03/26/15

新聞女 4月15日正午 パリ第8大学 / Intervention de Miyuki Nishizawa, Newspaper Woman, le 15 avril 2015 à Saint-Denis

Please walk under here, Guggenheim NewYork, 2013

Please walk under here, Guggenheim NewYork, 2013

J’ai le plaisir de vous inviter à l’intervention-performance de Miyuki Nishizawa, autrement appelée Newspaper Woman, dans le cadre du cours « Création littéraire » à l’Université Paris 8, le 15 avril 2015.
Miyuki Nishizawa, vit et travaille à Osaka et Kobe au Japon, est l’un des successeurs directs du mouvement artistique Gutaï. Miyuki Nishizawa a développé sa conception artistique avec son maître Shozo Shimamoto, artiste. Miyuki Nishizawa a été invitée pour une performance au Musée Guggenheim à New York en 2013 et a participé à de nombreuses manifestations culturelles non seulement au Japon mais aussi dans divers pays comme la France et l’Italie.

Elle utilise le papier journal, en tant que média, rempli souvent par de nombreux événements tristes, édité, imprimé et jeté quotidiennement. L’art de Miyuki réalisé en papier journal n’est pas qu’art écologique (car elle recycle le papier), mais transforme ces informations tragiques en énergie positive pour nous encourager à vivre, s’habillant d’une magnifique robe de papier journal. Porter bonheur et nous amener à la paix mentale à travers sa performance : ce sont les deux objectifs de l’art de Miyuki.

À cette occasion, elle nous racontera son idée artistique, son parcours original et ses projets en cours. Ensuite elle présentera une oeuvre intitulée « Peace Road » conçue après les attentats du 11 septembre. Il s’agit d’une performance pour souhaiter la paix dans notre monde où il peut y avoir différentes cultures, différentes religions, différentes racines. Cette oeuvre importante a été réalisé au Japon, en Italie et dans d’autres pays. À l’occasion de cette intervention, j’ai le plaisir de vous inviter à témoigner de cette nouvelle version réalisée à Saint-Denis, et à partager un moment significatif.

MIyuki Nishizawa suspendue, performance de la grue

MIyuki Nishizawa suspendue, performance de la grue

2015年4月15日正午、パリ第8大学における『現代的文学創作』の授業の一貫で、新聞女こと西澤みゆきさんをお招きし、講演−パフォーマンスを行ないます。

西澤みゆきさんは、大阪・神戸を拠点に日本全国で多彩な活動を繰り広げられているアーティストで、具体美術協会の直接の後継者でもあります。西澤さんは、具体設立メンバーのひとりである嶋本昭三さんの弟子であり、彼と共に世界を巡り、芸術的コンセプトを発展させてこられました。新聞女は、2013年3月ニューヨークグッゲンハイム美術館に招待され、1000人のヴィジターのためのパフォーマンスを実現するほか、日本のみならず、世界中で数多くの文化的行事や芸術イベントに参加しています。

西澤さんの利用するメディア「新聞」は、日々、多くの悲しい出来事を私たちに伝えます。それは毎日大量に印刷されてはすぐに捨てられてしまいます。新聞紙を利用する新聞女のアートは、しかし、単なるエコ・アートではありません。彼女は新聞紙からなる見事なドレスを纏うことで、その悲劇的なニュースの堆積をポジティブなエネルギーに変換し、私たちを元気づけ、生きさせてくれるのです。幸福をもたらすこと、平和を祈ること、これが彼女のアートの本質と言えるでしょう。

さて、4月15日の講演−パフォーマンスでは、西澤みゆきさんにこれまでの活躍、ちょっと変わった経歴、これからの野望などを語ってもらいます。それから、9.11以降世界中で平和を祈るために続けられているパフォーマンス作品『ピース・ロード』のサン・ドニ(フランス)ヴァージョンをお披露目します。世界は多元的で、異なる文化と、異なる宗教、そして異なる人種が入り交じっています。彼女のアートはそのような世界における平和を希求するものです。どうぞ、お友達、ご家族、ご近所の方と一緒にお越し下さい。いっしょに、『ピース・ロード』サン・ドニ版の目撃者となりましょう!

