05/28/12

日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。part1

かれこれ2週間も経ってしまった。2つ前のポストで(here!)、あるいはblog de mimiにおいても、日本記号学会第32回大会について宣伝させていただき、発表要旨も掲載させていただいた。そんなわけで、日本へは5月11日の午前中に到着し、その日一日は、時間がないなりに最大限楽しもう!と、京都国立近代美術館にて村上知義の「すべての僕が沸騰するー村上知義の宇宙ー」展を訪れ、その足で引き続き、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAの展覧会を訪れた。12日お昼から学会の総会、セッション、パフォーマンスという一日目のプログラムが始まる。事前調査では、関西は暖かい予想で比較的薄着しか持ってきておらず、この日はかなり寒い目に遭った気がする。ファッションをテーマにした学会なのに、色のごちゃ混ぜもありえない重ね着も寛容するしかないほどに、寒かったことには参った。

セッションの前に、実行委員長の小野原教子さんから挨拶があった。小野原さんとは、数年前にスペインのコルーニャで国際記号学会のセッションでご一緒して以来、彼女がロンドンにいらっしゃった際にパリから訪れてお世話になるなど仲良くしていただいている。小野原さんらしい、衣服を纏うことと記号学へのパッションに溢れる素晴らしい挨拶にとても感動した。

一日目のセッションは「(人を)着る(という)こと」というテーマで、人が衣服を着るあるいは脱ぐというのはどういうことなのか、あるいはそもそも人は完全にまとっているものを脱ぎきって、裸になることができるのか、という纏う行為そのものの定義を揺さぶるような興味深い着眼点だった。このことは、もちろん、2日目の最後に行われた、鷲田先生と吉岡先生の対談「〈脱ぐこと〉の哲学と美学」の中で議論された内容にも関わる。つまり、人が裸になるとはいかなることか、完全なる裸になることは本質的に可能なのか、身体にまとわりつく沢山の意味から一体人は自由になることができるのか、といった問題だ。

2日目の最後、学会を締めくくる対談の中で、吉岡先生は〈脱ぐこと〉に関わる幾つかのパフォーマンスや作品を紹介された。島本昭三の女拓写真、あるいは高嶺格のワークショップで参加者の女性が実現した裸写真もそのうちのひとつだ。

私がとりわけ興味深く聞かせていただいたのは、1960年代から数あるハプニング作品の中で、先生がおっしゃったように人々は脱ぎまくっていたわけだけれど、その中の幾つかの作品においては、たしかに、身体が見たこともない、あるいは別の存在として提示され、その瞬間、私達は普段「裸」の身体をみつめるのとは全く異なる視線でこれを見つめる。まさにこの時、身体はひょっとして、生まれてから死ぬまでこれをがんじがらめにする多重の意味のネットから解放されて、「真の裸の美」みたいなものとして現れるんじゃないか、という話だ。(ひょっとしたらそういう話じゃないかもしれないが、私はそのようなコンテクストで理解した。)

お話を聞きながらずっと、意味の異化とは何か、ということを考えていた。見慣れていないもの、見たことがないようなもの、ありきたりのものがびっくりするような仕方で提示される時、たしかに、普段私達が馴染んでいる「意味」を脱いでいるのだろう。その一方で、見たことがない新しいイメージもまた、完全にニュートラルであるということはなくて、おそらく別の一つの「意味」をまとっているのだろう。女拓は見たことがないという点で明瞭な意味を与えるのが非常に困難だが、美術家の語る言葉や見る人の反響、個人的な印象といった様々な要素がからみ合って、曖昧な意味を構成していくだろう。こう考えてみると、ひょっとして意味を脱ぐことなんか決してできないんじゃないか、と思えてくる。

