04/16/18

Sophia Coppola あどけなさの美学 ユリイカ ソフィア・コッポラ特集

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『ユリイカ』の2018年3月号ソフィア・コッポラ特集に、論考を書かせていただいた。論考のタイトルは「ソフィア・コッポラ作品における(美/)少女表象ー少女プロパティとしての<あどけなさ>の美学、あるいはその希望と絶望」。詳しいことを言わないときは、スカーレット・ヨハンソンのあどけないパンツ姿の破壊力について書いた、とはしょって説明することにしている。実際にはもうちょっといろいろなことを書いたつもりだ。

こちら! http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3143

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ソフィア・コッポラ作品といえば、音楽がおしゃれだし、ファッションもおしゃれだし、女優が美人だし、さらには出演する女優たちが少女時代(10代前半とか半ばとか本当の少女時代)からいくつかの作品にまたがって異なる役を演じて行く間に大人になっていく様子を追うのもなかなか魅力的なのだが、実は、小説からの映画化とオリジナルのストーリーと、実話を基にした着想と、異なる性質のオリジンの作品を時代順に見ることで見えてくるものもあるし、やはり違うものとして考えないとわからないこともあるだろうと思う。

小説の映画化ではヴァージン・スーサイズもビーガイルドも本当に共通点が多い。というのもストーリーの性質上そこにソフィア・コッポラ性を織り込むのであればきっとそうだろうなと納得のシーンしかない。そういった意味でビーガイルドはソフィア・コッポラ作品として実はそんなに素晴らしいとは思えずにいる。もちろん、「らしさ」の点で爆発してはいる。

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「マリー・アントワネット」も「The Bling Ring」も実在の人物や実話に基いた話がコッポラ的解釈を通じて語られていくのだが、「マリー・アントワネット」におけるその時代的な王族女性の役割を描いているにも関わらず、それがあたかも今日的な女性の抱える様々な問題にもつながっていくように感じさせる描写は巧みだと感心してしまう。The Blign Ringでは、主人公でスター宅空き巣犯のリーダーであるレベッカの<On>(犯行がうまくいっている期間)と<Off>(身を隠している期間)の落差が素晴らしいと思った。

以上はほとんどユリイカの論考の中では口にしていない事たちだ。たくさんのことが言われることができるだろうし、実際、このユリイカ特集では他の執筆者の方の論考もとても興味深かった。
もしよかったら論考を読んでみていただけるととても嬉しい。
シャルロットのパンツ姿と半開きの口の破壊力についてのテクストであり、ファンタズムを暴いてぎゃふんというのを聞きたいなと思って書いているテクストである。

04/16/18

Banksy / バンクシー @amsterdam 2018

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イースターの週末に、ゴッホ美術館へ行くのが一つの大事な目的でアムステルダムへ赴いた。ゴッホ美術館は、美術館が集まっている地区にあり、全く幸運な巡り合わせで、Mocoで開催中だったBanksyの展覧会を観ることができた。
Link: https://mocomuseum.com/exhibitions/

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バンクシーは、ラクガキ(無断でペイントを行う)「ストリートアーティスト」として今や世界に名を轟かせているがご存知のように個人としてのアイデンティティは隠しまくっていて、今となっては「ストリートアーティスト」と呼ぶにはどうなのかと思うほどの大規模プロジェクトを手がけているにも関わらず、その素性は知られていないことになっている。

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反戦争や政治的なメッセージを込めたラディカルなペインティングで知られるバンクシーだが、美術館での展示となるとそれはまた奇妙なものであって、いうまでもなく美術館で展示するということは、あるいは展示空間で作品として展示するということは、コンクリートの壁を切り取ってきてそれをガラスケースに入れたり、工事の時に用いる三角コーンや道路標識なんかもそこから取り除いてきてしまって「バンクシーのペインティング」として鑑賞するということで、グラフィティとかストリートアートがそれらたることを考えるとなんだかな。とも思わざるを得ない。

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様々なプロジェクトで知られるバンクシーだが、反戦や政治批判に加え、資本主義社会批判や風刺のペインティングも多い。同時に彼のアイディアは世界中で反復され、多種多様なグッズと化して消費のサイクルに取り込まれ、このような大きな美術館での展覧会にで入場料を支払った人々によって鑑賞される。

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文脈からひっぺがしてきたものということを考えると、そもそも我々が鑑賞する多くの彫刻や宗教界がや肖像画なんかももちろん文脈からぴっぺがされて冷静な観衆によってまじまじと見つめられることになったモノたちだ。

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それでもやっぱり、描かれたコンクリの壁を切り取って、それをコンテナで送って、その労働力とか費用とかを思い、アムステルダムの美術館地区にガラスケースに入ってその分厚いコンクリート片が大事に入れられていたりすると、美術は改めてハリボテの遊園地みたいな仕組みで演出されているのかなと思う。いけなかったけど、Banksyが2015年に手がけたイングランドのDismaland、経験してみたかった気もしてくる。

