01/28/12

Exposition de Yayoi Kusama/ 草間弥生展

Musée Centre Pompidou/ ポンピドーセンターでの草間弥生展を訪れた。
Centre Pompidou Yayoi Kusama
2011.10.10 — 2012.1.9 Galerie Sud

美術館に入って右手にあるエスカレーターを登っていくと南ギャラリーにつく。草間弥生の作品のいくつかはポンピドーがコレクションとして所蔵されているし、大きな彫刻がパリ以外の幾つかの都市にもある。フランス人にもヤヨイ・クサマの名はもちろん知られている。

とりわけカタログの表紙にもある赤と白の水玉のイメージは、こともあろうに、半で押したようなkawaii概念と結びつけられ、その繊細さやポップさゆえに日本文化の香りを感じさせるものとして捉えられている現実に出会うことがあり、ぎょっとする。草間弥生がドットモチーフを取り入れ始めたのは1960年代に遡るわけで、2000年のジャパンポップ的なkawaii概念と接続されてしまうという事自体ショッキングである。ましてや、執拗なドットの取り憑かれたような焦燥はちっとも可愛らしくなんかない。むしろおぞましくさえある。

下の絵画 Infiniry Net/ アンフィニティネットやDots/ドット、水玉に代表される永遠に繰り返される幾何学模様のイメージは、それらの色や表面の凹凸を見つめれば明らかであるように、ちっとも愛らしいものなんかではない。執拗な反復は、その細部までが無限に続けられていて、キャンバスの縁に来てすら終わりがない。

No.A.B., 1959

Infinity Netは、ネットなのである。ペインティングという方法で編まれたネット。細い糸で限りなく編み続けられたネットは本来ならば穴が開いている部分から向こう側が透けて見えそうなのだけれども、私達が一層だと信じているネットはじつは、向こう側に終わりなく続いており、だから私達はそこから何も見出すことができない。

No.A.B., 1959 zoomed

こちらは1960年に製作された、Infinity Nets Yellowである。このとき彼女は30歳。彼女が幼少期から幻覚に悩まされ、水玉や動くもの、永遠に続くイメージによるオブセッションと精神的な問題を抱えていたことは知られている。彼女はできるだけ安定した状態で制作を続けるために現在もアメリカの精神病院において生活をおくっている。

彼女の表現する反復のイメージは、見つめるほどに不安に駆られる何かを見るものに伝えている。非常に個人的な見解であるが、私は芸術家、作家、音楽家といった表現者は表現するべき衝動によって表現しているのであり、表現することによって幸福を得ているのだというストーリーが好きである。裏を返せば、表現せずに自分のうちに秘めておくことによって不幸になり、病気にすらなってしまいかねない。表さないといけなかったのであり、何かを少しでも解決するために表すことが絶対に必要であった。そしてそれは表現者の自己満足ではない。なぜなら、問題は他者によって受けとめられ、共有されたとき初めて、解けるからである。

aggregation: One Thousand Boats Show, 1963

男根状のモチーフは草間弥生の作品に頻出するテーマのひとつ。
性に対する恐怖、とりわけファルスに対する恐怖をそれで埋め尽くしてしまうことによって乗り越えようとするアプローチは今も昔もなく絶対的に前向きなものだと思う。それを拒絶するでも貶めるでも傷つけるでもなく、ソフトスカラプチャーの男根がうごめく空間に包まれることによって恐怖を昇華する。なんて高貴なセラピーだろうと思わざるを得ない。

The Moment of Regeneration, 2004

ミラーで囲まれた部屋には終わりがない。もちろん部屋は閉じられているけれど、反射されて広がる空間には終わりがない。やがて映っているのがこちらの世界なのか私がいるのが映っている世界なのか、きらめく色彩のなかで、うっとりし、途方にくれてしまうだろう。

Infinity Mirror Room, Paris, 2011

I’m here, but nothing. このインスタレーションはポンピドーでの展覧会の冒頭に設置されていた。私はここにいる、けれどなにも、ない。ドットだけがそこにあり、ありふれた生活空間がそこにあるけれど、そこには確かに誰もいない。でもそこには誰かおり、何かがあった。

I'm Here, but Nothing, 2011

草間弥生展といえば、現在国立国際美術館で2012年4月8日まで地下3階で開催されている「永遠の永遠の永遠」展も注目である。この展覧会では草間が2004年から新たに取り組んできた「愛はとこしえ」と、それに続く「わが永遠の魂」の連作に焦点を当てているほか、新作の彫刻も展示されるとのことである。見逃すことができない。
国立国際美術館 B3 永遠の永遠の永遠

さいごに、こちらは12月にリールの鉄道駅すぐの広場で発見した草間彫刻。パリでの回顧展は1月9日で終わってしまったが、チュイルリー公園では3月まで草間弥生のお花の彫刻が見られるらしい。

Flowers that Bloom at Midnight at the Jardin des Tuileries

flowers, Lille

01/10/12

生を演じるのか、それとも生きるのか。/ jouer la vie? ou vivre la vie?

