02/18/17

Rencontre: L’un l’autre – performance, conférence et conversation

l'un l'autre Art science 28 02 2017

Bonjour à tous! J’ai le plaisir de vous annoncer ma participation à la rencontre à Nantes le 28 février! Dans le cadre de l’exposition en cours « L’UN L’AUTRE » (le catalogue téléchargeable sur le site de Lotokoro: http://lokotoro.org), j’interviendrai pour une conférence sur l’art médical, notamment la question posée sur l’utilité de l’art dans les champs « outsider », suivie par la conversation avec Euloge Ekaza, Florian Gadenne et Jérémy Segard. Cette journée débutera par la performance de Florian Gadenne, intitulée « micro-individus ».
Venez nombreux, je serai ravie de vous voir !
2月28日にナントで行なわれる、現在開催中展覧会L’UN L’AUTRE関連イベントでカンファレンスをします。テーマは、医療とアート(あるいは医療アート)、とりわけ、アートが言ってみれば門外漢であるようなコンテクストで表現を期待されるとき、アーティストとアートの役割は何なのか、アートの有用性に関して考察したいと思っています。当日は、florian gadenne(フロリアン・ガデン)のパフォーマンス「ミクロ・インディビジュアル」(micro-individu)で始まります。
ナント近辺にお知り合いのいらっしゃる方々、どうかご宣伝いただけましたら幸いです。よろしくおねがいします。

IRS2 – Nantes Biotech
22 Bouleverd Benoni Goulin – Nantes
L’UN L’AUTRE
le mardi 28 février 2017

14h – « micro-individus »
Florian Gadenne – Artiste
Performance en Salle de culture n° 318 – 3ème étage

14h30 – « Art médical ? »
Enjeux des approches artistiques
pour l’exposition dans un institut de recherche
Miki Okubo* – Ph.D : Esthétique et arts plastiques
Salle de réunion n°1 & 2 – Rez-de-chaussée NBT

15h30 – « Conversation »
Euloge Ekaza – Manager du projet ARMINA
Florian Gadenne – Artiste

Miki Okubo – Ph.D : Esthétique et arts plastiques
Jeremy Segard – Artiste, président de Lokotoro

Lotokoro: http://lokotoro.org
Florian Gadenne: http://floriangadennecom.over-blog.com
Exposition L’un l’autre: http://lokotoro.org/index.php/projets-en-cours/l-un-l-autre

10/4/16

L’UN L’AUTRE, exposition à Nantes en novembre 2016

展覧会L’UN L’AUTREは、ナント市の医療研究機関IRS2の開館に際して、本研究機関構内および屋上を利用した展覧会です。私はアート批評家として、本展覧会カタログ掲載のテクストを執筆、参加アーティストの作品についての論評および展覧会趣旨についてのマニフェストを寄せています。

本展覧会が焦点を当てているのは、感染症における宿主―病原体のインタラクションについてです。芸術的アプローチを通じて、このような専門的な主題に対して何かアクションを起こすことは可能なのか。専門的でありながら、医療や科学は私たちの日常や生きること、より良く生きることそのものに深く関わっています。本展覧会でアーティストたちがやってみせるのは、“先端”/“専門”領域に属するテーマについてパブリックの関心を喚起するための実験であり、研究であり、新しい実践であるということができます。例えば、清潔や健康という概念はさまざまな言説に取り巻かれており、何が正しい情報なのか、何が適切な知識なのか、非常に分かりにくいのです。芸術の役割あるいは重要な潜在性は、こういった閉じられた専門領域を開いてコミュニケーション可能にすることにあります。

本展覧会でアーティストたちによって提起されたアプローチは、多様な関係性への(環境―病原体―宿主―人間の身体―病気と生命)新たな解釈へと私たちを導いてくれます。

J’ai le plaisir de vous annoncer ma participation à l’exposition L’UN L’AUTRE à l’occasion de l’inauguration du bâtiment l’IRS2 à Nantes en novembre 2016. Je serai auteur du texte intégré dans le catalogue de l’exposition ainsi que l’extrait exposé dans cet espace. La thématique que nous travaillons est la réflexion sur l’interaction hôte-pathogène via éventuelles approches artistiques. Il s’agit d’abord d’une considération sur les maladies infectieuses. Il s’agit aussi à notre avis d’une recherche/ expérimentation/ nouvelle pratique qui permet potentiellement de sensibiliser le public sur des sujets scientifiques « spécialisés », d’éveiller la curiosité et l’intérêt sur des connaissances nécessaires à propos de l’hygiène et de la santé, et de créer un accès à tout ce dont on a besoin pour vivre mieux face aux situations actuelles: haute-spécialisation des connaissances scientifiques et médicales, sacralisation des domaines académiques et isolation des champs de recherches…

