04/15/12

松田有加里/Yukari Matsuda, 奏でられるイメージ

松田有加里(写真家)インタビュー

私が松田有加里の作品とはじめて出会ったのは、パリのバスチーユ広場の眼の前にあるギャラリー、メゾンダール・パリでの個展においてであった。その時展示されていた作品の中で、陽の光が差し込む草原風の緑色のなかに、ひとつの壊れかけた白っぽいベッドが佇んでいる。その一枚のイメージが鮮明に目の裏に焼き付いて、忘れることが出来なかった。

Yukari Matsuda, 2009, from limited copied post cards

パリでの個展のタイトルは »Fantasia »(ファンタジア)。展覧会に一歩足を踏み入れてみればわかる。彼女が提示する写真たちはそれぞれが、たしかにどこか妙なオーラを放っていて、同じものを今まで目にしたことがない。こわれたベッドの作品もそのうちの一つだ。いつどこでどんな季節に撮影されたものなのか、まったくわからない。それどころか、あらゆる属性を突き放して、ある日ある場所に陽のあたるジャングルがあって、そこには鮮やかな色彩の花が咲いていて、壊れた白いベッドがそこにありました、という物語だけがこの作品の真実であるようにすら思えてくる。実際に作品を目にして頂きたく思うが、光の捉え方が素敵な作品だ。

 

彼女の写真のモデルとなるのは、私たちが生を受けるずっと以前、父も母も生まれる以前から世界にひっそりと存在し、すこしずつ歳をとってその役割を終え、とても静かに世界から消えていってしまおうとしている古い古い建物やアパート、学生寮などである。昭和初期に竣工された京都市左京区の銀月アパートメント、東京の同潤会アパートメントハウス、さらに京都大学の吉田寮などが彼女の被写体となってきた。

Yukari Matsuda, 2009, from limited copied post cards

個人的な話だが、私は京都大学交響楽団の出身で、吉田キャンパスの南西端の空間を練習場所のひとつとしていた。松田有加里が今日まで10年以上にわたり撮影を続けてきた吉田寮を毎日視野にいれながら、「焼け跡」と呼ばれる吹きっ晒しの空き地(昔に火災があり、建造物が消失した後空き地のままであった)で楽器を練習していた。隣り合わせの集会場は交響楽団の練習場としても使用されており、構造を含めよく知っている。今思えばこの上なく残念だが、吉田寮自体に深く足を踏み入れた経験はなく、通過した程度だ。1913年に建てられ、いまや日本最古の学生寮である吉田寮は、昨年3月11日に東北地方を襲った震災以降の見直しのダメ押しを受けて、遠くない将来の取り壊しが囁かれているという、そんな話を耳にした。

 

吉田寮は人々の心をとらえるフォトジェニックな建造物であるらしい。通りすがりの旅行者が大きなカメラを構えて撮影にやってくるのをしばしば目にしたし、映画『コクリコ坂』の素敵なカルチェ•ラタンはまぎれもなく、この敷地内にあるサークル棟、「集会所」そのものである。しかし、実際にこの界隈を知る人が松田作品を目にしたなら、とにかくそのイメージの異化されように驚くのは約束された運命であろう。種明かしをされてからよくよく見れば、知っている建物であるに違いないのに、思わず、彼女の創り出す »Fantasia »の世界観にのみ込まれてしまうようだ。たしかにこんな写真は目にした経験がない。

 

「もうなくなってしまうものを、作品として残し、それを後世の人に伝えていきたい。そして出来るだけ多くの人に見てもらいたいと思う」、そのために作品をひたすらつくり続けていくのが自分の使命であると松田は語る。ただし、細部まで鮮明で物件資料として使えてしまうような、時と場所に縛り付けられたつまらない写真は一枚もない。あくまで自分の直感を信じて、見えた色や感じた光を一ミリの妥協も許さず再現していく。いずれ世界から消えていってしまうけれど、かつてはそこに存在したものたちの記憶の集積を、彼女の持つ色彩とリズムによって表現していく。これが、アーティストとしての松田有加里の活動の核である。

 

