08/31/14

たよりない現実、この世界の在りか @SHISEIDOGALLERY

「たよりない現実、この世界の在りか」展

SHISEIDOGALLERY
2014.7.18 – 8.22
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銀座の資生堂ギャラリーで開催されていた「たよりない現実、この世界の在りか」展は、アーティストの荒神明香とwah documentの南川憲二、増井宏文で構成される現代芸術活動チーム「め」による個展である。資生堂ギャラリーはブティックとは別の入り口を通って地下に降りて行くのだが、展覧会の張り紙はあるもののそれらしい入り口が見当たらない。工事中で鉄骨のあらわになった壁がビニールシートで覆われたような、あれっ、ピカピカの銀座の資生堂にこんな場所が?と思しき空間を意味有りげにのぞかせたドアがこちら側に開いている。どうやらここが入り口である。

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「たよりない現実、この世界の在りか」と題された展覧会はぜんたいでひとつの小宇宙とも宇宙そのものとも呼ぶべきインスタレーションになっていて、この心配を誘う入り口の足場に注意を払いながら階段を下りて行くと、強烈に暖色系の照明が、まだ暗さに慣れていない目の奥に焼き付く。ホテルの廊下に見立てられたその通路には、部屋番号が付されたいくつかの扉が閉じられており、壁には丁寧な印象を与えるランプと異なる世界からのメッセージを自動筆記したようなドローイングが飾られている。廊下は一度曲がって、左手に小さな部屋があり、突き当たり右に、こんどは一部屋だけ、覗き見ることの出来るホテルの一室があるようだ。

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廊下をゆっくりすすみながら、依然として目が慣れない。廊下を一度曲がったあとに、一度目の世界の裂け目と出会う。暗闇の中にホントウは見たことがない「木星」はきっとこのような見た目を呈するのではないかと子どもの頃よく眺めていたカラーの図鑑『宇宙』の本の色のついた美しいイラストのことなどを思う。ぼんやりと浮かぶ球体は、廊下の奥の小さな入り口から入る部屋からも覗き見ることが出来る。

廊下の突き当たりにドアが開いた部屋があり、訪れる人はその公開されたホテルの一室を出たり入ったりしている。ぴたりと整った客室、そこはしかし既に誰かに割り当てられた後の部屋であり、衣類や帽子などが置いてあり、机にもその人の私物と思われるいくつかの物が置かれている。私たちは、誰かの部屋にこっそり忍び込むよう招待され、それゆえに、ベッドや部屋の物に触れてはならないと予め注意されている。客室に住むその洋服や物品の持ち主は、私たちがここに来たことすら知らないのだ。では私たちがいるのはいったいどこなのか?なぜこっそりと誰かの部屋を覗き見ることに招かれ、その人に知られることなく去らねばならないのだろう?もしかして、私たちがホテルに滞在するような時、いや、そもそもいつも通り自分の部屋にいるような時、だれかが訪れてこっそりと我々を垣間みて帰って行く、そんなことがあったのかもしれない。

私たちは誰かの滞在する部屋の縦長の裂け目のまえで立ち止まる。鏡だ。それは通常私たちが「鏡」と呼んでいるものの形状をしており、ただしその境界面は私たちの存在を認めない。触れてはならないと言われている展示の中で、そこに鏡があると信じる以上手をのばすわけにはいかない。なぜ?私たちが頑にルールを守るのはなぜなのだろう?鏡に自分自身が写らないという非常事態を前に、世界と調和するためにルールを守る必要なんてないにちがいない。非常事態は信じ込んでいた世界が壊れるということを意味しているので、このようなとき、風穴が空く。鏡だと思い込んでいた、しかし私を映し出さないそれは、もうひとつの向かい合った部屋に出入りするための穴であったことを見つける。穴は見つからないかもしれない。見つかればそこを通り、見つからなければ戸惑うだろう。しかし人はいつしかその両方に慣れて、二つの異なる世界で生き続けることができるのである。