Peace Road, Venise

Peace Road, Venise

Pour plus d’info, merci de me laisser un commentaire.
詳細は、大久保美紀(@MikiOKUBO)までご連絡ください。あるいはこちらにコメントをお送りください。

03/20/15

パラ人、三号と四号のコラムについて

Parazine vol.3 and vol.4

パラ人がどんどん小さくなっています。
パラソフィアは近づき、ついに開幕し、パラ人も4号まで出ました。
さらに小さくなって5号がもうすこしで出るそうです。

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第3号、第4号に書かせていただいたエッセイについて少しお話したいと思います。

第3号:
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第3号のコラム「パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ」では、ウクライナのフェメン(ウクライナ語:Фемен)とカリシュ(ポーランド)生まれのアーティストアリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow,1926~1973)について紹介しています。

フェメンは、2008年にウクライナの首都キエフで創設されたフェミニズム団体で、女性解放、民主主義支持、売春反対、女性権利を侵害するあらゆる宗教信仰反対を主張しています。

また、アーティスト、アリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow)は、アウシュビッツの強制収容所で看護手伝いに従事しながらホロコーストを生き延びた経験をもつ。生き延びた肉体は後に癌に蝕まれるが、終生戦いながら肉体を直視する作品を創った。たとえば、唇や乳房のセクシーなオブジェは、シャポツニコフ自身の肉体を象ったものだ。顔や胸だけでなく、手・足や腹部・臀部にいたるまで、せっせと全身を鋳型にとり、複製した。1969年には乳がんを患い摘出手術を受け、その四年後、46歳で亡くなった。

第3号コラムのリード文を添付します。

TITRE :
パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ / Parasophia des FEMMES au COMBAT

私が今から書くのは、ひょっとすると、アートで世界が平和になると信じる人々の期待とはかけ離れた話なのかもしれない。しかし、人が殺し殺され、暴力を及ぼし及ぼされる「戦争」という環境の中で、生と向き合う一つの方法としてアートが存在するのだとすれば、それは、人々の傷ついた心を慰め、他者と嘆きを分かち、怒りのはけ口を提供しながら憎しみを鎮めるためだけの好都合な道具であるはずがない。そんな夢のような効能に悦び、感ずるべき痛みを放棄することは、つかの間の安堵と引き換えに、新たな「暴力」を招きすらする。あるいは他に、いったい生き延びる術があろうか?

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第4号:

また、2015年の年始に執筆した第四号のコラムではシャルリー・エブドの襲撃事件を経たパリのことについても言及しています。エッセイタイトルは、L’art pour « ici et maintenant »/「いま、ここ」のためのアート、です。
アートとはなにか、アートの意味、存在意義とは何か。非常事態において、アートは役に立たないのか。シャルリー以降の世界のこと、ポスト・フクシマのことについて書いています。

リード文を添付しておきます。

L’art pour « ici et maintenant » /「いま、ここ」のためのアート

リード文:パラソフィア開幕まで残すところ僅かである。ノッシノッシと歩んできた「パラ人」もついにその真の姿を現す時が来たのかもしれない。新年早々前期最終講義となるフランスで、非常時における芸術と表現の自由を喋っている途中、パリの街は非常時と化した。翌日、街中が緊張する中、グラン・パレでニキ・ドゥ=サンファルの回顧展を見る。父子関係にトラウマを持つニキが父への恨みを込めてライフル銃で発砲しまくる「暴力的」な作品も堂々と展示されたままだ。これが本当のリテラシーでなければ何だろう。このことは可能なのだ。
parazine 4 miki

また、特集コラムも執筆しました。これは、このサイトでも既に掲載した(大谷悠さんについての記事)、コンテンポラリーダンサーの大谷悠さんの作品、Solo Weddingに関する記事です。
タイトル「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」は、大谷悠さん自信の作品ディスクリプション、樫田祐一郎さんの散文詩、そして私のパリ第8大学における彼女の公演についての文章にパリ第8大学写真学科のマノン・ジアコーヌさんの写真を加え、集作となりました。

リード文はこんな感じです。
リード文:奇妙な読みものがある。そこに奇妙な名前のダンスがあったからである。Solo Wedding /ソロ・ウェディング。「結婚」とは相手の在ることが前提であり、独り者は挙式しない。あるいは、ソロである者が挙式を執り行うためのあらゆる儀式を通じたならば、その素晴らしいウェディングドレスは日の目を見ることができるか? 憂える花嫁(I)。詩人がおぎなう「むこうがわ」の言葉(II)。作品は、おぼろげに説明される(III)。願わくは、思索を通して、悩める人々の様々な問題や異なる苦しみが、干上がり、枯渇し、どこかへ行ってしまうように。
parazine 4 haru

ダウンロードはここから!(Parasophia, Parazine)
もし可能でしたら、ぜひぜひホンモノをお手にお取りください!
紙媒体のパラ人、なんというか、ぬくぬくしますよ!