Yukari Matsuda, 2009, from limited copied post cards

松田有加里という写真家は、写真家である以前に一人の明瞭な表現者である。ピアニストであり、オルガニストである。詩も書く。ライブで演奏され、時間の中に消えていってしまう音楽とマテリアルとして残り続けていく写真。写真という手段は、音楽の領域で様々な問題に出会いながら、伝えるものを最もベストな形態で表すためにたどり着いた表現手段の一つに過ぎない、と語る松田は、音楽において養ってきた身体訓練と集中力、芸術的直感をもって、表現を実現するための様々な写真のテクニックをほぼ一年間で集中的にマスターしたという。いくら表現すべきものをもつ表現者であったとしても、メディウムを変えるというのはものすごくエネルギーのいることで、誰もが実現できることではない。彼女は、自分が写真という表現手段に向いているのだという事実を、これもまた直感で感じ取っていたに違いない。

 

「タイマーは使いません。テンポは自分の中にあるし、撮影したときからつくりたいイメージは出来上がっています」
松田は暗室の中で自分の身体の中にあるメトロノームのテンポを基準にイメージを紡ぎだしていく。作品は時に幻想的な色をおび、フルーでピンぼけであるものすらある。写真はリアルを写し取るメディアではあり得ないということを作品は語っている。視野に入っているものと見ているものは同一ではない。

 

Yukari Matsuda, 2009, from Fantasia Ⅰ

(略)ファンタジアが鳴りやむその日には、降るはずのない季節外れの雪がそっと舞うだろう。(松田有加里)

 

「文章をつけることで、解釈の幅を狭めるかもしれないということは危惧しました。でも、見る人というのは自分の経験や感情に引きつけて見ているので、意外とテクストに左右されないことに気がつき、それからは詩も付けて発表しています」
鑑賞者に解釈をゆだね、作品が一人ひとりの人間の中で消化されることを受け入れながら、出来る限りコミュニケーションをとっていこうとする態度を持ち続けている。とりわけ現在彼女が取り組んでいる作品を集めた「本」づくりも、様々な事情で展覧会会場へ足を運ぶことができない潜在的鑑賞者を考慮してのことでもある。

 

彼女の今まで創ってきた、そしてこれから創っていくであろうイメージが、後々多くの人々の目に触れるように伝えられていけばよいと思う。彼女が語るように、どこのなんと言う名前の建物であるとか、何年の竣工であるとか、必ずしも時と場所の情報に縛られるのではなく、人々の生きた物語の記憶として、いろいろな国の様々な人々に受け取られてゆけば、とても素敵であると思う。

インタビューに快く応じてくださり、お時間を割いてくださったご好意に心より感謝したい。
(2012年3月14日、大阪にて)

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04/8/12

みえるもの/みえないもの(visible / invisible) 豊田市美術館

みえるもの/みえないもの
豊田市美術館 HPはこちら
2012年1月7日~3月25日

豊田市美術館に訪れたのは初めてのことであった。3月半ば、とても晴れた暖かい日で、駐車場の向かいの民家のお庭には梅が咲き誇っていた。1995年にオープンしたこの美術館は江戸末期の七州城の跡地に当たるらしい。少しだけ上り坂になっている道を進んでいくと、谷口吉生の代表的建築の一つである豊田市美術館の建物が見えてくる。乳白色と反射すると淡い緑色に見えるガラス張りがとても印象的な建築で、メインエントランス前の広場には噴水があり、陽の光を照り返す水しぶきが殊の外美しく感じられた。

3月25日まで豊田市美術館で行われていた「みえるもの/みえないもの」展は本美術館のコレクション展であり、現代アーティストの中でも写真を手法として活躍する15人の作家の作品によって構成された。写真というメディアがもつリアルな側面とフィクションの側面、あるいは写真にはじまる新しいメディアが常に含有している複製可能性や模倣性の問題を浮き上がらせる重要な作品を目にすることができた。

「みえるもの/みえないもの」は反射的に興味がそそられる展覧会タイトルだ。その訳はひとつには、現象学を発展させて両義性の哲学を大成し、興味深い身体論を展開したモーリス•メルロポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の重要な著作のタイトルが「見えるもの、見えないもの」(Le visible et l’invisible, 1964)という事情がある。そしてもう一点は、この展覧会の主旨で述べられているように、写真というメディアの現実であるようで虚構であるような性質、オリジナルとコピーの境界が溶けていくような性質、これらは写真以降の現代芸術を考える上でとても重要な問題を投げかけ続けており、「みえるもの/みえないもの」は確かにこのような問題提起にぴったりなタイトルであるように思われる。

