10/24/14

Intervention d’Haru Otani, le 26 novembre 2014

Intervention d’Haru Otani

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J’ai le plaisir de vous annoncer que dans le cadre du cours « Exposition de soi et dispositifs mobiles » j’invite Haru Otani, danseuse contemporaine, qui viendra du Japon et présentera son oeuvre-danse intitulée « Solo Wedding ».
Vous découvrez ci-dessous le message d’Haru Otani.
Sa performance se tiendra le 26 novembre à l’Université Paris 8 dans le cadre du cours de Miki OKUBO, vers 14h. Merci de me contacter pour tous les renseignements. Je sera ravie de vous voir afin de partager ce moment splendide.
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Solo Wedding

Je ne suis pas mariée.
Je n’étais jamais mariée et je ne me marierai peut-être jamais.
Mais pourquoi le mariage m’attire si fortement comme toujours ?

 

 La vitrine du magasin de robes de mariées fut couverte par les empreintes des mains de ceux qui cherchèrent à en toucher le contenu comme Helen Adams Keller chercha à toucher le monde. (Hiroshi Homura)

 
Déprimée en pensant au mariage, j’ai compris que c’est ce poème qui m’accepte telle que je suis.
Je n’attends personne.
Je n’attends pas le prince.
Rester toute seule ne signifie pas que je suis perdante.
De tout de façon, je suis seule ici et maintenant.

 
Je rêvais longtemps d’aller danser un jour mon œuvre à l’étranger. Je suis ravie d’avoir cette opportunité, impatiente de vous rencontrer bientôt.

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来月、2014年11月26日、パリ第8大学での私の担当講義『自己表象とモバイルメディア』の授業の一貫で、コンテンポラリー・ダンサーである大谷悠さんをお招きし、フランス初演となるSolo Weddingを披露していただくことになりました。パリ第8大学で午後2時頃より予定しております、会場などの詳細につきましては、大久保美紀までご連絡いただけましたら幸いです。お誘い合わせの上どうぞお越し下さい!皆様にお会いできますのを楽しみにしています!以下に、大谷悠さんに書いていただいたテクストを添付いたします。
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Solo Wedding

結婚はしていません。
したこともないし、する予定もありません。
それでも無関心でいられないのはなぜなのか。

 

ウエディングドレス屋のショーウインドウにヘレン・ケラーの無数の指紋   

穂村弘

考えながらブルーになってきたとき、そのブルーをこの短歌に肯定された気がして、自分でやってしまおうと思いました。
王子様を待ってない。
結婚したら負けだとも思ってない。
どちらにせよ私はここでソロでした。

いつか作品を踊りに海外へ来られたらいいなと長年思っていました。それが思わぬかたちで実現できそうで身震いしています。皆さまとお会いできることを楽しみにしております。

Haru Otani (大谷悠)

Biographie :
Étudié depuis l’enfance la danse contemporaine, ballet, danse jazz et danse à claquettes, elle pratique divers genres. Depuis ses études universitaires, elle travaille comme chorégraphe, créant les œuvres originales. Diplômée à l’Université Obirin, elle a fini ses études en master à l’École supérieure de l’Université Kyoto des Arts et Designs. Née à Tokyo, vit et travaille à Kyoto.
モダンダンス、バレエ、ジャズ、タップといくつかのジャンルや教室を渡り歩きながら幼少より踊る。大学在学中より創作も始め、ソロ自作自演、作品演出振付を行なう。
桜美林大学卒業、京都造形芸術大学大学院・修士課程修了。東京生まれ育ち。京都在住。
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06/17/14

遅すぎた手紙 / Lettre arrivée trop tard

遅すぎた手紙

フランス語でも日本語でも、《Jamais trop tard》 /「遅すぎることはない」という言い方をよくするが、たいていの楽観的な(あるいは本質的な)思考において、何事も遅すぎることはないというのは勇気づけられる言い方ではある。あたらしいことを始めるのに遅すぎることはない、恋愛するのに遅すぎることはない、物事を学ぶのに遅すぎることはない…、というふうに。ただし、いくつかの不可逆な事象をめぐっては、たしかにそれが遅すぎるということになることがある。

人の死、たとえばそれはそのような事象の一例だ。

昨年10月に日本へ送った手紙が戻ってきた。
「あて所に尋ねあたりません。」という赤いハンコが押してある。
この手紙は何ヶ月もの間、日本の郵便局の方が住所変更歴などを辿りながら、どこかにその軌跡が残っているかどうか丁寧に調べてくださった末、結局は見当たらないということで、ゆっくりとパリ郊外の私の家まで戻ってきたのだった。

高校のひとりの恩師に宛てた封筒であった。

私が高校を卒業したのは2003年の3月であるから今から11年前になる。文学部に行くことにしたのもこの人の異常なプッシュのせいだった気もするし、テクストの読む行為と内容あるテクストを書くことの意味について一つのアイディアをくれたのもこの人だったと思い出す。世の中に溢れる本は大抵素晴らしくないのだが、ときどきはよいあるものがあることを教えてくれたのもこの人だったろう。この人のせいで小林秀雄のテクストをさんざん読まされ、挙げ句に美学やりなさい!と奨められた。あまのじゃくの私は「やりなさい!」なんて言われると積極的にやりたくなくなるというのに。
東京大学で英文学を学んだコテコテの文学青年であったはずのこの人は、もっとずっと文学のなかにいたかったのだ。美学やりなさい!はこの人の希望だったのだ。

手紙が戻ってきたのはこの人が昨年の夏に死んでいたからで、彼がひとりで住んでいたアパート宛の手紙はどこにも行き着かずに戻ってきた。

手紙を書いたのは北海道を出てから初めてのことで、なぜ昨年の10月に突然手紙を送ったのかも明確な理由があったわけではない。ただ、私のことを気にしてくれていると何度か人伝いに耳にした。卒業してからその直後に一度会いに行ったきりである。

健康に恵まれない人で、10数年前すでに身体がよくなかった。彼の説明はいつも筋が通っていたが、私はしばしば心の中で異議を唱えて、それがクリアーに組み立てられてスラスラと口をついて出てこないのを知っていたので努力もせずにもみ消した。私は議論の努力を怠る。それは今も全く変わっていない性質の一つだ。

フランスまではるばる戻ってきた遅すぎた手紙を開封していない。お墓参りにいくつもりだがその際届けるべきなのか、私がいつか死ぬまで私の持ち物としておくべきなのか、今日はまだ心が決まらない。

私がもっとずっとあとに、いつの日か素敵な文章を書くようになり、この人に一つだけ書いたものを見せることが出来たとしたら、その時はひとつの詩を書くと思う。

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04/8/14

彫刻家 井上佑吉, Yukichi INOUE, Sculpteur « Mille et une têtes »

彫刻家 井上佑吉, Yukichi INOUE, Sculpteur

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Yukichi INOUEさんは、1966年よりEcole Nationale supérieure des Beaux-Arts de Parisで学び、その後50年近くフランスで彫刻作品を制作しておられる。
私が生まれるよりもずっとずっとまえだ。私は1966年がどんな時代だったかを知らないし、1966年に彫刻を学ぶためにフランスに渡るということがどういうことかも知り得ない。彼がフランスにわたった1966年、パリには今よりもずっと少ない日本人が滞在しており、さらにパリ以外の地となると、もはや、日本人のコミュニティとはかけ離れた場所で完全なる移民として生活を送ることを意味するのだろう。彼は、アトリエのあるElancourtの街や、その近隣の街を拠点に多くの発表をしている。

HP ウェブサイト : http://milleetunetetes.com/yukichi-inoue

プロジェクト「沖縄の石」は、沖縄からやってきた何トンにもおよぶ彫刻作品だ。2005年、南城市玉城字堀川の武村石材建設で制作を行い、それらは船でフランスに運ばれ、Mille et une têtes として作品化されたものだ。作品タイトルMille et Une Tête s「1001人の顔」。集合としての1001体に及ぶ沖縄の石から削られた彫刻は一人一人異なる存在を表す結果になっている。1001体の彫刻、そして一体一体が少しずつ異なるといえば、人の背の高さほどの木造千手観音像がずらりと安置されている蓮華王院本堂三十三間堂のことを思い出すだろう。ちなみに蓮華王院本堂三十三間堂の観音像は殆どが鎌倉復興期に制作され、平安期の像も含む。さらに数体は国内の博物館に寄託され、異なる時代の異なる作者(しばしば作者不詳)による観音像の集合なのである。それは、似たような外観として同じ空間に長い年月安置されているが、いつしかはその場所からいなくなるかもしれないし、観音像として彫りだされる以前、彼らは異なる時代異なる場所に行きた木であっただろう。彼らの細胞は我々の知らない陽の光を浴びて成長し、我々の身も知らぬ空に向かって幹をのばし、そして今日、この場所に再発見されるのだ。

