Jeff Wall展, White Cube in London

White CubeというロンドンのギャラリーでJeff Wallの展覧会が開かれていたので訪れた。White Cubeはロンドンの中心に位置するギャラリーで、これまでも何度か訪れたことがあった。一見見逃しそうなパッサージュの中を進んでいくと、まさにホワイトキューブ!と誰もが確信するギャラリーに出会える。

Jeff Wallの写真は何度か自分の目で見たことがあるはずだ。しかしどこで何をどのように見たのか思い出せない。おそらくイギリスとフランスで見たのだろうと思うのだが、中途半端に作家の名前や作品を知った気になっているとしばしばこういった信じられないことが起こる。作品を直に目にする行為とカタログやデジタルイメージで得た経験が無意識に混同しているのはとてもコワいことだ。

 

私が個人的にJeff Wallという写真家の活動について興味を持ち、カタログなどを見たり批評を読んだりするようになったのは、アメリカ人の批評家であるマイケル•フリードが2005年のパリ近代美術館 »Cahier »においてJeff Wallの作品について論じているということを知ってからのことである。マイケル•フリードはクレメント•グリーンバーグのモダニズム美術論を継承し、1960年代のアメリカにおける抽象表現主義の流れにあったジャクソン•ポロックやフランク•ステラの絵画作品、そしてアンソニー•カロの彫刻作品を擁護してきた。その一方で、ドナルド•ジャッドやロバート•モリスといったミニマリズムの芸術を「演劇的な要素を含むもの」として激しく非難してきた。

マイケル•フリードのクラッシックな主張によれば、「演劇的なものは芸術を堕落させてしまう」。(『芸術と客体性』)(1967)ここで批判された演劇性とは、作品経験の際の鑑賞者の身体を巻き込んだ演劇セットのような作品展示のあり方と、その経験に強いられる時間制であった。さらに、作品経験の本質が鑑賞者と場が関係を結ぶことのみによって成立している点のことである。フリードの理論は1960年代から現在という長い長い時を経る中で積み上げられ、変化もしてきているので、私なぞが短時間で語りうることではないので、今回は、フリードが美術における演劇性を批判的に考えていたという一言でやめておき、Jeff Wallの作品の話に入りたい。

Jeff Wallの写真はコンストラクテッド•フォト(構成された写真)である。一見自然なシーンを撮影したようであるが、実は何時間も何週間も時間をかけてよくよく構成されて、さらにはデジタル処理をほどこされ、モンタージュされて出来上がった写真である。『演劇性』とは「演劇的な性質」という意味であることからすれば、スナップショットのように偶然性を追求する写真に対して、しばしば綿密に演出されて、合成されて、よくシナリオが熟考されて、大きなフォルマで提示されて鑑賞者を引き止めてしまうJeff Wallの作品は「演劇的な」写真なのではないかと思ってしまいがちだが、先に述べた当のマイケル•フリードはJeff Wallの作品を高く評価する。このことについては、また別の機会に『演劇性』の定義とともに考えてみたい。

とにもかくにも今回、White Cube Galleryで紹介されたJeff Wall作品は大きく二つのシリーズに分けられる。一つ目はギャラリーのファーストフロアに展示された巨大な風景写真シリーズ、Siclly 2007である。

 

Ossuary headstone, 2007

ドキュメンタリー•ピクチャーズにカテゴライズされるこの作品は、墓石を取り巻く世界が刻々と年を取っていく時の流れを物語的に描いており、墓というもののもつ物質的な非永遠性と人の死の永遠的な事実をいわば対置することにより、つよいコントラストで描き出しているようにもみえる。えんじ色のタイルは剥がれ、その底から緑の草が芽吹いている。ちょうど上の方に見える別の墓石には一時的でその場しのぎでしかない非常に美しい花々が飾られている様がみえる。

Hillside near Ragusa, 2007

こちらは非常に大きな画面で構成された作品であり、ずっと向こうまで続いていく坂の向こう側は見えないが一番高くなっているところまでですら、かなりの距離があるのがわかる。丘の方に見える細かな石や手前に点々とした草花のひとつひとつが息をのむほどはっきりと写し取られている。

 

もう一つのシリーズは、New photographesというシリーズからの出品だ。あたかも日常生活における一コマを切り取ったようなシーン選択であるが、実は隅々まで綿密に計算され、演出され、準備され、合成されている。こちらからの作品を3つほど見てみよう。

Ivan Sayers, costume historian, lectures at the University Women's Club, 2009

1910年モノのイギリスの伝統的なドレスを身にまとった女性。写真はその瞬間に行われた出来事、その瞬間にそこに存在したものを記憶するが、この作品において、写真は過去と現在の間で混乱している。綿密なまでに過去の演出を施された現代写真は、もしそれが見抜けぬまでに完璧な出来映えで過去のものとして提示されたとき、一体何者になりうるだろうか。

Boy falls from tree, 2010

私がもっとも長い時間ぼーっと眺めていた作品がこちらだ。少年が木から落ちる、という作品名であり、その通り一人の少年が木から大胆に落ちている瞬間を劇的に記録した……というはずもなく、巧みに練られ、洗練された合成写真である。これを目にして考えていたことは、偶然の瞬間に潜む美を熱心に追求することで芸術活動を行っている写真家と、Jeff Wallのように計算され尽くした構成で物語を写し取っていく写真家の手法の違いについてである。前者の写真家が風景を撮影する写真家には圧倒的に多いのではないかと思うが、つまり、最高のオーロラの写真を撮るために何時間も何日もその待ちに待った瞬間を狙っている写真家がいる一方で、念入りに画面を構成し、イメージを合成し、色彩に手を加えてしまう写真家がいる。彼らはもちろん同じレースを走っているわけではないあまりに異なる手法を持っているが、普段我々が芸術を「作品」という単に我々の目の前に提示される結果として認識し、鑑賞していることを鑑みれば、このことは十分に興味深い違いであろう。

Boxing, 2011

さいごに、ボクシングをする少年を表現したこの作品もConstructed Photographesである。二人の少年の腕や身体のポジションはたしかに「本当の動き」という文脈を微妙に逸脱し、切り取られたかのようであり、不思議な印象を受ける。この印象が魅力でもあり、Jeff Wall作品の面白さなのだろうと感じる。

この展覧会は、2011年11月23日から2012年1月7日まで、ロンドンのWhite Cube Galleryにて開催された。すべての作品イメージは以下ギャラリーサイトからお借りした。

White Cube Gallery

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