09/3/20

Florian Gadenne – perspectives et approches

(日本語記事は下にあります)

FLORIAN GADENNE – PERCEPECTIVES ET APPROCHES

PHARMAKON, MONADES, BABEL

Au travers des trois expositions sur le thème du « Pharmakon » (un mot grec ambivalent signifiant à la fois poison et remède), les approches artistiques proposées par Florian Gadenne ont toujours occupé une place importante : l’exposition de 2017 a tenté une sensibilisation artistique à travers des approches médicales et écologiques, en questionnant la manière dont nos corps sont en relation avec leur environnement. L’installation « monades » (2017) accueillait les spectateurs dans le hall d’entrée d’une maison traditionnelle à Terminal Kyoto (Kyoto), faisant référence au concept de Monade de Leibniz, qui représente chaque monade comme un élément constitutif du monde, les sphères de Gadenne englobent soit des graines de plantes ou du mycélium de champignon. L’aller-retour entre des perspectives macro/micro constitue une perspective essentielle de Florian Gadenne, mettant en lumière la question ontologique sur le lien de l’humanité avec la terre ou avec les bactéries, ou encore celui de la terre avec l’univers. Les deux tableaux de deux mètres de haut qui ont été exposés dans les lieux de l’exposition de Kyoto et d’Osaka intitulés « cellule babélienne » (2015) et son « clone » (2017) (présenté à l’envers), représentent une architecture vivante étrange. Avec le noyau cellulaire à son apex, la structure en spirale descend jusqu’au sol, où l’on voit les composants cellulaires tels que les appareils de Golgi, les mitochondries ou encore des vésicules. Cette œuvre est étroitement liée à la vision du monde de « panspermie » (2019), une sculpture végétale enfermée dans une sphère hermétique, et d’autres sculptures botaniques en substrat minéral. Le mythe de la Tour de Babel a été la source d’inspiration de cette composition. La construction de la tour, qui symbolise l’arrogance de l’homme pour atteindre le royaume de Dieu, s’arrête brutalement lorsque celui-ci divise le langage humain jusqu’alors universel en d’innombrables langues. Gadenne relie ces langages hétérogènes et fait dialoguer les différents règnes animal, végétal et minéral qui peuplent la terre, en soulignant l’universalité du code génétique que la biologie moléculaire révèle aujourd’hui, et en proposant un nouveau concept d’écologie afin de dépasser la pensée anthropocentrique.

OE

L’attitude de l’artiste qui consiste à trouver de nouvelles perspectives sur la condition humaine sur la terre par le biais de l’art se poursuit dans « œ ». Cette œuvre est l’aboutissement de plusieurs années de recherche de l’artiste afin de réaliser une toile gigantesque de 2 x 4 m rappelant la composition du mandala et qui fut présentée au plafond lors de l’exposition de 2019 à Kobe, au Japon. Au sommet du tableau se trouve un ovule comme origine du monde soutenu par huit spermatozoïdes, se transformant d’abord en réseau nerveux et finalement en réseaux capillaires minutieusement dessinés dans la partie haute du tableau. Au milieu de cette composition, les organites et autres éléments sains sont altérés et transformés alors que nous assistons à une réponse immunitaire représentée par un ensemble de métaphores de batailles. Finalement, en déplaçant le regard vers le bas, les spectateurs sont frappés par les représentations terriblement réalistes de virus et de bactéries sous formes inquiétantes, notamment les virus du sida et de Ebola qui menacent la survie de l’humanité. Dans l’ensemble, la vie est symbolisée en haut et la mort en bas, mais ce n’est qu’une interprétation du point de vue humaine puisque la vie coexiste intrinsèquement avec la mort comme son essence, et ces idées dualistes sont plutôt subverties face au concept de « pharmakon ». Une importante pensée de Gadenne est le renversement du haut et du bas, l’existence d’un nouvel état d’être créé par le jeu complexe des opposés.

MATIERES

Si Wolfgang Laib peint avec du pollen, l’art de Gadenne se concrétise par une grande variété de matières d’origine animale, végétale et minérale. Son travail donne une nouvelle vie aux mues de cigales riches de la kératine, au crâne d’une vache habillé de cristaux desulfate de cuivre, à la terre qui anime le cœur de ses sculptures comme sources de germes. L’intention d’incorporer des objets naturels au travers son expérimentation est fort présente dans son jeu.

ATTENTES

Son œuvre récente, « chiasme », une peinture elliptique réalisée à l’aide de substance fluorescente, dépeint des réseaux tubulairesentrelacés qui s’entrecroisent les uns des autres en s’éloignant à l’infini grâce à une technique minutieuse et complexe. Cette œuvre, me semble-t-il, souligne également la notion clé de Gadenne, l’œuf du monde, qui nous rappelle que si la vie est née d’un organisme unicellulaire, zygote, le monde embrassant les relations complexes entre êtres vivants peut être aussi réduit à une multitude d’individus de différentes espèces constituée d’innombrables cellules. Aujourd’hui, le monde est bouleversé par un virus, cet ennemi invisible nous impose un quotidien hors du commun. Gadenne s’aventure hardiment dans des domaines médicaux et écologiques où l’art est considéré comme outsider, en essayant de proposer une nouvelle perspective afin de mieux penser notre vie vis-à-vis de notre environnement à travers une approche artistique. Il est notre avis que son défi sera accompli grâce à son concept artistique ainsi que sa technique à la fois dynamique et minutieuse.

Miki Okubo (commissaire de l’exposition Pharmakon et critique d’art)

(日本語記事)

フロリアン・ガデン − 思想と手法

ファルマコン、モナド、そしてバベルからの着想

「ファルマコン」をテーマに掲げた三度の展覧会を通じて、フロリアン・ガデンの表現は重要な提案を続けた。2017年の展示は医療とエコロジーのアプローチを通じて芸術的感化を試み、私たちの身体が環境といかに関係性を結ぶか問うた。ターミナル京都(京都)の伝統家屋の吹き抜けのエンタランスで鑑賞者を出迎えた「モナド」のインスタレーションは、ライプニッツの概念「モナド」を参照し、世界の構成要素としての一つ一つのモナドをその内部に植物の種子や菌床を内包する球体として表現した。マクロとミクロの視点の往復はガデンの重要な手法の一つで、人類と地球、地球と宇宙、あるいは微生物と人間の関係性と存在様態を明るみに出した。また、京都と大阪会場にそれぞれ君臨した二点の絵画はcellule babélienneとそのクローン(逆さまに展示)と名付けられ、高さ二メートルに及ぶ巨大な奇怪な建築である。細胞核を頂点に螺旋構造が地まで降りてくる途中には、ゴルジ、ミトコンドリア、小胞といった細胞構成物を目の当たりにする。本作は、球体の中に閉じ込められた植物彫刻であるpanspermieやそのほかの石彫刻と世界観にかんして密接な結びつきがある。生物建築の着想源となったのは「バベルの塔」神話である。天まで届く塔により神の領域へ至ろうとした人間の傲慢さを象徴する塔の建造は         は、神が怒って人間言語が無数に分裂させたことにより失墜する。ガデンはこの理解不能な異言語を、地上に生息する多様な生態系に結びつけ、今日分子生物学が明らかにする遺伝コードの普遍性を指摘しながら、人間中心主義的思想に基づく今日の状況に対して新しいエコロジーの概念を提案する。

