09/18/17

展覧会「ファルマコン:医療-エコロジーアートによる芸術的感化」Exposition Pharmakon

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ウェブサイト: 展覧会ファルマコン公式ウェブサイトはこちらをご覧ください! @MREXHIBITION.NET/PHARMAKON

「ファルマコン:医療とエコロジーのアートによる芸術的感化」
Pharmakon: Medical-ecological approaches for artistic sensibilization

展覧会:「ファルマコン:医療とエコロジーのアートによる芸術的感化」
Pharmakon: Medical-ecological approaches for artistic sensibilization

企画:大久保美紀
共催:特定非営利活動法人キャズ
協力:The Terminal Kyoto、京都大学こころの未来研究センター
助成:ポーラ美術振興財団、朝日新聞文化財団

会場・日時:
ターミナル京都(2017年12月1日~23日): 〒600‐8445京都府京都市下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町424
CAS(2017年12月2日~23日): 〒556-0016 大阪府大阪市浪速区浪速区元町1丁目2番25号 A.I.R. 1963 3階

オープニング・レセプション
京都会場・大阪会場におきまして、各オープニングの日、アーティストを交えてレセプションを行ないます。フランスから参加のアーティスト達にとっては初めての日本での展示となります。ぜひお越し下さい。
京都会場:2017/12/1  ターミナル京都 18時~21時 参加無料
大阪会場:2017/12/2  CAS 16時~ 参加500円(アーティストトーク17時~)

キュレーション:大久保美紀
アーティスト:Evor, florian gadenne, Anne-Sophie Yacono, Jérémy Segard, 石井友人, 犬丸晃, 大久保美紀, 田中美帆, 堀園美

<展覧会について>
展覧会「ファルマコン:医療とエコロジーアートによる芸術的感化」(Pharmakon : Medical and ecological approaches for artistic sensibilization )は、フランスより5名のアーティストを招き、日本で活躍する3名のアーティストとキュレータ自身を含める9名の作家からなる現代アートのグループ展です。本展覧会は、ターミナル京都(12月1日オープニング)、および特定非営利活動法人キャズ(CAS、12月2日オープニング)にて12月23日まで開催いたします。

本展覧会「ファルマコン」は、今日の芸術表現が有用性や存在意義を厳しく求められている社会的状況の中で、アートという手段によってこそ実現することのできる社会問題・環境問題への対峙と、芸術表現を通じて他領域への問題提起すること、その意識化の可能性を模索することをめざしています。とりわけ、自然環境と人間の営みの相互的関係や、自然の一部としての人間にとっての先端医療や科学技術の持つべき意味について、芸術的アプローチを介して丁寧に見つめ直すための新しいパースペクティブを提案したいと考えます。

薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念です。本展覧会のタイトルとしての「ファルマコン」は、治療薬やドラッグ(remèdes, drogues)を意味すると同時に、染色剤や化粧品などの毒性のあるもの(poisons)を意味するこの言葉の語源に沿って、病が肉体に定着する以前に行なわれる不適切な行為(投薬など)が却って状況を悪化させる可能性を喚起しながら、身体の自然治癒能力と環境へのコミットメントのあり方を巡り、身体のより健全な生き方について考えるようわたしたちを導いてくれるでしょう。さらには、芸術表現は、特定のメッセージとして放たれ、個人や共同体や社会に深く享受されたとき、それがひょっとしてある既存の体制にとってラディカルなものであったとしても、将来の生活や環境に現在のあり方を改善し、それをより好ましい傾向へ向かわせるものとして、つまり「毒=薬」としてふるまうことに着目します。

本展覧会が、芸術領域、専門領域、鑑賞体験という個別のフィールドを超え、それぞれを有機的に結びつけながらダイナミックな対話を生み出す「感化的芸術」(Artistic sensibilization)の機会となるよう願っています。

08/31/14

たよりない現実、この世界の在りか @SHISEIDOGALLERY

「たよりない現実、この世界の在りか」展

SHISEIDOGALLERY
2014.7.18 – 8.22
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銀座の資生堂ギャラリーで開催されていた「たよりない現実、この世界の在りか」展は、アーティストの荒神明香とwah documentの南川憲二、増井宏文で構成される現代芸術活動チーム「め」による個展である。資生堂ギャラリーはブティックとは別の入り口を通って地下に降りて行くのだが、展覧会の張り紙はあるもののそれらしい入り口が見当たらない。工事中で鉄骨のあらわになった壁がビニールシートで覆われたような、あれっ、ピカピカの銀座の資生堂にこんな場所が?と思しき空間を意味有りげにのぞかせたドアがこちら側に開いている。どうやらここが入り口である。

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「たよりない現実、この世界の在りか」と題された展覧会はぜんたいでひとつの小宇宙とも宇宙そのものとも呼ぶべきインスタレーションになっていて、この心配を誘う入り口の足場に注意を払いながら階段を下りて行くと、強烈に暖色系の照明が、まだ暗さに慣れていない目の奥に焼き付く。ホテルの廊下に見立てられたその通路には、部屋番号が付されたいくつかの扉が閉じられており、壁には丁寧な印象を与えるランプと異なる世界からのメッセージを自動筆記したようなドローイングが飾られている。廊下は一度曲がって、左手に小さな部屋があり、突き当たり右に、こんどは一部屋だけ、覗き見ることの出来るホテルの一室があるようだ。

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廊下をゆっくりすすみながら、依然として目が慣れない。廊下を一度曲がったあとに、一度目の世界の裂け目と出会う。暗闇の中にホントウは見たことがない「木星」はきっとこのような見た目を呈するのではないかと子どもの頃よく眺めていたカラーの図鑑『宇宙』の本の色のついた美しいイラストのことなどを思う。ぼんやりと浮かぶ球体は、廊下の奥の小さな入り口から入る部屋からも覗き見ることが出来る。

廊下の突き当たりにドアが開いた部屋があり、訪れる人はその公開されたホテルの一室を出たり入ったりしている。ぴたりと整った客室、そこはしかし既に誰かに割り当てられた後の部屋であり、衣類や帽子などが置いてあり、机にもその人の私物と思われるいくつかの物が置かれている。私たちは、誰かの部屋にこっそり忍び込むよう招待され、それゆえに、ベッドや部屋の物に触れてはならないと予め注意されている。客室に住むその洋服や物品の持ち主は、私たちがここに来たことすら知らないのだ。では私たちがいるのはいったいどこなのか?なぜこっそりと誰かの部屋を覗き見ることに招かれ、その人に知られることなく去らねばならないのだろう?もしかして、私たちがホテルに滞在するような時、いや、そもそもいつも通り自分の部屋にいるような時、だれかが訪れてこっそりと我々を垣間みて帰って行く、そんなことがあったのかもしれない。

私たちは誰かの滞在する部屋の縦長の裂け目のまえで立ち止まる。鏡だ。それは通常私たちが「鏡」と呼んでいるものの形状をしており、ただしその境界面は私たちの存在を認めない。触れてはならないと言われている展示の中で、そこに鏡があると信じる以上手をのばすわけにはいかない。なぜ?私たちが頑にルールを守るのはなぜなのだろう?鏡に自分自身が写らないという非常事態を前に、世界と調和するためにルールを守る必要なんてないにちがいない。非常事態は信じ込んでいた世界が壊れるということを意味しているので、このようなとき、風穴が空く。鏡だと思い込んでいた、しかし私を映し出さないそれは、もうひとつの向かい合った部屋に出入りするための穴であったことを見つける。穴は見つからないかもしれない。見つかればそこを通り、見つからなければ戸惑うだろう。しかし人はいつしかその両方に慣れて、二つの異なる世界で生き続けることができるのである。

部屋にあった鏡が裂け目あることが見つかり、ぽっかりと浮かぶ惑星を認め、もういちど灼熱の銀座8丁目の地上に登る道筋がみつかり、地下で見たものについて考えを巡らすこともひとつの現実であり、たとえばホテルの一室で、自分の写らない鏡の前を素通りし、来た道を戻るようなことがあっても、あるいはまた、ギャラリーの入り口のドアのなかの不穏な様子を垣間みて、地下には降りないと決意することも、それらはすべてありそうなことであり、あってよいことである。

「たよりない現実、この世界の在りか」は、一つのありそうな「世界の在りか」を提示することを通じて、もしかして私たちが何らかの事情や慣習から見ないように気をつけていることなどを凝視するような契機を与えてくれるのかもしれない。世界は意外と隙だらけであることなど。

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06/30/14

Indiens des Plaines @quaibranly, インディアン・ファッション

本展覧会« INDIENS DES PLAINES »は、エッフェル塔から少しセーヌ沿いに東に移動したPont d’Arma近くのMusée Quai Branlyにおいて現在開催中の展覧会である。「プレーンズのインディアンたち」と題された本展覧会で出会ったのは、鑑賞者の注意を喚起するのに成功したセノグラフィーであり、展示作品であり、物語であった。

