07/28/15

La Manie d’Abruti par Mike MaKeldey @la Galerie Da-End

Mike MaKeldey « La Manie d’Abruti »
La Galerie Da-End, du 8 janvier au 28 février 2015

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酷いタイトルの展覧会なのである。しかしそれも戦略的な。
La Manieは日本語で「マニア」と訳される言葉である。つまり偏執とか偏愛とかいう。Abrutiはオロカモノ、とかいう感じである。愚かしさへの偏愛とか、オロカモノへの偏執などといった雰囲気を感じていただければと思う。

1973年フランクフルト生まれの画家、Mike MacKedleyは独学の画家であり、伝統的ポートレートを(彼の展覧会タイトルを尊重するならば)愚かしさへの偏愛によって異化させる、そんな実験的絵画を模索している。

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ご覧頂けるように、ベースとなるのは極めて伝統的でクラシックな絵画である。その表面はブラシで一定方向に流されており、それゆえそのイメージはぼんやりとして、境界線が溶け出したような印象を与える。そこに、画家は場違いの存在、エイリアン的なものを描き込む。描き込まれる奇妙な生き物やオブジェ、言葉によって何であるか同定しづらい形態は、文脈を逸脱している点で「オロカモノ」の要素を構築しているに違いないのだが、境界線がとかされるリアリズムの絵画を自明のものとして観るのを止めるとき、つまりそこにあるヒエラルキーを一度なし崩しにするとき、その異物こそが画面において支配的であることを認めずにはいられない。

形態そのものを変形させているのではないにせよ、日常的なものに対する、我々のヴィジョンをラディカルに変容させる試みは、フランシス・ベーコン的なものの影響であるに違いない。

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重ね合わされるタブロー、つまり重ね合わされた存在と時間、重なり合ったそれらが境目を溶け合わせるとき、ひとつのヴィジョンは壊され、あたらしく別のヴィジョンが作り直される。あるいは、生成中の絵画を垣間みるかのような。

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07/28/15

Joan Jonas « They Come to Us without a Word » Venezia Biennale / ジョ—ン・ジョナス 彼らは言葉なく私たちのところにやってくる

Joan Jonas(United States Pavilion)
« They come to us without a word » (The 56th Venezia Biennale)

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ジョーン・ジョナス(1936年ニューヨーク生まれ)の作品に関心をもったのは、2012年のドクメンタ以来である。その後もパリのギャラリーYvons Lambert(past article here : salon de mimi)などで彼女のインスタレーションを観る機会があった。彼女はいつも、独特のデッサン、神話や口頭伝承の民話などに基づく謎めいた映像、自然や動物の要素に重要な役割を担わせ、それらを彼女の方法で結びつけて一つの世界として立ち上げる。作品は多数のエレメントを孕みながら、それでも統一的な物語を為していて、そこにあるのはいつも「Joan Jonasの世界観」と言えるものなのである。

2015年の第56回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ館では、ジョーン・ジョナスは第6章に及ぶ世界を作り上げる。ビエンナーレのインスタレーションに先立ち、今年ニューヨークで幾つものワークショップを子どもたちと共に行ない、そのパフォーマンスが各部屋のビデオに映し出される。風景の映像には彼女がこれまでも好んで利用してきた幾つかの都市や田舎、Nova Scotia(カナダの東の島)、ニューヨークのブルックリンなど。

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各部屋の章立ては次のようになっている。
1 Bees, 2 Fish, Rotunda Mirrors, 3 Wind, 4 Homeroom and Courtyard Nine Trees.
各部屋にはスクリーンと、物語にまつわるオブジェ、たとえばBeeやFishの部屋にはジョナスのドローイングが、Windの部屋には日本製のカラフルな凧が、あるいはマスクやテクストがショーケースに展示されている他、鏡の部屋を飾る表面が波上になっている鏡はムラーノ島で製造されたものだ。

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口頭伝承の民話、自然、動物、パフォーマンス、立ち上げられた一つの世界観。インスタレーションを経験することは自ずと前述のdCUMENTA13(2012)のインスタレーション »Reanimation »を思い起こさせる。

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世界の変わりゆく様相を、人間の伝統、自然や動物、都市の生活に焦点を当てながら思考するジョナスの作品では、ジョナス自身の言うように彼女から積極的な答えを明示されることはないが( »Althought the ideas of my work involves the question of how the world is so rapidly and radically changing, I do not address the subject directly or didactically, rather, the ideas are implied poetically through sound, lighting, and the juxtaposition of images of children, animals, and landscape. »)、そのことをそもそも我々の目にしたことのないような方法や観点から、本質的に問題提起する。というか、恐らく、重要なのは気がつくことそのものであって、どうするか、何をするか、ということは、その思考が明瞭ならば自ずと続くプロセスなのである。

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ジョナスのインスタレーションの体験は非常に魅力的である。それは、同一の世界の、しかし我々の見知らぬ世界の音楽と光を我々が生きてみることを許してくれるからである。

Ref. Joan Jonas « Reanimation » @Galerie Yvon Lambert, Paris / ジョーン•ジョナス « Reanimation »

Ref. Joan Jonas in Venice official

07/27/15

Jesper Just « Servitudes » @Palais de Tokyo / ジェスパー・ジャスト 隷属

Jesper Just   »Servitudes »
Katell Jaffrès (Commissaire)
@Palais de Tokyo du 24 juin au 13 septembre 2015
Website : http://www.palaisdetokyo.com/fr/exposition/jesper-just

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« Servitudes »と題されたインスタレーションは、パレ・ド・トーキョーの地下空間を利用した大規模なミクストメディアの展示で、地下という場所の親密さ、あまりにも広い空間の工事途中であるような構造がのぞく落ち着かないムード、無骨なようすで組まれた階段や廊下を歩きながら移動する作品鑑賞経験の効果はあまりに上手く、 »Servitudes »の演出に貢献する。

ジェスパー・ジャスト(Jesper Just, 1974年ニューヨーク生まれ、2013年第55回ヴェネツィア・ビエンナーレのデンマーク館にて展示)は、印象的な音楽と音響、気がかりな登場人物によって観る者の関心を喚起する物語を紡いできた。本展示では、足元の悪い、薄暗いパレ•ド・トーキョーの地下空間をおぼつかなく歩みながら鑑賞する幾つかのビデオ作品と、空間を満たすÉliane Radigueのエチュード作品17番が通奏低音のような役割を果たしながら、鑑賞者をジャストの物語に招待する。エチュードは、通常のテンポに照らせば、とまりそうなくらい、ゆっくりと響く。

« Servitudes »(隷属、あるいは何者かの拘束する対象となること)。

インスタレーションの入り口の大きなスクリーンにのぞくのは、両手に装具を着けた若い女がこちらを時々睨むように見据えながら、懸命にトウモロコシを食べている映像。女は思い通りにならない両手で、その両手を覆う装具はかろうじて役に立っているのかそれともむしろ動きを邪魔しているのか分からない。鮮やかな黄色のシャツに青白い肌、半サイボーグ的な姿をこちらに晒しながら、何度もかじりかけのトウモロコシを落としては拾いあげ、かじりつく。

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その地下に続く大きく開かれた空間とは別個に、親密な一室がある。ひとりの少女がやはり思い通りにならない両手をぎこちなく操りながら前述の、テーマとなる音楽エチュード作品17番を演奏しているヴィデオである。少女の指は様々な方向に曲がっていて、少女の頭の中で自由に鳴り響く流暢な音楽とは裏腹に、紡がれる音列はでこぼこして、丁寧な音色はひと粒ずつゆっくりと鳴り響く。

