04/20/20

« œ » – 共生のための(?)新しい思考の枠組み

下に添付したテクスト(« œ »と題されている)は、昨年と一昨年前に神戸Gallery8と京都の想念庵で展示されたフロリアン・ガデン の巨大なドローイング(2m×4m)について、作家本人がコンセプトの説明および自身の研究について記述したものである。« œ »というのは作品のタイトルであり、フランス語で使われるoとeが合わさった特殊な文字だが、ラテン語由来のいくつかの単語をかき表す時に使われている。フロリアン・ガデン がこの作品のロゴと言おうかかサインとしてデザインした記号(図)はサケの稚魚がまだ腹部に卵嚢をつけてそこから養分を得ているような様子もうかがわれる。絵画は寸法こそ大きいが、その内容は細部が詳細に描かれたミクロスコピック曼荼羅のようであり、鬱蒼としている多種多様な器官や(非/)生命体の群はしばしば共依存の関係を築く様を描き出す。あるいはそれは一時的に一方がもう一方を侵食する脅威となっていても、それらは時間の経過の中で(短いスパンも途方も無い長いスパンもある)やはり共生的な生を営むことが運命付けられている。

絵画の構造を端的に振り返るならば、作品« œ »は、多数の器官や生命体(およびウイルス)が成す複雑な建築物であり、バベルの塔から着想を受けた上部と、ダンテの時獄篇からイメージした下部の建築が中央のゾーンで地平線を対称軸としてつき合わされた形となっている。上部構造では生命の起源としての「卵」が輝かしく君臨するのを最上部として、それにまとわりつくように精細胞が続き、神経細胞や毛細血管の構造が複雑にレゾーを織り成しながら、やがてそれらが退廃したり、細胞が変異を起こして病的な分裂を反復する様子を表す中央のゾーンへ降りてくる。そこには食細胞が免疫反応のために活躍しており、次第にそれらは変異した細胞や、人類が歴史的に直面してきた多数のバクテリアやウイルスが蠢くエリアへと変貌する。地獄の構造は下へ下へと降りてゆき、無数のウイルスが棲息する深遠な穴へと遠ざかってその絵は終わる。

この絵画の「上」「中」「下」の構造は、人類中心主義的なヒエラルキーの思想と二元論的パースペクティブに基づくものだ。テクストで作家自身が述べているように、« œ »が敢えてこの形をとったのは、まさに、現社会に浸透したその人類中心の視点を覆すためにほかならない。上部が「健全」、下部が「病的」という説明そのものが、意味をなさなくなる瞬間がある。はりめぐらされた毛細血管が生命体において正常に機能している、変質した細胞が無制限に分裂を続けるような現象がある、バクテリアがそれぞれの生命活動を営む上で宿主の中に留まってそこから栄養を取り、ウイルスが同じく宿主にタンパク質からなる殻を突き立てて、そこに自身のDNAを送り込んでいる…。これらの出来事に、善悪の価値判断が与えられたとすれば、それは、ひとえに物語のせいである。例えば、ヒトという生命にとって有益か害かといった枠組みが、本質的にニュートラルな現象を意味付ける。« œ »にはエボラウイルスやHIVウイルスのような、これらのウイルスによる死を避けるために人類が真の脅威として「戦って」きた対象も描かれている。現在世界で感染が広がるCovid-19もまた、「戦争」とか「撲滅」などの語彙によって意味付けられ、« œ »においては下部に挿入されるべきキャラクターということになるのだろう。

さて、人類中心主義的な二元論の物語を覆すと言っても、「生命は視点を変えれば皆ただ生きているだけだ、上下などない」など言い放つことしかできないのであれば、わざわざ絵を描いたり、ものを書いたりしなくてもいいと思うのである。そんなつまらないことしか言えないのであれば。「生命は皆同じ」なんて言ったって、私たちが生きているのはヒトの生であり、生命として生き続けているからには物語がつきまとってくるのは当たり前だ。それでもなお、いやそれゆえに、つまり、生き続けるために考えるべき(あるいは考え直すべき)ことがあり、フロリアン・ガデンの絵画も、新たなエコロジーに焦点をあてるアーティストたちの挑戦も、結論を言い放ちたいのではなくて新しい思考に見る人を巻き込み、それによって生き方を作り変えて行こうとしているのだと思う。

« œ »についてのテクストでは、我々の生命がそもそもウイルスやバクテリアや菌類と共に在るものと認識することを促すことによって、異なる物語を紡ぎ始めようと試みている。事例が列挙される。
*バクテリア、菌類、ウイルスは代謝の均衡維持の役割を担い、消化機能を助け、免疫機能を高める
*腸内菌が脳の機能に影響を与え、腸内菌と同じ種類の菌類が脳内にも存在する
*人間の遺伝子の一部はウイルスに由来している(ウイルスは人の進化に貢献してきた)
*人間はしたがってこれらの微生物に恒常的に侵されながら変化してきた

フロリアン・ガデン は次のようにテクストを締めくくる。
ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?
このテクストを日本語に翻訳したのは私なのだが、「貢献」と訳出しているのはもちろんcontribution (/contribuer)である。ラテン語のcontribuereの語源には「分け与える」とか「何かを共有するために与える」といった意味がある。多様な地球上の生命の一つの種にすぎない人類がその生態の進化に貢献するとは、なにやらそれでもやはりヒトという種を過大評価しているように聞こえる。一方で、ウイルスはヒトの遺伝子に自らのDNAを組み込むことに成功してきたように、ヒトもまた共に生きる(生きている、あるいはこれから共生する)微生物のホストとして彼らの乗り物になり続けていくだけであると結論するだけであれば、人類がこれまで少しずつ追究してきた地球の生命についての営みについての理解をあまりに蔑ろにしている。

私たちが生命について考える新しい枠組みをつかみとるために、« œ »を通じて再考できることがあるように思われ、作品について書くことにした。

注)
*本作品は、フロリアン・ガデン が2018−2019年にわたって取り組んだリサーチおよびドローイングであり、私が企画した2018年の展覧会「ファルマコンーアート×毒×身体」にて公開制作を行い、2019年には神戸のギャラリー8での「ファルマコンー生命のダイアローグ」で天井絵のように展示された。
*展覧会リンク:http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=339http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=347
*作家HPリンク:https://floriangadenne.com/2019/10/29/oe/

« œ »

« œ » において、科学、錬金術、神話的・宗教的物語が混在している。この作品は、マクロとミクロの視点による生物の観察に基づいている。

下にあるものは、上にあるものに等しく、上にあるものもまた下にあるものに等しい。
La Table d’Emeraude, Hermès Trismégiste, 3e ou 2e av. J.-C.

« œ »は « œcuménique »という単語に現れる。« œcuménique »は、16世紀の使用例では<全世界的な、普遍的な>という意味である。この言葉は、 « oecumene »つまり<我々の住む地球、宇宙>に由来している。
(« oe » comme « œcuménique » adj. est emprunté, sous la forme ecuménique (1547 budé) rectifiée en œcuménique (1599), au latin ecclésiastique oecumenicus « de toute la terre habitée » et « universel ». ce mot est dérivé de oecumene « la terre habitée, l’univers ». )

« œ »の形態は、バベルの塔の螺旋構造およびDNAの二重螺旋構造に基づく。この構造はボッティチェリが描いた地獄にもみられ、それはバベルの塔の上下を逆さにした建築となっている。
バベルの塔に関して、私たちはその崩壊を真っ先にイメージするが、塔を建設した時、人類は世界全体と調和しており神にも匹敵できると考えていた。楽園を追われ、人間は神々の言語を失わずにすんだ。人間は、無機物、植物、動物界の言語を理解する能力を持った。したがって、神への挑戦としてのこの塔の建設は、人間の際限のない傲慢さと自信過剰を明らかにした。この普遍的言語は、RNAとDNAに基づく遺伝情報という自然界の言語のことであると再解釈することができる。今日人間は生物を操作し、修正する、つまり<神の役割を演じる>技術を発達させた。

この建築に棲むのは、微生物、細胞、ウイルス、バクテリアなど、大きさの異なる生命体や器官である。« œ »の構造は一見すると二元論的である。つまり、上部は<健全な>生物が描かれ、下部は<病的な>生命体が描かれている。« œ »はこの二つの構造を一つに統合する。

上部構造には、共通言語の概念を象徴的な翻訳としての毛細血管と神経のレゾーが見られる。それらはその頂点に君臨する卵細胞によって司られている。卵細胞から八本の精細胞が伸び、それは二本ずつ撚った四本の糸となる。錬金術において、卵は宇宙の創造を象徴する。また、世界の創造について語る異なる神話においても<世界の卵>があらゆるものの起源として登場する。

下部構造は、<下にいるもの>を意味するラテン語のInfernus=地獄に関連する概念を想起させ、そこには、苦痛、退廃、略奪、死病がある。何かによって侵略され、氾濫するような感情や、差し迫った生命の危機を描き出すことを試みた。病原菌が鬱蒼としているその部分には、無数のウイルス、バクテリアを描きこんだ。また、癌細胞の密集し糸をひくような構造に私たちは思わずぞっとする。 « patho- »の語幹は « pathogenic »(病原体)や « pathology »(病理学)多くの単語に見られ、ギリシャ語のパトス pathos は「やってくるもの、被った経験、不幸、魂の感情」を意味する。私たちもまた、白血球やマクロファージが生命の危険に対して防衛する様子を目の当たりにし、畏れに似た感情を抱くかもしれない。例えば、マクロファージの中には癌細胞のような恐ろしい見た目を持つものがある。侵入者を捕らえるために吸盤のある無秩序なレゾーを広げている。病原体なのか健全な器官なのか、見た目にはもはや不明瞭だ。ウイルスはタンパク質からなる膜を実に多様な形態に発展させている。しばしば対称性の高い形態であり、円柱や球体、正二十面体など正多面体である。特に正二十面体はプラトンの正多面体の一つで非常に頑丈な携帯とされる。