部屋にあった鏡が裂け目あることが見つかり、ぽっかりと浮かぶ惑星を認め、もういちど灼熱の銀座8丁目の地上に登る道筋がみつかり、地下で見たものについて考えを巡らすこともひとつの現実であり、たとえばホテルの一室で、自分の写らない鏡の前を素通りし、来た道を戻るようなことがあっても、あるいはまた、ギャラリーの入り口のドアのなかの不穏な様子を垣間みて、地下には降りないと決意することも、それらはすべてありそうなことであり、あってよいことである。

「たよりない現実、この世界の在りか」は、一つのありそうな「世界の在りか」を提示することを通じて、もしかして私たちが何らかの事情や慣習から見ないように気をつけていることなどを凝視するような契機を与えてくれるのかもしれない。世界は意外と隙だらけであることなど。

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08/30/14

INVITATION – 浮遊する意識 –

INVITATION – 浮遊する意識 –
2014.8.9 – 8.24 @KCUA
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8月24日まで@KCUAにて開催されていた本展覧会は、京都市芸術大学芸術学研究室の学生が企画・実施する展覧会「Colors of KCUA」シリーズの第4回で、「INVITATION = 招き」をコンセプトとして構成されている。日本語の「招き」は古語「招し」(おもしろい、好ましい、美しい)に関わるという本来の意味に着目したコンセプトだそうだ。
なるほど、INVITATION=招きの展覧会は、おもしろい経験へと鑑賞者(あるいは参加者、体験者)を招いてくれるダイナミックな空間であるようだ。

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展覧会会場に赴くと、まず迎えてくれるのは、東谷俊哉の作品《「私」の観測法》のベイビーだ。ちょっと怖いが近寄ると、やっぱり更に怖いのだが、長いへその緒で向こう側に繋がっている。そうか、このベイビーはまだ産み落とされておらず、母の肉体と接続している存在として一時的にこの場に置かれているのだろう。体験者は、ベイビーの向こう側に居る母親の体内を思わせる着物の中に潜り込むように招待される。その内部では赤ん坊の視野が転写される一方、着物の内部に包まれて声を持たない「内側」の者の発言は赤ん坊によって媒介されて「外側」に向けて発せられる。身体を用いた体験を通じて、自他の境界に関わる問題を扱うこの作品が、へその緒で結びついたままの赤ん坊とそれを宿すものを「自」「他」の表象として用いたのは、ロジックであるが同時に奇妙なことでもある。産まれる私はそれを宿した個体とは根本的に異なる個体であるにもかかわらず、その両者は曖昧に接続されており、その内部ではたしかに、思考や感覚の転写や媒介ということが起こっても不思議ではない。あるいはもっと自他の境界が曖昧な世界では、そもそも、赤子とそれを包むもの両方が、自分という個体の異なる現れ方であると認識することも可能かもしれない。ここで、世界からやってきて知覚されることと、世界に向けて作用することという二つの距離が近づいたり離れたりするのだ。

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映像を映し出す複数の画面が一面の背景のように設置され、その前には赤い布がかぶせられた背の高い台がある。台の上には古代の宗教儀式を思わせる五体の埴輪のようなものが置かれており、赤い布が広げられたその地面はというと、無数の埴輪の欠片が散らばっている。黒木結の《consum(ed)er》は、資本主義経済において消費される「アイドルという生身の少女のイメージ」についての作家の思考を表しているそうだ。画面には断片的に、いわゆる「アイドルらしい」少女が、フェミニンなワンピースを着て現れ、少年と仲睦まじくしている様子などが映し出される。そして、埴輪が振り落とされた金槌によって破片と化すプロセスが繰り返される。
モノを破壊するという行為は、それがたとえ小さな規模であっても、そこに暴力が介在するという点で、その破壊行為そのものが強い印象をもつ。それが映像として表現されたときは殊のほか強烈である。それが繰り返されればさらにその効果は補強される。それゆえ、物語全体は破壊行為に煙に巻かれない意味を持つことが必要になるだろう。
「アイドル」というのはもちろんテレビに登場するアイドルだけでなく、「アイドル的存在」といった表現によって想起されるイメージも含めて「アイドル」と作家は呼んでいるのだろう。イコンを壊し続けることによってなされることはなんなのか。消費され続けるイメージを新たにしうるのかどうか。こわしてもこわしても、映像はループし、おわりなく、アイドルは現れるのである。そのことがむしろ真理のようでもある。