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ハンディキャップをもった登場人物は、トウモロコシをかじる女とこの少女の他に、おそらく身体の自由のきかない状況か空間で動き回る一人の人物や、ニューヨークの高層ビルを一望する貿易センタービルの上層階で時々吃りながら発話する女性など、繰り返し現れる。

複数のスクリーンに映し出される映像は、互いに結びついている。たとえば、この貿易センタービル上層階の女性に呼応する映像が、ピアノを弾く少女を通じて表される。ピアノを弾く少女は上述のように曲がった両手の指をもち、思い通りにならない両手に隷属する自己の受け入れ方を模索している。少女は見上げきれない貿易センタービルの根元で小さな石ころを片手に、それをびくともしない貿易センタービルの壁に、コツン、コツン、と打ち付け続ける。やがて少女は自分の片手を貿易センタービルのガラス張りになっている部分の隙間に挿入し、分厚いガラスを通じて見える自分の手がぼんやりしてその曲がった指の様子など分からないのをながめながらすこし幸せそうな表情を浮かべる。トウモロコシを食べる女の向かい側、下に位置するスクリーンは、ひたすら開閉を続ける数台のエレベーターの様子を映し出す。いくら見ていても、そこから誰かが降りて来ることはないし、誰かが乗るのでもない。エレベーターは必ずその階に止まり、扉を開け、閉めて去って行く。

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作品のキーワードとなるのは、タイトルの如く »Servitudes »で、登場人物は、内容は違えども何かしら本人にとっては深刻なハンディキャップを抱えて、しかしそのような身体の隷属するところのものとなる個人に焦点が当てられる。あるいは、隷属は肉体を抱える個人にあるというよりもむしろ、生きる存在として取り巻く世界に隷属していることを指すのかもしれない。見上げきれないビルが空を覆う大都会の小さな人間の弱さと感じやすさを強調しながら。

07/27/15

Henry Darger (1892-1973), La violence et l’enfer / ヘンリー・ダーガー その暴力性と地獄

ヘンリー・ダーガー その暴力性と地獄

Exposition du 29 mai au 11 octobre 2015 @Musée d’Art Moderne de la Ville de Paris
Web: www.mam.paris.fr

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ヘンリー・ダーガーのことについて、何か書くことが残されているだろうか?
あまりに有名で、ディスコースが確立しているようで、少なくとも日本ではヘンリー・ダーガーを新しく語る言葉をもはやだれも探していないように思える。構造主義的な作家解釈が力を持つ今日、(少なくとも彼の世界観については)彼の謎めいた私生活、社会と隔絶した奇妙な行動、女性を知らないまま生きて死んだという生い立ち等々の要素が組み合わさって、自ずと『非現実の王国で』は、現実世界に十分にコミットする手段と場所を得なかった一人の人間が、自分の理想的な想像世界にひきこもることによって紡いだ妄想旅行の集積であると見なされている。とりわけ少女がしばしば全裸であることや股間に男性器が見られることなどには関心が集まり、特定の文脈での引用が今日も盛んに行なわれる。

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しかし、この一ヶ月、三回パリ市近現代美術館に通い、その度にコレクション展示の中に特設されたヘンリー・ダーガーの作品の中をウロウロした。何回も同じ絵の前を通り、同じ抜粋テクストを読み、同じビデオを見た。ダーガーの創造したダーガーと7人の美少女戦士の物語。作品に対峙するほどに、彼はその“非現実の王国”の妄想において、ちっとも自由ではなかったということが痛々しく語られてくる。

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ヘンリー・ダーガーは、芸術訓練を受けた所謂「プロ」のアーティスト(インサイダー?)がアート市場のメインストリームを築き、名声を得るというスタンダードに反し、「アウトサイダー・アート」の表現者としてカテゴライズされている。というか、アウトサイダー・アートというカテゴリーをわざわざ創設したのすら70年代のことなのだから、ダーガーの仕事が行なわれていた1910〜60年代には勿論、アートだろうとアートでなかろうと問題でなかった表現行為なのである。ダーガーは、19歳のときに執筆を始め、死ぬ前年までこれを書いていた。1973年にダーガーは死ぬが、72年に彼が貧窮院に入った際、シカゴの自宅で膨大な「作品」が発見されたというわけだ。

ダーガーの60年に渡る創作がアートであるかどうかを議論することには個人的に興味がない。なぜならそれは表現されたものであり、表現することによって80年間を生き続けた一人の人間の行為の結果であると言う事実があり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。

ただし、これまでのダーガー解釈はやはりお花畑のヴィヴィアン・ガールズのイメージに引っ張られすぎて、誤解を通り越して、むしろ皮肉ですらあるように思える。彼の物語にあてられるキーワード、イノセンス、夢、パラダイス、純真、そんなものは恐らくもっとも遠くにあるもので、ダーガーの生きた半生は、残りの全ての人生をかけて、セルフ・セラピーに時間を費やすことのみが必要であるような、トラウマティックなものだったと予測される。

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ダーガーの描く、子どもを蹂躙する男たちも、それをながめる人々も、戦う大人と子どもも、攻撃し合う兵士たちも、命令する権力者も、すべて、本当に彼が目にしたものに過ぎない。物語は非常に暴力的で、立ち向かう美少女戦士とそれを応援するダーガーという物語の骨組みは、「非現実の王国」における自慰の手段と言えないことはないが、それよりももっと深い、一人の人間の表現する切迫した必然性を感じさせて止まないものである。

①表現する切迫した必然性。

これは表現行為に人を突き動かす本質的なドライブである。

②芸術の有用性。

それはその表現されたものがどの程度まで他者に対して応用力を持つかである。

ダーガーの表現したものは後者において分かりやすいものではないために、その解釈の点で疑問を残す。しかし、前者(表現のための切迫した動機)を人々が感じ取ってしまう、その強烈な表現としての力にこそ、ダーガーの人生とその経験、その結果としての表現されたものが人々の関心の的となり続ける理由がある。

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ダーガーの作品は過剰にリアルである、というのが現在の私のダーガー観である。

「地獄とは、地の底にのみ存在するものだろうか?」(Henry Darger)

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07/27/15

Chiharu Shiota, la Biennale de Venise 2015, l’archive de la mémoire

第56回ヴェネツィアビエンナーレ、日本館。
塩田千春さんのインスタレーション。

アートは現代多様さを極めているけれども、作品に対峙することやそこに身を置くという物理的条件を満たすだけでその作品が持つパフォーマティブな要素に言葉を失うのは、作家の魅力である。何が起こるかおぼろげに分かっているのに、驚いてしまうというのは、塩田千春の作品の力なのだろう。

赤い糸、それが蜘蛛の巣のように、あるいは脳内の神経が張り巡らされているように、空間を満たす。
鍵というあまりに象徴的なオブジェ。それが世界中から集められて、持ち主の、鍵そのものの経てきた時間の集積を表す。
舟、海、錆び付いた金属、壊れた木片、舟と鍵のオブジェ自体が発する気のようなものがそこにはある。

塩田千春 ベネチア・ビエンナーレ:http://2015.veneziabiennale-japanpavilion.jp/ja/

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07/24/15

Valérie Jouve « Corps en résistance » @JeudePaume

Valérie Jouveは、1964年Firminy(サンテティエンヌの近く)生まれのアーティストである。都会生活や社会規範に対峙して生きる個人とその抵抗する身体のありようを「レジスタンスの身体」というテーマで問題視し続けてきた。1980年代末より、彼女の写真は、都市の風景と都市空間に生きる身体を捉えてきた。雑多なオブジェや生き物がぎゅっと詰まった都市という空間では、そのバラバラなものが凝縮されているけれどもちっとも調和しておらず、その中に存在する生き物は蠢き、息を潜めたり、喘いだりしながら、「抵抗する」。

