03/30/13

尋常な話 – 5 女性的身体 / Des histoires ordinaires – 5 Le corps féminin

5  Le corps féminin

J’affectionne le corps féminin, notamment les fesses et la poitrine.
Il ne s’agit pas forcément d’être lesbienne, ni de détester l’homme.
C’est juste une véritable affection pour ces parties corporelles.
Mais surtout pas n’importe lesquelles.
Un dessin de mon amis représentant des fesses me plaît beaucoup,
ainsi que quelques tableaux de Louise Bourgeois ( intitulé « série fragile ») sont magnifiques.

La poitrine des femmes est une merveilleuse choses du monde.
Cette rêverie inquiétante ne me lâche jamais depuis mon enfance.
Je réfléchis sérieusement l’origine de mon rêve à l’époque de ma puberté.

Une conclusion m’arriva quelques ans plus tard.
Quand je suis née, le toucher et la tiédeur de la poitrine de ma mère toujours me manquaient.

Ma mère n’arrivait pas à me donner suffisamment du lait maternel,
je pleurais de faim sans cesse.

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5 女性的身体

わたしは女性の身体が好きである。とりわけ、おしりとむねが好きである。
このことは、必ずしもわたしがレズビアンや男性嫌いであることと一致しない。
ただたんに女性のおしりとむねという部位がほんとうに好きなのである。
とはいえ、もちろんなんでもいいというわけではない。
アーティストである友人が描いたおしりは心からすばらしいと思うし、
ルイーズ•ブルジョワの »fragile »シリーズはずば抜けてすばらしい。

とりわけ女性のむねは、世界で最もすばらしいもののひとつである。
この不安をかき立てる妄想は幼少期からわたしに取り憑いて決してわたしを放さない。
思春期のわたしはなぜそんなにむねが気になるのか真剣に考えた。

のちになってひとつのことに気がついた。
わたしが生まれた時、母のむねのぬくもりと温かさを
わたしは十分に得られなかったことにそれは由来するのではないか。

母のむねはわたしに十分な母乳を与えることが叶わず、
わたしはいつもお腹を空かせて泣いた。

 

*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/30/13

尋常な話 – 4 セキセイインコ / Des histoires ordinaires – 4 Les perruches ondulées

4 Les perruches ondulées

Je trouve que la perruche ondulée est la plus mignonne du monde,
mais je ne l’aurai plus jamais.
Quand j’étais petite, on n’avait presque jamais d’animaux chez moi.
A part les insectes que j’avais attrapés, les poissons rouges, les écrevisses,
je n’avais pas eu d’ animaux comme des oiseaux et des mammifères.
Je suppliai à mère d’avoir quelque animal chez moi.
Elle me le refusa sévèrement pendant quelque années.

La chance tomba en tourbillonnant à l’improviste.
Nous avons eu deux perruches ondulées, bleu et jaune, qui étaient encore bébés.
Nous les avons nommés Prune et Bonite.

La séparation vint également de manière soudaine.
Mon petit frère plus sensible que moi développa une allergie aux plumes des oiseaux.
Je dus confier ces deux petits trésors à une de mes amis.
Elles vécurent et furent mortes en quelques années.
J’ai collecté toutes leurs plumes tombées dans la cage
pour les garder toute ma vie.

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4 セキセイインコ

小鳥は世界で最も可愛らしく、かつわたしがもう決して共存しない生物である。
子どもの時、わたしはペットをほとんど飼ったことがなく、
たとえば捕まえた虫や、金魚や鯉などをべつにして、
鳥やほ乳類に属する生物をペットとして飼うことはなかった。
そのような動物を飼いたいと泣いて母にお願いした。
彼女は何年もそれを拒絶した。

