02/4/15

心の平和のために書いた文章

海外は治安がわるいからと、時々心配される。外国は恐ろしい事件とかあって、銃による事件とか、薬物の事件とか、宗教や民族の問題とかあって、あぶないんじゃないの、と心配される。

たしかに、1月7日の事件は、それがあまりに近くで起こったということや、多くの人々と同じようにそのとき外出中で、「気をつけて!犯人は逃走中よ!」と言われてもどう気をつけたらいいのか気をつけようがないという事情から、数日間とても治安のわるい感じ、ではあった。

だがハッキリ言うが、それは、道を歩いていたら危ないとか、周りの人が怖いとか、銃撃される危険とか、突然捕らえられるかもしれない危機とは、似ても似つかないものだ。世界には、戦争状態の非常事態としての日常が実在しており、あやまってもそういった非常事態の日常とは比べ物にならないほどに、パリの1月7日以降の世界は平和である。

なるほど、たしかにそれは日本の平和感とは全く違う。誤って電車でウトウトしたり、鞄やズボンのポケットからスマホやお財布をペロリとしたまま優雅に歩いたのでは、一瞬にしてそれらは失われてしまうかもしれないし、本当は楽しくとも悲しくともある程度つねに戦々恐々とした雰囲気だけ演じて歩かないと、体力のなさそうで優しそうな日本人はしばしば金銭的価値ある物を盗まれる標的になってしまう。そういった意味で、めんどくさいといえばめんどくさく、ぴりっとしてなければならないといえばその通りだ。でも、平和だ。

そんな平和に対して日本のほうが心穏やかに過ごせるし、危険もすくないし、安心だ、とも思わない。むしろ、こちらでは思いのよらないことが日本にいると日常的に起こる。「キレる大人」を見ることはかなり印象的な出来事のうちのひとつだ。いや、誤解を避けて先に言っておくが、フランス人もかなりキレる。かなりのキレキャラであるし、突然怒って喧嘩して、見事なスペクタクルが繰り広げられる。が、わりとすぐにおさまる。キレたあと、言い尽くしたあと、20秒くらいしてから追いかけて行って殴ったりしないし、今生に渡って人々に悪行を言い継ぎながら引きずったりもなかなかしない。あくまでも印象だが、ノーコントロールでキレるというよりは普通に怒って静まる、という、ふつうの怒った人、なのである。そこにきて、日本社会での「キレる大人」はキレ方が本気である。コントロールがないのはもちろんのこと、ほとんどがキレている内容ではなくて、外的要因についてのストレスが限界で、なにかのキッカケでキレるのである。たぶんこのキレ方は、日本社会だけでなくて、先進国の、大都会の、ストレス過多の、どうしようも忙しくてイライラしてしまうような日常生活の、中にしゅっと起こりやすい。これからの世界はこんな「キレる大人」が増えるんだろうか。

約束か仕事に遅れそうなのか、それとも疾走したい気分なのか、ゆーっくり歩くおばちゃん二人のスレスレを豪速のチャリンコ男性が走り抜けた。たのしく歩いていたのにあんまり暴力的な出来事だったので、おばちゃんは思わず「危ないじゃない!」と口走ってしまいました。チャリンコ男性は、急いでいたなら走り抜けたらよさそうであるのに、止まって、折り返してきて、口汚い言葉でさんざんおばちゃんを怒鳴りつけました。男の人の怒鳴っているのって、子どもでなくても怖いと思うよね。それも、急に近づいてきて、感情的に制御無しに怒鳴っているのはとても怖いと思うよね。このおばちゃんたちは、この経験を一生忘れることはなく、ずっと、怖かったなって、思い続けるのですよ。