いや、ちょっと待って。意味と意味の隙間には何があるか。2つの隣りあう意味と意味の隙間とは、異なるものの間であるのだから、必然的に「空虚」な部分がある。一つの意味からもう一つの意味に着替えるとき、やはり一瞬でも意味のない瞬間がある。なぜかわからないが、こんなことを考えていたら、子供の頃見ていたTVアニメ、セーラームーンで月野うさぎが変身するシーンが頭に浮かんだ。月野うさぎは「ドジで泣き虫な普通の中学生」だが、街に妖魔が現れると人々を守るために「愛と正義の美少女戦士セーラームーン」に変身する。問題はこの変身シーンだ。彼女たちが変身するのは危機に際してであるので、言うまでもなくアニメで30秒近くにわたって描かれるこの出来事は瞬時に完了する事象の引き伸ばしである。変身の間、コスチュームとアイテムが順序良く装着され終わるまで、彼女の身体はなんと輪郭線だけで表現されている。輪郭線の中の彼女の身体はレインボーカラーでベタ塗りされていて、そこには何もない。(変身シーンを御覧ください。here!) この瞬間の少女の身体は月野うさぎでもセーラームーンでもなく、さらに言えば、何者でもなく、存在ですらないかもしれない様態だ。

おそらく、人は意味を脱ぐことができる。脱ぎっぱなしでいることはできないけれども、瞬間的に、意味を着替える瞬間に、私達は気が付かずともいちいち自己をリフレッシュすることができているのではないだろうか。私にとっての意味をまとう身体イメージは、十二単のようなものではなく、ヒーローの変身シーンのようなものである。

さて、新聞女の西沢みゆきさんのパフォーマンスはとても面白かった。参加者全員を巻き込むパワフルなパフォーマンスの場に居合わせたのは初めてのことだった。室井先生も吉岡先生も(吉岡先生は更なるオプション付きで)、一緒にパフォーマンスを見ていた楠本さんも、新聞だらけになった。彼女はパフォーマンスを始める前、アートがいかに人を幸せにするものであるべきかを語った。彼女の語った言葉と表現行為の力強さと裏付けのあるポジティブなエネルギーに感銘を受けた。

アートに限らず、人が人を巻き込んで何かをしようとするとき、それはポジティブなエネルギーに満ちていることが素敵だ。それも強い願いや信念によって貫かれているならなお素敵だ。私がこれからたくさんの人達と成していくであろう活動もまた、誰かが元気になるエネルギーを生み出すことに貢献していけたらいい。

パート2もお楽しみに!
(二日目のセッション、個人の発表について)

実行委員長の小野原さんと会長の吉岡先生(イヴェント後の。)

05/23/12

Jean Dessirier : Artiste Scrupteur/ ジャン・ドゥシリエ

先週の土曜日、5月19日は »la nuit de musée »といってフランスを中心にヨーロッパ各地の美術館が夜間無料開館(深夜12時まで)し、普段はめったに美術館に行けないよ、という人にも色々な美術館を訪れてもらいましょう!という企画である。(様々な美術館が参加している site here)
この週末はしたがってアートイベントが夜通しで盛りだくさん。アトリエで制作する地元アーティストたちも自らのアトリエを公開し、コミュニケーションを図る。

この日は一度、blog de mimiでも展覧会を紹介したことのある、Jean Dossirierという彫刻家・画家のアトリエにおじゃまさせていただいた。(前回の展覧会の様子はこちら)この人の作品には動物たちが沢山登場します。さてさて、どんなアトリエなのだろうか。
アトリエが位置するのは、パリの隣町、メトロ12番線の終点mairie d’issyから徒歩15分ほど、静かな住宅街にある緑いっぱいの一軒家。こちらが彼のアトリエである。

この日は通りすがりのすべての人に門戸開放。
連休で休暇をとっているパリジャンも多く、人通りが多い場所でもないので、静かな土曜日だったようですが、それゆえに訪れればアーティストにかまってもらえるメリットがあったりする。

門を通って、風車や作品の彫刻が点在するお庭を抜けていくと、アーティストと奥様が出迎えてくれた。そして、こちらがオブジェで溢れるアトリエ!

