01/2/14

みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術@栃木美/ Expo : Touch is Love @Tochigi

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]
栃木県立美術館 Web

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栃木県に行ったことが無かった。東京からは鈍行でも二時間ほどで栃木県立美術館まで行けそうだということが分かると、どうしても、栃木県立美術館で開催中であった[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]展を訪れたくてたまらなくなった。きっかけは、写真家の糸井潤さんからいただいたアナウンスメールであった。糸井さんは写真家で、2012年に小山私立車屋美術館で開催された個展『Cantos Familia』や昨年1月に国立新美術館にて開催された『第15回 Domani•明日展 』において、フィンランドの森で撮影された写真作品を発表している。私はフィンランドの森を見たことがない。その空気の冷たさも、木々の硬さや枝の細さも、雲がどのように流れ、雪の粒はどれほどに細かいのかを知らない。展覧会は12月23日までで、数日関東に滞在していた私は、その日の朝、宇都宮行きの鈍行に乗った。

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]というテーマには惹かれる。美術展が、あるいは美術そのものが、近くからも遠くからもとにかく「凝視するもの」になって久しい。触れてよいものは、デザインや素材の展示には登場しても、美術には滅多に現れない。あるいは、ゲームや一部のメディアアートのように、鑑賞者に決められた操作を要求する作品があり、規定されたオペレーションを遂行する場合はある。だが、時々はそんなつまらないものでない、ワクワクするような展示に出会うことがあり、そういったものを体験したかったのだ。

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栃木県立美術館は、JR宇都宮駅よりバスで15分ほどまっすぐ行ったところにある。企画展側の入り口は正面より左側、コレクション展の入り口が右側にある。入り口をすり抜けると、フクロウの群れが迎えてくれる。全力で石に触れている少年が見えて楽しくなる。手塚登久夫の黒御影石彫刻は、壁側に配置されたフクロウの群れと同じ、石材を切り出した後はほぼノミとハンマーだけで少しずつつくられた二羽のフクロウに触れることができる。御影石はご存知のように、花崗岩の一種で古くから石材として用いられてきた非常に緻密で固い素材の一つである。しばしば墓石などにも利用され、研磨されて光沢を帯びている黒御影石は、ここでは冷たく削り口を露にし、丸いヴォリュームのぎゅっと詰まった感触が手のひらから伝わってくる。

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また、栃木美保のインスタレーションでは、楠、檜、月桂樹の三種類の木々の香りを吸い込んで体験するものである。タイトル『結葉(むすびは)』は、インスタレーションに見られる布で作られた葉が重なり合って光を透過するように、若葉がひしめく様子を表している。

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松島さくら子は、漆工を学び、世界各国で創作を披露している。本展覧会では、undercurrentシリーズが展示され、あまり見たことの無い形をもった漆工作品の、その表面がどのように艶やかであるかということを目撃することができた。

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丸山浩二のフロッタージュ作品は、フロッタージュという技法そのものが体現する三次元的な奥行きが、完成した二次元の作品にも滲み出ている。簡単なフロッタージュが体験でき、近隣の小学生や中学生の作品が合わせて展示されているのも楽しい。

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糸井潤のCantos Familiaからの6枚の森の写真と、ビデオ作品 »Solitude'(5min)を目の当たりに、森の中を歩く。視覚情報から出発したはずの、ずっと北の、遠い森のイメージは、知っていることや知らないけれども思い描く風景と重なり合って、揺れ動き、そこにはやがて音があり、風の動きがあり、光と熱があり、森の感触がある。ビデオでは森の様々なシーンが、その森に混入し、ついには溶けようとする人間の鼓動とともに映し出される。

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丑久保健一の木のボールや、彫刻には触れたほうが良い。そこには触れることによる驚きと気づきがあるからである。

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岩本拓郎の水彩•油彩画には、光に関するタイトルがつけられている。たとえば写真は『生成—生まれる光/2012-W1』(部分)である。そこで画家は、ピグメントが化学反応を起こし、たとえば点滅したり、見る角度によって色が全く変わるような事態を引き起こそうとする。滲んで予想外の動きが時の中にそのまま固まった様子は、琥珀の中に閉じ込められた年老いた虫の羽に少し似ている。