あるとき突然にチャンスはやってきた。
青と黄色の、二羽のセキセイインコを飼うことになった。
彼らは梅とカツオと名付けられた。

離別もまた突然にやってきた。
わたしよりもデリケートな弟が羽毛アレルギーを発症した。
わたしは小さな宝物たちを友人か誰かにあげることになった。
彼らはひとりの友のお陰で幸せに暮らし、そして死んだ。
わたしは彼らが去ることになってから抜けた羽を全て集めた。
ずっとずっととっておくために。

 

*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/30/13

尋常な話 – 3 ひげ抜き / Des histoires ordinaires – 3 L’épilation des barbes

3  L’épilation des barbes

Chacun a des manies de différentes choses.
On ne sait pas pourquoi mais il y a des enthousiasmes irrésistibles
qui bouleverse fondamentalement la sensation corporelle juste avec l’imagination.

Une de mes manies est d’épiler les barbes des hommes.
La racine des poils est une drôle de chose.
Ni poils corporels, ni cheveux, la racine des barbes donne une  impression magique

lorsque l’on les arrache de leurs trous sur la peau.
Le son produit lors de l’épilation est fin et agréable.
La forme de leur racine représente une ligne parfaite.

Une chose qui ne me contente pas suffisamment
est la difficulté de rencontrer des hommes généreux qui me permettent de le faire
à cause du peu de cette population existant dans le monde.

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3 ひげ抜き

それぞれ人には、好きでたまらないことというのがある。
なぜだかわからないが堪え難い情熱と言おうか
それをするのをイメージするだけで身体がぞくっとするようなことがあるのである。

わたしは男の人のひげをぬくのがたまらなく好きである。
毛根というのはなんとも不思議なものである。
髪の毛でも体毛でもなく、ひげの毛根。
それが皮膚から引き抜かれる瞬間の、あの感触はほかにはない。

キュッと毛根が穴から抜ける音はきもちがいいし、
ひげの毛根は完全なかたちを持っている。

このことでたったひとつだけわたしを満たさないことがあるとすれば、
わたしがこれをすることを好き好んで許してくれる人に
世界で巡り会うのがほとんど難しいという事実である。

 

*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/30/13

尋常な話 – 2 踏切 / Des histoires ordinaires – 2 Le passage à niveau

Le passage à niveau

Je déteste le passage à niveau.
Encore plus le passage à niveau d’une journée agréablement ensoleillée de l’été.

Un homme me visita à Kyoto que je ne voulais pas voir.
Je m’enfuis et m’abritai chez mes amis car j’eus peur.
Lorsque je décidai de le voir finalement,
cet homme arrêta décidément son pas devant un passage à niveau,
comme s’il attendit le train qui allât venir vers lui,
comme s’il attendit le train qui courût vers lui pour l’écraser.

Je déteste le passage à niveau,
notamment un passage à niveaux qui me rappelle
une image effrayante sous la lumière très forte
et ses mains tremblant du désespoir…

 
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2 踏切

わたしは踏切が嫌いだ。
夏のつよい陽の光がさし過ぎてしまったような午後の踏切は、とりわけ嫌いだ。

ある男が京都にわたしを尋ねてきて、わたしは会いたくなかった。
恐ろしいのでわたしは友人の家などにさんざん逃げ回った。
しかし仕方ないので会うことにした際、
男は踏切の前で立ち止まって、
あたかもいつかやってくる電車を待つかのように
電車がやってきたらそれに轢き潰してもらうのを待つかのように。

わたしは踏切が嫌いだ。
あの夏の日をわたしに思い出させる
強すぎる光と震えた手を思い出させる
そういう踏切はとりわけ嫌いだ。

 

*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/30/13

尋常な話 -1 おじいちゃん様 / Des histoires ordinaires -1 mon cher papi

これらの短いテクストは、パリ第8大学でL1,L2の学生を対象に行っているCréation Littéraireの授業の2つ目の課題、Ecriture sur « le moi », errant entre le journal intime et l’auto-fiction ( Ecriture sur le réseau sous forme de journal intime) のプロジェクトのために、例としてわたし自身が作成したものです。お話は、したがって、自伝的—私小説的(ノンフィクション−フィクション)な内容です。
タイトル『尋常な話 / Des Histoires Ordinaires』は、現在5つの短編を含みます。番号順にフランス語、日本語テクストを掲載します。また、今後の別の作品の動向はこちらのサイトに掲載されます。

le cours site.

