生を演じるのか、それとも生きるのか。/ jouer la vie? ou vivre la vie?

今日は、先日アール•ブリュットに関して7枚組のデッサンを紹介した際にもちらりとお話しした、Galerie Christian Berst (Paris)にて2011年12月13日の19時に開催された講演会のテーマ「アール•ブリュットは現代アートのなかに溶解することができるのか?」(« L’art brut est-il soluble dans l’art contemporain? »)
について、スピーカーとして招待されていたクリスティアン•ボルタンスキーの発言をキーワードにしながら、少し深く考察してみたい。

アール•ブリュットは、今日芸術の一ジャンルとして注目を集めているが、何をどのようにアール•ブリュットのカテゴリーに分類するかはそうはっきりした境界線が無い。またの名を「アウトサイダー•アート」という通り、一般的に、型にはまった芸術教育やトレーニングをキャリアに持たない独学の芸術家をこれに当てはめてみたり、あるいは、精神疾患を持つ患者の独創的な制作行為というものもこれに分類されることがある。しかし、この講演では、近年盛んにもてはやされることになった新しいカテゴリーの確立自体が曖昧さを含むものだという点で議論が展開された。

ボルタンスキーが初めて自分自身の制作行為と「アウトサイダーなるもの」との結びつきを意識することになったのは1972年に遡るという。ただし、当時の意味されたものは現代のそれとは大きく異なる。芸術家が別個に個人的な神話を独自の方法で表現したり、ボディ•アートという斬新な方法がとられ、これまでの枠から逸脱する形で多くの芸術家が新しいパフォーマンスの形や表現様式を模索していた時代である。この背景からすれば、アウトサイダーは、これまでの規範を壊し、新しい「規則」/règleを芸術領域の中に造りだそうとする「よそもの」であった。したがって「アウトサイダー」はあくまでも芸術の外側あるいは境界に侵入しようとしていたのであり、カテゴリーではあり得なかったのである。

ボルタンスキーはアウトサイダー•アートとも芸術一般とも明言すること無く、芸術表現行為がひとつのユートピアを表象することが本質であると続ける。ただ芸術教育を受けた者が規範に従いながらユートピアを作ったならば、これはいわゆる「芸術」と呼ばれるが、たとえば芸術の素人や子ども、プリミティブな人々が日常的な行為の一環として、造形を通じた表現行為によってユートピアを実現したのなら、それはしばしば「アウトサイダー•アート」として命名され、そうでなければ「遊び」と命名されるのではないだろうか。このことは非常に重要で、そもそも「遊ぶ/jouer」ことは表現行為を成り立たせる欲望の本質である。この「遊び/jeux」の結果がユートピアの確立であり、それをしばしば「芸術」とよび、またあるときは名付けられることも無い。これら二つの結果を隔てる境界線が何かを考えるならば、それは表現者のキャリアの背後にある芸術教育の有無ということになってしまう。

これらをふまえた上で、この「よそ者(アウトサイダー)」と「芸術」はシステム上あたかも明確に隔てられているようだが、実際に作品のクオリティーや表現されたユートピアの性質を目にしたとき、これを二分するのは決して簡単ではない。カテゴリーとして明確に定義するのが難しいのも理解できよう。さらに、展示の方法が多様化し、「芸術=美術館で展示されている作品」という等式が過去のものとなった今日においてはこれらを発表方法において区別することも不適である。

「演じながら生きるのか、生きるために生きるのか/jouer la vie, vivre la vie」
ボルタンスキーによれば、芸術家として生きることによって、人生を演じるために生きることができるという。例えば自らの不幸を、不幸な私という作品の形にして発表し、人々に鑑賞してもらうことによって、自分の不幸をリアルなものから、あたかも演じるべきシナリオへと変貌させ、芸術家である自分自身はそのシナリオを人生というフィルムにおいて演じながら生きていくことができると彼は述べる。彼はまた、ルイーズ•ブルジョワや他の芸術家において、自己の精神的な苦痛や辛い記憶を同様のプロセスによって昇華させる方法としての表現行為の例を引用しながら、アウトサイダー•アートというカテゴリーの適切性を一度無に帰す形で、必要不可欠な行為としての制作が芸術表現であると断言する。

彼が述べた芸術表現の本質は、アートセラピーと呼ばれる精神疾患を抱えた人々が受ける治療とほぼ同じプロセスとゴールを持っている。今回テーマとして取り上げた、アール•ブリュットのカテゴリーの問題、あるいはアマチュアの表現行為を芸術とどのように関係づけるかという問題は、曖昧さを含むゆえか、とても興味深い。この講演では、「遊び」の問題をはじめ、幾つもの考察すべき重要なテーマがちりばめられていた。それらに関してもまた折りをみて考えてみたい。

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