食することとセックスをすること / eating and sex act

cycle

バナナをほおばりながら、もくもくと歩いていって、道ですれ違う人の視線が自分がバナナを食べる人に対して向けるのと比べ物にならないほど穏やかであることに気がつきながら、それでもしゅんとして食べようかがつがつと食べようか悩みながら歩いていって、ほっとすることにちょうどゴミ箱のある交差点で食べ終わってその黄色いバナナの皮をぽいと捨てたところ、ゴミ袋の一番上に私の捨てたのじゃない、私の捨てたのよりも酸っぱそうなバナナの皮がぽいっと捨ててあって、そうか、道で積極的にバナナを食べてもよいのだということに気がつく。部屋の外に出るということは、それだけで解らないことにたくさん出会うということであり、それを避けてはとおれないのであって、湿度が高くて目の奥が痛い日などにはそういったことは身にこたえる。

家の中にいても恐ろしいことは起こる。わたしはほとんどテレビを見ない。テレビから得られる情報や提示される物事の見方なんかにケッと思っているという訳でもなくて、それはたしかにもっとずっとずっと若いときにテレビ番組でコメントする人たちの恥ずかしげのない感じを見るにつけさらに恥ずかしくなるということをおぞましく思ったのだが、いまテレビを見ないのはただ単にみるチャンスがないからだ。大量の豚の死体が川から流れてくる映像が、それも大量の豚は川で溺死したのでまっさらに白っぽくなってフワフワに大きくなって、しかし川の流れの中でその身体はところどころに傷ついて、その生きていない肉の大量の塊をその川の近くに住む人が恐れながら、しかし乱暴に機械などを使って掃除しているという映像が画面を通じて音もなく次々に映し出された。システマチックに行われる家畜の管理などは、もちろん海の生き物を養殖することや、そもそも農耕も人間を養うという目的のもとに繰り広げられている崇高な営みであるらしいけれども、それは現代の人々の生活において、スーパーで食べ物を買う際にいろいろなことに気をつけるという以上に決して遡らないことになっており、大量の豚が運悪く病気になってしまったので燃やすのも費用のかさむことですので捨てられて川で溺死していることもとりわけ仕方なかったりやむおえなかったりするだけで、また今日もおいしく豚の生姜焼きなどが食べられるのである。わたしは肉を殆ど食べないけれども肉を食べて育ったし、魚は今でも食べることはあるし、植物は食べるし、いちいち何が混ざっておるか厳密に詳細に確認したりしないし、したがって自分を蚊帳の外に置いているのではぜんぜんない。それに、動物がかわいそうだから肉を食わないのでも何でもなく、それどころかどうしても摂取できないものなどはサーブされても放置しまくって日々を過ごしているので、もしそんなものが存在するならばだが「罪深さ」を競えば負ける気がしない。

ときどき、物を食するというサイクルから完全に逸脱することができたら、楽しいのではないかと思う。物を食するというのはサイクルである。だから、もちろんぐるぐる回る仕組みからぽーんと離れることができたら、それは楽しいに決まっているのである。たとえばお釈迦様も食物をどんどんシンプルにしていって、お水だけを飲んで、そのうちお水も飲まないでしばらくしばらくすると、それまでとは次元の違うことになったのである。人間のすることは中途半端なので、世の中にはずーっと続けるわけではない絶食なども存在する。宗教的な絶食も、健康のための絶食も、積極的な目的で行われる絶食のたぐいは、おそらく、そうやってサイクルから外れることによって、つまり今までただひたすら繰り返してきたことから決別するようなことなのだとおもう。つまりはそこで、決別したといっても完全に決別できないのは残念なことであり、身体を伴っているわれわれはこれがどんなに魅力的でも、とても意味のある形でこれと決別することがなかなかできない。一般に、身体を持ち続けるために食するサイクルを巡り続けることは必要不可欠であり、身体を持ち続けることが生きることのポジティブな意味と考えられているのは事実であり、大きな流れにしたがうことはある意味で楽であろうとおもう。