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Musée Quai Branlyは、パリの大きな国立美術館がそれぞれの担当領域によってある程度棲み分けをはかっているといったあまりに一般的な見方から紹介するならば、世界のプリミティブアートとアフリカやオセアニアのアート、少数民族の文化や手工業のコレクションを数多く収蔵しており、企画展もまた、こういったプリミティブアートやアフリカ・オセアニアの工芸に焦点を当てたもの、人類学的観点からある文化を展開・紹介するような傾向が見られる。ただし、この美術館の一つの強さは、「アートとはなんであるか」「アーティストとは誰か」という、自分がアートに関わっていると自負している人なら誰しもつい溺れてしまうくだらない問いから、完全に解放されている点であると思う。

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我々がここで目にすることの出来る展示作品は、しばしば作者不明あるいは匿名の表現者たちによる作品である。イリノイのある地方、ミシシッピ上流の谷、グレートプレーンズ、それぞれの地域で名も無き作り手たちが丁寧に作り上げた精巧な衣類や織物、人形や祭りのための飾りといったものが17世紀よりその地を訪れたヨーロッパ人を驚愕させてきた。

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人々はしばしば、今自分たちが生きている、あたかもたった一つに結びつけられたかのようなグローバル世界が行き着くべき理想的体系であるかのように思って、それ以前に独立して存在していた別々の世界は、現在ある全てのものより洗練されておらず野蛮なものだと妄想しがちである。今の世界が最終的で最高の形と感じるのは、我々が今しか生きられない生き物だからなのである。現在のデザインや技術は存在した全てのものの上に立っていることは有り得ず、だから、我々の知らない物凄いものが時々発見されたとしてもそれは実はとてもナチュラルなことなのである。

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展覧会は7つの章に分けられ、最も素晴らしいことには、開かれた大きな展示スペースに至る前までの3つのセクションは、現在から遡って行く時間軸をとっている。
L’exposition est ainsi organisée en sept parties :
. Le renouveau artistique dans la vie contemporaine, 1965-2014
. Communautés et diaspora, 1910-1965
. Peuples anciens, Pré-contact
. La vie dans les Grandes Plaines, 1700-1820
. L’épanouissement d’une culture, 1820-1860
. La mort du bison, 1860-1880
. Dans les vestiges des terres ancestrales, 1880-1910

アイデンティフィケーションに血眼になるような展示はアートの可能性を広げないが、ならばどうしたらいいのか?という問いへの一つの解釈がここに展示されていると思えた。

Manteau d’homme and Souliers de femme (about 1920),
Artiste lakota
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Patchwork (about 1915)
Rebecca Blackwater, artiste dakota
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Manchettes de danseur (about 1925)
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Chaussures sabots (2014)
Jamie Okuma, artiste luiseno, Californie
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Robe de femme avec accessoires (2005)
Jodi Gillette, artiste lakota hunkpapa
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本展覧会は、2014年4月8日〜7月20日まで開催中である。
参考:http://www.quaibranly.fr/fr/programmation/expositions/a-l-affiche/indiensdesplaines.html

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04/28/14

驚くべきリアル / The Marvelous Real @東京都現代美術館

驚くべきリアル ー スペイン、ラテンアメリカの現代アート ーMUSACコレクション
THE MARVELOUS REAL@東京都現代美術館( http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/musac.html
2014年2月15日ー5月11日
* http://www.musac.es/# (MUSAC)

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東京都現代美術館で開催中の「驚くべきリアル」はカスティーリャ・イ・レオン現代美術館(MUSAC)のコレクションより、スペインとラテンアメリカ諸国の27人のアーティストの作品で構成される。MOTチーフキュレーターである長谷川裕子さんが企画した展覧会だ。この展覧会はずば抜けて面白いので、2014年5月11日まで開催されているので、東京に行かれることがあったらぜひともお薦めしたいのである。
本展覧会カタログによせた文章の冒頭で長谷川さんは、グレナダの詩人フェデリコ・ガルシアロルカFederico Garcia Lorca)の一節を引用している。

「スペインでは、他のどの国よりも死者が生き生きとしている。」(En España, los muertos están más vivos que en cualquier otro país del mundo.)

――∑(゚Д゚)アァ!?
マンガ的に反応すればこんな感じである。スペインでは他の国よりも死者が生き生きしている、死は生よりも活気をもっていると言われても、どうピンと来ていいか分からないだろう。確かにスペインという国は、歴史の中で独特のストーリーを紡いできた。宗教的なものの伝統は現代も生活の随所を支配し、彼らが経験した政治的問題は一目置かれるべきだ。1968年にこぞって「春」を経験したヨーロッパ諸国を横目に眺めながら、フランコ政権が倒れたのは実に1975年のことである。1939年に国家元首となったこの人は第二次世界大戦後の1946年から10年近くにわたって国際社会からスペインを孤立させ、75年に死ぬまで独裁を続けたのだ。スペインだけではない。この展覧会では、このようなスペインの影響を色濃く受け続けたラテンアメリカ諸国のアーティストの表現も目撃させてくれる。

さて、スペインでは生者より死者が生きている話に戻ろう。ガルシア・ロルカのこの命題への違和感は実は、生きているスペイン人がそもそも元気すぎるという一つのイメージに端を発する。彼らは高速・多忙な現代社会にあっても、シエスタの伝統を貫き、朝早く起きてまでお昼寝を確保し、夜な夜な夕食をとったあげく夜更かしをし、熱い夏は更に夜行性になり、情熱的なフラメンコを踊る女を口説くギターのうますぎる男と、赤ワインは果てしなく濃厚で、だからこそそのサングリアは最高…。彼らの突き抜ける明るさはしかし、彼らの奏でる音楽を耳にし、暗い色彩で塗り籠められた彼らの絵画を目にした瞬間、深い心配に変わる。彼らの救いようのない悲哀、絶望的な現世への嘆きのようなもの、そんなものを彼らは現世に存在する我々が決して手の届かない存在に語りかける。あるいは、死者が彼らに語りかけているのかもしれない。我々が生きている世界では、通常明確に隔絶していると信じられている二つのものの境目が曖昧になることがある。例えば生ける者の世界と、死せる者の世界の往来がそれだ。スペインの生ける者たちが見せる表現においては、それらが行き交い、その軌跡を時々可視化しながら、本当はそこに境界が存在しないことを向こう側の世界の声を介して我々に語りかける。

ガルシア•ロルカは38歳のとき1936年フランコ軍に銃殺された。
En España, los muertos están más vivos que en cualquier otro país del mundo.
死んでいることと生きていることの間が溶解する。
生と死に支配されない彼らは、強い。

 

前置きが長くなってしまったので、早速作品を見ていこう。

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Lara Almarcegui ララ・アルマルセーギの《穴掘り》(1988年)は、アムステルダムの空き地で毎日穴を掘り続ける様子を写真によって記録した作品である。ララ・アルマルセーギは、1972年スペインに生まれ、ロッテルダムで制作するアーティストだ。昨年は第55回ヴェネチア・ビエンナーレに参加し、スペイン館にて大量の石が部屋からこぼれ出ている未曾有のインスタレーション《廃墟》(Ruins)を発表し、鑑賞者を困惑させた。ストイックだがラディカルな方法はなるほど、ゴードン・マッタ=クラークの影響を彷彿とさせる。穴掘りで見られる見捨てられた/日常見向きもされない場所を人目に晒しだす手法は彼の一貫したテーマとして引き継がれる。

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Sergio Belinchon セルヒオ・ベリンチョンの《なだれ込む》(2007年)は、三枚のスクリーンが夜明け前の薄暗い森の中で行われる怪しげな出来事の始終を映し出すヴィデオ・インスタレーションである。静寂の森にふと我々と同じような普通の衣服を着て、子どもであったり老人であったり若者である人々が群れになって疾走している。それだけの人の群れが全速力で走り抜けているというだけで異常さに目が釘付けになるのだが、彼らの幾人かはハシゴのような物を抱えていて、こちら側と向こう側を仕切り分けるフェンスを力づくで乗り越えていく。Sergio Belinchonはヴァレンシア生れ、現在はベルリンで制作を行い、見つめるとハッとするような写真作品を発表してきている。柵を飛び越えてその向こう側へ行くというイベントは、具体的現実としての移民問題や差別問題を越えて人々の潜在的欲望を可視化するような試みにすら思える。

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Joan Fontcuberta ジョアン・フォンクベルタの表現は驚きに満ちていて、その物語の虚構性やアーティストの目論みは厳しく批判的である。ついこの間パリのヨーロッパ写真美術館ではジョアン・フォンクベルタの回顧展として、メディアや科学の信憑性を問うたFaunaシリーズに加え、彼がキュレータを務めた「スプートニク」展も部分的に再現された。フォンクベルタの表現に関しては、Faunaシリーズを再考することは必ず価値があるだろう。さて、作品《移民》(2005年)は、2003年にジブラルタル海峡近くの浜辺で殺された二人の移民の写真を一万枚のイメージで再構成した作品である。

