02/20/12

Zani, artiste intéressée

Zaniというマケドニア出身のアーティストの作品が好きだ。Zaniは1989年にマケドニアの美術学校を卒業し、マケドニア国内でたくさんの展覧会やアートプロジェクトで仕事をした後、現在はロンドンに渡り生活している。パリでではCARRÉ D’ARTISTESというフランス各地に支部を持つギャラリーに所属し、このギャラリーのコンセプトである正方形の絵画を数多く制作している。

GALERIE CARRÉ D’ARTISTEじたい、多くの注目の現代アーティストの作品を扱う面白いギャラリーで、なんといってもの強みは同じフォルマの正方形絵画はすべて同じ価格で販売していることである。私が以前購入したのはそのうちの最も小さなフォルマで、10×10cmと15×15cmのもの。作家によっては一点ものであったり、シリーズ作品を出展している場合もあるが、すべてもちろんCertificat d’authenticité(証明書)が添付されている。取り扱いアーティストはバラエティに富んでおり、正方形というフォルマはモダンなインテリアや白い壁と相性が良いので、多くのアマチュアを魅了する潜在的なパワーをもっている。

さて、私はまだ実際のZani本人に会ったことは無い。彼女が作品を制作する際のマテリアルは、アクリル絵の具と珍しい画材のコンビネーションであることが多い。彼女が題材とするのは、人々の日常的な生活やどこにでもあるありふれた出来事。その一コマ一コマからインスピレーションを得たアーティストは、強く率直に鮮やかな色彩を伴って独特の世界を表現している。

次の作品は、「The butterfly’s pond」である。一人の女性が背を向けて池の渕に腰掛けている。遠く、女性の向こう側には白い家が並んで建っており、さらにその向こうには山が連なっているのが見える。女性は右腕を自分の頭にまわしており、ややうつむいている。手前にあるのは蝶とそして池の水だ。青い蝶は赤色の光と濃い色彩の球体の中に守られているように見え、実は女性が腰掛けているのは池の渕などではなく、その超をはらむ球体の上であるようにも見える。あるいはまた、女性の身体からその世界の中心が産み出されているかのような構図にも見て取ることができる。遠くに見える世界は妙に平坦で生気無く描かれていて、こちらで産み出される新しい鮮やかな世界と死んだような世界を対照的に描き出している。

the butterfly's pond, 15*15cm

私がいつも魅了されるのはこのアーティストの女性身体の表象である。率直に言うと、かたちそのものに強く惹き付けられる。背中から尻の部分にかかるカーブもその白いアクリル絵の具の質感もつうっとなぞられた背筋の一本のラインも、とても素敵だと思う。

そして、「Two women」は、私が数ヶ月前リールにあるCARÉE D’ARTISTESで購入したもう一つの小さな作品である。二人の女性が向かい合い、片方の女性がもう一人をうつむきながら抱き寄せている。二人の女性は茂みのような場所に立っており、そこには静かであるけれど身に染み入るような大粒の雨が降っている。

two women 1, 10*10cm

彼女のテクニックのなかで、下の層にさきに施された彩色が白のアクリル絵の具に寄って隠され、削られた部分においてのみ姿を見せるというのがよく使われる。二人の女性のお互いの身体が寄り添った部分には暖色が、外の世界に触れている互いの右半身には寒色が施されていて、けずられたボディラインがそれを明るみに出している。とてもシンプルだけれども、暖かい作品であるように思う。

彼女の所属ギャラリー、CARRÉ D’ARTISTEのサイトは以下、またZANIについての紹介ページも以下に添付した。
GALERIE CARRÉ D’ARTISTE
ZANI, ARTISTE

02/16/12

Jeff Wall展, White Cube in London

White CubeというロンドンのギャラリーでJeff Wallの展覧会が開かれていたので訪れた。White Cubeはロンドンの中心に位置するギャラリーで、これまでも何度か訪れたことがあった。一見見逃しそうなパッサージュの中を進んでいくと、まさにホワイトキューブ!と誰もが確信するギャラリーに出会える。