作品「œ

地球上の人間のあり方について芸術を通じて新たな視点を見出そうとする態度は、「œ」にも引き継がれる。当作品は2×4mの巨大な曼荼羅的世界を表象する数年来のガデンの研究の集大成として、2019年神戸における展示で天井絵画として鑑賞者を出迎えた。画面の頂点は世界の起源としての卵、それを取り巻く精子がやがて神経細胞に姿を変えながら画面上部の緻密に描かれた毛細血管のレゾーとなる。画面中央に近づくにつれて健全であった細胞構成物や生体器官は変質し、病変し、免疫反応が戦いの比喩によって描かれる。下部へ視線を移動させると、そこには見るものをゾッとさせる奇怪な形態を持つウイルスやバクテリア、人類をしばしば生存の危機に陥れた凶悪なエイズウイルスやエボラウイルスを含める写実的な描写が大変な迫力を与える。全体として、上部には生、下部に死が象徴されているが、人間の視線での解釈に過ぎず、生命は本質として生の中に死を内在し、そのような二元論的思想はむしろ、ファルマコン(毒と薬を意味する両義的語)の概念の前に突き崩される。ガデンの思想には、上と下が反転すること、相反するものが複雑に絡むことにより生まれる新しい状態の存在が重要な位置を占める。

マチエールへの挑戦と実験

花粉で描いたのはヴォルフガング・ライブであるが、ガデンの芸術もまた、動物・植物・鉱物由来の多様な素材や物質によって具体化される。ケラチンの豊富な蝉の抜け殻、結晶化した硫酸銅を纏った雌牛の頭蓋骨、多種の微生物を含む土を孕んだ彫刻など、などのマチエールに新たな命を吹き込む。このように、自然物を実験的方法で作品に取り込むのはガデンの作品によく見られる手法だ。

フロリアン・ガデン のアート

また、最近の作品である「chiasme」は楕円形の画面に蛍光塗料による絵画で、絡まり合う網の目が果てし無く遠ざかっていく様子を緻密なテクニックで表現している。この作品もまたガデンのキーワードである世界の卵を思わせ、たった一つの細胞として始まる生が無数の細胞が関わりあう複雑な構造として個体を作り、個体が無数に集まって同様に複雑な関係性を築くことで世界が成り立つことを思わせる。今日世界は見えない敵としてのウイルスに震撼しメディアが煽るところの非尋常なる日常を日常として定着させようとしている。ガデンは芸術が門外漢であるとされる医療やエコロジーの領域に果敢に踏み込み、芸術的アプローチを通じて、私たちの環境や生きることについて異なる方法で考えるための枠組みを提案することを試みる。

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florian_gadenne_perspectives_approches_mikiokubo (français)

florian_gadenne_思想と手法_mikiokubo (日本語)

 

04/18/20

Covid-19の感染拡大をフランスで生活しながら書いたこと

ものを書くのをこんなに躊躇ったことはない。これまで、くだらないことを恥ずかしげもなく散々書いてきたのに。天邪鬼な性分もあり、多くの人々が同じ主題についてものを書いているな、と思うにつけ、私は書かないぞと意固地になってしまったのだが、<書きたい>というただ一つの動機から、結局はこのエッセイを書いている。

私は現在パリの南郊外に住む。つまり、3月17日から外出禁止体制下となったフランスで、今日が4月17日だからちょうど丸一ヶ月生活していることになる。外出禁止「令」というからには法令であり日本の自粛要請とは異なりはっきりした法強制力がある。<不要不急の外出>は警察によって取り締まられ、違反すると罰金の支払いを命ぜられる。不要不急の外出ではない外出ー許可される外出ーの定義は、3月17日以降数週間かかって制限を加えつつ明確化され、現在は、1)どうしても外出しないとしかたない仕事(会社ならば雇用主による証明書が要求される)2)買わないと生活できない食料品や薬の買い出し 3)持病の治療などどうしても行かなければならない病院 4)自宅付近で独りぼっち限定での散歩やスポーツ、犬の散歩 4)その他裁判や行政呼び出し関係の義務的外出 に制限され、外出時は外出日時を記載した証明書を持ち歩く。非常事態宣言と外出禁止の強制の開始と延長は大統領演説によって国民に伝えられたが、細々としたエラー(あるいはロックダウンが遅すぎたとか諸々)に批判はあるものの、そのいざ決まってからの機動力には率直に感心した。3月15日には外出自粛要請にも関わらずパリジャンが小春日和を全身で満喫していたのが16日に大統領演説を受け、17日には外出禁止となり18日には政府のウェブサイトから証明書がダウンロード可能となり携帯が義務付け警察によるコントロールが開始できたのだから。ちなみに学校という学校が全休校になったのも、教員がオンライン授業のための云々を用意する暇など与えられる間も無く16日から一切休校になったことにも、おお!と唸ってしまった。

私個人といえば、今学期は、勤務するグランゼコールの一校で定期試験を残していたので、オンラインシステムを利用して学生と連絡を取りながら試験を実施した。参加学生数も多くなく、顔見知であるのをいいことに、また、自宅勤務だと家事とか子どもと遊ぶとか中々学校勤務のように時間をやりくりできないため、これまで機会がなくて一度も利用していなかった学校指定のオンラインシステムを隈無く勉強して巧みに運用してやるほどちゃんと準備する時間も体力も気力も義理もないよなと即判断し、オーラルテストは電話で実施した。その当時、外出禁止開始から一週間しか経っていなかったが不安からか人恋しさからか世間話したくてたまらない勢いで近況を喋ろうとする学生もあった。いうまでもなく、一人で下宿している学生や、学生のみならず一人暮らしの者にとって、何週間も誰とも直には会わずに引きこもっておれ、というのは、たとえ日々イライラしながらも家族と顔を合わせて会話を交わして生活しているのとは比べ物にならない「インパクト」があるに違いない。こんな時に思うのは、「ポジティブに頑張ろう!」と<頑張る>ことや、「我慢しよう、いずれ元の生活が戻ってくるのだから!」と<我慢する>ことが逆効果だということである。頑張ったり、我慢することはそもそも無理の塊で、結論からいえばこの状況が、しばしばナイーブに語られる意味で<終息>することや<元に戻る>ことなどあり得ないからである。多少落ち着き、我々は現在よりもフィジカルな意味であるいはソーシャルな意味で活動的な生活を送り始めるかもしれないが、それは、頑張ったり、我慢したりしなくてもやってくる。ある意味で、受け入れるということが大事ではないかと考えているのだ。