04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。

04/15/18

Martin Margiela 1989/2009 @palais galiera

Martin Margielaの回顧展がパリのガリエラ美術館で開催中である。
会期:2018.03.03 – 2018.07.15
本展覧会は、アンチ・ファッション、あるいは異なるファッションを実験し続けたデザイナー、マルタン・マルジェラの30年間(1989年から2009年まで)を包括的に振り返る大変貴重な機会である。マルジェラはメディアにほとんど姿を表さないし、インディヴィジュアルとしてとことん謎めいたアイデンティティを貫いているが、世代としては1957年ヘンク生まれ、アントワープ王立芸術学院に学び、アントワープ・シックスと同期である。そのスタイルには、ボロルックあるいは黒のアンチファッションを作った川久保玲の影響や、フラットの構造にこだわった三宅との共通点を感じさせるアイディアなど、パリのモード界で活躍した日本人デザイナーとのインタラクションが見て取れる。そもそもマルジェラの足袋ブーツは基本ルックといってもいい。履いたことが無いのではき心地がいかなるものかわからないが、硬いブーツで足袋的に足指が割れている履物とはどんな感覚なのか、ちょっと興味がある。

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私がマルジェラに興味を持ったのは、言うわずもがな著名なカビドレスのコンセプトを知ったのがきっかけだ。白いドレスやシャツにバクテリアや菌類が培養されて時間がたつにつれて展示された衣服たちは紫とか茶色とかオレンジとか黄色とか、美的な点から見ても美しい色彩を帯びて朽ちて行く。これはロッテルダムMUSÉE BOIJMANS VAN BEUNINGENで1997年に発表されたコレクションだった。
当時のリベラシオンの記事がこちら:http://next.liberation.fr/culture/1997/08/04/margiela-du-moisi-dans-le-froufroule-couturier-expose-un-vrai-projet-artistique-a-rotterdam-martin-m_213787

また、関心を持ったのは衣服のありうべき形態のラディカルな覆しである。小学生の時、古着リメイクが流行し、いわゆる個性派ファッションというものに憧れて、古くなった服を切り刻んだり縫ったり組み合わせたりした。着られるものもあったが、着れられなくしてしまったものもあり、そんな時は自分の技術と計画の浅はかさに嫌気がさしたが、もっとも深刻だったのは、自分が着られると思っても世間的に社会的に着られない状況に出会った時である。具体的にいえば、着てたら変だといわれ、そこで頑張ればよかったのだろうけれどもそんなに変ならば仕方ないかと折れてしまったこともある。マルジェラの提案するスタイルを改めて見直すと、服を着ることに希望を感じる。

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アメリカの昔のものだそうだが、非常に大きなサイズのトルソ。またマルジェラは梱包に使うビニールシートやスーパーのビニールシートみたいな着心地も目的も無視した、しかし面白い素材を発見し続けた。

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誰がタイツやストッキングは隠されていないといけないと決めたのか。タイツでシャツインするスタイル。

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有名な、靴下から作るセーター。靴下はむしろセーターを作るためにあらかじめ存在していたのではないかと疑いたくなるほどにずば抜けた発見だと思う。マルジェラはこの手の、既に出来上がった形の組み替えや分解、誇張やデフォルメを得意とした。

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イッセイミヤケを思い出させる平面トレンチ。簡単そうに見えるが実際によく考えてみるとやっぱりそんなに簡単にはできそうにない。でもそれを纏う感じは大変きになる。

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どうしても好きなのは袖ずらし(袖の四本ある)トレンチ。袖は腕を通すという目的のためにあり、腕の形をとっていて、我々は腕が二本あって、という全てが身体のために計画されているのが基本的な衣服のあり方である。それを覆そうとする試みには色々なジャンルがあるように思える。例えば、全く見たこともないフォルムを作ってしまおうと頑張るというのは、割と常套手段だろう。マルジェラはそれに対して、何も作らないことを選んだように思える。ポケットとか袖とか、襟とかウエストとか、作り方がわかっていてそれがなんであるかが誰にでもわかるものが急に別の目的で使用されたりあるいは目的が失われたりする。

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新しいものを作ろうとすることの多い芸術的な分野にあって、作らないことを選ぶのはそれだけで反抗的ですらある。リサイクルや既製服の組み合わせのアイディアを提唱しつつも、ある矛盾があるとするとすればそれは、ファッションの提案者としてそれを発表し続けることはそれだけでおぞましい材料を使い、ゴミを出し、労働力を貪って、消費社会に貢献することだろう。