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なんとー!散文詩を書いてくれた樫田祐一郎さんが、こちらの記事について、パラ人について、散文詩についてSNS上に書いてくださった文章をこちらにも掲載させていただきました!文を書くのは対話的な作用があるから、楽しいのであります。以下は樫田祐一郎さんの書かれた文章です。。。
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大久保美紀(Miki Okubo)さんのはからいで、パラ人4号の特集記事「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」の中の2つめの「思索」を担当させていただきました。
この記事は、ダンサーの大谷悠さんが11月のパリ第8大学で披露した作品「Solo Wedding」をめぐるレビューです。
タイトルにもあるようにこれは大久保さんによる前文と3つの「思索」から成っています。
1つめは、もともと大谷さんが上演に先立って公開していた文章を加筆修正したもの。
私が担当した2つめの「思索」はその実 »詩作 »(たはは…)でして、「控え室(ソロ・ウェディング)」と題した散文詩となっています。
ちょっと、一読しても何が何だかわからない文章かもしれませんが……。
種明かし(?)をしてしまうと、挙式前にソロ・ウェディングを夢想するソロ・ブライドの視点から、大谷さんのダンスの印象(3次元の言葉)を、紙上の、2次元の言葉に移し置いてみたもの…の、つもりです。
そして3つめは大久保さんによる論考です。大谷さんのダンスそのものについてはもちろん、はじめ「鑑賞者」であった私たちが、それぞれの思索――あるいは詩作、ともあれなんにせよある種の「作品」であり「表現」であるもの――によって応答することの意味をも、明かしてくれるすばらしいレビューになっています。
対話を生みえない作品を、しばしばそうされるように「ひとりよがり」と難ずるとき、私たちは対話というものがあたかも自然発生するもののように考えていないでしょうか。「鑑賞者」(表現を「享受する」ひとびと)が負う責任や能動性、つまり自分たちの言葉もまた他ならぬ私自身の「表現」であるということ――これは、たぶん往々にして忘れられてしまっていることです。
対話に開かれているべきなのは最初にそこにあった作品だけではなくて、私たちもまた自らを作品との対話に開いていなければいけない……あるいは開いていることが »できる »、開いていても »いい »と言うべきか。それとも開かれて »いる »という事実(「運命」?)だけがただ、あるのか。義務、可能、許可、断言、適切な命題のモードは私にはまだわからないけれど。
と、いうわけで私たちは表現しました。
いま、気になるのはこれもまたひとつのダンスでありえただろうかということ(私は踊っただろうか?)。
そしてこの表現はあらたに誰かを踊らせるだろうか。
「踊りは遍在する」(大久保美紀)。
…あ、そしてそして。この「3つの思索」にはパリ第8大学で学ぶ写真家マノン・ジアコーヌさんによって切り取られたソロ・ウェディングの3つの瞬間も、添えられています(これがなんとも素敵なのです!)。
というわけで、実際に作品を鑑賞した方にもしていない方にも、これら3+1つの「表現」を通じて踊る花嫁の姿が幻視されますように……。

03/19/15

Exposition « Sans Crayons » L’autre dessin:Juliette Mogenet, Keita Mori, Takeshi Sumi

Exposition « Sans Crayons » L’autre dessin

Juliette Mogenet, Keita Mori, Takeshi Sumi
Exposition du 16 au 21 mars 2015
Vitrine – 65, Paris
More info : ArtBridge Contemporary Website
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今週いっぱい開催中の展覧会Exposition « Sains Crayons » L’autre dessin (鉛筆をつかわないーもう一つのデッサン)を訪れた。展示作家は、Juliette Mogenet、Keita Mori、そしてTakeshi Sumiの三人の画家だ。彼らは展覧会タイトルが伝える通り、鉛筆を使用しない、異型のデッサンを提案する。

Juliette Mogenetの作品は、一枚の写真のような非常に具象的なイメージから、それに裂け目を入れたり、部分を取り去ってしまったり、あるいはカッターで出来る限りの細い糸のような彫刻に写真を部分的に分解してしまうことによって、元々のイメージにはなかったディメンションを創り出すものである。そこでは、新たな空間が開かれ、綴じられていたイメージの世界は空洞を包有し、こわされていると同時に産み出されている。
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Juliette Mogenet Website

 

Keita Moriの展示作品は、Bug reportと題されたシリーズで、糸とピストル型のノリを利用して、紙面にあたかも線を描くように造形して行くアーティスト固有の絵画方法を用いている。作品は小さなものから非常に大きなもの(例えば昨年の展覧会会期中に完成されたBug report « circuit »は500×570cmの大作である)に渡り、画面の造形の密度も様々である。ときにそれは具象絵画であり、在るときはまた幾何学的なイメージを表象する。技法(作品)タイトルが暗示しているように、作品は制作および完成後の時間においてもなお「バグ(Bug)」と共にある。バグは情報用語でエラーを指すが、もともとこの言葉には人間のコントロールの範疇を越えた霊的力による作用を意味した歴史もある。Keita Moriの作品ではこのエラーの要素が重要な役割を演じることが多い。
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Bug report (circuit), 2014 fil tendu avec pistolet à colle sur mur,500x570cm vue de l'exposition, «Voyageurs», Paris