木やブリキの彫刻が所狭しと並べられ、棚にもメザニンにもぎっしりと作品が並べられていた。
画家でもあるJean Dossirier。パステルのタッチが印象的な風景がも沢山。

彼の作風で最も典型的な、ブリキの彫刻たちがこちら。台座の上に、ブリキをフェイスあるいは半身像をに型どり、彩色したものが中心。ブリキの頭部は、彩色のせいなのか金属の質感がマットなせいなのか、全然メタルっぽい印象がない。むしろ柔らかくて常温の質感を感じるのが、私が彼の作品に惹かれる理由だと思う。加えて、彼の絵描く人々の顔をよく見てみると、似ているようで微妙に異なっており、視線をつぎつぎ滑らせていくと、始めは奥様の面影をどの顔も備えているような気がしたけれど、必ずしもそうとも言い切れない気もしてくる。無国籍な顔だ。

画家の窓。
画家の窓には光がたっぷりと差し込んで、干からびた絵の具も、鉛筆も、刷毛も、絵筆もすべてがいっしょくたになっている。彼が築いてきたアトリエでの制作の時間の集積を、見る者が一瞥した瞬間に悟らせる強烈なイメージがそこにあった。

画家の家は楽しい。
彼の作品を並べて、ドゥシリエの動物園っていう展覧会をやるのはどうだろう。子供も大人も純粋に楽しめるzooになるはずだ。そう、彼は動物が大好き。フクロウやその他の鳥たちは頻繁に彼のモデルになる。私が最も愛する動物であるカメはやはり芸術家にも愛されている。お魚も沢山いるし、伝説上の動物も必須だ。

すてきなカメたち。

Porte ouverte(アトリエ開放)の日ということもあり、数人のヴィジターが。
奥様の焼いたブルターニュ地方のりんごケーキを白ワインと共に頂いた。なんと、アトリエを訪れ放題の上におやつ付きだ。

さて、この方がクラマー(clamart)のブリキ彫刻家、ジャン・ドゥシリエさん。
前回の展覧会に出展した »oiseau »がお買上げされて旅立っていくので、丁寧に刷毛でお掃除してあげているところ。ちなみに彼の作品はサイズ様々、一般人にも購入可能なお値段である。

彼のオフィシャル・サイトはこちら his official site here
エクスポのオファー、作品の問い合わせなどあれば、このブログを通してご一報くだされば対応できるとおもいますので、お気軽にメッセージください。また、訪れた際にもレポートしますので、チェックしてみてくださいね。

05/18/12

Hundertwasser @ Kunst Haus Wien ,@ Hundertwasserhaus

Musique en Sorbonneオーケストラの演奏旅行でウイーンにも立ち寄った。朝8時にチェコのPribramを出発し、結構渋滞しており、ウイーン公演前に観光時間が3時間ほど辛うじて与えられるというハードスケジュール。ゲネプロに遅刻はできないけれど、機会は逃したくない。ミッテ駅からトラムに乗るなら、Radetzkyplatsで下車するとちょうどよい。私はミッテから走りました。一生懸命走れば15分強くらい。
というわけで、Kunst Haus Wienと目と鼻の先に位置するHundertwasser Hausの両方を見学してきた。

Hundertwasser(フンデルト・ヴァッサー)は、1928年ウイーン生まれの建築家・芸術家。ユダヤ系の両親を持つヴァッサーは、戦争中をユダヤ人街の地下室で過ごしながらそれでも幼い頃の創作への憧憬を忘れなかった。ヴァッサーは始め、画家を志して北アフリカに旅に出ている。彼が建築家として最初の作品を発表したのは1952年のことだ。彼が表明している芸術へのスタンスは、彼が幼い頃愛した自然の要素に基づくもの。彼の建築は独特な方法で人と環境の双方を有機的に結びつける。

