におうものに対して / facing odors

におうものに対して

 

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いつのことだったかはっきりと思い出せないが、英語の子ども向けの短いストーリーを読んだ。主人公の少女が母のお使いでカマンベールチーズをどこかに持っていかなければならないお話である。カマンベールチーズとはカマンベール地方の人にとっても世界の人にとっても臭いものの代名詞である。日本で言うと常温で密閉されてない香る納豆みたいなものだろうか。とにかくそれで少女は、その日せっかく好きな少年に会う約束を楽しみにしているのに、そんな臭いものを身につけていなければならないという事実に絶望するのである。とにかくもお約束はお約束ということで少年に会うのだが、少女はお母さんのお使いのカマンベールチーズの凄まじい匂いをその小さな身体にまとうことになるのである。行く先で、本当はしあわせなはずの少年との時間はミルクの発酵した匂いによって台無しにされてしまう。すれ違う人は顔をしかめ、正直な人は鼻をつまんで露骨に嫌な顔をし、少女は悲しみでついには泣き出してしまう。

 

このお話は子どものためのお話なので、救いようのない結末で物語が締めくくられていて、それはつまり、この少年は決して少女に対して「おまえ超くっせえ」「みんな見てんじゃん、カマンベール女!」みたいなことを言わず、それどころか、カマンベールチーズの匂いだろうと納豆の匂いだろうと、キミはキミじゃないか、といった馬鹿馬鹿しいことを言うのである。そして少女は、道行く人がみんな彼女を臭がっても、愛する少年に全肯定され、受け入れられることによって、自分へのネガティブな心の働きからすっきりと救われるという、めでたしなお話なのである。

 

現実世界はもうちょっと厳しかろう。

臭うものに対して私たちは非常にプリミティブである。
つまり、視覚や聴覚あるいは触覚や味覚のような他の感覚と比較した時、我々は、環境における匂いを意図して取捨選択するシステム(人工的な手段を使ってすら)を持っていない。
見たくないものは見なければよく、うるさい人がいたら耳栓をすればよい。
触りたくない人には近寄らなければいいし、嫌いなもんは食わなければよろしい。
しかし、「におうもの」に対してはどうかというと、臭いはもちろん粒子であるので、粒から遠ざかればそれはそれは感じにくくなる。が、基本的には鼻栓というのもあまり一般化されていないし、我々は使い慣れておらず、何かが強烈な臭いを発した時、それはしばしば、受容者がそれを選択しないための努力の有無をまったく問うこと無しに、臭いを発している原因と同定される対象が一方的に攻撃の的となる。
これはなかなか面白いことで、なぜならば、嗅覚以外の他の感覚についても結局は刺激をキャッチするかどうかだけの違いなのだが、たしかに味覚は口に入れさえしなければよく、触覚は触りさえしなければ何事も起こらず、視覚は人間の視野が限られているお陰で見ずに済ますことができそうである。しばしば聴覚と嗅覚に関して、我々は環境的な制御を要求するような、つまりは自分自身でコントロールする術を持たないのですみませんがどうにかしてくださいと告白するような事態に陥る。

 

におうものに対して、我々は何ができるのか。それとも何もできないのか。
臭わなくするための努力がある。その一方で、臭う時、別のもっと強烈な臭いでごまかすための努力がある。
個人的な話しになるがわたしは殆どずっと同じ香水を使い続けているのだが、毎日使っているわけではない。何ヶ月も使わないときもあるし、一日に10回くらいスプレーしたこともある。それがオブセッションになるような時は、コートも車の中も、コップの中も(身体に悪い!)同じ臭いがする。おそらくこのような時、わたしは別に自分の体臭を感じたり必ずしもそれをカムフラージュしようとしているのではなくて、しかし、明らかに自分の回りにあるニオイよりも強烈な香りをまとうことによって外側の環境から自分を保護しようとしていたのではないかと思う。日本女子が真夏の太陽を避けるために、日傘や手袋をしたり、つばの大きい帽子を被って隙間無く日焼け止めクリームと日焼け止めリップクリームを塗るようなことと基本的には同じである。
一日に何回もスプレーしたようなときは、回りの人にとっては鼻栓に並んで効果的な環境制御が望まれるほどわたしは臭っていたに違いない。あるとき、一人の男性が「くさい」と発言した。しかし、残念ながら、その人の苦労に報いるほど、わたしは十分に傷つき反省するには至らなかった。なぜなら、それがわたしの体臭ではなく香水の臭いであることを誰もが知っているからである。

 

出来事はつい数日前起こった。クラスで生徒が喧嘩を始めた。体臭のきつい少年に対して、(ざっくりと要約するならば)、近寄ってほしくないのだがその明らかな態度を不愉快に思った少年がこれまたチャイルディッシュなパフォーマンスをしたために、少女がキレていた。少女は全力でキレていて、少年は不愉快に思っていて、わたしは誰かがキレているのをそのとき効果的に無視するための耳栓を不運なことに持ち合わせていなかったので、仲裁に入った。誰かがキレているのを、そのまま鼓膜と耳小骨に振動が伝わって、聴神経から脳に刺激が伝わり続けるイメージを想像するにつけ、わたしはそれが好きではないのである。わたしは常々思っていたいくつかのことを誰にむけるともなく話した。現実の物語は、幸せな少女のカマンベールチーズ事件とは全然違って、さらには体臭は、身体と分離可能なカマンベールチーズではないのであるから、体臭を「くさい」と言われたとしたら、十分に不愉快に感じる理由となるだろう。

 

わたしは、すべての生徒がわたしの授業に参加する権利があると言った。鼻栓を買いなさいとは言わなかった。
社会の中には、たくさんの人が嫌だけど我慢していることがあり、その一方でどちらかというとどうしようもないのにその対象を迫害するような態度がなんとなく支持されている現実もある。それを意図的にしているような場合はまだ正視することができるのだが、そうじゃない場合には、とても残念である。違うように見られるようなとき、わたしは少しうれしいと思うだろう。

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