09/29/19

田房永子『ママだって人間』というマンガ

田房永子さんの漫画、『ママだって人間』を読んだ。ちなみに、彼女の漫画は自伝的で、互いの漫画は彼女という一人の女性を巡って展開されるので自ずと他の漫画で描かれた人生の一コマとも相関し合っており、私はこれまで『母がしんどい』と『キレる私をやめたい』を読んでいて、特に、『母がしんどい』は、彼女の人生の様々な局面で問題になってきた心の問題の根源である、母との人間関係とその分析が描かれており、それ以降の漫画の中でもお母さんとの問題とそれが彼女に与えた影響の話はずーっと出てくるので大事な作品ではある。

『ママだって人間』は、痛快でありつつ、彼女の珍しいキャリア(女性でありながら男性作家の中でエロ漫画家をしていた)ゆえに性に対してここまで描けるのか!と驚かされる内容となっていて、彼女がこんなキャリア持ちじゃなかったら、これらの悩みはここまで笑い飛ばせなかっただろうなと思わせる強かさが魅力の作品だと感じた。ただのフェミニストの功法じゃない、ガチガチにデフェンス固めて真面目すぎる顔して議論するんじゃない、フェミニスト的正論を敢えてサラッと言い得ていて、極論も言ってしまってみて、自らがダメだったところもさらけ出しながら、読み手どう思うよ?と考えるように促している感じだ。

フェミニスト的視点での分析はもちろん素晴らしくて、そうですよね!!と全身でうなづきたくなる下りとか、これ男も読めばいいのにと本気で思う鋭い指摘が続く。

漫画という手段は、素敵だなあと率直に思う。

個人的な、そして言い訳みたいな話だが、この数ヶ月出産後の生物的な問題か単に怠惰なのか両方か、小難しい文章を読んでもよくわからない。小難しい文章も書けない。曲がりくねった表現はわからずに、まっすぐに飛んでくる内容しかキャッチできない。頭が働かないのに加えて時間もない。時間はたっぷりあるのだが、集中して何かを読むまとまった時間みたいなものが全くない。漫画だったら海外で電子書籍で購入して、ガーッと読んで、もう一冊買って、ガーッと読み終わって読み返して、考えてまた読み返して、ということが一瞬でできてしまって感動した。それは単に漫画を読むのが読書に対して簡単だということではなくて、彼女の漫画は十分に説明的で思索的でもあり、しかも個人的な問題について綴っているので、それが大変わかりやすく感じられるということは、彼女の物語り方が大変巧みだということの現れなんだろう。

『ママだって人間』には、子育てに奮闘する中で、彼女がひたすら立ち向かう自身の問題が歯に衣着せぬ感じで描かれる。それらはユーモアたっぷりに演出されるけれども、依然としてリアルで深い。

いくつか大変上手だなあと感心した描写について取り上げてみよう。

<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>問題。なぜしばしば女性が育児をするのか、ホルモンの問題、生物的な問題、オッパイがあるから、色々な理由を挙げて、「結局そのほうがいいんだよね、女性自身もそれが一番満足できる状況なんでしょう」と、つまり<その結果は女性の自主的な選択から導かれている>かのような理解が世の中に蔓延っている。が、彼女は<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>という言い方で、これを否定する。自主的に赤子にくっついていたいんじゃなくて、体がそのようにプログラムされていて選択肢はない、だから、それを放っておいて、疲れ切っているのを見て見ぬ振りをしないのでなく、積極的に割って入ってきて育児に協力するような姿勢が望ましいのだ、と。

これは、のちに取り上げられる、<全く助けないおじいちゃん(ロボットじじい)の作り方>にも繋がっていて、漫画では、ベビーカーや抱っこ紐で赤ちゃん連れで外出した際に遭遇する人々の対応がコミカルに描かれている。女性は基本的には親切にしてくれる、おばあちゃんも割と優しい。そんな中、彼女は、おじいちゃん(優しい人もいるが)に着目する。エレベーターで、ベビーカーの乗り降りに時間がかかることなども考慮なし、扉を配慮なく閉める、自分は動かず指示を出す、手伝ったりは絶対しない。彼女はこういったおじいちゃんの不可解な不親切行動の原因は、彼らが過ごしてきた育児(しない)経験にあると指摘する。さらには、育児しなかったので困っていたり助けるべきポイントがわからないのにとどまらず、彼らが家庭の中で自分の場所を見つけることなく(家では何もせず)、仕事に専念してやがて定年し、彼らは日常生活の多くを妻に頼り、他者への配慮に欠ける<ロボットじじい>になると彼女は分析する。