 

des histoires ordinaires / 尋常な話
Miki OKUBO 


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1 Mon cher papi 

Mon grand père du côté paternel décéda quand j’eus 6 ans.
Le téléphone sonna pour nous informer de son état critique.
J’entrai dans la chambre de l’hôpital où mon grand père était allongé avec ses grands yeux ouverts.

Mon père fut son dernier fils né.
Son père le chérit beaucoup plus que les autres enfants selon ce que ma tante me raconta un jour.

Le jour où il décéda, je me réveillai toute seule en pleine nuit.
Dans notre chambre à côté de l’entrée, je vis mon grand père s’allongeant sur le dos tout près de mon père.
Ils furent presque de la même taille, la même tête et la même constitution.

Le lendemain matin est venu sans revoir mon cher papi.
Je ne lui ai rien dit ni bonsoir ni au revoir.
Je ne racontai jamais cette histoire à ma famille.

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1 おじいちゃん様

父方の祖父はわたしが6歳の時死んだ。
祖父の危篤を知らせる電話が鳴って、
わたしは両親とともに病室に入る。
大きな目を見開いた祖父がそこに横たわっているのを見るために。

父は祖父にとって末の子どもで、
父をいちばんに可愛がっていたということをいつか叔母から聞いた。

祖父が死んだその日、おしっこがしたくなり夜中にひとりぼっちで目が覚めた。
寝室は玄関のすぐ隣で、わたしは父の眠るすぐ横に祖父が仰向けに横になっているのを見た。
彼らは同じくらいの慎重で、良く似た顔で、同じ体格をしていた。

明くる朝は祖父をふたたび見つけることなく静かにやってきた。
何も言わなかった、おはようも、それにさよならも。
このことは家族の誰にも、いちども話したことがない。

 
*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/24/13

におうものに対して / facing odors

におうものに対して

 

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いつのことだったかはっきりと思い出せないが、英語の子ども向けの短いストーリーを読んだ。主人公の少女が母のお使いでカマンベールチーズをどこかに持っていかなければならないお話である。カマンベールチーズとはカマンベール地方の人にとっても世界の人にとっても臭いものの代名詞である。日本で言うと常温で密閉されてない香る納豆みたいなものだろうか。とにかくそれで少女は、その日せっかく好きな少年に会う約束を楽しみにしているのに、そんな臭いものを身につけていなければならないという事実に絶望するのである。とにかくもお約束はお約束ということで少年に会うのだが、少女はお母さんのお使いのカマンベールチーズの凄まじい匂いをその小さな身体にまとうことになるのである。行く先で、本当はしあわせなはずの少年との時間はミルクの発酵した匂いによって台無しにされてしまう。すれ違う人は顔をしかめ、正直な人は鼻をつまんで露骨に嫌な顔をし、少女は悲しみでついには泣き出してしまう。

 

このお話は子どものためのお話なので、救いようのない結末で物語が締めくくられていて、それはつまり、この少年は決して少女に対して「おまえ超くっせえ」「みんな見てんじゃん、カマンベール女!」みたいなことを言わず、それどころか、カマンベールチーズの匂いだろうと納豆の匂いだろうと、キミはキミじゃないか、といった馬鹿馬鹿しいことを言うのである。そして少女は、道行く人がみんな彼女を臭がっても、愛する少年に全肯定され、受け入れられることによって、自分へのネガティブな心の働きからすっきりと救われるという、めでたしなお話なのである。

 

