08/29/12

Louisiana Museum of Modern Art @Humlebaek, Denmark

世界で最も美しい環境に佇む美術館と言われている、ルイジアナ美術館/Louisiana Museumを訪れた。ルイジアナ美術館は、デンマークの首都コペンハーゲンから国鉄ローカル線でHelsingør行きに乗り、約35分、Humlebæk駅で下車し、そこからデンマーク情緒溢れる田舎道を10分強歩く。駅からの道はいたって簡単、案内板が丁寧に出ているし、だいたい皆目的地が同じであるので、迷うことは無い。海と緑に囲まれて、空気がひやり澄んだ北欧の地に静かに建っている。

頑張って10分間歩いたら、向こう側にはすぐにスウェーデンが見えるという海岸沿いでかつ小高い丘で緑が鮮やかな一画に佇むルイジアナ美術館に到着する。
ルイジアナ美術館は近現代アートの美術館で、3000点以上のコレクションを所有する、スカンジナビア諸国最大級の美術館である。1945年頃のピカソの絵画を初め、ジャコメッティ、デュビュッフェ、ルイーズ•ブルジョワ、バゼリッツ、イヴ•クラインといったヨーロッパのアーティストの作品から、アンディー•ウォーホル、ラウシェンベルグのようなアメリカの絵画までを網羅している。年間4回〜6回ほどの企画展を開催し、北欧の地元アーティストやスカンジナビアならであの展覧会や、一挙にはとても並べきれない豊かなコレクションの中から、様々な表現形態を横断するようなコンセプトで鑑賞者に芸術における表現様式の問題について問いかけるような展覧会を行っている。

Lundgaard & Tranberg Arkitekter, Installation shot, a pavillon

コペンハーゲンから35分、駅から10分以上歩かなければならないという立地は、日本であるとヨーロッパであろうと、不便とは言わないまでも、交通の便がよいとは言えない。にもかかわらず、日々こんなにもたくさんのヴィジターを世界中から招き入れ、魅了し続けている美術館は世界に例を見ないのではないだろうか。ルイジアナ美術館が産声を上げたのは1958年、いまから半世紀以上も前のことだ。当初、美術館はデンマークアーティストの作品をコレクションし展示することを目的として開館された。しかし、後にニューヨークで大成功を収めたMOMAにインスピレーションを受けて、国際的な美術館へと方針転向したということだ。ルイジアナ美術館の名前は、1855年に現在の美術館のもとになるお屋敷が建てられた時の家主Alexander Brunが彼の生涯のおいて結婚した3人の女性がすべて「ルイーズ/Louise」といったことから名付けられたそうだ。(なんと!)

Alexander Brun邸が原型となっているmuseum house

皆さんは北海道は札幌の南にある、「札幌芸術の森」という施設をご存知だろうか。個人的な話だが、私は札幌出身なので、こういった自然とアートの融合というコンセプトを聞くと、自ずとこちらの野外美術館の森に囲まれた風景などを思い浮かべる。(札幌芸術の森野外美術館)あるいは、以前訪れた霧島アートの森(霧島アートの森HP)のイメージも近いかもしれない。どちらも豊かな自然に囲まれた野外スペースを彫刻や大きな作品に当てて、四季の営みや時間の流れを肌に感じるような異空間を作り上げている。とはいえ、ルイジアナ美術館が見事なのは、何と言っても海があることだ。スウェーデンを間近に臨む海岸線は空の青と混ざるようだが、よく目を凝らすとくっきりと独立しており、良く手入れされた芝生に腰を下ろし、それを眺めることには飽きがこない。

café, belle vue de la colline

アメリカ人人アーティスト、カルダー/Alexander Calderの例の彫刻がカフェの向かいに。カルダー/Calder(1989-1976)は、若い頃機械工学を学び、エンジニアとして働いたがパリに移り住んでからは、針金彫刻を作ったり、サーカスのパフォーマンスを行うなどして表現活動を始めた。動く彫刻、モビールというアイディアはそれまで動かないのが当たり前であった彫刻にまったく新たな可能性を付与した点で高く評価された。丘の上で森と海からの風を独り占めするルイジアナ美術館のモビールもまた、世界中に佇むモビールと同様にして、それ固有の時間を生きている。