Jeff Wallの写真は何度か自分の目で見たことがあるはずだ。しかしどこで何をどのように見たのか思い出せない。おそらくイギリスとフランスで見たのだろうと思うのだが、中途半端に作家の名前や作品を知った気になっているとしばしばこういった信じられないことが起こる。作品を直に目にする行為とカタログやデジタルイメージで得た経験が無意識に混同しているのはとてもコワいことだ。

 

私が個人的にJeff Wallという写真家の活動について興味を持ち、カタログなどを見たり批評を読んだりするようになったのは、アメリカ人の批評家であるマイケル•フリードが2005年のパリ近代美術館 »Cahier »においてJeff Wallの作品について論じているということを知ってからのことである。マイケル•フリードはクレメント•グリーンバーグのモダニズム美術論を継承し、1960年代のアメリカにおける抽象表現主義の流れにあったジャクソン•ポロックやフランク•ステラの絵画作品、そしてアンソニー•カロの彫刻作品を擁護してきた。その一方で、ドナルド•ジャッドやロバート•モリスといったミニマリズムの芸術を「演劇的な要素を含むもの」として激しく非難してきた。

マイケル•フリードのクラッシックな主張によれば、「演劇的なものは芸術を堕落させてしまう」。(『芸術と客体性』)(1967)ここで批判された演劇性とは、作品経験の際の鑑賞者の身体を巻き込んだ演劇セットのような作品展示のあり方と、その経験に強いられる時間制であった。さらに、作品経験の本質が鑑賞者と場が関係を結ぶことのみによって成立している点のことである。フリードの理論は1960年代から現在という長い長い時を経る中で積み上げられ、変化もしてきているので、私なぞが短時間で語りうることではないので、今回は、フリードが美術における演劇性を批判的に考えていたという一言でやめておき、Jeff Wallの作品の話に入りたい。

Jeff Wallの写真はコンストラクテッド•フォト(構成された写真)である。一見自然なシーンを撮影したようであるが、実は何時間も何週間も時間をかけてよくよく構成されて、さらにはデジタル処理をほどこされ、モンタージュされて出来上がった写真である。『演劇性』とは「演劇的な性質」という意味であることからすれば、スナップショットのように偶然性を追求する写真に対して、しばしば綿密に演出されて、合成されて、よくシナリオが熟考されて、大きなフォルマで提示されて鑑賞者を引き止めてしまうJeff Wallの作品は「演劇的な」写真なのではないかと思ってしまいがちだが、先に述べた当のマイケル•フリードはJeff Wallの作品を高く評価する。このことについては、また別の機会に『演劇性』の定義とともに考えてみたい。

とにもかくにも今回、White Cube Galleryで紹介されたJeff Wall作品は大きく二つのシリーズに分けられる。一つ目はギャラリーのファーストフロアに展示された巨大な風景写真シリーズ、Siclly 2007である。

 

Ossuary headstone, 2007

ドキュメンタリー•ピクチャーズにカテゴライズされるこの作品は、墓石を取り巻く世界が刻々と年を取っていく時の流れを物語的に描いており、墓というもののもつ物質的な非永遠性と人の死の永遠的な事実をいわば対置することにより、つよいコントラストで描き出しているようにもみえる。えんじ色のタイルは剥がれ、その底から緑の草が芽吹いている。ちょうど上の方に見える別の墓石には一時的でその場しのぎでしかない非常に美しい花々が飾られている様がみえる。

Hillside near Ragusa, 2007

こちらは非常に大きな画面で構成された作品であり、ずっと向こうまで続いていく坂の向こう側は見えないが一番高くなっているところまでですら、かなりの距離があるのがわかる。丘の方に見える細かな石や手前に点々とした草花のひとつひとつが息をのむほどはっきりと写し取られている。

 