マルジェラの展覧会は、服を着ることや着るものを選ぶこと、着たいものをいかにして得るかを久しぶりに思い出させてくれた気がするし、そして着ている身体が社会に現れることのテンションや摩擦を少しだけ楽にしてくれたような気がする。

01/13/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.2

本記事は、12月28日および12月30日に大阪の日常避難所511において開催された、miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)です。講演前半においては、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flânerie »(そぞろ歩き)に関して、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索が主題となり、Robert Filiouや谷崎潤一郎、Francis Pongeらの思想からの引用を紹介しながら、考察を行ないました

講演会の後半では、このような制作の背景を踏まえた上で、具体的に作品とそのコンセプトを解説しながら、「モノの記憶」、「身体の記憶」、「物々交換」、「動物―植物ー無機物間のインタラクション」という主題について考察しました。

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Objets cultes 

« Culte »は、宗教的な「カルト」である以前に第一義的に、崇拝や敬愛を表す。Objets cultesはしたがって、モノに対する崇拝、あるいは注意を払われるべき物に関する一連のコレクションである。関心を向けるのは、我々が普段思いを寄せることすらほとんどない道具のくたびれた様子だとか、使用によってほころびた状態、人々のエネルギーが物体に何らかの変化をもたらした形跡や、時間の経過をそのヴォリュームに留めた数えきれない「オブジェ」たち。

たとえば摩耗しきったスコップや、人々の流れを記憶に留めるメトロの出口(最も人が通るドアの表示がすり減っている)、歩き方のクセが現れる靴の底や、画家が筆を洗い続けたことによって穴の空いた石けん。それらのオブジェは、何らかのエネルギーを受けて、変形したり摩耗したり本来の機能を失ったりしている。

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*「物々交換」の実践

« flânerie »(そぞろ歩き)の二つ目のシチュエーションに、se perdre(道に迷う)があった。宛もなく歩き、見知らぬ人に出会う。目的地への最短ルートを急ぐことと対極にある、彷徨い歩いて見知らぬ人々と出会って会話をするような行為。Objets cultesとしてコレクションされている物には、アーティストがオブジェの持ち主と交渉して物々交換した物が幾つも含まれている。アーティストは持ち主に、くたびれたオブジェを模倣して作ったレプリカあるいはオブジェの弱点を修正して作った補強されたレプリカとオブジェを交換してくれないかと提案するのだ。「物々交換」については、またの機会に焦点を当ててじっくりと考察してみたい。

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Expérience hasardeuse

偶然的体験は、化石や動物の骨の鋳型、絵の具の軌跡、動物の骨や奇妙な環境下に栽培された植物などを含む。このコレクションは、インスタレーションとして展示された。

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Chitine-kératine-céllulose

chitineは生き物の抜け殻を構成しており、kératineは髭や爪のような死んだ表皮細胞を構成している。アーティストは、蝉の抜け殻をコレクションした。蝉の種類にもよるが、一般に知られているように、蝉は成虫としては非常に短い期間だけを生き、それ以外の生の大半は、脱皮をしながら木の中で過ごす。アーティストはこれについて、木と蝉の一生のアナロジーを見いだし、インスタレーションとして展示した。また、2013年より三年間、12ヶ月ずつ髭を伸ばし続け、各年のケラチン質をラボラトリーで分析するために保存している。ケラチン質は、食生活や生活環境、ストレス状況など心身の状態を反映する他、金属(水銀、銅など)や放射能の影響を受けることが知られている。生の記憶が身体から切り離された形で、解読を待っている。

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cellule babélienne

“ alors que les hommes parlent plusieurs centaines de langues (en diminution avec le temps), le code génétique, le langage de la nature qui traduit les gènes en protéines, est le même partout. le langage génétique, fondé sur l’arn et l’adn, a émergé de la babel chimique des temps archéens.”

バベルの塔としての細胞は、デッサン、石彫刻など多様な作品形態をとりうる、バベルの塔という一つのコンセプトを共有する作品群である。人類は世界中で異なる言語を話すにもかかわらず、遺伝子のコード、つまりは塩基配列のパタンが基本構造となっている遺伝情報を翻訳する「自然の言語」は異なる言語を話す人々の間でも共通なのである。遺伝子言語は、RNAおよびDNAに基づいていて、それは太古から変わらない化学のバベルの塔を形成する。
lynn margulis et dorion sagan – “l’univers bactériel” – p.57. ed. albin michel 1986.