Je crois qu’il existe une utilité importante portée par l’expression artistique dans un tel domaine peu associé à l’art selon la compréhension générale. Les propositions des artistes participants ouvriront une nouvelle voie vers la pensée sur la relation parmi: l’environnement, les agents pathogènes, l’hôte, le corps humain, la maladie et la vie.

Vous trouverez le lien ci-dessous expliquant le projet par l’Association Lotokoro :
http://lokotoro.org/index.php/archives/2-appel-a-projet-experimentation-en-culture-scientifique-sur-les-maladies-infectieuses

Vous trouverez également un projet de Florian Gadenne, artiste exposant, de la description sur son expérimentation autour de la Tour de Babel.
http://floriangadennecom.over-blog.com/2015/09/tour-de-babel-etho-biologique.html

Artistes exposants: Jérémy Segard, Evor, Florian Gadenne, Sylvie, Geoffroy Terrier et Miki Okubo (texte).

Au plaisir de vous voir à Nantes et à suivre pour la date et le détail de l’ouverture.

Miki OKUBO

09/13/16

un récit lucide d’une survie rituel

SONY DSC

expérimentation physique – isolation volontaire – tentation déshabituée

SONY DSC

sensation honnête – simulation naturelle – illusion réaliste

SONY DSC

mythe spatiale – rite animalier – prêtresse sonore

SONY DSC

peinture dynamique

SONY DSC

douleur extasiée

SONY DSC

intuition – soif – lucidité

SONY DSC

vide – cure – bonheur

SONY DSC

compréhensibilité réspirable – oxymoron inquiétante – pluralisme théâtral

SONY DSC

art mur – but simple – ouverture intelligente

SONY DSC

affection relative – sympathie cathartique – cycle répétitif

SONY DSC

nid – acte – vie

SONY DSC

images par miki okubo et florian gadenne (blog d’artiste)

tous droits réservés. toutes utilisations, reproductions sans accord des auteurs ne seront pas aimées

09/5/16

Materiality Immateriality, Exposition à Kyoto. Immatériaux, après…

Matteriality_Immateriality_AMatteriality_Immateriality_BMatteriality_Immateriality_A

Matteriality_Immateriality_B

05/11/16

NEWS, Miki OKUBO: conférences, colloques, publications

2016年5月14日14時
YvetôtのGalerie Duchampで行なわれる講演会Le colloque: La figure au temps du numérique… soi, moi, self, l’autre? @Galerie Duchampで喋ります。
スクリーンショット 2016-05-10 17.29.38
展覧会 »L’empreinte directe du vécu sur le temps »はBill VIola, Fleur Helluin他。現代のポートレート/セルフポートレートに関するとても興味深い展覧会です。
講演は、「セルフィー的実践:可動的なイメージが自己表象に与える影響」(« la pratique SELFIQUE: l’impacte des images mobiles sur l’esthétique du soi » )
http://www.galerie-duchamp.com/index.php?id=228
resize_these_201604Duchamp_JdE_Empreinte-Poster01-1
Duchamp_JdE_Empreinte-04 (téléchargez le programme !)

 

2016年5月6日〜7月1日
展覧会 »Vivre ou vivre mieux? »
Jérémy Segardのデッサンと私のテクストによる展覧会、パーソナライズド・メディシンをめぐる考察です。来月このプロジェクトに関わって本 »Vivre ou vivre mieux? » が出ます。
Personalized Medecine に関する思考、芸術的アプローチ。NantesのLa Conserverieにて。
Vivre-ou-vivre-mieux-MO-JS-2016

 

 

*論文*
3年間の科研費共同研究「ポピュラーカルチャーの美学構築に関する基盤研究」の成果報告書に論文が掲載されました。
執筆者:室井尚(研究代表)、佐藤守弘、吉田寛、吉岡洋、秋庭史典、大久保美紀。
「『異装』のモダリティ
― 充溢するコスプレ、あるいはコスプレ後のファッション」
popularculture(ドラッグされました)
2015年度科研成果報告書_大久保美紀