現実世界はもうちょっと厳しかろう。

臭うものに対して私たちは非常にプリミティブである。
つまり、視覚や聴覚あるいは触覚や味覚のような他の感覚と比較した時、我々は、環境における匂いを意図して取捨選択するシステム(人工的な手段を使ってすら)を持っていない。
見たくないものは見なければよく、うるさい人がいたら耳栓をすればよい。
触りたくない人には近寄らなければいいし、嫌いなもんは食わなければよろしい。
しかし、「におうもの」に対してはどうかというと、臭いはもちろん粒子であるので、粒から遠ざかればそれはそれは感じにくくなる。が、基本的には鼻栓というのもあまり一般化されていないし、我々は使い慣れておらず、何かが強烈な臭いを発した時、それはしばしば、受容者がそれを選択しないための努力の有無をまったく問うこと無しに、臭いを発している原因と同定される対象が一方的に攻撃の的となる。
これはなかなか面白いことで、なぜならば、嗅覚以外の他の感覚についても結局は刺激をキャッチするかどうかだけの違いなのだが、たしかに味覚は口に入れさえしなければよく、触覚は触りさえしなければ何事も起こらず、視覚は人間の視野が限られているお陰で見ずに済ますことができそうである。しばしば聴覚と嗅覚に関して、我々は環境的な制御を要求するような、つまりは自分自身でコントロールする術を持たないのですみませんがどうにかしてくださいと告白するような事態に陥る。

 

におうものに対して、我々は何ができるのか。それとも何もできないのか。
臭わなくするための努力がある。その一方で、臭う時、別のもっと強烈な臭いでごまかすための努力がある。
個人的な話しになるがわたしは殆どずっと同じ香水を使い続けているのだが、毎日使っているわけではない。何ヶ月も使わないときもあるし、一日に10回くらいスプレーしたこともある。それがオブセッションになるような時は、コートも車の中も、コップの中も(身体に悪い!)同じ臭いがする。おそらくこのような時、わたしは別に自分の体臭を感じたり必ずしもそれをカムフラージュしようとしているのではなくて、しかし、明らかに自分の回りにあるニオイよりも強烈な香りをまとうことによって外側の環境から自分を保護しようとしていたのではないかと思う。日本女子が真夏の太陽を避けるために、日傘や手袋をしたり、つばの大きい帽子を被って隙間無く日焼け止めクリームと日焼け止めリップクリームを塗るようなことと基本的には同じである。
一日に何回もスプレーしたようなときは、回りの人にとっては鼻栓に並んで効果的な環境制御が望まれるほどわたしは臭っていたに違いない。あるとき、一人の男性が「くさい」と発言した。しかし、残念ながら、その人の苦労に報いるほど、わたしは十分に傷つき反省するには至らなかった。なぜなら、それがわたしの体臭ではなく香水の臭いであることを誰もが知っているからである。

 

出来事はつい数日前起こった。クラスで生徒が喧嘩を始めた。体臭のきつい少年に対して、(ざっくりと要約するならば)、近寄ってほしくないのだがその明らかな態度を不愉快に思った少年がこれまたチャイルディッシュなパフォーマンスをしたために、少女がキレていた。少女は全力でキレていて、少年は不愉快に思っていて、わたしは誰かがキレているのをそのとき効果的に無視するための耳栓を不運なことに持ち合わせていなかったので、仲裁に入った。誰かがキレているのを、そのまま鼓膜と耳小骨に振動が伝わって、聴神経から脳に刺激が伝わり続けるイメージを想像するにつけ、わたしはそれが好きではないのである。わたしは常々思っていたいくつかのことを誰にむけるともなく話した。現実の物語は、幸せな少女のカマンベールチーズ事件とは全然違って、さらには体臭は、身体と分離可能なカマンベールチーズではないのであるから、体臭を「くさい」と言われたとしたら、十分に不愉快に感じる理由となるだろう。

 

わたしは、すべての生徒がわたしの授業に参加する権利があると言った。鼻栓を買いなさいとは言わなかった。
社会の中には、たくさんの人が嫌だけど我慢していることがあり、その一方でどちらかというとどうしようもないのにその対象を迫害するような態度がなんとなく支持されている現実もある。それを意図的にしているような場合はまだ正視することができるのだが、そうじゃない場合には、とても残念である。違うように見られるようなとき、わたしは少しうれしいと思うだろう。

