04/22/23

Espèce parapluie / アンブレラ種 Art Award in the CUBE 2023入選

清流の国ぎふ芸術祭 Art Award in the CUBE 2023 に florian gadenne + miki okuboの作品Espèce parapluie / アンブレラ種が入選し、2023年4月22日から6月18日まで岐阜県美術館にて展示中です。ご高覧いただけましたら幸いです。

※本作品は公益財団野村財団の美術助成を受けて実現しました。

top

01/23/23

« Visions Lyriques » – 500m Award 2023 GRAND PRIX 500m美術館賞グランプリ受賞!

パートナーであるFlorian Gadenneとのユニットで出展中の500m美術館賞展にて、我々の展示 »Visions lyriques »(叙情的幻視)がグランプリを受賞しました。
« Visions lyriques »は、Gadenneが2021年に札幌に移住後、異国における日常生活を通じて得た様々なインスピレーションと詩的な〈奇なるものとの出会い〉を描いた小さな水彩画のシリーズで、全体では19のテーマについて100枚以上の作品がある中、今回の展示では2基のガラスケースに合わせて、札幌の生活と特に関連の強い70点を展示しています。通底する主題は「エコロジー」。都市生活における私たちの生活の歪んだ対環境的態度がユーモアを交えて浮き彫りにされます。
今回の展示では、作品に加えて、Gadenneが制作過程を全て中継したInstagram上でシェアされた着想源および、原画展示のない30点強を含め50inchiの大画面でご覧いただけるようモニターを設置しています。
展示は3月29日まで。ご高覧いただけましたら幸いです。

http://500m.jp/exhibition

https://www.instagram.com/floriangadenne/

01/5/23

2023 bonne année! 明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年は5月から6月にかけて企画した展覧会「ファルマコン:新生への捧げもの」(@The Terminal KYOTO)を開催し、関連するオンラインレクチャーをYouTubeチャンネル「展覧会ファルマコン」でアーカイブさせていただきました。(アーカイブ:https://www.youtube.com/@user-mw5vt7zy3n/videos)

今年もファルマコンをテーマとした展覧会企画は継続していければと思っています。また詳細が決まりましたら発表させていただきます。

そのほか、今年は、1月21日から3月29日までの札幌での展覧会500m美術館賞(@札幌大通地下ギャラリー)、4月22日から6月18日までの「清流の国ぎふ芸術祭Art Award IN THE CUBE 2023」(@岐阜県美術館)に美術家の夫とのユニットflorian gadenne + miki okuboとして出展予定です。

今年は皆様にお会いできますように、楽しみにしています。

2023年1月1日 大久保美紀

04/4/21

死者を送ること

先月(2021年3月)初旬、年老いた友人を亡くした。7月には97歳になるところだった。20代の頃スペインから姉と共にフランスに渡り、理髪師の仕事をこつこつ頑張りながら、人生を切り拓いた。連れ添った夫は彼女よりも20以上も年上で、かなり前に亡くなっており、彼女に子供はいなかった。姪っ子や姪の子供たちを可愛がっていて、時々は自分で料理をして、日曜日の昼食に招待していた。スペインにも親戚があり、2年ほど前までは毎年夏を一ヶ月ほどそこで過ごしていた。四、五年前までは自分で旅行鞄を引っ掛けて電車に乗り、1000キロほどの道のりを一人旅していた。

自分の人生に満足しているといつも言っていた。私が長いこと学業をしたり、非常勤ばかりして定職を得ず、フリーランスで個別指導をしたり日本語教師をしたり、翻訳や通訳をしたり、色々なことをするのに走り回っていると、そういう働き方はわからないと言わんばかりに就職して働くべきだと諭すので、私がそういう方法でない働き方もあるなどと反論したりして何度も言い合いをした。彼女も言い分を曲げることなく、私もまた曲げないので、この話はいつも平行線になり、彼女が私の仕事の近況を聞くたびに同じ言い合いになった。

家に行くといつもシャンパンを薦めた。小さなボトルのシャンパンが彼女の家には何本か常にストックしてあって、それを、中庭に面した居間の窓を眺めながら、何度も一緒に飲んだ。息子が生まれてからは、シャンパンをたったのグラス一杯とはいえ、気がひけるので、車の時は飲まなかったから、最後に彼女とシャンパンを飲んだのはいつだろう(フランスではアルコール濃度によるが、たいていコップ一杯くらいの飲酒なら合法である)。息子が生まれて、私も子供のことで頭がいっぱいになり、そうしているうちに、彼女の具合も良くないことが頻繁になり、声をかけても家に押しかけられるのをやんわり断るようになり、なかなか会わなくなった。

年末、私が日本での展覧会の仕事で帰国した頃、彼女は長年渋っていた高齢者向けの施設への引越しを決めた。医療設備があり、買い物に行く必要も料理をする必要もない高齢者向け住宅。コロナ禍で、面会は不自由だったし、外出するにせよ、レストランもすべて閉まっている。彼女は呼吸補助の機材を日常的につけなければならなくなり、このようであるならば、もう生きながらえることを選ばないとはっきり伝えていたようだ。私は2月下旬に日本から戻り、早くに会いに行くつもりで過ごすうち、3月初旬に私自身が急な体調不良となり、一週間の絶対安静、その後もなかなかはっきりと回復せず、と過ごすうちに、彼女は死んでしまった。

人が死ぬというとき、長く生きながらえて、長いこと闘病して死ぬ人も多くいるし、急に逝ってしまったように言われる人もいる。どれだけの期間、どれほどの密度で死と近くに向き合っていたかというのは、近くにいた身内にはもちろん見えることがあるだろうけれども、多くの場合は本人にしかわからないように思う。コロナ禍の生活では、会いたい人と会えず、食べたいものを食べられず、行きたいところに行けず、それでも、ウイルスの蔓延を防いで息を殺して生きながらえる方がいいに決まってるじゃない、と説き伏せられており、年老いた人々も極力外出を控え、若い人のいる場所ではマスクの中側でも息を殺し、ワクチンが用意できたよと言われれば意を決して打ちにゆき、会いたくてたまらない孫の顔はスクリーン越しに眺めて過ごしているけれど、そういうもんなのかなあと疑問に思う。死んだら、葬儀には自ずと老人が集うというので、なかなか知人の葬儀へ行くのも勇気がいるだろうし、葬儀の執り行いについては現在でも死者が多すぎて火葬場も業者も手が足りておらず、二週間以上待ちなんだそうだ。

二週間以上待たされて、ようやく棺は閉められる。普通は近親者の面会で行われるこの儀式的な時間は、コロナ禍では特に、このタイミングが最後の面会と決められており、教会での葬儀の際はもう死者の顔を見ることはできない。二週間待たされ、二週間以上前に生きることに終止符を打った彼女を目の当たりにして、私は悲しくなった。髪に触れ、別れの言葉を言う。悲しくなったのは、生きていた彼女が死んだ、というよりも、彼女が生きるのをやめてから長く時間が経ったというのがはっきり感じられて、別れを言うその言葉を届けたい彼女が、もうすでに結構遠くまで旅立っていて、つまりは彼女はもうそこにいないという感じがあまりに明らかだったからである。

死者に別れをいうのは、生きている者にとって必要である。現代は、親を除いて親戚であっても年老いた叔父や叔母の面倒を最期まで看ることはないし、親ですら、ひょっとしたら高齢者施設や医療機関で最期の時を過ごすというとき、あまり近くにいる存在でないことだってありうる。死んでしまった後のケアはエンゼルケアとか呼ばれ、プロフェッショナルが職業としてお世話をする。葬儀もプランが色々あって、パーソナライズできる一部のチョイスを細々注文すれば、儀式は滞りなく執り行われ、火葬もそれ以降も、どうすればいいかわからず困るということがないように大体プランが準備されている。コロナ禍では、葬儀に参列せずに、オンライン葬儀やオンラインで参加を積極的にコマーシャライズしている業者を多く見かける。オンライン葬儀、そのあとの火葬から骨拾いまで全て請け負ってもらうことができる。

私たちは死者に会わないまま生き続ける選択肢を与えられたらしい。けれども、そんなことで、本当に生き続けることができるのかなあと思う。大切な人が突然いなくなり、死んだということがどういうことかを目の当たりにせず、別れを言うことなく、気がついたら灰となってお墓に眠っているよと説明を受けることによって、一体、私たちは生き続けることができるのだろうか。