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本展覧会で印象的だったのはセノグラフィーである。アーティスト自身がインスタレーションした空間では、その意図がより明瞭だ。

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どこにも居るような女たちのシアトリカルでもありリアルでもある一面。ありふれたシチュエーションはディテールを見るとやはり個人的なものである。

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Valérie Jouveはモンタージュの手法にも長けている。そして、そのモンタージュは非常に恣意的で、それゆえに戦略的である。過剰な交通量と都会の車社会を切り取って我々に提示するこれらのイメージでは、よく見れば非現実的なようすで車が重ねられていることに気がつくだろう。たとえば、手前にいる車の左側の窓にあるはずもない壁が覗いている、というように。

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シンメトリーの構図を持つイマージュ。折り返された半分はフィクションで存在した半分がリアルである。ただし、それらも完全な左右対称ではなく左側の画面には人物が表され、もう一度全体としての風景に生み直されている。

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映像のモンタージュ。

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都市の中にはみ出す人々。

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抵抗する身体を撮るということ。

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モデルは反復することもある。知っている人物を何度も撮影しているものもある。

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アーキテクチャーは重要な主題の一つだ。

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展覧会は9月27日まで開催中である。
JEU DE PAUME, PARIS : http://www.jeudepaume.org/index.php?page=article&idArt=2414

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07/24/15

Mémoire de crayons et Album sans fin : Jean-Louis Boissier / Des histoires d’art et d’interactivité juin 2015

Mémoire de crayons 1995-2001
Jean-Louis Boissier
Exposition « Des histoires d’art et d’interactivité
Au musée des Arts et métiers, Paris
du 11 au 14 juin 2015
Dispositif
Deux grandes tables parallèles de 80×240 cm, séparées par un espace de la largeur d’une table. La première table est une vitrine qui renferme, en 32 cases, une collection de 1024 crayons à papier, elle est éclairée par deux lampes de bureau articulées. La deuxième table supporte un ordinateur avec son clavier et son écran.

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ヴィジターが鉛筆の情報(色、場所、その他レジェンド)を入力すると、データベースの中からその条件にあった鉛筆を見つけ出し、それを画面に提示する。

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1024本の鉛筆は番号がつけられていて、レジェンド(あるいは、レシ)と外観とともにデータベースに登録されている。ヴィジターは、ショーケースに整然と展示された鉛筆を見ながら、気に入った鉛筆を番号から検索し、その詳細な情報を得ることもできるし、関心のある鉛筆を見つけ出すために条件をコンピュータに入力し、これを探し出すことも出来る。

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この作品の作者であり、1024本の鉛筆のコレクターでもあるジャン=ルイ•ボワシエは、この作品をオブジェの記憶に関するもの(「オブジェに関する記憶および単独のオブジェの集積に言語が与えられるランガージュの可能性をめぐる考察」)であると述べている。ジャン=ジャック•ルソーの『告白』的なエクリチュールに影響を受けた自伝的経験が芸術作品のコンセプトの重要な位置を占めるのは、ジャン=ルイ・ボワシエのインタラクティブ作品において本質的な性格と言える。

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この作品は2001年にポンピドーセンターにおいて展示され、2015年6月11日〜14日のArts des métiersのスペース内(Futur en Seineのプロジェクトの枠組み:http://www.cnam.fr/des-histoires-d-art-et-d-interactivite-738738.kjsp)で展覧会 »Des histoires d’arts et d’interactivité »において展示された。

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同展覧会では彼の歴史的となったインタラクティブ作品Album sans fin, 1988-1989も同時に展示された。

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私にとっては、これを体験するあまりにも貴重な機会であった。

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07/23/15

Conférence par Hiroshi Yoshioka : ENJEUX de PARASOPHIA (Université Paris 8, TEAMeD × MCJP)

7月1日(水)にパリ日本文化会館にて吉岡洋さん(パラソフィア・アドバイザリーボード)のパラソフィア報告会が行なわれました。企画はパリ第8大学+パリ日本文化会館、パリ第8大学名誉教授であるジャン=ルイ・ボワシエを迎えてのセッションとなりました。私は通訳+モデレータとして講演会を企画させていただきました。

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本講演は、吉岡さんからのご講演(逐次通訳、パラソフィア報告・京都の街の歴史・銭湯芸術祭)に続いてボワシエさんからの大覚寺で2011年7月に開催された展覧会「Les Vigilambules」(« Les Vigilambules »はジル•ドゥルーズの「覚醒した状態」を意味するvigilambuleから着想を得た作品で大きな目を見開いて、決して眠ることなく、強く覚醒した状態を意味します。プロジェクトの詳細ははボワシエさんのサイト:http://www.vigilambule.net/blog/?page_id=2でご覧になれます)に関するご発表、そしてお越し頂いた皆さんとのディスカッションとなりました。

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ここには吉岡さんのカンファレンス内容とパラソフィア事務局からご協力いただいた画像、パリ日本文化会館から頂いた講演会風景を掲載いたします。

LES ENJEUX de PARASOPHIA
PARASOPHIAとの関わり

吉岡: »PARASOPHIA: International Festival of Contemporary Culture”というのは、今年(2015年)3月7日~5月10日に京都で開催された、現代美術の展示を中心とする催しです。京都府と京都市の財界人が後ろ盾となりました。会期は約2ヶ月ですが、この催しに関連したイベント、小規模なプレ展示、講演会、ワークショップなどは、オープニングの1年以上前から京都を中心に積み重ねられてきました。ぼく自身とこの催しとの関わりは、2年ほど前に、この展覧会のアーティスティックディレクターである河本信治さんから、Professional Advisory Boardの委員となるように依頼されたのがきっかけです。河本さんがぼくにそれを依頼した主な理由は、ぼくが今から13年前の2003年、「京都ビエンナーレ」という芸術祭のディレクターをしたからです。この催しはPARASOPHIAよりは小規模なもので、主として京都市がバックアップしたものですが、残念ながら1回だけで終わってしまいました。この内容については後で少し述べます。Professional Advisory Boardの第1回の会合で、河本さんから、”PARASOPHIA”という名称について聞きました。アートの介入によって現在の支配的な知(Sophia)とは別の知のあり方を求める、という基本的なコンセプトには共感しましたが、同時に日本語において”PARASOPHIA”という名称はその意味が直観的につかみにくく、難解なものとして敬遠されるのではないか?とも言いました。ではどうしたらしいのか?と聞かれたので、1年前から雑誌やペーパーを発刊して、PARASOPHIAという言葉やコンセプトを広めていけばいいのではないか?とアドバイスしました。「では吉岡さん、やってください。」ということになったので、学生たちと一緒に『パラ人』というフリーペーパーを5回発刊してきました。

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『パラ人』について À propos de PARAZINE
この出版物に関しては、印刷のための経費はフェスティバルから出ていますが、編集スタッフの学生たちはもちろん、執筆者も(いま通訳をしてくれている大久保美紀さんも執筆者の一人です)、編集長であるぼくも全員ボランティアで、謝礼は受けとっていません。このことは重要で、私たちはPARASOPHIAの宣伝をする義務はなかったのです。ソフィアとパラソフィアについて、幸福について、戦争について、そして京都について、気の向くままに話し合いました。こうした出版物を許容することは »PARASOPHIA »というコンセプトに合致しており、その意味で間接的にはフェスティバルのためになったと思います。これはPARASOPHIAの公式出版物ですか? という質問には、「半公式」であると答えました。「半」というのが重要な部分でした。