ウイルスは撲滅できない、と述べた科学者の記事がソーシャルメディア上でも広く支持されて共有されていたが、多くの人がそんなことはわかっており、ウイルスはそもそも生命体でもないタンパク質の殻の中にDNAをバラバラ含んだ遺伝情報のヴィークルであるのだが、そして我々の遺伝情報もまた数%以上はウイルス由来のものであるとか今日の研究ではそんなことまで明らかにされており、従って、私たちは本当は、見えもしないナノ級(nmナノメートルは1メートルの10の9乗分の1)のウイルスと「戦争」をすることも、「撲滅」することも、気の遠くなるような妄想だということを感覚としてわかっているのではないだろうか。「我々はウイルスと戦争状態にある!」と宣戦布告していたのは、フランスの大統領であったけれども、彼自身ももちろんウイルスを撲滅しようなど考えていない。ただ、国民の配慮ある行動(三密を避ける、不要不急の外出を控える、医療崩壊を食い止める)を呼びかけるために、ここまでアホな言い方で理解を呼びかけなければならない(しかも二十分程度のスピーチの中で7回も連呼した)ほど、国民が馬鹿にされているということは、情けないというほかはない。(しかし、のちに述べるがこの国民を馬鹿にした演説と強制措置は一定の変化を促しただろう。)

さて、私たちの日常生活の変化は、世間の多くの人々の「大きな変化」に比べたら、天地がひっくり返るほど無茶苦茶になった!というほどではない。私たちというのは、夫のフロリアン・ガデン と一歳を少しすぎた息子と私である。三匹の猫もいる。私たちは子どもが小さいことがあり、また今年は保育園の定員も満員で、これまでずっと息子は私と夫に見られている。見るというのも世話してやってますみたいな感じでおこがましいから、まあただ一緒に過ごしているという感じである。ウイルスによる症状は当初から、風邪くらいの感染力とか、高齢者が重症化するとか、子どもに関してとりわけ高い注意を呼びかけるものではなかったが、自分の子どもを敢えて苦しませたいという親はおらず、私たちも感染拡大にしたがって、子どもを外ーとりわけ買い物など不特定多数の人々の群に出会う場所ーには連れ出さなくなっていた。そういった必要は大人が一人ですませ、その間は私か夫が留守番をするというのが少なくとも3月になる前から習慣づいていた。子どもは毎日外で遊ぶ。ただし親以外の誰にも会わないし、家以外の屋根のあるところにも行かない。だが、既に学校に行き、友人と遊ぶ事に慣れた子どもの日々への違和感には率直にシンパシーを抱く。

フランスで感染が拡大した。日本では両親の住む北海道での感染拡大が一時深刻化したように見えたが踏みとどまり、東京での感染拡大などを受けて日本でも非常事態宣言が出され、ただの外出自粛よりも強い語調で人との密着接触を避けるべき過ごし方について実践され始めた。誰かも既にのべていたが、日本の感染拡大は、比較されるヨーロッパやアメリカのそれとは様子が全然違う。しばらく拡大は続くものの拡大の仕方が同じにはなりえない。台湾はマスク着用を法的に強制して効果を上げたそうだが、日本では、そもそも病気じゃないときにもマスクを着用できる。(マスクがアイデンティティになるとかマスクだけで論考が書けてしまうほどマスクをする国民である。)中には、しなきゃならんとなると意固地になって自分は大丈夫とマスクをしない困った老人がいることなども耳にしているが、基本的にこれだけ多数の国民がマスクをすれば感染拡大に効果があるのは確実である。そして手を洗うしうがいもする。食べ物も基本的に清潔にする(みんながベタベタその辺に置いてしまうフランスの<パン>みたいなもんはあんまりない)
フランスでは外出禁止令発令以降しばらくして、いよいよ、メディアがただまくしたてるだけで左の耳から右の耳に筒抜ける情報ではなく、なんんといおうか、<感染へのリアルな恐怖>たるものが人々の内側からこみ上げてくるにしたがって、道ゆく人がマスクをしているのを普通に目にするようになった。だがそれまでは、マスクは病気の人がするものであり、自己防衛のためにマスクをするということはなく、つまり「マスクをしている」=「病原菌」(!)みたいに見られることを恐れて、とくに、各国で中国人差別からのアジア人攻撃が加速する情勢に至っては恐ろしくてマスクなどできないという、馬鹿げた状況であった。私なぞ誰がどう見てもアジア人なのであるから、2月ですら出勤にメトロに乗るのが気が重かったし、近所で買い物に行くのすら、例えば、哀れな愚か者が何か罵声を浴びせてこようものなら、気が向けば説き直してやろうくらいの気概はあるけれども、もっと「熱くなった」人が恐ろしい薬品とかかけてきたら絶対に嫌だなとか、無駄に想像力を膨らませてしまうのであった。コンシャスネスを持っている人がマスクをできなかった数週間はやはり馬鹿げたことであったと心から思う。

何を言いたかったか、さて、まとめていきたい。重要なのは、状況がだいぶん変わったということだと思う。自己防衛のためのマスクが普及したのはもちろん、「他者を見たらウイルスだと思え!」というメディアのわかりやすいキャッチコピーのおかげで(そんな端的なコピーがあったかわからないが、上に述べたように言うことをなかなか聞かない国民にどうにかして、人々間の距離を取らせ外出制限を守らせるため、政府とメディアがかなりの荒っぽいマインドコントロールを試みたことは確かであり、それは結果として浸透したのだが、それはそれで阿呆として扱われ結局阿呆でしたというところもあって情けない)、多くの人々が、潜在的な感染可能性を前提として配慮した行動ができるようになった。具体的には、顔を触らない、手を洗うなどは当然として、人同士が近寄らない(唯一可能なスーパーでの買い物は入店制限があり、しばしば長蛇の列に並んで何十分も待たねばならない。その際2メートルくらい前後と間隔を保つ)、外から家に持ち運ぶものは消毒する、着替える、ビズとかせずに<よそよそしく>する。