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Yukichi INOUEさんがマチエールとしての「石」について語ることは興味深い。彫刻家として、石だけでなく、もちろん様々な物質を作品の材料として彫りだしてきた彼は、その中でも石が内包することのできる時間の層の壮大さに強く惹かれる。石は、その中に、記憶を堆積する。それは、土の記憶であり、水の記憶であり、その中に生きとし生けるもの全ての記憶である。さらには、そこを吹き抜けた風のことや音のこと、匂いのことすらも含む。石を削るとき、石を切り出すとき、石に穴をあけ、石を象るとき、その壊された表面に次に現れるのは、まったく異なる時間の、まったく異なる場所の記憶かもしれない。そうやって現れる見知らぬ表面と出会うことがアーティストは好きなのだ。

展覧会を見学している最中、小さな子どもが何人も訪れていて、アーティストは彼らに幾つかのことを説明した。象られた顔の、小さな部分に現れた過去の生き物の姿、葉っぱの葉脈、閉じ込められながら突如晒されることになった貝殻、あるいは貝殻の跡。石の中に閉じ込められていた記憶が、パリンとその上に或る一層が剥がされた瞬間に、そこに現れる。それらはいつか水の中にあったり、早く泳いだり物を食したりして生きており、あるいは隣の欠片と出会いもしないほど遠くに存在していた。そんなものが、いま目の前にある。1001人の顔として。子ども達は、示された貝殻の跡やエビのような生き物、植物の欠片を好奇心に満ちた目で追う。

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なぜ、沖縄の石を?

Yukichi INOUEさんは1942年生れ、彼の父親は第二次世界大戦の終戦間近44年に徴兵され、45年沖縄戦で戦死した。沖縄で亡くなったことは分かっているが、それ以上詳しいことは分からないそうだ。2005年、戦後60年の戦没者追悼式に参列した年、アーティストはそれまでむしろ距離をとっていた「沖縄の石」を彫ることを決める。
石は、そこで起こったどんな出来事もその表面に纏った。それがどんなに昔や最近の出来事で、人間の起こした悲惨な出来事で、長く続くことや束の間のことであっても、耳を澄ませて聴いていた。

Yukichi INOUEさんは 彼の死んだ父親の記憶に出会うように沖縄の石を彫る。ただし、そこに聴かれる対話は、彼と彼の父の間にとどまらない。それはいま、フランスの子ども達に石の記憶を語り、それを目にするこの地の人々や現代の人々の記憶の中に入って、遠くにやって来たのであり、もっともっと遠くまで広がって行くだろう。1001人の顔は、重ねられた世界の時間と生き物の記憶を乗せて、地球のテレパシーのような存在になったのだと、私には感じられる。

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受賞歴:
Prix Susse fondeur au Salon de la Jeune Sculpture, à Paris.
Premier prix à la Biennale de sculpture Contemporaine de Bressuire, à Deux Sèvres.
Prix de la Fondation de Coubertin au Salon de Mai, à Paris en 2001 et 2011.
Prix de la fondation Pierre Gianadda de l’Académie des beaux Arts

12/30/13

映画『アイ•ウェイウェイは謝らない』/ Film « Ai Weiwei Never Sorry »

Salon de mimi
Ai Weiwei Never Sorry
アイ•ウェイウェイは謝らない
web site : http://www.aww-ayamaranai.com/index.html

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アイ•ウェイウェイというアーティストのことを知らなかったら、人間の多様に思われる活動における「創造的表現行為」というものについて、それが生き続けることに匹敵し、むしろ、生き続けることと同義であるとすら言いうるまでにパワーを持ちうることなどを、未だに信じるに至らなかったかもしれない。アイ•ウェイウェイは、ディメンションが完全にズレている。それでも、あるいはそれ故に、彼の積み重ねてきた出来事をスクリーンを通じて通り抜けた後では、世界の中で生き延びることに関する考えを、もとの軌道に戻すことは叶わない。

2013年11月末より上映が始まった『アイ•ウェイウェイは謝らない』を東京都渋谷のイメージフォーラムで見た。アーティストとしてのアイ•ウェイウェイの活動はおそらくよく知られているので、ここで改めて紹介するまでもないと思う。このSalon de mimiでは、今年、ヴェネツィア•ビエンナーレで発表された3つの作品について論じた記事が以下のリンクに掲載されているのでご覧頂ければと思う。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2148

「アイ•ウェイウェイのことを書くのは緊張感がある。」上の記事の冒頭に吐露した私の本心は今も一向に変わらない。アイ•ウェイウェイは本気でシビアに見えて、楽しそうでもあり、警察に頭を殴打されて手術を受け、81日間も拘束されて身の自由を奪われ、普通に心配する母親を普通に慰め、作品制作には手を触れない、作品制作の作業者たちとホカホカの中華料理を食べまくり、強い口調で口論している際もちっとも怒り狂ってはいない。アイ•ウェイウェイは、体制や社会と戦いまくる一人のエネルギッシュなアクティヴィスト以上の存在である。メディアを介したパフォーマティブな振る舞いと扇動的態度も、あたかもそれが彼の特殊性であるかのようにまばゆく語られたりもするが、本質的にはさほど重要ではないのである。アイ•ウェイウェイは、発言する。アイ•ウェイウェイは、行動する。

自分が怖がりだから、行動すると言う。行動しないことが、行動することよりも恐ろしいので、行動するのだと言う。

我々は、色々なことを色々な方法で発言する。「言うは易し行うは難し」という言葉があるので、一般的にこの世界では、口先から言葉を唱えることは誰にでもできて、行動する者こそ偉いと刷り込まれている。だが実は、言うことも行うこともさほど偉くも凄くもなく、卑怯でも汚くもなく、全く変わりのないこということなのである。アイ•ウェイウェイは、四川大地震の犠牲となった子どもたちを忘れないために個人情報を集め、名簿を作成し、ブログに掲載し、小学校の手抜き工事でぐにゃぐにゃに折れ曲がった鉄鋼を集めて、それを大きな限りない地面のように丁寧に積み重ねてインスタレーション作品を創った。警察に殴打されて負傷した現場を撮影し、ツイッターで報告、3ヶ月に渡る拘束中の生活を忠実に模型によって再現し、それを世界の人々の目の下にさらけ出した。

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私たちは、言うことも行うことも恐れる。批難され、嫌われ、疲労し、空っぽになるのが面倒だから。だからこそ、ネット上で過激な発言をし、リアル世界で奇抜なパフォーマンスをし、意を決してデモをし、そこでおこる非日常的な出来事と程よい疲労感に陶酔し、恐るべきことに、「満足」してしまう。愚かなことである。感情的なエネルギーは一時的に民衆を駆り立て、叫ばせ、暴力的にし、重い扉をこじ開けることを可能にするかもしれない。しかし、表現者たる者はその出来事の起こりうる全ての世界をあらかじめ受け入れているべきなのである。

その方法が輝かしいからでも、それぞれの出来事がドラマチックだからでも、この世界のなかで彼が特別エネルギッシュだと思うからでもなく、『アイ•ウェイウェイは謝らない』の映画を見て、作品を知ることは良い。それは、生きることがよく思えるからである。

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08/9/13

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
June – September 2013

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)のことを書くのは緊張感がある。それは、他のアーティストや他の展覧会、あるいは社会問題や現象についてのエッセイを書くことと比較して「相対的」に緊張するのではなく、艾未未について書く行為そのものが「絶対的」にしんどいのである。それでも書こうと私が感じているのは、彼がこの第55回ヴェネチア•ビエンナーレで鑑賞者に提示した3つのストーリーを全て目の当たりにしたからであり、私にとってはこうすること以外に選択肢がないからである。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)は1957年北京生まれの現代美術家、キュレーター、建築家でもある。世界各地で積極的に展覧会を行い、国際展に参加するほか、よく知られているように、多くの中国人に協力を仰ぎながら社会運動を繰り広げている。1980年代前衛芸術グループの活動に関わったが、政府圧力を受けて、ニューヨークに渡り、そこでコンセプチュアルアートの手法を学ぶことになった。艾未未は実に1981年から93年の12年間の間ニューヨークに滞在している。中国帰国後現在まで続くアトリエ•スタジオ「Real/Fake」を構える北京郊外の草場地芸術区(Caochangdi)を築いた。

