11/3/13

L’Art à L’Epreuve du monde / アートは世界を移し出す。@Dunkerque

L’Art à L’Epreuve du monde
Dunkerque 2013 Capitale Régionale de la Culture
Du 6 juillet au 6 octobre 2013

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ダンケルク(Dunkerque)は、百年戦争で、ジャンヌダルクの登場によって形成が大逆転した結果、唯一のイギリス大陸領土として残ったカレー(Calais)からほど近い、海岸線に沿って進んだ海の街だ。カレー同様、地理的にイギリス文化の影響を色濃く受けている。パリからはかなり遠いこの地で、François Pinaultのコレクションを中心とする重要な現代アート展覧会が開催された。
展覧会はPaul Mccarthyのクマとウサギが表紙であるカタログのデザインに似合わずなかなかシビアなテーマのだが、本展覧会の章立てを以下に記したい。

『この世界に抗えるアート』
1 死、そこにお前の勝利がある
黙示録 / 忍び寄る死
2 人間は人間にとっての狼である
暴力 / 戦争
3 抵抗
一寸先は戦争 / 抗争
4 平和そして愛
武力の休息 / 生きる喜び

この展覧会は上述の用にフランスの著名なアートコレクターであるFrançois Pinaultのコレクションに拠っている。展覧会はテーマや章立てに見られるように、様々なアーティスト、文化圏や言語圏、時代を異にする芸術家たちが、いかにしてこの世界で生きることを考えて来たのか、という問いかけである。どう生きて、どんな意識で。世界という存在の中で、それに耐えてあり続ける、あるいは耐えて行き続けるために作られるアートとはどのような表現なのか。今回の展覧会に集められた作品はそのような作品たちである。
会場となったLe Depolandはダンケルクの新たなアートサイトとなるべく今回注目された。
チーフキュレータのJean-Jacques AillagonがコレクターであるFrançois Pinaultに象徴的作品を借りられるよう交渉した。そのおかげでダンケルクでは2013年当展覧会が実現することになった。
アートはしばしば理解されないこともあるし、読み解かれない。しかし、アクセスできない作品はない。マラルメの一節に以下のようなフレーズがある。
「アートは人間が人間へと何かを伝達するのに最も近い道である。」