<理想的に語られる妻像と話が噛み合わない>下りも言い得て妙である。本当はそれぞれが異なる個人であるママたちは、ロボットじじい予備軍の夫たちの口から、あたかも唯一の像であるように語られる、<子供と一緒にいたい><育児に専念する><赤ちゃん可愛いから文句も泣き言も言わない>妻のイメージ。さらには、女性たちも女性たちの側からこの<枠>を作って行く傾向にあると彼女は指摘する。例えば、<母性で全て乗り越えられる><赤ちゃん可愛いから大丈夫><陣痛と出産は超痛いもの><母乳で育てるべき>といった風に。この女性の側から<枠>生成システムの仕組みを変えるのは難しい。なぜなら、共通の物語を創出することによって、自己の不安を相殺してしまおうとする女性によって引き継がれているからだ。

また、典型的な問題でありつつ、男性側からの理解は必ずしも簡単でないのが、<夫に(破裂的に)キレちゃう>問題。(←このキレちゃう問題はやがて、子供にもイラっとした経験から、より真剣にケアされることになる。『キレる私をやめたい』に詳しい。)生物的なレベルでの精神と身体の均衡破壊とそれに続く心身の問題や注意が子供へ向かう制御不可能の変化などは、今日あるレベルで自明のこととして説明されているにもかかわらず、必ずしも少なからず夫婦間で問題になるのは、やはり結局のところ、どのくらい変化するのかについての理解不足が原因である。性欲の問題も然りである。だからといって、何をいっても何をしてもいいわけでは勿論ないが、現在もなおこれらの事実に対する知識や理解は十分でないのではないだろうか。

この漫画を読んで、この漫画にある意味で救われるのは、おそらく「ママたち」なんだろうなあ、と思うが、もしこの漫画に描かれたことが、当事者の「ママたち」を超えて、広く理解されるようなチャンスを得たらいいだろうなあと思うし、そうなることこそが本質的に問題を解決するために必要なんだろうなあと思う。少なくとも、例の<ロボットじじい>を世の中にこれ以上送り出さないために。

09/2/19

ホメオパシー(同種治療)について 1

ホメオパシー(同種治療)について 1
2019年9月2日

ホメオパシー(homéopathie)は、同種療法、つまり、ある病や症状を起こしうる物質によってそれを治療することができるという考えに基づく治療法である。病や症状を起こしうる物質とは時に毒や身体に害のある物質のことであり、それを薬として利用することで心身の不調を治そうとする考え方だ。身体にとって毒となるような刺激によって病を防ぐという原理だけ聞くと、今日科学に基づく西洋医学に慣れている私たちは、「ワクチン」のことを思い出すかもしれない。しかしワクチンとホメオパシーのリメディ(ホメオパシーに使われる薬のこと)は決定的に異なる。ワクチンはご存知のように感染症の予防のために接種され、それは対象となる病の病原体から作られる抗原(弱毒化あるいは無毒化されている)を含んでおり、結果、身体は病原体に対する抗体を産生して感染症に対する免疫を獲得するというものだ。ここで、ワクチンの効果は医学的に証明されている。一方、ホメオパシーの効果は、現代の医学的見地から、プラセボ(偽薬、placebo)以上の効果はないとされ、それ自体に害はないがリメディーはただの砂糖玉に過ぎないとされている。

ホメオパシーは、用語としては18世紀末にドイツ人医師のサミュエル・ハーネマン(Samue Hhnemann, 1755-1845)によって用いられ、ヨーロッパにおいて各国で研究がなされた。ナチス・ドイツ時代にアドルフ・ヒトラーがホメオパシーを厚遇したことはよく知られているが、ユダヤ人強制収容所で行われた人体実験においてホメオパシーの偽薬以上の効果が検証されることはなかった。ドイツ以外の各国でも、今日までホメオパシーのリメディーによる治療が医学的見地から効果を認められたことはない。