生まれることと同様に、死ぬこともとても生々しいプロセスであると思う。人の子供はポイポイ生まれるように見え、あたかも急に小さな存在が世界に放り出されて生き始めたように見えるけれど、妊娠と出産も相当生々しく、美しいとか、感動だとか、そういうポジティブな表現とは相反する、痛く苦しくて、血だらけで、もはや拷問のようなプロセスなのである。倫理的に、生命の誕生は美しいと言うべきだと教わるので世間の産婦は敢えて言わないだけで、実はそうなのである。コロナ禍では、出産の立会いの制限や出産後の面会を全て禁止にしている状況がもはやかなり長期間にわたって続いている。驚くようなことだが、NICUに入っている新生児だと産んだ母親ですら、週に数時間とかほんの少ししか会えないそうなのである。貴重な経験をシェアされているブログ記事を拝読した際、産み落としたはいいけど、こんなに会えなくなると、自分が産んだという実感が薄れる気がするというまったく正直な感想を見つけ、酷い事態だと改めて思った。個人的には出産には父親である者が立ち会うのが望ましいと考えているし、兄弟や近しい家族もできるだけ早く新生児に会った方が良いと考えている。だが、もっとも大事なのはもちろん産み落とす母親であり、彼女の産み落とした実感と身体感によって新生児は守られて生き延びることができる。もちろんさまざまなケースがあって一緒にいられない場合もあるが、コロナ禍の出産経験に関する先述のケースなどはやはり改善されなければならないと願う。

生きている中で、生まれることと死ぬことは、「怖い」。それは生きているというよく知っているかのような状況が突然、違う世界に裂けており、そのことに気がついてしまうからだと思う。確かに怖いのだが、そのことが丁寧に隠されてしまった世界で騙されて生きるほうが、やはり私には気持ち悪く、生きづらく感じられる。

09/3/20

Florian Gadenne – perspectives et approches

(日本語記事は下にあります)

FLORIAN GADENNE – PERCEPECTIVES ET APPROCHES

PHARMAKON, MONADES, BABEL

Au travers des trois expositions sur le thème du « Pharmakon » (un mot grec ambivalent signifiant à la fois poison et remède), les approches artistiques proposées par Florian Gadenne ont toujours occupé une place importante : l’exposition de 2017 a tenté une sensibilisation artistique à travers des approches médicales et écologiques, en questionnant la manière dont nos corps sont en relation avec leur environnement. L’installation « monades » (2017) accueillait les spectateurs dans le hall d’entrée d’une maison traditionnelle à Terminal Kyoto (Kyoto), faisant référence au concept de Monade de Leibniz, qui représente chaque monade comme un élément constitutif du monde, les sphères de Gadenne englobent soit des graines de plantes ou du mycélium de champignon. L’aller-retour entre des perspectives macro/micro constitue une perspective essentielle de Florian Gadenne, mettant en lumière la question ontologique sur le lien de l’humanité avec la terre ou avec les bactéries, ou encore celui de la terre avec l’univers. Les deux tableaux de deux mètres de haut qui ont été exposés dans les lieux de l’exposition de Kyoto et d’Osaka intitulés « cellule babélienne » (2015) et son « clone » (2017) (présenté à l’envers), représentent une architecture vivante étrange. Avec le noyau cellulaire à son apex, la structure en spirale descend jusqu’au sol, où l’on voit les composants cellulaires tels que les appareils de Golgi, les mitochondries ou encore des vésicules. Cette œuvre est étroitement liée à la vision du monde de « panspermie » (2019), une sculpture végétale enfermée dans une sphère hermétique, et d’autres sculptures botaniques en substrat minéral. Le mythe de la Tour de Babel a été la source d’inspiration de cette composition. La construction de la tour, qui symbolise l’arrogance de l’homme pour atteindre le royaume de Dieu, s’arrête brutalement lorsque celui-ci divise le langage humain jusqu’alors universel en d’innombrables langues. Gadenne relie ces langages hétérogènes et fait dialoguer les différents règnes animal, végétal et minéral qui peuplent la terre, en soulignant l’universalité du code génétique que la biologie moléculaire révèle aujourd’hui, et en proposant un nouveau concept d’écologie afin de dépasser la pensée anthropocentrique.

OE

L’attitude de l’artiste qui consiste à trouver de nouvelles perspectives sur la condition humaine sur la terre par le biais de l’art se poursuit dans « œ ». Cette œuvre est l’aboutissement de plusieurs années de recherche de l’artiste afin de réaliser une toile gigantesque de 2 x 4 m rappelant la composition du mandala et qui fut présentée au plafond lors de l’exposition de 2019 à Kobe, au Japon. Au sommet du tableau se trouve un ovule comme origine du monde soutenu par huit spermatozoïdes, se transformant d’abord en réseau nerveux et finalement en réseaux capillaires minutieusement dessinés dans la partie haute du tableau. Au milieu de cette composition, les organites et autres éléments sains sont altérés et transformés alors que nous assistons à une réponse immunitaire représentée par un ensemble de métaphores de batailles. Finalement, en déplaçant le regard vers le bas, les spectateurs sont frappés par les représentations terriblement réalistes de virus et de bactéries sous formes inquiétantes, notamment les virus du sida et de Ebola qui menacent la survie de l’humanité. Dans l’ensemble, la vie est symbolisée en haut et la mort en bas, mais ce n’est qu’une interprétation du point de vue humaine puisque la vie coexiste intrinsèquement avec la mort comme son essence, et ces idées dualistes sont plutôt subverties face au concept de « pharmakon ». Une importante pensée de Gadenne est le renversement du haut et du bas, l’existence d’un nouvel état d’être créé par le jeu complexe des opposés.

MATIERES

Si Wolfgang Laib peint avec du pollen, l’art de Gadenne se concrétise par une grande variété de matières d’origine animale, végétale et minérale. Son travail donne une nouvelle vie aux mues de cigales riches de la kératine, au crâne d’une vache habillé de cristaux desulfate de cuivre, à la terre qui anime le cœur de ses sculptures comme sources de germes. L’intention d’incorporer des objets naturels au travers son expérimentation est fort présente dans son jeu.

ATTENTES

Son œuvre récente, « chiasme », une peinture elliptique réalisée à l’aide de substance fluorescente, dépeint des réseaux tubulairesentrelacés qui s’entrecroisent les uns des autres en s’éloignant à l’infini grâce à une technique minutieuse et complexe. Cette œuvre, me semble-t-il, souligne également la notion clé de Gadenne, l’œuf du monde, qui nous rappelle que si la vie est née d’un organisme unicellulaire, zygote, le monde embrassant les relations complexes entre êtres vivants peut être aussi réduit à une multitude d’individus de différentes espèces constituée d’innombrables cellules. Aujourd’hui, le monde est bouleversé par un virus, cet ennemi invisible nous impose un quotidien hors du commun. Gadenne s’aventure hardiment dans des domaines médicaux et écologiques où l’art est considéré comme outsider, en essayant de proposer une nouvelle perspective afin de mieux penser notre vie vis-à-vis de notre environnement à travers une approche artistique. Il est notre avis que son défi sera accompli grâce à son concept artistique ainsi que sa technique à la fois dynamique et minutieuse.

Miki Okubo (commissaire de l’exposition Pharmakon et critique d’art)

(日本語記事)

フロリアン・ガデン − 思想と手法

ファルマコン、モナド、そしてバベルからの着想

「ファルマコン」をテーマに掲げた三度の展覧会を通じて、フロリアン・ガデンの表現は重要な提案を続けた。2017年の展示は医療とエコロジーのアプローチを通じて芸術的感化を試み、私たちの身体が環境といかに関係性を結ぶか問うた。ターミナル京都(京都)の伝統家屋の吹き抜けのエンタランスで鑑賞者を出迎えた「モナド」のインスタレーションは、ライプニッツの概念「モナド」を参照し、世界の構成要素としての一つ一つのモナドをその内部に植物の種子や菌床を内包する球体として表現した。マクロとミクロの視点の往復はガデンの重要な手法の一つで、人類と地球、地球と宇宙、あるいは微生物と人間の関係性と存在様態を明るみに出した。また、京都と大阪会場にそれぞれ君臨した二点の絵画はcellule babélienneとそのクローン(逆さまに展示)と名付けられ、高さ二メートルに及ぶ巨大な奇怪な建築である。細胞核を頂点に螺旋構造が地まで降りてくる途中には、ゴルジ、ミトコンドリア、小胞といった細胞構成物を目の当たりにする。本作は、球体の中に閉じ込められた植物彫刻であるpanspermieやそのほかの石彫刻と世界観にかんして密接な結びつきがある。生物建築の着想源となったのは「バベルの塔」神話である。天まで届く塔により神の領域へ至ろうとした人間の傲慢さを象徴する塔の建造は         は、神が怒って人間言語が無数に分裂させたことにより失墜する。ガデンはこの理解不能な異言語を、地上に生息する多様な生態系に結びつけ、今日分子生物学が明らかにする遺伝コードの普遍性を指摘しながら、人間中心主義的思想に基づく今日の状況に対して新しいエコロジーの概念を提案する。