したがって、この展覧会では、
窃視症:ミケランジェロ•ピストレット、アルマン
私写真:ナン•ゴールデン、荒木経惟
日常性:中西伸洋、川内倫子
時間•記憶:クリスティアン•ボルタンスキー、ボリス•ミハイノフ、ローマン•オパルカ
永遠•巨視的視点:杉本博司、松江泰治
みえるもの/みえないもの:中川幸夫、志賀理恵子、ソフィ•カル、曽根裕
……という顔ぶれで構成されたのだから、どうにか3月末に間に合って訪れることができて良かった。個々の作家や作品は別の機会に目にしたことがあるものがほとんどであったが、展覧会としてこのような形でストーリーづけられ、そのコンテクストにおいて作品を見ることは、別の体験であるということを実感した。

 

Christian Boltanski, 聖遺物箱,1990

クリスティアン•ボルタンスキーの《聖遺物箱(プーリムの祭り)》(1990)も幾度かこれまで出会ってきた作品の一つである。
クリスティアン•ボルタンスキーは、1944年パリ生れユダヤ人として、人間の命と記憶に関わる強いメッセージをもった作品を数多く発表してきた。美術の正規教育を受けていないが(ギャラリーでのインタビューについてはこちら)、15歳の頃には既にアーティストになることを決意していたという。クリスティアン•ボルタンスキーが用いる方法はもちろん写真だけではない。匿名のポートレートは、殺されたユダヤ人の顔写真や子どものポートレート写真で使われた手法だが、同様に人間の生死とその記憶に関わる作品を制作する中で、着古された衣服を用いたこともあった。さらには、日本でも2010年7月に開催された瀬戸内国際芸術祭において発表された心音プロジェクトは心音を録音したデータがメディアなのである。

なるほどクリスティアン•ボルタンスキーの制作において、いつも一貫しているのは表現するべきテーマの方であり表現方法ではないのだろう。だが敢えて今回彼の写真に注目してみるとき、これらのポートレートは戦前にユダヤ人の祭りであるプーリム祭にたまたま集まった子どもの写真であり、彼らが果たして虐殺にあったのかその前に何らかの原因でなくなってしまったのか、生き延びたかわからないのだが、祭壇の前に遺影のようにして彼らのイメージが飾られることによって、彼らの肖像はもはや個人のものでも日常を切り取ったイメージでもなく、ひとりひとりの人間の生を超越した、もっと普遍的なイメージとして現れることになる。創り出された写真の意味は嘘かもしれないのだが、彼がここで行った最も重要なことは、イメージの意味を普遍化したということであるのだと思う。

 

Sophie Calle, 盲目の人々,1986

もうひとり、同じくパリ生まれ(1953年)のフランス人作家ソフィ・カルの《盲目の人々》(1986)という作品をみてみよう。ソフィ•カルは1980年前後から自分のベッドに友人や知人を招待して眠っているところを撮影したり、街の人々を尾行して写真を撮影するという、一風変わったコンセプチュアルな表現活動を開始する。彼女の作品は、ボルタンスキーが人間の生死や人類全体の記憶といった普遍的なテーマを目指したのとは対極的に、きわめて個人的でインティミットな主題が選ばれる。ソフィ•カル自身の想い出話、他人のとりとめもない語り、家族との幼少期の思い出、恋人とのストーリー。それらは多くの場合、写真とテクスト、思い出の品などと合わせて展示され、人々は個人的な体験を追体験するように作品を鑑賞する。

彼女の表現を理解する上で重要なのは、本当であることと本当でないことがまぜこぜになっていて、物事の虚実を明確にすることがまったくもって重要ではないということではないだろうか。写真はリアルを映し出すだろうか。答えは勿論否である。物語の真実性をうらづける証拠写真のように逐一提示される写真は、誰がいつどこでどのように撮影したか、わからない適当なものだ。実は写真とはそういうものなのだ。いや、もっと言えば、ひとびとの物語や想い出などというのは本質的に、うそでもほんとうでもない、いわゆる「たったひとつの真実」と呼ばれるものとはまったく似ても似つかないものなのではないだろうか。私は彼女の物語はそのようなことを私たちに伝えてくれるものだと理解している。

さて、《盲目の人々》はスキャンダラスな作品であった。1986年につくられたこの作品は、ソフィ•カルが生まれつき盲目の人に「美のイメージとはなにか」と質問し、彼らに答えてもらったことばをもとにソフィ•カルが写真を撮影するという一連のやりとりである。