Bug report (circuit), 2014
fil tendu avec pistolet à colle sur mur,500x570cm
vue de l’exposition, «Voyageurs», Paris

Keita Mori Website

 

Takeshi Sumiの作品も写真を異化することによって産み出された絵画だ。表面には思わず息をのむほど細かいカッターの線が無数に、そして精密につけられていて、その整列した軌跡のアンサンブルは、大海原を旅する小魚の大きな群れが一斉に海面に照り返した瞬間のようなきらめきを見せる。セーヌ川の上に鳥が舞う、その川面に影の映っている、そんな日常のイメージは、見たこともない一枚の絵画となって立ち現れる。また、作者自身の父のポートレートに無数の穴をつくり、それらが光を通すことによって産み出されたイメージは、そこに映し出された一人の男性が、アーティストの父親という個人に過ぎないにも関わらず、不思議にも既視的で普遍的な人物像のように現れる。
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Takeshi Sumi Website

 

Keita Moriの彫刻が有難い感じでギャラリー入り口に展示されている。会期中絶えず形状を変更することのできるインフィニティの作品だ。あまりに有難い様子なので、ついお賽銭をお供えさせていただきました。
展覧会は、21日までだそうです!
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03/19/15

表現の自由のこと: Steven Cohen, COQ (2013) /スティーヴン・コーヘン「ニワトリ」

表現の自由のこと

2015年1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件があってから、フランスはもちろん、世界中で今一度、表現の自由のことを多くの人が語るようになった。だがそれは、いわば、世界単位でシャッターがきられた瞬間に過ぎず、たとえば日本では、検閲や思想統制の危機に直面して、あるいは憲法改善の危機や個人の表現の自由を脅かす様々な法令の制定の危機に直面して、2015年1月7日以前にすでに、今と変わらない危機感が既にあった。思想や文筆の領域はもちろん、現代アートの領域にも、表現者を見せしめにするような象徴的な事件があった。たとえば、釈放されては再逮捕される、ろくでなしこさんの女性器3Dデータに関する問題は、法に触れるという明確な理由があったとしても、その周辺に存在するより商業的なポルノグラフィティの問題や、男性器に関する同質の行為は果たして同等に制裁をうけているのか、といった疑問をぬぐい去ることができない。また、昨年、愛知県立美術館の「これからの写真展」で鷹野隆大さんの写真作品が男性器を露にしているという理由で、わいせつ物として撤去を指示された問題も、今日のヴィジュアル・アートを俯瞰したならば、一瞬にして、ナンセンスな事件であったというしかない。ただし、「ナンセンスな事件」がもっともらしく、あるいは威圧的にまかり通り、人々がそれに従順にならざるをえないという状況こそが、もっともナンセンスであり、しかも、深刻な破綻を意味している。アートの空間は、美術館であれ、一時的に設定されたスペースであれ、そこに非常事態を抱え込む覚悟をしなくてはならない。アートの出来事は一種の非常事態にほかならないからだ。それは、アートが存在する理由にも、アートの存在する意味にも関わる。

何も覚悟することなく、人を驚かすつもりもなく、あるいは人々が驚いてしまったときに即座に「今のは噓でした!」と言ってしまうような表現が、我々に何かを残すだろうか。我々の何かを与えるだろうか。

このエッセイで書くのは、Steven Cohenという作家のパフォーマンス作品、COQのことだ。本作品は、前回のエッセイ、MAC VALの展覧会《Chercher le garçon》(Link : Last article)において現行展示中の作品だ。作者であるスティーヴン・コーヘン(Steven Cohen)は1982年に南アフリカ生まれた。アフリカ出身、ホモセクシュアル、ドラグクイーンとしてパリに暮す。2013年に、「人権広場」(エッフェル塔を見るための観光客があつまるシャイヨー宮殿)にて、自分のペニスにリボンを結び、そのリボンのもう一端にニワトリを繋いで、15センチあるいは20センチほどあろうというハイヒール、下半身をほぼ露出したコスチューム、ニワトリを思わせる羽飾りを纏って優雅に舞うというパフォーマンスを行なった。始終はヴィデオに収められており、その奇異な外観ーリボンを巻いた性器を露出し、ニワトリを引き連れているーにも関わらず、人権広場の観光客たちはさほど動揺した様子はない。スティーヴン・コーヘンは、パフォーマンスを続け、青空の中にそびえるエッフェル塔を背に、鳥の羽根のシルエットが美しいコスチュームで舞う。アーティストはフランス国家「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)を歌い続ける。飛べないニワトリはときどき一メートル程の高さより羽ばたいては歩き、スティーヴン・コーヘンは始終このニワトリを真のパートナーあるいは分身のように大切に扱う。程無く、警備の男が近寄る。数分の後、二人の警官がスティーヴン・コーヘンを囲み、壁際に連行する。アーティストは激しくは抵抗しないもののニワトリを守ろうと抱きかかえる。さて、この広場は先に書いたように1948年以降「人権広場」と呼ばれている。それは、1948年の世界人権宣言を採択した国際連合の総会が、このシャイヨー宮殿で行なわれたからだ。全ての人々は平等である、つまり、それがアフリカンでもホモセクシュアルでも、どの宗教を信仰していようと変わらず平等である、そして宣言によれば皆表現の自由を有する。スティーヴン・コーヘンの実験は、彼が警官に捉えられるという形で幕を下ろし、この作品は長い間訴訟によって公開も叶わなかった。
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スティーヴン・コーヘンの奇妙な行為をよりよくわかるために幾つかの情報を書き加えておきたい。