もう一つのシリーズは、New photographesというシリーズからの出品だ。あたかも日常生活における一コマを切り取ったようなシーン選択であるが、実は隅々まで綿密に計算され、演出され、準備され、合成されている。こちらからの作品を3つほど見てみよう。

Ivan Sayers, costume historian, lectures at the University Women's Club, 2009

1910年モノのイギリスの伝統的なドレスを身にまとった女性。写真はその瞬間に行われた出来事、その瞬間にそこに存在したものを記憶するが、この作品において、写真は過去と現在の間で混乱している。綿密なまでに過去の演出を施された現代写真は、もしそれが見抜けぬまでに完璧な出来映えで過去のものとして提示されたとき、一体何者になりうるだろうか。

Boy falls from tree, 2010

私がもっとも長い時間ぼーっと眺めていた作品がこちらだ。少年が木から落ちる、という作品名であり、その通り一人の少年が木から大胆に落ちている瞬間を劇的に記録した……というはずもなく、巧みに練られ、洗練された合成写真である。これを目にして考えていたことは、偶然の瞬間に潜む美を熱心に追求することで芸術活動を行っている写真家と、Jeff Wallのように計算され尽くした構成で物語を写し取っていく写真家の手法の違いについてである。前者の写真家が風景を撮影する写真家には圧倒的に多いのではないかと思うが、つまり、最高のオーロラの写真を撮るために何時間も何日もその待ちに待った瞬間を狙っている写真家がいる一方で、念入りに画面を構成し、イメージを合成し、色彩に手を加えてしまう写真家がいる。彼らはもちろん同じレースを走っているわけではないあまりに異なる手法を持っているが、普段我々が芸術を「作品」という単に我々の目の前に提示される結果として認識し、鑑賞していることを鑑みれば、このことは十分に興味深い違いであろう。

Boxing, 2011

さいごに、ボクシングをする少年を表現したこの作品もConstructed Photographesである。二人の少年の腕や身体のポジションはたしかに「本当の動き」という文脈を微妙に逸脱し、切り取られたかのようであり、不思議な印象を受ける。この印象が魅力でもあり、Jeff Wall作品の面白さなのだろうと感じる。

この展覧会は、2011年11月23日から2012年1月7日まで、ロンドンのWhite Cube Galleryにて開催された。すべての作品イメージは以下ギャラリーサイトからお借りした。

White Cube Gallery

02/9/12

Nomadという概念

Nomad/ノマドはギリシャ語のnomas(放牧中の家畜)を表す語幹から来た言葉であるらしい。現在でもノマドはもちろん「遊牧民」のことであるけれども、数年前から、「遊牧民のように生きる人たち」に対してもノマドとかノマド族といった表現が使われるようになった。昔からそういった比喩は存在したのかもしれないが、現代ちょっと特殊なニュアンスを込めて使われるようになったのである。

 

社会問題にもなった漫画喫茶難民とか家に帰らないで放浪する若者の生き方も、ノマドのカテゴリーに入る。一定の場所にとどまる安定した生き方ではなく、右から左へ、北から南へ、定まらずふらふらしているのがノマドの定義みたいな言い方。遊牧民は決して無計画にウロウロしているわけではないのだから、これは非常に失礼な気さえしてくる。

 

さらには、パラサイトシングルとかニートとかいう言葉で象徴されるように、若者の仕事に関する感覚が変化し、彼らの人生設計、すなわち家庭を持ち安定した生活を築いていくという理想も典型的なものではなくなってしまい、多くの人がふらふらするようになってきた。就職して、それを手放して転職して、結婚して、離婚して再婚して、今日人生はオープンに自由になってきたようにすら語られている。こういったこともノマド的要素であるようだ。

 

さらには、2010年8月に出版されたflick!というガジェット特集を組んでいる雑誌の中で、Nomad Working Styleというかっこいい仕事スタイルが松村太郎によって紹介されている。現在だれもがかっこいいと思っている、クラウドとシェアを有効に利用した場所にしばられない仕事スタイルのことだそうだ。(松村氏はDeleuze Gillesが »Mille Plateaux »のなかで提唱した »nomadologie »という概念を参照している)