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デッサンは、50cm×60cmのものと、さらにカオティックで複雑なバベル的細胞の建造物を表した2m×1.5mの巨大なデッサンがある。石彫刻では、植物―動物ー無機物のインタラクションが象徴的あるいは物理的に実験されており、2015年より生き続け、現在も変化し続けている作品である。

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miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)をお読みくださって有難うございました。十分に言及できなかった「物々交換」や「禅」的思想と表現の関係については、また番外編で掲載したいと考えています。

フェイスブック、Twitterやブログを通じて、もしご質問やコメントがあればどんどん声をかけてくださいね。

最後に、今回企画を引き受けてくださった日常避難所511リーダーの田中さん、28日オーガナイズを中心にしてくださったみゆきちゃん、30日の段取りをたくさんしてくれた阿曽沼くん、またお料理や設営などたくさんお仕事をしてくださった皆々様、お越し下さった皆様、本当に有難うございました。 miki okubo & florian gadenne

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01/11/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.1

miki okubo & florian gadenne

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12月28日および12月30日、大阪の日常避難所511において、miki okuboとflorian gadenneによるトークイベントを行ないました。講演において主題となったのは、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flâner »(そぞろ歩き)に関する考察、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索。

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flâner, flaneur, flanerie ぶらぶら歩く、そぞろ歩きをする人、そぞろ歩き。

今日の生産性を重視し時間を無駄にしない事を善しとする社会では、目的なくぶらぶら歩くことは否定的に捉えられる典型的な行為の一つでしょう。時間を無駄にしないために、予め目的地までのルートを調べ、交通手段を調べ、最短の乗り換えを調べ、インストラクションを遂行する。私たちの日常はそのような最短距離の目的地間移動によって構成されています。そぞろ歩きによって私たちは何をするのか。これについて、florian gadenneは3つのシチュエーションを見いだしています。

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FLÂNER, verbe intransitif.:ぶらぶら歩く、そぞろ歩きする (仏、他動詞)

Étymologie. et Histoire. :語源と歴史
1.1638 « paresser, perdre son temps » (D. Ferrand, La Muse normande, éd. A. Héron, t. 2, p. 177):ダラダラする、時間を無駄にする
2. 1808 « se promener sans hâte, au hasard » (Hautel).
« marcher, se précipiter étourdiment » (De Vries Anord.)
« se promener » (Falk-Torp, s.v. flane). :急ぐことなく散歩する、偶然に任せて歩く /焦らないで歩く

そぞろ歩きをめぐる3つのシチュエーション:
シチュエーション1 見知らぬ場所を発見する ー散歩、自分を取り囲んでいる環境の観察(表面上の観察→細部の観察)、ものの時間の経過による摩耗、しみやよごれ、あらゆる物が時間と空間においてどのように摩耗しくたびれるのか。

シチュエーション2 Flanerie(そぞろ歩き)は、perdre le temps(時間の無駄) ー現代社会において私たちは日々「時間を無駄にすべきでない」「時は金なり」といった強迫を生きているが、se perdre(道に迷う)ことを本質とする“そぞろ歩き”は、金銭を基準としないかつての物々交換に似た事なるechelle(価値観)に基づく。

シチュエーション3 このような “そぞろ歩き”の一つの結果は、環境(山、自然、都市)から探し集めて来た様々な物がごちゃごちゃと堆積するAtelier(アトリエ)の形をとりうる。動物の骨、すっかり乾燥した物体、死骸、泥の塊や出来事の軌跡を私たちに伝えるオブジェ。それらの集積は、意味を成し、詩的なヴィジョンを私たちに与える。

以下に、このそぞろ歩き的思考によって導かれる表現活動についての解釈、あるいは芸術行為と我々の生死についての考察を、幾つかのテクストを引用することを通じて表す。

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Notion de la participation:参加の概念
« La principale différence est que je ne suis pas un peintre qui à l’ aide de pigments va créer une peinture. J’utilise le lait et j’utilise le pollen ou la cire d’abeille, que je n’ai pas créé. Je participe aux plus belles choses dans le monde, que je ne pourrais jamais créer. Je ne pourrais jamais créer cette beauté du pollen. Donc, la tragédie pour moi serait si je tentais de faire une peinture de pollen. »
Wolfgang Laib

私は、絵の具の力をかりて、“peinture”(絵画)を作る“peintre”(画家)ではない。私は、牛乳や花粉や蜜蝋を使って描くがそれらは私が創り出したものではない。私は世界に存在するもっとも美しいものに“参加”しているのであり、それらを産み出しているのではない。例えば、花粉の美しさなどは私には到底作り得ないものだ。だから、もし私にとって最も悲劇的なことがあるとすればそれは、花粉の画料を産み出そうとすることであろう。
Wolfgang Laib

Signification de l’art:芸術について
« l’art c’est ce qui rend la vie plus intéressante que l’art »
Robert Filiou

芸術とは、芸術そのものよりも人生を興味深いものにしてくれる何かである。
Robert Filiou

mémoires du temps, ou effets du temps:オブジェの記憶
« effets du temps », voilà certes qui sonne bien, mais, à dire vrai, c’est le brillant que produit la crasse des mains. les chinois ont un mot pour cela, « le lustre de la main » ; les japonais disent « l’usure », le contact des mains au cours d’un long usage, leur frottement, toujours appliqué aux mêmes endroits, produit avec le temps une imprégnation grasse ; en d’autres termes, ce lustre est donc bien la “crasse des mains”. »
junichiro tanizaki – éloge de l’ombre.

