04/22/18

食生活について考えること1/ pensée sur la manière de vie « alimentaire » 1

最近とても考えていることがあって、最近考え始めたわけではなく遡ればとてもとても長いこと関心を持っているけれどもなかなかどのような形をとるのかが長いことわからなかったという感じです。それは食生活に関することであり、何をどのように摂取して日々暮らしていくかということであり、どのような選択をし、どのように振る舞い、どのような考えを貫くかということに関わります。
あまりに長いこと色々と考えてきた主題なので、一刀両断的なさっくりした物言いで何かを綴ることが今もまだできないのですが、とりあえず、今回はパンを作っていることについて書きます。

パンは私の常食でもあり、ヨーロッパでは日本のお米を頑張って食べようとするよりも美味しい小麦も手に入りやすいように思います。湿度の高い日本より保存に適していて、同様に手に入りやすい他の食材や料理に合うのはもちろんのことです。私は正真正銘のチーズ好きで、パンとチーズがあれば何日も文句を言わず食べ続けることができます、というのも大げさではなく私は14、5年前からほとんど肉を食べない生活をしていて、今でも実家の札幌に行ってあまりに美味しいお魚が食べらられるときとか、どこかに食事に行ってお魚のお店に行ったときとか、招待されてお魚のお料理が振る舞われたときとか、そういうときくらいしか魚の肉も食べません。ただしこれは、世の中の多くのエコ・ベジタリアンの人たちが「動物のため」と語る理由とはなんの関係もなくて、匂いと味が得意じゃないのとうまく消化できないことが多いからです。つまり好みの問題にすぎない。もちろん動物についてあるいは食肉の産業について思っていることはたくさんあって、それはまた別の時に書きます。

パンは古代エジプトの人々が偶然酵母の発酵を発見して以来、サイエンスとしてわからなくてもしゅわしゅわした液種(あるいはすでに粉と混ざった元種)を小麦粉と混ぜて焼いたら膨らんだので、遡ること遥か昔からいろいろなところで作られています。

私がやっているのは自然酵母と呼ばれるつまり野生の酵母を使う作り方で、ドライイーストを使ったりそのほかの膨らし粉的な粉を一切使わないパン作りです。

さらに、パンを作っている目的は色々あるのですが一つに家族の食育というかできるだけ良さそうなものを食べようとする努力があげられます。従って、私たちの満足中枢に訴えかけるありとあらゆる手段を使った美味しいパンはいくらでも作る手段はあるのですが(例えば、塩分の多目のパン、バターやクリームの入ったパン、卵の入ったブリオッシュのようなパン、砂糖の多いふわっとしたパンなどなど)、私はひたすら油脂ゼロで塩分は控えめ、糖分は砂糖を加えるのではなく小麦に任せるようなパンを作りたいと思っています。

私たちは、パン屋の十分にしょっぱくてフワッフワでクラストのパリパリっとしたバゲッドや、甘くてしっとりしたバターの香りのするパンに慣れきっていて、自然酵母の全粒粉の低温長時間発酵のじっくり育ったパンにはひょっとしたら慣れていません。時には味が薄い?と思うことすらあるでしょう。でもその点は妥協したくないと思う。自分が食べたくないものを作りたくないし、食べたくないものを家族や友人に食べさせたくないと思う。かといって、手作りパンというと膨らんでなかったりあるいは無理やり膨らんでいたり、所詮はパン屋のプロのパンより美味しいことはありえないというか、色々具を入れたり(おかずパンとか、揚げパンとか、カレーパンとか)することが多くて生地自体はそんなに追求されていないことが多い。でも先にも書いたけれども、毎日のパンは基本の食事で、それらが糖分塩分油分過多などありえないことですよね。生地自体がすごい美味しくて何も入っていないパンが美味しいというのが良いと思っています。

もう一つは時間のことです。私がパンをある意味で実験的な関心を持って作り始めたのはきっかけは少しまとまった時間を家で見出すことができたからです。色々やってみてうまく行ったり行かなかったり、種類の違う実験を同時に行うにはまとまった時間が必要でした。だからこの機会に感謝しています。ですが、それはそれ。私の食糧に関する実験は同時に芸術的な活動のコンセプトにも繋がっていて、かねてからやりたかったことの一つです。だから実験と経験には時間が必要です。でもそれはそれとして、毎日の食事のパンを作ることとは違う問題です。私は料理を日常的にやっていますが、段取りには気をつけています。特に、同時に多くのことをするように訓練してきたし、パンも同じです。パン作りは、発酵の時間や捏ねの行程などのせいで、すんごい時間がかかってめんどくさいと定評があります。例えば、冷凍食品をチンするより簡単だというつもりはないけど、正直、そんなめんどくさいこともありません。家にいなきゃできないんでしょう、外で働いてたらそんなことできんわ、ということも実はない。発酵は冷蔵庫の中で静かに放っておいたらでき、捏ねの行程もパンによって様々だから、時間のない時のパンを選べば、全く問題にならない。

パン屋でパンを全く買わなくなってしばらく経つのですが、今の所しばらくこのまま続いていくと思っているし、そのことが自分自身の食糧についての考え方にも矛盾のないことが良いことだと思っています。