ウイルスは、私たちの生命を脅かすという点で<悪>にカテゴライズされるが、その形態からは何の危険も機能不全も暗示されてはいない。それどころか、彼らの完全な形態は今日までその原始的生命が生き残ることを可能にした原因ですらある。たった5kbから200kbで可能になる完全な幾何学的形態に、嫌悪感よりむしろ魅惑されてしまう。

上と下二つの世界が出会う場は、ドローイングのなかでもっとも複雑な部分である。なぜなら、病原体、健全な細胞、免疫細胞の間で起こる多様な相互作用を描いているからだ。<健全>と<不健全>という二つの構造が出会う場はつまり、バベルの塔と地獄の二つの建築が上下対称に組み合わさる境界面になっている。そこでは、様々な戦いが繰り広げられており、<攻撃><防御><侵略><警戒><保護><武器><戦略>などの戦いに関わる語彙でしばしば描写される。
もっとも知られた免疫反応の形態は食細胞だろう。その名の通り、吸収する機能を持った細胞であり、異物を消化吸収してしまう。これはまさに、動物が自らを養うために行うような捕食行動であるのだが、ここでは生命維持の必要よりむしろ生き延びるための防衛としての意味がある。

病原体の例としてよく知られているのはパラサイト(寄生)だろう。健全な細胞の代謝機能を利用し、その細胞膜に穴を開け、自分の遺伝情報を送り込む。犠牲となった細胞は乗っ取られて自らのアイデンティティを失う。実はこのことは « host »という言葉の定義をよく表している。つまり、« host »とは、歓迎するものであり、歓迎されるものという相反する二者のことである。

この境界が不明瞭な二つの世界を結びつけるため、次のことを考えて見たい。私たちがふつう<病原体>と呼んでいる生命体は、単に私たちの視点から(私たちの利害関係から)判断してそのようにみなしているに過ぎない。

バクテリア、菌類、ウイルスは私たちの代謝の均衡を保つのに重要な役割を果たし、消化機能や免疫機能を高め、そのほかの病原体から私たちを守ることにも貢献している。さらに、最近の研究により、腸内菌が脳の機能に影響を与えるという驚くべきことが明らかになった。私たちはしたがって微生物に恒常的に<侵され>ており、彼らは私たちにとって<病原体>でないどころかなくてはならない存在といえる。この考え方は比較的新しいものである。私たちのアイデンティティは人間に由来する細胞だけではなされず、複数のバクテリア、ウイルス、菌類と共にある。我々の遺伝子の一部はウイルスに由来するものであり、ヒトという種は彼らによって侵されることによって進化してきたということを決して無視することはできない。
Jacques Lependu, directeur du Centre de Recherche en Cancérologie Nantes- Angers (CRCNA), Nouveaux concepts sur les microorganismes dans leurs relations avec leurs hôtes, exposition « L’un l’autre », 2015.

« œ »のバベルの塔と地獄は蔓延る微生物に棲みつくされ、その状況は、地球規模でみると人間とは、地球上の生命群の一部である取るに足らない種の一つに過ぎないことを象徴している。2011年8月現在一千万もの異なる種が地球上に生息していると言われるが、人類は、ものすごい速さで人口を増やしながら地球上の生態を破壊に導く唯一の種なのである。宿主と微生物の関係性が均衡を失った時、それは<病原体>と呼ばれる。« œ »は、人間がほかの生命体に対する支配者として自らを切り離しながら作り上げてきたヒエラルキーを突き崩すことを目指す。なぜなら、ヒトという種がすべきなのは、地球に対する病原体として振舞うことではないからである。宿主と病原体は長い時間をかけて相互に影響を与えながら共に進化してきた。ヒトという種は、地球にとってはむしろ寄生者なのだ。さらに、ジャック・レパンデュが上の引用で述べているように、ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?

フロリアン・ガデン Florian Gadenne(アーティスト)

テクストはPDFファイルもダウンロード可:20042020 œ text final jp

04/18/20

Covid-19の感染拡大をフランスで生活しながら書いたこと

ものを書くのをこんなに躊躇ったことはない。これまで、くだらないことを恥ずかしげもなく散々書いてきたのに。天邪鬼な性分もあり、多くの人々が同じ主題についてものを書いているな、と思うにつけ、私は書かないぞと意固地になってしまったのだが、<書きたい>というただ一つの動機から、結局はこのエッセイを書いている。

私は現在パリの南郊外に住む。つまり、3月17日から外出禁止体制下となったフランスで、今日が4月17日だからちょうど丸一ヶ月生活していることになる。外出禁止「令」というからには法令であり日本の自粛要請とは異なりはっきりした法強制力がある。<不要不急の外出>は警察によって取り締まられ、違反すると罰金の支払いを命ぜられる。不要不急の外出ではない外出ー許可される外出ーの定義は、3月17日以降数週間かかって制限を加えつつ明確化され、現在は、1)どうしても外出しないとしかたない仕事(会社ならば雇用主による証明書が要求される)2)買わないと生活できない食料品や薬の買い出し 3)持病の治療などどうしても行かなければならない病院 4)自宅付近で独りぼっち限定での散歩やスポーツ、犬の散歩 4)その他裁判や行政呼び出し関係の義務的外出 に制限され、外出時は外出日時を記載した証明書を持ち歩く。非常事態宣言と外出禁止の強制の開始と延長は大統領演説によって国民に伝えられたが、細々としたエラー(あるいはロックダウンが遅すぎたとか諸々)に批判はあるものの、そのいざ決まってからの機動力には率直に感心した。3月15日には外出自粛要請にも関わらずパリジャンが小春日和を全身で満喫していたのが16日に大統領演説を受け、17日には外出禁止となり18日には政府のウェブサイトから証明書がダウンロード可能となり携帯が義務付け警察によるコントロールが開始できたのだから。ちなみに学校という学校が全休校になったのも、教員がオンライン授業のための云々を用意する暇など与えられる間も無く16日から一切休校になったことにも、おお!と唸ってしまった。

私個人といえば、今学期は、勤務するグランゼコールの一校で定期試験を残していたので、オンラインシステムを利用して学生と連絡を取りながら試験を実施した。参加学生数も多くなく、顔見知であるのをいいことに、また、自宅勤務だと家事とか子どもと遊ぶとか中々学校勤務のように時間をやりくりできないため、これまで機会がなくて一度も利用していなかった学校指定のオンラインシステムを隈無く勉強して巧みに運用してやるほどちゃんと準備する時間も体力も気力も義理もないよなと即判断し、オーラルテストは電話で実施した。その当時、外出禁止開始から一週間しか経っていなかったが不安からか人恋しさからか世間話したくてたまらない勢いで近況を喋ろうとする学生もあった。いうまでもなく、一人で下宿している学生や、学生のみならず一人暮らしの者にとって、何週間も誰とも直には会わずに引きこもっておれ、というのは、たとえ日々イライラしながらも家族と顔を合わせて会話を交わして生活しているのとは比べ物にならない「インパクト」があるに違いない。こんな時に思うのは、「ポジティブに頑張ろう!」と<頑張る>ことや、「我慢しよう、いずれ元の生活が戻ってくるのだから!」と<我慢する>ことが逆効果だということである。頑張ったり、我慢することはそもそも無理の塊で、結論からいえばこの状況が、しばしばナイーブに語られる意味で<終息>することや<元に戻る>ことなどあり得ないからである。多少落ち着き、我々は現在よりもフィジカルな意味であるいはソーシャルな意味で活動的な生活を送り始めるかもしれないが、それは、頑張ったり、我慢したりしなくてもやってくる。ある意味で、受け入れるということが大事ではないかと考えているのだ。

ウイルスは撲滅できない、と述べた科学者の記事がソーシャルメディア上でも広く支持されて共有されていたが、多くの人がそんなことはわかっており、ウイルスはそもそも生命体でもないタンパク質の殻の中にDNAをバラバラ含んだ遺伝情報のヴィークルであるのだが、そして我々の遺伝情報もまた数%以上はウイルス由来のものであるとか今日の研究ではそんなことまで明らかにされており、従って、私たちは本当は、見えもしないナノ級(nmナノメートルは1メートルの10の9乗分の1)のウイルスと「戦争」をすることも、「撲滅」することも、気の遠くなるような妄想だということを感覚としてわかっているのではないだろうか。「我々はウイルスと戦争状態にある!」と宣戦布告していたのは、フランスの大統領であったけれども、彼自身ももちろんウイルスを撲滅しようなど考えていない。ただ、国民の配慮ある行動(三密を避ける、不要不急の外出を控える、医療崩壊を食い止める)を呼びかけるために、ここまでアホな言い方で理解を呼びかけなければならない(しかも二十分程度のスピーチの中で7回も連呼した)ほど、国民が馬鹿にされているということは、情けないというほかはない。(しかし、のちに述べるがこの国民を馬鹿にした演説と強制措置は一定の変化を促しただろう。)