作品「œ

地球上の人間のあり方について芸術を通じて新たな視点を見出そうとする態度は、「œ」にも引き継がれる。当作品は2×4mの巨大な曼荼羅的世界を表象する数年来のガデンの研究の集大成として、2019年神戸における展示で天井絵画として鑑賞者を出迎えた。画面の頂点は世界の起源としての卵、それを取り巻く精子がやがて神経細胞に姿を変えながら画面上部の緻密に描かれた毛細血管のレゾーとなる。画面中央に近づくにつれて健全であった細胞構成物や生体器官は変質し、病変し、免疫反応が戦いの比喩によって描かれる。下部へ視線を移動させると、そこには見るものをゾッとさせる奇怪な形態を持つウイルスやバクテリア、人類をしばしば生存の危機に陥れた凶悪なエイズウイルスやエボラウイルスを含める写実的な描写が大変な迫力を与える。全体として、上部には生、下部に死が象徴されているが、人間の視線での解釈に過ぎず、生命は本質として生の中に死を内在し、そのような二元論的思想はむしろ、ファルマコン(毒と薬を意味する両義的語)の概念の前に突き崩される。ガデンの思想には、上と下が反転すること、相反するものが複雑に絡むことにより生まれる新しい状態の存在が重要な位置を占める。

マチエールへの挑戦と実験

花粉で描いたのはヴォルフガング・ライブであるが、ガデンの芸術もまた、動物・植物・鉱物由来の多様な素材や物質によって具体化される。ケラチンの豊富な蝉の抜け殻、結晶化した硫酸銅を纏った雌牛の頭蓋骨、多種の微生物を含む土を孕んだ彫刻など、などのマチエールに新たな命を吹き込む。このように、自然物を実験的方法で作品に取り込むのはガデンの作品によく見られる手法だ。

フロリアン・ガデン のアート

また、最近の作品である「chiasme」は楕円形の画面に蛍光塗料による絵画で、絡まり合う網の目が果てし無く遠ざかっていく様子を緻密なテクニックで表現している。この作品もまたガデンのキーワードである世界の卵を思わせ、たった一つの細胞として始まる生が無数の細胞が関わりあう複雑な構造として個体を作り、個体が無数に集まって同様に複雑な関係性を築くことで世界が成り立つことを思わせる。今日世界は見えない敵としてのウイルスに震撼しメディアが煽るところの非尋常なる日常を日常として定着させようとしている。ガデンは芸術が門外漢であるとされる医療やエコロジーの領域に果敢に踏み込み、芸術的アプローチを通じて、私たちの環境や生きることについて異なる方法で考えるための枠組みを提案することを試みる。

texte en PDF:

florian_gadenne_perspectives_approches_mikiokubo (français)

florian_gadenne_思想と手法_mikiokubo (日本語)

 

04/20/20

« œ » – 共生のための(?)新しい思考の枠組み

下に添付したテクスト(« œ »と題されている)は、昨年と一昨年前に神戸Gallery8と京都の想念庵で展示されたフロリアン・ガデン の巨大なドローイング(2m×4m)について、作家本人がコンセプトの説明および自身の研究について記述したものである。« œ »というのは作品のタイトルであり、フランス語で使われるoとeが合わさった特殊な文字だが、ラテン語由来のいくつかの単語をかき表す時に使われている。フロリアン・ガデン がこの作品のロゴと言おうかかサインとしてデザインした記号(図)はサケの稚魚がまだ腹部に卵嚢をつけてそこから養分を得ているような様子もうかがわれる。絵画は寸法こそ大きいが、その内容は細部が詳細に描かれたミクロスコピック曼荼羅のようであり、鬱蒼としている多種多様な器官や(非/)生命体の群はしばしば共依存の関係を築く様を描き出す。あるいはそれは一時的に一方がもう一方を侵食する脅威となっていても、それらは時間の経過の中で(短いスパンも途方も無い長いスパンもある)やはり共生的な生を営むことが運命付けられている。

絵画の構造を端的に振り返るならば、作品« œ »は、多数の器官や生命体(およびウイルス)が成す複雑な建築物であり、バベルの塔から着想を受けた上部と、ダンテの時獄篇からイメージした下部の建築が中央のゾーンで地平線を対称軸としてつき合わされた形となっている。上部構造では生命の起源としての「卵」が輝かしく君臨するのを最上部として、それにまとわりつくように精細胞が続き、神経細胞や毛細血管の構造が複雑にレゾーを織り成しながら、やがてそれらが退廃したり、細胞が変異を起こして病的な分裂を反復する様子を表す中央のゾーンへ降りてくる。そこには食細胞が免疫反応のために活躍しており、次第にそれらは変異した細胞や、人類が歴史的に直面してきた多数のバクテリアやウイルスが蠢くエリアへと変貌する。地獄の構造は下へ下へと降りてゆき、無数のウイルスが棲息する深遠な穴へと遠ざかってその絵は終わる。

この絵画の「上」「中」「下」の構造は、人類中心主義的なヒエラルキーの思想と二元論的パースペクティブに基づくものだ。テクストで作家自身が述べているように、« œ »が敢えてこの形をとったのは、まさに、現社会に浸透したその人類中心の視点を覆すためにほかならない。上部が「健全」、下部が「病的」という説明そのものが、意味をなさなくなる瞬間がある。はりめぐらされた毛細血管が生命体において正常に機能している、変質した細胞が無制限に分裂を続けるような現象がある、バクテリアがそれぞれの生命活動を営む上で宿主の中に留まってそこから栄養を取り、ウイルスが同じく宿主にタンパク質からなる殻を突き立てて、そこに自身のDNAを送り込んでいる…。これらの出来事に、善悪の価値判断が与えられたとすれば、それは、ひとえに物語のせいである。例えば、ヒトという生命にとって有益か害かといった枠組みが、本質的にニュートラルな現象を意味付ける。« œ »にはエボラウイルスやHIVウイルスのような、これらのウイルスによる死を避けるために人類が真の脅威として「戦って」きた対象も描かれている。現在世界で感染が広がるCovid-19もまた、「戦争」とか「撲滅」などの語彙によって意味付けられ、« œ »においては下部に挿入されるべきキャラクターということになるのだろう。

さて、人類中心主義的な二元論の物語を覆すと言っても、「生命は視点を変えれば皆ただ生きているだけだ、上下などない」など言い放つことしかできないのであれば、わざわざ絵を描いたり、ものを書いたりしなくてもいいと思うのである。そんなつまらないことしか言えないのであれば。「生命は皆同じ」なんて言ったって、私たちが生きているのはヒトの生であり、生命として生き続けているからには物語がつきまとってくるのは当たり前だ。それでもなお、いやそれゆえに、つまり、生き続けるために考えるべき(あるいは考え直すべき)ことがあり、フロリアン・ガデンの絵画も、新たなエコロジーに焦点をあてるアーティストたちの挑戦も、結論を言い放ちたいのではなくて新しい思考に見る人を巻き込み、それによって生き方を作り変えて行こうとしているのだと思う。

« œ »についてのテクストでは、我々の生命がそもそもウイルスやバクテリアや菌類と共に在るものと認識することを促すことによって、異なる物語を紡ぎ始めようと試みている。事例が列挙される。
*バクテリア、菌類、ウイルスは代謝の均衡維持の役割を担い、消化機能を助け、免疫機能を高める
*腸内菌が脳の機能に影響を与え、腸内菌と同じ種類の菌類が脳内にも存在する
*人間の遺伝子の一部はウイルスに由来している(ウイルスは人の進化に貢献してきた)
*人間はしたがってこれらの微生物に恒常的に侵されながら変化してきた

フロリアン・ガデン は次のようにテクストを締めくくる。
ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?
このテクストを日本語に翻訳したのは私なのだが、「貢献」と訳出しているのはもちろんcontribution (/contribuer)である。ラテン語のcontribuereの語源には「分け与える」とか「何かを共有するために与える」といった意味がある。多様な地球上の生命の一つの種にすぎない人類がその生態の進化に貢献するとは、なにやらそれでもやはりヒトという種を過大評価しているように聞こえる。一方で、ウイルスはヒトの遺伝子に自らのDNAを組み込むことに成功してきたように、ヒトもまた共に生きる(生きている、あるいはこれから共生する)微生物のホストとして彼らの乗り物になり続けていくだけであると結論するだけであれば、人類がこれまで少しずつ追究してきた地球の生命についての営みについての理解をあまりに蔑ろにしている。

私たちが生命について考える新しい枠組みをつかみとるために、« œ »を通じて再考できることがあるように思われ、作品について書くことにした。

注)
*本作品は、フロリアン・ガデン が2018−2019年にわたって取り組んだリサーチおよびドローイングであり、私が企画した2018年の展覧会「ファルマコンーアート×毒×身体」にて公開制作を行い、2019年には神戸のギャラリー8での「ファルマコンー生命のダイアローグ」で天井絵のように展示された。
*展覧会リンク:http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=339http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=347
*作家HPリンク:https://floriangadenne.com/2019/10/29/oe/

« œ »

« œ » において、科学、錬金術、神話的・宗教的物語が混在している。この作品は、マクロとミクロの視点による生物の観察に基づいている。

下にあるものは、上にあるものに等しく、上にあるものもまた下にあるものに等しい。
La Table d’Emeraude, Hermès Trismégiste, 3e ou 2e av. J.-C.