肉体が肉体としてやむおえず感じられるケースでふたつの強烈なものの例は、やはり、食べるサイクルに関わることが一つと、もう一つはセックスに関わることである。食べるサイクルは、異物が自分の(と思っている)肉体を通過して、なんらかの影響を与えてでてゆき、また入ってくる過程であり、セックスは異物との境界(があるならば)が破壊され、それが具体的な結果を伴う可能性を持つような過程である。食べるサイクルを逸脱することにたいして、セックスをするという営みから完全に決別することは比較的不可能ではないように思われる。ただし、セックスはしなければ死ぬというものではないために、逸脱したからといって、そんなに画期的に楽しそうでもない。

ひとつ言えるのは、セックスをしないまま食のサイクルに属し続けることはあるが、
食のサイクルから自由になったものにはセックスも必要ないということである。このことは、ありそうもないことに聞こえるかもしれないが、それはけっこうポジティブなことであって、ちょっとしたお札のように、それを遠くに想像するだけで、いろいろなことがもう恐ろしくない。

6 thoughts on “食することとセックスをすること / eating and sex act

  1. Como vais?
    Tudo bem?
    Sou Toru encontravamos com professor Hiroshi Yoshioka no loja do Ogaki no Japao.
    今日読みませてもらいました。
    久々に吉岡先生のトイッターを読みました。
    上の文章をよんでいてうれしくなりました。

    またおもろい文章たくさん書いてください。
    楽しみがふえました。
    よろしくお願いします!!!

    • admin says:
      2013年3月18日 at 1:33 PM (Edit)
      Boa tarde!
      Bem, obrigado, e você?
      Meu português é ruim…

      ブログにコメントありがとうございます。mikiです。大垣ではどうも。あのときは初めて大垣にうかがってiamasのお話はいつも聞いていたからとても楽しかったな。またいろいろ書きます。読んでくださってありがとう。ではまた!

  2. お久しぶり。小学校の実習で豚を育てて、最後は自分達で食べるっていう実践をしたのがあって確か映画化もされてるんだけど、最後屠殺するかどうかでクラスで話し合うんだ。ほいで、ある女の子が「名前をつけちゃったからもう食べれない。」ていうんだ。名前なけりゃ食べられるんだって。なんかすごく納得したんだ。思い出したので書き込み。

    • じんくん 久しぶり!
      そっか。なるほど。食べてもいいと思うんだけどね。究極にお腹空いて、それでもおぞましく生きましょうと思ったら共食いするかも。そしたら当然名付けられた他者を食うかも。でもそれは確かに非常時だから、尋常な状況においてたしかにその子どもたちにとってラインはそこにあると言うのは理解できます。最初っから肉の塊として豚を見るのか、それとも生き物として見るのかが違うのではないかということね。

      • うん、そうだよね。でも最後は結局食べるんだよ。結局は。でも、この女の子が思ったようなことを感じながら、食べるのに意味があるのかと。サイクルていう詞を借りるなら、そのサイクルを廻るのに一歩一歩確認する行程が必要なんだろうね。名を与える➡食べるか迷う➡でも、食べなければならない➡食べる、みたいな。現代のサイクルは効率化されているから、食肉➡食用➡食べる、て感じかな。こういうのを無駄とか偽善的だと批判されるかもしれないけど、サイクルの細かな過程を悟った上で効率化されたサイクルの流れで食べてる人と、そうじゃなくて食べてる人は違うのかもなあ、と思います。
        なんか長くなってごめん。久しぶりにブログに来て、色々読んでワクワクしちゃったんだよね。これからも楽しみにしてます!

        • ありがとう。
          >サイクルの細かな過程を悟った上で効率化されたサイクルの流れで食べてる人と、そうじゃなくて食べてる人は違う
          その通りだとおもう。うちはビンボーで春夏は父が釣ってきた魚を食べていたがついさきまで流しでピシピシしていたと思うと子どもながらキレイに食べていた。
          現代は教育しようと必死に食のドキュメンタリーを作ったり、農業見本市して肉牛や豚を展示したりしてるけど、その隣で牛肉売ってるときでさえ、整然と分たれて隠されてる。かわいいとおいしいの間がないね。ないのかもしれないけど。

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