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横内朝の繊細で内省的な物語を表現するインスタレーションは、小鳥をモチーフにして恋愛を表現した作品である。過剰に演出されたナイーブなテクストやオブジェは、「恋」や「恋愛」がしばしばそのように作り込まれていること、作り込まれた虚構の物語を反復するように導かれていることなどを十分に戦略的で強かに暴きだしていると言えるだろう。

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鈴木孝平の映像と写真作品は、我々が普段見ているはずのものや、感じているはずの感覚を提示する。たとえばビニール袋がくしゃくしゃになった状態からどのように広がり、どこまで広がれば動き続けるのをやめるのか。小さくまとまったコードがどのように元の形に戻ろうとして、しかしどの時点でもう動けなくなるのか。我々はそのことを知らない。これらのビデオを見ながら、我々はそうか、普段は意識していないけど、こんなふうに世界は営まれているのだな、などと、無垢なことを思うかもしれない。しかしふと考えて見ると、我々は普段あまりにも不注意で、そのことが本当に起こっているのか、あるいはどのように、いつまで起こっているのか、そのことを全く知らないのだから、それらがたとえば真実でも虚実でも、結局の所、我々はそれを判断できない。知らない我々はそれを信じるのは自由だが、信じなくても別に良いのではないか、ひょっとしたら、信じられないようなおかしな方法で世界が動いているかもしれず、それはそれで、そのほうが面白いのではないか、などと世界に関心を与えてくれる作品である。

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08/29/14

アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕 / Art Scope – Remains of Their Journeys

「アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕」

原美術館:http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
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原美術館では、2014年7月12日から10月13日より、四名のアーティスト:今村遼佑、大野智史、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)による「アート・スコープ2012-2014」展が開催されている。本展覧会は、Daimler Foundation Japanの文化・芸術支援活動 »Art Scope »の一貫で海外での経験を経た四名のアーティストが、その交換プログラムの成果を、それぞれの異国での経験をもとに制作した新作によって発表する展覧会である。2012年、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)はドイツより日本に召還され、今村遼佑、大野智史は2013年、日本より派遣された。

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大野智史の絵画には、具象的に描かれた植物の葉や実、それを取り巻く自然の景色を認めることができるが、そこに強烈な色彩の幾何学的で抽象的なフラグメントが挿入されている。背景の色もオレンジや白が用いられ、それはおよそ描かれた植物が生きる世界とは異次元であるにもかかわらず、時にカオティックに配置されるそれらは、飛び交い混ざり合う幾何学的欠片を通じて結びつきを持っている。
大野智史の絵画には21世紀のデジタル技術と絵画の融合の可能性を探る態度が見られる。デジタルイメージの転用、複数のイメージのレイヤーを重ねるということ、そういった表現は今日多くの表現者によって新たな可能性の追求が行なわれており、既視感とは恐ろしく、ときに我々の鑑賞を妨げ、瞬時に行なわれるステレオタイプな判断で我々を盲目にすらする。大野智史の大きな画面を何度も見つめながら、私は、現在のようにデジタルイメージで溢れ返る時代に、わたしたちがなお、絵画作品に向かい合う意味があるとすれば?という問題について考えていた。(もちろんその意味があると思っているから見るのだし、表現者が描き続けるのも同じ理由だと信じているのだが。)
画家の創り出す「表面」が非常に触覚的なものであるということが、これに向かう一つの理由になり得るだろう。どれほどデジタルイメージの解像度が上がり、3Dの再現性も進化したとしても、それでもなお、近づいて凝視する価値のある絵画であると私は呼ぶだろう。