« œ »は « œcuménique »という単語に現れる。« œcuménique »は、16世紀の使用例では<全世界的な、普遍的な>という意味である。この言葉は、 « oecumene »つまり<我々の住む地球、宇宙>に由来している。
(« oe » comme « œcuménique » adj. est emprunté, sous la forme ecuménique (1547 budé) rectifiée en œcuménique (1599), au latin ecclésiastique oecumenicus « de toute la terre habitée » et « universel ». ce mot est dérivé de oecumene « la terre habitée, l’univers ». )

« œ »の形態は、バベルの塔の螺旋構造およびDNAの二重螺旋構造に基づく。この構造はボッティチェリが描いた地獄にもみられ、それはバベルの塔の上下を逆さにした建築となっている。
バベルの塔に関して、私たちはその崩壊を真っ先にイメージするが、塔を建設した時、人類は世界全体と調和しており神にも匹敵できると考えていた。楽園を追われ、人間は神々の言語を失わずにすんだ。人間は、無機物、植物、動物界の言語を理解する能力を持った。したがって、神への挑戦としてのこの塔の建設は、人間の際限のない傲慢さと自信過剰を明らかにした。この普遍的言語は、RNAとDNAに基づく遺伝情報という自然界の言語のことであると再解釈することができる。今日人間は生物を操作し、修正する、つまり<神の役割を演じる>技術を発達させた。

この建築に棲むのは、微生物、細胞、ウイルス、バクテリアなど、大きさの異なる生命体や器官である。« œ »の構造は一見すると二元論的である。つまり、上部は<健全な>生物が描かれ、下部は<病的な>生命体が描かれている。« œ »はこの二つの構造を一つに統合する。

上部構造には、共通言語の概念を象徴的な翻訳としての毛細血管と神経のレゾーが見られる。それらはその頂点に君臨する卵細胞によって司られている。卵細胞から八本の精細胞が伸び、それは二本ずつ撚った四本の糸となる。錬金術において、卵は宇宙の創造を象徴する。また、世界の創造について語る異なる神話においても<世界の卵>があらゆるものの起源として登場する。

下部構造は、<下にいるもの>を意味するラテン語のInfernus=地獄に関連する概念を想起させ、そこには、苦痛、退廃、略奪、死病がある。何かによって侵略され、氾濫するような感情や、差し迫った生命の危機を描き出すことを試みた。病原菌が鬱蒼としているその部分には、無数のウイルス、バクテリアを描きこんだ。また、癌細胞の密集し糸をひくような構造に私たちは思わずぞっとする。 « patho- »の語幹は « pathogenic »(病原体)や « pathology »(病理学)多くの単語に見られ、ギリシャ語のパトス pathos は「やってくるもの、被った経験、不幸、魂の感情」を意味する。私たちもまた、白血球やマクロファージが生命の危険に対して防衛する様子を目の当たりにし、畏れに似た感情を抱くかもしれない。例えば、マクロファージの中には癌細胞のような恐ろしい見た目を持つものがある。侵入者を捕らえるために吸盤のある無秩序なレゾーを広げている。病原体なのか健全な器官なのか、見た目にはもはや不明瞭だ。ウイルスはタンパク質からなる膜を実に多様な形態に発展させている。しばしば対称性の高い形態であり、円柱や球体、正二十面体など正多面体である。特に正二十面体はプラトンの正多面体の一つで非常に頑丈な携帯とされる。

ウイルスは、私たちの生命を脅かすという点で<悪>にカテゴライズされるが、その形態からは何の危険も機能不全も暗示されてはいない。それどころか、彼らの完全な形態は今日までその原始的生命が生き残ることを可能にした原因ですらある。たった5kbから200kbで可能になる完全な幾何学的形態に、嫌悪感よりむしろ魅惑されてしまう。

上と下二つの世界が出会う場は、ドローイングのなかでもっとも複雑な部分である。なぜなら、病原体、健全な細胞、免疫細胞の間で起こる多様な相互作用を描いているからだ。<健全>と<不健全>という二つの構造が出会う場はつまり、バベルの塔と地獄の二つの建築が上下対称に組み合わさる境界面になっている。そこでは、様々な戦いが繰り広げられており、<攻撃><防御><侵略><警戒><保護><武器><戦略>などの戦いに関わる語彙でしばしば描写される。
もっとも知られた免疫反応の形態は食細胞だろう。その名の通り、吸収する機能を持った細胞であり、異物を消化吸収してしまう。これはまさに、動物が自らを養うために行うような捕食行動であるのだが、ここでは生命維持の必要よりむしろ生き延びるための防衛としての意味がある。

病原体の例としてよく知られているのはパラサイト(寄生)だろう。健全な細胞の代謝機能を利用し、その細胞膜に穴を開け、自分の遺伝情報を送り込む。犠牲となった細胞は乗っ取られて自らのアイデンティティを失う。実はこのことは « host »という言葉の定義をよく表している。つまり、« host »とは、歓迎するものであり、歓迎されるものという相反する二者のことである。

この境界が不明瞭な二つの世界を結びつけるため、次のことを考えて見たい。私たちがふつう<病原体>と呼んでいる生命体は、単に私たちの視点から(私たちの利害関係から)判断してそのようにみなしているに過ぎない。

バクテリア、菌類、ウイルスは私たちの代謝の均衡を保つのに重要な役割を果たし、消化機能や免疫機能を高め、そのほかの病原体から私たちを守ることにも貢献している。さらに、最近の研究により、腸内菌が脳の機能に影響を与えるという驚くべきことが明らかになった。私たちはしたがって微生物に恒常的に<侵され>ており、彼らは私たちにとって<病原体>でないどころかなくてはならない存在といえる。この考え方は比較的新しいものである。私たちのアイデンティティは人間に由来する細胞だけではなされず、複数のバクテリア、ウイルス、菌類と共にある。我々の遺伝子の一部はウイルスに由来するものであり、ヒトという種は彼らによって侵されることによって進化してきたということを決して無視することはできない。
Jacques Lependu, directeur du Centre de Recherche en Cancérologie Nantes- Angers (CRCNA), Nouveaux concepts sur les microorganismes dans leurs relations avec leurs hôtes, exposition « L’un l’autre », 2015.

« œ »のバベルの塔と地獄は蔓延る微生物に棲みつくされ、その状況は、地球規模でみると人間とは、地球上の生命群の一部である取るに足らない種の一つに過ぎないことを象徴している。2011年8月現在一千万もの異なる種が地球上に生息していると言われるが、人類は、ものすごい速さで人口を増やしながら地球上の生態を破壊に導く唯一の種なのである。宿主と微生物の関係性が均衡を失った時、それは<病原体>と呼ばれる。« œ »は、人間がほかの生命体に対する支配者として自らを切り離しながら作り上げてきたヒエラルキーを突き崩すことを目指す。なぜなら、ヒトという種がすべきなのは、地球に対する病原体として振舞うことではないからである。宿主と病原体は長い時間をかけて相互に影響を与えながら共に進化してきた。ヒトという種は、地球にとってはむしろ寄生者なのだ。さらに、ジャック・レパンデュが上の引用で述べているように、ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?