にもかかわらず、戦後も、どころか今日においても、ホメオパシーは「代替医療」として普及し実用化されている。ヨーロッパの国々の中でもフランスはホメオパシー実践が今日もなお盛んな国の一つである。ホメオパシーのリメディーの処方は、30パーセントまで保険が適応される<オフィシャルな治療>と現行の医療ではみなされている。(ただし、昨年の医療関係者124名による署名運動を含め、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きない)

ホメオパシーは、現代主流の医学的見地から偽薬以上の効果がないことは明らかであるのに、医学先進国であるフランスにおいて今尚実践されていることはとても奇妙な事象だと思うし、そもそも効果がないということが一般に理解されているのかどうかも微妙なところであり、その現状も非常に謎めいている。なんとなくだが、ただの砂糖玉だと気がついてはいる一方で、砂糖玉にすらすがりたいと思わせるような魅力がホメオパシーにはあるのではないか、あるいはホメオパシーという不明瞭な代替医療が確からしく科学的な現代医学に対して一般の人々が抱く不満のようなものを受け止める役割をしているのではないか、と感じられてならない。

これから、どのくらいゆっくり考えていくことができるかわからないが、このなんとなく不穏な問題について、そのありうる答えを探っていきたいと思う。なぜホメオパシーを現代人の我々が頼りにするのか考えることは、私たちが抱えている身体に関する問題、現代医療に対する問題、よりよく生きることに対峙する仕方について思考を深めることを可能にしてくれると直感するからだ。

議論したいことはたくさんあるのだが、ひとまずは私がなぜホメオパシーのことが大変気になっているのか、そのきっかけについて述べたい。
私は2015年より、フランスのナント(Nantes)を基盤に医療と環境の問題を提起する大変興味深いアート活動を続けているアーティスト、ジェレミー・セガール(Jérémy Segard)との協働プロジェクトをいくつか展開してきた。彼とのプロジェクト展開において、やがて、ファルマコン (Pharmakon)という、ある物質や出来事はしばしば毒と薬の両義的役割を持っている、という興味深い概念に出会い、これについて、研究及び展覧会を通じて探求してきた(展覧会ファルマコン )。2017年に京都と大阪で9名のアーティストによるコレクティブな展示を行い、その開幕に合わせて開催したシンポジウムにお越しいただいた埼玉大学の加藤有希子さんは、新印象派のプラグマティズムについて色彩とホメオパシーに焦点を当てた講演をしてくださり、ホメオパシーが19世紀ヨーロッパである種の怪しげな宗教的な信仰を受けて支持されていたという状況や、同種療法が毒を用いて行おうとしたことに関心を抱く。そして、強烈だったのは自分自身のホメオパシー実戦である。私は2018年12月に出産し、半年ほど経った6月頃から度々授乳時の痛みや乳腺炎の手前までいくような乳腺の炎症を経験し、助産師に三回、医者に二回かかった。助産師は私に複数のリメディーを処方し、医者はアルコールと抗生物質を処方した。強い痛みや熱が伴い、崖っぷちの状況で、処方されたリメディーは言われるままに正しく摂取し続けたが、症状が落ち着くにつれて、ホメオパシーについて冷静に色々考え直してみると、砂糖玉によりすがったことが馬鹿らしくも思えてくるが、いやまさか、ちょっとは効いたのではないか、など思いたくもなってくる。多少保険が効くとはいえ、一時期だいぶん調子が悪くなって大量のリメディーを処方され、それを購入して摂取したのだ。偽薬でしたと片付けるには、助産師の処方もたいそう公的に行われているし、なんだか腑に落ちない。そもそも、この代替医療はかなり多くの妊婦・産婦、子供、老人、自然的なイメージの代替医療を好む患者によってしぶとく実践されている。これだけ情報の入手が可能な今日、自分が服用する薬がどんなものかは知らない手段がないわけでもないし、それなのにこれほどまでにホメオパシーが根強いとしたら、無視しづらい。
さて、こう言ったことが私の関心の原点だ。

08/5/19

Ludovia #16, La représentation de soi à l’époque numérique – la considération sur la nouvelle conscience corporelle

Je participe à Ludovia#16 du 20 au 23 août 2019, Ax-les-thermes.
Je présenterai mes recherches à propos de la représentation de soi à l’époque de l’information, me référant à la nouvelle conscience corporelle ainsi que la pratique d’avatar, d’un corps hybride.
Le site officiel: Ludovia.fr

Résumé :

Dans mon intervention, je fonderai une étude sur les modalités contemporaines de la représentation de soi à l’époque de l’information.

