08/26/13

Mike Kelley @Galerie Sud, Pompidou / マイク•ケリー @ポンピドー

MIke KELLEY
2 mai 2013 – 5 août 2013
Galerie sud – Centre Pompidou, Paris

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Mike Kelly マイク•ケリーは、アメリカの現代美術家である。1954年にデトロイトで生まれた。1976年、ロサンゼルスのCalArts(California Institue of the Arts、カリフォルニア芸術大学:実験的で前衛的なアプローチとJohnMaldessariやLaurie Andersonなどの教員がおり、国際的に高い評価がある)にて学ぶ。また、カウンター•カルチャーの精神に基づき、パンクやパフォーマンスアートに興味を持つ。1977年、トニー・アウスラー(Tony Ousler)とThe Poeticsというグループを立ち上げる。1980年代以降、ぬいぐるみを利用したオブジェとインスタレーション、その後ビデオ作品で著名になり、ドクメンタ10(Documenta10, Kassel)に出展する。日本では、1996年には東京のワコウ・ワークス・オブ・アートで個展(新作展)が開催されたほか、2008年には横浜トリエンナーレにも招かれ、トニー・アウスラー(Tony Ousler)とのコラボレートによるインスタレーション The Poetics Projectを発表した。2000年代末以降Kandor 15(スーパーマンの空想都市)に関する作品を精力的に制作し続け、昨年、2012年1月、ロサンゼルスで57歳で亡くなった。

from Tony Oursler, The Poetics Project, 1977-1997

from Tony Oursler, The Poetics Project, 1977-1997

マイク•ケリーの表現手段は多様だった。彼のラディカルで時にスキャンダルであった表現はしばしば、彼なりの哲学的考察や心理学的な問い、文化的博識であったことに基づく。デッサン、絵画、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス、オブジェやビデオ作品。そこに散りばめられたエッセンスははっきりとそれがマイク•ケリーのものと同定できる印象を与えながらも、一義的説明を拒絶するように、それらは混沌として立ち現れる。大衆文化と対抗文化が入り交じる。社会をブラックユーモアを通じて描き出す。子どもの世界におけるタブー、そして、セクシュアリティにおけるタブー、あるいは、既存の学校教育への強烈なアイロニー。記憶の片隅にあるトラウマ、抑圧された想い出は、断片化されて、文脈も秩序もなく提示される。それらはおそらく「不気味なもの」(Das Unheimliche)と呼ぶにふさわしい。なぜ人々は、彼が1980年代以降しきりに制作し始めた、使い古しのぬいぐるみをつかったオブジェやインスタレーションを、「フェティッシュ」あるいは倫理に反するといって批判したのか。その声は90年代にはスキャンダラスなまでに高まったのだ。ひとまずは、タブーを扱い続けるマイク•ケリーの表現に対して、目を当てることの出来ない偽善的市民の正直な声であったと言っても良いだろう。偽善的市民と言ったのは、現代社会がそれまでの社会とは異なるフェーズに直面していることを知っているにも関わらず、彼らの子どもを取り巻く世界に、まるでこれまで通りのルールが通用するかのように、それを押し付けたのが彼らだからである。しかし、彼らが血眼になってマイク•ケリーをバッシングした本当の理由は、隠すことによって噓の心の平安を得ていた「ひずみ」を彼がつぎつぎに浮き彫りにすることを恐れたからだ。その「ひずみ」は、彼らが子どもに見せたくなかったものでもあり、彼ら自身が子どもであった時分に親との関係の中で「タブー」として必死に見てみない振りをしてきたものだったのだ。人々は「不気味なもの」を恐れる。

Extracurricular Activity Projective Reconstruction #25 (Devil's Door), 2004-2005

Extracurricular Activity Projective Reconstruction #25 (Devil’s Door), 2004-2005

さて、本展覧会は大規模な回顧展であり、2012年に死んだアーティストに代わって、必ずしも時間軸を真っすぐ辿るのではなく、彼が関心を示したトピックに沿って、7つの章に分かれている。