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藤原彩人は、施釉陶の彫刻をつくる。写真は『揺れる男』(2013)のインスタレーションの様子である。誰にも似ていない、白くて光沢の在る頭部、それは風鈴のように揺らめく他の身体の部分を伴って、世界を漂っている。しかし彼らはその重くて硬い頭部のお陰で、結びつけられているのであり、自由ではない。また、『立像―雪は溶け、地に固まる』の三体の彫刻もよい。我々は雪よりも少しは長く生きるが、所詮、少しだけ沸き上がってきてぺたぺたと地を歩き、遠くに行ける気もするが、やはりいつかは死に絶えて、溶ける雪が地に戻るように、形を失うのだ。

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展覧会[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]は、そのわかりやすいキャプションや体験のための丁寧な説明から、おとなしく見るだけでなく、触り、嗅ぎ、聴きたい人々がたくさん訪れ、鑑賞を楽しんでいた。美術は触れえぬものであるという前提は、効力を失った呪文なのである。

01/2/14

唐仁原希「キミを知らない」/ Nozomi TOJINBARA Expo « Personne te connait » @Voice Gallery

唐仁原希 個展「キミを知らない」
2013年12月11日(水)~28日(土)
2014 年1月7日(火)~11日(土)
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『有毒女子通信』でもおなじみ、松尾恵さんがディレクターをされている、MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w で開催中の唐仁原さんの展覧会「キミを知らない」を訪れた。

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唐仁原希は、1984年生れ、京都市立芸術大学において油画を学び、今日、京都、東京のみならず、パリなどヨーロッパでも注目を集めるアーティストである。私も自分の授業で唐仁原さんの作品を紹介させて頂いたことがある。彼女が描く少女や少年たちは、しばしば、痛そうなほど目を大きく見開き、見る者に、瞼は裂け目であることを思い出させる。ケンタウロスや子鹿の半獣人のイメージ、運命を彷徨い続けるなめらかな人魚の少女たち、長く伸びた髪の毛が時を越えて延長し、反復され、増殖するような、強烈な印象。唐仁原希の描く「存在」たちは、弱そうに見えながら、彼らは彼ら自身が傷ついていることについて、世界に何の期待もしていないように見える。たとえばそれを優しくいたわってもらうことや、傷を癒してもらうこと、傷ついた心を慰めてもらうようなことを、世界に期待してはいない。彼ら/彼女らの大きな目は、艶やかな空洞で、それを見つめるあなたを見返してはいない。

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個展「キミを知らない」に一歩足を踏み入れると、画家のきめ細かく整い過ぎほどに洗練された色彩の表面と、圧倒されるまでの大きな画面を前に、かつて地図を片手に迷い込んだルーブル美術館の、見上げても捉えきれない巨大な部屋に所狭しと並べられた、素晴らしい額縁を伴った影の強い油画の群像を思い出す。

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ナポレオンの有名な肖像を思わせる『A Portrait of a Boy』(2013)には真っ白な肌にやはり真っ白なタイツを履いて、バネでビョンビョンゆれる玩具の白馬に股がる小さな王子が描かれている。白馬は元気に揺れ動き、金糸刺繍の豪奢な王子服を身につけた少年は、黒猫やマンガが床に在る赤絨毯の部屋で1804年に国民投票で皇帝に即位したナポレオンがヨーロッパの、いや、ユーラシアの明日を指し示めすあの絵のように、皮膚の薄い人差し指で向こう側を指している。少年は、ナポレオンより世界について多くを知っており、ナポレオンより少ないことを信じている。