J’ai rencontré des gens qui sont nés aveugles. Qui n’ont jamais vu. Je leur ai demandé quelle est pour eux l’image de la beauté.
私は生まれつき盲目の人々に出会った。生まれてから一度も見たことのない人々だ。私は彼らに、彼らにとって「美」のイメージとは何かをたずねた。

どこまでも続く海のイメージを語る人や、見たことがないけれど美しいと思う自分の子どもや家族が自分にとっての美のイメージだと答える人々がいた。たしかに、イメージというのは目で見るものなのだと改めて気がつく。好ましいとか気持ちがよいとか、愛しているとか、嫌いだとか、何かを感じるために視覚は必ずしも必要条件ではない。触りごごちで美しいものだと感じることもできるに違いない。しかし、「美のイメージ」はなるほど、きわめて視覚的なものなのかもしれない。彼女がインタビューを行った結果得られた彼らの答えから出発し、一枚のイメージを撮影したという行為は、けっこう素敵な協働だと思う。たしかにそれは彼らが想像したものとは同一であるはずがないし、その点で彼らの美のイメージとしては「噓」の写真であるけれども、視覚も触覚や聴覚や嗅覚と同様に絶対的でない感覚の一つとして還元することが出来るのなら、みえるかみえないか、それがどう見えたかそれが真実であるかなんて、ちっとも重要じゃないのではないかと思える。《盲目の人々》は「美」について考えるための小さな足がかりを私たちに提案する。

 

other pictures

荒木経惟, 冬の旅, 1989-90

中西伸洋, Layer Drawing, 2004-2005

志賀理恵子, カナリア, 2006

04/7/12

Jardin d’Acclimatation, Jardin Japonais

Bois de Boulogne
Jardin d’Acclimatation
Jardin Japonais
7 avril 8 mai 2012
ホームページはこちら HP

パリの西の方、凱旋門よりももっと西にいったところにブローニュの森がある。
ジャルダン•ダクリマタションは自然を楽しみながら遊園地的乗りものも備えている公園。
今日2012年4月7日はこのブローニュのジャルダン•アクリマタシヨン内にジャルダン•ジャポネがオープンする初日であった。

昨年2011年4月29日、ムードンロータリークラブの協力を得てチャリティーコンサートを企画•実現した。(チラシはこちらで見られます PUB)たくさんの方々に協力して頂き、たくさんのお客様にお越しいただき、たくさんのミュージシャンがすばらしい演奏をしてくれ、いただいた義援金はロータリークラブの震災基金にへコンサート後すぐに送られた。日本でも、パリでも、世界中でも多くの人が様々な方法で震災復興支援について考え、行為し、継続し、新しいことに取り組んで、一年と一ヶ月の時間を過ごしてきた。パリでもたくさんのイベントが行われ、コンサートが行われ、呼びかけが行われるのを目にしてきた。私が出すことが出来たのは、僅かな結果であるに違いないが、昨年4月29日、ムードン•ノートルダム教会でしたスピーチの中で、続けていきましょうということを、私は最後に語った。

私たちが行った活動を国際ロータリー財団のHPで取り上げてくださったことなどのおかげで、今回フランス日本大使館の方がジャルダン•ジャポンの開会式のセレモニーに招待してくださった。コンサートを企画したということで招待してくださるのなら、演奏してくださった皆さんにもぜひその旨をお伝えしたいと思い、開会式の様子をふだんより5割増しくらいで集中して眺めていた。演奏してくださった、すべての演奏者の方々、今もパリで頑張っている日本人の演奏家の方にとても感謝している。

セレモニー•デュ•テ(茶道)のプレゼンテーションの前にみんなで黙祷をした。入り口から出店がびっしり並んでいて、いわゆるニッポンのお祭りの雰囲気が演出されていて、移動も順々にという感じだったので、ぴたっとみんながそろってしーんと黙祷をするということが叶わなかった。後の人が来るまでしっかり待ってあげればよいのに、一分間を共有することくらい、せっかくのこのような催しの場で実現しないなんて、なんとも言えなかった。

赤と白のものがたくさんあった。入り口には日の丸のちょうちんが飾られていたし、真っ赤な大きな鳥居のもとで、開催のしるしに空へと解き放たれた風船もやはり赤と白だった。風船は風に吹かれて真上というより少し横に逸れながら飛んでいき、ぐんぐんと空の方へ吸い寄せられていってやがて見えなくなった。風船は一体どこに行ったのだろう。風船を大量に飛ばすシーンをたまに目にするけれど、よくわからないのだ。風船を飛ばす行為はどんな願いやどんな結果に繋がっているのだろう、あるいは繋げたいというのだろう。

