04/21/18

Bettina Rheims « Vous êtes finies, douces figures »

つい先日にBettina Rheimsの展覧会 »Détenues »についてポストをしたばかりなのですが、Quai Branlyでも6月3日まで彼女の展覧会が見られます。展示スペースのコンパクトさと共存するオブジェとのコミュニケーションを効果的にするため写真は全てポラロイド。

Link:http://www.quaibranly.fr/fr/expositions-evenements/au-musee/expositions/details-de-levenement/e/bettina-rheims-37856/

この展覧会は、Bettina Rheimsが2014年に実現したシリーズ »Heroïne »

展覧会タイトルは « Vous êtes finies, douces figures »、このフレーズはローマ帝国の詩人ペトロニウスの詩からの引用であり、ウクライナで起こったフェミニズム運動フェメンに参加した一人の女の体に刻まれている。シリーズ »Heroïne »では、一つの岩のようなオブジェを巡るポーズをそれぞれの女たちがとっており、それは一つの<カリスマ的信仰を駆り立てる台座>の役割をする。あるいはその岩はまた、 »Détenues »において写真家が浮き彫りにしたような、囚われていること、自由の身ならざること、というテーマを浮かび上がらせる。女たちは皆、岩にまとわりつき、逃れることのできない、逆らうことのできない、何かに取り憑かれたように、ポラロイドの写真に現れる。

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04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。

09/29/17

今日から1週間「自然」に関する写真を公開します

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À la demande d’Hélène Fleckinger, 1er jour du défi nature. J’invite Miki Gadenne Okubo. Si elle le veut bien, Miki postera elle aussi chaque jour pendant une semaine des photos de nature en invitant chaque fois quelqu’un-e à faire de même…
#DéfiNature #CEstReparti #EffetBoomerang #HaHaHa #AQuiLeTour

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ある友人からfacebook上で、一週間一日一ポストずつ「自然」に関する投稿をするプロジェクトに招待された。私は普段から写真をたくさん撮影しているが、その中でも大多数を占めるのは植物の写真だ。「自然」といって「植物」を思うのはなんだかな、と思ったりする。うだうだ考える前に提案を引き受けて毎日一ポスト投稿してみようと決めた。よい機会とも思うので、このブログでも連日の投稿についてまとめ、付すべきことばがあれば加えて行きたい。
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さて、このイメージは私が今年の8月に東京に数日滞在した際に撮影したものである。植物と動物と分解者が強めのコントラストの中に共存する一枚の写真は、上述したように自然と言えば植物を選んでしまいそうになる思考から少し説明可能になったと言う点で少しは気持ちがいい。蝉が菌類によって分解されて行く、その時間が早くすぎるのか、どれほどゆっくりなのか、十分な知識がなく分からない。蝉は成虫となってから短くしか生きないことはよく知られているし、長く生きないので食物を摂取しないことも知られている。長い間かかって少しずつ作られた身体はヴォリュームがあり、重たく、分解するべきあるいは食べられるべき幾ばくかの養分を他者に与える。

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プロジェクト参加二日目(2017/09/30)

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プロジェクト参加三日目(2017/10/01)

02/18/17

Nyotaku – empreinte des femmes nues, colloque international: Corps et décors. Avatars de la philosophie du corps entre Orient et Occident

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Miki OKUBO (Université Paris 8 Vincennes-Saint-Denis) : Nyotaku – empreinte
des femmes nues : esthétique de la corporalité japonaise par rapport à Femme
en bleu d’Yves Klein

Nyotaku – empreinte des femmes nues : esthétique de la corporalité japonaise par rapport à Femme en bleu d’Yves Klein
Miki Okubo
Chargé du cours à l’Université Paris 8, Arts Plastiques
Chercheur attachée à l’équipe de recherche TEAMeD (Théorie Expérimentation Arts Médias et Design, Arts, images et Art contemporain, à l’Université Paris 8