03/18/13

食することとセックスをすること / eating and sex act

cycle

バナナをほおばりながら、もくもくと歩いていって、道ですれ違う人の視線が自分がバナナを食べる人に対して向けるのと比べ物にならないほど穏やかであることに気がつきながら、それでもしゅんとして食べようかがつがつと食べようか悩みながら歩いていって、ほっとすることにちょうどゴミ箱のある交差点で食べ終わってその黄色いバナナの皮をぽいと捨てたところ、ゴミ袋の一番上に私の捨てたのじゃない、私の捨てたのよりも酸っぱそうなバナナの皮がぽいっと捨ててあって、そうか、道で積極的にバナナを食べてもよいのだということに気がつく。部屋の外に出るということは、それだけで解らないことにたくさん出会うということであり、それを避けてはとおれないのであって、湿度が高くて目の奥が痛い日などにはそういったことは身にこたえる。

家の中にいても恐ろしいことは起こる。わたしはほとんどテレビを見ない。テレビから得られる情報や提示される物事の見方なんかにケッと思っているという訳でもなくて、それはたしかにもっとずっとずっと若いときにテレビ番組でコメントする人たちの恥ずかしげのない感じを見るにつけさらに恥ずかしくなるということをおぞましく思ったのだが、いまテレビを見ないのはただ単にみるチャンスがないからだ。大量の豚の死体が川から流れてくる映像が、それも大量の豚は川で溺死したのでまっさらに白っぽくなってフワフワに大きくなって、しかし川の流れの中でその身体はところどころに傷ついて、その生きていない肉の大量の塊をその川の近くに住む人が恐れながら、しかし乱暴に機械などを使って掃除しているという映像が画面を通じて音もなく次々に映し出された。システマチックに行われる家畜の管理などは、もちろん海の生き物を養殖することや、そもそも農耕も人間を養うという目的のもとに繰り広げられている崇高な営みであるらしいけれども、それは現代の人々の生活において、スーパーで食べ物を買う際にいろいろなことに気をつけるという以上に決して遡らないことになっており、大量の豚が運悪く病気になってしまったので燃やすのも費用のかさむことですので捨てられて川で溺死していることもとりわけ仕方なかったりやむおえなかったりするだけで、また今日もおいしく豚の生姜焼きなどが食べられるのである。わたしは肉を殆ど食べないけれども肉を食べて育ったし、魚は今でも食べることはあるし、植物は食べるし、いちいち何が混ざっておるか厳密に詳細に確認したりしないし、したがって自分を蚊帳の外に置いているのではぜんぜんない。それに、動物がかわいそうだから肉を食わないのでも何でもなく、それどころかどうしても摂取できないものなどはサーブされても放置しまくって日々を過ごしているので、もしそんなものが存在するならばだが「罪深さ」を競えば負ける気がしない。

ときどき、物を食するというサイクルから完全に逸脱することができたら、楽しいのではないかと思う。物を食するというのはサイクルである。だから、もちろんぐるぐる回る仕組みからぽーんと離れることができたら、それは楽しいに決まっているのである。たとえばお釈迦様も食物をどんどんシンプルにしていって、お水だけを飲んで、そのうちお水も飲まないでしばらくしばらくすると、それまでとは次元の違うことになったのである。人間のすることは中途半端なので、世の中にはずーっと続けるわけではない絶食なども存在する。宗教的な絶食も、健康のための絶食も、積極的な目的で行われる絶食のたぐいは、おそらく、そうやってサイクルから外れることによって、つまり今までただひたすら繰り返してきたことから決別するようなことなのだとおもう。つまりはそこで、決別したといっても完全に決別できないのは残念なことであり、身体を伴っているわれわれはこれがどんなに魅力的でも、とても意味のある形でこれと決別することがなかなかできない。一般に、身体を持ち続けるために食するサイクルを巡り続けることは必要不可欠であり、身体を持ち続けることが生きることのポジティブな意味と考えられているのは事実であり、大きな流れにしたがうことはある意味で楽であろうとおもう。