 

2016年4月9日
INHAで行なわれた研究集会 « Arts contemporains et leur espace institutionnel » (organisée par Pamela Bianchi et Jee Jeeyoung Kim)で講演しました。
講演: »L’exposition comme dispositif de la ré-expérience » (追体験の現場としての展覧会)
12974296_10208745301616090_5400071850855039450_n

01/7/16

春画展 @永青文庫 / Peinture de moeurs, Exposition de Shunga

 

SONY DSC

今回の日本滞在では、関東で二つだけ展覧会を見た。春画展はそのうちの一つである。春画展がたとえ期待はずれの展覧会であったとしても、訪れたことを後悔しないかもしれないと、ぼうっと思ってしまうほどに、お天気に恵まれた素敵なお散歩であった。訪れられた方はご存知のように、撮影が一切できない展覧会であるために、到着までの写真しかない。が、到着までの道のりの写真が最も素晴らしいように思われる。

SONY DSC

SONY DSC

SONY DSC

SONY DSC

繰り返すまでもなく春画展は、細川家のコレクションをベースに、会期中の入れ替えがあったけれども総数にして120点あまりが国内で「美術展」として鑑賞される機会となった点で国内では大きく着目された。なぜなら、日本では「芸術と猥褻」をめぐるなんだか不明瞭かつ政治的なあるいは戦略的な議論は絶えず創作とは別個に大手を振るい続けていて、近年も記憶に新しい幾つかの「猥褻」をめぐる現代芸術の状況などを考え合わせるにつけ、「いやー、日本でついに春画の展覧会とはすっごいな!」とか言ってみたり、「いやいや、大英博物館やベルギーでの春画展を見てみろ!海外では当たり前に春画は美術として鑑賞され高い評価を得ているではないか!なぜ日本国内で展覧会を行なわない、そのほうが不自然だ!」とか、ナントカ、熱くディベートされたのかもしれない。

春画の猥褻さが本当に問題だというなら、ハッキリ言ってアタリマエで、隠喩に満ちた作品ならともかくも、ハッキリと性器やら体位を表してしまっている絵をガラス越しにのぞきながら、「いやいや、これは美術ですから!」なんていうのも滑稽な話だ。春画がいつ美術でしたか?春画が美術になったのは、美術館で美術品としてなんとなくハイソなものとしてこれを展示した瞬間からであり、別に、発注を受けてあるいは趣味で描かれたこういった絵が「絶対的に芸術的である」ことなど有り得ない。ここにあるのもまた、後付けの「藝術マジック」的な状況である。しかしながら、そこで使われている技術やそこに見られる画家の表現力、想像力はもちろん評価に値するのであって、メタファーやアソシエーションは文化的・歴史的観点からも常に興味深い。そのことを踏まえた上でも繰り返しになるが、「春画は藝術であるか?」などと問うことそのものが滑稽である。

混んでいて作品の見えない展覧会など皆嫌いだと思うが、私も勿論大嫌いである。とりわけ、列にならんだまま少しずつ横にずれていく、しかも「進んでください!」と係の方が絶叫しているような展覧会は恐ろしいので足を踏み入れたくない。一方、永青文庫の展覧会では、予め4つある部屋はどのような順序で回ってもいいということを告げてくださっており、ほっこりした。が、やはり混み過ぎていて、私は大概見たい作品の前でまったく動かず、順番にみたりしないので、3秒ずつ見ては左に皆と同じリズムで横歩きするなんて器用なことができずに何度も列からはみ出したところ、「割り込むな!」と2回お叱りを受け、3回エルボを頂いた。こうすることによって、ご自身もその列から抜ける自由がなくなりほんの少しずつ左側に横歩きするベルトコンベアーと化しているということを恐らくお気づきになっておられるのだろうな、と残念に思いながら、それでも1時間半くらいはゆっくり見ることができた。国内での春画展ということを踏み切られ、そのひとまずは第一歩目の道を造られた細川護煕永青文庫理事長の行なわれたことはやはり良いことであったなあと思う。