(I)
まず、なぜニワトリなのか。

ニワトリは、フランスの象徴の鳥だったのである。つまり政治的・国民的エンブレムを担っていた。中世より使用され始め、ルネッサンス期以降フランスの国王の象徴、とりわけヴァロワ朝とブルボン朝の時代、国王はしばしば肖像画にニワトリを伴ったり、銀貨にニワトリが描かれたりした。ナポレオンが « Le coq n’a point de force, il ne peut être l’image d’un empire tel que la France ».(ニワトリなんかダメだ!強い鷲にしよう!)といって国鳥を鷲にしてしまうまではニワトリこそフランスを象徴する鳥だった。つまり、元フランスを象徴する鳥であるニワトリを、性的被差別者であるペニスに結びつけたリボンによって引き連れることの比喩的意味が明らかになるだろう。

Coq gaulois, monument dédié aux Girondins, Esplanade des Quinconces, Bordeaux

Coq gaulois, monument dédié aux Girondins, Esplanade des Quinconces, Bordeaux

Écu constitutionnel, 1792

Écu constitutionnel, 1792

(II)
つぎに、世界人権宣言採択の現場であるシャイヨー宮殿をパフォーマンスの場として選択する意味についてである。シャイヨー宮殿は、世界中からエッフェル塔の名写真を撮影するために観光客や写真家がおとずれるほど、フランスのイメージのひとつであるエッフェル塔が最も美しく俯瞰できる場所として知られている。おそらくその強烈なシチュエーションからか、1940年6月にナチスドイツの侵攻によって陥落したパリを、ヒトラーが訪れ、ここでエッフェル塔を背景に撮影した写真が有名である。したがって、この場所は、ナチスドイツによって陥落したパリと、世界人権宣言が採択された人権擁護の象徴としてのパリと、今日のフランスのあらゆるイメージを背負ったモニュメント「エッフェル塔」が見える場所、という三重の意味を担うのだ。スティーヴン・コーヘンがこの場所を選択し、警官に連行されることも戦略的計算に入れた上で、エッフェル塔を背景にパフォーマンスを行なった意味もこれで明らかになるだろう。

Paris, Eifelturm, Besuch Adolf Hitler

(III)
ちなみに、パフォーマンス中、アーティストが口ずさんでいたフランス国家「ラ・マルセイエーズ」は、フランス革命の際にマルセイユの義勇軍が歌ったとされ、それ以来のものである。

ご覧のように、スティーヴン・コーヘンのパフォーマンス「COQ」(ニワトリ)は、彼自身の抱える性的な問題の個人的苦悩を越えて、人類の人権の問題、移民の人権、性的マイノリティの人権、人種差別撤廃の希求という大きなディメンションに及んだ作品である。
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もう一つ、全く別の問題を指摘して、このエッセイを締めくくりたい。それは、この作品を展示する側の戦略的態度である。本作品はスティーヴン・コーヘンの下半身や性器が殆ど露出された映像作品で、客観的なヴィジュアルの美しさとエキセントリックな状況のコントラストのなかで、一見するとただただ滑稽、「なぜこれがアートなの?」という議論のなかに煙に巻かれる作品でもあるし、あるいは性的マイノリティーと表現の自由の問題に収斂される可能性もある作品だ。しかし、この展覧会が2015年3月より始まっていること、それがはっきりとシャルリー・エブドの後の社会的・政治的文脈の影響下にあるということ(もちろん作品選択や企画はその前に決定されているが、展覧会開催に当たり美術館側は問題に意識的にならざるをえないし、鑑賞者も当然考慮するに違いないということ)、そして上述したように様々な政治的エンブレムが散りばめられていることを思えば、この作品が展示されるという意味は、極めて愛国主義的なものであると考える。つまり、政治的で、戦略的な態度であると、思うのである。そしてこれもまた、美術館の「権利」であると思う。