vue face à la mer

Henry Mooreの彫刻。ヘンリー•ムーア/Henry Spencer Moore(1989-1986)は、イギリスの彫刻家である。モダニズム美術をイギリスに紹介し、「横たわる像」のような特徴あるフォルムの彫刻を多数制作した。Reclining Figure(横たわる像)のフォルムを追求することを通じて、既存のFormから自由になり、そして新しいFromを手に入れることを目指していた。多作であった彼の作品は日本でもたくさんの美術館のみならず、なんと、パブリックスペースにおいても出会うことが出来る。

Sculpture, Henry Moore

アーウィン•ワーム/Erwin Wurm(1954-)は、オーストリアの彫刻家。インパクト絶大の滑稽な彫刻を発表し続ける。実はウィーン•クンストアカデミー絵画科への入学を拒否され、彫刻に転向したというキャリアを持っている。後に両親の死に大きなショックを受け、1996年からは精力的に「一分間彫刻」と呼ばれるユーモア溢れるパフォーマンス(と呼ぶべきだろうか)をドローイングして展覧会場で展示するというアプローチをとった。一分間どんなことをするかというと、2つのメロンの上にバランスよく立ち続ける、とか、鼻の穴にキノコを入れてそれを一分間保つ、とか、敷き詰めたテニスボールの上に横になってバランスをとる、とかそういった行為である。写真は、ルノー社と1960年代からコラボレーションした後に実現した、斜めにプレスされたR25。これは、実際に走ることが出来る。

Renault 25/1991, Blue, 2009-2010, Erwin Wurm

ロニ•ホルン/Roni Horn(1955-)、アメリカ人女性アーティストである。30枚のポートレート写真に収められているのは、年齢も性別も職業も様々な人々、しかしよく見ると非常に良く似た眼差しをもっている人々。30人の人々は言うまでもなく、変装したロニ•ホルン彼女自身だ。

a.k.a., 2008-2009, Roni Horn

2008-2009年の作品だが、ポートレートの時代設定は古そうだ。ロニ•ホルンは彫刻、写真を経て、現在はヴィジュアルアートも手がけている。変装ポートレートと言えば、シンディー•シャーマンや森村泰昌が著名中の著名であるが、彼らとさほど年齢の変わらないロニ•ホルンが現代あえてこのクラシカルな主題を引き出してきた背景には、情報化時代のアイデンティティのあり方への興味が深く関わっている。インターネットである人の名前を入力し、画像検索すると、実にたくさんの写真の集合を目にすることが出来る。同姓同名の全くの他人もいるし、色々な折にどこかのサイトに掲載された自分自身の写真であることもある。ロニ•ホルンは、このような時代にひとりの人間をその人と認識し、同定するのはいったい何を意味するのか、という問題について思索する。

Roni Horn

 

ソフィ•カル/Sophie Calle(1953-)はフランス生まれの女性アーティスト、現実とフィクションを織り交ぜたような、日記のようなドキュメンタリーのような作品を作ることで知られている。日本を旅したせいで愛する人に振られてしまった、という悲劇的な幕開けから、出会った人々に彼ら自身の人生における最も辛かった経験を語ってもらうことによって失恋の傷が癒えていく課程を写真と短い日記で記録した「限局性激痛/Douleur Exquise」(1997)は東京の原美術館で2000年に行われた展覧会において注目を集めたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。

Kampfgruppendenkmal, 1996, Sophie Calle

今回展示されていたのは、1996年に彼女が発表した一連の写真と本の断片。「そこにあったモノ/ヒトの記憶」は彼女の表現に貫かれているテーマである。かつての東ドイツに存在していた– 今は消滅したものたちーの記憶。モノがなくなった後には、その跡が残っている。その跡が残っていないように見える場合にすら、それについて書かれたテクストが何かを語り続けるということがある。壁に吊るされた「不在のイメージ」は、それらがどれだけ時間が経って、一見歴史から洗い流されたように見えようとも事実は事実として残り続けるのだ、ということを静かに語る。