FullSizeRender

01/7/16

売春の壮麗と悲惨 @オルセー美術館/ Splendeurs et misères Images de la prostitution 1850-1910

年末に地元北海道で再会した音楽の師匠が最近見たもので「これは!」と思ったものはあったか、と私に尋ねた。「これは!」というもの。最近みた永青文庫での「春画展」がちらりと頭をよぎったが、申し訳ないけど特段これはということもなかったな、春画展を行なったということそれ自体は素晴らしいことだとは思うけれども…とモゴモゴしているうちにそういえばオルセー美術館で帰国前に見た念願の「娼婦展」なんてそれに比べて相当素晴らしかったじゃないか、と思い出す。開幕前から相当期待していたものの開幕後もなかなか赴けず、12月の半ばにようやく訪れることができた。

FullSizeRender

そのヴォリュームたるや相当のもので、幕開けは静かに、Ambiguïté と名付けられた項目に、Le Moulin RougeやFolie-BergèreといったスペクタクルのPrositituéesを描いたものやカフェのテラスに腰掛ける女たちを描いたドガの絵画などを眺める。必ずしも説明的ではない展覧会であるが、それでも »Prosititution »という「文化」を包括的にあけっぴろげる勇敢な展覧会ではある。Prosititutionのコードや女たちのアトリビューションを見るのも、現代的な視点からすればなるほどなかなか興味深い部分はある。

SONY DSC

Maisons closesの部屋がこれに続く。まあだんだん見るに耐えなくはなって来るが、メゾンの中を描こうと、そこで行なわれていることを描こうと、あるいは道ゆくPrositituéesの華やかなドレスの様子を描こうと、高級娼婦の冷たい視線を高度に演出して描こうと、結局は顧客であったり観察者であったり分析者であったりするところの人々の »Splendeurs et misères »というタイトルが象徴するヴィジョンを浮き彫りにするだけである。彼女等の世界は、常軌を逸し、それがカタギの者の世ではないという点であまりに壮麗で輝かしいものなのであり、同時にそれはPrositituéesが何たるかを本質的な意味で受け入れて諦めた女たちの生き様の、その視線や表情や体躯にすら現れる悲惨さなのである。これに惹かれる者も、これを魅了する者も、あるいは同情する者すらも、共謀者である。

L’aristocratie du viceという一連のカテゴリーでは、ゾラの小説『Nana』に登場する高級娼婦たちのような、煌びやかな世界が垣間みられる。踊り子や女優、モデルとなるような若い女たちは、特別チャンスがあれば甘やかしてくれるパトロンに見初められて恵まれた人生を送る。99%の他の女たちはそんなことにはならないことを重々に承知でそれでも踊り続ける。

最後の章では著名なEdouard ManetのOlympia(1863)が近代のPrositiutionの姿としてスキャンダラスであったことが告げられるけれども、ここまでくるとProstitutionを描く様式そのものが高度にコード化されており、無論、ピカソやロートレックら著名な画家が繰り返し女たちを描いているけれどももはや、彼女等は出来上がった物語の中の既存の役割を充てがわれたに過ぎないような、そんな表情をして立ち尽くしている。

この展覧会がぶっちぎってスゴいのは、1839年以来撮影された、現代であればポルノグラフィと呼ばれるであろう大量の写真とポルノビデオのパイオニアであるビデオ小作品を大量に「十八禁の部屋」内に仕込んだことだ。ここはオルセー美術館という世界的にももっとも重要な美術館であって、ここにおいて開催された「娼婦展」のなかで、絵画からははみ出すけれども紛れもなく、写真と映画にとって重要なプロセスとしてのポルノグラフィの資料を、惜しげもなく見せたのは素晴らしい。

この18禁の部屋の雰囲気はなかなかよくて、しかしあまりに身も蓋もない性描写に、<エレガントな美術展>をゆっくり鑑賞しようとカップルでやってきた人々はなんだか落ち着かず、必ずどちらかはもう少し見たいと思っているにも関わらず「もう行こ…」と相方に言われて退散する羽目になっている。1人で来た鑑賞者は他者の目も気にせず、覗き穴から満足するまでフォトグラフィーを見つめている。贅沢な時間だ。

展覧会カタログは基本的に買わないことにしているが、針のふれた部分のある展覧会だと思ったので購入した。また、「売春のイロハ」(?) »Abécédaire de la prostitution »も購入してしまった。