-The langage of object/LES LANGAGES DES OBJETS
-A composite work/UNE OEUVRE COMPOSITE
-Rehabilitating « minor » histories/RÉHABILITER LES HISTOIRES « MINEURES »
-Of stuffed animals and men/DES PELUCHES ET DES HOMMES
-Education and ordinary traumas/EDUCATION ET TRAUMATISMES ORDINAIRES
-Energy and the formless/L’ÉNERGIE ET L’INFORME
-Representing the unrepresentable : Kandors/REPRÉSENTER L’IRREPRÉSENTABLE:KANDORS

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ぬいぐるみを使って作品を作る作家といえば、ルイーズ•ブルジョワやアネット•メサジェを思い出す。あるいはポール•マーキュリーの大きなぬいぐるみを思い出すかもしれない。ルイーズ•ブルジョワの作るぬいぐるみは、既製品のぬいぐるみを使っているのではなく、つぎはぎしながら最終的には大きな人間のボディに到達している点で、グロテスクな「人形」というべきものですらある。それを介して表現されるのは、セクシュアリティの問題であり、人間の生殖と誕生に関わることだ。あるいは、アネット•メサジェにおけるぬいぐるみは、擬人化されて、人間の記憶に関わるものとして提示されたり、個体を代替するものとして提示される。それらは可愛いオブジェとしてのぬいぐるみという存在から別の文脈に連れて行かれ、不穏な世界にいる。しばしば、ぬいぐるみは分断され、頭や腕、胴体に切り離されてしまったり、動物の剥製にぬいぐるみの頭部を持つか、ぬいぐるみの身体にロボットとしての部分を持つなど、それらは生き物としての境界を揺さぶるように、そこにいる。

Mike Kelley, Ahh… Youth!, 1991

Mike Kelley, Ahh… Youth!, 1991

マイク•ケリーにおけるぬいぐるみも、アネット•メサジェと同じではないにせよ、生物と非生物の意味を問いかけるような作品がある。 Ahh… Youth! (1991)では、8枚の写真がポートレイト風に並べられており、7枚はぬいぐるみで1枚が人である。ぬいぐるみはそれぞれ、古めかしく部分が壊れ、目が片方ないなどの憐れな姿を晒しており、それは彼らの遺影とすら言えるものである。右上の若い男は、思春期のころの繊細で若かったマイク•ケリー本人で、これも1991年当時もはや世界には存在しなかった過去の自己である。ここでは、ボロボロになって葬られるものとしての8枚の写真が、一見ポップで可愛らしく提示されるのだが、その様子はやはり不穏なものだ。一人人間であるマイク•ケリーはなんの違和感もなく捨てられる使い古しのぬいぐるみの中と共存し、画面は限りなく均一化されている。

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また、ぬいぐるみは多数合わさって人間の大きなボディになることもできるし、二つの頭部を持ったり、合体することができる。壁に立てかけられたぬいぐるみの集合は、お腹の中に収めるべきものを構成していたのだが、それらは全体として一つの個体に統合されているようで、内部において崩壊を始める。大きな蛇が導くのに付き従って、それらは母体を破壊しながら外の世界へ出てゆく。両性具有あるいは性倒錯のイメージも、マイク•ケリーが繰り返したテーマのひとつだ。デッサンにおいて、女性らしい身体には男性器があり、向かい合う男性らしい身体にはそれを受け入れる女性器が用意されている。倒錯や交換は、ここでも、差異の無化とヒエラルキーの均一化の手段である。

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オブジェの集合を埋め込んだ絵画は記憶の集合である。物には記憶がある。人が物に想い出を持っていることは、物が記憶することと同義だ。画面を眺めれば、誰もがどこかで目にしたことのあるような小さな物を発見する。マイク•ケリーは、教育の問題を語りながらしばしば、「自分自身が、自分固有のものと信じている文化的背景や個人的な記憶は、他の人間のそれとたいしてかわらない」ことを指摘する。「わたしの想い出」と信じているものは、しばしば、映画や雑誌、流行っている本だとか文化を共有する人が皆共通に持っている知識に由来している。それは所詮、そういったモデルにあわせて鋳造されたものでしかないのだ。それゆえ、マイク•ケリーの作るオブジェの集合は常に、純粋な個の記憶など存在せず、それが集合的な記憶であるというメッセージを発している。