さて、私たちの日常生活の変化は、世間の多くの人々の「大きな変化」に比べたら、天地がひっくり返るほど無茶苦茶になった!というほどではない。私たちというのは、夫のフロリアン・ガデン と一歳を少しすぎた息子と私である。三匹の猫もいる。私たちは子どもが小さいことがあり、また今年は保育園の定員も満員で、これまでずっと息子は私と夫に見られている。見るというのも世話してやってますみたいな感じでおこがましいから、まあただ一緒に過ごしているという感じである。ウイルスによる症状は当初から、風邪くらいの感染力とか、高齢者が重症化するとか、子どもに関してとりわけ高い注意を呼びかけるものではなかったが、自分の子どもを敢えて苦しませたいという親はおらず、私たちも感染拡大にしたがって、子どもを外ーとりわけ買い物など不特定多数の人々の群に出会う場所ーには連れ出さなくなっていた。そういった必要は大人が一人ですませ、その間は私か夫が留守番をするというのが少なくとも3月になる前から習慣づいていた。子どもは毎日外で遊ぶ。ただし親以外の誰にも会わないし、家以外の屋根のあるところにも行かない。だが、既に学校に行き、友人と遊ぶ事に慣れた子どもの日々への違和感には率直にシンパシーを抱く。

フランスで感染が拡大した。日本では両親の住む北海道での感染拡大が一時深刻化したように見えたが踏みとどまり、東京での感染拡大などを受けて日本でも非常事態宣言が出され、ただの外出自粛よりも強い語調で人との密着接触を避けるべき過ごし方について実践され始めた。誰かも既にのべていたが、日本の感染拡大は、比較されるヨーロッパやアメリカのそれとは様子が全然違う。しばらく拡大は続くものの拡大の仕方が同じにはなりえない。台湾はマスク着用を法的に強制して効果を上げたそうだが、日本では、そもそも病気じゃないときにもマスクを着用できる。(マスクがアイデンティティになるとかマスクだけで論考が書けてしまうほどマスクをする国民である。)中には、しなきゃならんとなると意固地になって自分は大丈夫とマスクをしない困った老人がいることなども耳にしているが、基本的にこれだけ多数の国民がマスクをすれば感染拡大に効果があるのは確実である。そして手を洗うしうがいもする。食べ物も基本的に清潔にする(みんながベタベタその辺に置いてしまうフランスの<パン>みたいなもんはあんまりない)
フランスでは外出禁止令発令以降しばらくして、いよいよ、メディアがただまくしたてるだけで左の耳から右の耳に筒抜ける情報ではなく、なんんといおうか、<感染へのリアルな恐怖>たるものが人々の内側からこみ上げてくるにしたがって、道ゆく人がマスクをしているのを普通に目にするようになった。だがそれまでは、マスクは病気の人がするものであり、自己防衛のためにマスクをするということはなく、つまり「マスクをしている」=「病原菌」(!)みたいに見られることを恐れて、とくに、各国で中国人差別からのアジア人攻撃が加速する情勢に至っては恐ろしくてマスクなどできないという、馬鹿げた状況であった。私なぞ誰がどう見てもアジア人なのであるから、2月ですら出勤にメトロに乗るのが気が重かったし、近所で買い物に行くのすら、例えば、哀れな愚か者が何か罵声を浴びせてこようものなら、気が向けば説き直してやろうくらいの気概はあるけれども、もっと「熱くなった」人が恐ろしい薬品とかかけてきたら絶対に嫌だなとか、無駄に想像力を膨らませてしまうのであった。コンシャスネスを持っている人がマスクをできなかった数週間はやはり馬鹿げたことであったと心から思う。

何を言いたかったか、さて、まとめていきたい。重要なのは、状況がだいぶん変わったということだと思う。自己防衛のためのマスクが普及したのはもちろん、「他者を見たらウイルスだと思え!」というメディアのわかりやすいキャッチコピーのおかげで(そんな端的なコピーがあったかわからないが、上に述べたように言うことをなかなか聞かない国民にどうにかして、人々間の距離を取らせ外出制限を守らせるため、政府とメディアがかなりの荒っぽいマインドコントロールを試みたことは確かであり、それは結果として浸透したのだが、それはそれで阿呆として扱われ結局阿呆でしたというところもあって情けない)、多くの人々が、潜在的な感染可能性を前提として配慮した行動ができるようになった。具体的には、顔を触らない、手を洗うなどは当然として、人同士が近寄らない(唯一可能なスーパーでの買い物は入店制限があり、しばしば長蛇の列に並んで何十分も待たねばならない。その際2メートルくらい前後と間隔を保つ)、外から家に持ち運ぶものは消毒する、着替える、ビズとかせずに<よそよそしく>する。

ビズというのは、フランス人が挨拶の時にする、会釈でも、握手でもなく、チュッチュとするやつで、これは家族や仲良しでは性別を問わず行われるほか、ある程度親しい(親しくもなくてもする)異性間で、会った時と別れるときにホッペにチュッチュッとやっているあれである。風邪をひいていたりすると相手にうつす危機を気にして自主的に「今日風邪なのでビズしないからー」と言ってくれる人もいるが、まあいいやと思ってビズする人がいるのは明らかだし、そもそもまだ発症してないだけで気がついていないかもしれない。とにかく、顔にウイルスを撒き散らすという点で、これほど効果的な方法はあろうか!郷に入れば郷に従えで、これまで10数年間仕方ないのでチュッチュと挨拶してきたものの、そんなよく知らん異性とほっぺをくっつけるほど密着するのも、毎回儀礼的にチュッチュとやるのも、正直面倒だなと思うことの方が多かったので、おそらくこの習慣は、この期間を機に急激に廃れて、家族と親しい人間にとどまるだろうと思う。それでよいのではと思っている。家族が大人になってもスキンシップするのは文化的でなんの批判もないが、親しくない人との制度化されたスキンシップというのは苦痛だし、手を洗ったり、物を拭いたりする習慣もあまりなかっただろうから、これ以降、人と人の距離についての配慮はコンシャスネスが高まるに違いない。

何より素晴らしいことだなあと感じているのは(それが政府により強制される事によってしか実現しなかったのは残念というか当たり前というか、そしてさらにこの騒動そのものがウイルスの感染を装ったグローバルで政治的な茶番のような気さえしているので、高く評価していると同時に全面的に幸福を感じるには至って居ないのであるが…)、私たちのこれまでの日常はほぼ「不要不急」で成り立っていたという事実を認識することだ思う。私が言いたいのは、我々の日々を構成する要素が無価値の塊だったという意味ではない。そうではなく、私たちがこれまでずっとやらなければならない!と信じていたものは、実は日々をただ生きるためには不必要なことで、焦ってやるべき義務も責任もなかったのだな!と気がつく瞬間というのは素晴らしいということが言いたい。(今日現金収入がないと今日食べるのが困難という場合はもちろんこの限りでないのは承知の上だ。)大事だと思っていたルーティーン、私が行かないと皆困ると思っていた業務、そんなものは幻であったという事実!時間という点で1日の多くを占めていた事柄が、それをそっくりそのまま別の行為と取り替えても、日々というものは営まれ、肉体は維持され、季節は変わって行くという、当たり前のこと。当たり前であるのに、不要不急のタスクで忙殺される日常の中でこれに気がつくのは簡単ではなく、一挙にこの自覚を促した「状況」は、その意味で意味があると言わねばならない。

また、「不便さ」への順応も重要だ。人は一度変化に慣れたのちにはそれが当たり前と感じられる能力を持っているので、さしあたり色々なことを「不便」と感じるのも私たちが慣れてきてしまった(無理の上に成り立つ)偉大な便利さとのギャップという相対的な意味でしかない。日本でも思い切りこの「不便化」が進み、我々の享受する至れり尽くせりの生活と全く違う生活を数週間から数ヶ月にわたってかなりの人口が経験できれば、日本社会はリフレッシュするだろうなあと思う。たかだか食料品の買い出しのスーパーへの買い物のために、店に入るのに並ばなければならずたいそう時間がかかるとすれば、おのずと無駄足は運ばないように気をつけるようになり(いまだに買い占めを続ける愚か者を除けば)買うべきものを買わねばならぬ時にようやく買うようになるだろう。宅急便が届かないのでネットショッピングで無駄なものを便利さを糧に買いまくって空輸と陸運と海運を極限まで苛め(おこがましくエコロジストを自称しながら)環境汚染に加担することを避けられるだろう。オンラインショッピングはアマゾンでさえも多くの場合数週間待ちとなっている。店にいっても買いたいものがあるとは限らない。それは誰に怒りをぶつける筋でもなく「仕方ない」ので待つしかない、あるいは、諦めるしかない。また、最初は少し驚いたが、医療機関で働く人にも外出禁止と業務停止が徹底されている。もちろん感染症に対応している医療機関はフル稼働であるし、持病患者のケアをするような大きな病院も機能している。妊婦も問題なく出産ができるだろう。しかし、歯医者や皮膚科や小児科といった、我々が気軽にお世話になっていたはずの病院やクリニックに全く通うことができないのだ。個人的なことだが私は3月末にインプラントの手術をする予定がかなり前から日にちが決まっていたのだが、非常事態宣言とともにクリニックが閉鎖され、いつだか知れぬ再開まで先延ばしになった。この間に別の差し歯が外れてしまい、食事のたびにいちいち痛い思いをし、万一衛生に不備があって炎症を起こして他の歯に及んでもすごく面倒だし、酷い事になる前にぜひ解決したいと医療機関に連絡をとったのだが、その程度では、歯科のある緊急病院へ行ってもいつ見てもらえるかわからないし、多分見てもらえないだろうと言われた。これは、<耐えられない痛みを10としてどのくらい痛いかレベル>というのがあるのだが、それで表すと7以上(つまりものすんごく痛胃からすぐに助けろ!と絶叫している患者)でないと、緊急病院では扱わないからだ。まあ、そんな程度じゃ命にかかわらないから見ませんよ、ということである。これまでの私が当たり前と思ってきた健康の基準に照らして見ると大変不便な生活を送っているのだが、これもまた、仕方ないのである。あるいは、この点でちょっといいことがあるとすれば、人々が無駄な通院や検査に行き過ぎないことだろうか。医療機関に行くのは散歩したり買い物したりするのと違うのだから、必要最小限であることが望ましい。健康マニアが不健康になる事例や、検査のしすぎがむしろ身体に及ぼす悪影響もなきにしろあらずであるのに、今日の私たちはメディアによって多すぎる健康についての情報を与えられて大いに脅されているために色々と心配になって過剰に医者にかかってしまうのだから。