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(コーヘンの作品に関連して以下に世界人権宣言の部分を添付した。)
『世界人権宣言』
(1948.12.10 第3回国連総会採択)
〈前文〉
人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、

人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、 

人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、(略)

人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、

人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、 

人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、(略)

よって、ここに、国連総会は、

社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この人権宣言を公布する。

第2条
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基ずくいかなる差別もしてはならない。

第19条
すべて人は、意見及び表現の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

03/17/15

chercher le garçon MAC VAL /展覧会「少年をさがせ」

Chercher le garçon
MAC VAL
7 mars – 30 août 2015
Commissariat : Frank Lamy
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MAC VAL の今回の企画展が「100人の男性アーティストの展覧会」だというのは、2009年にCentre Pompidouで行なわれた展覧会《ELLES》が200人の女性アーティストを集めた展覧会であったのを意識し、今度はそのカウンターとして男性性の再定義を試みる展覧会を行なおうとしたのだろうと思う。今日の世界で、男性性を再定義する…。最初の問いは、今日、男性性の再定義が必要なのか?である。このことは、例えば、後に紹介するし別の記事でもとりわけ論じようと思っているSteven Cohenのパフォーマンスなどを通じて、問わざるを得ないことが明らかになる。この展覧会の特徴は、男性性を問いながらも別の様々な社会問題と精神的問題、さらには一定の方法で政治問題にも鑑賞者の目を向けさせることを意図している。
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Saint Titre 2009, David Ancelin

Emilio Lopez-Mencheroはベルギー生まれのアーティストである。Trying to be Cindy(2010)は、1950-60年代のステレオタイプなアメリカ社会の女性表象に問いかけたシンディー・シャーマンの有名な作品のパロディである。この作家は、ピカソやフリーダ・カルロといった人物に成りすます作品も制作しており、男性的な顔や肉体をもつEmilio Lopez-Mencheroがシンディー・シャーマンの画面にあてはめられることによって、アイデンティティの問題に訴えかける。
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日本人現代美術家の森村泰昌の手法もEmilio Lopez-Mencheroと共通項を持つ。ブリジッド・バルドーに扮したアーティストは、明るすぎる光の中で、Emilio Lopez-Mencheroがしたのとは異なる方法で、対象のイコンをすり替えようとしている。
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John Coplansは2003年に亡くなったニューヨークを拠点に活動したアーティストだ。本作品は1993年のものである。拡大され過ぎて、毛穴も毛も皮膚のやや乾燥した質感も、ホクロも全てがさらけ出された脚のプロフィール。この写真は、どれだけ拡大して部分だけが提示されても、他には何の個人を特定するアイデンティティや全体のイメージがなくても、それが女性の肉体ではなく、男性の肉体であるということが分かってしまう。肉体の性的アイデンティティは、それが明確な差異と認められる性器などでないとしても、一部を認めるだけで、いとも簡単に識別できるほど、時には明らかなものである。そうかと思えばそれは別のコンテクストでは揺るがされて、識別不能に陥ることすらある掴みにくいものだ。
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Florent Matteiは1970年ニース生まれの写真家である。シリーズ《The World is Perfect》(2000-2001)では、ゴージャスなホテルで過ごす一組のカップルのある意味理想的で典型的なイメージを構成する。念入りに組み立てられた画面は、ステレオタイプな豪奢や愛のイメージに忠実にしたがっているものの、どこか重要な場所がすり替えられたりこわされたりすることによって、滑稽なイメージとして作り直される。なぜ小柄な男性の腰を後ろから抱く大きな女性という構図が違和感を想起させるのだろう。それは、我々がいかに日頃典型的イメージを刷り込まれているかを明らかにするばかりである。
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Denis Dailleuxのシリーズ《Mère et Fils》(母と息子)は、また異なる男性性の物語を我々に伝える。母と息子の結びつき、母の絶対的な愛とそれを受けた息子の母との関係性は、それぞれの写真を見ても人目で分かる、異なる歴史と物語がある。Denis Dailleuxは、このシリーズをカイロで撮り始め、のち、ガーナとブラジルでも撮影している。モデルとなるのはボディビルダーの息子とその母親である。磨き上げられたボディビルダーの肉体はおそらく、非常に「男らしい」はずであり、それは女である母親が彼らを産んだにも関わらず似ても似つかない形をしている。だが、その男性性の象徴であるようなボディビルダーの肉体もまた、何らかの成り行きによって創り出されたものなのだ。ボディビルダーのうちの一人が言う。「母親は自分の一部だ。子供の時学校でいじめられていた。そのとき、身体を鍛えなさい、自分を守れるように筋肉をつけなさい、と言ったのは母親だった」、と。男性性は産んだ子を守ろうとする女性性によっても創られることができる。
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子供が書いたような筆致で描かれたネオン、《Now I wanna be a Good Boy》(いい子になりたい)は、Claude Lévêqueの作品である。Claude Lévêqueは、ネオンという一般に街頭広告に用いるメディアを、個人的な声明やアイデンティティに関する問いなど、まったく異なる目的に使用することによって、その親密な問いを明るみに出す。いい子にならなければならない、子供時代に受け続けるそんなプレッシャーは、皆の目に触れるネオンとなることによって、異化されるだろうか。
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Steven Cohenは南アフリカ共和国生まれのアーティストで、ホモセクシュアル、ドラグクイーンである。2013年9月10日、トロカデロの人権広場にてパフォーマンスCOQを行なった。人権広場というのは、エッフェル塔をセーヌ川を挟んで臨むのに最適な観光スポットとして、いつも観光客で溢れている。15センチはあるのではないかというハイヒールに下半身を殆ど露出した白いコスチュームで、自らの性器にリボンを巻き、そのリボンは一羽の立派な鶏に結ばれている奇妙な姿で、悠々と観光客の前に登場し、エッフェル塔をバックにダンスする。人権広場は歴史的に、人々がありのままに存在する自由、それがホモセクシュアルであれ、外国人であれ、宗教を異にし、ドラグクイーンでも、人権を認められるべき空間である。そこで、Steven Cohenは下半身をほぼ露出し、性器をリボンで飾り立てたような格好で登場し、約10分ほどすると、二人の警官によって捉えられた。Steven Cohenの対峙したものは大きい。それは彼自身のセクシュアリティのみならず、民族や政治の問題に及んだのだから。
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このSteven Cohenのパフォーマンスの意味については次回のエッセイでより発展させたいと思う。