La représentation de soi à l’époque numérique nous fait vivre une expérience inattendue. D’abord, la représentation de soi dans le cyberespace tels que les réseaux sociaux, qui est fondée sur la manipulation facile et la diffusion quotidienne des images de soi, modifient complètement notre perception et conscience corporelle. Vivant une telle expérience de la conscience de soi « modifiée », l’image de soi perd alors sa nature identitaire jusqu’à ce qu’elle se réduise en une icône ambiguë, voire « fluide » selon le terme de Zygmunt Bauman. Cette icône, aisément employée comme image du profil, est alors considérée comme une image qui représente le soi. L’« avatar », qui est son double « modifiable » et « remplaçable » selon son gré et son envie, joue un rôle important pour établir une conscience de soi numérique. Bien qu’elle soit souvent basée sur l’image en deux dimensions tels une illustration, un dessin ou un manga, quand l’utilisateur le pousse à l’extrême, cette image prend une allure transcendante en devenant un soi virtuel mais « réel ». Soit un personnage existant soit une créature imaginaire, nous avons de plus en plus tendance à nous référer à ce qui remplace notre corps « physique » pour se présenter comme le moi numérique. Dans le cas extrême, cette nouvelle conscience corporelle pourrait s’atteindre à un état hybride : mixte du corps humain et celui du robot ou d’autres êtres technologiques.

Dans mon intervention, je développerai la théorie de la représentation de soi à l’époque numérique en me référant à l’analyse d’Azuma Hiroki, sociologue japonais qui la théorise par des notions comme « consommation de bases de données » et « de nombreux petits récits après le déclin du grand récit » (appliquant la théorie du postmodernisme de Jean-François Lyotard) afin de mieux comprendre le système contemporain autour de l’expression identitaire à travers les moyens numériques. Je compléterai mon interprétation sur la particularité identitaire de notre époque en m’appuyant sur la théorie de Zygmunt Bauman, notamment sa définition de la « fluidité ».

J’introduis ensuite Ayano Sudo, artiste photographe japonaise, et son travail d’autoportrait intitulé « Autoscopy » où l’artiste mêle sa propre image à celle de quelqu’un autre, ce qu’elle appelle une expérimentation identitaire où elle expérimente une sorte de modification génétique au travers des moyens numériques. L’artiste a conçu ce projet à cause d’un souvenir d’enfance : de nombreux amis et connaissances l’ont reconnue dans un endroit où elle n’a jamais été, ce qui signifie qu’ils l’ont mal reconnue. Cette expérience a permis l’artiste de réaliser que la reconnaissance du visage de quelqu’un est tellement ambiguë que l’on peut croire à l’avoir vue même si son visage ressemble peu à celui d’autrui. L’artiste cherche alors à créer un récit sous forme d’autoportrait modifié fondé sur les modalités corporelles numériques.

Je conclurai mon intervention sur la nouvelle conscience de soi établie par l’expérience des usages de l’avatar et de la photo de profil stéréotypée, se figurant en deux dimensions – en une forme hybride ou robotique, qui impacte notre image de soi « réelle ».