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1962年生れの女性写真家、Carmela Garcia カルメラ・ガルシアによる《無題》(2002年)は、三部作オフィーリアシリーズ(http://www.carmelagarcia.com/ofelias-3)の内のワンシーンである。オフィーリアは言うまでもなく、シェークスピアの《ハムレット》に登場するハムレットの恋人の美少女で、父ポローニアスを殺害されたのち、正気を失って両手いっぱいの花を抱え、野原を彷徨うようになり、ついに川で溺れて死んでしまう。オフィーリアは身を投げたのか、それとも足を滑らせて溺れ死んだのか? カルメラ・ガルシアの想像力は、そんな月並みな終着点を持たず、さらに問いかける。オフィーリアが水の中でもし突如正気に戻って、やはり生きるために世界に戻ってきたら? ハムレットなんかもはやどうでも良く、父も死んだがそれでも生きるために戻ってきたとしたら? 人は生きることを決められる。その逆も然り。世界はこのようにある。いや、それは結果としてオフィーリアが溺れ死んだとしても同じことなのだ。

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Anthony Goicolea アンソニー•ゴイコレアのショート•フィルム作品《両生類》(2002年, Amphibians : video here)にはドキモを抜かれる。赤ずきん風マントを被った男が、原っぱから森の中へ駆け抜けている。虫の羽音に混じって苦しそうな呼吸が響く。彼らは次第に集まって、木の幹に足を取られて時々転びながら、起き上がり、再び駆け、ついには水辺を発見する。いっせいに水の中を泳ぎ回り、そこではもう赤ずきんマントや重々しいブーツは不要となり、彼らは身一つでやっと地上の息苦しさから解放されたという風に、水の中で生命を取り戻す。彼らの泳ぎは魚達のそれよりずっと醜く不効率で、彼らの四肢は水を掻くには脆弱すぎる。それでも彼らは喜びきらめき、境目を越境することに成功する。

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《彼を内に守る山》(1989年)は1993年に36歳の若さで夭折したLeonilson レオニルソンが残した、心に残る一枚の絵である。サンパウロで学んだ画家は、政治的・社会的弾圧や差別に対する個人の生のあり方を見つめる作品を発表した。彼は同性愛者であったが、91年にエイズ感染が発覚してその二年後に亡くなった。

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Enrique Marty エンリケ・マルティの大作《家族》(1999年)は、それがリアリズムを越えたある主の強調であり、フィクションの要素を含むと理解した上でなお恐ろしい。それは確かに強調でありながら、同時に依然として現実を描いているためだ。本作品は、スナップ風の家族写真群である。よく見ると、女の顔は狂気に満ちていて、赤ん坊を可愛がる大人達はその性器に何かしている。あどけない少女は顔から出血しており、鼻は奇形化し、のどかな午後を思わせるワンシーンでは男が発狂し、病院のベッドに横たわる女の表情は既に死者が混じっている。これらがスナップ写真の「いたずら」で終わらずに、繰り返し我々の脳裏に蘇って来るのはなぜだろう。それは実は我々にとって全て、ある意味での既視イメージだからなのである。それを否定しても、受け入れても、我々はこのことを知っているのだ。

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Marina Nunez マリナ・ヌニェスの《モンスター》シリーズ(1998年)では、こちらを見つめる女の身体の一部がロボットやアンドロイドのボディの一部のように変容している。そしてそのストーリーの続きは、この異変はやがて女の身体全体を蝕んで、彼女をモンスターに変えてしまうことを約束しているのだ。映画《もののけ姫》でアシタカの身体を蝕む自然界からの呪いとは異なり、彼女らの異変は、彼女らが社会の中で抑圧された苦しみに由来する内的なものであるように見える。だからこそ彼女らはそれを受け入れて共にあるのだろうか。

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Javier Tellez ハビエル・テジェスが精神衛生施設のメンバーとのコラボレーションで実現した《保安官オイディプス》(2006年)は、想像力の天井をぶちぬいている。基本的に、ソポクレスのおなじみのギリシャ悲劇オイディプスを基礎としてストーリーが展開されるこの作品では、統合失調症のオイディプスは始終能面を付けて役を演じる。行く先のない、逃げ道のない、この古代悲劇を取り上げることに何の意味があるのだろう。鑑賞者は、能面を身につけているにもかかわらず構わず演じられる残酷なシーン、オイディプスが目をえぐるクライマックスシーンなどにまゆをひそめる。だが、物語は思いもよらず崩壊を向かえる。オイディプスは能面を外し、窒息するはずであった小さな世界の壁紙を破って、清々しく深呼吸し、物語を終えるのだ。何を悩んでいたんだろう? とでも言わんばかりに。

展覧会は5月11日まで。東京都現代美術館にて開催中である。

02/12/14

「反重力 」展 @豊田市美術館/ Anti-Gravity @Toyota Municipal Museum

反重力 Anti-Gravity
2013年9月14日[土]-12月24日[火]
豊田市美術館
Web Site link

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豊田市美術館に訪れたのは二回目で、私はこの美術館がとても好きである。初めて訪れたのは、2012年「みえるもの/みえないもの」というコレクション展で、ソフィ•カルの『盲目の人々』や志賀理恵子の『カナリア』などの名作を、メルロポンティ現象学が取り組んだvisible/invisibleの間に思いを馳せながら鑑賞するとても良い展覧会であった。その日のお天気や、近くに生えていた梅の花がどのくらい咲いていたかすら明確に思い出せる。salon de mimiのポストにもその展覧会のレビュー(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=384)が掲載されているので、ぜひご覧頂きたい。

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さて、能勢陽子さんがキュレーションされた展覧会「反重力」は、魅力的なタイトルの展覧会である。「反重力」は「無重力」ではない。あくまでも、Gravityに対峙する、Anti-Gravityなのだ。それは次のように説明される。

引用)「反重力とは、創成時の宇宙にインフレーションを起こし、今日の宇宙を加速膨張させているといわれる、重力に反する仮説の力です。SF作品では(中略)物質•物体に関わる重力を無効にし、調節する架空の技術として登場します。」(本展覧会カタログp.2)

当展覧会のカタログに掲載された吉岡洋さんの「飛行、浮遊、そして反重力へ」という文章中にも述べられているが、反重力はしばしば、SF的想像力(宇宙飛行、テレポートなど)の原理として登場し、それは必然的にに科学(物理)的説明を期待される。だが、その言葉によって展覧会を構成するのは、芸術の展覧会にいたずらに科学の権威を掲げようとするためではないし、よくわからないが魅力的な言葉で鑑賞者を煙に巻くためでもない。ソーカル事件を通じて「ソーカルのやった行為は(略)芸術的•批評的観点からみれば的外れ」であるという考えには私も同感である。槍玉にあげられたのは、ラカンやボードリヤール、ドゥルーズといったフランス現代思想家たちだ。彼らによる科学用語の濫用が神聖な科学を歪曲する欺瞞だという。ソーカル的な問題意識や排他的棲み分けは、今日においても何も解決されておらず、むしろ無意識的に多くの人によって共有される伝染病のようなものだ。現代の哲学者も心理学者も、社会学者も芸術家も、科学的な用語を使う。科学的な概念を使い、科学的な思想に拠る。それを全て否定し弾圧するならば、今日より後の世界には、なんの変化も驚きも、訪れることはないだろう。

したがって、「反重力」は、現時点ではSF上の仮説の力にすぎないが、それは私たちの、慣習的に同じ流れに向かうつまらない思想を全く思いもよらず跳ね返すことによって、見たことのない表現を創り出すのかもしれない。そのとき、「反重力」はすでに実在する力となり、我々に働きかけているのだ。

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ジルヴィナス•ケンピナス(Zilvinas Kempinas)Beyond the fans(2013)は、磁気テープが二つ向かい合った扇風機の風によって円状に浮かび続けている。磁気テープは扇風機から与えられる風の力で空中に浮かび続けており、そこには何のマジックもない。だが私たちは、自分が近寄れば僅かながら空気に別の流れができたり、他の鑑賞者などが通ってまわりの空気は動かされ続けているにも関わらず、そのくらいのことでは決して軌道から外れて落ちてきたりしない、この単純な装置の安定さや強さを美しく思う。思いのほかに物事は、結びつけたり固めたりしなくても変化しないのだ。

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『微小重力環境におけるライナスの毛布のための試作』は、中原浩大+井上明彦による、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の共同研究の実験的作品である。このプロジェクトは、宇宙飛行士のためだけでなく、将来宇宙に旅立ち、そこで生き続けるかもしれない一般の人々のためでもある。触れたことのないタッチのクッションや毛布。地球で生まれた人間は地上の重力環境に慣れており、長期間宇宙に滞在し、微小重力のもとにおかれると、心理的•生理的不安を抱くそうである。人間が拠って立つことを可能にし、頼れなさを緩和してくれるもの。不安は、フィジカルなオブジェによっても満たされるのだ。

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カーステン•ヘラー(Carsten Höller) は、次のように述べる。
To five room to uncertainty, and to the beauty within uncertainty, in order to challenge the cultural environment we live in.
ネオン•エレベーター(2005)は、人間の目の錯覚に訴えかける。鑑賞者を取り巻く形で配置された壁の中には水平のネオンライトが上から下に向かって明滅する。その光の動きに目を凝らしていると、自分の立っている空間が光のエレベーターとなって上昇していくように感じられる。どれほど分析され、理解が進んだとしても、我々の認識は錯覚のような曖昧さで満ちており、それはしばしば我々を今ここから解放することを助ける。

