12/27/15

教育のことー『文系学部解体』(室井尚)/ Education: « Decomposition des facultés Sciences humaines » (Hisashi Muroi)

室井尚さんの著書『文系学部解体』を読んでいます。先日、横浜でサインをしていただきました。まだこれからも読みすすめ、読み返します。
大学に勤めている人、長く居る人だけじゃなくて、言うまでもなく国の教育政策に関わる重要な問題に関して、非常に詳しくまとめられ、深く分析され、議論された書物です。
正直このようなことを知らずとも、受動的で機械的な労働者として大学やその他の教育機関における教育に携わることもできるでしょうし、実際この本が存在する以前は現状を包括的に理解し、観察し、批判する努力をしないことが、功名に忘れられたり上書きされて見えにくくなる情報社会の中で難しかったのかもしれない。
でも本当に、教育について今考えるべきだし、我々は個人として、機械とか、歯車とか、部品とか、大量生産されて代替可能なフラグメントとしてでなくて、幸せに生きることを、追求するべきであり、希望を持つべきである。そのために関心を持つべきだ。
Hisashi Muroi, auteur de « la décomposition des facultés des Sciences Humaines », a publié face à la crise des facultés des Sciences Humaines des universités japonaises, à cause des projets imposés par le gouvernement japonais. Au Japon, par la force du gouvernement, de nombreuses facultés des Sciences Humaines disparaissent progressivement. Les domaines Sciences humains peuvent-ils être considérés inutiles au Japon ? Vers où vise-il notre pays ? C’est une véritable crise très grave des politiques éducatives du Japon. Chacun, individu cultivé et intelligent, doit penser à vivre une vie « heureuse » non pas pour être une pièce remplaçable, non plus une pièce de la machine fonctionnant sans coeur.

muroi hisashi book

12/7/15

ソーシャルメディアを生きること、守られることの意味

Facebookにアップロードした写真がひとりのユーザーから「ヌード」報告を受けて、不正画像アップロード防止の委員会の審査対象となっているとの連絡を受けた。実はこの報告を受けたのは初めてではない。以前、9月に日本で撮ったプリクラをアップロードしたところ、同じように「ヌード」報告された。もちろん、ヌードのプリクラではない。露出度が高い服を着ているのでもない。ただのセーターとジーパンを履いたプリクラ写真であった。(写真1)

ご存知の方も多いかと思うが、不快な写真や暴力的な写真がFacebook上でシェアされた場合に、それぞれのユーザーがこれを「不適切なコンテンツ」であると判断した場合に「報告」することができる。さて、どのようなものを「不適切なコンテンツ」であると、判断するべきなのだろうか。Facebookの提案するカテゴリーとしては、「ヌード」「差別発言」「脅迫」などが「不適切なコンテンツ」としての報告の対象となっている。

私の場合だと、報告された二つの写真はいずれも1名のユーザーからの「ヌード」としての報告を受けて、審査対象となったということである。
ちなみに、二件目の写真は次の写真であり、プロフィール写真として昨日設定したものである(写真2)。ヌードかヌードでないか判断するという以前に、顔しか写っていないのでそもそも報告者の意図が分からない。

写真1

写真1

写真2

写真2

そこで、Facebookの「報告」についてもう少し調べてみた。
参考:https://www.facebook.com/help/263149623790594/

質問:Facebookに何かの問題を報告するとどうなりますか。私が報告する問題の人物には通知が送信されますか
回答:Facebookに何か問題が報告されると、弊社でその内容を確認し、弊社のコミュニティ規定に違反する内容はすべて削除されます。責任を負うべき人物に連絡をとる場合でも、報告者に関する情報は一切開示されません
Facebookに何か問題を報告しても、その対象が削除されるとは限りませんので、ご了承ください。Facebook規約には違反していないが、Facebook上で気に入らない内容が表示されることがあります

なるほど、私の場合は二件とも言うまでもなくヌードでないし、誰を傷つける内容を含んでいた写真ではなかったため、審査の結果、次の連絡を頂き、削除されなかった。つまり、報告者にとっては依然として「気に入らない内容が表示される」事態が継続することになった訳だ。

Facebookからの返信
あなたの写真がヌードに関するFacebookコミュニティ規定に違反しているという報告がありましたが、審査の結果違反していないと判断されたため、削除されませんでした。