08/5/19

ICA 2019 Belgrade, miki okubo, « Virtual Idol » and « dietary philosophy »

I participated in the ICA2019 (International congress of aesthetic studies) in Belgrade 21-26 July 2019. Here are my abstracts of presentations.
http://www.arh.bg.ac.rs/en/2017/12/11/ica-2019-belgrade-21st-international-congress-of-aesthetics/
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AESTHETICS OF VIRTUAL IDOL AND ITS CORPORALITY

Abstract
The virtual idol is getting more and more present and popular not only in geek cultures or subcultures, but also in a global music market. The virtual idol is generally a character based on its vocaloid voice completed with graphic image, detailled information on profil, amateurs’ participation in developping its universe and active consumers of its musical productions. We know as a pioneer example Miku Hatsune. A girl at the age of 17 in costume inspired by school uniform whose totem is Welsh onion, Miku Hatsune is a character based on Vocaroid commercialized by Crypton Future Media in 2004, through technological improvements, having become a real popular idol in Japan and lots of countries in the 2010s. In Paris, where Japanese pop-culture such as Manga, Animé or Cosplay fascinates many young peoples, her concerts archived such a high level success. On the stage, Miku Hatsune visualized by holographic projectors, singing, dansing and talking to her fans, mesmerized completely the spectators.

The first point I will develop is the aesthetic challenges of this new creature – virtual idol – for encouraging amateur creations as well as impacting on the contemporary artworld. The most important contribution of the virtual idol’s eminent advent to visual arts is the expansion of creative spheres as well as their restructure. The development of virtual idols world is fed by amateurs participations, who are often fans, consumers and creators. It welcomes also deviative creations associated with differnets genres such as video games, mangas, animations, films, fanzines, secondary creations or commercialization of character’s goods.

The second point concerns a new body consciousness brought to the importance by virtual idol culture, and more globaly by digital cutlres. Their particular corporal modality is due to the ontological ambiguity among human, artifact, robot, imaginary creature or set of digital information. Their immaterial corporality brings us to transform ourselves in a sort of hybrid existence in regard with movements, gestures, self-consiousness.

Through analysis of the corporal modality and phenomenological significations of virtual idol, I will consider its impact on visual arts as well as new aesthetics of body consiousness appearing in our society of information.

Index terms | body consicousness; character; corporality; digital culture; Japanese pop culture; virtual idol; vocaloid

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AESTHETICS FOR NEW DIETARY PHILOSOPHY AND HUMANITY THINKING

Abstract |
We are living in a particular era with regard to the notion of health and the way of feeding ourselves. Today, our dietary situation is in a dilemma; we are surrounded by various information about foods for well-being and good health, as well as advices for a diet or different calorie controls. When we watch TV programs, take a look at publicity in magazines, newspapers or on the Internet, it is obvious that excessive information on these topics are circulated around our everyday life, which brings us naturally to be conscious of what we eat and how to control our appetite to the obsessive extent. Moreover, we take sometimes medicaments or supplements for weight loss as compensation for the appetite satisfaction, gourmet and fine food loves.

The information about hygiene and security of food that we should rely on is also questioning. Certain organic foods succeeded commercially due to their “clean” (non-contaminated, secure and good for health) image. At the same times, these foods are so expensive that only wealthy people can afford to purchase. Thinking too much about food security can cause to increase food waste, especially food loss.

New attitudes against this food loss and challenges for overcoming information saturated society about eating and dieting are getting more and more visible. Food sharing, recycling, donating or other possible solutions are getting developed. This presentation aims at better understanding the veritable situation in the contemporary relation between our body and environment in order to seek the more appropriate dietary philosophy which is compatible with contemporary humanity thinking.

Index terms | body consciousness; diet; dietary philosophy; food loss, gourmet; hygiene of food; notion of health; security of foods

06/20/18

utilité des approches artistiques pour la sensibilisation sur la philosophie alimentaire

Intitulé : « Utilité des approches artistiques pour la sensibilisation sur la philosophie alimentaire : la santé, la sécurité, la saturation ou la pauvreté ? »