フロリアン・ガデン Florian Gadenne(アーティスト)

テクストはPDFファイルもダウンロード可:20042020 œ text final jp

04/18/20

Covid-19の感染拡大をフランスで生活しながら書いたこと

ものを書くのをこんなに躊躇ったことはない。これまで、くだらないことを恥ずかしげもなく散々書いてきたのに。天邪鬼な性分もあり、多くの人々が同じ主題についてものを書いているな、と思うにつけ、私は書かないぞと意固地になってしまったのだが、<書きたい>というただ一つの動機から、結局はこのエッセイを書いている。

私は現在パリの南郊外に住む。つまり、3月17日から外出禁止体制下となったフランスで、今日が4月17日だからちょうど丸一ヶ月生活していることになる。外出禁止「令」というからには法令であり日本の自粛要請とは異なりはっきりした法強制力がある。<不要不急の外出>は警察によって取り締まられ、違反すると罰金の支払いを命ぜられる。不要不急の外出ではない外出ー許可される外出ーの定義は、3月17日以降数週間かかって制限を加えつつ明確化され、現在は、1)どうしても外出しないとしかたない仕事(会社ならば雇用主による証明書が要求される)2)買わないと生活できない食料品や薬の買い出し 3)持病の治療などどうしても行かなければならない病院 4)自宅付近で独りぼっち限定での散歩やスポーツ、犬の散歩 4)その他裁判や行政呼び出し関係の義務的外出 に制限され、外出時は外出日時を記載した証明書を持ち歩く。非常事態宣言と外出禁止の強制の開始と延長は大統領演説によって国民に伝えられたが、細々としたエラー(あるいはロックダウンが遅すぎたとか諸々)に批判はあるものの、そのいざ決まってからの機動力には率直に感心した。3月15日には外出自粛要請にも関わらずパリジャンが小春日和を全身で満喫していたのが16日に大統領演説を受け、17日には外出禁止となり18日には政府のウェブサイトから証明書がダウンロード可能となり携帯が義務付け警察によるコントロールが開始できたのだから。ちなみに学校という学校が全休校になったのも、教員がオンライン授業のための云々を用意する暇など与えられる間も無く16日から一切休校になったことにも、おお!と唸ってしまった。

私個人といえば、今学期は、勤務するグランゼコールの一校で定期試験を残していたので、オンラインシステムを利用して学生と連絡を取りながら試験を実施した。参加学生数も多くなく、顔見知であるのをいいことに、また、自宅勤務だと家事とか子どもと遊ぶとか中々学校勤務のように時間をやりくりできないため、これまで機会がなくて一度も利用していなかった学校指定のオンラインシステムを隈無く勉強して巧みに運用してやるほどちゃんと準備する時間も体力も気力も義理もないよなと即判断し、オーラルテストは電話で実施した。その当時、外出禁止開始から一週間しか経っていなかったが不安からか人恋しさからか世間話したくてたまらない勢いで近況を喋ろうとする学生もあった。いうまでもなく、一人で下宿している学生や、学生のみならず一人暮らしの者にとって、何週間も誰とも直には会わずに引きこもっておれ、というのは、たとえ日々イライラしながらも家族と顔を合わせて会話を交わして生活しているのとは比べ物にならない「インパクト」があるに違いない。こんな時に思うのは、「ポジティブに頑張ろう!」と<頑張る>ことや、「我慢しよう、いずれ元の生活が戻ってくるのだから!」と<我慢する>ことが逆効果だということである。頑張ったり、我慢することはそもそも無理の塊で、結論からいえばこの状況が、しばしばナイーブに語られる意味で<終息>することや<元に戻る>ことなどあり得ないからである。多少落ち着き、我々は現在よりもフィジカルな意味であるいはソーシャルな意味で活動的な生活を送り始めるかもしれないが、それは、頑張ったり、我慢したりしなくてもやってくる。ある意味で、受け入れるということが大事ではないかと考えているのだ。

ウイルスは撲滅できない、と述べた科学者の記事がソーシャルメディア上でも広く支持されて共有されていたが、多くの人がそんなことはわかっており、ウイルスはそもそも生命体でもないタンパク質の殻の中にDNAをバラバラ含んだ遺伝情報のヴィークルであるのだが、そして我々の遺伝情報もまた数%以上はウイルス由来のものであるとか今日の研究ではそんなことまで明らかにされており、従って、私たちは本当は、見えもしないナノ級(nmナノメートルは1メートルの10の9乗分の1)のウイルスと「戦争」をすることも、「撲滅」することも、気の遠くなるような妄想だということを感覚としてわかっているのではないだろうか。「我々はウイルスと戦争状態にある!」と宣戦布告していたのは、フランスの大統領であったけれども、彼自身ももちろんウイルスを撲滅しようなど考えていない。ただ、国民の配慮ある行動(三密を避ける、不要不急の外出を控える、医療崩壊を食い止める)を呼びかけるために、ここまでアホな言い方で理解を呼びかけなければならない(しかも二十分程度のスピーチの中で7回も連呼した)ほど、国民が馬鹿にされているということは、情けないというほかはない。(しかし、のちに述べるがこの国民を馬鹿にした演説と強制措置は一定の変化を促しただろう。)

さて、私たちの日常生活の変化は、世間の多くの人々の「大きな変化」に比べたら、天地がひっくり返るほど無茶苦茶になった!というほどではない。私たちというのは、夫のフロリアン・ガデン と一歳を少しすぎた息子と私である。三匹の猫もいる。私たちは子どもが小さいことがあり、また今年は保育園の定員も満員で、これまでずっと息子は私と夫に見られている。見るというのも世話してやってますみたいな感じでおこがましいから、まあただ一緒に過ごしているという感じである。ウイルスによる症状は当初から、風邪くらいの感染力とか、高齢者が重症化するとか、子どもに関してとりわけ高い注意を呼びかけるものではなかったが、自分の子どもを敢えて苦しませたいという親はおらず、私たちも感染拡大にしたがって、子どもを外ーとりわけ買い物など不特定多数の人々の群に出会う場所ーには連れ出さなくなっていた。そういった必要は大人が一人ですませ、その間は私か夫が留守番をするというのが少なくとも3月になる前から習慣づいていた。子どもは毎日外で遊ぶ。ただし親以外の誰にも会わないし、家以外の屋根のあるところにも行かない。だが、既に学校に行き、友人と遊ぶ事に慣れた子どもの日々への違和感には率直にシンパシーを抱く。

フランスで感染が拡大した。日本では両親の住む北海道での感染拡大が一時深刻化したように見えたが踏みとどまり、東京での感染拡大などを受けて日本でも非常事態宣言が出され、ただの外出自粛よりも強い語調で人との密着接触を避けるべき過ごし方について実践され始めた。誰かも既にのべていたが、日本の感染拡大は、比較されるヨーロッパやアメリカのそれとは様子が全然違う。しばらく拡大は続くものの拡大の仕方が同じにはなりえない。台湾はマスク着用を法的に強制して効果を上げたそうだが、日本では、そもそも病気じゃないときにもマスクを着用できる。(マスクがアイデンティティになるとかマスクだけで論考が書けてしまうほどマスクをする国民である。)中には、しなきゃならんとなると意固地になって自分は大丈夫とマスクをしない困った老人がいることなども耳にしているが、基本的にこれだけ多数の国民がマスクをすれば感染拡大に効果があるのは確実である。そして手を洗うしうがいもする。食べ物も基本的に清潔にする(みんながベタベタその辺に置いてしまうフランスの<パン>みたいなもんはあんまりない)
フランスでは外出禁止令発令以降しばらくして、いよいよ、メディアがただまくしたてるだけで左の耳から右の耳に筒抜ける情報ではなく、なんんといおうか、<感染へのリアルな恐怖>たるものが人々の内側からこみ上げてくるにしたがって、道ゆく人がマスクをしているのを普通に目にするようになった。だがそれまでは、マスクは病気の人がするものであり、自己防衛のためにマスクをするということはなく、つまり「マスクをしている」=「病原菌」(!)みたいに見られることを恐れて、とくに、各国で中国人差別からのアジア人攻撃が加速する情勢に至っては恐ろしくてマスクなどできないという、馬鹿げた状況であった。私なぞ誰がどう見てもアジア人なのであるから、2月ですら出勤にメトロに乗るのが気が重かったし、近所で買い物に行くのすら、例えば、哀れな愚か者が何か罵声を浴びせてこようものなら、気が向けば説き直してやろうくらいの気概はあるけれども、もっと「熱くなった」人が恐ろしい薬品とかかけてきたら絶対に嫌だなとか、無駄に想像力を膨らませてしまうのであった。コンシャスネスを持っている人がマスクをできなかった数週間はやはり馬鹿げたことであったと心から思う。

何を言いたかったか、さて、まとめていきたい。重要なのは、状況がだいぶん変わったということだと思う。自己防衛のためのマスクが普及したのはもちろん、「他者を見たらウイルスだと思え!」というメディアのわかりやすいキャッチコピーのおかげで(そんな端的なコピーがあったかわからないが、上に述べたように言うことをなかなか聞かない国民にどうにかして、人々間の距離を取らせ外出制限を守らせるため、政府とメディアがかなりの荒っぽいマインドコントロールを試みたことは確かであり、それは結果として浸透したのだが、それはそれで阿呆として扱われ結局阿呆でしたというところもあって情けない)、多くの人々が、潜在的な感染可能性を前提として配慮した行動ができるようになった。具体的には、顔を触らない、手を洗うなどは当然として、人同士が近寄らない(唯一可能なスーパーでの買い物は入店制限があり、しばしば長蛇の列に並んで何十分も待たねばならない。その際2メートルくらい前後と間隔を保つ)、外から家に持ち運ぶものは消毒する、着替える、ビズとかせずに<よそよそしく>する。