Maurizio Cattelan
Maurizio Cattelanは1960年にパドヴァに生れ、Giottoの著名なフレスコ画のあるScorvegniのチャペルで洗礼を受ける。この問題の作品、 »La Nona Ora »(2000)では、先のローマ教皇Jean-Paul二世が落ちて来た隕石によって地上に固定され、その自由を奪われている。この作品はカトリック諸国すぐさま話題となり、批判を浴びた。 »La Nona Ora »はつまり、9時、キリストが磔刑に処され、十字架に括り付けられた時刻を意味する。死のときに際し、全ての人間はキリストがこう叫んだように、紙に問いかける。「神よ、神よ、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか」(Mt 27,45) 隕石の下でひん死の状態で、カトリック世界の頂点に立つ教皇すら、キリストとそして我々と同様にこの言葉を神に投げかけるだろう。
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Adel Abdessemed
Taxidermy(2010)はフランソワ•ピノーのコレクションに収められているAdel Abressemedの作品である。アルジェリアのコンスタンティン生れで1994年に亡命し、現在パリ、ベルリン、ニューヨークで制作している。アルジェリアでの惨い戦争の記憶、亡命までの恐怖、命の危険、それらは作家の芸術表現の根底を築いており、Abdessemedの作品ではしばしば死がテーマとなる。
Taxidermyは「剥製」と題された巨大な動物の死体の塊である。立方体を形成するため、鉄のロープでぐるぐる巻きにされ、それは次に真っ黒焦げに燃やされる。動物たちは三度殺された。一度は、生命を奪うために。二度目は剥製制作者によって死せる剥製として造形され、三度目は作家自身によって肉の塊として束ねられ、火の中に入れられた。三度殺された動物たちの山は、規則正しい立方体となり、ブロックのように、そこには臭いも無ければ、動物たちの目玉はもはや何も語りはしない。
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Maurizio Cattelan
All (9 sculptures)(2008)は、もう一度Maurizio Cattelanの作品である。9体の死体は、沈黙のまま床に置かれている。大理石彫刻である本作品は、アーティストによって、Gisant(横臥像、墓石の上に飾る人物彫刻で、リアルな大きさで作る像)であると言われているが、それにしては彼らは全て白い布で包まれていて、顔も見えないし、どのような姿であったのかも分からない。その大理石の透き通るような白さは、死者の凍り付くような温度を表しているようでもあり、あまりにもリアルな皺は、その布の中には死んでいない者を隠しているのではないかという予感を引き起こす。
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Josef Koudelka
1938年チェコ•スロヴァキア生れのKoudelkaが1961年以降ジプシーの人々の生活関心を持ち始めてから5年経った頃、1966年に撮影した作品である。若い一人の青年が手錠をされて、共同体を追放されている。共同体の住人が見守り、警察官の姿も見える。彼は一体、犯罪者か容疑者なのだろうか? 実は20世紀ヨーロッパでは、ジプシーはTsiganesやRomsと言った蔑称で呼ばれ、追放と粛清の対象となったのだ。ナチスの民族浄化の名の下に。
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Bruce Nauman
著名なナウマンのViolent Incident(1986)と名付けられたビデオ作品では、人類の心をを普遍的に貫く暴力的要素について焦点を当てている。なぜ人間は暴力的なのか? 暴力的行いはいったいいつからどのように存在し、我々の生活を今日も脅かすのか? 暴力には暴力で応えよといったのはハンムラビ法典だが、法律と道徳のみが、これを制御する方法なのだろうか。ビデオでは二人の男女が食事中に争い始める。その愉しいはずの時間と空間は突如として戦いの場所に一変する。
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Jake, Dinos Chapman
二人のアーティストユニットの構想したFuking Hell(2008)という作品が凄い。フランソワ•ピノーの作品の中でも名作と呼べる大きな作品だ。三万におよぶミニチュアフィギュアたちが所狭しと地獄絵的世界の中にうごめいている。ある者は戦いに破れ、またある者は殺した者の首をかかげて。風景から地形、建物や自然、動物や人間のコスチュームに至るまで、ハイパー•リアリスティックな表現に目を奪われる。この作品は、ヒトラーによって引き起こされたナチの暴挙のその詳細を半永久的に結晶化しようとする試みなのである。
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Jean-Louis Schoellkopt
Liévin, cimetières militaires (1991)はLiévinという産業革命および二回の世界大戦によってその名を知られる街にある軍人墓地を撮影した。整然と並ぶ、大理石の沈黙。軍人墓地というのはしばしばそうであるように、どこの国の者であろうと、死んだ地に埋葬される。死者とはその土地と一体である。
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Paul Mccarthy
Bear and Rabbit on a Rock(1992)は、Paul Mccarthyのスキャンダラスな作品のうちの一つである。ぬいぐるみを使用した表現、これらは子どもたちの大きなぬいぐるみという可愛らしい世界をすり抜け、屈託の無い笑顔を振りまき、セクシュアリティーのタブーをおかす。超えるべきでないものの超越、平和な時代の不穏なものをあらわにする。
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09/5/13

55th La Biennale de Venezia part2 / 55th ヴェネチア•ビエンナーレ no.2

55th Biennale de Venezia part 2

Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palace
パート1では、写真と映像作品に着目し、Camille Henrotの創世記の映像作品、Norbert Ghisolandの子どもの記念写真、Linda Fregni Naglerの隠された母親と子どもの没後写真、Nikolay Bakharevが撮影したソヴィエト抑圧下の家族写真、Laurie SimmonsAllan McCollumによる鉄道フィギュアのポートレート、そしてAutur Zumijewskiの盲目の人々が太陽を描く映像作品について紹介した。
part2では、同様にIl Palazzo Enciclopedicoから、彫刻/人形とインスタレーション作品についてそのいくつかを紹介したい。