ビズというのは、フランス人が挨拶の時にする、会釈でも、握手でもなく、チュッチュとするやつで、これは家族や仲良しでは性別を問わず行われるほか、ある程度親しい(親しくもなくてもする)異性間で、会った時と別れるときにホッペにチュッチュッとやっているあれである。風邪をひいていたりすると相手にうつす危機を気にして自主的に「今日風邪なのでビズしないからー」と言ってくれる人もいるが、まあいいやと思ってビズする人がいるのは明らかだし、そもそもまだ発症してないだけで気がついていないかもしれない。とにかく、顔にウイルスを撒き散らすという点で、これほど効果的な方法はあろうか!郷に入れば郷に従えで、これまで10数年間仕方ないのでチュッチュと挨拶してきたものの、そんなよく知らん異性とほっぺをくっつけるほど密着するのも、毎回儀礼的にチュッチュとやるのも、正直面倒だなと思うことの方が多かったので、おそらくこの習慣は、この期間を機に急激に廃れて、家族と親しい人間にとどまるだろうと思う。それでよいのではと思っている。家族が大人になってもスキンシップするのは文化的でなんの批判もないが、親しくない人との制度化されたスキンシップというのは苦痛だし、手を洗ったり、物を拭いたりする習慣もあまりなかっただろうから、これ以降、人と人の距離についての配慮はコンシャスネスが高まるに違いない。

何より素晴らしいことだなあと感じているのは(それが政府により強制される事によってしか実現しなかったのは残念というか当たり前というか、そしてさらにこの騒動そのものがウイルスの感染を装ったグローバルで政治的な茶番のような気さえしているので、高く評価していると同時に全面的に幸福を感じるには至って居ないのであるが…)、私たちのこれまでの日常はほぼ「不要不急」で成り立っていたという事実を認識することだ思う。私が言いたいのは、我々の日々を構成する要素が無価値の塊だったという意味ではない。そうではなく、私たちがこれまでずっとやらなければならない!と信じていたものは、実は日々をただ生きるためには不必要なことで、焦ってやるべき義務も責任もなかったのだな!と気がつく瞬間というのは素晴らしいということが言いたい。(今日現金収入がないと今日食べるのが困難という場合はもちろんこの限りでないのは承知の上だ。)大事だと思っていたルーティーン、私が行かないと皆困ると思っていた業務、そんなものは幻であったという事実!時間という点で1日の多くを占めていた事柄が、それをそっくりそのまま別の行為と取り替えても、日々というものは営まれ、肉体は維持され、季節は変わって行くという、当たり前のこと。当たり前であるのに、不要不急のタスクで忙殺される日常の中でこれに気がつくのは簡単ではなく、一挙にこの自覚を促した「状況」は、その意味で意味があると言わねばならない。

また、「不便さ」への順応も重要だ。人は一度変化に慣れたのちにはそれが当たり前と感じられる能力を持っているので、さしあたり色々なことを「不便」と感じるのも私たちが慣れてきてしまった(無理の上に成り立つ)偉大な便利さとのギャップという相対的な意味でしかない。日本でも思い切りこの「不便化」が進み、我々の享受する至れり尽くせりの生活と全く違う生活を数週間から数ヶ月にわたってかなりの人口が経験できれば、日本社会はリフレッシュするだろうなあと思う。たかだか食料品の買い出しのスーパーへの買い物のために、店に入るのに並ばなければならずたいそう時間がかかるとすれば、おのずと無駄足は運ばないように気をつけるようになり(いまだに買い占めを続ける愚か者を除けば)買うべきものを買わねばならぬ時にようやく買うようになるだろう。宅急便が届かないのでネットショッピングで無駄なものを便利さを糧に買いまくって空輸と陸運と海運を極限まで苛め(おこがましくエコロジストを自称しながら)環境汚染に加担することを避けられるだろう。オンラインショッピングはアマゾンでさえも多くの場合数週間待ちとなっている。店にいっても買いたいものがあるとは限らない。それは誰に怒りをぶつける筋でもなく「仕方ない」ので待つしかない、あるいは、諦めるしかない。また、最初は少し驚いたが、医療機関で働く人にも外出禁止と業務停止が徹底されている。もちろん感染症に対応している医療機関はフル稼働であるし、持病患者のケアをするような大きな病院も機能している。妊婦も問題なく出産ができるだろう。しかし、歯医者や皮膚科や小児科といった、我々が気軽にお世話になっていたはずの病院やクリニックに全く通うことができないのだ。個人的なことだが私は3月末にインプラントの手術をする予定がかなり前から日にちが決まっていたのだが、非常事態宣言とともにクリニックが閉鎖され、いつだか知れぬ再開まで先延ばしになった。この間に別の差し歯が外れてしまい、食事のたびにいちいち痛い思いをし、万一衛生に不備があって炎症を起こして他の歯に及んでもすごく面倒だし、酷い事になる前にぜひ解決したいと医療機関に連絡をとったのだが、その程度では、歯科のある緊急病院へ行ってもいつ見てもらえるかわからないし、多分見てもらえないだろうと言われた。これは、<耐えられない痛みを10としてどのくらい痛いかレベル>というのがあるのだが、それで表すと7以上(つまりものすんごく痛胃からすぐに助けろ!と絶叫している患者)でないと、緊急病院では扱わないからだ。まあ、そんな程度じゃ命にかかわらないから見ませんよ、ということである。これまでの私が当たり前と思ってきた健康の基準に照らして見ると大変不便な生活を送っているのだが、これもまた、仕方ないのである。あるいは、この点でちょっといいことがあるとすれば、人々が無駄な通院や検査に行き過ぎないことだろうか。医療機関に行くのは散歩したり買い物したりするのと違うのだから、必要最小限であることが望ましい。健康マニアが不健康になる事例や、検査のしすぎがむしろ身体に及ぼす悪影響もなきにしろあらずであるのに、今日の私たちはメディアによって多すぎる健康についての情報を与えられて大いに脅されているために色々と心配になって過剰に医者にかかってしまうのだから。

要するに、これまで無数のエコロジストたちが高らかに叫んできた理想論:「一人一人が不便な生活に慣れるちょっとの努力をすれば環境汚染がくいとめられるでしょう!」という絵に描いた餅みたいなこと(そもそもそれをどうやって実現する?一昔前に戻る?そんなことどうやって実際にどのように実現するか言って御覧なさい、と突っ込まざるを得ない空論)が、たったの数週間でまさに実現してしまった。便利すぎる社会を支えるために人々が苦しい思いをして頑張っている日本社会に、もしこのことが起こったら、最初はワーっとびっくりし、たくさんの人が行き所のない憤りに熱くなってしまうかもしれないが、そんなこともすぐに過ぎよう。それが生活として定着したとき(人は一定時間以上その営みを続けていればどんな事にも必ず慣れてしまう)、生きることをまた違って考えられるようになるのではないかと、真面目に思う。