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お盆を過ぎ、晩夏の蝉が力を振り絞って鳴き尽くし、原美術館は懸命な喧噪に取り巻かれていたのが、今村遼佑のインスタレーション作品が置かれた展示室に足を踏み入れると、そのような世界とはついにぷっつり切り離されてしまったかと一瞬思われたほどだった。「一瞬」と言ったのは、実際には彼の作品は、窓際の外界の雰囲気や、光や空気の射し込む様子とダイナミックに関係をもつものであり、その空間に身を置いて経過する時間を感ずることによって、切り離されたかのように感ぜられた外側の世界と内側の世界は再び一つに統合されることに気がつく仕組みになっている。
それにしても、一歩足を踏み入れたときの、鑑賞者を暖かく守るような繊細なで整然とした空間は、そのような強烈な印象を私に与えたのであった。
曖昧で奇妙な言い方だが、今村遼佑のインスタレーションを経験して感じたのは、それらのインスタレーションに取り巻かれている磁場と、それと無関係に存在し/存在した/存在し続けるところの外界との距離が揺らぎ、その中で持続的な眩暈を起こすような感じだ。その距離はゼロでも無限でもなく可変的で、そのメタ的な眩暈すら時と場所を変えても思い出される不思議な感覚なのである。ひとつの手がかりとして、映し出された映像はベルリンで撮影されたものであり、異なる場所に我々を接続するということと、それが加工を経ることによって虚構性を増すことがあげられるだろう。

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リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)の「八丁堀」は結びついた和紙にフェルトペンによるドローイングであり、とても素敵な作品であった。絵画のそれぞれは糸で結びつけられていて、それはスッキリ解かれて離れているものもあれば、緩やかに絡まり繋がっているものもある。糸によって物理的に結びつけられるだけでなく、そもそもそれらは重ね合わされた和紙に滲みやすいフェルトペンで描かれており、一枚二枚下の紙にも同じ軌跡が認められるのは、そういったわけである。あるドローイングは、その下に置かれた数枚の和紙に浸透する。重なり合った和紙が同じ痕を共有し、それがたとえ旅のあとにバラバラになり、世界の離れた場所に散らばっても、彼らはその痕跡を留める。それはマテリアルである全てのものが持てる能力である。

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ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)のビデオ作品「つかのまの記念」は、彼が日本滞在した2012−2013年の経験(日本という国の震災の傷痕とフクシマをめぐる国際社会情勢)を主題にしている。作品は、何かドラマチックなストーリーを展開するわけではない。25分間のビデオのなかに認めることが出来るのは、フクシマの原子力発電所の作業員のイメージを表すという真っ白のユニフォームを着た一人の人が、東京の人混みや交差点、様々な場所に立ち尽くしているの姿である。そこには何もおこらない。そのひとは非常に目立っているのに誰もが通り過ぎ、見られているのにそこに軋轢は起こらない。存在していないかのようであり、不穏でもある。ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)が表現したのはその違和感かもしれない。

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08/28/14

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ホテルアンテルーム:http://hotel-anteroom.com/gallery/

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「インティマシー(親密さ)」という類いのテーマが、美術の展覧会においてとりあげられるとき、それがとても魅力的に思えるのはなぜだろう。展覧会だけではない。作品がなにか「親密さ」に関わる主題をめぐって作られたとき、たとえば、美術作品や文学作品、演劇や音楽、あるいはパフォーマンス。様々な形をとって行なわれる表現が、人々の非常に個人的な部分に触れると知るとき、そのようは表現は「繊細で脆く小さな世界」を捉えたに過ぎないと一蹴されうるいっぽうで、同時に、隠された脆弱なそれを垣間みたくてたまらないという欲望に人々は駆り立てられるかもしれない。
そのような状況は、「親密さを表現する」行為それ自体が、ア・プリオリ、見られるべきでない親密な瞬間を他者の目の前で暴露するという自己矛盾の遊びであることに端を発する。