またこのテーマで記事を書いていこうと思います。

ちなみに、ページ:expérimentation culinaireに写真を少しまとめて載せたのでよかったらご覧ください。

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04/21/18

Bettina Rheims « Vous êtes finies, douces figures »

つい先日にBettina Rheimsの展覧会 »Détenues »についてポストをしたばかりなのですが、Quai Branlyでも6月3日まで彼女の展覧会が見られます。展示スペースのコンパクトさと共存するオブジェとのコミュニケーションを効果的にするため写真は全てポラロイド。

Link:http://www.quaibranly.fr/fr/expositions-evenements/au-musee/expositions/details-de-levenement/e/bettina-rheims-37856/

この展覧会は、Bettina Rheimsが2014年に実現したシリーズ »Heroïne »

展覧会タイトルは « Vous êtes finies, douces figures »、このフレーズはローマ帝国の詩人ペトロニウスの詩からの引用であり、ウクライナで起こったフェミニズム運動フェメンに参加した一人の女の体に刻まれている。シリーズ »Heroïne »では、一つの岩のようなオブジェを巡るポーズをそれぞれの女たちがとっており、それは一つの<カリスマ的信仰を駆り立てる台座>の役割をする。あるいはその岩はまた、 »Détenues »において写真家が浮き彫りにしたような、囚われていること、自由の身ならざること、というテーマを浮かび上がらせる。女たちは皆、岩にまとわりつき、逃れることのできない、逆らうことのできない、何かに取り憑かれたように、ポラロイドの写真に現れる。

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04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。

03/14/18

シークエンスのために撮影したイメージ 森

長く使っていたカメラのレンズに大きな傷が入り
こんなにはっきりした傷なのでオブジェクトを変えるしかないだろうと
オブジェクトにはいつかはカバーがしてあったりまたいつかは反射を防ぐためのカバーもしてあったり
しかしときどきはむき出しでそしてもっとしばしばだらりと首にぶら下げられて
何かにぶつかったり擦ったりしたことがなんどもあるだろう。
物が使えなくなるということは、その物がどこかへ行くのだが
再利用されるのか処分されるのか大抵はいわゆる廃棄物になってかさばる物質性を伴ったままに
私たちの生活はもうどうしようというくらいに様々な種類のものに溢れて
それらは到底手に負えない、とっくに手に負えないほどであるのに
それらは非常に遠くからやってきてすぐさま遠くに行ってしまうことで
それらに対して想いを寄せる暇がないように振舞わされており
細かい葉っぱがその細部まで見きれないほどに
その影絵みたいな隙間は綺麗でした。
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03/14/18

シークエンスのために撮影したイメージ

一年ほど前にときどき歩いた水のある道を
異なる心持ちだったり一年が経過した肉体だったりを伴って
その横を通り過ぎてみるとたいへん水かさは増しており
橋の下の水の流れはあともう少しで橋にくっつきそうであり
そうして草のぼうぼうに生い茂った場所には
サギが二羽くらいおり、それ以上に鴨がおり、
なんという名前かわからない鳥なども何羽かおり、
そこには大きな水溜りができていて葉っぱがなんだかわからない様子で水に浸って
それは反射する光とともになんだか愛おしく思えて
その訳のわからない新しい池は風をさらさら受けたりして
細かい文様を水面で作り出している
雨の水は透き通っており粒が細かいのかもしれない。
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09/29/17

今日から1週間「自然」に関する写真を公開します

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À la demande d’Hélène Fleckinger, 1er jour du défi nature. J’invite Miki Gadenne Okubo. Si elle le veut bien, Miki postera elle aussi chaque jour pendant une semaine des photos de nature en invitant chaque fois quelqu’un-e à faire de même…
#DéfiNature #CEstReparti #EffetBoomerang #HaHaHa #AQuiLeTour

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ある友人からfacebook上で、一週間一日一ポストずつ「自然」に関する投稿をするプロジェクトに招待された。私は普段から写真をたくさん撮影しているが、その中でも大多数を占めるのは植物の写真だ。「自然」といって「植物」を思うのはなんだかな、と思ったりする。うだうだ考える前に提案を引き受けて毎日一ポスト投稿してみようと決めた。よい機会とも思うので、このブログでも連日の投稿についてまとめ、付すべきことばがあれば加えて行きたい。
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プロジェクト参加一日目(2017/09/29)
さて、このイメージは私が今年の8月に東京に数日滞在した際に撮影したものである。植物と動物と分解者が強めのコントラストの中に共存する一枚の写真は、上述したように自然と言えば植物を選んでしまいそうになる思考から少し説明可能になったと言う点で少しは気持ちがいい。蝉が菌類によって分解されて行く、その時間が早くすぎるのか、どれほどゆっくりなのか、十分な知識がなく分からない。蝉は成虫となってから短くしか生きないことはよく知られているし、長く生きないので食物を摂取しないことも知られている。長い間かかって少しずつ作られた身体はヴォリュームがあり、重たく、分解するべきあるいは食べられるべき幾ばくかの養分を他者に与える。

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プロジェクト参加二日目(2017/09/30)

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プロジェクト参加三日目(2017/10/01)

08/18/17

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07/14/17

arbres parfaites

quand je ne trouve rien à écrire, décrire et reproduire, c’est un instant que je découvre une figure parfaite.

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