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やくしまるえつこは、アインシュタインの宇宙項や『相対性理論』などの原理から着想を得た表現を提案している。ボーカル、作詞、作曲、プロデュースを手がける彼女は、作品『Λ Girl』において、お互いに引き合おうとばかりする世界の物質に対して、たったひとりで、万物から遠のくことを選んだひとりの少女のΛの存在を、モニターや72台のスピーカーを介して、我々の目の前に引き出すことを試みる。

少女は逃げ惑い、私たちは決して彼女に追いつけない。モニター上の少女は鑑賞者がいる場所の正反対の位置に逃げ、彼女の声も向こう側からしか聞こえない。たくさんの人間の存在に、点滅し惑う少女はひょっとして喪失してしまうのではないかという恐怖に似た直観がよぎる。でも案ずることはない。Λ(ラムダ)は世界の存在に反しながら、ここにはいないのだから。

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レアンドロ•エルリッヒ(Leandro Erilich)の作品は、我々の日常にインスピレーションを与え、その見方すら回転してくれるかもしれない。

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中村竜治の構造『ダンス』は、太さの異なるピアノ線で構成された、軽やかな彫刻である。『ダンス』とは素敵な名前だと思う。マチスの『ダンス』において肉体は、ほとんど普通の意味での肉体であることをやめ、ムーブメントと化しており、作家はマチスの『ダンス』から着想を得たと話す。重力と物体の緊張感を尊重した作品である。

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クワクボリョウタ『ロスト•グラヴィティ』は、アーティストが取り組むテーマの一つ、機械と人間の境界を真っ向から問うた作品であると言えよう。暗闇の壁に映し出される様々な形の光は、部屋の中央に置かれたザルやスポンジ、待ち針など日常的で単純な形状のオブジェの影だ。それらは、単純なシステムによって回転し、光を受けて、彼らの隙間を投影する。そこにあるのは、繰り返される回転の音とパタンである。しかし、暗闇に身を置き、その光を見つめたならば、ロマンティックで懐かしい感情におそわれ、心が温まるのはなぜだろうか。

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エルネスト•ネトは、ストッキングなど伸縮性のある素材を用いて上からぶら下がる不思議な形状のインスタレーションを数多く発表している。今回豊田市美術館で我々が経験するのは、『私たちという神殿、小さな女神から、世界そして生命が芽吹く』という、母体(あるいは子宮)をモチーフとした生命体の中に我々を包み込むようなインスタレーションだ。天井は描写しがたい暖色をうっすらと帯び、外の様子を感じられるが、内部にいる我々は守られている。

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中谷芙二子の霧彫刻が美術館の池から立ち昇った。霧彫刻は彼女が述べるように「ライブ彫刻」であり、その時の湿度、風、温度、地形など環境に応じて形を変える。我々人間は、微粒子ノズルと高圧ポンプで自然の霧のひな形を創り出してしまう。彼女は1970年の大阪万博のためのプロジェクト以降世界中で霧彫刻を発生させ、そこにはなかったはずの霧の中に多くの人々を包み、異型の体験を生み出した。その日は雨で、沸き上がった霧は雨に叩き付けられて、地面を這い、淀むことなく広がって美術館を包み込んだ。

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さて、最後の作品に出会おう。

内藤礼『母型』は心に響く。それは、大きな空間を満たす白い光と、繊細なビーズが吊るされている空間の隅、中央に横たわる人形と、ロウソクの火、それらが取り囲む場所に身をおくと、世界に存在することを人生の最初に遡って肯定された感じがするからだ。円形の小さな紙に書かれたメッセージ、「おいで」という声が、向こう側からやわらかく聴こえてくる。もう一体の人形が、上のほうから見守っており、その声は、生まれ直すことを許すのかもしれない。反重力の世界では、ひょっとして様々なものが逆さまになって、長い人生の折り重ねてきた時間を反対側に辿って、おいで、というその声を耳にする瞬間まで立ち戻ることを可能にするかもしれない。その声は温かく、私たちは幸せである。

11/3/13

L’Art à L’Epreuve du monde / アートは世界を移し出す。@Dunkerque

L’Art à L’Epreuve du monde
Dunkerque 2013 Capitale Régionale de la Culture
Du 6 juillet au 6 octobre 2013

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ダンケルク(Dunkerque)は、百年戦争で、ジャンヌダルクの登場によって形成が大逆転した結果、唯一のイギリス大陸領土として残ったカレー(Calais)からほど近い、海岸線に沿って進んだ海の街だ。カレー同様、地理的にイギリス文化の影響を色濃く受けている。パリからはかなり遠いこの地で、François Pinaultのコレクションを中心とする重要な現代アート展覧会が開催された。
展覧会はPaul Mccarthyのクマとウサギが表紙であるカタログのデザインに似合わずなかなかシビアなテーマのだが、本展覧会の章立てを以下に記したい。

『この世界に抗えるアート』
1 死、そこにお前の勝利がある
黙示録 / 忍び寄る死
2 人間は人間にとっての狼である
暴力 / 戦争
3 抵抗
一寸先は戦争 / 抗争
4 平和そして愛
武力の休息 / 生きる喜び

この展覧会は上述の用にフランスの著名なアートコレクターであるFrançois Pinaultのコレクションに拠っている。展覧会はテーマや章立てに見られるように、様々なアーティスト、文化圏や言語圏、時代を異にする芸術家たちが、いかにしてこの世界で生きることを考えて来たのか、という問いかけである。どう生きて、どんな意識で。世界という存在の中で、それに耐えてあり続ける、あるいは耐えて行き続けるために作られるアートとはどのような表現なのか。今回の展覧会に集められた作品はそのような作品たちである。
会場となったLe Depolandはダンケルクの新たなアートサイトとなるべく今回注目された。
チーフキュレータのJean-Jacques AillagonがコレクターであるFrançois Pinaultに象徴的作品を借りられるよう交渉した。そのおかげでダンケルクでは2013年当展覧会が実現することになった。
アートはしばしば理解されないこともあるし、読み解かれない。しかし、アクセスできない作品はない。マラルメの一節に以下のようなフレーズがある。
「アートは人間が人間へと何かを伝達するのに最も近い道である。」

Maurizio Cattelan
Maurizio Cattelanは1960年にパドヴァに生れ、Giottoの著名なフレスコ画のあるScorvegniのチャペルで洗礼を受ける。この問題の作品、 »La Nona Ora »(2000)では、先のローマ教皇Jean-Paul二世が落ちて来た隕石によって地上に固定され、その自由を奪われている。この作品はカトリック諸国すぐさま話題となり、批判を浴びた。 »La Nona Ora »はつまり、9時、キリストが磔刑に処され、十字架に括り付けられた時刻を意味する。死のときに際し、全ての人間はキリストがこう叫んだように、紙に問いかける。「神よ、神よ、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか」(Mt 27,45) 隕石の下でひん死の状態で、カトリック世界の頂点に立つ教皇すら、キリストとそして我々と同様にこの言葉を神に投げかけるだろう。
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Adel Abdessemed
Taxidermy(2010)はフランソワ•ピノーのコレクションに収められているAdel Abressemedの作品である。アルジェリアのコンスタンティン生れで1994年に亡命し、現在パリ、ベルリン、ニューヨークで制作している。アルジェリアでの惨い戦争の記憶、亡命までの恐怖、命の危険、それらは作家の芸術表現の根底を築いており、Abdessemedの作品ではしばしば死がテーマとなる。
Taxidermyは「剥製」と題された巨大な動物の死体の塊である。立方体を形成するため、鉄のロープでぐるぐる巻きにされ、それは次に真っ黒焦げに燃やされる。動物たちは三度殺された。一度は、生命を奪うために。二度目は剥製制作者によって死せる剥製として造形され、三度目は作家自身によって肉の塊として束ねられ、火の中に入れられた。三度殺された動物たちの山は、規則正しい立方体となり、ブロックのように、そこには臭いも無ければ、動物たちの目玉はもはや何も語りはしない。
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Maurizio Cattelan
All (9 sculptures)(2008)は、もう一度Maurizio Cattelanの作品である。9体の死体は、沈黙のまま床に置かれている。大理石彫刻である本作品は、アーティストによって、Gisant(横臥像、墓石の上に飾る人物彫刻で、リアルな大きさで作る像)であると言われているが、それにしては彼らは全て白い布で包まれていて、顔も見えないし、どのような姿であったのかも分からない。その大理石の透き通るような白さは、死者の凍り付くような温度を表しているようでもあり、あまりにもリアルな皺は、その布の中には死んでいない者を隠しているのではないかという予感を引き起こす。
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Josef Koudelka
1938年チェコ•スロヴァキア生れのKoudelkaが1961年以降ジプシーの人々の生活関心を持ち始めてから5年経った頃、1966年に撮影した作品である。若い一人の青年が手錠をされて、共同体を追放されている。共同体の住人が見守り、警察官の姿も見える。彼は一体、犯罪者か容疑者なのだろうか? 実は20世紀ヨーロッパでは、ジプシーはTsiganesやRomsと言った蔑称で呼ばれ、追放と粛清の対象となったのだ。ナチスの民族浄化の名の下に。
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Bruce Nauman
著名なナウマンのViolent Incident(1986)と名付けられたビデオ作品では、人類の心をを普遍的に貫く暴力的要素について焦点を当てている。なぜ人間は暴力的なのか? 暴力的行いはいったいいつからどのように存在し、我々の生活を今日も脅かすのか? 暴力には暴力で応えよといったのはハンムラビ法典だが、法律と道徳のみが、これを制御する方法なのだろうか。ビデオでは二人の男女が食事中に争い始める。その愉しいはずの時間と空間は突如として戦いの場所に一変する。
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Jake, Dinos Chapman
二人のアーティストユニットの構想したFuking Hell(2008)という作品が凄い。フランソワ•ピノーの作品の中でも名作と呼べる大きな作品だ。三万におよぶミニチュアフィギュアたちが所狭しと地獄絵的世界の中にうごめいている。ある者は戦いに破れ、またある者は殺した者の首をかかげて。風景から地形、建物や自然、動物や人間のコスチュームに至るまで、ハイパー•リアリスティックな表現に目を奪われる。この作品は、ヒトラーによって引き起こされたナチの暴挙のその詳細を半永久的に結晶化しようとする試みなのである。
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Jean-Louis Schoellkopt
Liévin, cimetières militaires (1991)はLiévinという産業革命および二回の世界大戦によってその名を知られる街にある軍人墓地を撮影した。整然と並ぶ、大理石の沈黙。軍人墓地というのはしばしばそうであるように、どこの国の者であろうと、死んだ地に埋葬される。死者とはその土地と一体である。
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Paul Mccarthy
Bear and Rabbit on a Rock(1992)は、Paul Mccarthyのスキャンダラスな作品のうちの一つである。ぬいぐるみを使用した表現、これらは子どもたちの大きなぬいぐるみという可愛らしい世界をすり抜け、屈託の無い笑顔を振りまき、セクシュアリティーのタブーをおかす。超えるべきでないものの超越、平和な時代の不穏なものをあらわにする。
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10/30/13