Introduction
Dans mon intervention, je souhaiterai mettre en lumière l’utilité des approches artistiques pour nous mener à une meilleure compréhension sur les politiques alimentaires, notamment la mise en œuvre et la présentation pour un grand public l’œuvres médiatiques dont un film documentaire dans le but de sensibiliser le public à la philosophie alimentaire – la santé, la sécurité et la distribution non-équilibrée dans une société de consommation globale. Étant critique d’art et chercheur d’art contemporain, mes approches font face aux problématiques abordées dans ce colloque « Politiques agricoles et alimentaires : trajectoires et réformes » différera des approches basées sur les disciplines principalement concernées ; Nous nous référerons à différents travaux d’artistes réalisés dans le but d’une évocation critique pour leurs spectateurs internationaux.
Le but de mon intervention est donc de réfléchir sur les éventuels moyens par lesquels l’art (soit les approches artistiques, soit l’intervention de l’artiste, soit les expériences esthétiques) peut contribuer aux politiques agricoles pour lutter contre la pauvreté, la sécurité alimentaire (la conservation et le bien-être des animaux) ainsi que le changement climatique afin d’améliorer l’ensemble de la situation alimentaire qui nous entoure quotidiennement ainsi que la conscience publique à propos de toute l’action de la consommation alimentaire dans notre société.
Je souhaiterais souligner la portée considérable d’une telle expérience esthétique auprès d’un grand public ainsi que l’importance de la reconnaissance de son utilité afin de promouvoir la construction d’une infrastructure pour de possibles collaborations avec les artistes, encourager le public non-expert dans les domaines concernés pour qu’il soit mieux informé et contribue à l’amélioration de la situation actuelle. J’aborderai la nécessité de créations des plateformes de communication permettant aux chercheurs, agriculteurs, vendeurs, consommateurs et autres potentiels acteurs de s’exprimer pour une meilleure compréhension mutuelle.
Je me référerai à trois projets différents artistiques et analyserai leurs enjeux ainsi que les portées sociales. À travers la réflexion sur chaque challenge, je mettrai en lumière la contribution des arts aux politiques agricoles en tant que propositions originales pour le futur plan de l’évolution agro-environnementale.
Premièrement, j’introduirai un film intitulé « We feed the world » (2005), réalisé par Erwin Wagenhofer, documentariste autrichien. Deuxièmement, je présenterai le documentaire « Les Glaneurs et la Glaneuse » (2000) d’Agnès Varda. J’aborderai la difficulté de la mise en place de politiques alimentaire face à certains risques alimentaires telle que la pollution environnementale qui impacte sur la sécurité des produits. À ce propos, j’analyserai l’œuvre de Tadashi Takamine, artiste japonais, intitulée « Japan Syndrome » (2013).

Japan Syndrom vers. Yamaguchi extrait: https://www.youtube.com/watch?v=pno2chQGmcM

04/21/18

Bettina Rheims « Vous êtes finies, douces figures »

つい先日にBettina Rheimsの展覧会 »Détenues »についてポストをしたばかりなのですが、Quai Branlyでも6月3日まで彼女の展覧会が見られます。展示スペースのコンパクトさと共存するオブジェとのコミュニケーションを効果的にするため写真は全てポラロイド。

Link:http://www.quaibranly.fr/fr/expositions-evenements/au-musee/expositions/details-de-levenement/e/bettina-rheims-37856/

この展覧会は、Bettina Rheimsが2014年に実現したシリーズ »Heroïne »

展覧会タイトルは « Vous êtes finies, douces figures »、このフレーズはローマ帝国の詩人ペトロニウスの詩からの引用であり、ウクライナで起こったフェミニズム運動フェメンに参加した一人の女の体に刻まれている。シリーズ »Heroïne »では、一つの岩のようなオブジェを巡るポーズをそれぞれの女たちがとっており、それは一つの<カリスマ的信仰を駆り立てる台座>の役割をする。あるいはその岩はまた、 »Détenues »において写真家が浮き彫りにしたような、囚われていること、自由の身ならざること、というテーマを浮かび上がらせる。女たちは皆、岩にまとわりつき、逃れることのできない、逆らうことのできない、何かに取り憑かれたように、ポラロイドの写真に現れる。

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04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。

09/29/17

今日から1週間「自然」に関する写真を公開します

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À la demande d’Hélène Fleckinger, 1er jour du défi nature. J’invite Miki Gadenne Okubo. Si elle le veut bien, Miki postera elle aussi chaque jour pendant une semaine des photos de nature en invitant chaque fois quelqu’un-e à faire de même…
#DéfiNature #CEstReparti #EffetBoomerang #HaHaHa #AQuiLeTour