最後に、「この騒ぎが終わったら」「これが収まったら」「元の生活に戻ったら」「通常モードになったら」などなどの言い回しは、メディアが/政府が/市長が/社長が/先生が/親が/家族が、私たちをなだめすかそうとしている時の欺瞞に満ちた表現に過ぎない。それが万が一心から発せられていたとしても、である。ある意味で「この騒ぎが終わ」り、「これが収ま」ったように見える日は必ずやってくるが、それは「元の生活に戻」ることや「通常モード」(それ以前にそうであったという意味での)を私たちが取り戻すことではない。

人間は80年くらい生きる生き物で、これは長いとも短いとも言えるが、刺激が与えられれば、生き延びるために可能な限り素早く適応していく。個体の集合である社会や国家が、したがって、個体のキャパシティを無視したはるかに長いスパンで考えていくことはないだろうと思う。数ヶ月の経験もそれが決定的なら刻印される。それを経験していない以前に戻るということはあり得ない。経験とは生きることで、我々の身体は不可逆な時間を生きている。ブリュノ・ラトゥールなど著名な理論家も「この機会はチャンスなのだ!」みたいな言い方でインタビューを受けたり記事を書いたりしているが、私はそれはメディア的パフォーマンスで、「ポジティブに活かさなきゃいけない絶対の好機だよ!さあ、変わって行こうよ!」みたいなことを意識せよと叫んでいるとは思っていない。そうではなくて、彼らが言うのは、「そうなってしまいましたよ」程度のことだと思っている(どうなってしまったかを項目をわかりやすくまとめてくれはいる)。活かす/活かさない、なんて自由なものではなくて、私たちに選択肢のないもの、だと考えている。受け入れるのみ、というと、いやいや能動的に働きかけるべきポイントがたくさんある!と批判を受けそうだが、もちろん抗うべき項目があるのは認める。それでもやはり、戦う相手など本質的にはおらず、ただ生きているのが続いていくだけである。

2020年4月17、18日
大久保美紀

09/29/19

田房永子『ママだって人間』というマンガ

田房永子さんの漫画、『ママだって人間』を読んだ。ちなみに、彼女の漫画は自伝的で、互いの漫画は彼女という一人の女性を巡って展開されるので自ずと他の漫画で描かれた人生の一コマとも相関し合っており、私はこれまで『母がしんどい』と『キレる私をやめたい』を読んでいて、特に、『母がしんどい』は、彼女の人生の様々な局面で問題になってきた心の問題の根源である、母との人間関係とその分析が描かれており、それ以降の漫画の中でもお母さんとの問題とそれが彼女に与えた影響の話はずーっと出てくるので大事な作品ではある。

『ママだって人間』は、痛快でありつつ、彼女の珍しいキャリア(女性でありながら男性作家の中でエロ漫画家をしていた)ゆえに性に対してここまで描けるのか!と驚かされる内容となっていて、彼女がこんなキャリア持ちじゃなかったら、これらの悩みはここまで笑い飛ばせなかっただろうなと思わせる強かさが魅力の作品だと感じた。ただのフェミニストの功法じゃない、ガチガチにデフェンス固めて真面目すぎる顔して議論するんじゃない、フェミニスト的正論を敢えてサラッと言い得ていて、極論も言ってしまってみて、自らがダメだったところもさらけ出しながら、読み手どう思うよ?と考えるように促している感じだ。

フェミニスト的視点での分析はもちろん素晴らしくて、そうですよね!!と全身でうなづきたくなる下りとか、これ男も読めばいいのにと本気で思う鋭い指摘が続く。

漫画という手段は、素敵だなあと率直に思う。

個人的な、そして言い訳みたいな話だが、この数ヶ月出産後の生物的な問題か単に怠惰なのか両方か、小難しい文章を読んでもよくわからない。小難しい文章も書けない。曲がりくねった表現はわからずに、まっすぐに飛んでくる内容しかキャッチできない。頭が働かないのに加えて時間もない。時間はたっぷりあるのだが、集中して何かを読むまとまった時間みたいなものが全くない。漫画だったら海外で電子書籍で購入して、ガーッと読んで、もう一冊買って、ガーッと読み終わって読み返して、考えてまた読み返して、ということが一瞬でできてしまって感動した。それは単に漫画を読むのが読書に対して簡単だということではなくて、彼女の漫画は十分に説明的で思索的でもあり、しかも個人的な問題について綴っているので、それが大変わかりやすく感じられるということは、彼女の物語り方が大変巧みだということの現れなんだろう。

『ママだって人間』には、子育てに奮闘する中で、彼女がひたすら立ち向かう自身の問題が歯に衣着せぬ感じで描かれる。それらはユーモアたっぷりに演出されるけれども、依然としてリアルで深い。

いくつか大変上手だなあと感心した描写について取り上げてみよう。

<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>問題。なぜしばしば女性が育児をするのか、ホルモンの問題、生物的な問題、オッパイがあるから、色々な理由を挙げて、「結局そのほうがいいんだよね、女性自身もそれが一番満足できる状況なんでしょう」と、つまり<その結果は女性の自主的な選択から導かれている>かのような理解が世の中に蔓延っている。が、彼女は<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>という言い方で、これを否定する。自主的に赤子にくっついていたいんじゃなくて、体がそのようにプログラムされていて選択肢はない、だから、それを放っておいて、疲れ切っているのを見て見ぬ振りをしないのでなく、積極的に割って入ってきて育児に協力するような姿勢が望ましいのだ、と。

これは、のちに取り上げられる、<全く助けないおじいちゃん(ロボットじじい)の作り方>にも繋がっていて、漫画では、ベビーカーや抱っこ紐で赤ちゃん連れで外出した際に遭遇する人々の対応がコミカルに描かれている。女性は基本的には親切にしてくれる、おばあちゃんも割と優しい。そんな中、彼女は、おじいちゃん(優しい人もいるが)に着目する。エレベーターで、ベビーカーの乗り降りに時間がかかることなども考慮なし、扉を配慮なく閉める、自分は動かず指示を出す、手伝ったりは絶対しない。彼女はこういったおじいちゃんの不可解な不親切行動の原因は、彼らが過ごしてきた育児(しない)経験にあると指摘する。さらには、育児しなかったので困っていたり助けるべきポイントがわからないのにとどまらず、彼らが家庭の中で自分の場所を見つけることなく(家では何もせず)、仕事に専念してやがて定年し、彼らは日常生活の多くを妻に頼り、他者への配慮に欠ける<ロボットじじい>になると彼女は分析する。