ビズというのは、フランス人が挨拶の時にする、会釈でも、握手でもなく、チュッチュとするやつで、これは家族や仲良しでは性別を問わず行われるほか、ある程度親しい(親しくもなくてもする)異性間で、会った時と別れるときにホッペにチュッチュッとやっているあれである。風邪をひいていたりすると相手にうつす危機を気にして自主的に「今日風邪なのでビズしないからー」と言ってくれる人もいるが、まあいいやと思ってビズする人がいるのは明らかだし、そもそもまだ発症してないだけで気がついていないかもしれない。とにかく、顔にウイルスを撒き散らすという点で、これほど効果的な方法はあろうか!郷に入れば郷に従えで、これまで10数年間仕方ないのでチュッチュと挨拶してきたものの、そんなよく知らん異性とほっぺをくっつけるほど密着するのも、毎回儀礼的にチュッチュとやるのも、正直面倒だなと思うことの方が多かったので、おそらくこの習慣は、この期間を機に急激に廃れて、家族と親しい人間にとどまるだろうと思う。それでよいのではと思っている。家族が大人になってもスキンシップするのは文化的でなんの批判もないが、親しくない人との制度化されたスキンシップというのは苦痛だし、手を洗ったり、物を拭いたりする習慣もあまりなかっただろうから、これ以降、人と人の距離についての配慮はコンシャスネスが高まるに違いない。

何より素晴らしいことだなあと感じているのは(それが政府により強制される事によってしか実現しなかったのは残念というか当たり前というか、そしてさらにこの騒動そのものがウイルスの感染を装ったグローバルで政治的な茶番のような気さえしているので、高く評価していると同時に全面的に幸福を感じるには至って居ないのであるが…)、私たちのこれまでの日常はほぼ「不要不急」で成り立っていたという事実を認識することだ思う。私が言いたいのは、我々の日々を構成する要素が無価値の塊だったという意味ではない。そうではなく、私たちがこれまでずっとやらなければならない!と信じていたものは、実は日々をただ生きるためには不必要なことで、焦ってやるべき義務も責任もなかったのだな!と気がつく瞬間というのは素晴らしいということが言いたい。(今日現金収入がないと今日食べるのが困難という場合はもちろんこの限りでないのは承知の上だ。)大事だと思っていたルーティーン、私が行かないと皆困ると思っていた業務、そんなものは幻であったという事実!時間という点で1日の多くを占めていた事柄が、それをそっくりそのまま別の行為と取り替えても、日々というものは営まれ、肉体は維持され、季節は変わって行くという、当たり前のこと。当たり前であるのに、不要不急のタスクで忙殺される日常の中でこれに気がつくのは簡単ではなく、一挙にこの自覚を促した「状況」は、その意味で意味があると言わねばならない。

また、「不便さ」への順応も重要だ。人は一度変化に慣れたのちにはそれが当たり前と感じられる能力を持っているので、さしあたり色々なことを「不便」と感じるのも私たちが慣れてきてしまった(無理の上に成り立つ)偉大な便利さとのギャップという相対的な意味でしかない。日本でも思い切りこの「不便化」が進み、我々の享受する至れり尽くせりの生活と全く違う生活を数週間から数ヶ月にわたってかなりの人口が経験できれば、日本社会はリフレッシュするだろうなあと思う。たかだか食料品の買い出しのスーパーへの買い物のために、店に入るのに並ばなければならずたいそう時間がかかるとすれば、おのずと無駄足は運ばないように気をつけるようになり(いまだに買い占めを続ける愚か者を除けば)買うべきものを買わねばならぬ時にようやく買うようになるだろう。宅急便が届かないのでネットショッピングで無駄なものを便利さを糧に買いまくって空輸と陸運と海運を極限まで苛め(おこがましくエコロジストを自称しながら)環境汚染に加担することを避けられるだろう。オンラインショッピングはアマゾンでさえも多くの場合数週間待ちとなっている。店にいっても買いたいものがあるとは限らない。それは誰に怒りをぶつける筋でもなく「仕方ない」ので待つしかない、あるいは、諦めるしかない。また、最初は少し驚いたが、医療機関で働く人にも外出禁止と業務停止が徹底されている。もちろん感染症に対応している医療機関はフル稼働であるし、持病患者のケアをするような大きな病院も機能している。妊婦も問題なく出産ができるだろう。しかし、歯医者や皮膚科や小児科といった、我々が気軽にお世話になっていたはずの病院やクリニックに全く通うことができないのだ。個人的なことだが私は3月末にインプラントの手術をする予定がかなり前から日にちが決まっていたのだが、非常事態宣言とともにクリニックが閉鎖され、いつだか知れぬ再開まで先延ばしになった。この間に別の差し歯が外れてしまい、食事のたびにいちいち痛い思いをし、万一衛生に不備があって炎症を起こして他の歯に及んでもすごく面倒だし、酷い事になる前にぜひ解決したいと医療機関に連絡をとったのだが、その程度では、歯科のある緊急病院へ行ってもいつ見てもらえるかわからないし、多分見てもらえないだろうと言われた。これは、<耐えられない痛みを10としてどのくらい痛いかレベル>というのがあるのだが、それで表すと7以上(つまりものすんごく痛胃からすぐに助けろ!と絶叫している患者)でないと、緊急病院では扱わないからだ。まあ、そんな程度じゃ命にかかわらないから見ませんよ、ということである。これまでの私が当たり前と思ってきた健康の基準に照らして見ると大変不便な生活を送っているのだが、これもまた、仕方ないのである。あるいは、この点でちょっといいことがあるとすれば、人々が無駄な通院や検査に行き過ぎないことだろうか。医療機関に行くのは散歩したり買い物したりするのと違うのだから、必要最小限であることが望ましい。健康マニアが不健康になる事例や、検査のしすぎがむしろ身体に及ぼす悪影響もなきにしろあらずであるのに、今日の私たちはメディアによって多すぎる健康についての情報を与えられて大いに脅されているために色々と心配になって過剰に医者にかかってしまうのだから。

要するに、これまで無数のエコロジストたちが高らかに叫んできた理想論:「一人一人が不便な生活に慣れるちょっとの努力をすれば環境汚染がくいとめられるでしょう!」という絵に描いた餅みたいなこと(そもそもそれをどうやって実現する?一昔前に戻る?そんなことどうやって実際にどのように実現するか言って御覧なさい、と突っ込まざるを得ない空論)が、たったの数週間でまさに実現してしまった。便利すぎる社会を支えるために人々が苦しい思いをして頑張っている日本社会に、もしこのことが起こったら、最初はワーっとびっくりし、たくさんの人が行き所のない憤りに熱くなってしまうかもしれないが、そんなこともすぐに過ぎよう。それが生活として定着したとき(人は一定時間以上その営みを続けていればどんな事にも必ず慣れてしまう)、生きることをまた違って考えられるようになるのではないかと、真面目に思う。

最後に、「この騒ぎが終わったら」「これが収まったら」「元の生活に戻ったら」「通常モードになったら」などなどの言い回しは、メディアが/政府が/市長が/社長が/先生が/親が/家族が、私たちをなだめすかそうとしている時の欺瞞に満ちた表現に過ぎない。それが万が一心から発せられていたとしても、である。ある意味で「この騒ぎが終わ」り、「これが収ま」ったように見える日は必ずやってくるが、それは「元の生活に戻」ることや「通常モード」(それ以前にそうであったという意味での)を私たちが取り戻すことではない。

人間は80年くらい生きる生き物で、これは長いとも短いとも言えるが、刺激が与えられれば、生き延びるために可能な限り素早く適応していく。個体の集合である社会や国家が、したがって、個体のキャパシティを無視したはるかに長いスパンで考えていくことはないだろうと思う。数ヶ月の経験もそれが決定的なら刻印される。それを経験していない以前に戻るということはあり得ない。経験とは生きることで、我々の身体は不可逆な時間を生きている。ブリュノ・ラトゥールなど著名な理論家も「この機会はチャンスなのだ!」みたいな言い方でインタビューを受けたり記事を書いたりしているが、私はそれはメディア的パフォーマンスで、「ポジティブに活かさなきゃいけない絶対の好機だよ!さあ、変わって行こうよ!」みたいなことを意識せよと叫んでいるとは思っていない。そうではなくて、彼らが言うのは、「そうなってしまいましたよ」程度のことだと思っている(どうなってしまったかを項目をわかりやすくまとめてくれはいる)。活かす/活かさない、なんて自由なものではなくて、私たちに選択肢のないもの、だと考えている。受け入れるのみ、というと、いやいや能動的に働きかけるべきポイントがたくさんある!と批判を受けそうだが、もちろん抗うべき項目があるのは認める。それでもやはり、戦う相手など本質的にはおらず、ただ生きているのが続いていくだけである。