ところで、報告する側とされる側の立ち位置について考えてみたいのだが、そもそもこの機能は、Facebook上で公共のために「不適切なコンテンツ」が表示されることを阻止し、ユーザーの心の平和を守るための目的で設定されている。つまり、報告する側が報告される側を訴えるために最良の気配りがされている。報告する側は報告される側の投稿によって不快な思いをし、傷ついたり、辟易したりしているのだから、ここでは、報告する側は報告される側に対して一方的に「報告する権利」を与えられる。それは次のような報告の仕組みによっても明らかである。

質問:写真を報告するリンクをクリックしましたが、友達にメッセージを送るよう求められました。写真を報告したら、そのことが友達に通知されますか。
回答:いいえ。これらの報告は匿名です。写真をFacebookに報告したくない場合は、報告リンクを使って友達にメッセージを送り、その写真を削除するよう依頼できます。この方法では、Facebookに報告は送られません。

質問:Facebookに報告した内容の状況を確認することはできますか。
回答:Facebook利用規約に違反する内容を報告した場合は、サポートダッシュボードから報告の状況を確認できます。あなたのサポートダッシュボードを見られるのはあなた自身のみです。
このページで、以下のことを実行できます。
▪ 報告をクリックして、弊社のポリシーの詳細を確認する
▪ 報告をキャンセルする
▪ 報告に対して何らかの措置が取られた日時、および措置の内容を確認する

したがって、報告された側は、報告されるままにサポートダッシュボードからの審査報告の連絡を待つことしかできず、それがなぜ報告されたか、誰によって報告されたか、サポートセンターの決定の過程にどのような話し合いがあったか、等の詳細を一切知ることはできないのである。知ることができるのは、あるユーザー(匿名)によって不適切なコンテンツとして「報告された」という事実と、その後のサポートセンターによる「決定事項」のみである。

この仕組みについて、今一度考えてみたい。先ほど書いたように、私の件では2度に渡り、まったくヌードではない写真が「ヌード」として不適切なコンテンツとしての報告がなされ、アップロードは一時的に審査対象となり、履歴においても不適切コンテンツのアップロード報告歴としてこの情報は保存され続けている。結果として、「ヌードではない」というサポートセンターの審査報告を受けて、「あなたの写真は削除されませんでした」と連絡されるのみである。

私はなぜ、誰の報告か、なぜヌードではない写真をヌードだと報告されたのかわからないまま、この審査状況と結果報告を甘受しなければならないのだろうか?

この一方通行性はソーシャルメディア、ひいてはインターネットやマスメディアの性質ですらある。わたしたち一人一人は、ユーザーの権利という名目で最大限に暴力や脅迫やイジメから守られている。困ったことがあったらサポートセンターに迷惑報告できる、ヘイトスピーチや差別発言は許されない、悪いユーザーの発言力や発進力は正義の名の元に阻止しましょう。すばらしい善意のシステムにも落とし穴がある。報告される側の、実は、差別を受けているような事態、イジメをうけているような事態、悪意で発言権を阻害されているような事態にはこのシステムでは十分に対応できないのではないかと思う。

実際、ネット上に散らばる画像には、それらが特定の文脈から切り離されたとき(あるいはそもそも文脈などなしに)直ちに、わいせつだとか暴力的だとか不快だと、ある個人が認識しうる画像がやまのようにある。それらに対し、いちいち、発信者の意図を予測することとか、自分の報告が発信者の権利に対してどのような影響を及ぼすかなどを、頭をかかえている時間も労力もわれわれにはないのだろう。そういった意味では、上述してきた一方的な匿名の報告により、報告される側が傷つくことも、報告する者が万が一恣意的(あるいは悪意)に報告を行うことも、あとからその事実に着いて十分に検討されることなどないのだ。

私たちの生きているソーシャルメディアの世界というのは、それほどに膨大で、途方もなく、時間もなく、配慮もなく、したがって、今まさに私がこの文章を通じて行なっているように、「立ち止まって考える必要がない」。

この世界はずっと向こうまで広がっており、色調を増しており、大きな音で私たちの鼓膜を絶えず震わせているけれど、そのこともまた、「立ち止まって考える必要がない」。

12/6/15

音楽とか植物とか、今日を生きることや書くこと

11月13日の事件が起こってから、初めて、生活を、前のめりのままじゃなくて、ああ今日は日曜日だなと思って部屋を掃除して仕事をなるべくしないで、やりたいことをたくさんして美味しいワインを飲んで、選挙速報をテレビで観て、百合が咲いたのを愛でて、今度練習するグリエールのホルン協奏曲を3回聴いて、やんなきゃいけなかったのにやってなかったたくさんのことなどを思い出した。

