音楽とか植物とか、今日を生きることや書くこと

11月13日の事件が起こってから、初めて、生活を、前のめりのままじゃなくて、ああ今日は日曜日だなと思って部屋を掃除して仕事をなるべくしないで、やりたいことをたくさんして美味しいワインを飲んで、選挙速報をテレビで観て、百合が咲いたのを愛でて、今度練習するグリエールのホルン協奏曲を3回聴いて、やんなきゃいけなかったのにやってなかったたくさんのことなどを思い出した。

多くの人がそうだったように、なんだかどうしたの?ってくらい過活動に、社交的に、敢えて外で生活し、顔を出したり、走り回ったり、やけっぱちではないかというほど元気に、なぜですかというほどポジティブに、笑顔で毎日を、過ごしているのだ。

今日と言う日が今日までしかないかもしれないと、改めて理解することは、刹那的で快楽的な人生を賞賛するしないに関わらず、とにかく生きることがむしろとても楽しくなった。こどもの頃から大人になってもいつもいつも、明日より明後日、今年よりも来年のために生きているような心地で生活してきたように思い出すのだが、今日私は今日のために、ただ今日を生きているのが楽しいと、その本当の印象を奇妙で仕方なく感じながらもなんの苦もなく受け入れている。

教えているクラスの学生が、百合の花束を抱えてやってきて、百合の花ができればたくさんの人と良い時間を共有したほうがうれしいので、自分は四本だけを持って帰って、とってあったできるだけよいワインのボトルに水を入れて、さした。午後ホルンアンサンブルに出かけている間に一輪目が咲いて、今まさに二輪目がすこしずつその大きな花弁をそらせている。

この9月下旬からの二ヶ月半くらいの間、ほとんど毎日ホルンを練習した。目的もなく、見返りもなく、義務もなく、14歳になろうとしている楽器は、これまで一度も聴いたことのない楽器全体をもって音が響くようになり、私は初めてなんの心配もせず、疲弊する心配や曲の終わりに最善の状態でない心配やもう一度頭から通せない心配なんかをせず、誰にも噓をつかないで吹くのが楽しい。結果は明らかだ。ただし、これは一時的な幸福なコンディションだということは分かっていて、それでもそんなわけわからん音楽月間が得られたことは幸せ以外の何者でもない。生きてる間にもう二度とそんなチャンス訪れなかったとしても、それでもとてもとても有難い。

疲れている人やあたふたしている人がたくさんいて、怒っている人やどうしようもなくなっている人、ここぞとばかりに足元を見る人や超悪趣味なブラックジョークを終わりなく言う人、突然言い争いを始める人は多いし、会話の行方には十分すぎる注意が必要。

今までも全てのソーシャルメディアやケータイ電話を完全放棄するという実現しない夢を何度もみたけど、とりわけ事件後のディスコースの壁は心に響く。この国においてどうせ自分は外国人であるのだが母国語で書かれた大方の考えや主張にもほとんど心を寄せることができなかった。そこにあったのは、ここに長く居過ぎてしまったという喜びにも絶望にも似た感覚と、祖国で議論され支持もされているらしきディスコースへの強烈な違和感。

言葉を失ったフリをしたり、書くことを忘れたフリをするのも限界があって、私はやはり書くことを必要としていて、こういったことでなくてたとえば、走り回って参加しまくった研究集会のこととか、展覧会のこととか演奏会のこととか、作品のこととか、そしてやはり考えていることとか、誰かと一緒に書くこととか、そのような書き物を、せずに過ごすことはできない。

私がこんなことを綴っている間にも百合はさらに咲き、植物は明日の陽射しを待っているのかとかもうすぐたぶんウチにやって来るヒヤシンスの球根の膨らんでいることとか、クラシュラの葉のうらがわがなんとなく厚みを増していることなどを、想えるのがとても幸せである。

今日という日を生きるのを嬉しいというおめでたい錯覚みたいなものを、あたかも本当のお話であるかのようにして生きられたら、それがどこでもできたら、と。

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