要するに、これまで無数のエコロジストたちが高らかに叫んできた理想論:「一人一人が不便な生活に慣れるちょっとの努力をすれば環境汚染がくいとめられるでしょう!」という絵に描いた餅みたいなこと(そもそもそれをどうやって実現する?一昔前に戻る?そんなことどうやって実際にどのように実現するか言って御覧なさい、と突っ込まざるを得ない空論)が、たったの数週間でまさに実現してしまった。便利すぎる社会を支えるために人々が苦しい思いをして頑張っている日本社会に、もしこのことが起こったら、最初はワーっとびっくりし、たくさんの人が行き所のない憤りに熱くなってしまうかもしれないが、そんなこともすぐに過ぎよう。それが生活として定着したとき(人は一定時間以上その営みを続けていればどんな事にも必ず慣れてしまう)、生きることをまた違って考えられるようになるのではないかと、真面目に思う。

最後に、「この騒ぎが終わったら」「これが収まったら」「元の生活に戻ったら」「通常モードになったら」などなどの言い回しは、メディアが/政府が/市長が/社長が/先生が/親が/家族が、私たちをなだめすかそうとしている時の欺瞞に満ちた表現に過ぎない。それが万が一心から発せられていたとしても、である。ある意味で「この騒ぎが終わ」り、「これが収ま」ったように見える日は必ずやってくるが、それは「元の生活に戻」ることや「通常モード」(それ以前にそうであったという意味での)を私たちが取り戻すことではない。

人間は80年くらい生きる生き物で、これは長いとも短いとも言えるが、刺激が与えられれば、生き延びるために可能な限り素早く適応していく。個体の集合である社会や国家が、したがって、個体のキャパシティを無視したはるかに長いスパンで考えていくことはないだろうと思う。数ヶ月の経験もそれが決定的なら刻印される。それを経験していない以前に戻るということはあり得ない。経験とは生きることで、我々の身体は不可逆な時間を生きている。ブリュノ・ラトゥールなど著名な理論家も「この機会はチャンスなのだ!」みたいな言い方でインタビューを受けたり記事を書いたりしているが、私はそれはメディア的パフォーマンスで、「ポジティブに活かさなきゃいけない絶対の好機だよ!さあ、変わって行こうよ!」みたいなことを意識せよと叫んでいるとは思っていない。そうではなくて、彼らが言うのは、「そうなってしまいましたよ」程度のことだと思っている(どうなってしまったかを項目をわかりやすくまとめてくれはいる)。活かす/活かさない、なんて自由なものではなくて、私たちに選択肢のないもの、だと考えている。受け入れるのみ、というと、いやいや能動的に働きかけるべきポイントがたくさんある!と批判を受けそうだが、もちろん抗うべき項目があるのは認める。それでもやはり、戦う相手など本質的にはおらず、ただ生きているのが続いていくだけである。

2020年4月17、18日
大久保美紀

09/29/19

田房永子『ママだって人間』というマンガ

田房永子さんの漫画、『ママだって人間』を読んだ。ちなみに、彼女の漫画は自伝的で、互いの漫画は彼女という一人の女性を巡って展開されるので自ずと他の漫画で描かれた人生の一コマとも相関し合っており、私はこれまで『母がしんどい』と『キレる私をやめたい』を読んでいて、特に、『母がしんどい』は、彼女の人生の様々な局面で問題になってきた心の問題の根源である、母との人間関係とその分析が描かれており、それ以降の漫画の中でもお母さんとの問題とそれが彼女に与えた影響の話はずーっと出てくるので大事な作品ではある。

『ママだって人間』は、痛快でありつつ、彼女の珍しいキャリア(女性でありながら男性作家の中でエロ漫画家をしていた)ゆえに性に対してここまで描けるのか!と驚かされる内容となっていて、彼女がこんなキャリア持ちじゃなかったら、これらの悩みはここまで笑い飛ばせなかっただろうなと思わせる強かさが魅力の作品だと感じた。ただのフェミニストの功法じゃない、ガチガチにデフェンス固めて真面目すぎる顔して議論するんじゃない、フェミニスト的正論を敢えてサラッと言い得ていて、極論も言ってしまってみて、自らがダメだったところもさらけ出しながら、読み手どう思うよ?と考えるように促している感じだ。

フェミニスト的視点での分析はもちろん素晴らしくて、そうですよね!!と全身でうなづきたくなる下りとか、これ男も読めばいいのにと本気で思う鋭い指摘が続く。

漫画という手段は、素敵だなあと率直に思う。

個人的な、そして言い訳みたいな話だが、この数ヶ月出産後の生物的な問題か単に怠惰なのか両方か、小難しい文章を読んでもよくわからない。小難しい文章も書けない。曲がりくねった表現はわからずに、まっすぐに飛んでくる内容しかキャッチできない。頭が働かないのに加えて時間もない。時間はたっぷりあるのだが、集中して何かを読むまとまった時間みたいなものが全くない。漫画だったら海外で電子書籍で購入して、ガーッと読んで、もう一冊買って、ガーッと読み終わって読み返して、考えてまた読み返して、ということが一瞬でできてしまって感動した。それは単に漫画を読むのが読書に対して簡単だということではなくて、彼女の漫画は十分に説明的で思索的でもあり、しかも個人的な問題について綴っているので、それが大変わかりやすく感じられるということは、彼女の物語り方が大変巧みだということの現れなんだろう。

『ママだって人間』には、子育てに奮闘する中で、彼女がひたすら立ち向かう自身の問題が歯に衣着せぬ感じで描かれる。それらはユーモアたっぷりに演出されるけれども、依然としてリアルで深い。

いくつか大変上手だなあと感心した描写について取り上げてみよう。

<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>問題。なぜしばしば女性が育児をするのか、ホルモンの問題、生物的な問題、オッパイがあるから、色々な理由を挙げて、「結局そのほうがいいんだよね、女性自身もそれが一番満足できる状況なんでしょう」と、つまり<その結果は女性の自主的な選択から導かれている>かのような理解が世の中に蔓延っている。が、彼女は<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>という言い方で、これを否定する。自主的に赤子にくっついていたいんじゃなくて、体がそのようにプログラムされていて選択肢はない、だから、それを放っておいて、疲れ切っているのを見て見ぬ振りをしないのでなく、積極的に割って入ってきて育児に協力するような姿勢が望ましいのだ、と。

これは、のちに取り上げられる、<全く助けないおじいちゃん(ロボットじじい)の作り方>にも繋がっていて、漫画では、ベビーカーや抱っこ紐で赤ちゃん連れで外出した際に遭遇する人々の対応がコミカルに描かれている。女性は基本的には親切にしてくれる、おばあちゃんも割と優しい。そんな中、彼女は、おじいちゃん(優しい人もいるが)に着目する。エレベーターで、ベビーカーの乗り降りに時間がかかることなども考慮なし、扉を配慮なく閉める、自分は動かず指示を出す、手伝ったりは絶対しない。彼女はこういったおじいちゃんの不可解な不親切行動の原因は、彼らが過ごしてきた育児(しない)経験にあると指摘する。さらには、育児しなかったので困っていたり助けるべきポイントがわからないのにとどまらず、彼らが家庭の中で自分の場所を見つけることなく(家では何もせず)、仕事に専念してやがて定年し、彼らは日常生活の多くを妻に頼り、他者への配慮に欠ける<ロボットじじい>になると彼女は分析する。

<理想的に語られる妻像と話が噛み合わない>下りも言い得て妙である。本当はそれぞれが異なる個人であるママたちは、ロボットじじい予備軍の夫たちの口から、あたかも唯一の像であるように語られる、<子供と一緒にいたい><育児に専念する><赤ちゃん可愛いから文句も泣き言も言わない>妻のイメージ。さらには、女性たちも女性たちの側からこの<枠>を作って行く傾向にあると彼女は指摘する。例えば、<母性で全て乗り越えられる><赤ちゃん可愛いから大丈夫><陣痛と出産は超痛いもの><母乳で育てるべき>といった風に。この女性の側から<枠>生成システムの仕組みを変えるのは難しい。なぜなら、共通の物語を創出することによって、自己の不安を相殺してしまおうとする女性によって引き継がれているからだ。

また、典型的な問題でありつつ、男性側からの理解は必ずしも簡単でないのが、<夫に(破裂的に)キレちゃう>問題。(←このキレちゃう問題はやがて、子供にもイラっとした経験から、より真剣にケアされることになる。『キレる私をやめたい』に詳しい。)生物的なレベルでの精神と身体の均衡破壊とそれに続く心身の問題や注意が子供へ向かう制御不可能の変化などは、今日あるレベルで自明のこととして説明されているにもかかわらず、必ずしも少なからず夫婦間で問題になるのは、やはり結局のところ、どのくらい変化するのかについての理解不足が原因である。性欲の問題も然りである。だからといって、何をいっても何をしてもいいわけでは勿論ないが、現在もなおこれらの事実に対する知識や理解は十分でないのではないだろうか。