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ある友人からfacebook上で、一週間一日一ポストずつ「自然」に関する投稿をするプロジェクトに招待された。私は普段から写真をたくさん撮影しているが、その中でも大多数を占めるのは植物の写真だ。「自然」といって「植物」を思うのはなんだかな、と思ったりする。うだうだ考える前に提案を引き受けて毎日一ポスト投稿してみようと決めた。よい機会とも思うので、このブログでも連日の投稿についてまとめ、付すべきことばがあれば加えて行きたい。
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プロジェクト参加一日目(2017/09/29)
さて、このイメージは私が今年の8月に東京に数日滞在した際に撮影したものである。植物と動物と分解者が強めのコントラストの中に共存する一枚の写真は、上述したように自然と言えば植物を選んでしまいそうになる思考から少し説明可能になったと言う点で少しは気持ちがいい。蝉が菌類によって分解されて行く、その時間が早くすぎるのか、どれほどゆっくりなのか、十分な知識がなく分からない。蝉は成虫となってから短くしか生きないことはよく知られているし、長く生きないので食物を摂取しないことも知られている。長い間かかって少しずつ作られた身体はヴォリュームがあり、重たく、分解するべきあるいは食べられるべき幾ばくかの養分を他者に与える。

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プロジェクト参加二日目(2017/09/30)

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プロジェクト参加三日目(2017/10/01)

02/18/17

Nyotaku – empreinte des femmes nues, colloque international: Corps et décors. Avatars de la philosophie du corps entre Orient et Occident

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Miki OKUBO (Université Paris 8 Vincennes-Saint-Denis) : Nyotaku – empreinte
des femmes nues : esthétique de la corporalité japonaise par rapport à Femme
en bleu d’Yves Klein

Nyotaku – empreinte des femmes nues : esthétique de la corporalité japonaise par rapport à Femme en bleu d’Yves Klein
Miki Okubo
Chargé du cours à l’Université Paris 8, Arts Plastiques
Chercheur attachée à l’équipe de recherche TEAMeD (Théorie Expérimentation Arts Médias et Design, Arts, images et Art contemporain, à l’Université Paris 8

Résumé :
Dans mon intervention, j’analyserai la corporalité japonaise vue dans une performance-vécu intitulée Nyotaku des points de vue esthétique, culturel et sociologique. Une compréhension très présente concernant les expressions artistiques et la conscience corporelle dans la performance met en lumière l’esthétique du corps en Asie en opposition avec celle de l’Occident. La corporalité asiatique souligne l’importance de l’intuition, du souffle et de l’énergie intérieure (气 ou Qi en chinois) car l’expression physique ne se limite pas à la maîtrise physique ou à la technique fondée sur les acquis théoriques tandis qu’en Occident le corps est discipliné, perfectionné et censé d’exprimer des acquis techniques et théoriques, afin d’accomplir ses enjeux artistiques. Cette simple explication s’appliquait historiquement à la comparaison de deux importantes œuvres dont le procédé semble « similaire » : Nyotaku de Shozo Shimamoto et Femme en bleu ou Anthropométries d’Yves Klein.
Shozo Shimamoto (1928-2013), un des fondateurs de Gutai (un mouvement artistique d’avant-garde japonais fondé en 1954), réalisa Nyotaku dans les années 1990. Il s’agit de l’empreinte des femmes nues sur un papier ou un tissu. Pour prendre cette empreinte du corps, ce sont les femmes-participantes nues qui se mettent volontairement dans l’encre noire. Nyotaku se compare à la célèbre performance d’Yves Klein (1928-1962), Femme en bleu, (1960), dans laquelle les femmes peintes en bleu sont sévèrement dirigées, voire instrumentalisées, par l’artiste lui-même dans tous les détails tant de leur posture de leurs mouvements. La différence entre ces deux œuvres est fondamentale pour refuser une hypothèse naïve : Nyotaku est une appropriation de Femme en bleu ou une variation japonaise du fait de leur approche semblant « similaire ». Leur présentation complétement différente témoigne également de leurs propres esthétiques sur la corporalité et les enjeux artistiques.
Dans cette présentation, à travers l’observation des travaux artistiques, notamment Nyotaku, je voudrais poser la question de la véritable signification des esthétiques et de la corporalité japonaise afin de mieux comprendre la phénoménologie du corps et des sciences cognitives dans l’expression artistique.