Pierre Huyghe @Centre Pompidou / ピエール•ユイグ展 @ポンピドー•センター

Pierre Huyghe, ラボラトリーとしてのエクジビション
Site Centre Pompidou Exhibition Pierre Huyghe
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Pierre Huygheの回顧展が2013年9月25日よりポンピドーセンターで行われている。先日レポートさせていただいた、マイク•ケリーの回顧展(Mike Kelley, Exhibition @Centre Pompidou, Salon de mimi past post Mike Kelley)が行われたのと同じギャラリーGalerie Sud全体をユイグのラボラトリーに作り変えてしまった。Pierre Hygheは、自分の回顧展に過去の展示の痕跡を潜ませる。先のMike Kelleyの回顧展の跡や、ギャラリーの壁の裏の雑多な物が置かれているスペース、屋外と屋内を鑑賞者が自由に行き来するような奇妙な作り。そこにはたくさんの生き物が、我々が生きたままそこに足を踏み入れているのと同様にして生活しており、犬がおり、魚がおり、虫たちがおり、パフォーマーがいる。我々はそこに、ユイグの「作品」と呼べるものを探しにきたのだが、辺りを少し歩いてみれば直ちに奇妙な感覚に襲われてしまう。たしかにそこには作品のような物はたくさん配置されており、我々はそれをまじまじと見つめ、読み、聴き、触り、通り抜けるのだが、そこには鑑賞者などいないという直観がやってくるのだ。我々はリラックスして会場をただよう観客ではなく、その辺をうろつく右腕がピンクの犬とか水槽の中の魚、鳥の頭を持つパフォーマーやスケートを滑る美女と同様にして、観察対象にされているのではないか、という直観だ。
それもそのはず、Pierre Huygheというアーティスト自身が「Exhibitionとは何か?」という問題に絶えず取り組んでいるのである。彼のつくった展覧会という空間に足を踏み入れることは、自ら罠にかかってラボラトリーに送り込まれるような行為なのである。

入り口で即座にその洗礼を受ける。大声であなたのフルネームが叫ばれる。あなたはもう匿名の鑑賞者ではなく、周囲が見守る中、番号を振られた個体としてその後の道程を辿ることを余儀なくされる。(Name Announcer, 2011)
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蜂の巣を被った女が、さぞ思いであろう巨大な頭部をどうにか持ち上げながら、少しだけ艶かしい様子でこちらを向いている。私はこの女をカッセルで見た。2012年のカッセルDocumenta13のメイン会場であるKarlsaue Parkのやや奥地、他の野外展示から身を隠すようにして、蜂の巣の頭を持つ女は、石や木の欠片が散らばる廃墟的な空間にその彫刻はあった。このプロジェクトは、ドクメンタ13の始まった6月中旬から3ヶ月ほどをかけてその彫刻を取り囲むエコシステム全体を巻き添えにした作品であった。右足をピンクに塗られた非常に痩せた犬。積み上げられた板。大雨の日の地面が洗い流される音。降り続く雨に溶かされるピンクの粉。生けるカビ。虫の大行進。夜の犬の光る目。次第に形成されて行く蜂の巣。動かない彫刻。大人になった蜂。死んでいく蜂。
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犬は会場を彷徨う。あまりにも痩せている犬は、彫刻の女に引けを取らないほど、ときどき全く動かなくなる。うつむき加減で、その視線もゆっくりしか動かない。背中や肋の骨が浮き出していて、あまりにも不思議な犬のことを道で愛され過ぎた飼い犬を発見するような目で見つめる人は誰もいない。

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会場には大きな蟻も歩いていた。蟻たちは壁に沿って住んでいるようであり、時々テリトリーを逸脱した蟻が鑑賞者に踏まれてしまう。(Umwelt) 蜘蛛もまた、気をつけながら、最良の場所を得て立派な巣をこしらえようと集中している。(C.C.Spider, 2011)

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Shore(2013)は、垂直に立ちのぼる壁の一部が緑色の砂を帯びており、その地面には岸としての水平な面が同様に緑色の砂で覆われた作品である。岸には一匹の亀がおり、亀は全く動かないので彫刻であることがわかるのだが、あまりにも本当らしいので覗き込んでしまう。本作品は、過去の痕跡を空間に残すユイグの方針に基づくGuy de Cointeの作品からの借用であるそうだ。

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ビデオ作品も所狭しとプロジェクションされる。The Host and the Cloud(2010)には顔面に長方形の板を二枚合わせたようなマスクをつけた人物のみが登場する。非日常的なコンディションにおかれた人間がどのように局面を切り抜けるのか、あるいは切り抜けないのか。実験的作品は、演じる者とユイグ自身のコミュニケーションやインタラクションによって生み出され、作られた話と現実に起こったことの間を行き来するような奇妙な印象を作り出している。

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Zoodram 4(2011) (After the Sleeping Muse by Constantin Brancusi, 1910)では、珍しく美しい蟹を育むエコシステム全体をかいま見ることができる。このカニは、Sea Spider(ウミグモ目)と呼ばれる種類で、この生態系の中では、コンスタンティン•ブランクーシ(Constantin Brancusi, 1876-1957)の眠れるミューズの中でひっそりと隠遁生活を送っている。

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真っ黒のスケートリンクに美女が舞っている(L’Expédition Scintillante, 2002)。