Square Bisected by Curve, 2008, Dan Graham

さて、ダン•グラハム/Dan Graham(1942-)のパビリオン、ガラスの壁とそれによって分けられた空間だ。ダン•グラハムは1960年代ニューヨークでドナルドジャッドやソルウィットらの影響を受けてミニマリズムに傾倒していた。後に、写真、ビデオ作品、そしてパフォーマンスを経て、建築ーとりわけ空間の「虚無/nothingness」について考えるような彫刻を作っている。ギャラリーのホワイトキューブではなく、庭という要素の多い空間に置かれたこのガラスの壁は、全く異なる印象を与える。

Temporary Exhibition « NEW NORDIC – Architecture & Identity »

Temporary Exhibitionの »NEW NORDIC »の展示の様子。ルイジアナ美術館では、コレクション展の他に年間に幾つかのこのような特別企画展示を行っている。

Alberto Giacometti collection

そして、ジャコメッティのお部屋。もはや、ジャコメッティをこんなに持ってるんですか、なんて野暮な感嘆をする気にはならない。そうこうしているうちに、日は暮れて、絶対に行きたかった美術館カフェは閉まってしまった。なんてことだろう。
22時半頃の、Humlebaek駅の様子。電車は20分に1本はあった。コペンハーゲンからの往復については、さすがに美術館訪問者のことを考慮しているのだろう。

Humlebæk Station

今回主に紹介させていただいたのは、3000点あると言われているルイジアナ美術館のコレクションに2009−2011年の間新しくアキジッションされた150作品56人のアーティスト作品展示風景からの一部だ。ルイジアナ美術館はスカンジナビア一の近現代アート美術館として、コレクションは美術館のDNA鎖である、という信念のもと新しい作品の購入、新しいアーティストとの出会いに熱心である。インドのグプタや中国のアイウェイウェイ、日本の草間彌生といった欧米のみならずアジアの芸術家も視野に入れている一方で、ここでしか見られない充実したコレクションとして、地元であるHumlebaek、デンマークおよびスカンジナビア諸国のアーティストたちの貴重な作品群をとっても大切にしているということも忘れてはならないだろう。そうでなければ、ヴィジターをはるばる電車に乗せて、海と丘のある素晴らしい場所に彼らを招待する意味は半減してしまうに違いない。

08/27/12

古市牧子/ Makiko Furuichi アーティストはハイブリッドな絵を描く

ある画家から「変態うさぎ」を購入した。「変態うさぎ」は、今は引っ越してしまったが画家の旧アトリエの白い壁で、画家が日々せっせと働いているのを見守りながら、大切にされていたにもかかわらず、機会があったらひょっこりトンズラしてしまおうとチャンスを伺っていたようだ。なぜそんなことを言うかと言えば、光に満ちた明るいアトリエのドアが開き、彼女に導かれてアトリエにお邪魔して、左側の壁をチラリと見た瞬間から、誰かの熱い視線のようなものが注がれているのを肌で感じずにはいられなかったのである。なんのことはない、初めから、気になって仕方なかった、というやつである、「変態うさぎ」のことが。

Lapin bizarre, Makiko Furuichi

アーティスト、古市牧子がフランスに渡ったのは2009年夏、金沢美大を卒業し、Nantes美大の修士課程に進み、昨年同大学で修士号を取得、現在もナント市でアトリエを持ち精力的な制作活動を行なっている。

彼女と知り合って、彼女のアーティスト活動を応援するようになり、かれこれ3年が経つ。お互いにフランスで生活したてのころ、彼女の水彩の作品、一枚はおしりで、もう一枚はちょっと宇宙人的な生き物、この二枚の絵が私の仕事部屋にやってきた。狭い仕事部屋で十分に日の目を見せてあげられないままだったが、私としてはとても大切にしていた。