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人々が彼の仕事によって気分を害したり、何やら良くないものと感じて遠ざけたり、あるいは批判したり、恐れるのは、つまりはそれがあなたにも関わる記憶のことに触れているためだ。あなた自身が見て見ぬ振りをしていること、忘れようとして、それが上手くいったはずの子どもの頃の心傷、考えても仕方ないものと納得してきたつもりであった様々な矛盾、露にすることは無益に思えて抑圧してきた心の隅にある欲望。それらを敢えて蒸し返したくはないからだ。マイク•ケリーは57歳の若さで死んだが、彼の思惑は、多岐にわたる表現にカムフラージュされて矛盾に満ちているかのように語られる一方で、非常に明確であったと考えられる。他によって、明るみに出すことの出来ない問題をそれによって露呈する試みを続けることこそ、アートの存在意義であると私は信じる。

Kandor 2B, 2011

Kandor 2B, 2011

04/7/13

The Fragile, Louise Bourgeois / ルイーズ•ブルジョワ 『The Fragile』

The Fragile, Louise Bourgeois / ルイーズ•ブルジョワ 『The Fragile』

MoMA
Inside / Out, The making of Louise Bourgeois’s The Fragile

installation

初めて訪れたニューヨーク近代美術館(MoMA)で、未だかつて見たことのないとても素敵な絵を見つけた。2010年に98歳で亡くなったパリ生まれのアメリカアーティスト、ルイーズ•ブルジョワのThe Fragilesという一連のシリーズである。スペースの壁に展示されていたのは36枚のドローイング。青や水色で描かれた女性の身体。それらはある時は妊娠し、あるいはその胸を我々に向かって解放する。またある時は、かの有名な蜘蛛の姿になって紙の上を滑らかにうごめく。彼女の作品の幾つかを知っていれば、一目見て「ブルジョワの作品」と気づかないわけにはいかないほど、明確に一貫し、繰り返されるライン上に位置する作品であると言える。しかし、なぜだか、以前のこのような作品とは全く似つかない予感をこれらのドローイングは隠している。

ルイーズ•ブルジョワは、嫌われたり愛されたりするのに、ややハッキリしすぎる。しかしその方法は、上述した「一貫し、繰り返されるライン」によって固定化されるブルジョワ的世界観に囚われているだけなのだ。グロテスクなもの、不安をかき立てるもの、女性性の歪められた表象、男性性への恐れと憎しみ、生きることの痛みのある意味での物質化…。これらは確かに、分かりやすく理解可能な説明だが、その過剰に明解な定型文たちはぐるぐると同心円を描いて軌道を回り続け、そこには抜け穴も逸脱の可能性も、ない。わたしがこの素敵な絵を見て感じたことは、むしろ、それらの化石のような理解可能な説明とは無関係に、ブルジョワは世界に生きているということだった。「ラディカルに」しかしひたすら同じことを繰り返すアーティストは、これらを描いた95歳のその時も絶えず生きて、彼女の内部が変わり続けていたということに他ならなかった。このことをもう少し具体的に述べてみたい。

突然だが、何の悪意もなくわたしの個人的な印象を述べることが許されるのなら、ブルジョワが大嫌いな人は男性に多く、このことは事実である。なぜなのか? その理由はごく単純で、ブルジョワが作品制作を通じて、世の中の男という生き物を裸にして晒し者にし、それだけでは気がおさまらずに滅ぼしても滅ぼしてもなお、復活させ痛めつけ、滅ぼすことを飽くなく繰り返してきたからである。ルイーズ•ブルジョワは男性が嫌いだ。そのこと自体はいくら聞き飽きたからといって覆そうと思っても意味がない。彼女がボコボコに解体しようとする男性性というものが彼女の父親像に端を発していると言うこともまた揺るぎない事実だ。彼女の父は彼女の母と家庭教師であったもう一人の女性と肉体関係を持ち、この二人の女性と同居した。ルイーズもこの一つ屋根の下にいた。ルイーズもまた彼女の父によって性的に望まない被支配的状況に置かれたことも言われている。ルイーズの残した言葉の端々に、父による自己の破壊が読み取れる。