『パラ人』というのはPARASOPHIAの(MAGA)ZINEということですが、 »ZINE”という音は日本語で「人」という意味もあるので、モノやお金が中心に回っているかのような今の世界で、あえて人を中心にするという意味でこのように名付けました。また内容も、PARASOPHIAという美術展の紹介をするのではなく、集まった学生たちと、今の世界についての様々な議論をするということを中心に編集しました。現在の日本の大学は、学生に対するサービスという点では完備していますが、学生と教員がカリキュラムという枠組を離れて様々なことを話し合う場はほとんどありません。だから『パラ人』の編集部はまるでもうひとつの、オルタナティブな大学のようになりました。

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京都という場所(1)
吉岡:京都の経済界と行政がなぜ現代美術のフェスティバルに関心を持ったかというと、それはひとつには、京都という都市の将来についての心配があったからだと思います。ご存じのように、京都は平安時代以来の日本の古都であり、夥しい文化遺産や芸術文化の豊富な伝統を持っています。大学も多く、様々な領域の国際会議も頻繁に開かれる他、国内外から年間5千万人以上の観光客が訪れます。したがって、さらなる集客のために今さら新たな文化的プロジェクトを開始する必要はないようにも思えます。けれども京都の世界的な魅力の大半は、主としてその伝統文化に集中しています。もちろんそれは重要なものですが、伝統的文化というのは、ただ形を変えずに保存してゆけば存続するものではありません。伝統というのは、常に新しい世代によって受け継がれ、常に形を変えることを通じて存続してゆくものです。その意味で、伝統的な文化と革新的な文化とは単純に対立しているのではなく、互いに刺激しあいながら発展してゆくものです。

日本では2000年代以降、横浜トリエンナーレ、新潟の田園地帯に展開する越後妻有アートトリエンナーレ、愛知トリエンナーレ、瀬戸内芸術祭などの大規模な現代美術祭が開催される中で、京都にも新しい文化のイメージが必要だ、という判断があったと思います。さらに、ぼくの考えでは、京都には歴史の明るい側面ばかりではなく、行政や観光業界がふつうは眼を向けたがらない過去の歴史もあり、それが比較的眼にみえる形で現れており、このことは、京都で芸術祭を行う際の障害ではなく、むしろ利点となりうると思っています。ツーリズム的な京都のイメージでは隠されている、この都市の多様な側面をみることができるからです。 その意味で、表層的・産業的な文化商品としてだけではなく、より深い普遍的なレベルにおいて世界や人間のあり方について考察するためにも、京都という場所でアートプロジェクトを行うことには可能性があると考えています。

さまざまな意味で、PARASOPHIAの”Enjeux”とは、たんに日本にさらにひとつの国際美術展を増やすということではなくて、京都という場所とその歴史といかに関わるか、またそれを通して日本全体の問題や、近代社会全体の問題といかに関わるかという点にあると考えています。

京都という場所(2)
日本がかつて巨大な破壊行為の犠牲となった場所として、世界中の人々が広島・長崎を訪れます。それに対して、京都には貴重な文化的・芸術的遺産が数多く存在するので、アメリカは京都に大きな攻撃を加えなかったのだという「伝説」が今でも信じられています。しかしこれは作り話です。太平洋戦争の末期、京都は原爆投下の第一目標とされていたことが、アメリカ自身が1990年代に公開した軍事資料によって分かっています。その理由は、京都が日本の象徴的な中心であること、盆地なので核攻撃の破壊力が効果的であること、この破壊の威力を正しく認識し戦争継続を諦めるよう政府に進言できる知識層が住んでいること、などです。この計画は最終的に実行されませんでしたが、それは京都を破壊すると日本人への心的ダメージが大きすぎて、戦後反米的な感情が持続することを怖れたためだと推測されています。京都を、もっぱら伝統文化に守られた古都として想像するのは一面的だとぼくは思います。京都の文化とは70年前、戦略的な計算によってぎりぎりのところで存続を許された存在、もしかしたら消滅していたかもしれない、危うい存在なのです。

京都には日本の近代化に伴う様々な問題が現れています。京都の中心には巨大な御所がありますが、これは1868年の明治維新によって、天皇が首都である東京に移ったため、居所としては不在になったものです。都市の中心に巨大な空虚があるという構造になっています。保守的な政治家たちは日本が「単一民族国家である」(だから団結心が強い)ことを強調してきましたが、それは作り話です。たとえば京都には、朝鮮半島から移住した人々も住んでいます。また人間の平等性という近代的理想とは異なり、歴史的に差別され続けて来た部落の人々もいます。ぼくはたまたまそうした人々の居住区のすぐ近くで育ってきましたが、多くの場合そうした問題に触れることは、怖れられタブー視されてきました。

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京都ビエンナーレ2003
吉岡:2003年の秋、「京都ビエンナーレ」という国際芸術祭のディレクターをしました。そこでも、京都という都市の歴史に関わることが重要だと考えました。この2003年の展覧会のテーマは「Slowness」というものですが、その背景には、その2年前に起きた「9.11」とその後のイラク戦争があり、グローバル化と電子的な同時性というテクノロジー的環境や、その中で遂行される巨大な破壊行為に対して、何らかの抵抗意識を持つことを考えました。たんに速度に対立する「遅さ」ではなく、速度それ自体の中に遅さを見出して行く技術として、アートを考えられないだろうかと思いました。こうした問題に関わるアートの試みとして、2003年の京都ビエンナーレにおける例をひとつだけ紹介するなら、日本の美術家である高嶺格が行った「在日の恋人」という作品があります。これは京都の北にある、廃坑になったマンガン採掘抗で作品を制作・展示するものですが、この鉱山にはかつて、朝鮮半島出身の労働者たちが過酷な条件化で働かされていました。作品はそうした歴史を、現在はアーティストの妻である在日韓国人の恋人との和解という個人的なストーリーと重ね合わせて表現するものです。政治や歴史の重要な問題をあるがままに提示するのではなく、また避けるのでもなく、多くの人が想像力を駆使してそれを新しい角度から眺め、真剣に、しかし楽しく対話する可能性を模索することは、アートの重要な役割であると思います。

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京都市美術館
吉岡:PARASOPHIAにおいても、京都の歴史との関わりという点は明確に現れていると思います。まず、メイン会場となった京都市美術館という空間を、作品展示を通して新鮮な形で体験することができました。この美術館はもともと1933年に昭和天皇の即位を記念して建造された施設です。太平洋戦争が終了し、日本がアメリカの占領下にあった時代には、この建物はアメリカ軍によって接収されました。それは1952年まで続きました。この美術館の地下にはまだ占領時代の靴磨きの部屋などが残っています。吹き抜けのもっとも大きな展示室はバスケットボールのコートになりました。蔡國強はこの空間に7層の竹の塔を設置し、彼が行ってきたワークショップ「子供ダヴィンチ」や「農民ダヴィンチ」の作品を展示しました。ジャクソン・ポロックのように絵の具を飛び散らせてロボットが描いた「作品」が、飛ぶように売れて行くというやや皮肉とも思える現象も起こりました。日本のアーティスト田中巧起は、京都市美術館というこの場所の歴史そのものに関心を抱き、それをテーマにしたワークショップを行いました。1970年、この美術館には当時活躍していた評論家の中原裕介が企画した「人間と物質」という国際展が巡回します。これは海外から27名、国内から13名のアーティストを招いた日本最初の国際的現代美術展と言えるものでしたが、同じ年に開催された大阪万国博が6400万人という空前の入場者数を記録したのに対して、入場者数は伸びず興行的には赤字となり、これ以降日本における現代美術の大規模な国際展は、2001年の横浜トリエンナーレまで30年間行われませんでした。