ジャルダン•ダクリマタションのM.Marc-Antoine JAMET、パリ市長にかわり第一補佐のマダム、そしてフランス日本大使館のM.Ichiro KOMATSUからスピーチがあった。パリという街がこれまでも3.11以降もいかに京都や広島、東京、その他日本の各都市とよい関係を築いてきたか、パリに住む日本人、パリにおける親日のコミュニティーでどんな活動が行われてきたか。そしてこれからどうするのか。

ジャルダン•ダクリマタションは5月8日まで、ジャルダン•ジャポンを開催中。
出店が華やかに並ぶ大きな通りをひときわ鮮やかに彩る桜の木々は作り物である。現在桜が真っ盛りで、作り物なんか飾らなくともすばらしい木々を見ることが出来るのに。でも作り物でなければならないのかもしれない。一ヶ月だけブローニュの森に突如出現したジャパン•テーマパークは夢のように楽しくて、わくわくして、鮮やかでなければならないのかもしれない。

思考はとどまることを知らず、公園の中に特別もうけられた震災と津波被害からの復興を記録した写真や被災地で実施された仮設住宅プランなどをまとめたエクスポのテントの中で、いつからか知れずこらえていた水分が目元にじわっと迫ってきた。ストレートでシンプルで、逃げることの出来ない写真とキャプションがたくさんあった。

いろいろなことを考えたり、話をしたり、非難されたり、抗議したり、動き回るからだがあるのなら、何でも出来るといつも思っていて、何かをするなと言うよりも、したいと思うことを実現まで持っていくことの方がはるかに意味のあることだと思っていて、「あれはよくない」と10回言う暇があったら、僅かでもよい結果の得られることを実行することのほうが私のしたいことなのだと私は知っている。

今年の秋の終わり頃に、もう一度、たくさんの方々と共にコンサートを通じて人々の想いを束ねたい。

04/2/12

Ai Weiwei/ Entrelacs, 艾未未

Ai Weiwei
Entrelacs
Jeu de Paume (Concorde)
21 février- 29 avril 2012
Jeu de Paume HP

ルーブル美術館からチュイルリー公園へ抜けて、芝生で太陽をたくさん浴びて憩っている人々の様子を見ながら、コンコルド広場の方まで歩いていくと南側にオランジュリー美術館、北側にジュ•ド•ポーム美術館がある。このJeu de Paumeは現代アートを中心にエクスポを開催していて、最近記憶に新しい展覧会では、Dian Arbusの回顧展が大盛況を収めていた。そして、現在開催されているのがAi Weiweiの展覧会、Entrelacsである。Entrelacsはフランス語で「絡み合うこと」「交錯するもの」といった意味。この展覧会では、建築家、彫刻家、写真家、コンセプチュアルアーティストとして活躍する一方、ブロガーでありツイッターでの活動家であり、政治的活動も行ってきた、Ai Weiweiの1983年以降の写真作品やビデオ作品、多様なプロジェクトと彼が中国と世界に向けたメッセージがJeu de Paumeの展示空間を越えて、交錯しながら発信されてゆく、そんな展覧会だ。

 

Ai Weiweiは1957年に北京に生まれる。北京でシネマアカデミーを卒業した後、1978年から数名のアーティスト達とともに星星画会を結成し、ソーシャル•リアリズムに反対し、芸術的個人主義と実験主義を打ち立てて文革後初の前衛芸術グループとして活動するが、政府の弾圧を受ける。1983年にはニューヨークに渡り、Andy WarholやMarcel Duchampといった重要なアーティストの活動に刺激を受ける。とりわけDuchampが彼のコンセプチュアル•アートに後々まで与えた影響はとても大きく、この頃に彼のキャリアの中で初めてのレディメイド作品と、ニューヨークでの中国人コミュニティーにおける彼や彼の友人撮影した何千枚ものドキュメンタリー写真を制作している。

 