クンスト・ハウスは4階建て、カフェ・レストラン、美術館、ショップを含む見応えたっぷりの異空間だ。ここに来ればヴァッサーの常設展作品が見られる。

正面入口はこんな感じ。界隈はドナウ運河から遠くない、本当に静かな住宅街。駅から近いけれど、雑然とした表通りから一本中に入っているのだ。

ヴァッサー旗発見。素敵だな。ヴァッサー建築のファサードはしばしばくっきりと真っ赤な血が流れ伝うようなペイントが有名なのだが、1991年にオープンし、彼の晩年の建築にあたるこのミュゼの外壁はもう血を流してはいない。

ミュゼの入り口のちょうど裏側にはカフェが。このカフェも隅から隅までデコレーションに余念がない。陶器タイル使いがとくに美しくて新しい印象を与える。

カフェの中。外も中も緑がいっぱい。植物たちはどれもとてもよく手入れされており元気で、中にもたっぷりの日が差し込む。

ここが私がもっとも愛した壁デコのポイントである。トイレである。白と黒のタイルデコを基調に、男の子と女の子の壁画。これは文句なしに素敵だ。誰がなんと言おうと素敵だ。

トイレの前でうっとりしている間に、ゲネプロの時間が近づいてきてしまった。私は走った。全力で走り抜けられる距離です。

さて、こちらはHundertwasser Haus。こちらは住宅なので内部見学はできない。ウイーンで最も奇抜な市営住宅と呼ばれているヴァッサーハウスは、1986年に完成した。1972年に当時のテレビ番組‘Wünsch dir was'(あなたの夢、叶えます的な番組)に出演した際、ヴァッサーは、植物と共存できる家の建築に対する夢を語った。5年後の1977年、ウイーン市長Leopold Gratzの提言をきっかけとして着工が決まった。まさに夢の家だ。

彼が植物と共存できる家と名付けた建築に必要な要素は、木々が地面に張り巡らせるしっかりとした根のような安定して力強い建築、窓から差し込むたっぷりの陽の光、ファサードはこの光を存分に得るために立派に構えること。噴水や実際の木々も植えられており、ヴァッサーの夢見た住宅を目にできた喜びは大きかった。

ヴァッサーハウスに実際に住んでみると、どのように植物との共生を実感できるのか。こんなお天気の良い日に朝日が差し込む様子や、風のある日や雨の降る日、この家はどんなふうに生きているのか。ヴァッサーハウスに住む友人を作らないと好奇心は欲求不満のままである。

ヴァッサー建築は、ウイーンにあろうが、日本にあろうが(大阪市環境局舞洲工場、2001年、および大阪市舞洲スラッジセンター、2004年)、あるいはものすごくモダンなデザインの界隈にあろうが何れにしても異色を放ち、異空間を創りだすだろう。なぜなら、それらは、何にも似ておらず、これまで見たことがない建築であるからだ。
ユニークであるということは、どこから出てきたかわからぬ突拍子のないもの、ということではない。分かりそうで分かり得ない、捉えたようで捉えきれていない興味深いものが見え隠れしており、人の心を強く惹きつけて離さない何かを持っている存在だ。
Hundert Wasserの残した植物と人と建築を含むその環境は、強烈な印象で訪れる人を迎え入れ続けるだろう。

05/8/12

日本記号学会 第32回大会 2012.5.12-13

日本記号学会第32回大会 「着る、纏う、装う/脱ぐ」
開催日:2012年5月12日(土)・13日(日)