一体何から話せば良かろう。まず始めに、彼女の描く生き物の不思議な魅力に取り憑かれた。それはたしかに、猫っぽかったり熊っぽかったり、猿っぽかったり、あるいはうさぎっぽかったりするのだが、だからといって「カワイイ」と描写できる純粋な生態からは本質的な意味でかけ離れているように思えた。プラネットが違うとでも言えば良いだろうか。とにかく私は、彼女の作品群において「ハイブリッド/hybride」に分類することのできるこの不思議な生き物たちの、見たことがないほど妙で、眺めても眺めても掴みきれないようなオーラに惚れ惚れとしてしまったのだ。それは彼女がもっとリアルな人間の身体を描いたときにも同じことだった。「絵画」という表現形態をとる作品において、色と輪郭/形、そして構図は言うまでもなく本質的な要素である。しかし、私の臆見だが、彼女の絵画作品において、描かれている生き物達が人であれ動物であれ、あまりに生き生きと絵から溢れ出しそうな色と形を呈しているので、見る人につい構図の問題を忘れさせてしまう。言ってみれば、水彩なら紙の、油彩ならキャンバスの縁がどこにあるかなんか気にならない。その絵のはじっこがどこにあるか、どこまでが絵で、どこからが絵じゃないのかということが問題にならない。そこに表象されているのは、あたかも、古市牧子の創り出すひとつのプラネットのワンシーンであって、その世界は不思議なハイブリッドの動物達を媒介にして、ずっと遠くまで広がって行くかのようなのだ。

さて、個人的な感想ばかりを語っていても仕方ないので、アトリエで撮影させていただいた絵を紹介していくことにする。

Atelier de l’artiste (〜7.2012), Maison de quartier madeleine champ de mars à Nantes

アトリエの壁にはたくさんの水彩作品。人間もいれば、ハイブリッドもいる、色鮮やかな鳥達もいる。このアトリエにいた一年間は、定期的にナント市の地域の人々と交流の機会を持ちながら、彼らに愛されて活動してきたようだ。アーティストがアトリエ近隣の住民に自分の仕事を公開し、交流を持ち、良い関係を築くことはお互いの日常のためにとても大切だ。古市牧子がどれだけナントの人たちとの関係を大切にしてきたかは、道で彼女に出会うナント市民の嬉しそうな表情を見れば一目瞭然だ。

Artiste dans son atelier, juillet 2012

「にやり、とすること!」
ほんとうに面白い人は、月並みで詰まらない問いをぶつけても、なかなか素敵な切り返しをしてみせてくれるものだ。彼女のアーティスト活動の根底にあるテーマのようなものは何か、という問いに対して、彼女は「にやりとすること」と、簡潔で明瞭に答えた。さて、そうは言っても、「にやり」とは一体なにごとか。
140字以内のツイッター要約ならぬ、10文字要約。にやり、とはなかなかセンスのいい表現だ。
自分の作品を見てにやりとして欲しい、人がついにやりとするような作品を作りたい、ということらしい。少なくとも私の方ではとりあえずそのように理解したのだが。
なるほど、ふと再び壁に貼付けられたり立てかけられている作品をぐるりと眺めると、なんとも楽しくなってしまう。楽しいといっても、胡散臭くて偽善に満ちた「にこっとした爽やかな微笑み」ではなくて、かといってブラックユーモアで「ククッ」とするのでもなくて、顔をくちゃくちゃにして大笑いするのでもなくて、他に表現しようがないあの笑い、「にやり」なのである。そう、私はこの「にやり」を別の言葉で言い換えることをハナから放棄している。こればかりは、彼女の作品に出会う人々に色眼鏡なしに味わってほしいと願うからだ。

série de body-builder

つい、にやりとしてしまう作品群のひとつに、ボディービルダーシリーズというのがある。ボディービルダーの肉体というのは確かにわざわざ構築され直しているだけあって独特な方法で異化され、その形もポーズも面白い。ボディービルディングというのは、勿論世界には女性ビルダーの存在もあることを承知の上で、それでもなお非常に男性的なイメージを想起させる。いっぽうで、古市牧子の描くボディービルダー達は、見るところ皆男性であるのだが、その生身の肉体に特有の「男性らしさ」をある意味で欠いている。そこにあるのは鮮やかな色彩と独特な形であり、隆々とした筋肉とか、滴る汗とか、生身の肉体が放つ体臭とか、肌のギラギラした光沢みたいなものが一切感じられない。それどころか、なぜだか分からないが通常ビルダー達の共通項であるつやのある小麦色の肌色は、突如黄緑色に反転させられてしまったりする。この、意味を無に帰すようなユーモアと、モデルの軽やかな中性性がにやりの正体の一側面であると言えよう。