2020年4月17、18日
大久保美紀

09/29/19

田房永子『ママだって人間』というマンガ

田房永子さんの漫画、『ママだって人間』を読んだ。ちなみに、彼女の漫画は自伝的で、互いの漫画は彼女という一人の女性を巡って展開されるので自ずと他の漫画で描かれた人生の一コマとも相関し合っており、私はこれまで『母がしんどい』と『キレる私をやめたい』を読んでいて、特に、『母がしんどい』は、彼女の人生の様々な局面で問題になってきた心の問題の根源である、母との人間関係とその分析が描かれており、それ以降の漫画の中でもお母さんとの問題とそれが彼女に与えた影響の話はずーっと出てくるので大事な作品ではある。

『ママだって人間』は、痛快でありつつ、彼女の珍しいキャリア(女性でありながら男性作家の中でエロ漫画家をしていた)ゆえに性に対してここまで描けるのか!と驚かされる内容となっていて、彼女がこんなキャリア持ちじゃなかったら、これらの悩みはここまで笑い飛ばせなかっただろうなと思わせる強かさが魅力の作品だと感じた。ただのフェミニストの功法じゃない、ガチガチにデフェンス固めて真面目すぎる顔して議論するんじゃない、フェミニスト的正論を敢えてサラッと言い得ていて、極論も言ってしまってみて、自らがダメだったところもさらけ出しながら、読み手どう思うよ?と考えるように促している感じだ。

フェミニスト的視点での分析はもちろん素晴らしくて、そうですよね!!と全身でうなづきたくなる下りとか、これ男も読めばいいのにと本気で思う鋭い指摘が続く。

漫画という手段は、素敵だなあと率直に思う。

個人的な、そして言い訳みたいな話だが、この数ヶ月出産後の生物的な問題か単に怠惰なのか両方か、小難しい文章を読んでもよくわからない。小難しい文章も書けない。曲がりくねった表現はわからずに、まっすぐに飛んでくる内容しかキャッチできない。頭が働かないのに加えて時間もない。時間はたっぷりあるのだが、集中して何かを読むまとまった時間みたいなものが全くない。漫画だったら海外で電子書籍で購入して、ガーッと読んで、もう一冊買って、ガーッと読み終わって読み返して、考えてまた読み返して、ということが一瞬でできてしまって感動した。それは単に漫画を読むのが読書に対して簡単だということではなくて、彼女の漫画は十分に説明的で思索的でもあり、しかも個人的な問題について綴っているので、それが大変わかりやすく感じられるということは、彼女の物語り方が大変巧みだということの現れなんだろう。

『ママだって人間』には、子育てに奮闘する中で、彼女がひたすら立ち向かう自身の問題が歯に衣着せぬ感じで描かれる。それらはユーモアたっぷりに演出されるけれども、依然としてリアルで深い。

いくつか大変上手だなあと感心した描写について取り上げてみよう。

<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>問題。なぜしばしば女性が育児をするのか、ホルモンの問題、生物的な問題、オッパイがあるから、色々な理由を挙げて、「結局そのほうがいいんだよね、女性自身もそれが一番満足できる状況なんでしょう」と、つまり<その結果は女性の自主的な選択から導かれている>かのような理解が世の中に蔓延っている。が、彼女は<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>という言い方で、これを否定する。自主的に赤子にくっついていたいんじゃなくて、体がそのようにプログラムされていて選択肢はない、だから、それを放っておいて、疲れ切っているのを見て見ぬ振りをしないのでなく、積極的に割って入ってきて育児に協力するような姿勢が望ましいのだ、と。

これは、のちに取り上げられる、<全く助けないおじいちゃん(ロボットじじい)の作り方>にも繋がっていて、漫画では、ベビーカーや抱っこ紐で赤ちゃん連れで外出した際に遭遇する人々の対応がコミカルに描かれている。女性は基本的には親切にしてくれる、おばあちゃんも割と優しい。そんな中、彼女は、おじいちゃん(優しい人もいるが)に着目する。エレベーターで、ベビーカーの乗り降りに時間がかかることなども考慮なし、扉を配慮なく閉める、自分は動かず指示を出す、手伝ったりは絶対しない。彼女はこういったおじいちゃんの不可解な不親切行動の原因は、彼らが過ごしてきた育児(しない)経験にあると指摘する。さらには、育児しなかったので困っていたり助けるべきポイントがわからないのにとどまらず、彼らが家庭の中で自分の場所を見つけることなく(家では何もせず)、仕事に専念してやがて定年し、彼らは日常生活の多くを妻に頼り、他者への配慮に欠ける<ロボットじじい>になると彼女は分析する。

<理想的に語られる妻像と話が噛み合わない>下りも言い得て妙である。本当はそれぞれが異なる個人であるママたちは、ロボットじじい予備軍の夫たちの口から、あたかも唯一の像であるように語られる、<子供と一緒にいたい><育児に専念する><赤ちゃん可愛いから文句も泣き言も言わない>妻のイメージ。さらには、女性たちも女性たちの側からこの<枠>を作って行く傾向にあると彼女は指摘する。例えば、<母性で全て乗り越えられる><赤ちゃん可愛いから大丈夫><陣痛と出産は超痛いもの><母乳で育てるべき>といった風に。この女性の側から<枠>生成システムの仕組みを変えるのは難しい。なぜなら、共通の物語を創出することによって、自己の不安を相殺してしまおうとする女性によって引き継がれているからだ。

また、典型的な問題でありつつ、男性側からの理解は必ずしも簡単でないのが、<夫に(破裂的に)キレちゃう>問題。(←このキレちゃう問題はやがて、子供にもイラっとした経験から、より真剣にケアされることになる。『キレる私をやめたい』に詳しい。)生物的なレベルでの精神と身体の均衡破壊とそれに続く心身の問題や注意が子供へ向かう制御不可能の変化などは、今日あるレベルで自明のこととして説明されているにもかかわらず、必ずしも少なからず夫婦間で問題になるのは、やはり結局のところ、どのくらい変化するのかについての理解不足が原因である。性欲の問題も然りである。だからといって、何をいっても何をしてもいいわけでは勿論ないが、現在もなおこれらの事実に対する知識や理解は十分でないのではないだろうか。

この漫画を読んで、この漫画にある意味で救われるのは、おそらく「ママたち」なんだろうなあ、と思うが、もしこの漫画に描かれたことが、当事者の「ママたち」を超えて、広く理解されるようなチャンスを得たらいいだろうなあと思うし、そうなることこそが本質的に問題を解決するために必要なんだろうなあと思う。少なくとも、例の<ロボットじじい>を世の中にこれ以上送り出さないために。

09/22/19

ホメオパシー(同種治療)について13 ホメオパシーとファルマコン 2

ホメオパシー(同種治療)について 13(2019年9月20日)
ホメオパシーとファルマコン 2

前回の記事では、ファルマコンの概念について触れながら、「身体に悪いものを摂取する」際の認識が果たす役割について考えてきた。ここで、前回立てた次の問題に立ち戻ってみたい。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ホメオパシーの実践にあたって、リメディーを服用する者が自己の身体に毒を与えていると認識することは意味のあることだと思われる。ホメオパシーは、身体の持つある種の<生来の記憶>に訴え、適切な刺激を与えることにより、身体の自然治癒力に期待して、病や症状を治そうとする療法であった。また、世界に存在する多くの物質は「ファルマコン」(毒にも薬にもなる)としての性質を持っていて、つまり、同じ物質がある人/時/環境では毒にも薬にもなりうる事実は、食養生やファルマコン についての記事において言及した通りである。ホメオパシーもまた、元来、微量の毒の摂取が、適切な症状に施される限りにおいて薬に変化するという考え方であった。(そして、同じ毒は、健全な人が服用した場合、その人の健康を害し、病気にしてしまうと考えた。=「類似性の原則」)ただし、今日のホメオパシー実戦の中では、ホメオパシーのリメディーはその毒としての意味を失い、あるいは希釈によって物理的に毒がかなり弱まり、かつての<錬金術的>な側面をしばしば失ってきていると言っても良いだろう。

さて、ホメオパシーは<錬金術的>な思想であると思う。理由は、ホメオパシーのリメディーに使用する原料は、病気や症状をもたらす毒そのものであることは稀で、それらは通常、<同質>/<同種>とホメオパット達が考えた(定義した)毒によって代わられているからだ。代替物であるなんらかの毒が、身体の自然治癒力のおかげで適切な刺激となって病や症状を改善し、身体の状態をよりよくすると考えた。原因そのものでないが同種のものから、身体での反応を通じて、結果を得ようとした。

ホメオパシーにおいて、同種の毒を摂取し、身体においてある種の錬金術的な反応を引き起こそうとする意思を、リメディーの服用者が持っていることは、それだけで異なる身体への影響を及ぼしたと思われる。それは、結局は慣習的な医療において「エビデンスがない」と打ち捨てられている部分で、月並みな言葉で「精神は身体に影響する」など言うほかなかなか適切な表現のないフィールドであり、そして、それは単なる偽薬効果(プラセボ)とも明らかに異なる。

これまで三週間、比較的密なリズムでホメオパシーを巡って様々な考察を行ってきた。まだまだ深まり切らない謎や問題が山積みだが、ひとまずここまでの13回で連続する記事は一回休憩して、またいろいろなことを書きながら、引き続きホメオパシーの毒の問題については考え続けて行きたいと思う。続編の再開の時にはまたお読みいただいて、ご意見などコメントしていただけると大変励みになり、有り難く読ませていただいている。

再開の折には引き続きお読みいただければ大変嬉しく思う。

*因みに、明日からは、12月上旬から神戸のギャラリー8で展示予定のフロリアン・ガデンの巨大ドローイング « oe »について、数回にわたって連載するのでどうか、Pharmakonのサイトもチェックして見てください!