われ/\は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳かげりのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる/\撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。
陰翳礼讃、谷崎潤一郎

égard et regards des objets:モノによる配慮、モノによる視線
« Nous ne sommes pas seuls ici. Nous sommes loin d’être entre nous. Permettez-moi, Mesdames et Messieurs, d’invoquer, en même temps que je vous invoque, toutes les choses présentes dans cette salle, ces choses à qui une fois de plus nous avons ôté leur silence, ces choses que nous traitons, que nous avons traitées jusqu’à présent avec la désinvolture et la brutalité coutumières à cette espèce de sauvages à leur égard que nous sommes.  Je ne sais pas si je me fais bien comprendre; je parle de ces murs, des lattes de ce parquet, je parle des clefs que vous avez dans vos poches, de tous ces objets qui nous ont accompagnés, et qui nous ont attendus ici, et qui sont ici avec nous, et qui doivent par force se taire – peut être à contrecœur – et dont nous ne tenons compte jamais, vous le savez, jamais. » 
                                             Francis Ponge, Méthodes, Tentative Orale, 1983, pp. 250-251. 

我々は全く持って我々自身で存在しているのではない。我々だけで自律してるのでもない。この部屋にあるあらゆるオブジェ(モノ)は、少なからず我々がその沈黙を破った事のある対象であり、我々が普段は習慣化から思うままに時には乱雑に扱ったり利用しているモノであると同時に、我々がモノたちの配慮の対象になっているとも言えるのである。例えば、壁や床の木の板、ポケットの中の鍵など。それらは我々と共にあり、沈黙するように強いられ(時には嫌々)、そして我々はその事実について盲目であり、絶対に知り得ないことなのである。
Francis Ponge

Le Zen, comme non-raison ou raison inopérante:非理性あるいは無益なものとしての禅
« Le Zen ne se saisit pas par la raison. Il est avant tout du côté du non sens, en affirmant la présence simultanée des contraires (ordre-désordre, vie-mort, nécessité-hasard, etc.). De cette manière, la pensée Zen est porteuse de paradoxes qu’elle dévoile constamment comme inopérant. » 
Ullrike Kasper – Écrire sur l’eau – L’esthétique de John Cage

禅とは、理性によって摑みとることのできないものである。それは何より先に、意味を成すものにあらず、今ここにある相反するものの存在を肯定する。例えば、秩序ー無秩序、生ー死、必然と偶然など。このように禅を考えたならば、禅とは、矛盾を孕んでおり、それ自体として役に立たないものである。
Ullrike Kasper 

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講演会では活発な質問や議論が行なわれ、参加していただいた皆様には非常に感謝しています。
次回の記事では、この前半の部分に続く講演会後半の作品紹介についての記事を掲載します。どうぞお楽しみに。

florian gadenne :  http://floriangadennecom.over-blog.com
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08/15/16

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim

本テクストは、『有毒女子通信』第12号 特集:「食べないこととか」(2013年刊行)のために執筆・掲載した食と産業についてのエッセイです。庭で赤くなるまで太陽を浴びたトマトがなぜこんなにも美味しいのかと反芻することは、グロテスクな口紅のようなピンク色のトマトの、それらもまた食べられるべくしてそれらを基盤として生計を立てる人々の関係から関係を通って、我々のフォークを突き立てるその皿にスライスされて登場するにいたっているということを了解した上でもなお、それを摂取することへの苦痛を催すきっかけとなる。あるいは、食物がクリーンであることへのオブセッションや、それが肉体に与えうる恩恵や損害を思うとき、ひょっとするともう何ものも摂取することができないのではないかという恐れと、いっそのこと一切の執着を捨てるのが良かろうとする相反する二つのアイディアの板挟みになるかもしれない。

環境においてのみ生きる我々が、それを望むエッセンスのみに収斂することなど叶わず、同時に思うことを放棄することもまた叶わないことを、どこかで直観しているにも関わらず。