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『秘密は話さないほうがいい』(2013)は、194.0cm×324.0cmの大画面に七人の少女と、子やぎを伴った少年、王子の肖像に登場した二匹の黒猫、そして、玩具の白馬と狼の黒い影がひしめく物語のような絵である。ベッドの上に立っている四人の少女はそれぞれおとぎ話のお姫様のようなドレスを纏い、かみあわない視線を投げ掛けており、隠れるようにベッドに腰掛ける少女は少年のほうを見つめている。真っ白な肌に充血した頬を持つ少年は警戒した様子で画面の右側の、我々に見えない部分を見つめており、マーメイドの少女はその透明な尾の中にわけられた足を持っている。そのベッドは本当は一人の少女が長い間横たわっており、その子は動くこともできず夢を見ることも無いのだが、もう何も見えなくなって真っ黒になった少女の思い出の中に、引き寄せられてやってきた子どもたちが次々と部屋を満たしているのではないか。その少女は最小限の動作で身を少し起こし、変化した空気の流れを静かに感じているのではないか。見る者は、この夢が覚める瞬間が、可能な限り遅くやってくることを、無力にも祈るだけなのである。

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唐仁原希の世界には、少女や少年が遊び、兎や黒猫、我々をおそらく傷つけない動物たちが歩き回る。そこには物語や神話があり、決して口にすべきでない秘密と、それを全ての後ろ側から影絵のように映し出さんとする鋭い力に支配されている。対照化された意味深なエンブレムや、真っ先に釘付けになる色彩と形状のメッセージを通り抜けて、全能でありながら形を持たない存在を感ずる。

それはつまり、あるべき影の不在とか、反射すべき光の乱れによって、世界の中に時々現れる何かに似ているのである。

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現在開催中の展覧会は、年始1月7日より再開、11日まで、於MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/wです。

唐仁原希 HP http://nozomitoujinbara.bambina.jp/f_page1.html
VOICE GALLERY http://www.voicegallery.org/exhibition_event.php

01/2/14

有毒女子通信 Vol.12 特集「食べないこと、とか」 Now On Sale / Toxic Girls Review vo.12

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有毒女子通信第12号が昨年12月20日に発行された。12号の特集は、「食べないこと、とか」である。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる、そのタイトルの通りキュートで高貴な批評誌で、初刊の2010年8月より、「体毛•陰毛」「体液と人生」「ところで、愛はあるのか?」他、これまで読んだことも聞いたこともないスゴい特集を毎回を社会に送り出し続けている。

私自身も「<小さな幸福>をめぐる物語」というタイトルで、第10号より毎回特集に関連するエッセイを連載させていただいている。例えば、特集「少女たちの行方」の第11号では、グラビア付き(?)エッセイ「ぱんつを売る少女」を、第10号「ところで、愛はあるのか?」では、「愛と施錠の物語」を掲載して頂いた。

さて、第12号のテーマは「食べないこと、とか」。似非不景気ムードを吹き飛ばす、クリスマス、年末年始、お正月の色鮮やかな大饗宴のなかで、「食べないこと、とか」と聞くと、「そうよね、そろそろダイエットよね」あるいは「ビオよね、菜食よね」などのパブリシティ的フレーズが脳裏を駆け抜けてゆきそうだが、『有毒女子通信』は、国の歴史も小さな社会の枠組みもぶち抜いて、生き物にとっての食に焦点を当て、そもそも人間の欲望に関して、それを望むことと満たすことの意味を議論する。私たちの生きる今日の社会が、どんなマジックで日々我々を目眩しさせているのか、これを読むと、考える。

第12号
巻頭文
特集「食べないこと、とか」 吉岡洋
鼎談「食べないこと、とか?」吉岡洋×松尾恵
批評「『ありあまるごちそう』あるいは »Le Marché de la Faim »」大久保美紀
エッセイ「〈食べない女〉の物語」大久保美紀
エッセイ「食べられないこと、とか」松尾恵

定価250円で好評販売中です。ヴォイス•ギャラリーあるいは吉岡洋さん、または、こちらのブログを通じてご連絡いただいても転送いたします。第10号より装丁も一新し、触れにくいほどに洗練されております。ぜひお手に取ってください。

有毒女子通信
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