Résumé :
Dans mon intervention, j’analyserai la corporalité japonaise vue dans une performance-vécu intitulée Nyotaku des points de vue esthétique, culturel et sociologique. Une compréhension très présente concernant les expressions artistiques et la conscience corporelle dans la performance met en lumière l’esthétique du corps en Asie en opposition avec celle de l’Occident. La corporalité asiatique souligne l’importance de l’intuition, du souffle et de l’énergie intérieure (气 ou Qi en chinois) car l’expression physique ne se limite pas à la maîtrise physique ou à la technique fondée sur les acquis théoriques tandis qu’en Occident le corps est discipliné, perfectionné et censé d’exprimer des acquis techniques et théoriques, afin d’accomplir ses enjeux artistiques. Cette simple explication s’appliquait historiquement à la comparaison de deux importantes œuvres dont le procédé semble « similaire » : Nyotaku de Shozo Shimamoto et Femme en bleu ou Anthropométries d’Yves Klein.
Shozo Shimamoto (1928-2013), un des fondateurs de Gutai (un mouvement artistique d’avant-garde japonais fondé en 1954), réalisa Nyotaku dans les années 1990. Il s’agit de l’empreinte des femmes nues sur un papier ou un tissu. Pour prendre cette empreinte du corps, ce sont les femmes-participantes nues qui se mettent volontairement dans l’encre noire. Nyotaku se compare à la célèbre performance d’Yves Klein (1928-1962), Femme en bleu, (1960), dans laquelle les femmes peintes en bleu sont sévèrement dirigées, voire instrumentalisées, par l’artiste lui-même dans tous les détails tant de leur posture de leurs mouvements. La différence entre ces deux œuvres est fondamentale pour refuser une hypothèse naïve : Nyotaku est une appropriation de Femme en bleu ou une variation japonaise du fait de leur approche semblant « similaire ». Leur présentation complétement différente témoigne également de leurs propres esthétiques sur la corporalité et les enjeux artistiques.
Dans cette présentation, à travers l’observation des travaux artistiques, notamment Nyotaku, je voudrais poser la question de la véritable signification des esthétiques et de la corporalité japonaise afin de mieux comprendre la phénoménologie du corps et des sciences cognitives dans l’expression artistique.

01/13/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.2

本記事は、12月28日および12月30日に大阪の日常避難所511において開催された、miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)です。講演前半においては、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flânerie »(そぞろ歩き)に関して、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索が主題となり、Robert Filiouや谷崎潤一郎、Francis Pongeらの思想からの引用を紹介しながら、考察を行ないました

講演会の後半では、このような制作の背景を踏まえた上で、具体的に作品とそのコンセプトを解説しながら、「モノの記憶」、「身体の記憶」、「物々交換」、「動物―植物ー無機物間のインタラクション」という主題について考察しました。

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Objets cultes 

« Culte »は、宗教的な「カルト」である以前に第一義的に、崇拝や敬愛を表す。Objets cultesはしたがって、モノに対する崇拝、あるいは注意を払われるべき物に関する一連のコレクションである。関心を向けるのは、我々が普段思いを寄せることすらほとんどない道具のくたびれた様子だとか、使用によってほころびた状態、人々のエネルギーが物体に何らかの変化をもたらした形跡や、時間の経過をそのヴォリュームに留めた数えきれない「オブジェ」たち。

たとえば摩耗しきったスコップや、人々の流れを記憶に留めるメトロの出口(最も人が通るドアの表示がすり減っている)、歩き方のクセが現れる靴の底や、画家が筆を洗い続けたことによって穴の空いた石けん。それらのオブジェは、何らかのエネルギーを受けて、変形したり摩耗したり本来の機能を失ったりしている。