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堀川団地
吉岡:さてPARASOPHIAでは、「堀川団地」と呼ばれる場所にも作品が展示されました。この場所もまた、日本の近代史を象徴的に示す地域のひとつです。「堀川」というのは京都の堀川通という道路の名前ですが、ここは太平洋戦争の前には、きわめて賑わった繁華街であり、様々な店舗が密集していました。戦争末期、アメリカ軍の空爆による火災が広がるのを防ぐための防火帯を作るため、多くの建物がとり壊されました。実際、東京や大阪をはじめ日本の大都市の多くが、戦争末期には空襲によって焼け野原になりましだか、皮肉なことに、京都は先ほど述べたように原子爆弾の投下目標になっていたので、その威力を測定するために大規模な空襲はなく、そのために古い建築物が残る結果になりました。戦争が終わり1950年代になると、住宅不足と商店街の復興を目指して新しい集合住宅を備えた店舗が建設されました。これが堀川団地です。一階が店舗で、2階以上は個室に水洗トイレと都市ガスが完備された、1950年代においては最新の集合住宅です。まだ個別の浴室はなく、銭湯が利用されていました。けれどもそれ以前の集合住宅はトイレと台所が共同のものも多かったので、きわめてモダンで個人主義的な住宅設備でした。けれどもそれも1980~90年代になると老朽化が進み、また新しい耐震基準からも問題があるので、この住宅をどうするかが議論されてきました。その過程で、この団地をテーマとするアートプロジェクトも参加しています。

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崇仁地区
吉岡:崇仁地区というのは、JR京都駅のすぐ近くにあるエリアで、周囲はきわめて賑やかな繁華街ですが、この場所だけ空き地のような場所が点在しています。それは、この地区が大規模な被差別部落だったからです。近代以前、処刑や屠殺などに従事する身分の低い階層がありました。近代に入ると、彼らは公式には平等な市民として認定されましたが、現実には依然として差別的な扱いは続き、行政がその場所を特別に配慮が必要な地区として指定したために、かえって差別的な構造は存続することになりました。それは現在でもまだ続いています。ぼくはたまたまこの近くで育ち、公立の学校に通っていたので、そこにはこの地区出身の生徒や職員の人たちがいて、それがどんな雰囲気であったか、大人たちがどんな態度をとり、それを子供に伝達していったかを、ある程度経験してきました。差別は日常生活のさまざまな細部まで入り込んでいるので、単純な正義や同情では解決できません。解決には広い意味での教育がきわめて重要であり、しかも長い時間がかかると思います。だから、アートプロジェクトがこの場所を積極的に利用するというだけでも、それが継続していくなら意味があると思います。それは、これまでこの歴史について知らなかった人も、そこを訪れるようになるからです。

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銭湯芸術祭
吉岡:最後に、PARASOPHIAそのものではなくて、PARASOPHIAと並行して開催された催しの中から、ぼくが直接関わった「京都銭湯芸術祭」という活動を紹介して、おしまいにしたいと思います。このプロジェクトもまた、別な仕方で場所とその歴史に関わる試みであると言えます。まず日本における入浴の考え方と、銭湯とは何かということについて、簡単に説明します。日本人の多くは入浴を非常に大切な生活の一部とみなしています。そこには、たんに身体を清潔に保つという純粋な必要性以外の要素があります。人類全体として考えてみると、入浴はけっして必要不可欠なものではありません。まったく入浴をしない文化は現在も存在するし、歴史的にも入浴をしない時代が存在しました。むしろ、日本のような入浴習慣や入浴についての考え方こそ、世界的にみてもきわめて独特なものであると言えます。日本のサブカルチャーが「クールジャパン」と言われるのなら、お風呂こそ「ホットジャパン」として売り出すべきなのかもしれません。日本の入浴習慣と言っているのは、お湯に身体を浸けるという行為を中心に考えるという意味です。身体を洗うという、清潔のために必要な行為は中心ではありません。入浴はお湯のぬくもりや圧力を全身で感じること、その場所と自分とが一体化しているという精神的な満足感があります。日本の共同浴場の歴史はそれ自体きわめて興味深いものですが、時間がないのでここでは近代の銭湯だけに話を限定します。それは、たいていは個人によって経営され、大人3ユーロ程度の料金を払って入る施設です。もちろん男女に分かれていますが、完全に仕切られているわけではなく、仕切りの壁の上方は開いているので、声は聞こえるし家族の間で石鹸などを受け渡しすることもできます。だいたい昼の3時頃から深夜まで開店しているものが多いです。脱衣場にはテレビや雑誌なども置かれ、冷たい飲み物を飲むこともできます。浴室は現代では複数の浴槽——ジャクジのように気泡を発生するものや薬草の入ったもの、弱い電気が通っているもの、サウナ、水風呂など——が用意されています。

銭湯は日本の都市生活において、1970年代まではきわめて一般的なものでした。先ほど「堀川団地」の話でも触れましたが、多くの庶民の住宅には個人用の入浴施設がなかったからです。したがって当時は、それは地域の人々のコミュニケーションの場としても機能していました。まあ、カフェのような役割を果たしていたわけですが、互いに裸であることが大きく異なっています。1980年代に入って、日本の住宅に内風呂が普及してくると、銭湯はどんどん減少してゆきました。けれども京都には比較的まだ残っています。「京都銭湯芸術祭」は、若いアーティストたちがこの銭湯に興味を持ち、そこにアート作品の展示やイベントを持ち込むことによって、そうした地域的なコミュニティのあり方を、それに属さない人々にも経験してもらおうという試みです。ぼくがなぜ「京都銭湯芸術祭」のようなプロジェクトに関わるようになったかというと、それは過去約30年間において、日本の歴史が一回転したと思うからです。銭湯が減少していったのは日本人の居住環境や生活様式が大きく変化したからですが、それはたんに豊かになったということではなく、地域の経済生活が破壊されたということでもあります。銭湯がなくなったことは、銭湯を含む商店街や地域の様相が一変したということです。つまり銭湯だけが問題なのではなくて、銭湯を含む生活や社会のあり方の変化が問題なのであり、銭湯の減少はそのことをはっきりと示す指標のひとつなのです。

粗っぽい言葉で言えば社会・経済のグローバル化ということですが、それが今、もうどうにもならない瀬戸際まで来ているということです。けれども、たんに昔に戻るということが重要なのではありません。アートを通じて関わることにより、たんなるノスタルジーとかエキゾティシズムではない形で、銭湯をより多くの人に経験してもらえることを目指しています。

日名舞子作品

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Ceci est le compte-rendu de la conférence par Hiroshi Yoshioka qui a eu lieu le 1 juillet 2015 à la Maison de la Culture du Japon à Paris grâce à la collaboration de l’Université Paris 8, l’AI-AC l’équipe de TEAMeD (Théorie Expérimentation Arts Médias et Design) et la MCJP. Voici le contenu de sa conférence. (En raison du temps, cet article n’a pas été corrigé. Merci beaucoup de signaler les erreurs et de proposer les corrections en français pour améliorer l’article.)