ある日飛行機が少し遅れて、そういうときは搭乗口の近くで、ボーディングタイムが更新されるのを待ちます。放送もかかるし、どっちにしても、チェックインしていたら、最悪たとえトイレに行ってて一人だけ搭乗しそこねていたりなんかしても、かなりしつこく探してくれるから、空港に取り残されるなんてことは殆ど有り得ません。数十分機材の整備などで搭乗時間が押していて、なんどか放送がかかったし、やれやれみんな、どんどん機内に流れ込んで行く。60歳くらいの男性が、ゲートの女の子二人に怒鳴りつけている。いつ放送がかかったんだ!(だから、今だよ…)とか、いつお客様を呼んだんだ!(だから、今だってば…)とか、失礼じゃないか!(なんでだよ…)とか、こんなんで分かるか!ふざけるな!(じゃあ他にどうするアイディアがあるかね…)とか。とにかく怒鳴り続けて、女の子たちは、ほかのお客さんのチェックをしながら、泣きそうになりながら、すいません、とか言っている。どう見ても、そのおじさんがキレているのは、アナウンスの仕方や飛行機の遅延についてじゃないよね、人はその程度のことでは本気で憤ることなどできないものだよ。ただの、八つ当たりだし、別のイライラの放出だよね。でもねー、係の子たちは本気で怖い思いをして、怒鳴られて、近くで汚い言葉を浴びせられて、しかも縁もゆかりもない怒りによって。この子たちはこのことをずっと忘れられないくらい、怖い思いをするのだよ。

「キレる大人」はいけないんです。なぜなら、本当に人を傷つけるから。本当に怖い思いをさせるから。傷ついたたくさんの心がこれ以上傷つけられませんように。こんなくだらない経験が、世界に増えませんように。
friends

02/21/13

ICOMAG 2013「批評」のテーマから考えたこと/reflexion on the aim of ICOMAG 2013

先日、文化庁主催のメディア芸術コンヴェンションが東京六本木で開催された。私は遠方におり、非常に関心があったにもかかわらず参加することが出来なかった。しかし、海外でメディア芸術に携わるアーティストや研究者からもこの会議のコンセプトについてのコメントをもらうという座長吉岡洋さんの提案のおかげで、第3回メディア芸術コンヴェンションのテーマ(icomag site)について、すなわちハイブリッドカルチャーにおける批評の可能性について、パリ第8大学のジャンルイボワシエさんおよび彼のセミナーに所属する数名の研究者と意見を交換することが出来た。日本で行われたリアル会議とは別の文脈であるが、日本のポピュラーカルチャーについての考察(あるいは、一般的に文化の越境という現象を考えること)にかんして、あくまで私自身が日頃抱いている問題をまとめながら、この議論のことをこのブログに記録したい思う。

今日よく知られているようにフランスは、世界的で日本に次ぐマンガの消費国である。パリでは毎年(昨年は20万人を動員)ジャパンエクスポや、大規模なコミケ、パリ•マンガサロンなどが盛況を収め、日本のマンガは、彼らのオリジナルカルチャーであるバンド•デシネ(Bandes desinées)を経済効果の点で遥かに上回って(しまって)いる。日本のアニメやゲームの人気も高い。その勢いは日本食、日本語教育、伝統文化も一緒くたに波及し、ジャポンは、所謂「クールジャパン」でプロモーションされてきたセクターのみならず全体的にクールである。こういったファンタジー的憧れは、ワンダーランドとしての遠き島国を思い描く想像力がいかにも簡単に紡ぎだしそうな物語のひとつである。そしてこのシステムは、日本に対してのみ向けられる特異な視点を裏付けるものでは全くないのであり、むしろ、日本のガールズが花の都パリ(死語?)に憧憬の念を抱く際の一生懸命さ(およびそれを支える日本のコマースとツーリズムの努力)のほうがよほど素晴らしいし、この程度のファンタジーは世界中に溢れている。ただ、日本を巡る物語についてやや驚くべきことがあるとすれば、そのファンタジーが今日においてもまだ機能するという日本のしつこいワンダーランド性である。