また、メディア関連で多数本を出している佐々木俊尚の『ノマドワーキングのすすめ〜仕事をするのにオフィスはいらない』のなかでも、デバイスを効果的に使って、身軽に自由に働くスタイルが現代的でかっこいいと賞賛されている。たくさんの本や重いパソコンを持って会社に行って仕事をするのではなく、スタイリッシュなiPadと最小限のBluetoothで、データはすべてクラウドで管理し、どこにいても仕事ができるというあれである。

 

小学生の頃、国語の授業でことわざを習ったとき、[転がる石に苔は生えぬ]の意味について、二通りあると教わった。
1 いつもちょろちょろと動き回っている人は、じっくりと何かを習得することがない。
2 いつも動き回っている人は、身軽で余計なものを身につけていない。

1が本来の意味で、2が時代の変化の中で誤解から生じた新しい意味なのだそうだ。1において、苔はじっくりと身を据え置いていなければ身につけることのできない重みのあるものをさしている。苔が日本の庭を象徴する繊細で風情のあるものであること、そして、じっくり落ち着いて取り組むことによってこそ物事を習得できるというのは、日本らしい精神論であるように感じられる。それに対して、2において、苔は余計なもの、やっかいなものと捉えられており、動き回っている方がよいという新しい価値観に支えられた解釈が見られる。

近年ノマドという言葉を聞くたびに、そして自分がまさに色々な意味でいわゆるノマド的生活を送っているという事実を意識するたびに、小学生のとき教わったこのことわざの意味変化について思う。現代の人が、このことわざの意味を知らずに聞いたならば、ほぼ9割型、苔なんかつけない方がいいと思うのではないだろうか。マイホーム、マイカー、大きなテレビや食器棚、立派な家具に、ピアノ。持ってても大変である。人数分欲しいのはパソコンくらいである。車ですらシェアがかっこいい世の中になってきて、そういう「かっこいい」がメディアによって強制的に浸透させられている。

 

たしかに私たちは身軽になったのかもしれない。自由になったのかもしれない。何も持っていないと、そうか、何も必要なかったのか、ということに気がつく。家中を埋め尽くす本棚と本を所有し続けなくても、アマゾンで注文すれば明日届くし、図書館に行けばすぐに読むことができる。クローゼットにおさまりきらない素敵な洋服をコレクションしなくても、今年の冬の流行を安く購入し、着回せばよいのだし、古着屋も洋服のレンタル屋もあるので飽きたら売れば良い。新聞や雑誌を購入して情報を収集しなくたって、インターネットで検索すれば良い。

 

私たちは、身軽で、そして自由に、ウェブ上を歩き回る。手紙を書かないけどメールをするし、電話はおっくうなのでメッセージのやり取りをする。言いたいことは掲示板に書き、友人との会話はツイッターかFacebookですませ、プライベートな写真を公開し、思いつくことをブログに綴る。その繰り返しである。私たちの日々ウェブ上に残す形跡は膨大である。データがかさばらないと思ったら嘘である。
私たちは何も持っていないかもしれないが、日々たくさんのテキストをウェブ上に残し続け、イメージをアップし続けている。すべての記録が保存され、たわいないやりとりも、心が重くなるような会話も消えてはいない。私たちは、自分の記憶よりもずっと物質的で絶対的な記憶によって取り憑かれてしまう人生を生きている。

 

転がりながら苔なぞつけないはずであった身軽な石は、そもそも転がることなんかできない泥の中でふと我に返るかもしれないのだ。

02/6/12

Chiharu Shiota « Infinity »