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*「物々交換」の実践

« flânerie »(そぞろ歩き)の二つ目のシチュエーションに、se perdre(道に迷う)があった。宛もなく歩き、見知らぬ人に出会う。目的地への最短ルートを急ぐことと対極にある、彷徨い歩いて見知らぬ人々と出会って会話をするような行為。Objets cultesとしてコレクションされている物には、アーティストがオブジェの持ち主と交渉して物々交換した物が幾つも含まれている。アーティストは持ち主に、くたびれたオブジェを模倣して作ったレプリカあるいはオブジェの弱点を修正して作った補強されたレプリカとオブジェを交換してくれないかと提案するのだ。「物々交換」については、またの機会に焦点を当ててじっくりと考察してみたい。

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Expérience hasardeuse

偶然的体験は、化石や動物の骨の鋳型、絵の具の軌跡、動物の骨や奇妙な環境下に栽培された植物などを含む。このコレクションは、インスタレーションとして展示された。

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Chitine-kératine-céllulose

chitineは生き物の抜け殻を構成しており、kératineは髭や爪のような死んだ表皮細胞を構成している。アーティストは、蝉の抜け殻をコレクションした。蝉の種類にもよるが、一般に知られているように、蝉は成虫としては非常に短い期間だけを生き、それ以外の生の大半は、脱皮をしながら木の中で過ごす。アーティストはこれについて、木と蝉の一生のアナロジーを見いだし、インスタレーションとして展示した。また、2013年より三年間、12ヶ月ずつ髭を伸ばし続け、各年のケラチン質をラボラトリーで分析するために保存している。ケラチン質は、食生活や生活環境、ストレス状況など心身の状態を反映する他、金属(水銀、銅など)や放射能の影響を受けることが知られている。生の記憶が身体から切り離された形で、解読を待っている。

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cellule babélienne

“ alors que les hommes parlent plusieurs centaines de langues (en diminution avec le temps), le code génétique, le langage de la nature qui traduit les gènes en protéines, est le même partout. le langage génétique, fondé sur l’arn et l’adn, a émergé de la babel chimique des temps archéens.”

バベルの塔としての細胞は、デッサン、石彫刻など多様な作品形態をとりうる、バベルの塔という一つのコンセプトを共有する作品群である。人類は世界中で異なる言語を話すにもかかわらず、遺伝子のコード、つまりは塩基配列のパタンが基本構造となっている遺伝情報を翻訳する「自然の言語」は異なる言語を話す人々の間でも共通なのである。遺伝子言語は、RNAおよびDNAに基づいていて、それは太古から変わらない化学のバベルの塔を形成する。
lynn margulis et dorion sagan – “l’univers bactériel” – p.57. ed. albin michel 1986.

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デッサンは、50cm×60cmのものと、さらにカオティックで複雑なバベル的細胞の建造物を表した2m×1.5mの巨大なデッサンがある。石彫刻では、植物―動物ー無機物のインタラクションが象徴的あるいは物理的に実験されており、2015年より生き続け、現在も変化し続けている作品である。

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miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)をお読みくださって有難うございました。十分に言及できなかった「物々交換」や「禅」的思想と表現の関係については、また番外編で掲載したいと考えています。

フェイスブック、Twitterやブログを通じて、もしご質問やコメントがあればどんどん声をかけてくださいね。

最後に、今回企画を引き受けてくださった日常避難所511リーダーの田中さん、28日オーガナイズを中心にしてくださったみゆきちゃん、30日の段取りをたくさんしてくれた阿曽沼くん、またお料理や設営などたくさんお仕事をしてくださった皆々様、お越し下さった皆様、本当に有難うございました。 miki okubo & florian gadenne

florian gadenne :  http://floriangadennecom.over-blog.com
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01/11/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.1

miki okubo & florian gadenne

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12月28日および12月30日、大阪の日常避難所511において、miki okuboとflorian gadenneによるトークイベントを行ないました。講演において主題となったのは、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flâner »(そぞろ歩き)に関する考察、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索。

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flâner, flaneur, flanerie ぶらぶら歩く、そぞろ歩きをする人、そぞろ歩き。

