日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。part1

かれこれ2週間も経ってしまった。2つ前のポストで(here!)、あるいはblog de mimiにおいても、日本記号学会第32回大会について宣伝させていただき、発表要旨も掲載させていただいた。そんなわけで、日本へは5月11日の午前中に到着し、その日一日は、時間がないなりに最大限楽しもう!と、京都国立近代美術館にて村上知義の「すべての僕が沸騰するー村上知義の宇宙ー」展を訪れ、その足で引き続き、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAの展覧会を訪れた。12日お昼から学会の総会、セッション、パフォーマンスという一日目のプログラムが始まる。事前調査では、関西は暖かい予想で比較的薄着しか持ってきておらず、この日はかなり寒い目に遭った気がする。ファッションをテーマにした学会なのに、色のごちゃ混ぜもありえない重ね着も寛容するしかないほどに、寒かったことには参った。

セッションの前に、実行委員長の小野原教子さんから挨拶があった。小野原さんとは、数年前にスペインのコルーニャで国際記号学会のセッションでご一緒して以来、彼女がロンドンにいらっしゃった際にパリから訪れてお世話になるなど仲良くしていただいている。小野原さんらしい、衣服を纏うことと記号学へのパッションに溢れる素晴らしい挨拶にとても感動した。

一日目のセッションは「(人を)着る(という)こと」というテーマで、人が衣服を着るあるいは脱ぐというのはどういうことなのか、あるいはそもそも人は完全にまとっているものを脱ぎきって、裸になることができるのか、という纏う行為そのものの定義を揺さぶるような興味深い着眼点だった。このことは、もちろん、2日目の最後に行われた、鷲田先生と吉岡先生の対談「〈脱ぐこと〉の哲学と美学」の中で議論された内容にも関わる。つまり、人が裸になるとはいかなることか、完全なる裸になることは本質的に可能なのか、身体にまとわりつく沢山の意味から一体人は自由になることができるのか、といった問題だ。

2日目の最後、学会を締めくくる対談の中で、吉岡先生は〈脱ぐこと〉に関わる幾つかのパフォーマンスや作品を紹介された。島本昭三の女拓写真、あるいは高嶺格のワークショップで参加者の女性が実現した裸写真もそのうちのひとつだ。

私がとりわけ興味深く聞かせていただいたのは、1960年代から数あるハプニング作品の中で、先生がおっしゃったように人々は脱ぎまくっていたわけだけれど、その中の幾つかの作品においては、たしかに、身体が見たこともない、あるいは別の存在として提示され、その瞬間、私達は普段「裸」の身体をみつめるのとは全く異なる視線でこれを見つめる。まさにこの時、身体はひょっとして、生まれてから死ぬまでこれをがんじがらめにする多重の意味のネットから解放されて、「真の裸の美」みたいなものとして現れるんじゃないか、という話だ。(ひょっとしたらそういう話じゃないかもしれないが、私はそのようなコンテクストで理解した。)

お話を聞きながらずっと、意味の異化とは何か、ということを考えていた。見慣れていないもの、見たことがないようなもの、ありきたりのものがびっくりするような仕方で提示される時、たしかに、普段私達が馴染んでいる「意味」を脱いでいるのだろう。その一方で、見たことがない新しいイメージもまた、完全にニュートラルであるということはなくて、おそらく別の一つの「意味」をまとっているのだろう。女拓は見たことがないという点で明瞭な意味を与えるのが非常に困難だが、美術家の語る言葉や見る人の反響、個人的な印象といった様々な要素がからみ合って、曖昧な意味を構成していくだろう。こう考えてみると、ひょっとして意味を脱ぐことなんか決してできないんじゃないか、と思えてくる。

いや、ちょっと待って。意味と意味の隙間には何があるか。2つの隣りあう意味と意味の隙間とは、異なるものの間であるのだから、必然的に「空虚」な部分がある。一つの意味からもう一つの意味に着替えるとき、やはり一瞬でも意味のない瞬間がある。なぜかわからないが、こんなことを考えていたら、子供の頃見ていたTVアニメ、セーラームーンで月野うさぎが変身するシーンが頭に浮かんだ。月野うさぎは「ドジで泣き虫な普通の中学生」だが、街に妖魔が現れると人々を守るために「愛と正義の美少女戦士セーラームーン」に変身する。問題はこの変身シーンだ。彼女たちが変身するのは危機に際してであるので、言うまでもなくアニメで30秒近くにわたって描かれるこの出来事は瞬時に完了する事象の引き伸ばしである。変身の間、コスチュームとアイテムが順序良く装着され終わるまで、彼女の身体はなんと輪郭線だけで表現されている。輪郭線の中の彼女の身体はレインボーカラーでベタ塗りされていて、そこには何もない。(変身シーンを御覧ください。here!) この瞬間の少女の身体は月野うさぎでもセーラームーンでもなく、さらに言えば、何者でもなく、存在ですらないかもしれない様態だ。

おそらく、人は意味を脱ぐことができる。脱ぎっぱなしでいることはできないけれども、瞬間的に、意味を着替える瞬間に、私達は気が付かずともいちいち自己をリフレッシュすることができているのではないだろうか。私にとっての意味をまとう身体イメージは、十二単のようなものではなく、ヒーローの変身シーンのようなものである。

さて、新聞女の西沢みゆきさんのパフォーマンスはとても面白かった。参加者全員を巻き込むパワフルなパフォーマンスの場に居合わせたのは初めてのことだった。室井先生も吉岡先生も(吉岡先生は更なるオプション付きで)、一緒にパフォーマンスを見ていた楠本さんも、新聞だらけになった。彼女はパフォーマンスを始める前、アートがいかに人を幸せにするものであるべきかを語った。彼女の語った言葉と表現行為の力強さと裏付けのあるポジティブなエネルギーに感銘を受けた。

アートに限らず、人が人を巻き込んで何かをしようとするとき、それはポジティブなエネルギーに満ちていることが素敵だ。それも強い願いや信念によって貫かれているならなお素敵だ。私がこれからたくさんの人達と成していくであろう活動もまた、誰かが元気になるエネルギーを生み出すことに貢献していけたらいい。

パート2もお楽しみに!
(二日目のセッション、個人の発表について)

実行委員長の小野原さんと会長の吉岡先生(イヴェント後の。)

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