艾未未の参加国際展は数多い。そしていつもセンセーショナルな評判を世界に轟かせた。とりわけ、2007年のドイツカッセルにおけるドクメンタ12では、 »Housing space for the visitors from China »という企画で会期中1001人の中国人をカッセルに招待し、会場に滞在させるというプロジェクトを行い、カッセルの街が中国人で溢れる事態を引き起こし、人々を驚かせた。あるいは同国際展の屋外展示であった »Template »という明時代の扉から成る建築が悪天候のため崩壊したのだが、自然現象の結果としてそのまま展示したことにより、人々は艾未未のコンセプトのスケールを理解した。

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2013年、現在会期中の第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、フランスパビリオンで行われているドイツ展(Susanne Gaensheimerのキュレーション)に招待され、 »Bang »というインスタレーション作品を出展している。文革後の何ものも顧みない超高速の近代化は、それまでの文化や歴史が一つ一つその足場を踏みしめるようにして築き上げてきたものを一瞬にしてゴミにした。インスタレーションは886台の三脚の木椅子からなっている。1966年に始まった文化革命は、この三脚の木椅子に代表される、どこの家庭にもあり、伝統的な物作りのマニュファクチュアー技術の賜物である家具や道具や物を、一夜にして時代遅れのみっともない代物におとしめた。家具はアルミやプラスチック製がオシャレで文化的な物だと画一的に信じさせられ、何世紀も渡り親から子へと引き継がれてきた年期の入った木椅子は「遅れの象徴」として追放された。艾未未は、このインスタレーションで、古い木椅子を再利用したのではない。今日では貴重となった木椅子の制作技術をもつ作り手に依頼して、この典型的オブジェをインスタレーションのために作ってもらったのだ。椅子は、大木の木の根が地中を繁茂するように広がって配置されており、それは目を見張る速さで広がったポストモダン世界の網の目と、その過剰な網の目の中に絡みとられて自由を失った「個人」の今日におけるあり方を象徴しているようでもある。

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「艾未未 (アイ•ウェイウェイ)はどこ?」という言葉が、ポスターやメッセージボード、インターネット上の記述が世界中を右往左往した2011年の4月から6月のことを記憶に留めている人も多いだろう。2010年11月より北京の自宅に軟禁されていた艾未未は、翌年4月3日、香港行きの飛行機に乗る手続き中に行方が分からなくなった。国際人権救護機構(Amnesty International)や、ドイツやイギリス、フランス外務省、さらにはアメリカの国務省もただちに艾未未を釈放することを求めたが、この拘留は81日にも及んだ。4月7日の中国外務省からの情報によると艾未未はスタジオ脱税容疑による経済犯であるとされたが、この原因が2008年5月に起こった四川大地震の被害の実態を明らかにし、犠牲の原因を明らかにする社会的活動を艾未未が主導していたことであるのは明らかであった。

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ヴェネチア•ビエンナーレでは、ビエンナーレメイン会場とは離れて二つの »Disposition »展が開催された。その一つがメディアでも話題になったが、81日の拘留生活の実態を再現した模型を教会で展示したS.A.C.R.E.Dである(2011−2013) 。彼が体験した81日間の監獄での「日常生活」の一部始終が6つのシーンとして再現されている。鑑賞者は、規則的に置かれた6つの大きな部屋を小さな窓穴から覗くか、あるいは上についているガラス窓越しに覗き見ることによって、艾未未の体験を知ることが出来る仕組みになっている。何もない部屋。薄汚いベッドや洗面所。食事、睡眠、排泄すべてにおける厳重な監視。

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もう一つの »Disposition »展の会場に行くためには船で本島の向こう岸に渡らなければならない。あるいはもちろんアカデミア橋を渡って迷いながらとぼとぼと歩くことも出来るだろう。とにかく、孤立した展示でなければならなかったのだ。その展示は、Chiesa di S.Antoninにある。150トンの鉄骨が真っすぐに整然と並べられて部屋一杯に敷き詰められている。長さもそろえられて、それは海の波にもオシロスコープで見る幾何学的な波にも見える。これは彼の2008年12月より様々な圧力にも屈せずに取り組み続けてきた艾未未とその協力者の一つの集大成とも言える。彼らの目的は、多くの子どもたちが人為的原因によってその命を落とすことになってしまった犠牲の全貌を明らかにし、その犠牲者名簿を明らかにして、被災者のために祈念することだ。命を落とした子どもたちはもはや彼の活動に関わらず戻ってこない。しかし、残された人々はもう一度このことが起こらないように、起こったことの原因を知り、そのことがこれからは起こらないよう世界を変えることが出来る。あるいは、そうすること以外に、死んだ人々に祈りを捧げる方法はない。

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当スペースで放映されるドキュメンタリービデオは、艾未未と彼らの協力者たちがどのようにしてこの150トンもの鉄骨を四川大地震に関わるモニュメントとして提示したかのプロセスとコンセプトを明らかにする。まず知らなければならないのは、このプロジェクトのせいで艾未未は脳内出血で手術を受けるまでの暴力行為を受けているし、上述したように81日の拘留に遭っている。アートは困難を越えて続ける必要のある行為であり、艾未未という個人を越えてその協力者と鑑賞者とそれに触れる者に影響を与えるべきものである。150トンのグニャグニャに曲がって折れた鉄骨は彼を支持する中国人たちの手作業によって、真っすぐに戻された。このめちゃめちゃに組み立てられて建物を支えるに至らなかった鉄骨こそが、子どもたちの命を奪った直接的原因であり、その苦しみの象徴である。鉄骨をいっぽんいっぽん真っすぐにする作業は何年もかかる。その間、どれほどにこの粗悪な鉄骨が地震で姿を変えたのか、その記憶を残すために曲がった状態でのレプリカも150トン全てについて制作された。

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4年に及ぶ年月は、原型を留めないほど曲がっていた全ての鉄骨をぴんと真っすぐにした。人間の一所懸命の作業は4年間を要したが、これを捻り曲げた震災の衝撃は一瞬のことであったのだ。

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鉄骨はその暴力性をもう我々の目の前に提示しない。4年間の艾未未とその仲間たちの仕事は、見る我々をただただ茫然とさせる。たしかに、生きることは繰り返すことで、人類の歴史は作って壊すことであった。しかし、それは、壊して、直すことでもあったのだ。

05/1/13

新聞女論 vol.3 西澤みゆき – 新聞女はその踊りを醒めない夢の中で踊る。/ Newspaper Woman, Miyuki Nishizawa

本記事は、第三弾に渡る新聞女レポート&新聞女論の第三弾(最終!)、「新聞女論 vol.3 西澤みゆき – 新聞女はその踊りを醒めない夢の中で踊る。 」です。

「アートで私のこころが自由になった。それは師匠嶋本昭三もそうだし、いっしょにいるまわりの皆もそう。
だから、私たちが芸術を追い求めることで、いま苦しんでいる人たちのこころが少しでも、ひとときでも解放されてハッピーになったらいい。そして、仲間がいっぱい増えて、次の世代の人にもそれが伝わればいい。」
(西澤)

アーティスト西澤みゆきは、具体の精神を引き継ぎ、嶋本ミームを伝承する者として、芸術活動の本質を「精神の解放(/開放)」であると述べる。それはまさに西澤自身が、生きることの苦しみや困難、および長年にわたり心を縛ってきた重たい鎖を、芸術行為によってぶち壊し、粉々にしてしまうことに成功した張本人だからだ。
私の知る西澤みゆきは、いつもニッコニコしている。神戸の記号学会でお会いした際も、グッゲンハイムでも、あるいはSNS上で写真で見かけたりしても、とにかくいつも楽しそうだ。個人的な話だが、私自身は普段からあんまり機嫌が良くない。外出して人に会い、たった数時間頑張ってニコニコしているだけで帰宅すると顔が筋肉痛になってほっぺがプルプルする。だからこそ強く思うのだが、笑っている人はそこにいるだけで本当にハッピーを伝染する力がある。笑っている人は、いつもつまらなく悲しい顔をしている人よりも、個体として生きるエネルギーが断然高い。そして、そのポジティブなエネルギーこそが他の個体に伝染する価値のある唯一のものである。