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まずは、アルセナーレ会場で注目を集めたPaweł Althamerのインスタレーションを見てみることにしよう。ちなみに、前回part1に登場した、映像作家のAutur Zumijewskiは彼のコラボレーターで、しばしば協働作品を作っている。
ワルシャワ出身のPaweł Althamerは、身体や精神の問題を扱って彫刻、ビデオ、パフォーマンス作品を作ってきた。とりわけ、身体の「もろさ」や「感じやすさ」に関心を抱き、その境界を探るような実験的作品をしばしば自身の肉体を通じて問うている。以前は髪や腸などのマテリアルを利用した彫刻を作ったこともあるが、最近では、彼の父がプラスチック製造会社を営んでおり、その協力を得て、帯状のプラスチックを利用した彫刻を制作している。本作品では、90人のヴェネチア人に実際にモデルになってもらい、顔と手の型をとった。身体の部分はプラスチックの帯状ヒモで、実物大の人間を造形した。作られた彫像はリアルな人間サイズで、それが90体も様々なポーズで配置された空間は、圧倒的なインパクトを持っていながら、一体一体の人間の身体の中は空虚で脆弱である。我々の肉体もまた、ただ魂を匿う「乗り物」(vehicule)でしかないことを表している。
(ヴェネチアを訪れるほんの少しまえ、偶然ワルシャワ現代アート美術館(Museum of Modern Art in Warsaw)にて、こちらは白いプラスチックを利用したPaweł Althamerの作品を見た。この彫刻では、人々が巨大な物を協力して引いている様子が表されている。実はChristian Kerezによって設計された現代アート美術館を建てるという壮大なプロジェクトを人々が大変な努力をして引っ張っている様子を表している。(Burłacy, 2012))

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テラコッタ製の彫刻群(2006-2007)は、「モンスター」というのが時々はばかられるが、身体の表面に小さなとげのような陶器の欠片をびっしりと纏って様々な形をした想像上の生き物たちの集合である。作者であるShinichi Sawadaは、1981年滋賀県生まれ、自閉症と知的障害を持つ。2001年より陶芸を始め、クリアーなプランを繊細な手作業によって実現し、世界的に高い評価を受けている。2010年には、モンマルトルでの展覧会Art Brut Japonais に出展し、私も会場で展示作品を見たのを覚えている。フランスでは展覧会名が示すように、Art Brut(英語でいうアウトサイダー•アート)というカテゴリーに入れられていたが、ヴェネチア•ビエンナーレのIl Palazzo Enciclopedicoでは、むしろ、想像上の生き物たちの百科事典的なヴァリエーションの一ページとして澤田の作品が位置づけられているように思える。

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さて、Charles Rayは、初期はアンソニー•カロやデヴィッド•スミスらモダニズムの彫刻家に影響を受けるが、その後1970年代にはミニマリストのムーブメントに着想を得ている。様々なマテリアルを用いて作品を作ってきたが、人間を模した彫刻は特徴的である。彼は、非常に大きな女性や子どもと大人の大きさが全く均一な家族など、見る者を困惑させるような彫刻を作る。展示されたFall(1991-1992)は、高さ243cm、厚さ66cm、幅91cm。巨大なキャリアウーマンである。普通のサイズであったなら、ただのマネキンである典型的なコスチュームを着て真っ赤なルージュを引いたブロンド女が、どうしても人々の注意を引いてしまうのはなぜだろう。(撮影禁止のため、イメージはありません。)

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Paul McCarthyは先日パリのポンピドーセンターで行われた個展にかんしてレヴューを乗せた(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2297)Mike Kelleyと親交が深く、昨今の展覧会では、Mike Kelleyとのコラボレーション作品Heidi(ビデオ作品)が展示された。ロサンゼルスで学び、前衛的でラディカルなでボディ•アートやパフォーマンスを展開する。Paul McCarthyは、自身が述べているように典型的なアメリカン•カルチャーの影響のもとに育ってきた。ディズニー、B級映画、コミック、消費社会のマスメディアの要素を進んで作品に取り入れる。その一方で、彼が同様に強烈な影響を受けたのは、フルクサス、ハプニング、パフォーマンス、ボディ•アートといったヨーロッパにおけるアヴァンギャルド芸術で、とりわけウイーンにおけるアクション•アートに最も影響を受けたのだが、これに対してはある種、自分は部外者であるコンプレックスのもとに受容したのであり、それがMcCarthyの特徴を形作ったとも言える。展示作品、Children’s Anatomical Educational Figure(1990)は、巨大なぬいぐるみの腹部が裂けて、臓物が飛び出している。子どもの顔はアニメ的な笑顔を崩さず、胸部の心臓がある場所にも「ハートマーク」が描かれている。身体への暴力や衛生概念を混乱させるような一貫した試みが見られる。