そもそも、芸術の主題は古来より親密な主題に溢れている。親密な主題、それが追求されるのは、異なる人生を生きる個人の非常に違った人生のフラグメントが他者にとってもの珍しい対象として受容されるからではなく、それがユングの元型(archetype)のような普遍的表象の領域に触れうることを人々が直観的に知っているからである。そのことが脆弱な個人をインティムな領域から解放し、大きな世界に関係することを許すのだ。この意味で、一般に普遍性の芸術と呼ばれているものも実は、脆くて小さな個人の表象と表裏一体である。

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さて、「親密すぎる展覧会」の「親密すぎる」とはどういうことだろう。
人はいったい、親密すぎることが出来るのだろうか。恋人同士はいったい、ほんとうに親密すぎる関係なのだろうか?
多様である個体間の関係において、「過剰に親密である」状況を定義するのは難しい。人はどれだけ交わりをもち、共振し合っても、おそらく過剰に親密であることができない。この点では、恋人同士よりも思考の奥深くまでを共有する双子のような個体のほうがずっと親密であると言えるかもしれない。この展覧会タイトルは、冒頭にも述べた、我々の親密なるものへの抗いがたい興味を刺激する戦略的なものだ。私たちは、逆説的にも普遍的である「アンティム」なものを垣間みたくてたまらないように運命付けられている。

本展覧会は、ホテルアンテルーム京都 Gallery 9.5で開催された。8組のカップル(アーティストだけではなく、ギャラリスト、学芸員も含まれる)が、協働で作品を制作し発表している。

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

「〈手をつなぐこと〉のためのドローイング」と「〈手をつなぐこと〉のためのインストラクション」は井上文雄+永田絢子により構想され、異なる時間と場所で実践されたイベントである。非常にシンプルなインストラクションは以下の通りだ。

0 待ち合わせ場所に集まってください(トランプを持参すること)
1 トランプの数字を使ってくじ引きをして2人組をつくります
2 それぞれ決まった相手と手をつないで、自由に過ごしてください(90分)
3 最初の場所に集まり、どのように過ごしたかを全員で話し合います(90分)

よっぽどの人好きでない限り、知り合いでも友人でもない他者と手をつないで90分を過ごすのは心理的に抵抗を伴う。苦痛を感じる人もあれば、時間を持て余すかもしれず、あるいはひょっとすると繋いだ手のぬくもりと共有した時間が相手への愛着に転じることもあるかもしれない。こういった「イベント」は日常生活で訪れることない奇妙な事態である。非常事態であるからこそ、新しい関係性の経験をもたらしうる。人々が、奇妙で常軌を逸したこのようなパフォーマンスに、しばしばすすんで身を投じてしまうのは、そのような非常事態の可能的意味を察知する能力があらかじめ備わっているからに他ならない。

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高木瑞希+竹崎和征の作品は、何枚かの異なるドローイングが切り刻まれて、一つの画面を再構成している。細く切り取られた各々の欠片は描かれていたものを垣間見せるものもあれば、全く分からないものもある。目の粗い織物のように再度合成された性質の異なるフラグメントの集合体はまるで、恋人同士という一般的に非常に強く結びつき、互いの深い部分まで踏み込んでいるように思える関係性において、その二つの個体は、混ざり合って中和するのでなく、依然として異物としての存在を保ちながら、しかし分離不可であるつよい結びつきとして存在していることを明らかにしているように思える。

