03/17/15

chercher le garçon MAC VAL /展覧会「少年をさがせ」

Chercher le garçon
MAC VAL
7 mars – 30 août 2015
Commissariat : Frank Lamy
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MAC VAL の今回の企画展が「100人の男性アーティストの展覧会」だというのは、2009年にCentre Pompidouで行なわれた展覧会《ELLES》が200人の女性アーティストを集めた展覧会であったのを意識し、今度はそのカウンターとして男性性の再定義を試みる展覧会を行なおうとしたのだろうと思う。今日の世界で、男性性を再定義する…。最初の問いは、今日、男性性の再定義が必要なのか?である。このことは、例えば、後に紹介するし別の記事でもとりわけ論じようと思っているSteven Cohenのパフォーマンスなどを通じて、問わざるを得ないことが明らかになる。この展覧会の特徴は、男性性を問いながらも別の様々な社会問題と精神的問題、さらには一定の方法で政治問題にも鑑賞者の目を向けさせることを意図している。
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Saint Titre 2009, David Ancelin

Emilio Lopez-Mencheroはベルギー生まれのアーティストである。Trying to be Cindy(2010)は、1950-60年代のステレオタイプなアメリカ社会の女性表象に問いかけたシンディー・シャーマンの有名な作品のパロディである。この作家は、ピカソやフリーダ・カルロといった人物に成りすます作品も制作しており、男性的な顔や肉体をもつEmilio Lopez-Mencheroがシンディー・シャーマンの画面にあてはめられることによって、アイデンティティの問題に訴えかける。
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日本人現代美術家の森村泰昌の手法もEmilio Lopez-Mencheroと共通項を持つ。ブリジッド・バルドーに扮したアーティストは、明るすぎる光の中で、Emilio Lopez-Mencheroがしたのとは異なる方法で、対象のイコンをすり替えようとしている。
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John Coplansは2003年に亡くなったニューヨークを拠点に活動したアーティストだ。本作品は1993年のものである。拡大され過ぎて、毛穴も毛も皮膚のやや乾燥した質感も、ホクロも全てがさらけ出された脚のプロフィール。この写真は、どれだけ拡大して部分だけが提示されても、他には何の個人を特定するアイデンティティや全体のイメージがなくても、それが女性の肉体ではなく、男性の肉体であるということが分かってしまう。肉体の性的アイデンティティは、それが明確な差異と認められる性器などでないとしても、一部を認めるだけで、いとも簡単に識別できるほど、時には明らかなものである。そうかと思えばそれは別のコンテクストでは揺るがされて、識別不能に陥ることすらある掴みにくいものだ。
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Florent Matteiは1970年ニース生まれの写真家である。シリーズ《The World is Perfect》(2000-2001)では、ゴージャスなホテルで過ごす一組のカップルのある意味理想的で典型的なイメージを構成する。念入りに組み立てられた画面は、ステレオタイプな豪奢や愛のイメージに忠実にしたがっているものの、どこか重要な場所がすり替えられたりこわされたりすることによって、滑稽なイメージとして作り直される。なぜ小柄な男性の腰を後ろから抱く大きな女性という構図が違和感を想起させるのだろう。それは、我々がいかに日頃典型的イメージを刷り込まれているかを明らかにするばかりである。
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Denis Dailleuxのシリーズ《Mère et Fils》(母と息子)は、また異なる男性性の物語を我々に伝える。母と息子の結びつき、母の絶対的な愛とそれを受けた息子の母との関係性は、それぞれの写真を見ても人目で分かる、異なる歴史と物語がある。Denis Dailleuxは、このシリーズをカイロで撮り始め、のち、ガーナとブラジルでも撮影している。モデルとなるのはボディビルダーの息子とその母親である。磨き上げられたボディビルダーの肉体はおそらく、非常に「男らしい」はずであり、それは女である母親が彼らを産んだにも関わらず似ても似つかない形をしている。だが、その男性性の象徴であるようなボディビルダーの肉体もまた、何らかの成り行きによって創り出されたものなのだ。ボディビルダーのうちの一人が言う。「母親は自分の一部だ。子供の時学校でいじめられていた。そのとき、身体を鍛えなさい、自分を守れるように筋肉をつけなさい、と言ったのは母親だった」、と。男性性は産んだ子を守ろうとする女性性によっても創られることができる。
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子供が書いたような筆致で描かれたネオン、《Now I wanna be a Good Boy》(いい子になりたい)は、Claude Lévêqueの作品である。Claude Lévêqueは、ネオンという一般に街頭広告に用いるメディアを、個人的な声明やアイデンティティに関する問いなど、まったく異なる目的に使用することによって、その親密な問いを明るみに出す。いい子にならなければならない、子供時代に受け続けるそんなプレッシャーは、皆の目に触れるネオンとなることによって、異化されるだろうか。
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Steven Cohenは南アフリカ共和国生まれのアーティストで、ホモセクシュアル、ドラグクイーンである。2013年9月10日、トロカデロの人権広場にてパフォーマンスCOQを行なった。人権広場というのは、エッフェル塔をセーヌ川を挟んで臨むのに最適な観光スポットとして、いつも観光客で溢れている。15センチはあるのではないかというハイヒールに下半身を殆ど露出した白いコスチュームで、自らの性器にリボンを巻き、そのリボンは一羽の立派な鶏に結ばれている奇妙な姿で、悠々と観光客の前に登場し、エッフェル塔をバックにダンスする。人権広場は歴史的に、人々がありのままに存在する自由、それがホモセクシュアルであれ、外国人であれ、宗教を異にし、ドラグクイーンでも、人権を認められるべき空間である。そこで、Steven Cohenは下半身をほぼ露出し、性器をリボンで飾り立てたような格好で登場し、約10分ほどすると、二人の警官によって捉えられた。Steven Cohenの対峙したものは大きい。それは彼自身のセクシュアリティのみならず、民族や政治の問題に及んだのだから。
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このSteven Cohenのパフォーマンスの意味については次回のエッセイでより発展させたいと思う。

展覧会《Chercher le garçon》(少年をさがせ)は、男性性の再定義よりもむしろ、男性性のあり方の発見をアーティストの研究成果として見せる機会だったのかもしれない。

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