今日は、先日アール•ブリュットに関して7枚組のデッサンを紹介した際にもちらりとお話しした、Galerie Christian Berst (Paris)にて2011年12月13日の19時に開催された講演会のテーマ「アール•ブリュットは現代アートのなかに溶解することができるのか?」(« L’art brut est-il soluble dans l’art contemporain? »)
について、スピーカーとして招待されていたクリスティアン•ボルタンスキーの発言をキーワードにしながら、少し深く考察してみたい。

アール•ブリュットは、今日芸術の一ジャンルとして注目を集めているが、何をどのようにアール•ブリュットのカテゴリーに分類するかはそうはっきりした境界線が無い。またの名を「アウトサイダー•アート」という通り、一般的に、型にはまった芸術教育やトレーニングをキャリアに持たない独学の芸術家をこれに当てはめてみたり、あるいは、精神疾患を持つ患者の独創的な制作行為というものもこれに分類されることがある。しかし、この講演では、近年盛んにもてはやされることになった新しいカテゴリーの確立自体が曖昧さを含むものだという点で議論が展開された。

ボルタンスキーが初めて自分自身の制作行為と「アウトサイダーなるもの」との結びつきを意識することになったのは1972年に遡るという。ただし、当時の意味されたものは現代のそれとは大きく異なる。芸術家が別個に個人的な神話を独自の方法で表現したり、ボディ•アートという斬新な方法がとられ、これまでの枠から逸脱する形で多くの芸術家が新しいパフォーマンスの形や表現様式を模索していた時代である。この背景からすれば、アウトサイダーは、これまでの規範を壊し、新しい「規則」/règleを芸術領域の中に造りだそうとする「よそもの」であった。したがって「アウトサイダー」はあくまでも芸術の外側あるいは境界に侵入しようとしていたのであり、カテゴリーではあり得なかったのである。

ボルタンスキーはアウトサイダー•アートとも芸術一般とも明言すること無く、芸術表現行為がひとつのユートピアを表象することが本質であると続ける。ただ芸術教育を受けた者が規範に従いながらユートピアを作ったならば、これはいわゆる「芸術」と呼ばれるが、たとえば芸術の素人や子ども、プリミティブな人々が日常的な行為の一環として、造形を通じた表現行為によってユートピアを実現したのなら、それはしばしば「アウトサイダー•アート」として命名され、そうでなければ「遊び」と命名されるのではないだろうか。このことは非常に重要で、そもそも「遊ぶ/jouer」ことは表現行為を成り立たせる欲望の本質である。この「遊び/jeux」の結果がユートピアの確立であり、それをしばしば「芸術」とよび、またあるときは名付けられることも無い。これら二つの結果を隔てる境界線が何かを考えるならば、それは表現者のキャリアの背後にある芸術教育の有無ということになってしまう。

これらをふまえた上で、この「よそ者(アウトサイダー)」と「芸術」はシステム上あたかも明確に隔てられているようだが、実際に作品のクオリティーや表現されたユートピアの性質を目にしたとき、これを二分するのは決して簡単ではない。カテゴリーとして明確に定義するのが難しいのも理解できよう。さらに、展示の方法が多様化し、「芸術=美術館で展示されている作品」という等式が過去のものとなった今日においてはこれらを発表方法において区別することも不適である。

「演じながら生きるのか、生きるために生きるのか/jouer la vie, vivre la vie」
ボルタンスキーによれば、芸術家として生きることによって、人生を演じるために生きることができるという。例えば自らの不幸を、不幸な私という作品の形にして発表し、人々に鑑賞してもらうことによって、自分の不幸をリアルなものから、あたかも演じるべきシナリオへと変貌させ、芸術家である自分自身はそのシナリオを人生というフィルムにおいて演じながら生きていくことができると彼は述べる。彼はまた、ルイーズ•ブルジョワや他の芸術家において、自己の精神的な苦痛や辛い記憶を同様のプロセスによって昇華させる方法としての表現行為の例を引用しながら、アウトサイダー•アートというカテゴリーの適切性を一度無に帰す形で、必要不可欠な行為としての制作が芸術表現であると断言する。

彼が述べた芸術表現の本質は、アートセラピーと呼ばれる精神疾患を抱えた人々が受ける治療とほぼ同じプロセスとゴールを持っている。今回テーマとして取り上げた、アール•ブリュットのカテゴリーの問題、あるいはアマチュアの表現行為を芸術とどのように関係づけるかという問題は、曖昧さを含むゆえか、とても興味深い。この講演では、「遊び」の問題をはじめ、幾つもの考察すべき重要なテーマがちりばめられていた。それらに関してもまた折りをみて考えてみたい。