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西澤みゆきが嶋本昭三のもとでパフォーマンスや制作などの芸術活動を始めたとき、彼女は肉親との関係や世間が強いてくる鋳型のようなものに苦しんでいた。それは、本当に大切なものの前ではひょっとして小さなことであるにも関わらず人が生きるのを息苦しくする、時には人から生きる力を根本的に奪ってしまうほど苦しくさせる、何かとても良くないものであった。身体に合わない服とか、胸から腰までを縛り付けるコルセットとか、刺すような痛みを日夜与え続ける歯列矯正器具の類いとか、目に見えはしないけれども、その良くないものはそれらに少しだけ似ている。

嶋本昭三の作品のひとつに、「女拓(にょたく)」がある。この素晴らしい作品は、彼の芸術行為を真っ向から受け止めることのできない人たちによって、しばしば不当な批難を浴び、日本社会ではスキャンダラスに扱われてきた。あるいはまた、イヴ•クラインの青絵の具を用いたパフォーマンス(Femme en bleuなど)と比較されることがあるが、イヴ•クラインのパフォーマンスが完全にコンストラクティッド(演出され、構成された写真)であるのに対して、女拓モデルの女たちが自由である嶋本の実践は全く性質が異なると言わなければならない。女拓は文字通り、魚拓の女バージョンである。女たちの裸の身体に墨を塗って、色々なポーズを紙に転写する。西澤はアパレル業界で十数年勤務したのち嶋本と再会すると、そこで女拓モデルをするために、全裸になった。女拓は嶋本昭三のアートスペースを利用して行われた。実は、「女拓が行われた」というのはやや語弊がある。実際にそれは生活のように自然に営まれたのである。もはやそれは一過性のパフォーマンスでも拓をとるための準備でもなく、裸で生活することそのものである。我々が作品として目にしてきた墨を塗られた女の裸体の様々な部分が紙の上に再表象されたものは、女拓という営みにおける最も物質的な結果にすぎない。女たちは、全ての纏うものを脱ぎ捨てた生活の中で、すこしずつ何も纏わないことに慣れていく。自分のものとは違う他人の裸、身体部位のかたちや色の違い、肉付きや骨格の違い、傷があったり老いたり子どもであったりする身体。魚拓がそうであるように(つまり、様々な種類や大きさの魚の記録であるように)、女拓もまた、女の生の記録である。それぞれの女たちの、異なる人生の記憶である。西澤はこの女拓生活を通じて、一人一人異なるはずの女たちの身体が、どの裸もおしなべて美しく、それがいわば全ての不要なものを脱ぎ去ったあとの魂のつきあいであることを発見し、それと同時にそれまで自らの心を覆っていた悪いものをバラバラに打ち砕いた。

著名なアメリカの写真家であるベン•シモンズ(Ben Simons)も女拓に関心を抱き、これを撮影した。墨で真っ黒になった裸の女たちの身体。彼は女に何のポーズも表情も要求もしない。女があるままに、裸でそこにいるままに撮った。彼は女拓の女たちの美しさを絶賛する。西澤みゆきはベン•シモンズがとりわけ愛した女拓モデルのひとりだ。生き生きとした命が発するひかりのようなもの。西澤は女拓の生活とベン•シモンズの写真を通じて、ハッピーを伝染するアーティスト「新聞女」となるための強い「たましい」を得た。

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時が過ぎた今、新聞女はいまや一人で立っているだろうか。
新聞女の最愛の師は、彼女と彼女と共にある者たちにチャンスと試練を残し、「現世での活動(を)引退」してしまった。(*「新聞女タイムズ」、特別号外より) 傷ついて繊細だったひとりの女拓モデルは、今やたった独り勇敢にクレーンに吊り上げられ、上空において人々の大喝采を全身で受け止める。彼女は、時にエレガントにまたあるときはゲリラのように人々の前に現れ、彼女自身の音楽を紡ぎ、彼女自身の舞を舞う。出会った人たちにハッピーを伝染するために。すべては、ひとりでも多くの出会い得る人々の「精神の解放(/開放)」と幸せのために。

芸術で精神が解放されました。だから芸術を追い求めてます(西澤)

心を封じ込めていた重い鎧は、再起不能なほどに完全に粉々に打ち砕かれ、もう二度と彼女を脅かしたりしない。そして人々が何かの偶然で悪い鎧を纏ってしまった時、それをどうやってぶち壊したらいいか知っている。新聞女はその芸術を、もう醒めることのない世界のなかでつたえ続ける。
(文:大久保美紀)

*「新聞女タイムズ」、特別号外は2013年3月9日のグッゲンハイム美術館でのパフォーマンスのために佐藤研一郎さんが作成した日本語および英語新聞である。

 

新聞女論vol.1, vol.2, vol.3をお読みいただいてありがとうございました。
お忙しい中メールでのインタビューにご協力いただいたみゆきさんに感謝します。
また新聞女ズひめさんのブログ「日々是ひめアート」を大変参考にさせていただきました。

04/30/13

新聞女論 vol.2「アートは精神の解放」 – 裸のたましい、ハッピーを伝染する。/ Newspaper Woman, liberating minds by arts

本記事は、第三弾に渡る新聞女レポート&新聞女論の第二弾、「新聞女論  vol.2「アートは精神の解放」 – 裸のたましい、ハッピーを伝染する。」です。

新聞女は、新聞紙を作品制作の材料として利用するアーティストある。彼女が役目を終えた新聞を作品の材料として大抜擢したのもそれでモノを作り始めたのも、運命みたいなものである。新聞は、ひとたび大量に刷られ、情報をぎっしり詰めて人々それを伝達するのに、その賞味期限はあまりに短命、翌日にはすぐにゴミになってしまう。毎日毎日大量に生み出されてすぐゴミになって捨てられる新聞紙たち。アーティスト西澤みゆきは、今日のように新聞でドレスやジャケットを制作し始める以前、大学でファッションを学び、デザイナーとして12年間企業に勤めた。彼女は消費の時代のファッション業界のあり方やそれを体現するような生活、つまり、溢れ返った物に囲まれ次々と新しく手に入れてはすぐに捨てる生活に疑問の念を抱く。なるほど、消費社会におけるハイスピードのアパレル産業と、物質性を伴ったマスメディアである新聞の置かれている境遇はそっくりである。彼女は、そんな不毛なサークルとも言える消費の輪をひょいと抜け出し、それまで捨て続けてきた物たちを救うかのように、役目を終えた新聞をメディウムとしてアーティスト活動を始めたのだった。

citée de The Morning Call

Newspaper Woman, citée de The Morning Call


嶋本昭三(1928.1-2013.1)は具体の創立メンバーの一人で(「具体」という名の提案者)、絵の具をキャンバスに投げつけたり、クレーンで吊られて上空から巨大な絵を描くパフォーマンス•ペインティングで知られる。晩年はAU(Art Unidentified)を組織するなどの活動を通じてたくさんの人々に芸術表現による精神交流のメソッドを伝達した。彼の芸術や生き方に触れた人々は「嶋本ミーム」(嶋本昭三文化的遺伝子)を伝承する者として、この遺伝子を世代を超えてさらにたくさんの人に拡散していくことができる。西澤みゆきもこの嶋本ミームをもつ者の一人だ。実は、嶋本昭三の絵画作品の中にゆくゆくは西澤のメディアとなる新聞を利用した作品がある。あの有名な穴のあいた絵画がそれだ。「作品」(1954年 芦屋市立美術博物館)のコンセプトは、前衛美術家嶋本昭三の誕生と同時に創り出されたアイディアである。美術を志すも、親に美大で学ぶことを許されなかった若き嶋本は1950年代始め、知人の紹介で吉原治郎(1954年に具体美術協会を結成)に弟子入りすることを試みる。毎日毎日絵を描いて見せに行くものの全く認められない。貧しかった嶋本は、木の枠に新聞紙を貼り、メリケン粉(戦後日本にGHQを通じて入ってきたアメリカで精製された真っ白い小麦粉)を炊いたものを塗り付けてその上に白いペンキを塗ったものをキャンバス代わりにしていたのだが、ある日それが濡れたまま急いで描いたところ穴の空いた絵ができてしまった。ー「穴の開いた絵なんか世界中にないんでは?」ー その絵が吉原治良に嶋本の才能を認めさせ、当時日本での厳しい評価をよそに海外では直ちに高い評価を得た。新聞が初期嶋本作品においてキャンバスの代わりに用いられ、それは時間が経つとカサカサになって割れたり穴が空いてしまうがその作品は今も幾つかの美術館に残り続けている(つまり、新聞は木枠と白ペンキで固定され、時の中に封じられることで、失った自由と引き換えに持続するいのちを得ている)。その一方で、新聞女の新聞は自在にかたちを変え、動き回り、刻まれ、破かれ、象られ、触れられ、纏われ、つかのまの時間を、それと遊ぶ人々とともに生きている。