会場:神戸ファッション美術館 第一セミナー室/第二セミナー室/ギャラリー

1日目:5月12日(土)
13:00
会場・受付開始(学会員のみ)
13:30
総会(学会員のみ)
14:00ー16:45
実行委員長挨拶・問題提起 小野原教子(兵庫県立大学・現代ファッション)
セッション1「(人を)着る(という)こと」第一セミナー室
鈴木創士(フランス文学者/作家/音楽家)/幣道紀(曹洞宗近畿管区教化センター総監/妙香寺住職)/塩見允枝子(音楽家)/木下誠(兵庫県立大学・フランス文学)
17:00-17:45
企画パフォーマンス 西沢みゆき(新聞女)

2日目:5月13日(日)
10:00-12:45
研究発表(※詳細はサイトをご覧下さい)
13:45-16:00
セッション2「なぜ外国のファッションに憧れるのか」 第一セミナー室
高馬京子(ヴィータウタス・マグナス大学アジア研究センター・言語文化学)/池田淑子(立命館大学・カルチュラル・スタディーズ)/大久保美紀(京都大学大学院/パリ第八大学・美学)/杉本ジェシカ(京都精華大学国際マンガ研究センター・マンガ研究)
16:15-17:45
セッション3 「〈脱ぐこと〉の哲学と美学」 第一セミナー室
鷲田清一(大谷大学・哲学) VS 吉岡洋 (京都大学・美学)
17:45
閉会の辞 吉岡洋

日本記号学会ホームページはこちら(プログラムもこちらをご参照ください)

*上記研究発表内、第一セミナー室において
「モビリティ概念と身体意識 〜現代の自己表象行為を特徴づけるもの〜」
および、2日目午後のセッション「なぜ外国のファッションに憧れるのか」において、
「ファッションとキャラ的身体」というテーマで発表します。
発表要旨は以下★★★

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2012年5月 記号学会発表要旨

「モビリティ概念と身体意識 〜現代の自己表象行為を特徴づけるもの〜」

大久保美紀

本発表では、現代を生きる我々の身体意識とこれを特徴づけるモビリティ概念の関係について考察する。

モビリティとは文字通り可動的な性質であり、モバイル=可動性という言葉は、この20年間で瞬く間に技術的発展を遂げ、私たちの行動様式を再編成した携帯電話そのものをも意味する。また、エルキ・フータモは論文An Archaeology of Mobile Media(『モバイル・メディアの考古学』,2004)において、可動性を持ったメディア(ディバイス)をこれまでのメディア史において主として論じられてきた固定されたメディアと区別し、現代の速度論的社会(ポール・ヴィリリオ)の中で私たちの身体にいつも密着する形で移動するメディアとして定義した。

ウェアラブル・メディア、ポータブル・メディア、そしてモバイル・メディア。身体に密着し、いつも私たちの認識や経験と共にある新しいタイプのディバイスに対し、私たちは様々な呼び名を与えてきた。しかし、身体自体が運動し、メディアを介した情報コミュニケーションもまた潜在的なレベルで移動性を持っていることを鑑みれば、モバイル・メディアは適切な命名で、モビリティ概念こそが重要な意味をもつことが明らかになる。

さて、モバイル・メディアは身体意識(body consciousness)をラディカルに変質させた。ノートパソコン、タブレット、ケータイを通じてどこにいても常に外の世界に開かれ、そこに接続されている身体。 人々がディバイスをパーソナライズ化する行為はガラパゴス化した日本社会の特異現象と見なされてきたが、物質的な身体を離れた潜在的な身体のユビキタス的広がりを感覚する現代社会において、インターフェイスとなるディバイスを一つの身体の形代と見立てるのはむしろ自然なことですらある。

これらを踏まえるとき、現代の自己表象の特徴と傾向はどのように分析、理解されうるだろうか。表現方法は、テクスト、イメージ、パフォーマンス、オブジェ、それらを組み合わせたもの等様々である。今日では、絵画、小説、音楽、演劇、写真、服飾という芸術家の作品のみならず、ブログやmixiでの日記、写真共有サービス上でのアマチュア写真家のプレゼン、フェイスブックでの活動、ツイッターを介した交流もまた、現代的な自己表象行為を代表する重要な発表形態とみなすことができる。モビリティの時代における自己表象行為がどのような方法・形態で実践され、そしてそれは身体意識とどのように関係しているかという問題について取り組む。