この漫画を読んで、この漫画にある意味で救われるのは、おそらく「ママたち」なんだろうなあ、と思うが、もしこの漫画に描かれたことが、当事者の「ママたち」を超えて、広く理解されるようなチャンスを得たらいいだろうなあと思うし、そうなることこそが本質的に問題を解決するために必要なんだろうなあと思う。少なくとも、例の<ロボットじじい>を世の中にこれ以上送り出さないために。

09/22/19

ホメオパシー(同種治療)について13 ホメオパシーとファルマコン 2

ホメオパシー(同種治療)について 13(2019年9月20日)
ホメオパシーとファルマコン 2

前回の記事では、ファルマコンの概念について触れながら、「身体に悪いものを摂取する」際の認識が果たす役割について考えてきた。ここで、前回立てた次の問題に立ち戻ってみたい。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ホメオパシーの実践にあたって、リメディーを服用する者が自己の身体に毒を与えていると認識することは意味のあることだと思われる。ホメオパシーは、身体の持つある種の<生来の記憶>に訴え、適切な刺激を与えることにより、身体の自然治癒力に期待して、病や症状を治そうとする療法であった。また、世界に存在する多くの物質は「ファルマコン」(毒にも薬にもなる)としての性質を持っていて、つまり、同じ物質がある人/時/環境では毒にも薬にもなりうる事実は、食養生やファルマコン についての記事において言及した通りである。ホメオパシーもまた、元来、微量の毒の摂取が、適切な症状に施される限りにおいて薬に変化するという考え方であった。(そして、同じ毒は、健全な人が服用した場合、その人の健康を害し、病気にしてしまうと考えた。=「類似性の原則」)ただし、今日のホメオパシー実戦の中では、ホメオパシーのリメディーはその毒としての意味を失い、あるいは希釈によって物理的に毒がかなり弱まり、かつての<錬金術的>な側面をしばしば失ってきていると言っても良いだろう。

さて、ホメオパシーは<錬金術的>な思想であると思う。理由は、ホメオパシーのリメディーに使用する原料は、病気や症状をもたらす毒そのものであることは稀で、それらは通常、<同質>/<同種>とホメオパット達が考えた(定義した)毒によって代わられているからだ。代替物であるなんらかの毒が、身体の自然治癒力のおかげで適切な刺激となって病や症状を改善し、身体の状態をよりよくすると考えた。原因そのものでないが同種のものから、身体での反応を通じて、結果を得ようとした。

ホメオパシーにおいて、同種の毒を摂取し、身体においてある種の錬金術的な反応を引き起こそうとする意思を、リメディーの服用者が持っていることは、それだけで異なる身体への影響を及ぼしたと思われる。それは、結局は慣習的な医療において「エビデンスがない」と打ち捨てられている部分で、月並みな言葉で「精神は身体に影響する」など言うほかなかなか適切な表現のないフィールドであり、そして、それは単なる偽薬効果(プラセボ)とも明らかに異なる。

これまで三週間、比較的密なリズムでホメオパシーを巡って様々な考察を行ってきた。まだまだ深まり切らない謎や問題が山積みだが、ひとまずここまでの13回で連続する記事は一回休憩して、またいろいろなことを書きながら、引き続きホメオパシーの毒の問題については考え続けて行きたいと思う。続編の再開の時にはまたお読みいただいて、ご意見などコメントしていただけると大変励みになり、有り難く読ませていただいている。

再開の折には引き続きお読みいただければ大変嬉しく思う。

*因みに、明日からは、12月上旬から神戸のギャラリー8で展示予定のフロリアン・ガデンの巨大ドローイング « oe »について、数回にわたって連載するのでどうか、Pharmakonのサイトもチェックして見てください!

09/19/19

ホメオパシー(同種治療)について12 ホメオパシーとファルマコン 1

ホメオパシー(同種治療)について 12(2019年9月19日)
ホメオパシーとファルマコン 1

これまで脱線を含めたら長々と11回に渡って記事を綴ってきたのだが、ここにきて、ふと、ホメオパシーの<毒>性が気になった。今更ながら、私は過去に二回企画した展覧会を「ファルマコン」と題しており、ある物質の毒にも薬にもなる両義性がもたらす重要性に着目して、社会や環境、生命について再考する試みを続けており(展覧会ウェブサイト)、とりわけ、摂食(あるいは嗜好品やドラッグを含め摂取すること)を通じて身体があるときは同じ物質に対して非常に異なる反応をすることに関心を持っている。したがって、ホメオパシーが同質の毒を用いることによる治療である限り、ホメオパシーそのものの私たちの身体への<毒>について、再度考えてみる必要があると思った。

ファルマコン について:

薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念である。この言葉は一般的には「薬」=「毒」=「生け贄の山羊」(古代ギリシャのカタルシスの儀式において差し出される動物に見立てられた生け贄あるいは動物)という三つの意味が知られる。この概念は従って、第一義的に物質的含意を持ち、元来は医療用語での使用が認められるが、プラトンがPhèdreにおいて哲学的とりわけ精神のカタルシスとの関連で展開したことがきっかけとなり、より発展的・抽象的な含意を与えられることとなる。1976年のジャック・デリダの論文La phramacie de Platon (La dissémination, 1993)、Ars industrialisの主宰のベルナール・スティグレールも、エクリチュール(書くこと/書かれたもの)とレクチュル・オラル(声に出して読むこと/口頭伝承)の優越に関する考察にファルマコンを用いている。

また、私は研究及び芸術実戦において、この概念を、使い方によって薬にも毒にもなりうる様な物質や処置、あるいは多くの物質や処置が持っているその様な性質と理解し、応用を試みている。

また、私が2017年12月に開催した展覧会「ファルマコン」の成果をまとめ編集したカタログに寄せて、吉岡洋さんは次のように言及している。

ファルマコンという言葉はギリシア語だが、同様の概念は近代以前の諸文明に広く見出すことができる。たとえば古代中国で完成された漢方医学は、あらゆる薬物、鍼灸や指圧などの刺激が、生体の状態に応じて様々に異なった作用を及ぼすという認識を基に作られている。同じ物質や刺激が、ある場合には人を死から救い、別な場合には人を死に至らしめる。そこではファルマコンは自然認識においてもっとも基礎的な概念なのである。(吉岡洋『ファルマコン』、2018)

ホメオパシーのリメディーには原材料となった毒性は失われていて、しかも大概の場合、副作用もない。あれ?ホメオパシーは<優しい医療>と言われ、妊産婦に処方されてきている通り、実は慣習的な医療における薬よりも無毒な存在となってしまっていることに気がつく。ホメオパシーのリメディーそのものには<毒性>がない。これは大変奇妙なことで、なぜならホメオパシーは<毒を持って毒を制す>メソッドであったはずだからである。かつてのホメオパシーは、希釈による毒性の喪失はもっと不明瞭で、もっと明確にいえば、まだ毒であるそのものを摂取することによって症状を改善しようという、同種治療としてのアイディアが生きていたと思われる。だが、今日ではホメオパシーは、原材料がなんであるか知られていないこともしばしばで、おおよそ毒を摂取している(象徴的な意味で、あるいは原理的な意味で)認識はさらさらない。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ここでは、ホメオパシーのリメディーを、慣習的な医療で処方される薬と同じような、それを服用すれば症状が良くなるモノとみなすような今日浸透している一般認識のことは一度置いておいて、ホメオパシーがそもそも同種治療であり、同種の毒によって侵された身体をケアすることができるとする大変挑戦的でアグレッシブなメソッドであることを思い出しながら考えを進めたい。かつてそうであった、というだけでなく、そのかつてそうであった認識は今日もなお効力を持ちうるのかどうかを考えて見たい。

<毒を摂取する>という認識が我々の身体の状況をよりよくするのを助ける状況とは、どんな状況だろうか? 私たちは普通身体にいいものを摂取して、身体がより健康になり、心がより元気になると理解しているはずである。だから、いつも健康食品とか、無農薬や減農薬の食べ物とか、病気に効く食材とか、そんなものでメディアは情報を溢れさせている。では、毒を摂取することで、我々がポジティブな効果を期待する例はあるだろうか。例えば、タバコ、お酒、合法ドラッグ(合法でないとそもそも摂取自体が社会的問題となるためこの記事においてはさしあたりこれを<合法>に限定しておく)、あるいはコーラやファストフードなど、消費者は<身体に悪い>ということを知りながら摂取する一部の食品など。これらの摂取は、摂取そのものは身体にネガティブな効果をもたらす、あるいは物質そのものは身体にとって<毒>であるというのが一般的理解であるにも関わらず、用い方によっては、それを消費する者の心身にポジティブな働きかけを行い、あるレベルある範囲において望まれた結果をもたらす。