Chiharu Shiota
« Infinity »
2012年1月7日〜2月18日
Galerie Daniel Templon, Paris

塩田千春の »Infinity »がパリで見られる。Centre Pompidouよりすぐのギャラリー、ダニエル•タンプロンにて2月18日までの展示が予定されている。塩田千春は現在ベルリンで活動するアーティストであり、パリでは2011年にメゾン•ルージュにおいて »home of memory »のインスタレーションを行っている。その際には、大きなドレスと部屋中に張り巡らされた黒い糸、そして400個のスーツケース作品が展示されていた。

maison rouge, home of memory
(アーティストインタビュービデオも見られる)

インタビューでも述べているように、彼女が表現の主題とするのは、不在の記憶、マテリアルが語るぬくもりや想い出、生や死や人間の感情の繊細さや普遍性であろう。つり下げられたドレスは、もうその場には居ない袖を通した人間の存在を想起させる。400個のスーツケースにはひとつひとつにそれぞれの人の旅の想い出が込められており、持ち主を失って空っぽにされて展示された400個のスーツケースは、400人の人々が過ごした旅の記憶を静かに語る巨大なアーカイブとして現れる。

塩田千春は、糸をマテリアルとして使用するアーティストである。糸は、結んだり、張ったり、切ったり、編んだりすることができ、彼女は、糸というマテリアルのこれらの性質について、人のさまざまな感情を移す鏡として認識している。

黒い糸で張り巡らされた部屋は、古い家にごく自然に時間が流れていき、そこに住んでいた人ももう居なくなってしまったけれど、その記憶とともに取り残されてしまった部屋という印象を与える。誰もおらず、何も無いのに、気配を感じざるを得ないような、強い印象を見る者にもたらす。

一方で赤い糸は全く別の印象だ。2008年、国立国際美術館で行われたインスタレーション作品『大陸を越えて』では、遺品を含む2000足の靴を赤い毛糸に結びつけた迫力ある展示を行っている。靴を使った作品では2004年の『DNAからの対話』があるが、『大陸を越えて』においては、2000足の靴それぞれに対して持ち主の靴への思い入れを綴った手紙が結びつけられているために、よりいっそう人々の思い出の集積を印象深く表現している。

Over the Continents, 2008, shoes, wool, yarn

ART IT 塩田千春インタビューより借用

 

さて、現在パリで行われているインスタレーションは、 »Infinity »、ギャラリーの空間をそのまま彼女のマテリアルである黒い糸で覆い尽くしてしまった。

古い家の不気味な蜘蛛の巣であるようで、繊細に張り巡らされた黒い糸は不気味でありながら美しく、蜘蛛の巣の中に静かに輝く3つの電球が床や壁に神秘的なまでにきめ細やかな影をつくりだしている。

3つのランプのうちの一つが他の2つのランプに対してリズムを与えているのだそうだ。ランプの点灯のリズムは、ランダムであるようにも感じられるし、言われてみればインタラクティブであるようにも見える。心臓の鼓動や脈拍が静かに空間全体にリズムを与えるかのよう。あるいは静寂の中で繰り返される呼吸であるのかもしれない。

もう一点今回展示されていた『トラウマ』という作品。これは2007年に東京のケンジタキギャラリーにおける個展『トラウマ/日常』で展示された立体作品、子どもの純白のドレスや靴といったオブジェが非常に細い黒い糸によって宙づりにされ、絡み付けられ、束縛されている。糸自体は細くてもろい存在であるのに、無数に何重にも絡み付いた糸は純白のドレス、そしてそこに秘められた記憶をその中に拘束し、そこから自由になることを許さない。

ギャラリーの一室をまるまる黒い糸で覆い尽くすインスタレーションは作家自身にとアシスタントによって3日がかりで制作されたそうだ。3つのランプが代わる代わる静かに点灯する様子をながめていると、蜘蛛の巣のような不気味な印象が遠のいてゆき、なにやら懐かしい気持ちになってくる、不思議な空間がそこにある。

02/3/12

BASELITZ SCULPTEUR

BASELITZ SCULPTEUR
30 sep 2011 – 29 janvier 2012
Musée d’Art Moderne de la Ville de Paris