<理想的に語られる妻像と話が噛み合わない>下りも言い得て妙である。本当はそれぞれが異なる個人であるママたちは、ロボットじじい予備軍の夫たちの口から、あたかも唯一の像であるように語られる、<子供と一緒にいたい><育児に専念する><赤ちゃん可愛いから文句も泣き言も言わない>妻のイメージ。さらには、女性たちも女性たちの側からこの<枠>を作って行く傾向にあると彼女は指摘する。例えば、<母性で全て乗り越えられる><赤ちゃん可愛いから大丈夫><陣痛と出産は超痛いもの><母乳で育てるべき>といった風に。この女性の側から<枠>生成システムの仕組みを変えるのは難しい。なぜなら、共通の物語を創出することによって、自己の不安を相殺してしまおうとする女性によって引き継がれているからだ。

また、典型的な問題でありつつ、男性側からの理解は必ずしも簡単でないのが、<夫に(破裂的に)キレちゃう>問題。(←このキレちゃう問題はやがて、子供にもイラっとした経験から、より真剣にケアされることになる。『キレる私をやめたい』に詳しい。)生物的なレベルでの精神と身体の均衡破壊とそれに続く心身の問題や注意が子供へ向かう制御不可能の変化などは、今日あるレベルで自明のこととして説明されているにもかかわらず、必ずしも少なからず夫婦間で問題になるのは、やはり結局のところ、どのくらい変化するのかについての理解不足が原因である。性欲の問題も然りである。だからといって、何をいっても何をしてもいいわけでは勿論ないが、現在もなおこれらの事実に対する知識や理解は十分でないのではないだろうか。

この漫画を読んで、この漫画にある意味で救われるのは、おそらく「ママたち」なんだろうなあ、と思うが、もしこの漫画に描かれたことが、当事者の「ママたち」を超えて、広く理解されるようなチャンスを得たらいいだろうなあと思うし、そうなることこそが本質的に問題を解決するために必要なんだろうなあと思う。少なくとも、例の<ロボットじじい>を世の中にこれ以上送り出さないために。

09/2/19

ホメオパシー(同種治療)について 1

ホメオパシー(同種治療)について 1
2019年9月2日

ホメオパシー(homéopathie)は、同種療法、つまり、ある病や症状を起こしうる物質によってそれを治療することができるという考えに基づく治療法である。病や症状を起こしうる物質とは時に毒や身体に害のある物質のことであり、それを薬として利用することで心身の不調を治そうとする考え方だ。身体にとって毒となるような刺激によって病を防ぐという原理だけ聞くと、今日科学に基づく西洋医学に慣れている私たちは、「ワクチン」のことを思い出すかもしれない。しかしワクチンとホメオパシーのリメディ(ホメオパシーに使われる薬のこと)は決定的に異なる。ワクチンはご存知のように感染症の予防のために接種され、それは対象となる病の病原体から作られる抗原(弱毒化あるいは無毒化されている)を含んでおり、結果、身体は病原体に対する抗体を産生して感染症に対する免疫を獲得するというものだ。ここで、ワクチンの効果は医学的に証明されている。一方、ホメオパシーの効果は、現代の医学的見地から、プラセボ(偽薬、placebo)以上の効果はないとされ、それ自体に害はないがリメディーはただの砂糖玉に過ぎないとされている。

ホメオパシーは、用語としては18世紀末にドイツ人医師のサミュエル・ハーネマン(Samue Hhnemann, 1755-1845)によって用いられ、ヨーロッパにおいて各国で研究がなされた。ナチス・ドイツ時代にアドルフ・ヒトラーがホメオパシーを厚遇したことはよく知られているが、ユダヤ人強制収容所で行われた人体実験においてホメオパシーの偽薬以上の効果が検証されることはなかった。ドイツ以外の各国でも、今日までホメオパシーのリメディーによる治療が医学的見地から効果を認められたことはない。

にもかかわらず、戦後も、どころか今日においても、ホメオパシーは「代替医療」として普及し実用化されている。ヨーロッパの国々の中でもフランスはホメオパシー実践が今日もなお盛んな国の一つである。ホメオパシーのリメディーの処方は、30パーセントまで保険が適応される<オフィシャルな治療>と現行の医療ではみなされている。(ただし、昨年の医療関係者124名による署名運動を含め、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きない)

ホメオパシーは、現代主流の医学的見地から偽薬以上の効果がないことは明らかであるのに、医学先進国であるフランスにおいて今尚実践されていることはとても奇妙な事象だと思うし、そもそも効果がないということが一般に理解されているのかどうかも微妙なところであり、その現状も非常に謎めいている。なんとなくだが、ただの砂糖玉だと気がついてはいる一方で、砂糖玉にすらすがりたいと思わせるような魅力がホメオパシーにはあるのではないか、あるいはホメオパシーという不明瞭な代替医療が確からしく科学的な現代医学に対して一般の人々が抱く不満のようなものを受け止める役割をしているのではないか、と感じられてならない。

これから、どのくらいゆっくり考えていくことができるかわからないが、このなんとなく不穏な問題について、そのありうる答えを探っていきたいと思う。なぜホメオパシーを現代人の我々が頼りにするのか考えることは、私たちが抱えている身体に関する問題、現代医療に対する問題、よりよく生きることに対峙する仕方について思考を深めることを可能にしてくれると直感するからだ。