09/19/19

ホメオパシー(同種治療)について12 ホメオパシーとファルマコン 1

ホメオパシー(同種治療)について 12(2019年9月19日)
ホメオパシーとファルマコン 1

これまで脱線を含めたら長々と11回に渡って記事を綴ってきたのだが、ここにきて、ふと、ホメオパシーの<毒>性が気になった。今更ながら、私は過去に二回企画した展覧会を「ファルマコン」と題しており、ある物質の毒にも薬にもなる両義性がもたらす重要性に着目して、社会や環境、生命について再考する試みを続けており(展覧会ウェブサイト)、とりわけ、摂食(あるいは嗜好品やドラッグを含め摂取すること)を通じて身体があるときは同じ物質に対して非常に異なる反応をすることに関心を持っている。したがって、ホメオパシーが同質の毒を用いることによる治療である限り、ホメオパシーそのものの私たちの身体への<毒>について、再度考えてみる必要があると思った。

ファルマコン について:

薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念である。この言葉は一般的には「薬」=「毒」=「生け贄の山羊」(古代ギリシャのカタルシスの儀式において差し出される動物に見立てられた生け贄あるいは動物)という三つの意味が知られる。この概念は従って、第一義的に物質的含意を持ち、元来は医療用語での使用が認められるが、プラトンがPhèdreにおいて哲学的とりわけ精神のカタルシスとの関連で展開したことがきっかけとなり、より発展的・抽象的な含意を与えられることとなる。1976年のジャック・デリダの論文La phramacie de Platon (La dissémination, 1993)、Ars industrialisの主宰のベルナール・スティグレールも、エクリチュール(書くこと/書かれたもの)とレクチュル・オラル(声に出して読むこと/口頭伝承)の優越に関する考察にファルマコンを用いている。

また、私は研究及び芸術実戦において、この概念を、使い方によって薬にも毒にもなりうる様な物質や処置、あるいは多くの物質や処置が持っているその様な性質と理解し、応用を試みている。

また、私が2017年12月に開催した展覧会「ファルマコン」の成果をまとめ編集したカタログに寄せて、吉岡洋さんは次のように言及している。

ファルマコンという言葉はギリシア語だが、同様の概念は近代以前の諸文明に広く見出すことができる。たとえば古代中国で完成された漢方医学は、あらゆる薬物、鍼灸や指圧などの刺激が、生体の状態に応じて様々に異なった作用を及ぼすという認識を基に作られている。同じ物質や刺激が、ある場合には人を死から救い、別な場合には人を死に至らしめる。そこではファルマコンは自然認識においてもっとも基礎的な概念なのである。(吉岡洋『ファルマコン』、2018)

ホメオパシーのリメディーには原材料となった毒性は失われていて、しかも大概の場合、副作用もない。あれ?ホメオパシーは<優しい医療>と言われ、妊産婦に処方されてきている通り、実は慣習的な医療における薬よりも無毒な存在となってしまっていることに気がつく。ホメオパシーのリメディーそのものには<毒性>がない。これは大変奇妙なことで、なぜならホメオパシーは<毒を持って毒を制す>メソッドであったはずだからである。かつてのホメオパシーは、希釈による毒性の喪失はもっと不明瞭で、もっと明確にいえば、まだ毒であるそのものを摂取することによって症状を改善しようという、同種治療としてのアイディアが生きていたと思われる。だが、今日ではホメオパシーは、原材料がなんであるか知られていないこともしばしばで、おおよそ毒を摂取している(象徴的な意味で、あるいは原理的な意味で)認識はさらさらない。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ここでは、ホメオパシーのリメディーを、慣習的な医療で処方される薬と同じような、それを服用すれば症状が良くなるモノとみなすような今日浸透している一般認識のことは一度置いておいて、ホメオパシーがそもそも同種治療であり、同種の毒によって侵された身体をケアすることができるとする大変挑戦的でアグレッシブなメソッドであることを思い出しながら考えを進めたい。かつてそうであった、というだけでなく、そのかつてそうであった認識は今日もなお効力を持ちうるのかどうかを考えて見たい。

<毒を摂取する>という認識が我々の身体の状況をよりよくするのを助ける状況とは、どんな状況だろうか? 私たちは普通身体にいいものを摂取して、身体がより健康になり、心がより元気になると理解しているはずである。だから、いつも健康食品とか、無農薬や減農薬の食べ物とか、病気に効く食材とか、そんなものでメディアは情報を溢れさせている。では、毒を摂取することで、我々がポジティブな効果を期待する例はあるだろうか。例えば、タバコ、お酒、合法ドラッグ(合法でないとそもそも摂取自体が社会的問題となるためこの記事においてはさしあたりこれを<合法>に限定しておく)、あるいはコーラやファストフードなど、消費者は<身体に悪い>ということを知りながら摂取する一部の食品など。これらの摂取は、摂取そのものは身体にネガティブな効果をもたらす、あるいは物質そのものは身体にとって<毒>であるというのが一般的理解であるにも関わらず、用い方によっては、それを消費する者の心身にポジティブな働きかけを行い、あるレベルある範囲において望まれた結果をもたらす。

「体に悪いものはウマイ」(良薬口苦しの言い換え?)というのは、たまに食べる(あるいはコッソリ食べる)カップラーメンとかすごい塩辛いツマミとか油っぽいサラミやピーナッツなんかがすんごくウマイのだ、と言いたいときに父親がよく言っていたセリフであるが、ここでは、普段はこれら油っぽいもの、塩辛いもの、人工的な旨み成分が配合されているものは「体に悪いから」という理由で<我慢>しているのだが、やっぱり我慢している限りで心の底では食べたいことに変わりないので、時々その<我慢>から自己を解放し、そんなものを食べるとものすごくウマイ!!!と感じるという話だ。あるいは、マクドナルドのハンバーガー(+ポテト+コーラ)を食べる人たちは、食べている側から「これは私の体に良くない」と思いながら食べることを繰り返していることが知られている。また、タバコやお酒や合法ドラッグに至っては、そのもう一度欲しくなるシステムが明確にわかっており、それは<依存性>という言葉でしばしば定義されている。マクドナルドも、30日間三食マクドナルドを食べ続けるという体を張ったドキュメンタリー « Super Size Me »を撮影したMorgan Spurlockの分析によると、食したのち直ちに興奮に似た快感で満たされるので、短期的な視点ではある種強い喜びをもたらすが、長期的には、肥満や体調不良など身体の不調のみならず、精神的に落ち込みやすくなったりするなどの結果を報告している。ここでは、これら「体に悪い食べ物」は、「体に悪い」という認識のために、普段多くの人が量や頻度が制限しているからこそ、ひとたび欲望を解放してそれを摂取した時の快感が、それ自体が持っているある種の興奮/快感効果や依存性を助長する形で快感として認識されてしまい、結果、「体に悪いものを摂取しているが、それってすごく気持ちいい」と感じてしまう。

「<自分へのご褒美>としての体に悪いものの摂取」が成り立つのは、この、普段我慢していることを解放する快感ゆえである。記事の冒頭で、同じ物質が毒にも薬にもなる「ファルマコン 」の概念について触れたし、先の記事においても引用した食養生の考え方において、嫌いなものを我慢して食するよりも(たとえ一般に体に悪いと思われているものであっても)心が喜んで食べるのであれば、結果体は元気になる(こともある)、ということが示しているのは、物質そのものの薬性や毒性に時に先行して摂取する者がそれをどのように認識しているかが重要になることがある、という事実である。

今のところホメオパシーとの接点までうまく行き着いていないので、引き続きこの「体に悪いものの摂取」について引き続き考えてみることにする。