多くの人がそうだったように、なんだかどうしたの?ってくらい過活動に、社交的に、敢えて外で生活し、顔を出したり、走り回ったり、やけっぱちではないかというほど元気に、なぜですかというほどポジティブに、笑顔で毎日を、過ごしているのだ。

今日と言う日が今日までしかないかもしれないと、改めて理解することは、刹那的で快楽的な人生を賞賛するしないに関わらず、とにかく生きることがむしろとても楽しくなった。こどもの頃から大人になってもいつもいつも、明日より明後日、今年よりも来年のために生きているような心地で生活してきたように思い出すのだが、今日私は今日のために、ただ今日を生きているのが楽しいと、その本当の印象を奇妙で仕方なく感じながらもなんの苦もなく受け入れている。

教えているクラスの学生が、百合の花束を抱えてやってきて、百合の花ができればたくさんの人と良い時間を共有したほうがうれしいので、自分は四本だけを持って帰って、とってあったできるだけよいワインのボトルに水を入れて、さした。午後ホルンアンサンブルに出かけている間に一輪目が咲いて、今まさに二輪目がすこしずつその大きな花弁をそらせている。

この9月下旬からの二ヶ月半くらいの間、ほとんど毎日ホルンを練習した。目的もなく、見返りもなく、義務もなく、14歳になろうとしている楽器は、これまで一度も聴いたことのない楽器全体をもって音が響くようになり、私は初めてなんの心配もせず、疲弊する心配や曲の終わりに最善の状態でない心配やもう一度頭から通せない心配なんかをせず、誰にも噓をつかないで吹くのが楽しい。結果は明らかだ。ただし、これは一時的な幸福なコンディションだということは分かっていて、それでもそんなわけわからん音楽月間が得られたことは幸せ以外の何者でもない。生きてる間にもう二度とそんなチャンス訪れなかったとしても、それでもとてもとても有難い。

疲れている人やあたふたしている人がたくさんいて、怒っている人やどうしようもなくなっている人、ここぞとばかりに足元を見る人や超悪趣味なブラックジョークを終わりなく言う人、突然言い争いを始める人は多いし、会話の行方には十分すぎる注意が必要。

今までも全てのソーシャルメディアやケータイ電話を完全放棄するという実現しない夢を何度もみたけど、とりわけ事件後のディスコースの壁は心に響く。この国においてどうせ自分は外国人であるのだが母国語で書かれた大方の考えや主張にもほとんど心を寄せることができなかった。そこにあったのは、ここに長く居過ぎてしまったという喜びにも絶望にも似た感覚と、祖国で議論され支持もされているらしきディスコースへの強烈な違和感。

言葉を失ったフリをしたり、書くことを忘れたフリをするのも限界があって、私はやはり書くことを必要としていて、こういったことでなくてたとえば、走り回って参加しまくった研究集会のこととか、展覧会のこととか演奏会のこととか、作品のこととか、そしてやはり考えていることとか、誰かと一緒に書くこととか、そのような書き物を、せずに過ごすことはできない。

私がこんなことを綴っている間にも百合はさらに咲き、植物は明日の陽射しを待っているのかとかもうすぐたぶんウチにやって来るヒヤシンスの球根の膨らんでいることとか、クラシュラの葉のうらがわがなんとなく厚みを増していることなどを、想えるのがとても幸せである。

今日という日を生きるのを嬉しいというおめでたい錯覚みたいなものを、あたかも本当のお話であるかのようにして生きられたら、それがどこでもできたら、と。

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12/1/15

AUJOURD’HUI, Conférence de l’INTIMITÉ et de la création sonore

C’est AUJOURD’HUI ! le 1 décembre à midi à l’Université Paris 8, Conférence par Hiroshi Yoshioka, Réflexion sur l’intimité dans la création sonore et les nouveaux médias. J’ai le plaisir de vous inviter à cette occasion ! Heureuse de discuter avec vous le sujet de l’intimité et de la création artistique contemporaine.
Venez nombreux ! Sophie Daste​, docteur-artiste, spécialiste des espaces de fiction nous rejoindra pour la discussion !!!

Hiroshi Voix 20151201 Paris 8 のコピー