座長吉岡洋さんが昨年の3月にブログに掲載した「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか?」を先日フランス語に翻訳し、ウェブに掲載した。( text in French on salon de mimi, on blog by Hiroshi Yoshioka, original text in Japanese is here.) その記事の末尾は「「メディア芸術」をめぐる過去2回の国際会議の企画とはわたしにとっては、日本におけるポスト植民地主義を目指す文化的闘争であったのだ。」と結ばれている。このテクストは、1980年代に成熟し90年代には既に海外で積極的に受容されたマンガやアニメを、生みの親である日本がなぜ、2000年代後半になるまで自らのナショナルな文化と認め、外交戦略化しなかったのかをクリアーに説明する。(なるほど、そういえば精華大学におけるマンガ学部設置は2006年、京都マンガミュージアムの会館も2006年、外務省のポップカルチャー発信士/通称カワイイ大使任命は2009年である。)このテクストは、さらに、なぜ海外で日本人としてポップカルチャーを発信する際になんとなく後ろめたさが伴うのだろうという私個人の内省的体験にも、ひとつの解釈を提示してくれた。(このことは自分のブログでゴシックロリータの装いで文化レクチャーをすることを綴った記事や、高嶺さんの展覧会を論じた記事でも書いた。) 私はこのテクストを次の二つの点で重要と見なし、日本語以外の言語に訳される意義を見いだしている。一つ目は、日本人が日本のポップカルチャーをに対して抱いている「恥ずかしさ」(「恥ずかしい」というのはつまり、何らかの後ろめたさやそれを認めたくないとする気持ち)の存在を率直に肯定したこと。二つ目は戦後日本の植民地主義/意識を巡る問題について、日本社会がこの問題を隠蔽し直接対峙することなく現代まで先延ばしにしてきたという筆者の考えを通じて正面から文章化したことである。もちろんこの二つの点は互いに強く関係し合っていて切り離すことは出来ない。

まずは、「恥ずかしさ」を切り開らくことから始めよう。

当たり前のことだが、我々日本人がクールジャパンを恥ずかしく思っているなどということは、特定の社会的コンテクストを共有しない外国人には知られておらず、この内実は理屈で理解されることは可能であれ、いささか複雑化され過ぎており、日本人自身が言語化しきれずにいるという事実がある。ともあれ、そんなことは彼らの日本現代文化への熱意を邪魔もしなければその魅力を傷つけもせず、つまりは比較的どうでもいいことですらある。つまり、日本の外(あるいは内)でサブカルで括られる表現活動を受容吸収する多くの若者(あるいは若くない人々)にとって、異種混交的文化(hybride culture)とは、ある程度国際的で一般的な状況に収集できる事態である。誤解を恐れず言うなら、大きな流れとして今日の世界は、日本でもヨーロッパでも共通の枠組みに置かれていると見なしうる。文化の商業化•脱政治化傾向もまた、国際的なコンテクストで語られ得る。

それはそれでよいのだと私は考えている。日本固有の社会•歴史的背景に基づき、日本的ハイブリッドの特殊性を分析し、それを語ることは繊細で丁寧な仕事であり、必要不可欠なプロセスである。一方、日本でしばしば議論されてきた「メディア芸術/Media Geijutsuとは何か?」に代表される問いはとても厄介である。なぜなら、「メディア芸術」という言葉をMedia ArtではなくMedia Geijutsuと英訳すること自体がややもすれば対話を拒絶する姿勢の表明であると解釈されかねないからだ。このことはもっと丁寧に説明されるべきであり、ひょっとしたら語弊があるかもしれないが、私は「メディア芸術とはなにか」とか「メディア芸術のどの点をもって芸術なのか」という命題の答えを定めることに重要性を感じていない。むしろ、芸術という日本語の言葉が予め持っている特性に関わりすぎることに拠って、もっと大きなものが見えなくなる恐れがある。こういうのこそ実は、潜在的にotaku-likeな言説の一つになりかねない議論であり、言語ゲームに終始するならばただのdis-communicationに陥ってしまう。

オタクは「彼らが属するコミュニティー内では社会的態度でふるまうが、その社会性はコミュニティー内部に限られる」という側面がその意味の核を作っており、オタク的○○あるいはotaku-likeな○○という表現に応用されることによって、マンガ•アニメのフィールドに関わらず、広く使用できる。たとえば、メディアートを語るための専門的でテクニカルな言葉、科学の研究者が使う一般人の理解を全く期待しない専門用語、あるいは、(言語の壁までもその対象になるとすれば)、日本人にしか理解しがたい議論、それをあたかも翻訳不能であるかのように努力もせずに語る態度はすべてotaku-likeである。じつは、日本のマンガやアニメ、ゲームの領域が自己再生産的に成長できる自給自足のシステムをもっていることが、この領域の批評の難しさの本質をついている。フィールドのオタク的なあり方それ自身が、自らが理解される可能性を自己閉鎖していると言えよう。専門化したフィールドに対話の可能性を見いだしていくのが批評だとすれば、そのプロセスは、そのフィールドの内側にある言葉を大切にし、その言葉を通じる言葉(もっと意味のある言葉)に言い直すことから始まるに違いない。