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ENJEUX de PARASOPHIA
PARASOPHIA et moi

HY: PARASOPHIA: festival international de la culture contemporaine est un événement qui a eu lieu à Kyoto du 7 mars au 10 mai 2015, qui a consacré aux expositions de l’art contemporain. Les sponsors principaux étaient la ville de Kyoto et les représentants des milieux économiques. Cet événement durait donc deux mois mais en anticipant plus d’un an, avant son ouverture, il y a eu des pré-expositions, des conférences, des workshops et d’autres pré-événements dans la ville de Kyoto. L’occasion de travailler pour ce projet était le fait que Monsieur Shinji Komoto qui est le directeur artistique de cet événement m’a proposé d’être membre du comité de conseils professionnels il y a 2 ans. La raison pour laquelle Monsieur Komoto me l’a proposé, c’est parce qu’il y a 13 ans en 2003 c’était moi-même qui ai été le directeur artistique de la Biennale de Kyoto qui est aussi un festival international de l’art contemporain. Cet événement, la Biennale de Kyoto était moins grand par rapport à Parasophia, financé par la ville de Kyoto, mais malheureusement nous n’avons pas pu faire la deuxième fois. Je reviendrai plus tard sur cette histoire. Lors du premier comité de conseils professionnels, Monsieur Komoto nous a expliqué la signification du « PARASOPIA » comme nom d’un événement. Explorer une nouvelle modalité de l’intellect (voire SOPHIA), qui est différent de celle qui domine notre société d’aujourd’hui, à travers l’intervention de l’art. J’ai été d’accord avec son opinion en principe, mais je lui a également dit qu’il était probablement difficile de populariser ce nom car le mot même « PARASOPHIA » ne dit rien, et difficile de faire comprendre au public. « Alors, qu’est-ce qu’on peut faire », m’a demandé Komoto. C’est à ce moment-là où j’ai proposé la publication d’un magazine gratuit afin de populariser le nom de PARASOPHIA et son concept pendant 1 an. Comme ça, on m’a nommé l’éditeur responsable de ce magazine qui s’appelle « PARAZINE » dont j’ai travaillé avec les jeunes étudiants pour les 5 publications.

À propos de PARAZINE
HY: « PARAZINE » est donc le magazine de PARASOPHIA. Mais « ZINE » (jin) signifie la personne en japonais. Dans ce monde actuel, on a l’impression que c’est des produits industriels et l’argent qui sont dominants, j’ai trouvé que ce n’est pas mal de donner à l’être humain une place importante en nommant ce magazine « PARAZINE ». Ce magazine ne présentait pas les expositions des beaux-arts, mais montrait de nombreuses discussions sur l’actualité avec les jeunes étudiants. Les universités japonaises d’aujourd’hui donnent à leurs étudiants de nombreux services très pratiques, mais il n’y a pas d’occasion qui permet aux enseignants et étudiants de discuter ensemble divers sujets en dehors des cours et du cursus. Par conséquent, la réunion de comité de rédaction de PARAZINE est devenue une sorte d’université alternative.

La publication de PARAZINE a été financé par ce festival mais les membres de comité de réduction, étudiants, moi, et Miki OKUBO qui est l’un des essayistes de ce magazine, personne n’a été payé. Nous sommes bénévoles. Le fait que notre activité a été bénévole est important, car grâce à cette condition non payée, nous avons pu rester libres de l’obligation de faire la publicité de PARASOPHIA. Ce que nous avons réalisé est parler librement des sujets variés tels le bonheur, la guère, la ville de Kyoto, etc. À mon avis, soutenir ce type de publications étranges convient parfaitement au concept de cet événement « PARASOPHIA » et je pense que ce magazine a pu quand-même contribuer au festivald’une façon indirecte. Quand quelqu’un nous demandait si PARAZINE est une publication « officielle » de PARASOPHIA, on lui a répondu « moitié-officielle ». Cette expression « moitié » est importante.

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Kyoto, comme lieu 1
HY: Pourquoi les milieux économiques et politiques de Kyoto sont-ils intéressées à tel festival de l’art contemporain? C’est d’une part parce qu’ils sont inquiets pour l’avenir de la ville de Kyoto. Comme vous le savez, Kyoto était la capital japonaise pendant plus de 1000 ans depuis l’ère Heian le 8 ème siècle. Cette ville embrasse de nombreux patrimoines culturels, industries et artisanats traditionnels et artistiques. Beaucoup d’universités y existent, attirant fréquemment des conventions internationales de différents domaines. Le nombre de touristes atteint plus 50 000 000 par an, soit du Japon, soit des autres pays. En constant ce chiffre, on peut penser qu’il n’est pas nécessaire de lancer de nouveaux projets culturels pour accueillir encore des visiteurs. Toutefois, l’attrait majeur de Kyoto du point de vue international se limite à sa culture traditionnelle. Certes elle est importante, mais la culture traditionnelle ne pourra pas continuer à être appréciée avec sa simple conservation. La tradition peut être conservée quand elle est héritée par la nouvelle génération, en ayant la modification incessante. À mon sens, la culture traditionnelle n’est pas opposée à la culture innovante mais elles se développent en se stimulant réciproquement.

Depuis 2000, le Japon a expérimenté de nombreux grands festivals internationaux tels la Triennale de Yokohama, la Triennale de l’art de Echigotumari réalisée en profitant la régions rizière de Nigata, la Triennale d’Aichi et le festival de l’art de Setouchi. Dans cette ambiance, la ville de Kyoto a été convaincu de la nécessité d’une nouvelle image culture pour le futur de Kyoto. Kyoto garde sa mémoire historique non seulement « positive » mais « négative », voire même « triste » qui est assez visible mais qu’en général le milieu politique et l’industrie touristique ne souhaitent pas trop montrer. À mon avis, ces traces historiques ne sont pas un obstacle pour organiser un festival de l’art mais ça peut être plutôt un atout. On s’intéressera à d’autres aspects cachés par les images stéréotypes montrés par le tourisme. Je crois, réaliser un projet artistique dans la ville de Kyoto possède une possibilité pour qu’on puisse réfléchir profondément sur la modalité de notre monde, la nouvelle relation humaine, allant au-delà de la compréhension superficielle fondée sur la société de la consommation.

Je pense que les Enjeux de PARASOPHIA, comme le titre de cette conférence, est non pas simplement de réaliser encore un festival international de l’art au Japon, mais de trouver une intervention possible de l’art contemporain dans cette ville, afin de réfléchir sérieusement sur des problèmes concernant tout le Japon ou concernant la société moderne.

Kyoto, comme le lieu 2
HY: Les deux villes, Hiroshima et Nagasaki, sont connues dans le monde entier comme lieux symboliques car ces deux villes ont été victimes des bombes nucléaire. En revanche, à propos de Kyoto, il existe une explication légendaire comme celle-ci : les Etats-Unis n’ont pas choisi Kyoto pour leur cible du bombardement grâce à leurs héritages culturels existant dans cette ville. C’est un mensonge total. Les documents militaires des Etats-Unis qui ont dévoilés dans les années 1990 montrent qu’à la fin de la Seconde Guère Mondiale (dit la Guère Pacifique au Japon), Kyoto était leur première cible pour la jetée des bombes atomiques. La raison de leur choix est variée : puisque Kyoto était le centre symbolique du Japon, puisque Kyoto est géographiquement une cuvette qui leur permettrait de mesurer clairement l’efficacité de la bombe atomique, puisque les intelligentsias qui jugeraient correctement la gravité de sa force destructrice pour conseillerait au gouvernement de capituler en renonçant la continuation de la guère, etc. La raison pour laquelle les Américains n’ont pas finalement réalisé ce projet est expliquée par la crainte, c’est-à-dire, si la ville de Kyoto était totalement démolie par les Etats-Unis, les Japonais garderaient leur sentiment d’anti-américa pendant une longue période. C’est pourquoi je ne suis pas d’accord avec une image typique de Kyoto comme ancienne capitale toujours protégée grâce à sa culture traditionnelle extraordinaire. En effet, il y a 70 ans, cette culture a risqué son existence. Sa disparition totale a été possible.