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim
大久保美紀

We Feed the Worldは、オーストリアの作家・映画監督のエルヴィン・ヴァーゲンホーファー(Erwin Wagenhofer, 1961-)の撮影による長編ドキュメンタリーである。2005年の初上映以来、ドイツ、フランスを始め、ヨーロッパ諸国で反響を呼び、日本でも字幕を伴って 『ありあまるごちそう』 というタイトルで上映された。映画は、食糧生産やその廃棄に携わる人々の日々をありのままに伝え、彼らの率直な言葉と労働の現状を淡々と映す。あるいは、 「世界は120億人を養えるだけの食料を生産しながら、今この瞬間にも飢餓で死ぬ者がいる。この現実は、殺人としか言いようがない」と 当時国連の食糧の権利特別報告官であったJean Zieglerが憤慨し、他方、遺伝子組み換えの種子開発の最先端を行き、世界の食糧大量生産を支えるネスレの元ディレクター、Peter Brabeckがこの世界の行く先を語る。

 この映画を見て震え上がり、明日の食卓をゼロからの見直し決意し、スーパーの安価な魚や鶏を貪るのを断念し、最小限の消費と廃棄を誓って、貧しい国で今も飢える幼子の苦しみに心を痛める、ナイーブで心優しい鑑賞者を前に、「この偽善者め!」と言い放って彼らの気を悪くするつもりはない。しかし、その程度のインパクトに留まるのなら、このフィルムは所詮、これまで幾度となくマスメディアが特集し、ドキュメンタリー化し、国際社会が早急に取り組むべきだと声高に叫ぶその問題を描く無数の試みの水準を逸することなく、今日の世界を変えはしないだろう。我々は、もはや聞き飽きてしまった問題を別の方法で聴く努力をするべきなのだ。そのことより他に、不理解という現状を乗り越える術はない。

 さて、We Feed the Worldはヨーロッパの食糧問題に焦点を当てたドキュメンタリーである。ヴァーゲンホーファーはまず、最重要の食糧であるパンの生産と廃棄に携わる人々の声を聴く。十年以上の間毎晩同じルートを往復し、トラック一杯のパンを廃棄場に運ぶ男は、時折、年配者の厳しい批難に遭う。彼が廃棄するのは、少なくともあと二日は食べられるパンである。年間に捨てられる何千トンのパンで救える飢餓民を想像せよという憤りは勿論理解可能だが、豊かな国で過剰生産されたパンはいずれにせよ廃棄される。そこに在るのは、「 あなたはこのパンを買うか、買わないか」という問いのみだ。我々の無駄な消費の有無に関わらず、店には常に品物が溢れて大量のパンが捨てら、そのことはもはや、我々の行為と直接的因果関係を持たない。
 トマトを始めとするヨーロッパ産の野菜の多くは、その生産をアフリカ人移民の低賃金労働力に頼っている。国産の三分の一という破格で農産物を売りつけるヨーロッパ諸国のダンピングはアフリカの農業を破綻に追い込み、彼らを不安定な移民労働者にする。
 ついさっき生まれたばかりのひな鳥が養鶏場から屠殺・加工工場へ送られて行くシーンは、このドキュメンタリーのクライマックスと言える。にもかかわらず、一切の付加的演出がないどころか、ブロイラーと加工場労働者は、短期間・低コストで若鶏を生産し、効率的に加工するメカニズムの情報を我々に与えるのみである。詰め混まれた雌鳥の中に数羽の発情期の鶏が放り込まれ、たった数秒で雌と交尾を済ませる。産み落とされた卵は大きなマシンに回収され、40℃の温かい構造の中で数日保存された後、数十日後の屠殺を予め運命づけられた雛が殻を突き破る。雛鳥の小さな足ですら足の踏み場がない場所にどんどん詰め込まれ、飼料を頬張って成長する。「鶏には暗闇に感じられ、動物のパニックを避けることが出来る」と屠殺業者が説明する青い光の中で、鶏は撲殺から鶏肉パックになるまでのベルトコンベアーに乗る。ハンガーのような機械に両脚を引っ掛けて宙づりされ、撲殺、脱羽機をくぐり抜け、頭と両脚を失ってパックされる。