série de body-builder

または、アイドルシリーズ。アイドルを翻訳しようとすると、フランス語にidoleというのが思い当たるが、これは日本のアイドルグループとは全く関係ない言葉である。むしろ、ぴたりと翻訳可能な言語を探す方が難しい。とても若い、しばしば十代後半の少女達がフェティッシュなコスチュームを身にまとってテンポの早い歌を踊り歌う、日本のあの独特なガールズの様子は、疑いなくユニークな文化である。古市牧子は、日本のアイドルの面白さににやりとしながらシリーズを作成した。皆一列にぴたっと並び、同じコスチュームを着て、ポーズをして、笑顔で。誤解を避けるため断っておくが、アーティストの面白いものへの関心は、皮肉や嘲笑とはおそらくかけ離れたものである。もっと本質的なレベルにある単純な関心のようなものではないかと思う。

Série des idoles de la chanson

さて、ここまで生き物ばかり解説してきたが、彼女の繊細なテクニックと豊かな色彩があまりに素敵な植物を描き出していたので掲載させていただいた。彼女は植物も大好きだ。お邪魔させていただいたアーティストのアパルトマンにも幾つもの鉢植えがあったと記憶している。それにしても、この植物のそれぞれの葉の色彩とその重なりを眺めているだけで飽きることが無い。葉の色彩をくるくると転換してみせる太陽の光と、その細くて繊細なツルを揺り動かす風が、目の前にはっきりと見えるような気さえする。

ナント滞在中、ちょうど延長会期中であった古市牧子の個展(あるコレクターの個人宅で行われていたもの)にお邪魔することが出来た。絵画作品を美術館やギャラリーといった、絵画を見せるための空間で目にすることが圧倒的に多いのだが、個人宅での個展というのもなかなか素敵であった。この個展では、アーティストが作成した作品集本も販売され、拝見させてもらったが、なるほど、一挙に作品を楽しむことが出来るし、本というメディアは静かに何度も見たいときに眺めることが出来るので、欲しくなってしまった。

Exposition chez un particulier, juillet 2012

古市牧子、金沢出身の、今やナント市民に愛されるアーティストの多彩なアートワークの中で、今回は絵画作品に焦点を当て、紹介させていただいた。日々パワフルに邁進する彼女の活動の様子やニュースはこちらのサイトをごらんいただければと思う。ヴィデオ作品やインスタレーション作品についての情報もある。
Makiko Furuichi
ハイブリッドな絵を描き、人々とのコミュニケーションを大切にし、人々をその「にやり」の中に招き続ける奇才なアーティストの活躍をこれからも追い続けることができれば、と願う。

謝辞:アトリエ引っ越しでお忙しい中のインタビュー、ほんとうに有難うございました。
(インタビュー:2012年7月9日、ナント、フランス)

08/9/12

Joana Vasconcelos /ジョアンナ•ヴァスコンセロス@ヴェルサイユ宮殿

Joana Vasconcelos/ ジョアンナ•ヴァスコンセロス

過去と現代の女たちへのオマージュ
@Château de Versailles
du 19 juin au 30 septembre 2012
site: http://www.vasconcelos-versailles.com/

ジョアンナ•ヴァスコンセロス/ Joana Vasconcelos はリスボン在住のアーティスト、現在41歳、世界で最も精力的に活動している女性アーティストの一人だ。1971年生の彼女は、2005年のヴェネツィアビエンナーレにおいて発表した、La Fiancéeという25000個の生理用タンポンをシャンデリア風に構築した作品で一躍脚光を浴び、2006年以降は、スカートや洋服などの衣類や毛糸、レースなどのマテリアルを使用した作品を数多く制作している。

村上隆がヴェルサイユ宮殿をクール•ジャパン的ポップでマンガなワールドに作り替えた2010年の9月の展覧会(site) が記憶に新しいが、ルイ14世の全盛期に建立され、フランス絶対王政の富と権力の象徴であるヴェルサイユ宮殿で、現代アーティストとのコラボレーションが始まったのは2008年のジェフ•クーンズ/ Jeff Koons (site)
から、実に最近のことなのである。