議論したいことはたくさんあるのだが、ひとまずは私がなぜホメオパシーのことが大変気になっているのか、そのきっかけについて述べたい。
私は2015年より、フランスのナント(Nantes)を基盤に医療と環境の問題を提起する大変興味深いアート活動を続けているアーティスト、ジェレミー・セガール(Jérémy Segard)との協働プロジェクトをいくつか展開してきた。彼とのプロジェクト展開において、やがて、ファルマコン (Pharmakon)という、ある物質や出来事はしばしば毒と薬の両義的役割を持っている、という興味深い概念に出会い、これについて、研究及び展覧会を通じて探求してきた(展覧会ファルマコン )。2017年に京都と大阪で9名のアーティストによるコレクティブな展示を行い、その開幕に合わせて開催したシンポジウムにお越しいただいた埼玉大学の加藤有希子さんは、新印象派のプラグマティズムについて色彩とホメオパシーに焦点を当てた講演をしてくださり、ホメオパシーが19世紀ヨーロッパである種の怪しげな宗教的な信仰を受けて支持されていたという状況や、同種療法が毒を用いて行おうとしたことに関心を抱く。そして、強烈だったのは自分自身のホメオパシー実戦である。私は2018年12月に出産し、半年ほど経った6月頃から度々授乳時の痛みや乳腺炎の手前までいくような乳腺の炎症を経験し、助産師に三回、医者に二回かかった。助産師は私に複数のリメディーを処方し、医者はアルコールと抗生物質を処方した。強い痛みや熱が伴い、崖っぷちの状況で、処方されたリメディーは言われるままに正しく摂取し続けたが、症状が落ち着くにつれて、ホメオパシーについて冷静に色々考え直してみると、砂糖玉によりすがったことが馬鹿らしくも思えてくるが、いやまさか、ちょっとは効いたのではないか、など思いたくもなってくる。多少保険が効くとはいえ、一時期だいぶん調子が悪くなって大量のリメディーを処方され、それを購入して摂取したのだ。偽薬でしたと片付けるには、助産師の処方もたいそう公的に行われているし、なんだか腑に落ちない。そもそも、この代替医療はかなり多くの妊婦・産婦、子供、老人、自然的なイメージの代替医療を好む患者によってしぶとく実践されている。これだけ情報の入手が可能な今日、自分が服用する薬がどんなものかは知らない手段がないわけでもないし、それなのにこれほどまでにホメオパシーが根強いとしたら、無視しづらい。
さて、こう言ったことが私の関心の原点だ。

08/5/19

Ludovia #16, La représentation de soi à l’époque numérique – la considération sur la nouvelle conscience corporelle

Je participe à Ludovia#16 du 20 au 23 août 2019, Ax-les-thermes.
Je présenterai mes recherches à propos de la représentation de soi à l’époque de l’information, me référant à la nouvelle conscience corporelle ainsi que la pratique d’avatar, d’un corps hybride.
Le site officiel: Ludovia.fr

Résumé :

Dans mon intervention, je fonderai une étude sur les modalités contemporaines de la représentation de soi à l’époque de l’information.

La représentation de soi à l’époque numérique nous fait vivre une expérience inattendue. D’abord, la représentation de soi dans le cyberespace tels que les réseaux sociaux, qui est fondée sur la manipulation facile et la diffusion quotidienne des images de soi, modifient complètement notre perception et conscience corporelle. Vivant une telle expérience de la conscience de soi « modifiée », l’image de soi perd alors sa nature identitaire jusqu’à ce qu’elle se réduise en une icône ambiguë, voire « fluide » selon le terme de Zygmunt Bauman. Cette icône, aisément employée comme image du profil, est alors considérée comme une image qui représente le soi. L’« avatar », qui est son double « modifiable » et « remplaçable » selon son gré et son envie, joue un rôle important pour établir une conscience de soi numérique. Bien qu’elle soit souvent basée sur l’image en deux dimensions tels une illustration, un dessin ou un manga, quand l’utilisateur le pousse à l’extrême, cette image prend une allure transcendante en devenant un soi virtuel mais « réel ». Soit un personnage existant soit une créature imaginaire, nous avons de plus en plus tendance à nous référer à ce qui remplace notre corps « physique » pour se présenter comme le moi numérique. Dans le cas extrême, cette nouvelle conscience corporelle pourrait s’atteindre à un état hybride : mixte du corps humain et celui du robot ou d’autres êtres technologiques.

Dans mon intervention, je développerai la théorie de la représentation de soi à l’époque numérique en me référant à l’analyse d’Azuma Hiroki, sociologue japonais qui la théorise par des notions comme « consommation de bases de données » et « de nombreux petits récits après le déclin du grand récit » (appliquant la théorie du postmodernisme de Jean-François Lyotard) afin de mieux comprendre le système contemporain autour de l’expression identitaire à travers les moyens numériques. Je compléterai mon interprétation sur la particularité identitaire de notre époque en m’appuyant sur la théorie de Zygmunt Bauman, notamment sa définition de la « fluidité ».

J’introduis ensuite Ayano Sudo, artiste photographe japonaise, et son travail d’autoportrait intitulé « Autoscopy » où l’artiste mêle sa propre image à celle de quelqu’un autre, ce qu’elle appelle une expérimentation identitaire où elle expérimente une sorte de modification génétique au travers des moyens numériques. L’artiste a conçu ce projet à cause d’un souvenir d’enfance : de nombreux amis et connaissances l’ont reconnue dans un endroit où elle n’a jamais été, ce qui signifie qu’ils l’ont mal reconnue. Cette expérience a permis l’artiste de réaliser que la reconnaissance du visage de quelqu’un est tellement ambiguë que l’on peut croire à l’avoir vue même si son visage ressemble peu à celui d’autrui. L’artiste cherche alors à créer un récit sous forme d’autoportrait modifié fondé sur les modalités corporelles numériques.

Je conclurai mon intervention sur la nouvelle conscience de soi établie par l’expérience des usages de l’avatar et de la photo de profil stéréotypée, se figurant en deux dimensions – en une forme hybride ou robotique, qui impacte notre image de soi « réelle ».

08/5/19

ICA 2019 Belgrade, miki okubo, « Virtual Idol » and « dietary philosophy »

I participated in the ICA2019 (International congress of aesthetic studies) in Belgrade 21-26 July 2019. Here are my abstracts of presentations.
http://www.arh.bg.ac.rs/en/2017/12/11/ica-2019-belgrade-21st-international-congress-of-aesthetics/
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AESTHETICS OF VIRTUAL IDOL AND ITS CORPORALITY

Abstract
The virtual idol is getting more and more present and popular not only in geek cultures or subcultures, but also in a global music market. The virtual idol is generally a character based on its vocaloid voice completed with graphic image, detailled information on profil, amateurs’ participation in developping its universe and active consumers of its musical productions. We know as a pioneer example Miku Hatsune. A girl at the age of 17 in costume inspired by school uniform whose totem is Welsh onion, Miku Hatsune is a character based on Vocaroid commercialized by Crypton Future Media in 2004, through technological improvements, having become a real popular idol in Japan and lots of countries in the 2010s. In Paris, where Japanese pop-culture such as Manga, Animé or Cosplay fascinates many young peoples, her concerts archived such a high level success. On the stage, Miku Hatsune visualized by holographic projectors, singing, dansing and talking to her fans, mesmerized completely the spectators.

The first point I will develop is the aesthetic challenges of this new creature – virtual idol – for encouraging amateur creations as well as impacting on the contemporary artworld. The most important contribution of the virtual idol’s eminent advent to visual arts is the expansion of creative spheres as well as their restructure. The development of virtual idols world is fed by amateurs participations, who are often fans, consumers and creators. It welcomes also deviative creations associated with differnets genres such as video games, mangas, animations, films, fanzines, secondary creations or commercialization of character’s goods.