展覧会は2014年1月6日まで続いている。
Site Centre Pompidou Exhibition Pierre Huyghe

10/29/13

nouvelles vagues @palais de tokyo/展覧会『ヌーヴェル•ヴァーグ』@パレ•ド•トーキョー

Nouvelles Vagues @ Palais de Tokyo,
Exhibition of Curation 21人(グループ)のキュレーターによる21通りの展覧会
Palais de Tokyo site « nouvelles vagues »
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近年ますます、まとめ方や全体のコンセプト、配置や章立て、そういったことが一つの展覧会にとって重要な要素として見直され、語られ始めている。とはいえ、展覧会とはやはり、アーティストの作品を見に行くものではなかろうか?これは、素朴な反応である。見せ方がいくら素敵でも、作品が分からないのでは楽しめない。でもふと思い出してみると、全体的によく理解できた展覧会は、長い時間が過ぎた後にも、ストーリーとして、時には感覚的なものとして、それらが記憶されているということもある。
さて、パレ•ド•トーキョーで開催されたNouvelles Vagues(新しい波(複数形))という展覧会は、それはとりあえず、ビエンナーレとかトリエンナーレとかそういった集合展示を見に行くのと同様の心構えで行かないと途中でキレてしまう恐れがある。もちろんガイドブックを買う必要も無いし、つまらんもんは飛び越して行けばいいのだが、どうやって視るにせよ、入り口から出口までの行程自体が非常に長い。幾つかの作品の前で長く足を止めた私は、一番下の地下階から始まって、二回の会場でそれが終了して出口で日光に再び出会うまでに実に四時間弱かかっている。念のため付け加えるが、私は全ての作品を隅々まで入念に視るような几帳面さも持久力も持ち合わせていない、に関わらずである。
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展覧会Nouvelles Vaguesのコンセプトは以下である。
Palais de Tokyoでは、世界中13カ国から集まった21人の若きキュレーター(あるはキュレーション•グループ)による展覧会を開催する。Palais de Tokyoのギャラリー委員会は、この空間を30あまりのスペースに分割し、それぞれのキュレーターたちに一つの展覧会を構想するよう依頼した。この未聞の企画はパリのアート界でも初めての試みとして、現代アートが生れて発表されるこの街に新しい視線をもたらすだろう。このアート企画では、新しいタイプのキュレーターの存在が明らかになる。彼らはアーティストたちの最も近くにおり、そこで才能を発揮する。彼らは各々独立した存在であり、世界を股にかけて展覧会を作り出す。
それは、ギャラリストとも、学芸員とも全く違う。アート市場のルールや組織のルールを始めとする、全てのアカデミズムの規範から逃れて自由である。自由人、オフピストの冒険家、詩的•政治的•美的な環境変化を求めるノマド。彼(ら)は新奇を見つけ出し、即座に配置を創り、そこではまったく異なるアーティストたちが、ある一つの目的、アイディア、ヴィジョンのもとに集まることが可能になる。
何よりもまず、彼らを招待し、展覧会を創造してもらえることを光栄に思う。
今日、Nouvelles Vagues(「新たな波」)はアートの生態において生じつつある変容を明らかにするだろう。
(Nouvelles Vagues Cuide, Édito, Jean de Loisy, Président du Palais de Tokyoより)

さて、4時間分をダイジェストにするというのでなく、Salon de mimiのいつも通りの方法で、つまり、作品から何らかのおしゃべりが止めどなく溢れ出してしまうような表現について、ここに綴り、さらなるおしゃべりの可能性を開いてみたいと考えるのである。さらに今回は、キュレーションという小宇宙が複数存在している展覧会であることを踏まえ、ルートに従って作品を紹介して行きたい。

La Méthode Jacobson by Marc Bembekoff
第一の展覧会は、Palais de Tokyoの最下階にある。薄暗い通路にネオンの絵画、通路を抜けたやや明るい空間にFeiko BeckersのインスタレーションSafe and Sound(2013)がある。そこにあるのは、一辺が160cmもある分厚いコンクリートの板が2枚直角に並置されている、ミニマリストの彫刻風?のものである。その傍らにはアーティスト自らがアシスタントと共に熱心に作業をしている映像が放映されている。アーティストは、アリゾナ州に実験的に造られたユートピア都市Arcosantiの最も典型的なアーキテクチャフォームである、直方体のコンクリート建築への呼応として、手作りのコンクリートを丁寧に造る。Feiko Beckersは、その試行を通じて、現代の奇妙な都市生活:都市の中心で働き、バカンスには一斉に田舎の一軒家に移動して数ヶ月を過ごすという無駄で義務的な人々の大移動にたいして、人間は家の中で安全に過ごすことができ、生きるのに必要なのはたった一つの小さいステュディオだけでいいのだと語る。
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また、同キュレーション内で、Agnieszka Ryszkiewicsは、ポストカードのインスタレーションを発表する。パリに住む若い女性であるPamとTed Colemanというテキサスの牧場労働者の間の親密な手紙のやり取りを、鑑賞者に対して提示する。そこには、彼らの個人的な想い出や、身体性を伴う記憶や物語が綴られている。鑑賞者はそれを目で追いながら、この先も決して会うことのないであろう二人の人間の、語り合う声が聞こえてくるようなストーリーのなかに息をひそめる。
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The Black Moon by Sinziana Ravini
現在2013年9月よりCentre Pompidou(ポンピドーセンター)のGalerie Sudで回顧展を開催しているPierre Huygheもこの展示の中で重要な役割を担う。展示されたのは、Huygheが2009-2010年にかけて撮影したThe Host and the Cloudという映画のイメージである。この映画において、Huygheが描き出したのは、廃墟となった美術館における物語の迷宮、暗闇におけるミサ、ボロメオの分岐点、催眠術とミステリアスな出来事の続く不可思議な世界である。登場する人間たちは、顔面に四角い板のようなマスクをつけてロボットのように列を作っている。

ADA by Ken Farmer & Conrad Shawcross
産業ロボットを組み立てて生み出された、ADAというロボット。1977年生れのConrad Shawcrossは、19世紀ヴィクトリア朝期の数学者エイダ•ラブレス(Ada Lovelace)へのオマージュとして造られた。光と音楽を伴い、幾何学、科学、詩学、論理学に深い関心を抱いていたAda Lovelaceという19世紀の女性。彼女は、詩人バイロンの一人娘として育ち、チャールズ•バベッジとともに世界初のコンピュータプログラムを書いた(解析機関用プログラムのコードの記述が見つかっている)。若くして子宮癌を患ったエイダは、父バイロンと同様に36歳の時、瀉血によって死んだ。
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Artesur, Collective Fictions by Albrtine de Galbert, Isabelle Le Normand, Andrew Berardini, Jesse McKee & Anca Rujoiu
Collective Fictionsの展覧会では、Albrtine de Galbertが若いキュレーターグループに呼びかけを行い、彼らが独自にラテンアメリカの現代アーティストをセレクションして展覧会を構成するという入れ子の構造を作り上げている。それぞれが作品やアーティストを選び、それが最終的にどのように展覧会として完成するか。ここでは、選択する主体自体も複数の人間によって行われていると言う点で、キュレーションとは何なのか、コラボレーションとは何なのか、全体の選択と個人の主観的選択はどうネゴシエーションされるのかという問題を照らし出している。
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Leyla CardenasはPalais de Tokyoの白い壁に刃物で傷をつけて塗料を繊細に剥がしたり木の部分を露にすることによって、2.3m×3.5mの大きな絵画を生み出した。Removido (2008)

Eugenia CalvoのMore Heroic Work(2008)は、新聞女こと西澤みゆきさんのパレードに登場した、シュレッダー•モンスターがまとっていたコスチュームを彷彿とさせる、刻まれた紙の山である。西澤みゆきさんの制作においても、新聞や広告という本来の用途や内容、情報を乗せた媒体をシュレッダーにかけることには象徴的意味を伴う。Eugenia Calvoの場合にも、言葉の山をもはやつかみ取ることのできない細かなフラグメントにまで解体し、それを膨大なヴォリュームとして提示することによって、鑑賞者に途方も無い瞑想を喚起する。それらは解体されて自由になり、風が吹いたなら飛んでゆける可動性を得た。そして意味すらも失った。
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Concert Hall by Jean Barberis
コンサート•ホールと名付けられた巨大なインスタレーションは、足を踏み入れるのも躊躇するような奇怪な外観をしている。多くの音楽家やサウンドアーティスト、メディアアーティストのコラボレーションである本作品は、孤児院から譲り受けた廃品などで楽器を構成し、来客を歓迎して一斉にコンサートを開始する。オートマタや光の音楽装置、プログラミングされた精緻な演奏。細部に渡るまで、彼らが作り出す立体的なコンサートを見回すと、そこにはたった一人の人影もないのに、子どもの話し声や人々の生活の風景が感じられるような気がする。それは、このモンスターのようなコンサートホール全体が、人間の作り出した物やアイディアによって充溢しているからだろうか。
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Un Escalier D’Eau by Natalia Valncia (Curator), Felipe Arturo(Scenography)
Herz Frankが1978年に35ミリで撮影した10分間の映像作品は、闇の中に子どもたちの次々に移り変わる表情を捉える。子どもは大人のそれよりも潤った目を見開き、時には眉をひそめ、口を開け、頬の筋肉を強ばらせたり、唇をすぼめながら、大画面に映し出されるそれぞれの子どもは、誰一人として同じようには反応しない。このショートフィルムは、フランクが10分間のマリオネットの劇を見ている子どもたちの表情を撮影したものである。本来誰にも目にされるはずの無かった子どもたちの表情は、こうして35年後、我々の目に触れることになる。それぞれはもう40代の大人になり、それぞれの人生を送っている。
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Manon de Boerは即興ダンスを踊るCynthia Loemijを撮影した。ウジェーヌ•イザイ(Eugène Ysaÿe, 1858-1931)のヴァイオリンのための三つのソナタを聴く。イザイはベルギーのヴァイオリニストであり作曲家でもあった人物だ。Cynthia Loemijは10分間取り憑かれたかのように音楽を聴き、その音楽は彼女の身体に染み込んだかのように、ダンサーはインプロヴァィゼーション•ダンスを舞う。
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The Real Thing? by Antonia Alampi & Jason Waite
Real Snow White(2009)は、白雪姫のコスチュームを来て、ディズニーランド(ユーロ•ディズニー)を訪れる、という作品だ。アーティストのPilvi Takala(1981年生れ)は、全身完全なSnow White(白雪姫)のドレスをまとってパリの郊外にあるユーロ•ディズニーを訪れる。入場のためにその他の客と共に列を作っているところに係員がやってくる。彼女はフランス語が分からないというと、係員はたどたどしい英語で、白雪姫のコスチュームを来たままでは、他の客が「ホンモノの」白雪姫と混乱してしまうから入場できないと言う。子どもたちは、ヒロインたちのコスチュームを着てるじゃない、とまわりの少女たち(白雪姫のコスチュームを来た少女)を見ながら訴える。係員が苦心していると、彼女のまわりに子どもやその母親が集まってきて、「とてもキレイ、本物の白雪姫だ!」といって写真やサインを求める。彼女はそれに応じる。やがてもう別の女性スタッフが憤りをあらわにしながら、彼女に即座にトイレで着替えてくるように言う。するとまわりの子どもや家族連れは、「なんだ、偽物か」といって騙されたことに憤慨し、その場を去って行く。中にはそれでもサインを求めたり、写真を一緒に撮ろうとする者もいる。彼女は結局、訴えも虚しくトイレに連行されて、白雪姫のコスチュームで入場できなかった。それは彼女が、ディズニーランド内のどこかにいる、「本物の」白雪姫を脅かしてしまうからである。
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本キュレーション »The Real Thing? »は、1960年代、東京のギャラリーにおいて発見された風倉匠の全裸不動のパフォーマンス、その日本における前衛美術家の実験的表現に着想を得ており、とりわけ風倉匠が自身のアクションをしばしば »The Real Thing »と名付けていたことに由来する。ここでは、Pilvi TakalaのReal Snow Whiteを始めとして、リアルとフィクションの境界を可視化あるいは不可視化するような作品群が提示される。