ご存知のように、ヴェルサイユ宮殿は今日、ルーブル美術館と並んで、パリの旅行者には知らない者のない観光スポットであり、時期と曜日にもよって異なるとはいえ、日々多くの旅行者が長蛇の列を作り、庭園も含めると25ユーロほどの入場料を支払って城を見学している。なるほど、たしかに一生に一回のヴィジット、と意気揚々に宮殿に足を踏み入れたところ、鏡の間に見も知りもしない現代アートの彫刻がどすんと置かれていたり、王妃の寝室に何やら不気味な髪の毛のお化けが佇んでいたりしたら、文句をいう者や批判する者が出てくるのは想像に難くない。現に、第一回目のJeff Koonsの時はもちろんのこと、村上隆の展覧会の際にも、アニメやマンガから着想されたキャラクターたちに城が侵略されることを良く思わない一部の保守的な人々から厳しい批判の声が上がった。

ヴェルサイユ宮殿のような不朽の歴史的建造物はもちろん、ただ現状を維持し、改修•保存し続けるだけでもおそらく世界中からの観光客を呼び続けることができるのかもしれない。しかし、宮殿を毎年ひとりのアーティストの作品によってまったく新しい展示空間に作り替えてしまうことは、歴史的建造物であるのとは別の次元で非常に面白い試みなのだ。ヴェルサイユ宮殿のゴージャスな外装•内装からして、たしかに展示すべき作品の華やかさやスケールの大きさが求められることは間違いない。しかし、個人的にはアイディアとして素晴らしい試みであると高く評価すべきだと思っている。展覧会が美術館やギャラリーで行われることが多い今日、無地の壁でない、しかも政治的だったり社会的だったり性的であったりと、多様なコンテクストをまとった空間で作品に対峙するという体験はとても貴重だ。

La Fiancée 2005

ポルトガル出身のジョアンナ•ヴァスコンセロスは、ヴェルサイユ宮殿における現代アート展示第5回目にして、ようやく初めての女性アーティストとして宮殿に招かれた。会場である宮殿内と庭園には16点の作品、そのうちの8点がこの展覧会のために制作された作品だ。彼女がこれまである種、フェミニスト的なメッセージを掲げて制作してきたことはまず押さえておくべきだろう。前述した最も有名な作品、La Fiancéeとその相棒のCarmenはそれらが生理用品であるタンポンで作られているとかセクシュアルな意味を含有する作品はヴェルサイユ宮殿にふさわしくないとかいう理由で、宮殿の方針によって却下されてしまったのだ。そのことについて、アーティストは失望しながら以下のように述べている。

「まず最初に問題になったのは、La Fiancéeを宮殿に展示するかどうかでした。私はLa Fiancéeと対の作品であるCarmenを鏡の間に、具体的にはLa Fiancéeをあるべき位置(つまり鏡の間の内部)、Carmenをその外側に位置づけるという構図を夢見ていました。白いタンポンでできたLa Fiancéeは純真を表し、黒いCarmenは娼婦を表しているの。これらの作品は性的であるという解釈のもと、ヴェルサイユ宮殿にそぐわないものと判断された。あたかも、ヴェルサイユ宮殿には女性もセックスの話も存在しなかったかのように!」

La Fiancée en détail

女性アーティストを招き、しかも奇しくもフェミニズム的作品を制作することで知られるジョアンナを招いておきながら、25000個のタンポンによるLa Fiancéeが鏡の間に誇らしげに吊り下げられなかったことに、現在のヴェルサイユ宮殿と現代アートとの関係性の限界を感じざるを得ない。どうなっていくべきなのか、どうなっていくのか、まだその結論は出ていないのだ。

Marilyn(PA), 2012

そういった訳で、鏡の間には、Marliyn(マリリン)が展示された。鍋と鍋の蓋で信じられないほど精密に構築された巨大なハイヒールは、女性の性的アピールとしての魅力を象徴すると同時に、依然として女性の仕事であり続ける料理や掃除といった家事仕事のモチーフ(鍋)を意味している。さらにこの巨大な寸法は、ルイ14世が宮殿を建てさせた17世紀から今日に至るまで、全ての女性たちが努力の末獲得してきた権利や自由の大きさを象徴している。この展覧会のタイトルも、 »Hommages aux femmes du passé et aux femmes modernes »(過去と現代の女性たちへのオマージュ)である。

