に関わる問題のようにも思える。
我々はふだん、好きな服を着て、そのなかでも出来るだけ「着心地の良い」服を選ぶと言ったりする。着心地がいいというのは、サイズが合うことかもしれないし、素材のことかもしれないし、自身の身体的特徴にとりわけうまくいく、と自分が信じられることかもしれないし、周りの人から格好良く見られると定評があるシルエットのことかもしれない。そのことは、いくら自由なつもりでも、「私は何者にも縛られていない」と主張することの不可能性を意味する。似合う服を着なければならないなら、いつも限られたタイプの服を来ているのだろう。素材の良さを優先するゆえに、デザインの好みをいつも妥協しているのかもしれない。しかし、服を着る、というのはひょっとしてそういうことなのだ。
展覧会におけるファッションは鑑賞するべきものだけれども、どうやってみるか、という難問はその存在すらを左右する問いであるといってよい。ナイロンのバルーンの中に規則正しく並べられて、なぜだかわからないが白と黒のブーツを脱がされた、33着の白ドレスの集合、あるいは、名和晃平によるヘアドレスを纏い、ランウェイをとぼとぼと歩き回るマヌカンの身体性を伴って提示されるドレス。両者では、それが与える印象が大きく異なる。印象が異なるとは、まったく違った言い方で語られ、分析され、議論される可能性を孕んでいると言うことだ。
今回のコレクションに限らず、川久保玲のデザインにおいて、自由と不自由、少女と大人、女性的なものと男性的なもの、西洋と東洋という二項対立は、通奏低音的な主題であり、これらを一つの身体上に交差させる手法はもはや定石である。今回の白のドラマもまた、この例に漏れないのかもしれない。ただしそれは、「白」という色のテリトリーを逸脱することはないのだが、むしろ激しく混乱している問題提起を目の当たりに、これまで以上に暴力的なクリエーターの焦燥感を感じ取ってしまう、ということを除くならば、である。
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