 ある日理科の授業で眼球の構造を学ぶため、少し生臭くなった牛の目の解剖をし、子どもたちの多くがその日の給食で「もう肉は食べられない」と言って残した。ならば一生食べなければよろしい。そう心の中で呟いた。
 フランスでは年に一度、ヨーロッパ最大の農業国としてのこの国のパワーを眩しすぎるほど誇示するイベント、国際農業見本市 が開催される。食肉業者も数多く出展し、1600キロもある巨大な肉牛や可愛らしい子豚などの食用動物が日頃動物など目にすることのないパリジャンの大人と子どものアイドルとなる。見本市は商品販売を同時に行っており、立派な食用動物がちやほやされているすぐ隣には、おぞましい様子で飾り立てられた最高品質の肉が販売されている。(写真1)フランスは飽食の国である。さすがは食糧自給率が120%の国だ。マルシェがたたまれた後の午後は大量の野菜や貝などが置き去りにされ、レストランで大盛りの御馳走を平らげることを皆あっさりと諦め、食べ物は余るくらいで丁度良く、食べ物のケチは悪徳である。
 日本人は、「もったいない」の精神を歌い、食べ物を粗末にしたがらず、ビュッフェレストランですら余分にサーブしないよう注意され、生ゴミを極力出さない食材使いを提案する料理をオシャレで「粋」と見なす。ひょっとすると、世界の他の先進国と比較しても食物の扱いに敏感だ。だからこそ、それが全くの事実であるにも関わらず、一人当たりの食糧廃棄量が世界一と批難されても全くピンと来ない。背景には問題の根本的な不理解がある。なぜ、日本語のタイトルは『ありあまるごちそう』なのか。わざわざ平仮名表記し、飢えるアフリカの子どもをキュートなイラスト化して、かわいらしい演出で「食の社会見学」と銘打つのはなぜか。態度の端々に滲むもの全てが、問題に対する我々の無関心と、世界現状の因果に自分が無関係だという認識を暴露する。(写真2)我々は、表層的なエコの賛美歌を熱唱し、欺瞞に満ちた「地球に優しい市民」を演じるのを直ちにやめ、それが途方もない狡猾な悪であるために、皆がこぞって我々の認識から乖離させようと必死になっている巨大なメカニズム、産業構造そのものを凝視せねばならない。食糧廃棄の構造的カムフラージュに甘んじる時代は終わった。
 ちなみに、フランス語タイトルはLe Marché de la Faim(飢餓市場)、世界全体が飢餓を生産する巨大な歯車の部品である。それは、我々が日々恩恵を受ける構造そのものへの懐疑であり、ハイブリッド野菜が地力を貪り尽くした畑に立つ男は、引き過ぎた手綱を緩めることを我々に問う。「ヒヨコが可哀想」などと戯言を言っているヒマは、本当はない。

“We Feed the World”(2005) by Erwin Wagenhofer, 96分, Allegro Film
http://www.we-feed-the-world.at/index.htm

写真1
ありあまるごちそう2

写真2 『ありあまるごちそう』チラシ(2011)
ありあまるごちそう1

01/7/16

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich » スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ, チェルフィッチュ

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich »(スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ)を観てからモゴモゴ口からでそうで出てこないことがあるので、しかしそれは口からぽろりと出してもいいのだけれどもそれを言ってはお仕舞でしょみたいなことかもしれんと思って遠慮して言わなかっただけかもしれないので、もう1ヶ月半ほど経過したこともあり、そろそろ書いてみたいと思います。

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スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチは、日本のコンビニ文化を舞台とした物語です。岡田利規主宰の演劇カンパニー、チェルフィッチュによる公演はパリ日本文化会館において行なわれました。コンビニをめぐる話ですが、勿論、日本の社会問題である若者の失業あるいはニート問題とか、貧困・格差の問題、働き方の変化や生き方の変化、都市生活の不穏や孤独、現代社会の隙間なく行き届いた「光」がもうそれ以上届くところはないようなある種の絶望感、といった主題を鋭く適確に表現していると思います。

所謂「日本人らしさ」も随所で浮き彫りになります。無論カリカチュアですから、ああ、これやるよね、ああ、こういう態度するよね、という必ずしも観ていて嬉しくはならない「典型的な仕草」などで「日本人らしさ」は描き出されていきます。たとえば、ドングリの背比べ状態のなかで制裁し合う若い従業員の姿とか、目を合わせることなくしかしながら丁寧に話す対人関係とか、我慢は極限に達して「怒って」いるのにちっとも声を荒げも行動にも出すことなく言葉だけ非常に暴力的なことを録音テープが再生されているように繰り返す姿だとか。

この公演中非常に不快だったことが一点あります。それは数列前で観劇していた日本人でないマダムが公演の間中声高らかに爆笑し続けていたことであります。どういったツボで爆笑しているかと言うと、それはまさに面白いだろうな!と狙われたタイミング、非常に正しい箇所において、彼女は模範的に爆笑しつづけていました。その楽しそうな様子を見ながら、ふと、このコンビニを巡る日本社会の心の問題や社会の問題、経済の問題や日本人らしさの問題を描く作品が、どうしてわざわざパリだとか、他の国の都市において上演されて、共有されて、いったいそれが求めていることあるいは残しうるものって一体何なんだろう?とナイーブな疑念に取り憑かれてしまいました。

このマダムが爆笑するように、まあ確かに滑稽だし、コンビニもオカシイのかもしれないし、誇張されてはいるもののしかし真実であるところの日本人らしい対人態度や働き方や喋り方や所作や我慢の限界の越え方も可笑しいのだろうけれども、そもそもなんの期待を込めて、あるいは価値を認めて、この、言ってみれば「ミクロ問題」を世界にさらしているのだろう?と。

