パラ人、三号と四号のコラムについて

Parazine vol.3 and vol.4

パラ人がどんどん小さくなっています。
パラソフィアは近づき、ついに開幕し、パラ人も4号まで出ました。
さらに小さくなって5号がもうすこしで出るそうです。

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第3号、第4号に書かせていただいたエッセイについて少しお話したいと思います。

第3号:
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第3号のコラム「パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ」では、ウクライナのフェメン(ウクライナ語:Фемен)とカリシュ(ポーランド)生まれのアーティストアリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow,1926~1973)について紹介しています。

フェメンは、2008年にウクライナの首都キエフで創設されたフェミニズム団体で、女性解放、民主主義支持、売春反対、女性権利を侵害するあらゆる宗教信仰反対を主張しています。

また、アーティスト、アリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow)は、アウシュビッツの強制収容所で看護手伝いに従事しながらホロコーストを生き延びた経験をもつ。生き延びた肉体は後に癌に蝕まれるが、終生戦いながら肉体を直視する作品を創った。たとえば、唇や乳房のセクシーなオブジェは、シャポツニコフ自身の肉体を象ったものだ。顔や胸だけでなく、手・足や腹部・臀部にいたるまで、せっせと全身を鋳型にとり、複製した。1969年には乳がんを患い摘出手術を受け、その四年後、46歳で亡くなった。

第3号コラムのリード文を添付します。

TITRE :
パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ / Parasophia des FEMMES au COMBAT

私が今から書くのは、ひょっとすると、アートで世界が平和になると信じる人々の期待とはかけ離れた話なのかもしれない。しかし、人が殺し殺され、暴力を及ぼし及ぼされる「戦争」という環境の中で、生と向き合う一つの方法としてアートが存在するのだとすれば、それは、人々の傷ついた心を慰め、他者と嘆きを分かち、怒りのはけ口を提供しながら憎しみを鎮めるためだけの好都合な道具であるはずがない。そんな夢のような効能に悦び、感ずるべき痛みを放棄することは、つかの間の安堵と引き換えに、新たな「暴力」を招きすらする。あるいは他に、いったい生き延びる術があろうか?

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第4号:

また、2015年の年始に執筆した第四号のコラムではシャルリー・エブドの襲撃事件を経たパリのことについても言及しています。エッセイタイトルは、L’art pour « ici et maintenant »/「いま、ここ」のためのアート、です。
アートとはなにか、アートの意味、存在意義とは何か。非常事態において、アートは役に立たないのか。シャルリー以降の世界のこと、ポスト・フクシマのことについて書いています。

リード文を添付しておきます。

L’art pour « ici et maintenant » /「いま、ここ」のためのアート

リード文:パラソフィア開幕まで残すところ僅かである。ノッシノッシと歩んできた「パラ人」もついにその真の姿を現す時が来たのかもしれない。新年早々前期最終講義となるフランスで、非常時における芸術と表現の自由を喋っている途中、パリの街は非常時と化した。翌日、街中が緊張する中、グラン・パレでニキ・ドゥ=サンファルの回顧展を見る。父子関係にトラウマを持つニキが父への恨みを込めてライフル銃で発砲しまくる「暴力的」な作品も堂々と展示されたままだ。これが本当のリテラシーでなければ何だろう。このことは可能なのだ。
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また、特集コラムも執筆しました。これは、このサイトでも既に掲載した(大谷悠さんについての記事)、コンテンポラリーダンサーの大谷悠さんの作品、Solo Weddingに関する記事です。
タイトル「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」は、大谷悠さん自信の作品ディスクリプション、樫田祐一郎さんの散文詩、そして私のパリ第8大学における彼女の公演についての文章にパリ第8大学写真学科のマノン・ジアコーヌさんの写真を加え、集作となりました。

リード文はこんな感じです。
リード文:奇妙な読みものがある。そこに奇妙な名前のダンスがあったからである。Solo Wedding /ソロ・ウェディング。「結婚」とは相手の在ることが前提であり、独り者は挙式しない。あるいは、ソロである者が挙式を執り行うためのあらゆる儀式を通じたならば、その素晴らしいウェディングドレスは日の目を見ることができるか? 憂える花嫁(I)。詩人がおぎなう「むこうがわ」の言葉(II)。作品は、おぼろげに説明される(III)。願わくは、思索を通して、悩める人々の様々な問題や異なる苦しみが、干上がり、枯渇し、どこかへ行ってしまうように。
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ダウンロードはここから!(Parasophia, Parazine)
もし可能でしたら、ぜひぜひホンモノをお手にお取りください!
紙媒体のパラ人、なんというか、ぬくぬくしますよ!

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なんとー!散文詩を書いてくれた樫田祐一郎さんが、こちらの記事について、パラ人について、散文詩についてSNS上に書いてくださった文章をこちらにも掲載させていただきました!文を書くのは対話的な作用があるから、楽しいのであります。以下は樫田祐一郎さんの書かれた文章です。。。
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大久保美紀(Miki Okubo)さんのはからいで、パラ人4号の特集記事「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」の中の2つめの「思索」を担当させていただきました。
この記事は、ダンサーの大谷悠さんが11月のパリ第8大学で披露した作品「Solo Wedding」をめぐるレビューです。
タイトルにもあるようにこれは大久保さんによる前文と3つの「思索」から成っています。
1つめは、もともと大谷さんが上演に先立って公開していた文章を加筆修正したもの。
私が担当した2つめの「思索」はその実 »詩作 »(たはは…)でして、「控え室(ソロ・ウェディング)」と題した散文詩となっています。
ちょっと、一読しても何が何だかわからない文章かもしれませんが……。
種明かし(?)をしてしまうと、挙式前にソロ・ウェディングを夢想するソロ・ブライドの視点から、大谷さんのダンスの印象(3次元の言葉)を、紙上の、2次元の言葉に移し置いてみたもの…の、つもりです。
そして3つめは大久保さんによる論考です。大谷さんのダンスそのものについてはもちろん、はじめ「鑑賞者」であった私たちが、それぞれの思索――あるいは詩作、ともあれなんにせよある種の「作品」であり「表現」であるもの――によって応答することの意味をも、明かしてくれるすばらしいレビューになっています。
対話を生みえない作品を、しばしばそうされるように「ひとりよがり」と難ずるとき、私たちは対話というものがあたかも自然発生するもののように考えていないでしょうか。「鑑賞者」(表現を「享受する」ひとびと)が負う責任や能動性、つまり自分たちの言葉もまた他ならぬ私自身の「表現」であるということ――これは、たぶん往々にして忘れられてしまっていることです。
対話に開かれているべきなのは最初にそこにあった作品だけではなくて、私たちもまた自らを作品との対話に開いていなければいけない……あるいは開いていることが »できる »、開いていても »いい »と言うべきか。それとも開かれて »いる »という事実(「運命」?)だけがただ、あるのか。義務、可能、許可、断言、適切な命題のモードは私にはまだわからないけれど。
と、いうわけで私たちは表現しました。
いま、気になるのはこれもまたひとつのダンスでありえただろうかということ(私は踊っただろうか?)。
そしてこの表現はあらたに誰かを踊らせるだろうか。
「踊りは遍在する」(大久保美紀)。
…あ、そしてそして。この「3つの思索」にはパリ第8大学で学ぶ写真家マノン・ジアコーヌさんによって切り取られたソロ・ウェディングの3つの瞬間も、添えられています(これがなんとも素敵なのです!)。
というわけで、実際に作品を鑑賞した方にもしていない方にも、これら3+1つの「表現」を通じて踊る花嫁の姿が幻視されますように……。

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