ゲオルグ•バゼリッツは旧東ドイツ生れ、バゼリッツは彼の出身地の名前で、本名はハンス。彼の「逆さま絵画」はどこかで見かけたことがあるのではないだろうか。画家としてのバゼリッツは、西洋伝統的絵画における慣習的パースペクティブやモチーフの意味、義務づけられた解釈を拒否して新たな形態の捉え方を模索してきた。
絵画において、人物や風景の上下を逆さにするという手法は、既存の対象の知覚方法に対する挑戦であり、この画家の強い意志は彫刻の制作においても貫かれている。

Baselitz, Self-Portrait 1, 1996

こちらは、東京国立近代美術館で2008年1月18日〜3月9日まで開催された「わたしいまめまいしたわーー現代美術にみる自己と他者」展において私が出会ったバゼリッツの作品である。
わたしいまめまいしたわ 東京国立近代美術館

kaimuckentempel, 2010

そしてこちらが、その3年後にロンドンに短期滞在した際にWhite Cube Galleryでの展覧会でお目にかかった、やはり逆さまの作品。エーグルとパイオニアの狭間に。
Between Eagles and Pioneers at White Cube gallery

初めてこれらの作品を目にした際は戸惑った。確かに逆さまなのだが、どうして逆さまなのか、だからなんなのかわからないからである。そして大きなフォルマの逆さま絵画に囲まれてギャラリーをぐるぐるしていると、この大きな逆さまなものに対して本当に私たちが正しく立っていて絵画がひっくり返っているのかどうか、仕舞にはわからなくなってしまいかねない。そこにははっきりとした転覆があるのだ。

今回パリ市立近代美術館で行われた展覧会は、バセリッツの彫刻に注目するという珍しい企画。このように絵画において「逆さま手法」で人々をはっとさせたバセリッツはこれまで40数点の巨大な木彫刻を制作しており、今回はそのほとんどが一挙に集められて展示された。バゼリッツはここでも、現代彫刻のランガージュを覆して我々に突きつけるのだ。

既存のパースペクティブへの挑戦という変わらない戦い。形態の捉え方を常に新しいものへと導いていくパワフルな彫刻。バゼリッツの彫刻はサイズが非常に大きい。太い木をそのまま材料として用い、チェンソーと斧で造形する。このプリミティブな制作方法のおかげで、バゼリッツ本人曰く、絵画で行うよりもダイレクトに新しい形態への追求の道を辿ることができるという。

斧によって形作られたトルソーは、エレガンスを拒絶し、暴力的なまでに荒削りの方法で実現されたものだ。深い切り込みに群青色の絵の具が力強く塗られている。

あるいは、鼻と胸、そして性器が赤く塗られた女性像。このモデルはバゼリッツの自伝のエピソードの中で、ノルウェーの美術館から出たところで転んでしまった際に親切に手当てをしてくれた女性だということが明らかになっている。

Le Penseur de Rodin

「ドレスデンの女たち」は、1989年から90年にかけて制作された13人の女性像だ。1945年、ドレスデンの陥落の際犠牲になった女性達の像。深く荒々しい切り込みと強い色彩によって強い感情を表現しつつも、13の像はひとつの均質的な集合へと還元されている。ここで見られる黄色という色はこれまでのバゼリッツが好んで使っていた赤や青に対してほぼ見られなかった色である。これまでは絵画でしか使用してこなかった黄色は、この作品において初めて彫刻に持ち込まれた。

Le Penseur de Rodin

そして、ロダンの考える人へ呼応する作品がこちら。バゼリッツは1996年から97年にかけて、モンドリアンらのアートに影響を受けてポピュラーアートを意識した彫刻を制作する。2000年以降には幾つかのモニュメンタルな彫刻の制作に取り組んでいる。そして最近の作品の一つに、このロダンの考える人がある。巨大なこの作品は思索している巨人の思考する「声」が聞こえてきそうな強烈な存在感とやはりロダン作品への意味の覆しを含んでいるように思う。