肉体が肉体としてやむおえず感じられるケースでふたつの強烈なものの例は、やはり、食べるサイクルに関わることが一つと、もう一つはセックスに関わることである。食べるサイクルは、異物が自分の(と思っている)肉体を通過して、なんらかの影響を与えてでてゆき、また入ってくる過程であり、セックスは異物との境界(があるならば)が破壊され、それが具体的な結果を伴う可能性を持つような過程である。食べるサイクルを逸脱することにたいして、セックスをするという営みから完全に決別することは比較的不可能ではないように思われる。ただし、セックスはしなければ死ぬというものではないために、逸脱したからといって、そんなに画期的に楽しそうでもない。

ひとつ言えるのは、セックスをしないまま食のサイクルに属し続けることはあるが、
食のサイクルから自由になったものにはセックスも必要ないということである。このことは、ありそうもないことに聞こえるかもしれないが、それはけっこうポジティブなことであって、ちょっとしたお札のように、それを遠くに想像するだけで、いろいろなことがもう恐ろしくない。

03/16/13

新聞女@グッゲンハイム美術館 / Newspaper Woman @Guggenheim Museum

Photo album of Newspaper Woman’s performance @Guggenheim Museum, NY
March 8th, 2013, 21h-24h

Shinbunonna, Newspaper Woman, is a Japanese Artist, performer. Her master is Shozo Shimamoto, member of Gutai, Japanese artistic movement in 1950s-70s. She is invited for presenting the performance, and realized the event with her companies, artists, dancers, thanks to Fuse Art Infrastructure Allentown.

Shinbunonna HP
Fuse Art Infrastructure Allentown
Art After Dark
Guggenheim Museum, NY, Gutai Splendid Playground

Newspaper Woman's newspaper, special edition

Newspaper Woman’s newspaper, special edition

Newspaper Woman's bags

Newspaper Woman’s bags

Giant newspaper, special edition for the performance at Guggenheim Museum

Giant newspaper, special edition for the performance at Guggenheim Museum

wearing her beautiful dress made of Shinbun

wearing her beautiful dress made of Shinbun

preparing for the opening

preparing for the opening

on standby

on standby

on standby, her followers, too

on standby, her followers, too

Newspaper's fashion items

fashion items of newspapers

must be in bare feet !

must be in bare feet !

talking of her one-month experience in the U.S.A

talking of her one-month experience in the U.S.A to Hiroshi Yoshioka

Newspaper Princess' shoes

Newspaper Princess’ shoes

Princess !

Princess !

on a stepladder, followed by a crowd

on a stepladder, followed by a crowd

"Please walk under here" goes on

« Please walk under here » goes on

Newspaper Woman appears in public !

Newspaper Woman appears in public !

sophisticated lacework of her newspaper dress

sophisticated lacework of her newspaper dress

fantastic !

fantastic !

with 1000 visitors

with 1000 visitors

"Please walk under here" over

« Please walk under here » over

for next piece !

for next piece !

panels for Newspaper Woman Parade

panels for Newspaper Woman Parade

joyful mood

joyful mood

in her famous giant jacket, Parade

in her famous giant jacket, Parade

Half price

Half price

Special Price, 30 yen

Mr Yoshioka obtained a special price seal, 30 yen

Shred newspapers Monster is being born

Shred newspapers Monster is being born

Newspaper Woman wearing  Shozo Shimamoto's painting

Newspaper Woman wearing Shozo Shimamoto’s painting

Miyuki Nishizawa, artiste in her master's work

Miyuki Nishizawa, artiste in her master’s work

Next time, I’ll write the article about Newspaper Woman, Miyuki Nishizawa hopefully after interviewing with her !