FullSizeRender

10/4/15

Nuit Blanche 2015

Félicie d’Estienne d’Oves et Julie Rousse
EXO (installation)
@Espanade du millénaire Aubervilliers

SONY DSC
nuit blanche 2015 29
SONY DSC

SONY DSC

SONY DSC

SONY DSC

Encore Heureux
Extinction (installation)
@Square Claude Bernard
SONY DSC
SONY DSC

Sinato+ARCHIRR+Izumi Okayasu
Spectrum (Installation)
@Tunnel piétonnier de la Gare Rosa Park
SONY DSC
SONY DSC

SONY DSC

Keita Mori
Bug Report (Dessin)
Terrain d’éducation physique Archereau
SONY DSC

nuit blanche 2015 8nuit blanche 2015 1

SONY DSC

@Centquatre-Paris
SONY DSCSONY DSC

SONY DSC

 

09/22/15

ディン・Q・レ「明日への記憶」/Dihn Q.Lê: Memory for Tomorrow

Dihn Q Le Mori museum
SONY DSC
森美術館で開催中のDihn Q.Lê: Memory to Tomorrow展(ディン・Q・レ「明日への記憶」,http://www.mori.art.museum/contents/dinh_q_le/)を見ました。ディン・Q・レはベトナムの伝統的なゴザ編みから着想を得た、写真のタペストリー「フォト•ウィービング」シリーズ(Photo waving series)で世界から着目されました。ベトナム戦争やハリウッド映画という象徴的イメージを自国の伝統工芸品の手法によって作品として織り成し、イメージは溶解、混合、再構成され、鑑賞者の前に再び突きつけられます。
SONY DSC
SONY DSC
また、象徴的イメージを50メートルにも引き延ばした写真作品では、もはやそこに何が表象されていたのか分からないにも関わらず、マテリアルである写真はなおもそこにあり、何かを現し続けるという矛盾が生じている。
SONY DSC
SONY DSC

ヘリコプターは実は、第二次世界大戦時には軍事に実用されなかった乗り物である。無論、1900年代初頭にフランスのモーリス•レジぇらが開発に成功しており、大戦末期に米軍が試用した実例はあるものの、実用化は1950年代以降、ターボシャフトエンジン搭載後のことで、さらに補助任務に留まらない本格的運用は、ベトナム戦争が初めてなのである。
SONY DSC
dihn q le mori museum 8
dihn q le mori museum 16
1964年ケネディ政権、1965年からのジョンソン政権のアメリカ政府が大規模介入を行なう。地上戦の険しさより、上空からの部隊展開を行なったのだ。これ以降ヘリコプターは地上戦が困難な際の主力兵器としての地位を獲得する。北ベトナム軍は山地を逃げ、ヘリコプターがこれを追う。軍人だけではない。一般の村民もまた、この上空からの脅威に怯えた。
dihn q le mori museum 4
ディン・Q・レのヘリコプターに関わる作品は、ベトナム戦争の象徴的兵器としてのヘリコプターが人々の心に刻まれたトラウマとなっている事実と、それは今日農業を助け、人々の生活を格段に楽にする道具としての可能性を訴える人々のことばを三枚の連続するスクリーンに投影する。それぞれの思い出と、パロールと、ヘリコプターの脅威と可能性は、混ざり合い、拮抗して、流れる時間のことを考えさせる。
SONY DSC
枯れ葉剤の及ぼした健康被害は重大である。除草剤の一種でダイオキシン類を非常に高い濃度で含む薬品である。1961年から75年まで散布され続けた。1969年には明確に先天性奇形の出産異常が確認されていたにも関わらず、75年まで散布され続けたのである。
日本で分離手術を受けたベトちゃんドクちゃんで知られる結合性双生児のような癒合した双生児が数多く出産された。ディン・Q・レはこれに焦点を当て、Damaged Gene(1998)と名付けられた公共プロジェクトを発表。
SONY DSC
「人生は演じること」という作品は、それが日本人の軍服オタクの青年の<アイデンティティ探求>に関わる表現行為、と説明されるものの、そして数あるディン・Q・レのユーモアのエスプリが効いた作品であると納得しようと試みたとしても、喉に何かが詰まってうまく、飲み込むことができない。戦争も大災害も悲劇の記憶も、明日に向かって、明後日に向かって、そして百年後に向かって、その直接的な傷痕と、もだえるような痛みは風化されるのだろう。そしてそこに、物語が付与されたり、憧れる者が語り継いだり、共感する者が哀れみ続けたりすることによって、「明日への記憶」が形成されていくだろう。この作品を見ることは、容易くはない。
dihn q le mori museum 15