Kyoto montre les problèmes divers causés par la modernisation du Japon. Gosyo, l’habitation de l’empereur, se situe dans le centre de Kyoto, mais depuis la Restauration de Meiji en 1868, c’est-à-dire depuis que l’empereur a déménagé de Kyoto à Tokyo, la nouvelle capitale du Japon, cet espace Gosyo est un énorme vide du centre-ville. Les hommes politiques conservateurs insistent souvent le Japon comme nation constituée d’un seul peuple homogène, c’est pourquoi les Japonais partagent le sentiment de solidarité, mais c’est une fiction. Les immigrants de la péninsule coréenne aussi y habitent. Ou encore, malgré la belle idée moderne pour l’égalité des hommes, il existe historiquement un quartier des habitants discriminés. Dans mon enfance, j’ai habité près de ce hameau, et j’ai compris que parler de ce type de problèmes en haute voix était considéré comme tabou.

La Biennale de Kyoto 2003
HY: Comme je l’ai dit tout à l’heure, en 2003 j’étais le directeur artistique d’un festival international de l’art appelé « La Biennale de Kyoto ». J’ai déjà considéré qu’il était important de mettre en lumière l’histoire de la ville de Kyoto. Le thème de cette manifestation de 2003, « Slowness » (la lenteur en français) a été fondé sur la réflexion sur le choc du 11 septembre et de la guère d’Iraq et sur le globalisme et le développement technologique qui ont amené par conséquent une sorte de violence catastrophique. Il faut opposer une résistance à cette situation violente. Non pas la lenteur contre la vitesse qui domine notre monde, mais je voulais que l’art soit considéré comme sorte de façon de vivre pour trouver la lenteur dans la vitesse elle-même.
Pour vous montre un exemple concret, Je voudrais présenter juste une oeuvre de Tadasu Takamine conçue pour cette Biennale de Kyoto, intitulée « Mon amoureux de Zainichi » (Zainichi est ici coréens résidant au Japon). Cette oeuvre est été créée et exposée dans la mine du manganèse se situant au nord de Kyoto qui est abandonnée aujourd’hui. Dans le passé, c’était les ouvriers coréens qui ont travaillé pour l’extraction du manganèse dans des conditions misérables. L’artiste superpose ce qui s’est passé dans l’histoire sur son expérience personnelle telle la réconciliation avec sa femme qui est Zainichi, c’est-à-dire la deuxième génération d’immigrant coréen.

Je considère que le rôle important de l’art est non pas de montrer les problèmes politique ou historique tels quels, ni d’éviter de les traiter, mais de trouver des moyens possibles qui nous permettent de regarder ces problèmes sérieusement pour que nous puissions en parler et les discuter librement grâce à l’art.

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Musée municipal de la ville de Kyoto
HY: À mon avis, PARASOPHIA met en lumière l’histoire de la ville de Kyoto. Tout d’abord, les visiteurs peuvent découvrir l’espace du musée municipal de la ville de Kyoto d’une manière originale qui est le lieu d’exposition le plus important. Son bâtiment date de la cérémonie d’intronisation de l’empereur Showa en 1933. Après la Seconde Guère Mondiale, pendant l’occupation des États-Unis, ce bâtiment a été réquisitionné par les soldats américains jusqu’en 1952. Le mur se situant au sous-sol de ce musée garde toujours les traces de cette période. Par exemple, il y a un coin pour le cirage des chausseurs pour les soldats américains. La plus grande salle d’exposition a été utilisé en tant que cours de basketball. Un artiste chinois, Cai Guo-Qiang a présenté ses deux oeuvres « De Vinci des enfants » et « De Vinci des fermiers » réalisés par les workshops, sur une énorme structure des bambous construite dans ce grand espace. Mais parmi ses oeuvres, celle qui est la plus appréciée était « Robot dessine comme Jackson Pollock ». Les tableaux fait par le robot se sont vendus comme des petits pains, c’était ironique.

Koki Tanaka, artiste japonais, s’est intéressé à l’histoire du lieu du musée municipal de la ville de Kyoto et il a réalisé un workshop sur ce sujet. Lorsque l’exposition international intitulée « entre homme et matériel » (Between man and matter, 1970) est arrivée au Japon, Yusuke Nakahara, critique d’art actif à cette époque, a organisé la première exposition internationale de l’art contemporain du Japon accueillant 27 artistes étrangers et 13 artistes japonais. Mais malheureusement par rapport à l’Expo universelle d’Osaka qui a eu lieu dans la même année qui a accueilli 64 000 000, bien sûr le résultat sans précédent, cette première exposition internationale est gravement en déficit si bien qu’au Japon pendant 30 ans il n’y avait aucune exposition internationale de l’art avant la Triennale de Yokohama en 2001.

Horikawa Danchi
HY: PARASOPHIA a utilisé aussi Horikawa Danchi, habitation collective de Horikawa. Ce lieu est aussi important car il montre la mémoire de la vie moderne du Japon. Horikawa est le nom d’un boulevard Horikawa-Dori. Avant la Guère Pacifique, Horikawa était le quartier fréquent avec beaucoup de magasins. À la fin de la guère, pour construire des murs protecteurs contre l’incendie en cas des bombardements, on a démoli de nombreux bâtiments. C’est vrai que Tokyo, Osaka et d’autres grandes villes ont subi des attaques aériennes et ont été réduit en cendres, mais comme je l’ai dit tout à l’heure, Kyoto a été l’une des cibles pour la jetée de la bombe atomique, il n’y a pas eu d’attaques importantes, par conséquent, les anciens bâtiments sont conservés.

Après-guerre, dans les années 1950, pour résoudre le manque des habitations et pour reconstruire la rue commerçante, la nouvelle construction a été commencée. C’est Horikawa-Danchi, l’habitation collective de Horikawa qui existe aujourd’hui. Les magasins au rez-de-chaussé et les habitations aux étages équipés des toilettes à chasse d’eau et du gaz de ville, c’était l’habitation collective la plus moderne dans les années 1950. Il n’y avait pas de salle de bain individuelle mais on allait au bain commun appelé « Sento ». Mais en tout cas, par rapport aux habitations plus anciennes où on partageait la salle de bain et la cuisine, l’habitation collective de Horikawa est un exemple symbolisant la vie moderne et individualisme. Le temps passé, dans les années 1980 et 1990, le problème structural des bâtiments telle résistance aux tremblements de terre s’est levé. De nouveau, Horikawa-Danchi est devenu l’objet problématique. Quelques projets artistiques traitent cette habitation collective de Horikawa dans ce contexte-là.

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Sûjin-chiku
HY: Le quartier Suijin est près de la Gare de Kyoto. Autour de ce quartier, l’ambiance est très animée mais seul dans ce quartier il reste quelques terrains vides. C’est parce que ce quartier a été un important hameau discriminé. Avant la modernisation, il existait des classes sociales basses discriminées constituées des gens qui travaillaient pour l’exécution ou l’abattage. Depuis la modernisation du pays, ils ont été officiellement admis en tant que citoyens comme les autres mais en réalité ils étaient toujours discriminés. C’était l’administration qui a décidé ce quartier Sujin comme quartier pour ces gens discriminés pour leur sécurité mais cette décision a finalement mis en relief ce problème structural, qui dure d’ailleurs même aujourd’hui. J’ai grandi près de ce quartier et j’allais à l’école publique, donc j’ai témoigné l’ambiance autour de ce quartier, l’attitude des élèves, des personnels des écoles, comment les adultes l’expliquaient à leurs enfants, etc. La simple justice ou la pitié ne résout pas ce problème car la discrimination est quelque chose qui est présente partout dans la vie quotidienne. Ça prend beaucoup de temps, mais il est important d’éduquer dans le sens « profond ». Donc si les projets artistiques continuent avoir lieu à cet endroit régulièrement, ce sera significatif car ce type d’événements peuvent amener les gens qui ne connaissent pas l’histoire de ce lieu.