今日の生産性を重視し時間を無駄にしない事を善しとする社会では、目的なくぶらぶら歩くことは否定的に捉えられる典型的な行為の一つでしょう。時間を無駄にしないために、予め目的地までのルートを調べ、交通手段を調べ、最短の乗り換えを調べ、インストラクションを遂行する。私たちの日常はそのような最短距離の目的地間移動によって構成されています。そぞろ歩きによって私たちは何をするのか。これについて、florian gadenneは3つのシチュエーションを見いだしています。

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FLÂNER, verbe intransitif.:ぶらぶら歩く、そぞろ歩きする (仏、他動詞)

Étymologie. et Histoire. :語源と歴史
1.1638 « paresser, perdre son temps » (D. Ferrand, La Muse normande, éd. A. Héron, t. 2, p. 177):ダラダラする、時間を無駄にする
2. 1808 « se promener sans hâte, au hasard » (Hautel).
« marcher, se précipiter étourdiment » (De Vries Anord.)
« se promener » (Falk-Torp, s.v. flane). :急ぐことなく散歩する、偶然に任せて歩く /焦らないで歩く

そぞろ歩きをめぐる3つのシチュエーション:
シチュエーション1 見知らぬ場所を発見する ー散歩、自分を取り囲んでいる環境の観察(表面上の観察→細部の観察)、ものの時間の経過による摩耗、しみやよごれ、あらゆる物が時間と空間においてどのように摩耗しくたびれるのか。

シチュエーション2 Flanerie(そぞろ歩き)は、perdre le temps(時間の無駄) ー現代社会において私たちは日々「時間を無駄にすべきでない」「時は金なり」といった強迫を生きているが、se perdre(道に迷う)ことを本質とする“そぞろ歩き”は、金銭を基準としないかつての物々交換に似た事なるechelle(価値観)に基づく。

シチュエーション3 このような “そぞろ歩き”の一つの結果は、環境(山、自然、都市)から探し集めて来た様々な物がごちゃごちゃと堆積するAtelier(アトリエ)の形をとりうる。動物の骨、すっかり乾燥した物体、死骸、泥の塊や出来事の軌跡を私たちに伝えるオブジェ。それらの集積は、意味を成し、詩的なヴィジョンを私たちに与える。

以下に、このそぞろ歩き的思考によって導かれる表現活動についての解釈、あるいは芸術行為と我々の生死についての考察を、幾つかのテクストを引用することを通じて表す。

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Notion de la participation:参加の概念
« La principale différence est que je ne suis pas un peintre qui à l’ aide de pigments va créer une peinture. J’utilise le lait et j’utilise le pollen ou la cire d’abeille, que je n’ai pas créé. Je participe aux plus belles choses dans le monde, que je ne pourrais jamais créer. Je ne pourrais jamais créer cette beauté du pollen. Donc, la tragédie pour moi serait si je tentais de faire une peinture de pollen. »
Wolfgang Laib

私は、絵の具の力をかりて、“peinture”(絵画)を作る“peintre”(画家)ではない。私は、牛乳や花粉や蜜蝋を使って描くがそれらは私が創り出したものではない。私は世界に存在するもっとも美しいものに“参加”しているのであり、それらを産み出しているのではない。例えば、花粉の美しさなどは私には到底作り得ないものだ。だから、もし私にとって最も悲劇的なことがあるとすればそれは、花粉の画料を産み出そうとすることであろう。
Wolfgang Laib

Signification de l’art:芸術について
« l’art c’est ce qui rend la vie plus intéressante que l’art »
Robert Filiou

芸術とは、芸術そのものよりも人生を興味深いものにしてくれる何かである。
Robert Filiou

mémoires du temps, ou effets du temps:オブジェの記憶
« effets du temps », voilà certes qui sonne bien, mais, à dire vrai, c’est le brillant que produit la crasse des mains. les chinois ont un mot pour cela, « le lustre de la main » ; les japonais disent « l’usure », le contact des mains au cours d’un long usage, leur frottement, toujours appliqué aux mêmes endroits, produit avec le temps une imprégnation grasse ; en d’autres termes, ce lustre est donc bien la “crasse des mains”. »
junichiro tanizaki – éloge de l’ombre.