SHIMAMOTO Shozo, Work, 1954

SHIMAMOTO Shozo, Work, 1954

 

さて、新聞はゴミであると上述したが、「ゴミとして捨てられてしまうものに命を与えます!」なんて言うと現代ではすぐにエコですね!とジャッジされる。いらなくなったものをアートのために再利用するという点で、エコ•アートというカテゴリを掲げられても勿論反駁はしまい。しかし、新聞を使うことの本当の意味をもっと丁寧に見るべきだ。メディアとしての新聞と新聞女の関係を考えること無しに、新聞女は語ることができない。彼女の作る美しい新聞ドレスを埋め尽くすのは、逆説的にも惨たらしい事件の報道や、戦争や紛争のこと、政治的不和や不況のこと。そこにある出来事を視線でなぞるならば、世界があたかも悲劇的な事柄で埋め尽くされているかのように感じざるを得ない。そして、それはある意味で真実なのだろう。

「新聞に書いてある内容はほとんど悲しいことや辛い目に遭った人のこと。テロや戦争、原発… 私に少しでも力があればぜんぶ解決したいがそれは叶わない。せめてその新聞紙を使って皆の心がすこし幸せになれたらいい。」(西澤)

bijyututejo_miyuki

2004年6月の美術手帖に取り上げられた有名な新聞女のパフォーマンス作品がある。「Peace Road / 平和の道」は、新聞紙の中の9.11のテロに関する記事を選択的に使用して作られた作品だ。テロに関する記事の部分を、地球の色としての青、そして人々の肌の色である白•黒•赤•黄の計5色で塗りつぶし、神戸の元町駅から西元町駅までの1.2kmの道のりを一本の新聞の道として繋いだ。平和を祈り、人々の幸せに貢献したいというコンセプトは新聞女の表現活動の最も基本となる考えである。このプロジェクトは、ヴェネツィアのサンマルコ広場でもゲリラパフォーマンスで実践されている。こうして、異なる国や大陸で繋ぎ続けて行き、いつかは「地球をぐるっと一周peace roadでつなげたい」と彼女は述べる。
(参考 新聞女HP)

 

citée de The Morning Call

Crane Performance, citée de The Morning Call

新聞女のパフォーマンスのスケールの大きさとエネルギーを象徴する「クレーンパフォーマンス」を紹介せずにはいられない。クレーンパフォーマンスは、嶋本昭三氏が得意(?)とするパフォーマンスで、色とりどりの絵の具の入ったガラス瓶を上空から落下させて地上に広がる巨大なキャンバスに描くというもの。新聞女のクレーンパフォーマンスでは、彼女のホームページ(新聞女)をご覧頂けば一目瞭然であるが、上空に吊り上げられることによって、彼女自身が、超巨大(超ロング?)新聞ドレスを纏う新聞女という作品として完成するのだ。巨大なスカートはその真下にたくさんの人を含み込むことができ、人々はここでもやはり、下から新聞女のスカートを堂々と覗くことになる。風の噂やご本人の口から、新聞女が実は強度の高所恐怖症だという噓みたいな話を耳にした。あんなに格好よく、笑顔で新聞吹雪などを巻きながらぶら下がっていて、高所恐怖症とは何事だろうか。今回の2013年アーレンタウンでの初仕事もクレーンパフォーマンスであった。徹夜の作業。天気は大雪。遠足ではありませんので、悪天候決行。ご存知の通り新聞は水で強度を失い、簡単に破れてしまうはずである。地元メディアの取材陣、さらにはアーレンタウンの市長さんまでやってきた。亡き嶋本昭三に代わって上空に舞う新聞女に失敗は許されない。(参考、日々是ひめアート
パフォーマンスは地上から笑顔の大喝采を受けて真の大成功を収める。

「そのとき、不思議な感じがした。
いつもは上空の嶋本先生に下から拍手喝采していたのに、
その瞬間わたしがいつもの嶋本先生になって、地上のみんなを見ていた。」
(西澤)

アーレンタウンにおけるクレーンパフォーマンスの成功は、嶋本昭三研究所のメンバーおよび新聞女ズ、そして何より西澤みゆき自身にとって決定的に重要な意味を持つこととなる。

 

新聞女は明日、明後日も(4月30日ー5月2日)高の原AEON MALLに現れる!
(リンク http://www.aeon.jp/sc/takanohara/event/
・5月1日(水)
13:00~岡田絵里 はし袋でパレードしよう
15:00~新聞アーティストと一緒に新聞ドレスで館内パレード
・5月2日(木)
13:00~八木智弘 自分だけのミサンガ作り
15:00~巨大新聞こいのぼりを作ってトンネル遊び
場所:2F 平安コート他

 

「新聞女論 vol.3 西澤みゆき – 新聞女はその踊りを醒めない夢の中で踊る。」もお楽しみに!

04/29/13

新聞女論 vol.1 新聞女@グッゲンハイム美術館 – 新聞は纏うとあったかい。/Newspaper woman @guggenheim museum

本記事は、これより第三弾に渡る新聞女レポート&新聞女論の第一弾、 新聞女論 vol.1「新聞女@グッゲンハイム美術館- 新聞は纏うとあったかい。」です。

 

Newspaper Woman wearing  Shozo Shimamoto's painting

Newspaper Woman wearing Shozo Shimamoto’s painting

神様の偏西風が逆向きに吹いて、全く訳の分からないまま、私を乗せた飛行機はぐいぐいとニューヨークに引っ張られ、私がグッゲンハイム美術館の裏口に侵入したのは、19時半すぎ。「新聞女パフォーマンス@グッゲンハイム美術館 in NY」(Art after Dark, site )の開始時間の1時間以上前だ。本来JFK空港着予定が19時55分で、そこからうまく渋滞がなかったとしても、美術館に着くのは22時近くなりそうだったのだ。ミステリーである。私はその前日も飛行機でも寝ておらず神様の追い風のせいで頭の芯がしびれており、図々しいとはもちろん思いながら、準備中で確実に大忙しの西澤みゆきさん(新聞女, 新聞女HP)にコールしてもらった。新聞女はまだ新聞を纏っておらず、白いぴたっとしたカットソーを着ていた。彼女は私が着いたのを喜んでくれ、私はとてもわくわくし、三日分の荷物を詰めたちっちゃいスーツケースを引きずって、彼女が手伝わせてくださるという制作の現場にひょこひょことついていった。


kobe, 2012

kobe, 2012

私が新聞女パフォーマンスに出会ったのは昨年、2012年5月12日に神戸ファッションミュージアムで行われた記号学会においてである。小野原教子さんが実行委員長をされた『日本記号学会第32回大会 「着る、纏う、装う/脱ぐ」』(JASS HP)の学会第一日目、アーティスト「新聞女」が現れて、たくさんの研究者とか大学の先生とか学生さんで溢れる学会の会場がたちまち新聞で覆い尽くした。彼女は台の上で新聞一枚でぐるりと回りを覆われながら、そのなかで、全部脱いで、裸になって、ドレスを纏った。
(記号学会でのパフォーマンスの写真やコメントは以下ブログ うきうきすることが起こった。日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。Part1

after the performance, kobe, 2012

after the performance, kobe, 2012

ダンサーの飯田あやさんらによる新聞の舞にうっとりしている間に、周りの大人たちが笑顔で新聞だらけになっていく。みんなが楽しそうに、「私にもぜひ新聞巻き付けてくれ」と遠くにいた人たちもどんどん新聞女のほうに吸い寄せられていく。新聞の海のヴォリュームの中からわき上がるように高く高く登って、いつの間にかデコルテのロングドレスにエレガントな日傘を携えたの超笑顔の女が頂に姿を現し、パフォーマンスは完成した。纏った新聞はあったかくて私はとても幸福だった。彼女のパフォーマンスに初めて取り込まれた日のことだ。

 