Marilyn (PA), back

この展覧会を訪れて一番最初に出会う作品、Mary Poppinもまた、Pamela Traversの小説に現れる女性へのオマージュであり、女性参政権と女性の自由のために戦った登場人物なのである。

Mary Poppin, 2010

このMary Poppinのマテリアル使いと大きくて奇怪な生き物のようなスタイルは、展覧会後半に現れる3つのワルキューレ彫刻にまで引き継がれている。レースやカラフルな布を使い、毛糸で鉤針あるいは棒針編みされた装飾が施されている。ワルキューレは北欧神話において、「戦場における生死を決定する女」であり、女性の神性の象徴的存在とアーティストによって捉えられている。

Walkyrie Trousseau, 2009

二つの向き合った手長エビは、Le Dauphine et La Dauphine(ドーファンとドーフィンヌ)と名付けられており、テーブルの上に向き合って配置されている。ポルトガルレースが施されており、ドーファンが雄でドーフィンヌが雌である。

Le Dauphin et La Dauphine, 2012

Gardesは文字通り、番をする2頭のライオンだ。勇ましく、好戦的で、強さの象徴である2頭のライオンを、ウエディングドレスに使うレースで装飾してしまうというアイディアの背後には、戦争を好む男性性を嘲笑するようなアイロニーが見え隠れする。

Gardes, 2012

Lilicoptèreはもちろんヘリコプターをかわいくもじった、ピンクのヘリコプターの作品だ。大量のダチョウの羽毛で飾り付けたヘリコプターは、王妃マリー•アントワネットが王宮をダチョウの羽で飾りたいと述べたという言い伝えから着想を得ているそうだ。

Lilicoptère,2012

さて、ご存知のように、フランスの歴代王妃は公開出産を強いられてきたのであり、ハプスブルク家から嫁いだマリー•アントワネットも例外ではなく、Chambre de la Reine(王妃の寝室) において公開出産した。La Fiancéeはむしろ、王妃の寝室に展示されても良かったのではないかと思うが、実際にはPerruque(カツラ掛け)がこの部屋のための作品として選ばれた。Perruqueは、赤褐色の卵形の立体からたくさんの突起が出ており、その各々から様々な色の髪の毛が垂れ下がっている、どう見ても奇異でグロテスクな様相をしたオブジェだ。ジョアンナ•ヴァスコンセロスは、このPerruqueの展示をめぐって再度宮殿側と衝突することになる。この作品を展示できないのなら、展覧会は無かったことにする、と言うことによってようやく展示が認められたという。

Perruque, 2012

Perruqueが物議を醸したのは、このオブジェがただ単に、あまりにロマンティックでフェミニンな王妃の部屋に似ても似つかぬグロテスクな形をしていたというだけが理由なのではない。細長い楕円の立体はまぎれも無く、女性の子宮の中に放り出される「卵(らん)」なのである。卵に纏われた多数の突起は、固くなったたくさんの男性器のようにも見えるし、何らかの暴力的なコンテクストによって歪められ、奇形化してしまった可哀想な卵子のようにも見える。 歴代王妃の公開出産が行われたとされる「王妃の寝室」において、この作品を展示しなければならないアーティストの主張は最もであるし、それを防ごうとした宮殿側の方針が存在することも理解できる。(突起と髪の毛は実際には19個取り付けられており、それは王位に就いた子どもも含めこの部屋で出産された全ての王室の子の数に相当する。)

 純真性を象徴するLa Fiancéeと娼婦であるCarmenが鏡の間の入り口を挟んで対面する、その劇的な瞬間を体験することの出来るもうひとつのヴェルサイユ宮殿現代アート展示とはいかなるものだったのだろう。私たちはそれを、残された16個の手がかりから推測し、深い想像に身を浸すほかなく、それは悔しさにも諦めにも似た感情である。それでもアーティストは作品を作っているし、彼らは議論している。変わって行くことも、たくさんあるのである。