われ/\は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳かげりのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる/\撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。
陰翳礼讃、谷崎潤一郎

égard et regards des objets:モノによる配慮、モノによる視線
« Nous ne sommes pas seuls ici. Nous sommes loin d’être entre nous. Permettez-moi, Mesdames et Messieurs, d’invoquer, en même temps que je vous invoque, toutes les choses présentes dans cette salle, ces choses à qui une fois de plus nous avons ôté leur silence, ces choses que nous traitons, que nous avons traitées jusqu’à présent avec la désinvolture et la brutalité coutumières à cette espèce de sauvages à leur égard que nous sommes.  Je ne sais pas si je me fais bien comprendre; je parle de ces murs, des lattes de ce parquet, je parle des clefs que vous avez dans vos poches, de tous ces objets qui nous ont accompagnés, et qui nous ont attendus ici, et qui sont ici avec nous, et qui doivent par force se taire – peut être à contrecœur – et dont nous ne tenons compte jamais, vous le savez, jamais. » 
                                             Francis Ponge, Méthodes, Tentative Orale, 1983, pp. 250-251. 

我々は全く持って我々自身で存在しているのではない。我々だけで自律してるのでもない。この部屋にあるあらゆるオブジェ(モノ)は、少なからず我々がその沈黙を破った事のある対象であり、我々が普段は習慣化から思うままに時には乱雑に扱ったり利用しているモノであると同時に、我々がモノたちの配慮の対象になっているとも言えるのである。例えば、壁や床の木の板、ポケットの中の鍵など。それらは我々と共にあり、沈黙するように強いられ(時には嫌々)、そして我々はその事実について盲目であり、絶対に知り得ないことなのである。
Francis Ponge

Le Zen, comme non-raison ou raison inopérante:非理性あるいは無益なものとしての禅
« Le Zen ne se saisit pas par la raison. Il est avant tout du côté du non sens, en affirmant la présence simultanée des contraires (ordre-désordre, vie-mort, nécessité-hasard, etc.). De cette manière, la pensée Zen est porteuse de paradoxes qu’elle dévoile constamment comme inopérant. » 
Ullrike Kasper – Écrire sur l’eau – L’esthétique de John Cage

禅とは、理性によって摑みとることのできないものである。それは何より先に、意味を成すものにあらず、今ここにある相反するものの存在を肯定する。例えば、秩序ー無秩序、生ー死、必然と偶然など。このように禅を考えたならば、禅とは、矛盾を孕んでおり、それ自体として役に立たないものである。
Ullrike Kasper 

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講演会では活発な質問や議論が行なわれ、参加していただいた皆様には非常に感謝しています。
次回の記事では、この前半の部分に続く講演会後半の作品紹介についての記事を掲載します。どうぞお楽しみに。

florian gadenne :  http://floriangadennecom.over-blog.com
miki okubo :  http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/

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09/13/16

un récit lucide d’une survie rituel

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expérimentation physique – isolation volontaire – tentation déshabituée

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sensation honnête – simulation naturelle – illusion réaliste

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mythe spatiale – rite animalier – prêtresse sonore

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peinture dynamique

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douleur extasiée

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intuition – soif – lucidité

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vide – cure – bonheur

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compréhensibilité réspirable – oxymoron inquiétante – pluralisme théâtral

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art mur – but simple – ouverture intelligente

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affection relative – sympathie cathartique – cycle répétitif

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nid – acte – vie

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images par miki okubo et florian gadenne (blog d’artiste)

tous droits réservés. toutes utilisations, reproductions sans accord des auteurs ne seront pas aimées

08/17/16

平等を主張し、自由を讃えるということ, Qu’est-ce que l’égalité? Qu’est-ce que la liberté?