グッゲンハイム美術館から直々のインヴィテーション。新聞女と新聞女ズ、そしてAU(Art Unidentified)の一団はニューヨークの郊外アーレンタウンを拠点に2013年2月初頭にアメリカに渡り、そこでFUSE Art Infrastructureの支援を得て寝食を共にしながら、 »Lollipop »(lollipop itinerary)という一連の企画でアーレンタウンとニューヨークで連日制作発表の多忙且つアーティスティックな日々を送っていた。グッゲンハイム美術館からのパフォーマンス依頼が届いたのは、彼女の最愛の師匠嶋本昭三さんが亡くなったその瞬間であったということを知る。全ては、小さな人間には手の届かない遥かに大きな「なにか」にうごかされた運命なのである。彼女たち数名は意を決して帰りの飛行機チケットをどぶに捨て、来る3月9日夜、嶋本ミーム*を共有する者たちのエネルギーでグッゲンハイム美術館を新聞で覆い尽くすことを誓ったのであった。私は突然の渡米を決めた。私はアメリカに行ったことが無い。自分がアメリカに行くというのはとても不思議に思えた。京都からは吉岡洋さんが具体と新聞女についてのインタビューを受けたりするため渡米する予定で、私もいっしょに新聞女のパフォーマンスを体験することにした。この記念すべきパフォーマンスのために、仙台の中本誠司美術館は嶋本氏の作品を西澤みゆきがグッゲンハイムのスロープで衣装として纏うことを許可し、当美術館からも当パフォーマンスへの協力者がかけつけ、ユタ州からは元新聞女ズの強力な助けがあり、フロアに設置された巨大新聞と新聞女号外の制作者やニューヨーク在住の知人協力者、そしてもちろん一ヶ月間連日制作発表を共にしてきた新聞女ズの中心に、笑顔で皆を率いる新聞女の姿があった。新聞女は、笑っている。舞台裏で制作に汗を流す仲間たちに指示を出し、自らも運び、走り、彼女のエネルギーがそれが遠くにいても感じられたりするなにかであるようにまばゆかった。

wearing her beautiful dress made of Shinbun

wearing her beautiful dress made of Shinbun

 

舞台裏にはたくさんの仲間たちがさすがはプロの手早さで作業をしており、私なんかが急に邪魔しにやってきて説明していただく時間や労力を割いてもらうのすら恐縮だったので、見よう見まねで出来るだけ頑張った後はジャーナリストに徹して写真を撮りまくろう(つまりサボり!)とひとり決意し、それでも教えていただきながら皆さんの巧みな新聞さばき/はさみさばき/ガムテープさばきを盗み見しながら、作品のほんの一部だけ制作に貢献した(ような気もする)。それぞれの分担作業に取りかかる前に、ボス新聞女から皆にパフォーマンスの段取りの説明があった。このパフォーマンスはなんと、21時から24時までの3時間持久レース、幕開けはPlease walk under hereの裾が30mにも及ぶレースでできた新聞ドレスでの登場。その後グッゲンハイムの名物スロープを利用して様々な新聞コスチュームを纏ったパフォーマーがヴィジターを巻き込んでパレードする、パレードが終わるとフロアでは巨大テディベアがどんどんその実態をあらわし、その傍らシュレッダーされたモサモサの新聞を生やしたニュースペーパー•モンスターがそれをフサフサさせながら踊る。フロアにいる人は、演歌や新聞女のテーマというジャパン的BGMに乗って「半額」とか「30円」のレッテルをぺたぺたくっつけられながらそこにいるだけで面白くなってしまう。そして、スロープには大きな「gutai」の文字をバックに嶋本昭三作品をエレガントに纏う、みゆきさんの姿が…。

Newspaper Woman's newspaper, special edition

Newspaper Woman’s newspaper, special edition

 

Princess !

Princess !



フルで3時間続くパフォーマンスなんて、いったいどんな体力であろう。しかも彼女らは連日の制作•発表•制作•パフォーマンスの多忙の中で寝ずに今日の日に突入しているという。フロアは入場者で満たされていく。Please walk under here ! の長い裾を皆で丁寧に支え、スタンバイ状態に入る。ああ、なんて、皆を巻き込むパフォーマンスはただひたすらにワクワクし、そこに存在するだけで楽しいのだろう。Please walk under here ! は新聞女の師匠、嶋本昭三氏の「この上を歩いてください」(Please walk on here, 1955)のオマージュである。女の子のスカートの下(というか中?)を歩く。めくり上げられたスカートの内側をあなたは堂々と歩いてよい。その長い長いスカートの裾はとても繊細なレース模様が施されており、それをばっさばっさまくり上げながら、観客であるあなたは中に取り込まれるのだ。盛大なスカートめくりであり、あなたはそれを覗く者となる。

"Please walk under here" goes on

« Please walk under here » goes on

Newspaper Woman appears in public !

Newspaper Woman appears in public !

with 1000 visitors

with 1000 visitors

fantastic !

fantastic !

パレードでは写真家のヤマモトヨシコさんが撮影された素晴らしい作品がパネルとして掲げられ、新聞女と新聞ドレスを着た女たち、そして巨大ジャケットを着た普通のサイズの人たちが練り歩く。このデカジャケのコンセプトは「着てたのしい、見てたのしい」。ファッション科出身の西澤みゆきの手にかかりジャケットは新聞と言えどきちんと裁断され、(巨人使用だけど)リアルな洋服の作りとなっている。着るととにかく面白いこのジャケットは「吉岡洋が着てもアホに見えるところがポイント」だとかなんとか。このジャケットを着て改めて思ったのだが、新聞は普通の服や紙より明らかにあたたかい。それがただ何枚も重ねられたり文字が印刷されているためだけでなく、新聞女とその仲間たちが創り出すそのものたちは、纏うととてもあたたかい。

Yoshiko Yamamoto's picture works

Yoshiko Yamamoto’s picture works

in her famous giant jacket, Parade

in her famous giant jacket, Parade

Half price

Half price

 

これらの大量の新聞は、アーレンタウンで彼女らの活動を支援したFUSE Art InfrastructureのLolipop Co-Directorでアーティストのグレゴリー•コーツが現地で入手してくれたものだそうだ。素晴らしいディテールのレースのドレスも、労力を要求するシュレッダー•モンスターのコスチュームも、可愛い巨大テディベアも、その一夜限りのニュースペーパー•ドリームを演出するために生み出され、そして、処分される。新聞女の作品はダイナミックで、パフォーマンスはエネルギーに満ちている。それらが全て撤収されて、片付けられて、元の世界が舞い戻ってくるような瞬間は、なんだか奇妙にすら感じられる。しかしそこには、たとえば夏が終わったときのような哀愁や寂しさは漂わない。なぜなら、一度新聞女に出会った者はその日の出来事をもう二度と、忘れることが出来ないからだ。そのエネルギーは出会ったあなたの中に既に送り届けられ、それはより多くの人たちと「ハッピー」を共有するために、増殖を続けるのみである。

 

a big teddy bear after the performance

a big teddy bear after the performance

elegant lace dress after the performance

an elegant lace dress after the performance

「いま目の前にいるみんなが喜んでしあわせにいれるように。地球の誕生から様々な生命が繰り返されてきたように、その大きな生命体の一部として。作品は残らなくても、みんな(や地球)がニコニコはっぴーでいれることに貢献したい。」(西澤)

(グッゲンハイム美術館でのパフォーマンス、その他の写真はこちら
*嶋本ミーム ミーム(meme)とは人から人へと行動や考え方を伝達する文化的遺伝子のこと。京都ビエンナーレ(2003)では嶋本昭三と弟子の作品を集めた「嶋本昭三ミーム」展が開催された。

新聞女は明日から三日間(4月30日ー5月2日)、高の原AEON MALLに現れる。

(リンク http://www.aeon.jp/sc/takanohara/event/

日程 / 時間
・4月30日(火)
13:00~高田雄平 自分だけのブレスレット作り
15:00~新聞アーティストと一緒に巨大テディベア作り
・5月1日(水)
13:00~岡田絵里 はし袋でパレードしよう
15:00~新聞アーティストと一緒に新聞ドレスで館内パレード
・5月2日(木)
13:00~八木智弘 自分だけのミサンガ作り
15:00~巨大新聞こいのぼりを作ってトンネル遊び
場所:2F 平安コート他

 

「新聞女論  vol.2「アートは精神の解放」 – 裸のたましい、ハッピーを伝染する。」もお楽しみに。

 