最期に、Henrique Oliveiraによる、Baitogogoの麓を歩いてみることにしよう。サンパウロ在住の画家、彫刻家である Henrique Oliveiraの壮大なプロジェクト、巨大な木彫刻である。Palais de Tokyoの一部が、うごめき、変形する。それは確かにかつて見たことの無いもので、驚きと呼ぶものである。
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09/14/13

55th La Biennale De Venezia Part4 / 55th ヴェネチア•ビエンナーレ No.4

55th Biennale de Venezia  part 4

 part3では、Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palaceにおけるドローイングとペインティングに焦点を当て、Daniel Hesidenceの様々なスタイルを越境する抽象絵画、オーストリアの画家Maria Lassingが »Body Awareness Painting »と呼ぶところの奇妙な身体イメージの絵画、自らが手に取るように自然を再構成しながら描くLin Xue(林雪)の竹を使った繊細なドローイング、また、Hans Bellmerのサド侯爵の引用による版画では性倒錯の想像力と両性具有の自己充足的な身体が描かれている。Ellen Altfestは描かれ抜いてきた女の裸体に目もくれず、男の裸体を隅々まで描いて鑑賞者の目を奪った。

part4では、Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palaceを離れ、88カ国が参加した各国のパビリオン展示について、ダイジェストのダイジェストを紹介したい。ちなみに、フランス館(ドイツ館の建物を利用しての)におけるアンリ•サラのRavel Ravel Unravelは別の記事(アンリ•サラ、フランス館)において紹介しているので、そちらを参考にしていただければと思う。

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Greece Pavilion/ギリシャ

欧州債務危機まっただ中のギリシャでは、マネーに関わる映像作品が上映された。このことは様々な意味で真っすぐな問題提起であるのだが、そこには言うまでもなく、社会的あるいは政治的立場、利害関係、価値観、世代や出自によって支配される相異なる主張を持つ個人が重なり合いながら生きている。
ギリシャ館のアーティストに選ばれた、Stefanos Tsivopoulosは1967年から7年間続いた軍事政権や冷戦時代のギリシャを包み込んでいた世界的な文脈にもういちど疑問を投げかける。ある非常に豊かな環境にうまれた人間が一生涯にわたって大きな困難を経ずに豊かな生活を送り続けることがあるのと同様の理由で、一つの国が歴史の中でしばしば困窮し、破綻の危機に陥るようなことも、原因をその国の内側に求めるようなことは殆どが的外れである。
Stefanos Tsivopoulosは、3つの異なる部分から成る映像作品において、人間関係形成において金銭が演じる役割、そして金銭の所有を巡る政治的•社会的な諸要素について三人の人物の経験に焦点をあててこれを明らかにする。

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目に留まったのは500euro札を次々に折り紙にして、完成した折り紙の花に茎を付け、花瓶に追加して行く年老いた女のイメージだ。女はひたすら折り紙の花を折っていおり。丁寧に折っては、水の入っていない大きな花瓶に追加して行く。使っているのは500ユーロあるいは200ユーロ札という金額の大きな紙幣ばかり。女は熱中していて、花が出来上がると嬉しそうでもある。老女は城のような家に住み、家には人気も無く、家族もない。出来上がって行く花の山は、ただの折り紙の塊だ。女の価値観はひょっとすると既に破壊されていて、この女にはそのような物差しが無いのかもしれないとも思う。しかし、女は紙幣を大切に閉まってある場所から取り出す。あるいは不意の電話を受けたのち、急に切羽詰まった様子で丁寧に折ったたくさんの花束をゴミ袋に突っ込み捨ててしまう。この女は、それが金であるということはわからないにせよ、それが彼女の家を一歩出た世界では、尋常でなく重要な物で、それが自分の身に危機的状況を作り出しうるということをいずれにせよ、忘れることができずにいるのだ。

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Israeli Pavilion/イスラエル – Gilad Ratman

イスラエル館のアーティストに選ばれたGilad Ratmanは、盛大なパフォーマンスを行った。Ratmanは、言語や国籍、国家や政府によって規定され、一見それが普遍的な人間の行動パターンや現在性にまつわる強迫のモデルを形作っていることに対して疑問を投げかけるような表現を行っている。それらを取り去った原始的なジェスチャーやコミュニケーションのあり方に立ち戻ることによって、既存のシステムを異なる視点で見始めるための提案をしている。
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第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、人々のグループをイスラエルからヴェネチアに旅行させるというワークショップを提案した。洞窟の中を進んで行けば、それが地下深い洞窟ならば、言葉の壁も、国と国の境界線も無いはずである。そのときには、政治の壁も宗教の壁も、ない。文明以前の小さな人々の共同体として生きてみるというアイディアは、前社会的、前言語的な想像的世界において、普段当たり前でぬぐい去ることなどできないと信じていたものを人々が一斉に失うという経験を作り出した。
想像上のヴェネチアまでの旅行をした一段は、イスラエル館に到達し、そこで粘土でこしらえた自分の像に向かって、前言語的な声によって話しかける。それは直接的な感情や意志の本質のような音を奏でながら、だんだんと高揚して叫びのようになるものの、他者には共有されがたい。それは、しかし、重なり合うことによって「音楽」と呼べるものになる。
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Georgian Pavilion/グルジア Kamikaze Loggia/カミカゼ•ロッジア

ポーランド出身の女性キュレーターであるJoanna Warszaが今回のグルジア館をオーガナイズした。Gio Sumbadzeがデザインしたこのロッジは、カミカゼ•ロッジアと名付けられている。作家たちによって作られ、生活できるよう家具も手作りされ、彼らがともに食事する場となり、オープニング時にはパフォーマンスも行われた。グルジア語でკამიკაძე(神風)だが、この名前についてKamikazeの-azeはグルジア人の名前に多いのだそうだ。だが、このグルジア館が、アルセナーレの多くの国のパビリオンが一通り並び終わった後に、1990年代末、ソヴィエトが崩壊した後に住居スペースを広げるために盛んに建てられた違法建築という形態をとって併設されていることを考えると勿論კამიკაძე(神風)のコノテーションを意識させるのが目的だと思われる。これまで、メイン会場の敷地内にパビリオンとしてではなくこのような建物を造った国は初めてである。ソヴィエト崩壊後、無法状態に置かれた国の記憶や、崩壊以前に中途半端に残された土地計画の遺物、様々な政治的、宗教的、民族的衝突の記憶を、十分に明確な形で訴えている。
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 Portugal/ポルトガル

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ポルトガルはメイン会場にパビリオンを持たない。パビリオンを構えることも、何ヶ月も続く会期中ヴェネチア内の展示空間を借り続けることも、大航海時代を制したポルトガルにとっては魅力の無いことであるに違いない。ポルトガルパビリオンは、海の上に浮かぶ。毎日クルージングにも出かける。ヴェネチア共和国は15世紀最強の海軍を持つ都市国家で、大航海時代のリスボンもまた多くの遠征隊を送り出し、交易の中心として栄えた港町であった。船全体に行き渡っているのはジョアンナ•ヴァスコンセロス(Joana Vasconcelos)の温かく不思議な世界だ。ヴァスコンセロスは、2012年、ヴェルサイユ宮殿の現代アート展示に最年少女性アーティストとして抜擢され、宮殿をオブジェで染めた。その時の様子はsalon de mimi過去記事にも記録している。ヴァスコンセロスは、ヴェルサイユでみたようにタンポンや料理用具、エクステンションといった女性的アイテムを作品に積極的に用いるし、その性の意味を描くのに長けた作家だ。この船も、外観は、港都市として反映したリスボンの歴史的威厳を感じさせるにも関わらず、その内部に一歩足を踏み入れると、くらい中に温かく丸い毛糸製のオブジェが光っており、その穏やかでぬくぬくした感じは、母の子宮につつまれた記憶を想起させる。
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Angora Pavilion/アンゴラ館