「体に悪いものはウマイ」(良薬口苦しの言い換え?)というのは、たまに食べる(あるいはコッソリ食べる)カップラーメンとかすごい塩辛いツマミとか油っぽいサラミやピーナッツなんかがすんごくウマイのだ、と言いたいときに父親がよく言っていたセリフであるが、ここでは、普段はこれら油っぽいもの、塩辛いもの、人工的な旨み成分が配合されているものは「体に悪いから」という理由で<我慢>しているのだが、やっぱり我慢している限りで心の底では食べたいことに変わりないので、時々その<我慢>から自己を解放し、そんなものを食べるとものすごくウマイ!!!と感じるという話だ。あるいは、マクドナルドのハンバーガー(+ポテト+コーラ)を食べる人たちは、食べている側から「これは私の体に良くない」と思いながら食べることを繰り返していることが知られている。また、タバコやお酒や合法ドラッグに至っては、そのもう一度欲しくなるシステムが明確にわかっており、それは<依存性>という言葉でしばしば定義されている。マクドナルドも、30日間三食マクドナルドを食べ続けるという体を張ったドキュメンタリー « Super Size Me »を撮影したMorgan Spurlockの分析によると、食したのち直ちに興奮に似た快感で満たされるので、短期的な視点ではある種強い喜びをもたらすが、長期的には、肥満や体調不良など身体の不調のみならず、精神的に落ち込みやすくなったりするなどの結果を報告している。ここでは、これら「体に悪い食べ物」は、「体に悪い」という認識のために、普段多くの人が量や頻度が制限しているからこそ、ひとたび欲望を解放してそれを摂取した時の快感が、それ自体が持っているある種の興奮/快感効果や依存性を助長する形で快感として認識されてしまい、結果、「体に悪いものを摂取しているが、それってすごく気持ちいい」と感じてしまう。

「<自分へのご褒美>としての体に悪いものの摂取」が成り立つのは、この、普段我慢していることを解放する快感ゆえである。記事の冒頭で、同じ物質が毒にも薬にもなる「ファルマコン 」の概念について触れたし、先の記事においても引用した食養生の考え方において、嫌いなものを我慢して食するよりも(たとえ一般に体に悪いと思われているものであっても)心が喜んで食べるのであれば、結果体は元気になる(こともある)、ということが示しているのは、物質そのものの薬性や毒性に時に先行して摂取する者がそれをどのように認識しているかが重要になることがある、という事実である。

今のところホメオパシーとの接点までうまく行き着いていないので、引き続きこの「体に悪いものの摂取」について引き続き考えてみることにする。

09/17/19

ホメオパシー(同種治療)について11 <食養生ー毒と共存する>

ホメオパシー(同種治療)について 11(2019年9月17日)
<食養生ー毒と共存する>

昨年2018年12月に京都の想念庵で展覧会「ファルマコン 2 毒×アート×身体の不協的調和」を開催した一環で、京都大学こころの未来研究センターにておこなったシンポジウムに、『からだと心を整える「食養生」』の著者、辻野将之さんに「毒と共存する食養生」という大変興味深いご講演をいただいた。

「食養生」とは、東洋医学に基礎をおいた健康な生活のための実践であり、大変歴史的な健康のための食実践の一つでありながら、現代社会を生きる私たちの食の問題かかわってとても重要な示唆を与えてくれる。

辻野さんは著書のまえがきで以下のような問題を指摘する。

インターネットの発達で、今はあらゆる情報が容易に手に入る情報化社会です。健康に関する情報も、誰でも簡単に手に入れることができます。にもかかわらず、生活習慣病や摂食障害を患う人が増え続けているのはなぜでしょうか。(略)健康マニアの人ほど不健康になる、という法則があるように感じています。健康になろうとして様々な健康法を次々と試したあげく、結局体を壊してしまうのです。おそらくコマーシャルやテレビの情報に踊らされて、自分に合っていない健康法なのに無理して取り組んでしまった結果でしょう。(『からだと心を整える「食養生」』、p.5)

食養生の実戦において、まず、健康のために大切な5つの項目を示し、<食>はそのピラミッドにおいて最も重要性が低いことを強調する。五つの項目とは、重要な順に<心>、<太陽>、<空気>、<水>、<食>。食が重要でないということではもちろんなく、それ以上にその四項目が大事だということで、<心>はそのまま私たちの心の状態、<太陽>は光を浴びて生きる私たちの生活リズム、<空気>は田舎の良い空気云々よりも深い呼吸をすることの重要さを示しており、<水>はどのような水をどれだけ飲むかという問題に関わる。

さて、それら四項目の重要さを認識した上で、食について、本書で強調されるのは「身土不二」と「一物全体食」の二つの原則だ。「身土不二」は、身(今までの行為)と土(身の拠り所とする環境)が切り離せないことを意味する仏教用語に基づき、住んでいるその土地の、その季節の食べ物を食べることが健康に良い、とする考え方で、これは、季節に関わらず世界中の食べ物が入手できる今日の食文化を生きる我々にとっては知っておかないと簡単にこの原則に背いた食を実践してしまい調子を損ねかねない。また、「一物全体食」では、食べることは命をいただくこと、と考え、その際にはあまり手を加えず、より自然のままの状態でいただくことが良いとする。ここでは、たとえ無農薬や栄養面で優れているとされていても、加工されていたり、品種改良を経た商品であったりすれば、むしろ身体は喜ばないということを明らかにする。

さて、ここまで理解した上で私たちの食をめぐる現状を考えると、しばしばメディアがもてはやすような<健康にいい>とか<オーガニックの>とか、調子のいい響を鵜呑みにしてなんでも試してみることがちっとも身体のためでないことがわかる。なぜなら、「身土不二」と「一物全体食」に基づけば、食べ物はパーソナライズドされた処方みたいなもので、どんな体質のどんな生活リズムのどこに住んでいるどんな人にとっても万人に対して<効く>ようなヘルシーフードなんてあり得ないことがわかる。それよりむしろ、自分に合ったものを知らずに(あるいは無視して)身体に合わないものを食べることによる不調を招きすらする。

食養生の、全体を見る(globalité)メソッドや個人化されたもの(personnalized)であるべき点は、私たちがこれまで見てきたホメオパシーの主要な思想とも一致する。

身体に合わないものを食べることは、たとえ別の文脈でその食べ物が「健康にいい」と定義づけられていたとしても、ある人にとって<毒>として働きうる。体調を悪くし、心の状態を不安定にしてしまうかもしれない。そして身体に合っている食べ物(必要なもの)を摂取すれば、それは<薬>として身体の状態を改善する。このように、ある食物は<毒>にも<薬>にもなりうるアンビバレントなものであり、食養生もまた、東洋医学を基礎としているので陰陽思想を根底に持っており、対になるものとの均衡で健康を定義しているのではないかと私は理解している。

09/16/19

ホメオパシー(同種治療)について10 少しずつ毒に対する耐性を高めていき、体液を猛毒にする?

ホメオパシー(同種治療)について 10(2019年9月16日)
少しずつ毒に対する耐性を高めていき、体液を猛毒にする?

突然だが、インドのマウリア朝時代の説話である毒娘について話したい。毒娘とは何者か、『有毒女子通信』第8号掲載の吉岡洋さんのエッセイの中で詳しく語られているのでそれを引用する。

「毒娘(Visha Kanya)」という話がある。インドのマウリア朝時代(紀元前317 – 180年頃?)に遡るとされる説話らしいが、現代でもインドの文学や映画などには登場する。毒娘とは、生まれながら暗殺者として育成される少女である。古代インド版「最終兵器彼女」とでも言うべきか。女の子に、赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与える。たいていの子はそれで死んでしまうが、中には毒に対して完全な耐性を持った子供が育つ(ありえないと思うけど)。その子が美しい娘に成長した頃には、彼女の体液は恐ろしい猛毒と化しており、ちょっとでもそれに触れた人間は即死する。その少女を首尾よく敵の王家に妻として嫁がせることができれば、新婚初夜が哀れな王子の最後の夜となる、というわけである。

昔、はじめてこの話を聞いたとき、「幸福な王子」とはまさにこのことかもしれないな、と思った(オスカー・ワイルドのあの説教くさい「幸福な王子」には辟易していたので)。生きながらえて王位を継承し、支配者としての重荷はもとより、いずれ避けがたい老死の苦しみをゆっくりと拷問のように味わわされるかわりに、若く美しい花嫁との初めての交わりの瞬間に死ねるとは、世にこれにまさる幸福があるだろうか! してみると毒娘とは、それを用いる策略家にとってはたしかに兵器に違いないが、それによって暗殺される犠牲者にとっては、至福をもたらす女神ともいえるような存在である。その王子は、本当にその娘が暗殺者だと気づかなかったのだろうか。実はすべてを知っていて受け入れたのではないだろうか、と疑いたくなるほどである。

さて、「体液は恐ろしい」というのが、この説話の教訓だろうか? それとも「女は恐ろしい」ということだろうか? ともに否。本当の教訓は、「生きることは恐ろしい」ということだ。なぜなら、生きることは究極的には「自分という体液の状態を維持すること」であり、しかも体液というのは、自分ではどうにもコントロールできないものだからである。毎日の食事において、また人や環境との交わりにおいて、いつ、どんな異物がそこに混入し、死に至る病へと発展するか分からない。この恐ろしさを受け入れるということが、とりもなおさず生きるということにほかならない。何か分からないものを「受け入れる」ことこそ、生き物の最も驚くべき能力ではないだろうか――ちょうど、あの王子が毒娘を受け入れたように。(略)ブログ Tanukinohirune より https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2012/02/毒娘.html