10年ほど前に見た以来、忘れがたいイラストがある。
バーナード・ルドルフスキーの著書『みっともない身体』に掲載されていたイラストである。言わんとしていることは実にシンプルで、身体のどこを隠すか、何を恥ずかしいと感じるか、どのような服装が普通と認められるか、そんなことは全て文化によって決められており、我々はそれを当たり前として生きている、ということだ。

何の変哲もないテーズである。

我々は例えば20年前や10年前よりも、ルールのない世界に生きているような気がしているかもしれない。とりわけ私の生活環境であるこの土地では、毎年「テロ」が大きな事件を引き起こし、それらは報道が作る物語として定着し、定型化してさらに語られやすくなったキャッチフレーズは、誰もが口ずさめる流行歌のようにすり切れるまで反復され、認識はそのように、鋳型に収められていく。

自由の国であり、平等の国である。全ての民の人権を、尊重する国だそうだ。
男女は平等であり、異なる宗教を進行する民もまた平等である。肌の色の違う人民も、収入の異なる人々も、教育レベルの異なる人々もまた、同じ権利を持ち、同じように扱われるそうだ。

思うことがある。

果たして、髪の毛をむき出しに道を歩いたことのない人々が、それを露わにすることを強要されたり、膝下なぞ決して見せることなく覆っていた人々が突如そのふくらはぎや足首を露出して、その慣れない不格好な歩みを、誇らしげに闊歩する人々と並べられながらさらけ出さねばならないということを、自由と呼ぶことができようか。

果たして、肉体の露出を自由と信じる民を前に、肉体の不露出こそ自由であると解いたとき、それはあなたが洗脳されているのだとか、文化や教育によって現在そのようにしか思うことのできない不憫極まることだるとか説かれるとき、その人々は肉体を露出することを強要されており、それは実際には強烈に暴力的なことでもあるのだと、想像する想像力を、一方的に自由と平等を主張する民が持っているかどうかは定かでない。

そのように語るとき、全ては構造の中にあるということを、言い放つことは残念ながらできず、それでもなお、確かに不幸な状況の存在を認めることは、世界に幾つものケースがあると思われる。

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08/15/16

Redonne-lui une vie, もういちど球根が花を咲かせるか試すこと

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Redonne-lui une vie.
球根がもう一度花を咲かせるか試すということ。
それはすっかりカラカラになったヒヤシンスの球根がもういちど暫くの期間準備を行なって、水や空気の恩恵を受けながら再び芽吹くのかどうかを知ろうとすること。それを成すために行なわれる全てのオペーレションと、このカラカラになった球根がなるべきだった生というのは、命をコントロールする実験を行なう介入者がその介入を行なわなかったら、というパラレルワールドの中にしか思うことができない。あらゆる生は、動物的な生も、とりわけ我々の人間的な・社会的な・文化的な生も、我々が既に認識することから突き放されている数多くの異なる場合的世界の中で、「なるべく」過ぎていくことができているのかもしれないことを想像するのは自由だ。

Quand on fait n’importe quelle expérimentation: pensons que nous essayons de donner à une bulbe gravement séchée jusqu’à la perte de vie, quand nous voulons savoir si elle est capable de revivre encore l’année prochaine pousser, fleurir, grâce à l’aide de l’eau et de l’air du sol riche, tout en attendant l’éventuelle renaissance, il ne serait plus possible de visionner une vie « telle quelle », comme elle était sans intervention du pouvoir l’un ou l’autre, nous ne pourrions plus savoir comme cette bulbe séchée pose la fin de sa vie si toute opération extérieure ne la amenait pas vers une déviation proposée.  « La vie telle quelle » n’existe que dans un monde parallèle, un monde qui alors n’est pas choisi. Toutefois nous sommes tout à fait libre d’imaginer, soit sur la vie végétale soit sur la vie animale, notamment celle humaine, « la vie qui vit comme elle est destinée de nature », bien que nous soyons souvent forcés à nous éloigner de toute cognition humaine, sociale et culturelle, à propos de ce sujet.
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