アンゴラ館はご存知のように、参加型の展示が高い評価を受け、ルアンダ•エンサイクロペディック•シティ展が金獅子賞受賞を獲得した。安定してパビリオンを構える豊かな国々が獲得することの多い金獅子賞受賞によって、当然メイン会場外であるにもかかわらず、アンゴラ館は予想を上回るヴィジターを迎え入れることに「なってしまった」。写真作品が大量にコピーされて、それを鑑賞者が自由に持ち帰れるというアイディア自体は無論ちっとも新しいアイディアではない。ポスターや新聞、ビラのような印刷物がインスタレーションになっていると同時に自由にそれを持って帰れるスタイルは今日なかなか人気がある。勿論、ルアンダ展が評価されたのはそれだけではないのだが、とにかくそういった「態度」に注目が集まったことは確かである。
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実はこのアンゴラ館、8月上旬には既にこのもてなしをやめてしまった。というか、ファイルも写真のコピーもすべて有料になってしまった。中の写真を全て持って帰ると総額40ユーロほどにもなるらしい。繰り返すが、コピーである。
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訪れた際アンゴラ館で働く人と少し話をする機会があったのだが、アンゴラ館の方針転換の理由は簡単で、予想外のヴィジターが詰めかけたことによって予算を上回って写真のコピーがはけてしまったのだ。
壁にはイタリアのルネッサンス絵画がギラギラとした額に収められて飾られている。そのパレスの床には、そのヒエラルキーと言おうか、経済的状況と言おうか、そういったことを象徴するようにして、ルアンダの街角で撮影された、置き去りにされたモノたちの写真の大きなコピーが積み上げられている。
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 Japan Pavilion/日本館

日本館では、田中功起さんの抽象的に話すことー不確かなものの共有とコレクティブ•アクト展が高い評価を受けた。協働とはなにか、抽象とはなにか、を問うパフォーマンス作品はその各々は非常に興味深いものである。キュレーターの蔵屋美香さんとともにアーティストがコンセプト「抽象的に語ること」の出発点とした震災との関わりは、非直接的体験であるそうだ。アメリカで活動するアーティストであること、日本の土壌で震災を経験していないということ。私自身、震災の2011年当時すでに海外での生活が2年目を迎えていたので、震災を日本という国の中でその瞬間もその後も経験していないということが如何なることか、分かっているつもりである。それがどのように問題を具体的に扱うことを自問させ、不安を掻き立てるかということも。
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この展示については、コレクティブ•アクトの意味である「協働」が重要な概念として照明が当てられ、それが重要なのは「一国では解決できないも問題が山積みの今日にふさわしい」からだと説明される。私は、抽象的なアプローチに対する、このあまりに安直な説明が嫌いである。先日開催が決まった東京オリンピックに関する、日本の最終プレゼンテーションをポジティブに評価する折に語られるロジックと同じものである。

抽象的に語るのは、問題を解決できないからではない。問題を解決するためである。

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09/8/13

55th La Biennale de Venezia part3 / 55th ヴェネチア•ビエンナーレ no.3

 55th Biennale de Venezia  part 3

 Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palace

パート2では、人形/彫刻とインスタレーションに着目し、Paweł Althamerによるプラスチックテープの90人のヴェネチア人、繊細な作風で想像上の生き物の世界を表すShinichi Sawadaの陶器彫刻、サイズやプロポーションを異化することによって見る人の印象を変える彫刻を作るCharles RayPaul McCarthyの子どもの解剖学のための巨大ぬいぐるみ、女性のアイデンティティや家庭での立場を問うCathy Wikesのインスタレーション、日常に潜む生と死を描いたRosemarie Trockelの表現、そして、小さな人形を作り続けたMorton Barlettの想像上の家族たちを紹介してきた。
パート3では、ペインティングとドローイングについて紹介したい。

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Daniel Hesidenceは1975年アメリカのAkronに生まれる。彼の抽象画にはArt Informel(アンフォルメル)からの強い影響が見られ、視覚的情報から意味を抽出し、彼独自の哲学的考察とそれを詩的な方法で表すということをテーマとしてきた。プリミティブな洞窟絵画からモダニストの抽象表現までを視野に収め、それらの重なりから浮かび上がるイメージは、時代も色も形も、ただ一つの意味において確定することができない。Il Palazzo Enciclopedicoでは、Untitled (Martime Spring)が提示された。そこには何層にも重ねられた距離や深さ、異なる固さが混在し、溶け合っているのだが、キャンバスの宇宙の中にもういちど再構成されて調和しているようでもある。

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Maria Lassingは1919年生れのオーストリアの画家である。ヴェネチア•ビエンナーレには1980年にも参加しているほか、1996年にはポンピドーで回顧展も行っている。彼女の絵画の特徴は、一貫して、肉体が持っている意識に着目して、セルフポートレートを描き続けているということなのだが、彼女自身はそれを »body awareness painting »と呼ぶ。絵の中の彼女はいつも裸で、髪の毛もなく、年老いた肉体として描き出されているのだが、色彩も表情も全く奇妙である。drastic paintingのシリーズであるDu oder Ichは両手に持った銃の一方を自分のこめかみに当てながらもう片方はこちら側にはっきりと向けているLassingが描かれている。あるいは、Mother Natureにおいて彼女は森や動物、虫たちを両手に持ち頭部の髪の部分が自然と一体化している。いずれの絵画も背景が描かれず、非常に静謐としたムードを持つ。

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Lin Xueは1968年生れ、香港出身の画家である。彼の特徴である細かいドローイングは、先を尖らせた竹に墨をつけて描くことによって実現する。生態系における動植物のあり方を自分自身が山に入って行く経験をもとに紡ぎだして行くためには、この方法がもっとも基本的で根源的なやり方であると作家は信じる。竹で描く選択も、非常にリアルな細部も、この作家の自然への態度を反映している。今回のヴェネチア•ビエンナーレに彼が発表した作品はNature’s Vibration(振動する自然)。彼が自分の肌で確かめた生ける自然の相互にネットワークを築き上げている様を想像的に描いている。自然は彼によって分断され、再度複雑な塊に再構成される。結びつき合ったあたらしい「自然」は、エネルギーをその中心に帯び、その波は視る我々にも届きそうだ。

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Hans Bellmerのドローイングについて、敢えて何かを言うのは滑稽であると感じて止まない一方、だとすればそれらはそんなに明らかなのかと言えば、そういうわけでもない。ハンス•ベルメールは1902年生れ1975年に亡くなった。1934年にナチス政権下のドイツで、等身大人形を発表し、その写真集『人形』を発行する。これがパリ•シュールレアリズムの芸術運動に受け入れられる。後にはそれを発展させて球体関節人形を作成し、1957年、著作『イマージュの解剖学』を記す。今回出展されたドローイングは1968年に作成された版画、Petit traité de moraleで、Marquis de Sade(サド侯爵)から着想を得た。ベルメールは日本では、現在も球体関節人形や、リアルドールのイメージがその上に重ねられてきたので著名であるが、身体の分解や部分的な複製、性倒錯の主題はベルメールの独創性を示す指標でも何でもない。傷ついた身体萌えや廃墟萌え的な想像力の普遍性をむしろ明らかにする。人形や版画という形での「作品」、そのオブジェとしての再現度の高さが彼を結局は著名にしたのではないか。

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Ellen Altfestは、ハイパー•リアリストの画家で、静物画は、風景画に加え、肉体労働者の男性の裸体を描き続けている。最近パリのFondation Cartier pour l’art contemporainで展覧会を行ったRon Mueck(Ron Mueck exhibition review)のように、彼女は肉体を毛穴と毛と皺の一本まで描く。ありのままに描くということは、逆説的なことで、飼いならされた鑑賞者である我々は、しばしば描かれない見慣れないものを見つけるとむしろそれに着目してしまう事態に陥る。産毛やホクロ、皺やシミ、膨らんだ腹部や垂れた皮に目がいく。それは彼女の戦略通りだ。歴史の中でさんざん描かれてきた女性の裸に人々は免疫と知識とステレオタイプな鑑識眼を持っており、その一方で、男性の裸体にはひょっとするとナイーブなのである。彼女は、アトリエで男の裸を描く。しばしば毛むくじゃらの胸部や腹部、背から尻、あるいは男性器をその細部まで描く。我々は目を開けながら実は殆ど何も見つめてはいない。

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 次回は、各国パビリオン展示について、ダイジェストのダイジェストを書きます。