展覧会《Chercher le garçon》(少年をさがせ)は、男性性の再定義よりもむしろ、男性性のあり方の発見をアーティストの研究成果として見せる機会だったのかもしれない。

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03/16/15

Corps Étranger:Agata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soter/ 「奇妙な肉体」展

Corps Étranger
Agata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soter

13 Février – 14 Mars 2015
Maëlle Galerie
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アーティストたちは今日、割り当てられた性的役割を異化することが可能だ、ということを知っている。
これまで数多くの女性アーティストに焦点を当てた展覧会が、フェミニストや美術史家、批評家たちによって実現されてきた。女性のホもセクシュアリティへの着目もそのうちの比較的新しいもののひとつかもしれない。Centre Poupidou(ポンピドーセンター)では女性アーティスト200名を紹介した大規模な展覧会が2009年に既に開かれている。
本展覧会で選ばれた三人のアーティストAgata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soterはこれまで一緒に展示したことはない。三人とも親密で独自の世界への視線を表現する作家である。
共通しているのはAgata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soterの三人ともが、既存の性に対しての異なる身体のあり方を暴きだすことだ。自然としての性、本能的な身体、暴力の対象や主体あるいは破壊者となりうる肉体。これらはすべて、《Corps Étranger》(奇妙な肉体)であろう。
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Dani Soter:
Dani Soterはルイーズブルジョワに多くを学んだ女性アーティストである。個人的な世界観、家族の想い出やカップルの記憶。人間関係に蓄積した時間の形跡。彼女はブラジルで生まれ、ソルボンヌ大学でポルトガル語学と文学を学んだ後、現在も祖国で制作する。彼女はアーティストのフォーメーションは持っておらず、独学の作家だ。

彼女の作品《お入りください》(Entrez)は、家のような輪郭をもつシンプルな形がピンク色で塗られており、扉である場所、人々を受け入れるべき境界が男性器の形を成す。鉛筆で描かれた、Entrez(おはいりください)の文字があるだけの非常にシンプルな作品だ。鉛筆書きのEntrezの文字はとても頼りなくて、子供が書いたような、あるいは、人に聴こえないようにこっそりつぶやいたような、消えそうな言葉という印象を与える。もしかして、《お入りください》なんて、言いたくないのでは?と見る者を不安にするのだ。
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また、薄汚れたハンカチにさくらんぼの刺繍のある作品のシリーズ、これは近年Dani Soterが好んで取り組んでいるプロジェクトのうちの一つで、友人や家族の使い古しのハンカチを作品に用いる。ハンカチはしばしば酷く汚れたりカビていて、汚いのだが、それは個人の家に保存される中で生えたカビだとか、たまたま汚れを拭いたまま洗っても落ちなかったしみだとか、もしかして、食事の後に口を拭いたり、子供のよだれを拭ったりしたままながいことズボンの中に入れてわすれっぱなしになり、そのまま忘れられた布切れなのかもしれない。彼女はこれをキャンバスとして絵を描く。ハンカチは真っ暗な引き出しや物置からひっぱりだされて、眩しいギャラリーに展示される。
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Agata Kus:
Agata Kusは、1987年にポーランドのKrosnoで生まれ、クラコウで学んだのち、現在もポーランドで制作している。Agata Kusの作品ではしばしば、少女から大人の女性になる通過儀礼がテーマとなっており、少女としての自己が傷つけられる形で女性性を受け入れる《痛み》を繊細な方法で描くのが特徴だ。傷つけられながら大人になる少女も、生まれながらの女性であることに変わりない。傷つきやすく女性性の賛美が貫かれていることもAgata Kusの作品の特徴と言えよう。肉体はグロテスクなものである。