09/22/15

夷酋列像, the image of Ezo 北海道博物館 Hokkaido Museum

夷酋列像 the image of Ezo

『夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』展が、現在、北海道博物館開館記念特別展で開催中です。本博物館は、北海道開拓の村http://www.kaitaku.or.jpという広大な敷地内にある1971年会館の北海道開拓記念館と道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、2015年4月にオープンしたばかりの博物館である。http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/about/アイヌの歴史や文化、北海道のあり方に関する研究組織であり、学芸員や研究職員が所属する国内でも重要なアイヌ文化の研究機関である。

ちなみに北海道開拓の村は、北海道百年を記念して設置された、極めて「和人」的な、つまり和人のフロンティア征服の栄光を讃える的な匂いのしそうな施設と思われるかもしれないが、私の幼少からの経験では、北海道という土地の人民は、なんというか、アイヌの文化に対して今日エキゾチズムの視線でこれを高覧することもないし、過度にうやうやしくこれを「保護」しようと胡麻をすることもないし、北海道民自身は、この歴史と文化について、現代ではごく自然なリスペクト以上のものを振りかざしはしない、というのが率直な印象である。

これには幾つかの理由がある。

アイヌ民族は、研究により、続縄文文化、擦文文化を継承して独自の文化(アイヌ文化)を作り上げた民族だが、和人は歴史上ご存知のように、15世紀(1457年)、志海苔(函館)での接触をキッカケに戦闘に発展したコシャマインの戦いや、数々の戦いで彼らと衝突し、武力によって彼らを利用したり殺害したりしてきた。17世紀(1669年)に十分に北海道内陸である日高の静内で起きた松前藩とアイヌ民族の戦闘であるシャクシャインの戦い、これ以降、和人はアイヌ民族を強制労働者として利用したり、経済的に困窮させたことにより、ついにはクナシリ・メナシの戦い(1789年、ちなみにこれはフランス革命と同じ年)、北海道東部までアイヌ民族を追いつめての戦争、後に紹介する12人のアイヌの偉人の一人であるクナシリ首長ツキノエの留守を狙って大規模な殺害を濃なった悲惨な事件である。あまりに残虐な歴史であり、彼らの歴史や文化を研究するといえども、今日、アイヌ民族の人口は非常に少ない。

そしてこの「和人」の運命自体も着目すべきである。松前藩廃藩以降の、1871年に明治政府により官庁として設置された開拓使では、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」、言うまでもなくロシアの脅威の北方の壁となるべく身体を張って<「内地」(皇国)を守る>ことが使命であった。歴史の中で、どんな運命をたどるか、どんな興亡を見るかという、かなりのパーセンテージが実は、その地理的要因に拠るのである。北海道は、北方四島と樺太以北をめぐって、そのマージナルな地理を抱え、アイヌを利用しながら、ロシアと向き合い、内国の和人のエスプリと少しずつ確執を深めながら、この地に一世紀と数十年の歴史を築いてきた。北海道の冬は冗談でないほど大変である。たとえば暖かい国からやってきた農民だとか、たとえ東北出身者でもそれほどの厳しい冬を知らない移住者であれば、冬を越すことができなかったでしょう。政府は、越境のためにあまりに予算を食い過ぎる予想外の事態に、そそくさと予算を打ち切って断念しています(嵯峨藩士島義勇の島の計画)。

内地(皇国)のために矢面になるという役割は大正、昭和を通じて変わることはなく、悪名高いスターリン政権が武装解除した軍人を強制労働させたシベリア抑留が最大で11年に渡って行なわれ、日本人も50万人が抑留されたが、これはヤルタ協定での千島列島・南樺太の占領のみならず北海道の一部占領を要求したスターリンへのトルーマンからの対策だったのではないかと見る説もある。