02/25/13

梶村昌世 「物語は水の中へ」/ Masayo Kajimura, « folding stories into water »

梶村昌世さんは、 »二世 »としてベルリンに生まれ、ヴィデオアーティスト、パフォーマーとして国際的に活躍している現代アーティストである。彼女の両親がベルリンに移住し、梶村さんはドイツで生れ、そこで育ち、学んだ。展覧会やパフォーマンスなどの活動を除いて彼女が日本に住んで生活したのは、2005-2006年の岐阜県のIAMAS(Institute of Advanced Media Arts and Sceince/イアマス)で学んだ一年間である。彼女はこの一年間の日本での生活の間の制作を2006年にベルリンに帰国した後の5月にSolo Exhibition « One Year Japan » において、 »genjitsushinkiro »を含む3本の映画作品を発表している。(こちらでプログラムが確認いただけます。) そうした生い立ちから、日本はいつもその外側から見つめるべき存在であるという。しかし一方で、両親や家族を生み育て、彼らの文化や思想やそのほかのすべてを育んだ国としての日本は、自分自身もその内側に含める。梶村さんは、外部の者の視線で外側から日本を見つめると同時に、自分も内包されながら内側からも見つめることができる特殊なスタンドポイントをもってアーティストとして表現活動を行ってこられた。彼女のこの、自主選択に拠らない、産み落とされた瞬間付与されたとも言える運命的なアイデンティティへの問いは、彼女の表現のなかに様々な色彩を帯びて浮かび上がってくる。

 

2013年1月9日、ENSAD(Ecole Nationale Supérieure des Arts Décoratifs)とパリ第8大学(Université Paris 8) の合同カンファレンスのプログラム »Cycle du Japon »という一連の企画の中で、梶村昌世さんを招待し、ご自身の制作や作品について講演していただいた。このブログでも先日アナウンスさせていただいた。 »Cycle du Japon »という企画は、私が所属するUniversité Paris 8(パリ第8大学)の Nouveaux Médias et Arts Contemporains(ニューメディアと現代アート)の教授であるJean-Louis Boissierが担当する2012-13年度の公開カンファレンスで、日本のメディアアートの現在を扱う企画である。このプログラムは、2011年に構想が始まり、メディアアートを巡るフランスにおける日本へ高い関心と、同分野関係者に結びつきが強い日本で2011年3月11日に起きた惨事、それに対してアート領域からどのようなアプローチが可能であるかを考えたいという意志により実現に至った。(私自身この企画と運営には構想時から関わらせていただき、思うこともあり(そのことにかんして)、日本でご活躍される多くの研究者の方々、アーティストの方々にも情報を頂いたりお越し頂くことを検討していただく等、ご協力を頂いた。そのご協力のお陰で当企画の実現に至ったことを心より感謝したい。)

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さて、1月の講演において、梶村さんは、これまでの制作活動を私たちに紹介すると同時に、彼女のもっとも重要なテーマとしての「 水」を、3.11および続くカタストロフィーを引き起こした異型の水としての津波にも結びつけながらより大きなコンテクストのなかへその問題を開いた。勿論これまでも、フランスメディア上で社会的あるいは政治的コンテクストで議論や報道がなされることは多々あった。しかし、日本のナショナルボーダーから飛び出して、この問題の深い部分を捉えながらそれでもなお積極的にコミットする意志を有するアーティストの活動はこれまでたくさんあったわけではない。それ勇気のいることだし、だからこそ、意味のあることだと私は思う。彼女の講演はとても印象的で素晴らしい内容を含んでいた。

 

この記事では、彼女が2010年から取り組んでいるAqua Ephemeraという作品について主に紹介させていただくこととし、このカンファレンスの全貌は、Observatoire des Nouveaux Médiasのサイト(こちら)にある当日の録画ビデオにてご覧頂きたい。英語での講演であるが、梶村さんのご快諾のおかげで、ビデオインスタレーション作品などの貴重なドキュメンタリー映像などもご覧になることが出来るので、ぜひぜひご覧頂ければと思う。

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さて、Aqua Ephemeraは水面下の音とそのイメージを、紙で作られた傘型の立体スクリーンに投影する、音響と映像のビデオインスタレーション作品である。作品は約10分、作曲家である宮内康乃さんとのコラボレーションで実現した。展示室の中はプロジェクションの光と水が作り出す音響で満たされていて、鑑賞者は自由に出入りでき、つまり作品を部分的に鑑賞することもでき、さらには傘のフォルムをしたスクリーンの回りを歩いて映し出された映像を好きなアングルから見ることができる。鑑賞する人に与えられた何にも縛られない動きは、あたかも作品を受け取る人々自身が、留まらず常に流れ続けている水とそれが含む命のありかたを再現しているかのようである。

 

2010年、ポルトガルのNodar Artist Residencyでの滞在中この作品は生まれた。アーティストレジデンスの近くを流れるPaiva川(Paiva River)の水の姿。川の水は澄んで極めて美しく、その水が育む生命の姿もまた視覚的にも聴覚的にも美的なものである。湖底に根を張る水草の姿や健康そうな小魚の群れ。あまりに透明な流れは、湖底から空を見上げたならば鳥たちが羽ばたいてゆくのをかくもありのままに映し出し、あるいは木々の高い位置で枝や葉が風に揺られているのが、流れ自身のゆらぎに強調される様を描き出す。連続しながらも変化する多様な水面下の音は、世界はとても音楽的に創造されていたということを改めて私たちに聞かせるかのようである。この作品は、Paiva川のみならず、氷が溶けたり、水滴が池に滴る音や映像、あるいは我々の身体が発する様々な音もまたそこに含んでいる。強かで透き通り、歌いながらきらめく水。我々はこれに魅了される。

 

しかし、次の瞬間、彼女が語るAqua Ephemeraをめぐる想い出に衝撃を受けずにはいられない。ポルトガル滞在中、この作品の公開が始まろうするちょうどその頃、奇しくも水の「美」に焦点を当てた作品を完成させて発表に至ったそのとき、日本での水を巡る甚大な被害が報告された。大地震、それに続く福島の原子炉での一連の事故を引き起した水の「暴力性」、すべてを押し流した津波。彼女のなかで、水は言うまでもなく様々な姿をもっていて、暴力的でも危険でもあり得ること、そして自然も生命も水の上に成り立っていること、そういったことは理性的にあるいは前提として当たり前でありながらも、この事件には深く心を動かされたと彼女は伝えた。

 

数千キロメートル離れた場所で、ある国の水が全てを押し流し、人間の生活に甚大な被害を与え、人間やその他の動物のたくさんの命を押し流した一方で、また別の場所では、川は昨日と一昨日と同じように流れ、魚たちは戯れて、子どもたちはその浅瀬で水面がキラキラするのを喜ぶ。これは世界の日常である。

 

ふと、水が奏でる音とは不思議なものだと思い直す。水の音は、自らが水に包まれている時にはなかなか水の音を冷静に聴けない。というのも、個人的な経験に基づくが、自分が水の中に潜っている時というのは鼓膜にやってくる圧力のせいか、自分の身体のなかの音を聞いているような錯覚に陥るのである。あるいはその状況こそが水の音を聴く行為であるのか私には解らないのだが、耳のなかの音や、もっと深いところの、心臓の鼓動とか血液が巡る音などが自分の鼓膜に帰ってきて、それを自分の聴神経で受け止めているのではないか、と感じるのだ。だから、私自身は、水の音を自分が水の中で耳にしたことがあまりないように感じてならないのだが、Aqua Ephemeraを聴くと、異なる状況の水の音は自分を圧迫することも怖がらせることもなく、とても心地よく広がっていく感じがする。したがって、Aqua Ephemeraで奏でる水の音とイメージは、そんな兼ねてからの疑問「水の中で聴いたあの音は、自分の身体の中から来るのか、それとも本当に身体の外側にある水の音なのか」という問いは、どちらともつかなくてもよく、むしろどちらでもないということを教えてくれ、私を安心させてくれた。そもそも、水は流れてとどまらず、どこにでもありどこにでもゆく。私たちの身体も七割くらいが水で満たされており、それは、私たちの記憶をそのなかに含めて、流れていく。彼女によれば、それが水の本質である。彼女は自分のもっとも大切なテーマである「水」をそのように明瞭に語るときの彼女の視線はとても素敵だ。

 