The second point concerns a new body consciousness brought to the importance by virtual idol culture, and more globaly by digital cutlres. Their particular corporal modality is due to the ontological ambiguity among human, artifact, robot, imaginary creature or set of digital information. Their immaterial corporality brings us to transform ourselves in a sort of hybrid existence in regard with movements, gestures, self-consiousness.

Through analysis of the corporal modality and phenomenological significations of virtual idol, I will consider its impact on visual arts as well as new aesthetics of body consiousness appearing in our society of information.

Index terms | body consicousness; character; corporality; digital culture; Japanese pop culture; virtual idol; vocaloid

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AESTHETICS FOR NEW DIETARY PHILOSOPHY AND HUMANITY THINKING

Abstract |
We are living in a particular era with regard to the notion of health and the way of feeding ourselves. Today, our dietary situation is in a dilemma; we are surrounded by various information about foods for well-being and good health, as well as advices for a diet or different calorie controls. When we watch TV programs, take a look at publicity in magazines, newspapers or on the Internet, it is obvious that excessive information on these topics are circulated around our everyday life, which brings us naturally to be conscious of what we eat and how to control our appetite to the obsessive extent. Moreover, we take sometimes medicaments or supplements for weight loss as compensation for the appetite satisfaction, gourmet and fine food loves.

The information about hygiene and security of food that we should rely on is also questioning. Certain organic foods succeeded commercially due to their “clean” (non-contaminated, secure and good for health) image. At the same times, these foods are so expensive that only wealthy people can afford to purchase. Thinking too much about food security can cause to increase food waste, especially food loss.

New attitudes against this food loss and challenges for overcoming information saturated society about eating and dieting are getting more and more visible. Food sharing, recycling, donating or other possible solutions are getting developed. This presentation aims at better understanding the veritable situation in the contemporary relation between our body and environment in order to seek the more appropriate dietary philosophy which is compatible with contemporary humanity thinking.

Index terms | body consciousness; diet; dietary philosophy; food loss, gourmet; hygiene of food; notion of health; security of foods

06/20/18

utilité des approches artistiques pour la sensibilisation sur la philosophie alimentaire

Intitulé : « Utilité des approches artistiques pour la sensibilisation sur la philosophie alimentaire : la santé, la sécurité, la saturation ou la pauvreté ? »

Introduction
Dans mon intervention, je souhaiterai mettre en lumière l’utilité des approches artistiques pour nous mener à une meilleure compréhension sur les politiques alimentaires, notamment la mise en œuvre et la présentation pour un grand public l’œuvres médiatiques dont un film documentaire dans le but de sensibiliser le public à la philosophie alimentaire – la santé, la sécurité et la distribution non-équilibrée dans une société de consommation globale. Étant critique d’art et chercheur d’art contemporain, mes approches font face aux problématiques abordées dans ce colloque « Politiques agricoles et alimentaires : trajectoires et réformes » différera des approches basées sur les disciplines principalement concernées ; Nous nous référerons à différents travaux d’artistes réalisés dans le but d’une évocation critique pour leurs spectateurs internationaux.
Le but de mon intervention est donc de réfléchir sur les éventuels moyens par lesquels l’art (soit les approches artistiques, soit l’intervention de l’artiste, soit les expériences esthétiques) peut contribuer aux politiques agricoles pour lutter contre la pauvreté, la sécurité alimentaire (la conservation et le bien-être des animaux) ainsi que le changement climatique afin d’améliorer l’ensemble de la situation alimentaire qui nous entoure quotidiennement ainsi que la conscience publique à propos de toute l’action de la consommation alimentaire dans notre société.
Je souhaiterais souligner la portée considérable d’une telle expérience esthétique auprès d’un grand public ainsi que l’importance de la reconnaissance de son utilité afin de promouvoir la construction d’une infrastructure pour de possibles collaborations avec les artistes, encourager le public non-expert dans les domaines concernés pour qu’il soit mieux informé et contribue à l’amélioration de la situation actuelle. J’aborderai la nécessité de créations des plateformes de communication permettant aux chercheurs, agriculteurs, vendeurs, consommateurs et autres potentiels acteurs de s’exprimer pour une meilleure compréhension mutuelle.
Je me référerai à trois projets différents artistiques et analyserai leurs enjeux ainsi que les portées sociales. À travers la réflexion sur chaque challenge, je mettrai en lumière la contribution des arts aux politiques agricoles en tant que propositions originales pour le futur plan de l’évolution agro-environnementale.
Premièrement, j’introduirai un film intitulé « We feed the world » (2005), réalisé par Erwin Wagenhofer, documentariste autrichien. Deuxièmement, je présenterai le documentaire « Les Glaneurs et la Glaneuse » (2000) d’Agnès Varda. J’aborderai la difficulté de la mise en place de politiques alimentaire face à certains risques alimentaires telle que la pollution environnementale qui impacte sur la sécurité des produits. À ce propos, j’analyserai l’œuvre de Tadashi Takamine, artiste japonais, intitulée « Japan Syndrome » (2013).

Japan Syndrom vers. Yamaguchi extrait: https://www.youtube.com/watch?v=pno2chQGmcM

04/21/18

Bettina Rheims « Vous êtes finies, douces figures »

つい先日にBettina Rheimsの展覧会 »Détenues »についてポストをしたばかりなのですが、Quai Branlyでも6月3日まで彼女の展覧会が見られます。展示スペースのコンパクトさと共存するオブジェとのコミュニケーションを効果的にするため写真は全てポラロイド。

Link:http://www.quaibranly.fr/fr/expositions-evenements/au-musee/expositions/details-de-levenement/e/bettina-rheims-37856/

この展覧会は、Bettina Rheimsが2014年に実現したシリーズ »Heroïne »

展覧会タイトルは « Vous êtes finies, douces figures »、このフレーズはローマ帝国の詩人ペトロニウスの詩からの引用であり、ウクライナで起こったフェミニズム運動フェメンに参加した一人の女の体に刻まれている。シリーズ »Heroïne »では、一つの岩のようなオブジェを巡るポーズをそれぞれの女たちがとっており、それは一つの<カリスマ的信仰を駆り立てる台座>の役割をする。あるいはその岩はまた、 »Détenues »において写真家が浮き彫りにしたような、囚われていること、自由の身ならざること、というテーマを浮かび上がらせる。女たちは皆、岩にまとわりつき、逃れることのできない、逆らうことのできない、何かに取り憑かれたように、ポラロイドの写真に現れる。

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04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。