インドの逸話で毒娘というのがあるのだと、『有毒女子通信』の体液特集で吉岡洋さんが紹介しているので知った。(ここではスルーするが、『有毒女子通信』は、体液特集とか、結構踏み込んだ特集をこれまでしてきたので、関心がある方はぜひフィードバックしていただければ、情報など差し上げます。)赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与えていくと、子供は毒に対して耐性を獲得して行き、赤ん坊が美しい少女になる頃には毒に完全な耐性を持ち、その体液は猛毒であるような少女が出来上がるという恐ろしい説話である。そもそも微量から与えていったところで皆が皆毒に対して耐性を持つわけではなく、ほとんどは死んでしまうとある。そりゃそうだろう。この説話において、毒は子供の体液を侵食し、それを作り変えてしまう。体液は毒によって侵され、それ自体が毒となる。

体液を重視する考えは、このようにインドでは古代の医学からも伝統的に見られた。アーユルヴェーダは、起源を5世紀とか6世紀まで遡るような歴史的思想で、これは病気を相手とする医療にとどまらず、健康を増進してどのように幸福な人生を追求するかといった哲学的思想を含んでいる。考えの根本には、トリ・ドーシャ(三体液、三病素)の均衡を保つことが健康な状態であり、病とはその均衡が崩れた状態であるとしている。トリ・ドーシャ(三体液、三病素)は、全ての生命を支配する三要素であるトリ(風=運動エネルギー、熱=変換エネルギー、粘液=結合エネルギー)、ドーシャは土、水、火、風、空で構成される。このドーシャとは「不純なもの、病気を引き起こす原因」を意味するが、つまりは体液の異常が病気の状態と定義されていることは興味深い。

毒娘の例で言えば、体液そのものを変質させて猛毒化してしまうので、均衡を保つ考えそのものがないが、アーユルヴェーダの体液概念のように体液の状態そのものが心身の健康状態を反映しているとすると、以前の記事で議論した「水の記憶」(ホメオパシーについて4:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=5573)的に、様々なことを記憶しているのは私たちの「体液」であり、体液に対して働きかける(刺激する、微量の毒を加える、浄化する、など)ことこそが、心身が健康に至るためにすべきことであると言える。

蛇足となるが、ヨーロッパの霊になるが、瀉血(しゃけつ)も体内をめぐる液体(体液)としての血液の手入れをするという点で、ある意味の体液療法と言えなくもない。瀉血は、体内に溜まった扶養物質や有害物質を血液とともに体外に排出することで症状を改善し、健康を回復する治療法である。炎症が起こったところや皮下に溜まった膿を排出するということであれば現代の我々にも想像のつくところであるが、瀉血ではそれに止まらず、血液のよどみが病の原因として、頭部など割と危険な部位の血管も豪快に切開した。不調の時は体内に霊的なものが住み着いたためとし、これを排出するために神秘主義者や呪術医によって汎用された瀉血も、体液信仰と関わるのではないか。

さて、ホメオパシーは、アーユルヴェーダの体液思想に通じるところがある。つまり、同種の毒を身体に与えることによって私たちの体液は、ちょうどいいバランスを自ら思い出して、その内容を調整するといったイメージだ。そんなことは、体液が何から構成されているか、化学的に分析して、その部分部分に焦点を当ててルーペで見つめる方法においては、言うまでもなく無根拠な空論にすぎないのだろう。だが、今日のサイエンスでも、心身については説明しきれないということを認めた上で、「体液」を一つ全体を見るためのカギとして復習してみたならばどうだろう、と思うのだ。

09/12/19

ホメオパシー(同種治療)について9脱線2 「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」

ホメオパシー(同種治療)について 9(2019年9月13日)
脱線 その2 「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」

そういえば、せっかく乳腺炎がらみで処方されるホメオパシーをひたすら列挙したついでに、処方箋には記載されないのだが、とにかく勧められたケアについて、この機会に書き留めたいと思う。実は、この記事はホメオパシーについて書いているけれども、この(ちょっと冗談みたいな)脱線2はそこそこ大事な話だと思っていて、なぜなら、個人化された医療であるホメオパシーはひたすら繰り返している通りエビデンスがなくプラセボ同等とみられているけれど、そもそも一人一人が異なる個体である個人の身体をさらにはその生活習慣や環境まで全体を見渡して処方を行うホメオパシーでは、リメディーが効いたか効かなかったか、結局その個人でしか実験不能なところがあって、つまり、実践したその人にとって効果があったと認識されれば、それは薬が症状に働いたというに十分なのである。したがって、以下に書くキャベツの話は、それこそ日本ではコテンパンに言われてきた民間療法だけれども、今日でも大真面目に推してくる助産師がいて、一定数以上の授乳中の女性がキャベツでケアしたことがあり、そのうちの一定数以上の患者が「キャベツ湿布は効く」ことを経験していることを踏まえ、白菜でも小松菜でもチコリの葉でもなく、「キャベツ」がなぜ乳腺炎で湿布に使えと言われるのか、いや、別にキャベツが他の野菜に対して特殊だということを言いたいのではなく、むしろ、ただのキャベツがどうやって一定数以上の痛がってた女性を救ってきたのか、考察してみたい。

話を始める前に、「は?なになに、キャベツキャベツってさっきからなんの話?」という方のためにざっくりキャベツにまつわる歴史的な療法を紹介しよう。

一聞すると、風邪の時梅干しをおでこに貼るといいとか、ネギを首に巻いて寝るといいとか、おばあちゃんの知恵袋ちゃうん?と思えるのですが、「乳腺炎の時(乳房が腫れて熱を持っているとき)キャベツの葉を乳房に貼りなさい、炎症が取れて乳の出が良くなるよ」というのがあるのです。おばあちゃんの知恵袋じゃなくて、医療のプロである助産師に大真面目に言われる。え、キャベツ?ときき返そうものなら、目の奥をまっすぐ見つめて、「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」と彼女は言う。はあ、葉脈の浮き出てるタイプのキャベツ、あれね。(画像を参照。普通の白キャベツじゃなくて、葉っぱがもこもこと盛り上がってヴォリュームのあるやつだ。)

キャベツによる療法とは、熱を持っている乳房に冷やしたキャベツの葉を湿布することで、熱や痛みを緩和し、乳腺の詰まりを解決しようとするものだ。さて、調べても、なぜキャベツが(他の葉菜じゃなくて、どうしてもキャベツが、しかもどんなキャベツでもいいわけじゃなくて葉脈のもこもこのキャベツが)優れた効果をもたらしてくれると断言されてるのか、どうやって乳腺の炎症を取るのか、乳腺の詰まりがどんなからくりで開通するのか、キャベツが私の乳に何をしてくれるのか、正直一切わからない。(葉脈のモコっとしたキャベツじゃなくても白キャベツでもいいと言う人もいる)あまりにわからないので、探求は続く。そうすると、日本でもキャベツ湿布は助産師のカリキュラムの中に登場するほどポピュラーな療法であることを知ったけれど、同時に、それはエビデンスの無さから今日ではだいたい「こんなものを真面目に薦めるなんてありえん」と一掃されていることも知った。(さらには日本のキャベツ湿布は乳首の部分は穴を開けて貼るように指導しているらしいことも知った!)

疑問は尽きない。

・葉は一回きりで効き目がなくなってしまうので次々新しい葉を使うべきなのか、それともなんども使えるのか。

・何度も使い回しできるとして、どうしたらいいのか。冷やしたら効き目がチャージされるのか。

・何分くらい乳房に当てていればいいのか。

・何という成分がどう炎症に作用するのか。

彼女は自信満々に言った。「処方したホメオパシーはもちろん、キャベツはむちゃくちゃ効くから、帰り道キャベツを買ってすぐに実践しなさい!授乳前に毎回貼るといいわよ!葉脈のモコっとしたやつね!」

キャベツだけに優れた乳腺の炎症を取るための成分があると、私は思っていない。ひょっとしたらパラレルワールドではキャベツじゃなくてアスパラだったかもしれない(いや、棒状の形状では胸に貼れないし不便だからそれは無理か…)同時に、大真面目な助産師さんたちと助産師さんたちに「いや~、こないだ教えていただいたキャベツ湿布、めっちゃ効きましたよ!」とキャベツ湿布サポーターとなった患者さんたちが嘘を言っているわけでも、物事の効果を見極められなくなっているわけでも、非科学的な物事が大好きなわけでも、ないと思う。彼女らにとって、キャベツ湿布は窮地を救ってくれた代物だったのだろう。つまり、<効いた>と認識されたんだろう。その限りで、キャベツ湿布は、その役目を十分にになったことになる。例えば、何の客観的エビデンスがなくて、成分とか効能が立証されてなくて、全く効き目がないと述べる人がたくさんいたとしても。

ちなみに、効く効かないの前に、別に毒はなそうなキャベツ湿布を批判するもっとも説得力ある説明だと、野菜の表面には多数の細菌が付着している可能性があって、生野菜をまだ食べないし腸内細菌の発達や消化機能が未発達の新生児や乳児が、キャベツ湿布のせいで乳房に付着していた悪い細菌(リステリア とか)を摂取してしまったら危険だ、と言うもの。キャベツにどんな細菌がついている可能性があるのか、詳しくないのだが、何とも恐ろしくなる説明である。

まとまりのないキャベツ湿布談義になってしまったが、私の結論は以下である。

キャベツには、乳腺炎に効く成分があるわけじゃないと思う。ただし、キャベツ湿布に救われた切羽詰まってた女性がたくさんいるのは馬鹿げたことじゃなく本当だと思う。キャベツ湿布のポイントはキャベツの葉っぱのちょうど素晴らしい形状とひやっとする温度と、(葉脈がモコっとしたタイプならなおさら素晴らしい)ひんやり感を効果的じわじわに乳房に伝えるテクスチャーだと思う。キャベツ湿布の効き目は以下のように分かれる:

キャベツ湿布実践の結果、

①ひんやりして気持ちが良かった・熱が取れた・実践しているうちに乳腺炎が落ち着いた(偶然、タイミング的に)=キャベツはすごい!