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Destruction of the Father (1974) という作品は、強烈な作品である。わざわざ読みほどくのも恥ずかしいほど明瞭だが、「父を破壊する」というタイトルについて、彼女は「父がわたしを破壊したので、今度はわたしが父を破壊する。それがいけないわけないじゃない。」と言い放つ。まことにカッコいいことである。破壊された父は、テーブルの上でルイーズに食物として食われたのでした。これではあまりに酷い説明であるため、もう少しだけ。Destruction of the Fatherは、ルイーズがすでに63歳の時の作品で、家族を苦しめた父をテーブルの上に引きずりあげて、あなたのせいで皆苦しみましたから、あなたは食べ物として食われてしまえ、という作品である。ヴィヴィッドな黄色の丸いスカルプチュアが薄暗く天井の低い部屋にたくさん並んでいる。その真ん中にはテーブルがあり、テーブルの上には既に人間の外見は留めていない、言うなれば臓物だとかエイリアンの断片として表象された父がいる。そのテーブルというのもインスタレーションに入ればすぐさま連想するように、ちょうどベッドのサイズなのだ。ベッドにぐちゃぐちゃに散らばった父。ルイーズにとってのベッドは、父と母の眠るところであり、父が浮気する場所であり、人が子孫を生み出すところであり、同時に人が死ぬ場所でさえある。この作品において、ルイーズ•ブルジョワはフロイトの女性性に関する理論(欠けた存在としての女性)を参照し、その理論に異義を唱えながらもそのことを不安に思うと言って、結局はそれを食べるのである。このことはフロイトをひとまず退け、彼女の父に対する距離を考えるならば、興味深く思える。破壊されるべき父を無惨にばらばらにしたのちに、彼女はそれを摂食することによって、自らの中に吸収•統合してしまうという行為。この一点において、Destruction of the Fatherは煮え切らず、気持ち悪いのであり、この一点においてのみ作られた意味があるとわたしには感じられる。

さて、それから彼女は長く生きた。2007年にそれらのThe Fragileシリーズを描くまでの33年の日々。まだ33年生きたことがないので、わたしはそれがどれくらい長いのか知らないが、どちらにしても同じ時間は流れないので、わたしには一生知り得ないことである。

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さて、The Fragileシリーズは、ルイーズ•ブルジョワの作品の中でずばぬけて平和的である。そこには攻撃性や暴力的なものがない。妊娠した女性の大きなお腹の青い色は丁寧で優しい。こどもを産む女性の膨らんだ胸から、赤子を育む母乳がほとばしるその様子なども、光が差し込むように明るい。赤などの色彩を帯びたときでさえ、そこにあるのは生命の温度である。あるいはまた、いまや世界中に点在する巨大な蜘蛛スカルプチュアの不気味を想起させる、中心に顔と放射線状に伸びた無数の腕をもつ生き物は、皆あっけらかんとしていて、かつてのようには苦しんでいない。それらは、フロイトによって「欠けた存在」と名付けられ、しばしば父なる存在に支配を受けながら子を産み続け、不運にも、世界の中に根を張ることのできるような普遍的に安定した場所を持たず、海の中をフワフワと漂う原始的な藻類の仲間のように、描き出される。それは、彼女がとても長い時間をかけて見いだしたひとつの生き物の形のことである。これらのドローイングが明らかにすることは、ルイーズ•ブルジョワが、恐れ続けていたものに対していっさいの恐れを失ったということであって、恐れがない彼女の作品は見る者に生き物の形を見せながら、それが酷くいびつなものであっても、いつかそれが怖くないのだということを語っているのが聴こえてくる。