ひとたび流れる水に乱れが訪れた後、静寂が戻ってくる。そしてそれは少しずつとても優しく浮かび上がってくる。おそらくポルトガル語で歌い上げられる教会の賛美歌とオルガンの伴奏の響き。この場面の転換は秀逸だ。さらに秀逸なのは、ずっと遠くから聞こえてきた音楽が、また少しずつ先ほどの水面下の音と混ざあうのだが、それは異なるものが混ざっているのではなくて、それはもともと一つであったのではないかと思えるほど自然なのである。私は西洋の宗教音楽ととりわけオルガンという楽器に特別な思い入れがあり、教会で奏でられる宗教音楽には信仰や教義をそっちのけにしてもなお絶対的な赦しの存在を彷彿とさせる何かが潜んでいると感じている。つまり無条件に神様に救われるようなアガペーの象徴みたいなモノなのであり、オルガンという楽器は不完全な人間が神様の絶対性と威厳を無理に真似ようとした努力の結晶みたいないびつな名楽器なのである。子どもたちの歌声とオルガンのハーモニーは、水の音をその中に含めることでより完全なポリフォニーとなり、そうしているうちに、その解釈は実は間違いで、つまり、賛美歌に水の音が混ざったのではなく、それらが水の中から生まれてそこに戻ったということを描き出すようにこの作品は作られている。傘型のスクリーンは流れを移し続け、子どもたちの響きはその中に少しずつ吸収されていく。決して怖がらせることのないように、あたたかく包み込むよう。真っ白な傘がその中にすべてを吸収してしまったところで静寂にもどって、この作品は幕を下ろす。最後にかすかに耳にのこるのは水の呼吸であり、水の呼吸とはすなわち生命の全ての呼吸を意味する。

 

この作品は上述したように、Paiva川の水面下の音や映像をベースに制作されているが、断片的に多くのイメージや音楽がその中に溶けている。 »folding stories into the water », 彼女が本カンファレンスにつけてくれたタイトルである。
水はきっと、いつかは亡びてしまう私たちのかわりに私たちの記憶を持ち去るのだ。そんなふうに思った。

 

クリアーな作品コンセプト、会ってすぐにそれが解った。私が強い印象を受けた別の作品に、Envelopeという彼女の初期ビデオ作品(2002)がある。「ときどき、私たちが記憶と呼ぶものと想像と呼ぶものははっきりと区別できない。」«But sometimes what we call ‘memory’ and what we call ‘imagination’ are not so easely distinguished.»
このビデオ作品はカナダのLil’watという原住民族のドキュメンタリーを含んでおり、彼らが伝統的にどのように鮭を大切に食し、彼らとの共存の中で生きてきたか、彼らの記憶を伝える口頭伝承(storytelling)を記録した作品。鮭の血抜きや幾つかのシーンがあまりにも鮮やかに美しくたちまち魅了される。この作品は、彼女の生い立ちにも触れる問題意識を含んでいる。つまり、より強い支配者によってマイノリティーとなった原住民族たちは彼ら祖先の教えを口頭伝承で伝えることによって命の記憶としての物語を守り続けていくのだが、「移民」としてドイツに生きることは、ディアスポラの経験を体現し、他者性を生きることでもある。彼女はそのことを、多重的に異なる空間、時間のイメージを重ね合わせ、それらをしかしながらリアリティとして関連させることによって自らのアイデンティティに向き合っている。

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最近では、2012年から、ダンサーで演出家である 伊達麻衣子さんとのコラボレーション作品で、Between Islandsを制作、発表されている。上述のサイトodnmでその一部をご覧頂ける。さらに、梶村さんは3月日本に滞在予定で、パフォーマンスをされるとのことである。

詳しくは、サラヴァ東京のサイトでご確認いただきたい。
(パフォーマンス日程詳細)
2013年3月20日 15時および19時開演

参考
Masayo Kajimura : http://artnews.org/artist.php?i=4227
Paivascapes #1 : http://www.paivascapes.org/en/participantes/artistas-residentes/yasuno-miyauchi-masayo-kajimura
Observatoire des Nouveaux Médias : http://www.arpla.fr/odnm/?page_id=13040

12/31/12

月子

月子

 

個人的なことを書きます。私自身のことであり、別の誰かのことでもあり、むしろ私とそのもう一人の人についてのお話をしようと思います。今から書くことはしたがって、本当の話のようでもあり、私の記憶がしばしばそうであるように、曖昧で朦朧としたものであるために、知らないことを書こうとするがために作り話のようでもある、そんなとりとめのないものです。

 

私には高校の時、部活動で多くの経験を共にすごしたかけがえのない友人とは別に、15歳から18歳という人生の中で少しだけ特別な時間において精神的な交流を交わしていた友人がふたりいます。ふたりはそれぞれ、私にとっては全然違う性格や趣味や関心を持っており、家族との関係やほかの友人達との対峙の仕方もまったくちがっているように思えました。私たちはみんなちがっていたけれど三人でよく一緒に過ごしました。

 

彼女らの持っている世界は私の知らないことに満ちていたし、私の考えていた思考も必ずしも同意が得られるわけではなかったが、私たちはときどき、不必要に拡張高い文体でハイソな主題を持ち寄って「交換日記」のようなものを通してお互いの思考を読み合ったり、その間私たち三人の輪郭に外在する空間で何が起こっていたかということがほぼ意識されないくらい、議論に没頭することもありました。そのときに語られたことは、哲学の詳しい知識がなにもなかった私には言葉遊びのようにも聴こえたし、退廃的な思想には必ずしも賛同できないままそのうちのひとりの語る内容を消化不良でのみ込んでいることもありました。交換日記なんていうと可愛らしいですが、今思えば、あんな可愛くない交換日記が2000年の札幌の女子高生によってこつこつ付けられていたなんて、そのこと自体が可愛らしいことだとも言えます。

 

そのうちの一人はものすごく学校の成績が良い人で、ちなみに私も相対的にとてもよかったと言えますが、彼女は理系で、もう一人の友人は数学が大嫌いで、モノを書くセンスが素晴らしく、思想に詳しく、典型的な文系でした。わたしは非常に中途半端だったので数学もサイエンスも好きでしたが、なんとなく文系でした。理系の彼女は医学部に進学して医者になり、文系の彼女は文学部に進学しました。私は一年浪人して京都大学の、やはり文学部に進学しました。

 

二人は北海道におり、私はここを離れました。

 

私たちは時々会い、近況を話しました。私たちは離れて半年ぶりに会っても、一年ぶりに会っても、こんな言い方はおかしいのかもしれませんが、何も変わらないようでした。何も変わらないというのは、私たちを取り巻く環境や直面する問題や、生きていること、生きていくことへの漠然とした期待や不安が具体的なレベルで移り変わって行ったとしても、そのことよりももっと深いところにある何か大きな部分は私とその人の関係においてゆがんだりしないという直観です。そしてこのことはある程度ほんとうでありました。

 

医者になった彼女とは今でも表面的に形を変えながらしかしいつも私は彼女の人生のことを応援しているし味方しています。

 

ちがう大学でしたが、文学部に私よりも一年早く進学し、おそらくは先生になるために勉強していた友人にはもう会えなくなりました。彼女の送ってくるメールや書くものや口語で話しているときですら何かひっかかってくるような特別な感じが私はとても好きであり、それがもう発見できなくなってしまったことは、存在の喪失感というよりもむしろ自分が生き続けるためのモチベーションを失うこととか、世界に対する絶望感とか、そういうけだるくてしかし取り払うことの出来ない、また、全く取り払いたくもない身体的感覚をもたらすものでした。

 

ある類いの小説を読んだり、ふと一人で札幌の街を歩いたり、あるいは昔自分が書いていたものを読もうとするときなどには、彼女がそこにいるような気がします。彼女の言葉感覚が、自分の中に入ってくるように感じる瞬間があります。そんなことは勘違いかもしれないし妄想かもしれません。ただ、そう感じる、というだけのことなので。

 

私がこれからも生きていて、必要な食物を摂取するおかげで活動するためのエネルギーがあって、何かを書いたり考えたりできるための体系的な思考力が与えられるのだとすれば、私には書きたいものがたくさんあります。それは私の意志であるかどうかさだかではないことだが、逆説的なことだが何年も経った後に今はそのことが、死なないためのモチベーションの一つになるということを理屈でなく感覚として感じることができるのは、たしかに、すこしだけしあわせなことであるように、いまここにある私の身体と頭は思うようなのです。