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« Festival de l’art de bains communs »
HY: Pour finir, en s’éloignant un peu de PARASOPHIA, je voudrais vous présenter un autre festival de l’art « festival de l’art de bains communs » sur lequel j’ai travaillé. Ce projet essaie également de mettre en lumière le lieu et son histoire. 

D’abord, je vous explique la notion japonaise « se baigner » et ce qui est Sento, le bain commun. La plus part de Japonais considèrent que prendre un bain est une habitude très importante dans la vie quotidienne. Les Japonais donnent une signification beaucoup plus importante qu’un simple acte pour la propreté du corps. Quand on regarde le monde entier, prendre un bain n’est pas une coutume indispensable. Il existe des cultures où les gens ne prennent pas de bain, et il existait aussi la période où on se baignait pas. La coutume japonaise et l’idée obsessive à propos du bain sont plutôt originales selon les normes internationales. Si la pop-culture japonaise appelée « Cool Japan » tels Manga ou Japan-animé est très appréciée, il faudra lancer cette coutume du bain comme « Hot Japan » en tant que nouvelle culture compétitive. Cette coutume japonaise « prendre un bain » signifie « se baigner », « mettre notre corps dans l’eau chaude » et « se laver » ou l’acte pour la propreté du corps n’est pas très importante. Dans l’acte de « Prendre un bain », sentir le volume de l’eau qui permet de nous rassurer mentalement car on est couvert et soutenu par l’eau. L’histoire de bains communs au Japon est un sujet très intéressant, mais aujourd’hui, comme nous n’avons pas suffisamment de temps pour cela, je parlerai du bain commun du temps moderne. C’est des particuliers qui tiennent en générale la maison de bains communs et on peut prendre un bain en payant à peu près 3 euros. Le bain est bien sûr séparé pour les hommes et pour les femmes mais la séparation n’est pas complète. Il y a un mur au milieu mais au-dessus de ce mur il y a un espace ouvert continu. On peut entendre la voix de chaque côté et on peut prêter ou récupérer le savon entre les familles etc. Cet établissement est ouvert du 15h au soir tard. Dans la salle de déshabillage, il y a la TV, les magazines, et on peut boire un boisson frais. Dans la salle de bains, aujourd’hui, il y a des bains différents tels bains bouillonnant (jacuzzi), bain de plantes médicinales, bain électrique, sauna, bain froid etc.

Sento, le bain commun était très courant dans la vie urbaine jusque dans les années 1970. Comme j’ai parlé de l’exemple de Horikawa Danchi, la plus part des gens ne possédaient pas une salle de bain dans leur habitation individuelle. C’est donc le bain commun Sento qui a joué un rôle important d’un lieu de la communication. On peut dire que c’est un type de café mais un café où on est tout nu, évidemment. Dans les années 1980, la salle de bain individuel ont commencé à généraliser, cela signifie le déclin de la culture de Sento. Mais Kyoto garde relativement beaucoup de bains communs. Le festival de Sento, « festival de l’art de bains communs » est un événement créé par les jeunes artistes qui sont intéressés par cette culture. Ces jeunes artistes souhaitent d’apporter leur contribution à l’exposition des oeuvres d’art dans les bains qui permet aux amateurs l’art qui ne connaissent pas la culture de Sento d’expérimenter cette culture. L’une des raisons pour laquelle je travaille pour ce projet, « festival de l’art de bains communs » est fondée sur l’importance de cette culture et la signification du déclin de Sento. Je considère que ces trente ans l’histoire japonaise a fait un tour complet. La disparition de bains communs en ville signifie le changement radical de l’environnement résidentiel et du style de vie au Japon. Cela signifie également la destruction de l’économie et de la vie locale. La disparition de Sento dévoile aussi le changement du paysage de l’ensemble des rues commerçantes comme environnement local. Autrement dit, ce n’est pas seul le problème de Sento, mais cela révèle le changement de la société.

Résumer cette situation comme globalisation sociale et économique est sans doute un peu violent, mais la situation atteint un point critique aujourd’hui. Toutefois, je ne crois pas qu’il faille revenir au passé. À travers l’art, ne pas tomber dans la nostalgie ou l’exotisme, les organisateurs visent à offrir une expérience de la culture de Sento aux nouvelles générations.

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(En raison du temps, cet article n’a pas été corrigé. Merci beaucoup de signaler les erreurs et de proposer les corrections en français pour améliorer l’article.)

07/22/15

OZIMAGA 001 (Photographies des messieurs de Kobe par Yoshiko YAMAMOTO

写真家のヨシコ・ヤマモトさんが手がけてらっしゃるOZIMAGAをパリでお預かりしています。こちらがバタバタしておりご連絡が遅くなってしまって申し訳ありませんでした!これからパレドトーキョーさんやギャラリーさんやオジマガに興味を持ってくれる素敵な場所に、ヨシコさんファン、オジマガファンの皆様に出会ってもらうべく配置してこようと思います!

オジマガは、「神戸の50歳以上のカッコイイオジサマをシンプルに紹介するだけのフリーペーパーです!」(ヤマモトさん)。
記念すべき第一号は、アビョーン・プラス・ワンのマスター&ミュージシャンでいらっしゃる大川透さんと、フランス文学者、作家、ミュージシャンでいらっしゃる鈴木創士のお二人のお写真です。

このマガジン、マガジンと名付けられているものの、ヨシコ・ヤマモトの「ヨ」の字ものってません。「無駄な物は省きたいので」(ヤマモトさん)だそうです。シンプルなマガジンは、シンプルすぎて、カッコいいおじさまのポスターみたいなんです。そう。格好良すぎて、お家の壁にそのまま貼っていただける感じです、そしてモデルのおじさまは神戸の50代のおじさまだそうですが、どこのどなたか存じ上げないにも関わらず、そして普通、どこのどなたか存じ上げないおじさまのこんなでっかいポスターを家に飾ったりせんと思うのですが、ヤマモトさんの写真も選ばれしおじさまもとてもクールです。ちなみに、マガジンのサイズはシンプルでピタリと折られて素敵な持ち運びやすさです。ぜひゲットしてください。ご興味あるかた、ヤマモトさんかこちら(パリなら)にご連絡ください。

OZIMAGA est un magazine édité par Yoshiko YAMAMOTO, photographe japonaise. J’ai certains nombres d’exemplaires à Paris. Contactez-moi si vous êtes intéressé.
L’OZIMAGA est un nom composé : Ozi = un monsieur (environ 50-60ans) plus maga signifie donc un magazine. Ce magazine très minimaliste a été conçu par Yoshiko pour présenter des messieurs COOL qui habitent à Kobe (une ville très chic au Japon). Ce magazine semble plutôt un poster des musiciens car ça montre un monsieur COOL (sur le chaque côté) en noir et blanc avec son info très simple (nom, métier et sa devise). C’est le travail professionnel de Yoshiko YAMAMOTO, en tant que photographe.

Désormais, j’essaie de confier certains exemplaires dans des galeries, des musées, des cafés…afin que les personnes intéressées puissent en prendre un ! N’hésitez pas me contacter si vous êtes intéressés !

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