現代のハイブリッドカルチャーにおける批評可能性は、したがって、通じる言葉で語る人々とそれに心静かに対応するotオタクの人々のやりとりを活性化することにある。私はotaku-likeな言説それ自体を否定しない。なぜなら、otaku-likeな語りこそ、各々の表現活動の現場にもっとも違い場所で生まれて語られる言葉だからだ。それらはただ、開かれて相互理解可能になればいい。

また、マンガやアニメ、ゲームが堂々と日本文化の仲間入りするのを長年妨げた日本的思想に「文化や芸術を経済•産業に結びつけるなんて、なんだかはしたない!」という暗黙の了解がたしかにある。(「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか」で指摘された通りである。)マンガやアニメ、ゲームの強力な経済活動との結びつきに批判的な目を向ける考え方だ。この妙にエレガントで日本的な思想は話し合いの参加者を驚かせることとなり、いわゆるハイアートであっても本質的に経済活動のコンテクストから逃れられないのだから、その点をもってハイとローの文化•芸術を分けることは出来ないという結論に至らせた。このハイとローの価値観、カルチャーとサブカルチャーといった対比そのものが今日やや時代遅れの議論ではないかという率直な感想も上がった。

ポピュラーカルチャー(大衆文化)の意味するところは、4つある。大衆にさし向けられる文化、大衆が消費する文化、既存のものを覆すために大衆が生みだすアヴァンギャルド的な文化、そして、消費者の大衆が生産者も兼ねるような過渡段階に位置する文化。ポピュラーカルチャーと言う時、一般には大衆が消費する文化をさす場合が多いのだが、上述の4つの意味を考えるならば、なるほど、現在いわゆるハイカルチャーと考えられているフィールドだって一定時間よりも以前、オリジナルのものが大衆により「日本化」したこともあるし、既存のものを破壊する芸術運動から作り出されたものだって含まれる。そう思ってみれば、この区別も線を引くことに目くじらを立てずともよろしい。たしかに我々は、誰から教わったのか今となっては思い出せない超謙虚な姿勢を美徳として共有している。日本のハイカルチャーにはオリジナリティがなくていつも西洋の真似をしてきた、マンガとアニメくらいしかソフトパワーになってない、という考えがその典型だ。この考え方はいささかペシミスティックすぎる。

さて、otaku-likeなパロールの(悪)循環は、各々のフィールドのみならず、「日本語」という言葉すらその仕組みのなかにそのまま含むことができてしまう。どういうことか。特定の社会や文化についての共通知識を前提として要求するような話(存在する殆どの議論はもちろん何らかのコンテクストをもっているが)では、デリケートな内容はなかなか翻訳されにくいので、そこには高い言葉の壁があるように見える。あるストーリーが言語間を越境する困難はあっていい。それがうまく伝わらないのも、理解が難しいと受け止められるのも、いい。ただ、それを自己を防御し他者を攻撃する手段として利用するようなくだらないスタンスがあるとすれば、それは直ちに放棄するべきだと思う。非日本語話者に解らないからとインターネット上で日本語で誹謗中傷すること。水戸芸術館における高嶺さんの展覧会「高嶺格のクールジャパン」の「自由な発言の部屋」という大事な章は、日本社会のそういった問題にも焦点を当てる。ネットの言論は本来すべからく誰の目にも触れ、誰にも理解される可能性を孕む。今日明日ではなく、いつまでも。なぜなら、それはひとたび書かれたものだからで、ネットに接続された世界で生き、そして書き、そこで何かを語るクリティークという行為は、すべてそういう性質を請け負う。展覧会「天才でごめんなさい」の会田誠さんが、膨大なツイートを無許可転載し作品に利用したことがたいそう騒がれたようだが、そんなことに目くじらを立てることほどナンセンスなことはなく、現代における発言とはもはやそのようなものだと諦め認めて、むしろそれを慈しむ「おしゃべり/talkative」な語り手になることが、異種混交文化の中で「生きた」批評をすることに繋がるのではないかと今のところ信じている。