本発表では、ハイ・アートの領域において身体をメディアとして扱ってきたオルランやぴゅ〜ピル、あるいはファッションにおける川久保玲らの活動を新たな観点から分析し、ウェブカムやデジカメ、インターネットの普及以降台頭したアマチュア・アーティストの活動やゲーム・コスプレの身体感覚にも言及し、その歴史的意味を読み解く。Mechanical Turkを利用した実験的作品の発表も行う。
以下、シンポジウム発表要旨
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キャラ的身体とファッション

 大久保美紀

人々は往々にして外国のファッションが好きだ。日本人は今昔フランスの老舗ブランドの重要な顧客であり、「パリ」「フレンチ」という言葉はオシャレで洗練されたイメージを想起させる。一方、フランスでは、日本語の形容詞「Kawaii」が未曾有のマンガ•アニメブームの中で堂々と市民権を獲得し、日本のKawaiiファッションもまたこの追い風を受けて熱心に受容されている。

さて、このように日本女子がヨーロピアンテイストを模倣し、パリジェンヌが着物やコスプレを愛好する今日の状況は、日仏の上流階級女性の間で19世紀後半に見られた洋装ブームやジャポニズムの流行と同様に「外国ファッションへの憧憬」であると見なされ得るのだろうか。本発表では、現代社会において経験される身体様態の変化に着目しながら、人々のファッションに対する今日的なスタンスがいかなるものかを明らかにする。

そもそも「憧れ」とは、理想とする物事や人物に心惹かれる有様である。また、自分自身が同一化したい対象、あるいは所有物として獲得したい対象を指す。現代社会を生きる人々は、ファッションに対して何を求め、どのような欲求実現を目指しているのかを具に分析すると、表層的にはかつての洋装模倣と同質で継続的に見える今日の外国ファッション受容は、従来とは全く異なる身体様態と対象意識に基づくものであるということが明らかになる。私たちは、一見外国ファッションを熱心に模倣し続けているかのようで実はそうではない。もはや「憧れ」てすらいない。

ゲームやヴァーチャルリアリティーという多様なシミュレーション体験、あるいは、既に日常的となったアバターや絵文字に依存するウェブ上のコミュニケーションを通じ、私たちの身体像は遍在的•虚構的で、極度に簡略化されたものとなった。シンプルで抽象的な図柄によって代表される自己イメージは「キャラ」的な身体様態を形成する。フェイスブックなどのソーシャル•ネットワーク•サービスに見られる特定のプロフィール写真は、アイコン化された自己認識を創り出し、ブログやミニブログのアイコンとそれを肉付けするテクストは、世界に「キャラとして私」をさらけ出すための自己演出を実践する。

キャラ化された身体は、自分自身の身体イメージを生々しいリアルな世界に置き続けながらも、他方でそれを記号的なモチーフとして作り直し、自分であり自分ではない別の存在として知覚する。このような身体的知覚を通じて得られるものが、ゲーム感覚的な人生観にもつながる、現実に対するある種の非直接的な意識である。自らと共にあるにもかかわらず、同時に無感覚なほど遠くにあるような身体。これが現在のファッションが依って立つところの身体様態の正体である。

人々は、西洋人のボディラインを手に入れることや、外国人らしい顔立ちになること、それをたとえば整形手術によって手に入れようと熱心に追求するのをもうやめてしまった。一方で、それに取って代わるアニメキャラやお人形、アイコン化された自己イメージが新たな憧れの対象として台頭してきている。それは、簡略化と修正を経ているにせよ、本質的には自分自身が関与するアイコン的イメージに還元されるという点で、逆説的にも、深い自己愛に満ちた愛されるべき身体様態であると言えるのではないだろうか。