彼をとりわけ有名にした作品のうちの一つに、《鳥の巣/Bird Nest》がある。2008年の北京オリンピックのために建設された北京国家体育場は、2002年に中国政府によって開催された国際建築設計競技において優勝したHerzog & de Meuronの案が採用され、デザインにAi Weiweiが芸術家として協力している。Ai Weiweiの作品の中には、今回展示された、《鳥の巣/Bird Nest》の建設中の経過を撮影した大きなフォーマットの写真の他にも、《北京空港ターミナル3/Beiging Airport TErminal 3》においてこれもまた北京オリンピックのために国を挙げて途方もなく大規模で現代的なターミナルを建設している経過の写真や、自分自身がデザイン•建築プロジェクトに関わったすばらしい建物がたてられ、まもなく弾圧によって取り壊されてしまうまでの記録写真、さらに2008年の四川大地震の実態を明らかにする多数の写真(ブログで公開されていたもの)も展示されていた。

 

Ai Weiwei の建築に関わる写真には、築造途中から完成までを記録した写真と崩壊を記録した写真がある。彼の仕事が伝える強烈なメッセージは、その双方に、始まりも終わりも、始まる前も終わった後も、すべてが二重写しされているという事実なのである。すばらしい北京空港のターミナル3は、永久に存続するはずはなく、いつかは取り壊されてしまうだろう。四川大地震で崩壊した建物のがれきはかつて、家族が住む小さな家の壁であり、子ども達が勉強する学校の教室の天井であった。人々はモノを作っては壊し、壊れては作るのであるが、Ai Weiweiの写真にはその完成と崩壊を喜ぶのでも悲しむのでも諦めるのではない、時の流れや自然の力を受け入れるという姿勢を感じさせる。

 

その一方で、四川大地震の建物崩壊について、Ai Weiweiは中国政府がうやむやにしてきた欠陥建築や安全性を欠く校舎のせいで多くの犠牲者が出た現実を許さなかったし、被害者の家族の抗議を無視して正しい情報を開示しない政府の対応を許さなかった。彼は2008年5月の地震発生直後より、2010年4月に中国政府によって自宅で軟禁されるまで、途中ブログの内容を強制的に削除されるなどの困難に遭いながらも、犠牲者のために情報を明らかにし、責任追及を行う活動を積極的に続けた。2011年4月3日には再び拘束され、6月22日に保釈された。

 

ここで少し別の作品を見てみよう。この展覧会では、2007年にKassel Documenta 12で発表されたFairytaleという大規模なプロジェクトの記録であるドキュメンタリービデオ(インタビュー)とKasselにつれていく人々を選ぶためにAi Weiweiが一人一人に面接を行ったのだが、その場所で撮影されたポートレートが壁一面いっぱいに展示された。Fairytaleは驚くべきプロジェクトであった。第12回ドキュメンタに招待されたAi Weiweiは人口20万人程度のKasselの街に1001人の中国人をつれていって、「生けるインスタレーション」を展示しようという試みであった。そもそも中国では海外旅行のためのビザの獲得はきわめて困難であるし、彼が連れてきた人々の中には少数民族地区に住むとても貧しい人々もおり、このプロジェクト自体が現実味を帯びていないむしろ「おとぎ話」とか「夢」のたぐいのもの。Ai Weiweiはこの小さな町に1001人の中国人を連れ込んで、一種の文化交流をしてやろうと目論んだ。

 

インタビューを聞けば明らかであるように、カッセルの街に1001人の中国人というのはそれだけで街の雰囲気を変えてしまったらしい。ドキュメンタ会場にはもちろん、町中にも市場にもどこにでも、カメラと地図を携帯した中国人の姿があるのだ。アートに関わらず、ドキュメンタの開催をしらない市民たちもこの変化に気がついていたほどである。インタビューの中で印象的だったのは、カッセルの人々が中国人のイメージが変わったと口々に語る場面である。礼儀ただしかったし、きちっとしていたし、レジデンスも綺麗に使っていたし、ということを述べるカッセルの人々の姿が映される。どれだけ海外を活発に動き回り評価されているアーティストであっても「わたしは何人であるか」というアイデンティティーのTatooを誰しも刻まれており、それは無視することが不可能な何かだ。Ai Weiweiのプロジェクトは色々な条件で生きている同じ祖国をもつ人々に異国Kasselの地で一生ものの想い出Fairytaleを経験させるとともにKasselでの出来事を通して自国の国民をポジティブに紹介するというハートフルな作品である。こういった多くの人々の人生すらも動かしうる作品を実現することは、芸術の中でも最も重要な活動であると思うのだ。

 

Shanghai Studio which Ai Weiwei worked for, was demolished just after its construction.

Shanghai Studio

 

Chinese people’s bed room for their stay in Kassel Documenta 12

Kassel Documenta 12 in 2008