今でもとてもワクワクする記憶として鮮明に思い出すのが、小学校のときの社会科の学習の一貫で、北海道の歴史を学んだ経験である。そこでアイヌ文化の紹介があり、アイヌ語のいくつかの言葉の紹介がある。北海道の地名や言葉のアイヌ語における意味が説明される。初めて出会う外国語に限りなく近い、しかし日常生活に密着した言葉の数々である。
「アーント!蟻!」「ペン!ペン…」と唱えていた嘗ての英語学習に比べたら、「さっぽろ」が、つまり「サツ・ポロ・ペツ」渇いた大きな川(そうです、豊平川のことでした!)であると知ったときの、あの喜びはなんとも心が踊る経験である。

さて12人の列像は、しかし「和人」によって描かれたものであるから、和人の文法を正しく使って、エンブレムを散りばめながら、作法に従って描かれたものである。例えば縄文人的な容貌、「一眉深眼、髪髭ながふして総身毛の生たる事熊のごとし」(坂倉源次郎が18世紀に記した『北海道随筆』における典型的描写)や、「三白眼」という黒目部分の非常に少ない眼の描き方、アザラシのブーツ、射た雀や鳥をベルトに結び、矢を引き、熊を犬のように連れ、仕留めた鹿を背負い…、彼らはそうやって、偉人(異人)伝説に登録されてきたのである。

げにいとめつらに気うときかたちしたり まゆは一文字につづきてまぶたのうへにおほひ ひげは三さかばかりありて口つきも見へず

なんてこった、昔の人の、異なる人を区別する視線は!
そんな風に、可笑しく思うかもしれないけれど、わたしたちは、
今日でも未だに、こんなことを世界のあちこちで、しています。

展覧会は巡回します。
日本のこと、和人と国の四隅で矢面になる各地の人々のこと、世界の異文化と異人のこと、考えるキッカケになると思います。

マウラタケ
ウラヤスベツ(斜里町)の首長。ポーズは仙人の図像集である『列仙図賛』を参考に描かれたもの。
ainu expo マウタラケ

チョウサマ
ウラヤスベツ(斜里町)の首長。同様に仙人図を参考にしたポーズ。アイヌの宝器を携えている。
ainu expo チョウサマ

ツキノエ
クナシリ(国後島)の首長。蝦夷錦の上に西洋の外套を纏っている。ポーズは中国三国時代の武将関羽に類似。
ainu expo ツキノエ

ションコ
ノッカマップ(根室)の首長。クナシリ・メナシの戦い終息のためにアイヌを説得したとされる。ノッカマップは、戦いに参加した多くのアイヌが処刑された場所である。
ainu expo ションコ

イトコイ
アッケシ(厚岸)の首長。紺の錦に赤い上着を羽織り、槍を携えている。
ainu expo イトコイ

シモチ
アッケシ(厚岸)の首長。弓術の名手として知られ、『和漢三才図会』はじめ多くの百科事典などに登場する弓をいるアイヌのモデルとなっている。
ainu expo シモチ

イニンカリ
アッケシバラサン(厚岸)の首長。白と黒の幼いヒグマを連れている。これは、弘法法師を高野山中で導いたとされる白と黒の犬を連れた狩人の図によると思われる。
ainu expo イニンカリ

ノチクサ
ノッカマップのシャモコタン(根室)の首長。鎌倉時代の武将、源平合戦の際に愛馬を担いで絶壁を駆け下りたという武士の怪力と野蛮さの象徴を象徴する畠山重忠の逸話を思わせる図である。
ainu expo ノチクサ

ポロヤ
ベッカイ(別海)の首長。右の襟を上に重ねる着方によって、和人の着物の着方との区別をしている記号的図像である。犬は洋犬として描かれている。
ainu expo ポロヤ

イコリカヤニ
ツキノエの末子。捉えた鴨を抱え、後ろに振り向いている。
ainu expo イコリカヤニ

ニシコマケ
アッケシ(厚岸)の首長。弓を抱えている。アザラシ皮の靴が、置かれることによって一層強調されている。
ainu expo ニシコマケ

チキリアシカイ
イトコイの母。ツキノエの妻という説もある。異国より手に入れた敷物のうえに毛皮を敷いて座っている。
ainu expo キチリアシカイ

蠣崎波響
蠣崎波響(1764−1826)は、松前藩主、松前道広の命を受け、クナシリ・メナシの戦いで功を奏したアイヌ首長12人の図を作成した。12人の絵に「夷酋列像序」という序文を持参して上洛し、多くの文人・貴族に披露した。さらに、光格天皇の目にも触れ、これらの列像は多く模写されることとなった。