Agata Kusのデッサンの中に、内蔵をさらけ出して血を流して倒れている獣の赤い色と、白いワンピースを着た二人の少女の性器の部分が赤く塗られた作品がある。子供らしく可愛らしい真っ白なワンピースに保護された「肉体」は、地面に転がる非常に生々しい獣の死体と同様のコンポジションである。

一枚の布に、足を崩して座る少女。少女は床に散らばった赤いビーズで遊んでいるように見える。それは勿論、初潮以降毎月作られては流れ出される、月経の象徴なのだが、少女は小さかった頃と変わらない、笑顔を浮かべていて、その赤い粒を集めたりバラバラにしたり、独り遊びをしている。彼女はまだそれが何を意味するか分からず分かろうともしていないのだが、その粒が妙に赤いことだけが、何となく不穏で見ている者を心配させる役割を果たしている。
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Kelly Sinnapah Mary:
Kelly Sinnapah Maryは1981年にグアドループに生まれた。グアドループ(Guadeloupe)というのは、カリブ海の西インド諸島の島嶼群の中にある所謂フランスの海外県(Outre-mer français)である。紀元前30世紀ほどから現地文明がさかえ、ベネズエラとの交易や、Arawaksと呼ばれるインディアンの生活があったことが明らかになっている。この地は後に15世紀以降スペイン人が訪れるようになり、1635年以降フランス人によって支配され、フランス領植民地となる。以降、数世紀に渡って、砂糖の大規模農場、タバコ農園等で奴隷労働に従事させられた歴史を持つ。フランス革命後の1794年、一度奴隷制は廃止されるものの1802年にナポレオンが復活させてしまう。グアドループは、もう一つの大きな海外県マルティニークと同様に、歴史的要因から行政的・社会的な多くの問題を抱えている。
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Kelly Sinnapah Maryの作品は、フェミニンなオブジェを利用し、一見ポップ印象を与えるデザインを特徴とする軽やかで美しいイメージを描く。昔はどんな家にもあったような刺繍フレーム。典型的なお家にいる女性を思わせるオブジェを絵画は彼女のキャンバスとなる。中心には白い背景に衣服のはだけて下着姿の女性。女性の頭部は顔はなく、筒状の空洞が開いている。周りに散りばめられた無数のモチーフは中心に一人だけいる女を取り巻く男性器だ。女性の肉体を注意してもう一度見てみる。鎖骨の当たりのメッセージは »Ne pas toucher »(わたしに触れるな)とある。Ne pas toucher(Ne touchez pas)は、美術館でよく見かける。作品の前に気分を害する保護色のビニールテープが貼ってあって、《お手を触れないでください》と書いてある、あれだ。おそらくは既に傷つけられ、顔は内部に男性器を受け入れる筒の形状に変形してしまってもなお、その肉体はマニフェストする。《わたしに触れるな》と。
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Kelly Sinnapah Maryの顔のない女は、かなり直接的なファム・オブジェの表象である。セックスのオブジェとして利用されるだけの女というモチーフは作品に繰り返し描かれる。彼女自身の個人的な苦痛に満ちた性的体験に基づく表現は、作品や文化的背景を伴って、社会における現行の問題へと鑑賞者の関心を開く。デッサンの持つ軽やかな色彩とスタイルは、その苦痛を伴ってもなおあり得る、ある種の希望のようなものを感じさせてくれるのだが。

女性性への関心、少女から女性への通過儀礼の苦痛の表象、ファムオブジェのマニフェスト、これらは今日もなお人々の関心を捉えるだろうか。もちろん、それはある程度普遍的な問題なので、関心ごとであり続けることが出来る。あるいは、今日的な問題に訴えるなら、傷つきやすく対話不能な苦痛を内側に描くのではなく、演劇的な雄弁さとすこしだけハッピーな結論が求められているのかもしれない。

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