②良くならない・症状が悪化した=キャベツなんか効かねーよ!

このいずれかである。ネガティブフィードバックは助産師の個人のキャビネットではなかなか吸い上げにくいだろう。なぜなら、全然効かなかったら、同じ医療者のところに戻ってこないかもしれない可能性が多いから。一方で、効いたら、そのプロのところにまた戻るから。だから助産師たちはポジティブフィードバックをこの件に関しては耳にしやすいと私は予測する。

今回キャベツの話ばっかりだったのだが、効き目の判断の下りなんかは、特に、効く人と効かない人の両方がいて、どちらも嘘つきなんかじゃないと言う点については、私たちは割といろいろなことを、一つが正しければもう一方は誤っていると言いがちな価値観を植えつけられていることを思い出して、そうとも限らんと一歩後ろに下がって考えてみるために、意味があるのではないかと思う。

09/12/19

ホメオパシー(同種治療)について8 リメディーの原料と効き目の例

ホメオパシー(同種治療)について 8(2019年9月6日)
リメディーの原料と効き目の例

ヒキガエル、というのだろうか。フランス語ではアマガエルのような小さいやつじゃなくてこういうドッシリしたカエルをクラポー(crapaud)という。小さいカエルであるグルヌイユ(grenouille)よりもキャラが立っていて、個人的には雨が降った後の田舎道で車に轢かれて残念な感じになっていることの多い、アイツである。

個人的な話になるが、夏からの数回の助産師診察のたびにホメオパシーをたくさん処方されたのだが、その中の一つに、上のヒキガエルから作られるリメディーRana Bufoがあった。Rana Bufoのホメオパシー利用とその効能について詳しく説明した論文も見つけて、読んで見た。ものすごい多岐にわたる効能が期待されていることがわかった。あまりに長い論文だったので簡潔にいうと、背の方から分泌される毒を抽出して作られており、皮膚の化膿やリンパ系の炎症、コントロール不能な性的興奮、知的活動の衰え、感情の制御不能など行動に関する問題にも効くらしい。

あとは、ヨーロッパ蜜蜂の全身をすりつぶしたものが元になっているApis mellifica。蜜蜂が使われているというので、主なる効用は、虫刺されのチクチクする痛みや晴れ。蜂に刺されたのと似たような症状が現れる水膨れの類。このリメディーは、即効性があるけど長くは効かないので、頻繁に摂取しないといけないらしい。

また、Phytolacca decandraは、アメリカブドウとして知られ、ブドウのような実がなるが、毒性が強い。実は子供や動物にとって毒であるが、根も茎も葉も樹液も毒を持っている。大人でも、妊娠中の女性は摂取すべきでないとされる。中毒になってしまったら、吐き気、唾液過剰、下痢や血便、呼吸困難、痙攣、死ぬ恐れもあるとか。この植物はホメオパシー的には、女性の生理不順や乳房の問題、リュウマチの炎症に使われる。特に、授乳期の女性の胸の痛みや炎症(化膿の始まり)、乳首の傷などに効くことになっているので、複数の助産師が乳腺炎のケースでこれを処方していた。

それからBryoniaは中央ヨーロッパの高地に生息するヒョウタン科の植物。耳鼻咽喉の炎症を抑える効果があるほか、肺炎にも効くとか。また炎症ということではリュウマチに効き、便秘にも効く。そして乳腺炎にも。母乳が出るようにもなるとか。この植物を食べると炎症が起こるとか、どのような毒性があるのかまだ調べられていない。

Belladonnaはイタリア語でズバリ「美しい女性」。ナス科オオカミナスビ属の植物で、小さい丸いナスっぽい実がなる。根と茎に毒性があり、葉には油が浮いていて触れただけで酷くかぶれる。トロパンアルカロイドを含み、中毒を起こすと、嘔吐、異常興奮、死に至ることすらあるらしい。恐ろしい。ちなみにこの植物はベラドンナコンという薬品として実用化されている。ホメオパシー的には、熱や炎症に関わる症状に効く。粘膜の乾燥や肌のかぶれ、更年期の体の火照りにも効くらしい。ちなみに、「美しい女性」以外にもたくさん呼び名があって、黒いボタン、怒りのナス、悪魔のさくらんぼなどと呼ばれる。中世の女性はこの毒ナスを目元のお化粧するのに使用していたらしい。

この辺りはしばしば乳腺炎を含む授乳の問題に関する外来で助産師が処方するホメオパシーである。症状や処方する助産師にもよるが、だいたい1日に3回、5粒くらい飲んでくださいということだとして、4、5種類あった場合、普段飴とか甘いお菓子とか食べないので、舌下に20粒くらいの砂糖玉をダラダラ舐めてること自体が相当甘ったるく、蜂とかカエルのことを想像してみても希釈のことがあるのでやはり甘さだけが口の中に戻ってきてしまった。たとえヒキガエルエッセンスを摂取していようとも、粉々になったミツバチのカケラを水溶液の記憶程度に飲み込んでいようとも、<毒によって毒を制す!>イメージとは程遠い甘ったるい体験なのである。

(もしホメオパシーの他のリストをご覧になる場合、http://www.doctissimo.fr/sante/homeopathie/souches-homeopathiques こちらに一覧がある。)

09/10/19

ホメオパシー(同種治療)について7 脱線その1 胎盤食について

ホメオパシー(同種治療)について 7(2019年9月10日)
脱線 その1 胎盤食について

ホメオパシーについて書き始めたとFacebookで報告した時、何人かコメントをくださって、そこで胎盤食について数名の方々とやりとりした。胎盤は、出産時、子が出てきたのちに役割を終えて脱落するため、後産として産み落とすことになっている見た目非常にグロテスクな代物であるが、そもそも妊娠期間は子宮に形成され母体と胎児の連絡器官として機能する。哺乳類は一部を除いてその多くが胎盤を作る。重さはだいたい500グラムくらいあるらしい。形状は平べったく丸いため、プラセンタ(=胎盤)は平らなケーキという意味らしい。えー、ケーキかあ…。ともあれ、この胎盤、現在ではそもそも胎盤そのものを意味する「プラセンタ」という呼び名で医薬品とか健康食品になって出回っているらしい。私は日本でそういった商品を消費したことがないのだが、ググってみると、健康食品の典型的フレーズが出てくる出てくる。<美肌><アンチエイジング><美白><体調改善><更年期障害に効く>…。そのうち、「馬の方がいい、豚の方がいい」という文字が目に入る。ええ?!やっぱり健康食品となると加工品なので、そもそも人の胎盤からすらも遠ざかってしまうようである。

胎盤食は人においては象徴的意味が大きい。人以外の哺乳類ではクジラやラクダなど例外を除いて霊長類を含め胎盤を食べる。栄養的な面と出産の形跡を消す二つの意味があると調べると書いてある。非常に腑に落ちる二つの解釈だなあと思う。(ただ、はっきりとそうだとは断言されておらず、面白いのだからどなたかちゃんと調べればいいのになあとか思ってしまう。)

人間は出産はどうせバレバレでじっくり行うし、産み落とした直後に証拠を消さなければならないほど切羽詰まった状況もないので、栄養面のメリットから胎盤食について考えることにする。

よく言われる更年期障害防止は、産み落とした後更年期になるわけじゃないから、なんとなくこじつけっぽい。まあなんとなく<雌=産む動物>としてのパワーが満ちてそうだから、理屈は理解できるが、更年期って、そういった雌性から身体が変化していくのだから、逆戻りしようと胎盤を食べるのってなんだか違う気がする。母乳分泌に効くとか、産後の貧血に効く滋養強壮とか、出産後に即戦力になるような効能がある方が納得がいく。うつ対策というのは、なんとなく胡散臭いが、ひょっとしたら、産後の体で新生児のお世話があまりに大変で気が遠くなるのを防止してくれる、とかだったら分からなくもない。が、ちょっと(笑)って感じだろう。そしてちょっと面白いと思ったのが、胎盤摂取がオピオイドを増大させ痛覚脱失を起こす研究があるらしいことである。(ちょっとつまらないのが、ヒトではそれが証明されておらず、ラットで、というところなのだが、、、)オピオイドというのは、手術や癌の疼痛を管理するために使用される鎮痛作用のある物質で、アヘンの類の麻薬であるため、摂取量によっては陶酔作用がある。なぜだろう。なぜ一般的に大変痛い出産時じゃなくて後産で産み落とす胎盤を食べて出産後にアヘンでふわふわになる必要があるの?と思うが、よく考えたら痛いのは出産時だけじゃない。その後も相当痛い。個人的な記憶では出産後の方が色々とよっぽど痛かった。しかしながら、実際のところなぜ胎盤にオピオイドが含まれているのか、私にはよく分からない。

胎盤のことを考えていたら、今日の出産では胎盤をどうしますか?なんて聞かれることがないので10ヶ月の妊娠期間を経てしか生成されない大変貴重な代物であるのにほとんどの人が産後自分の胎盤がどこに回収されたかわからない状態であるが、時々いらっしゃる、川とか森とか(そこまでせんでも自宅のお風呂とか)で極力自然に分娩する方々なんかの中には胎盤食を実践する人もいるんだろう。500グラムの「平たいケーキ」を出産直後に完食するって、見たことないけど想像するだけで生きる力がみなぎってて素晴らしいし、カッコイイだろうなあとちょっとうっとりする。