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Cathy Wikesのインスタレーション作品Untitled(2012)では、二人の子どもと、おそらくはその母親が、一人の男が酒の瓶のあるテーブルの前でうなだれて、しかし今にも暴力をふるいそうな恐ろしい様子が設定されている。男はもちろん、子どもたちの父親であり女性の夫であろう。Cathy Wikesは、資本主義社会における女性のあり方や、家事労働、社会における母親という立場を浮かび上がらせるような作品を作ってきた。平凡でありふれた感じのする家具や壁紙、キッチン用具、そこに静かな緊張があり、不条理があり、誰にも聴かれない声がある。

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Rosemarie TrockelFly me to the Moonは静かでありふれた日常に潜む恐ろしい物語を浮かび上がらせる。赤ん坊は宙づりにされたゆりかごにふわふわ揺られ、すやすやと眠っているようだ。その赤子のすぐ横には毛むくじゃらの動物、丸くなっている犬か猫らしきものが共におり、同じ部屋の床には若い女が下着姿でテレビを見ている。女が見ている映像は、人間が初めて着きに上陸したあのシーン。女は自分の平凡で途方もない日常とはほど遠いファンタスティックな映像に夢中だ。したがって、女はまったく赤ん坊に無関心だ。ひょっとすると、母親ではないのかもしれない、とするとベビーシッターだろう。女は更にテレビに熱中し、毛むくじゃらの動物ははっきりと身体を上下させて寝息を立て、生命の存続をアピールする。もう一度、おそるおそる赤ん坊に目をやる。顔にとまっている大きな蠅はじつは、その子どもが既に死んでいるというサインだったのだ。

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Morton Barlettはしばしば、ヘンリー•ダーカー(Henry Darger)と引き合いに出される、生前は人形を作っていたことは知られていなかったアーティストである。というのも、1992年、彼が亡くなった時、自宅に大量の解剖学的に正確なプロポーションをもった手作りの人形が、30年物の新聞に丁寧に包装されて、さらには手作りの服を着せられて(あるいは、中には服を着ていないものもあった)、発見されたのである。彼が死ぬまで、Barlettがこんなに人形に執着があるとは知られていなかった。可愛らしい人形は実物の少女の二分の一くらいのサイズで作られており、どの少女も美しく、あどけない表情をしている。Barlettはダーカーと同じように孤児院で幼い頃を過ごすが、ダーカーと違って8歳のとき、裕福な家庭に引き取られ、孤児院をあとにする。ハーバード大学を中退し、写真家として働く。
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さて、Barlettがたくさんの人形を制作していたことについて、彼の知られざる趣味や想像にかんして、さまざまに議論されてきた。彼が人形や少女に対して、フェティッシュでロリコン的な趣味を持っていたことなども疑われるのだろう。一方で、もう少し別の視点から作品そのものに着目してみてはどうか。この作品が人目をひくのは、ひとえに、各々の人形が発しているオーラのようなものよると私は感じている。人形たちは、不幸で悲観的ではないにせよ、生きることの難しさを少なくとも、少しは知っている少女たちなのである。少女たちの纏っている衣服は、かならず一部分が壊れている。帽子をかぶった少女が、なぜ座っているのかご存知だろうか。彼女の靴が破れているからである。彼女は、ほころびたぼろぼろの靴を履いていることを隠すために、座っているのだ。別の少女はスカートのホックもファスナーもない。襟がほつれている、極端に短いTシャツを着ている。彼女たちは、楽しそうに笑っているけれど、寂しいことや辛いことを知っている。人形たちは、孤児院で育ったMorton Barlettが生涯忘れなかった子ども時代の寂しい気持ちを少しでも穴埋めしようと創り出した、想像上の家族たちであった。
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次回は、ペインティングとドローイングについて書きます。