つまり、これらの問題は重要な問題で、指摘の仕方は適確だし、問題提起も素晴らしいと思っているけれども、それらにたいして何かするのは海外において問題提起して種をばらまかれた先に期待するのではないだろうし、日本の問題であるに違いないと思ったためで、より分かりやすく言えば、なぜこれを海外で見せるのか、見せて何がしたいのか、あるいは何ができるのかを疑っているのだと理解しています。見せるだけでいいじゃん、という風には思いません。見せるからには見せる意味がないと行けないと思います、意味のある、目的が少なくともあってほしいしあるべきだと信じます。そして、それは、放り投げるとか共有するだけでなく、それよりも先にあるものを見据えてほしいとも思います。

演劇そのものからは外れた話になってしまったのですが、書かなければいけないと心に残り続けていたことを書きました。

最後に、もっとも感動的なのは最後に店長がおキレになるシーンです。あれは見事です。今日人々はたしかにあのようにキレます。呟くように、節度を持って、しかし溢れ出すように、それはホンモノのカセットデッキのように。

01/7/16

春画展 @永青文庫 / Peinture de moeurs, Exposition de Shunga

 

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今回の日本滞在では、関東で二つだけ展覧会を見た。春画展はそのうちの一つである。春画展がたとえ期待はずれの展覧会であったとしても、訪れたことを後悔しないかもしれないと、ぼうっと思ってしまうほどに、お天気に恵まれた素敵なお散歩であった。訪れられた方はご存知のように、撮影が一切できない展覧会であるために、到着までの写真しかない。が、到着までの道のりの写真が最も素晴らしいように思われる。

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繰り返すまでもなく春画展は、細川家のコレクションをベースに、会期中の入れ替えがあったけれども総数にして120点あまりが国内で「美術展」として鑑賞される機会となった点で国内では大きく着目された。なぜなら、日本では「芸術と猥褻」をめぐるなんだか不明瞭かつ政治的なあるいは戦略的な議論は絶えず創作とは別個に大手を振るい続けていて、近年も記憶に新しい幾つかの「猥褻」をめぐる現代芸術の状況などを考え合わせるにつけ、「いやー、日本でついに春画の展覧会とはすっごいな!」とか言ってみたり、「いやいや、大英博物館やベルギーでの春画展を見てみろ!海外では当たり前に春画は美術として鑑賞され高い評価を得ているではないか!なぜ日本国内で展覧会を行なわない、そのほうが不自然だ!」とか、ナントカ、熱くディベートされたのかもしれない。

春画の猥褻さが本当に問題だというなら、ハッキリ言ってアタリマエで、隠喩に満ちた作品ならともかくも、ハッキリと性器やら体位を表してしまっている絵をガラス越しにのぞきながら、「いやいや、これは美術ですから!」なんていうのも滑稽な話だ。春画がいつ美術でしたか?春画が美術になったのは、美術館で美術品としてなんとなくハイソなものとしてこれを展示した瞬間からであり、別に、発注を受けてあるいは趣味で描かれたこういった絵が「絶対的に芸術的である」ことなど有り得ない。ここにあるのもまた、後付けの「藝術マジック」的な状況である。しかしながら、そこで使われている技術やそこに見られる画家の表現力、想像力はもちろん評価に値するのであって、メタファーやアソシエーションは文化的・歴史的観点からも常に興味深い。そのことを踏まえた上でも繰り返しになるが、「春画は藝術であるか?」などと問うことそのものが滑稽である。

混んでいて作品の見えない展覧会など皆嫌いだと思うが、私も勿論大嫌いである。とりわけ、列にならんだまま少しずつ横にずれていく、しかも「進んでください!」と係の方が絶叫しているような展覧会は恐ろしいので足を踏み入れたくない。一方、永青文庫の展覧会では、予め4つある部屋はどのような順序で回ってもいいということを告げてくださっており、ほっこりした。が、やはり混み過ぎていて、私は大概見たい作品の前でまったく動かず、順番にみたりしないので、3秒ずつ見ては左に皆と同じリズムで横歩きするなんて器用なことができずに何度も列からはみ出したところ、「割り込むな!」と2回お叱りを受け、3回エルボを頂いた。こうすることによって、ご自身もその列から抜ける自由がなくなりほんの少しずつ左側に横歩きするベルトコンベアーと化しているということを恐らくお気づきになっておられるのだろうな、と残念に思いながら、それでも1時間半くらいはゆっくり見ることができた。国内での春画展ということを踏み切られ、そのひとまずは第一歩目の道を造られた細川護煕永青文庫理事長の行なわれたことはやはり良いことであったなあと思う。

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