ホメオパシー(同種治療)について12 ホメオパシーとファルマコン 1
ホメオパシー(同種治療)について 12(2019年9月19日)
ホメオパシーとファルマコン 1
これまで脱線を含めたら長々と11回に渡って記事を綴ってきたのだが、ここにきて、ふと、ホメオパシーの<毒>性が気になった。今更ながら、私は過去に二回企画した展覧会を「ファルマコン」と題しており、ある物質の毒にも薬にもなる両義性がもたらす重要性に着目して、社会や環境、生命について再考する試みを続けており(展覧会ウェブサイト)、とりわけ、摂食(あるいは嗜好品やドラッグを含め摂取すること)を通じて身体があるときは同じ物質に対して非常に異なる反応をすることに関心を持っている。したがって、ホメオパシーが同質の毒を用いることによる治療である限り、ホメオパシーそのものの私たちの身体への<毒>について、再度考えてみる必要があると思った。
ファルマコン について:
薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念である。この言葉は一般的には「薬」=「毒」=「生け贄の山羊」(古代ギリシャのカタルシスの儀式において差し出される動物に見立てられた生け贄あるいは動物)という三つの意味が知られる。この概念は従って、第一義的に物質的含意を持ち、元来は医療用語での使用が認められるが、プラトンがPhèdreにおいて哲学的とりわけ精神のカタルシスとの関連で展開したことがきっかけとなり、より発展的・抽象的な含意を与えられることとなる。1976年のジャック・デリダの論文La phramacie de Platon (La dissémination, 1993)、Ars industrialisの主宰のベルナール・スティグレールも、エクリチュール(書くこと/書かれたもの)とレクチュル・オラル(声に出して読むこと/口頭伝承)の優越に関する考察にファルマコンを用いている。
また、私は研究及び芸術実戦において、この概念を、使い方によって薬にも毒にもなりうる様な物質や処置、あるいは多くの物質や処置が持っているその様な性質と理解し、応用を試みている。
また、私が2017年12月に開催した展覧会「ファルマコン」の成果をまとめ編集したカタログに寄せて、吉岡洋さんは次のように言及している。
ファルマコンという言葉はギリシア語だが、同様の概念は近代以前の諸文明に広く見出すことができる。たとえば古代中国で完成された漢方医学は、あらゆる薬物、鍼灸や指圧などの刺激が、生体の状態に応じて様々に異なった作用を及ぼすという認識を基に作られている。同じ物質や刺激が、ある場合には人を死から救い、別な場合には人を死に至らしめる。そこではファルマコンは自然認識においてもっとも基礎的な概念なのである。(吉岡洋『ファルマコン』、2018)
ホメオパシーのリメディーには原材料となった毒性は失われていて、しかも大概の場合、副作用もない。あれ?ホメオパシーは<優しい医療>と言われ、妊産婦に処方されてきている通り、実は慣習的な医療における薬よりも無毒な存在となってしまっていることに気がつく。ホメオパシーのリメディーそのものには<毒性>がない。これは大変奇妙なことで、なぜならホメオパシーは<毒を持って毒を制す>メソッドであったはずだからである。かつてのホメオパシーは、希釈による毒性の喪失はもっと不明瞭で、もっと明確にいえば、まだ毒であるそのものを摂取することによって症状を改善しようという、同種治療としてのアイディアが生きていたと思われる。だが、今日ではホメオパシーは、原材料がなんであるか知られていないこともしばしばで、おおよそ毒を摂取している(象徴的な意味で、あるいは原理的な意味で)認識はさらさらない。
果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?
<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。
ここでは、ホメオパシーのリメディーを、慣習的な医療で処方される薬と同じような、それを服用すれば症状が良くなるモノとみなすような今日浸透している一般認識のことは一度置いておいて、ホメオパシーがそもそも同種治療であり、同種の毒によって侵された身体をケアすることができるとする大変挑戦的でアグレッシブなメソッドであることを思い出しながら考えを進めたい。かつてそうであった、というだけでなく、そのかつてそうであった認識は今日もなお効力を持ちうるのかどうかを考えて見たい。
<毒を摂取する>という認識が我々の身体の状況をよりよくするのを助ける状況とは、どんな状況だろうか? 私たちは普通身体にいいものを摂取して、身体がより健康になり、心がより元気になると理解しているはずである。だから、いつも健康食品とか、無農薬や減農薬の食べ物とか、病気に効く食材とか、そんなものでメディアは情報を溢れさせている。では、毒を摂取することで、我々がポジティブな効果を期待する例はあるだろうか。例えば、タバコ、お酒、合法ドラッグ(合法でないとそもそも摂取自体が社会的問題となるためこの記事においてはさしあたりこれを<合法>に限定しておく)、あるいはコーラやファストフードなど、消費者は<身体に悪い>ということを知りながら摂取する一部の食品など。これらの摂取は、摂取そのものは身体にネガティブな効果をもたらす、あるいは物質そのものは身体にとって<毒>であるというのが一般的理解であるにも関わらず、用い方によっては、それを消費する者の心身にポジティブな働きかけを行い、あるレベルある範囲において望まれた結果をもたらす。
「体に悪いものはウマイ」(良薬口苦しの言い換え?)というのは、たまに食べる(あるいはコッソリ食べる)カップラーメンとかすごい塩辛いツマミとか油っぽいサラミやピーナッツなんかがすんごくウマイのだ、と言いたいときに父親がよく言っていたセリフであるが、ここでは、普段はこれら油っぽいもの、塩辛いもの、人工的な旨み成分が配合されているものは「体に悪いから」という理由で<我慢>しているのだが、やっぱり我慢している限りで心の底では食べたいことに変わりないので、時々その<我慢>から自己を解放し、そんなものを食べるとものすごくウマイ!!!と感じるという話だ。あるいは、マクドナルドのハンバーガー(+ポテト+コーラ)を食べる人たちは、食べている側から「これは私の体に良くない」と思いながら食べることを繰り返していることが知られている。また、タバコやお酒や合法ドラッグに至っては、そのもう一度欲しくなるシステムが明確にわかっており、それは<依存性>という言葉でしばしば定義されている。マクドナルドも、30日間三食マクドナルドを食べ続けるという体を張ったドキュメンタリー « Super Size Me »を撮影したMorgan Spurlockの分析によると、食したのち直ちに興奮に似た快感で満たされるので、短期的な視点ではある種強い喜びをもたらすが、長期的には、肥満や体調不良など身体の不調のみならず、精神的に落ち込みやすくなったりするなどの結果を報告している。ここでは、これら「体に悪い食べ物」は、「体に悪い」という認識のために、普段多くの人が量や頻度が制限しているからこそ、ひとたび欲望を解放してそれを摂取した時の快感が、それ自体が持っているある種の興奮/快感効果や依存性を助長する形で快感として認識されてしまい、結果、「体に悪いものを摂取しているが、それってすごく気持ちいい」と感じてしまう。
「<自分へのご褒美>としての体に悪いものの摂取」が成り立つのは、この、普段我慢していることを解放する快感ゆえである。記事の冒頭で、同じ物質が毒にも薬にもなる「ファルマコン 」の概念について触れたし、先の記事においても引用した食養生の考え方において、嫌いなものを我慢して食するよりも(たとえ一般に体に悪いと思われているものであっても)心が喜んで食べるのであれば、結果体は元気になる(こともある)、ということが示しているのは、物質そのものの薬性や毒性に時に先行して摂取する者がそれをどのように認識しているかが重要になることがある、という事実である。
今のところホメオパシーとの接点までうまく行き着いていないので、引き続きこの「体に悪いものの摂取」について引き続き考えてみることにする。