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菅かおる+田中和人の「before flowers are blooming on canvas」は消えかけているような、目を凝らしてもその細部を認めることのできない、独特な表面が印象的な一連の絵画である。

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斎木克裕+西脇エミの作品「CURRENT」はドローイングの下に形而的に水を受けるためのコップが用意されているマンホールを表したものと、イメージの上に水が入ったコップを置くことによりカナル・ストリートを表した二つのインスタレーションから成る。私が展覧会を訪れた日は、九条駅から5分歩くのもままならぬ大雨だったのだが、窓際に設置されたインスタレーションである点在するコップが暗示する「CURRENT」(流れ)が外界とのつながりを強く認識させた。「流れ」は8組のカップルが提案するそれぞれの表現を繋ぐのみならず、それが建物の外へと溢れて行くように促しているようである。

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会は、8月31日まで開催されている。

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08/5/14

関係のないことを攻撃しない

関係のないことを攻撃しない

« On s’en fout. » という言い方がある。フランス語の代名動詞「s’en foutre(Sは◯◯に関心がない)」を含むフレーズであり、敢えて日本語にするなら「私には関係ね〜!」という感じである。ただし「私には関係ね~」は厳密には正しくなくて、なぜなら »On s’en fout. »の主語である「On」は、人一般を指すからである。 »On s’en fout. » はしたがって、誰にとっても当てはまる一般的事態として何かについて、「(んなもん)関係ね〜!」という感じなのである。

日本人は »On s’en fout. »と言わないように育てられ、社会生活でもそのようにあるように訓練され、さらには次世代もそのようにあるように教育している人々であると思う。「関係ね〜!」で済めばいいものが、「関係ね~!」とならない。「関係ね~!」などと言うことは無責任でデリカシーに欠けており、何かから逃れようとしており、社会生活を逸脱しており、したがって信用がおけない個体であると糾弾されかねない勢いである。とりわけ、多くの人がマス・メディアによって駆り立てられ、興奮させられているような状況下に置いて、「関係ね~!」などと口走ることは、生命を危険に晒しかねない暴挙にすらなりうる。
厄介に思われるこの集団的特質は、時と場合を選び、国際社会において驚きと賞賛を以て迎え入れられることもあるだろう。マナーのよい、ニコニコした、優しく気配りのできる日本人、という風に。数年前「KY(ケーワイ)」という言葉が一躍流行語となったが、言葉そのものはさておき、「空気を読む」ことの重要性の信仰は伝統的なものだ。「空気を読む力」は、しばしば、コミュニケーション不全の現代を批判的に論じるような文脈で、あたかも世界中でも類を見ないほどに日本人が卓越している持つ美しき能力のように崇められるが、この素敵な「国民性」と自滅的な暴力性は、一枚のコインの裏と面である。

「空気を読む」ことは特定の水準において美徳であれど、普遍的な善ではない。少なくとも、読まない個体を攻撃することは、善で有り得ない。それは、嫉妬と呼ばれるものである。

私たちの日常は、愛で溢れているという以前あるいは同時に、人々の緑の目の攻撃性に満ちあふれている。攻撃的な態度、攻撃的な行為、攻撃的な言葉、そして絶えず攻撃的であるように押しすすめる攻撃的な思考。攻撃が生み出すのは次なる攻撃であり、その暴力は他者に向かうか、さもなければ自己に向かう。それは消滅せず、どこかに向けられる。せいせいした矢先には弾を受けて苦しむことの繰り返しである。

だが、緑の目の攻撃者が無心に矢を放つその対象は、じつはさほど、彼らの大切なことに「関係ない」ことが多いのである。(大切なこと、というのは本質的に大切なこと、という意味だ。)

関係ないことは、攻撃しないでよろしい。暴力の威力は、世界をよくはしない。すなわち、個体を楽しくもしない。人々を生きやすくもしない。
私たちは、生きやすくても生きやすくなくても、ドロップアウトはしないのだから。