会田誠 « 天才でごめんなさい » / Makoto Aida « Monument for Nothing » @Mam
会田誠:天才でごめんなさい/ Makoto Aida « Monument for Nothing »
@森美術館/Mori Art Museum
November 17 (Sat), 2012 – March 31 (Sun), 2013
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「天才でごめんなさい」とはなにごとか。この人は、いったい誰に対して、何を謝っているのか?アーティストが天才で何が悪い。天才でないほうがあやまって欲しいくらいではないか?
とは言ってみたものの、本当はこの謝罪、もっと丁寧に説明されなければならないのだろう。「会田誠は天才である」。このことは半分くらいは本当で残りの半分は噓である。会田誠という表現者は、天才的な直観を持ち、その有無を言わさず天から勝手にやってきたインスピレーションを、どうすれば最大限のインパクトを以て社会に提示できるのかということを本能的に知っているという点で、やはり才能に恵まれた人である。ただし、この人が抱えている(かもしれない)迷いや悩み、葛藤みたいなものがあまりにも人間臭くて俗世の我々にも響いてくるので、この人もまた普通の人であるような気もしてくる。
そうはいっても、この展覧会タイトルを聞くと、1)なるほど、会田誠は天才なのか。それならひとつ見てみましょう、あらほんと凄いわね、とジーニアス•テーズを丸呑みする、あるいは、2)ウンコやらセックスのどこか天才じゃ、なんでこんなもんが芸術かと憤慨する、はたまた、3)神妙な顔で難しい言葉を使いながらウンコでもやはり素晴らしいアートなのだと頑張る。ざっとこのようにして、会田誠の表現しているものの周縁で煙に巻かれてしまう。それこそがナンセンスなことである。ナンセンスでもいいのだが、「面白」もしくは「気持ち悪」という率直な印象に耐えて、もう少しだけその絵(など)を凝視してみる必要がきっとあろう。
私は日頃、相当しつこくフェミニストっぽい立場を表明しているので、キングギドラとか犬シリーズなどは、「女性や少女にそんな目を向けて、だから会田誠という美術家サイテーじゃないの」とどうせ非難するんだろうと思われるかもしれない。だが実際にはそうでもなくて、キングギドラの絵はあまりに素晴らしくてあまり長い時間見ると泣き崩れそうになってしまうし、犬シリーズに至っては、「こんなもん見たない」とおっしゃる殿方にこそ「よくよく見ました」とおっしゃるまで凝視してほしいと願い願って止まない次第なのである。ミキサーの中にぎっしり詰められた少女たちが少しずつ鮮やかな赤色を帯びていく「ジューサーミキサー」などは見ていて気持ちが良くなり、ついうっとりしてしまうほどである。
キングギドラに犯され突き破られる大きな絵も、四肢が切られて首輪で結ばれた犬シリーズも、ギュウギュウ押された少女のお腹からつややかなイクラがポロポロひりだされる「食用人造少女・美味ちゃん」なども、直球である。あまりに正直にそれが包括する問題を提示するが故に、目も当てられない鑑賞者がいることは確かだ。ただし、描かれたものに虚偽は無い。ここにあるのが少女や女性やセックスそのものをとりまく日本社会の一つの局面あるいは一つの実在する視線を浮き彫りにしたものである。会田誠がたまたまここに形を与えたヘンタイとか飼育とか暴力に関わるようなものは、フェティッシュな趣味を持つ限られた個体だけに冷ややかな視線が注がれればいいという問題ではなく、大げさだが、人間の欲望の通奏低音として鳴り響き続けているような、しかしそれが様々な要因の生で歪曲した形で表出したものなのである。それを断固として見ないのはひょっとして、言ってみれば、自分だけ永遠のヴァージンであると信じているくらい高尚で愚かしいことである。(もちろん、ヴァージンはただの比喩であり、老弱男女みんなの話をしております)
このようにして、会田誠の描き出す世界にはリアルな問題がたくさん具現化されているように思えるけれど、それらはユーモアとアイロニーとニヒリズムで構成されているだけではない。希望だってある。
イデアという作品がある。壁に書かれた大きな「美少女」という文字に向かって、素っ裸の会田誠ご本人がマスターベーションに励む。お部屋が寒かったことや素っ裸直立であったことなど、不慣れな環境におけるこのパフォーマンスは、シナリオコンプリートまでに1時間以上かかったらしい。素晴らしい。何時間かかってもよろしい。この作品は美少女を陵辱するものではなく、美少女を永遠にイデア界に解放する儀式の録画でもあり、さらには少女時代(少年時代)というしょうもない人生の時間を過ごしている世の中の個体を潜在的•永久的に救済する儀式ですらある。つまり、肉としての美少女なんて本当はどうでもいいのである。壁に文字を書けばいいのである。犬としての少女の絵を見たり、伊勢エビと交わる少女の写真を見たりすればよろしい。IDEAは、美術家自身は勿論プラトンのイデアのことを言っているのであるが、これは同時に一つの「アイディア=理想」を描きだす重要な作品なのである。
この他にも個人的には英語コンプレックスに関わる作品や難しい哲学コンプレックスに関わる作品は今回の記事では触れられなかったのでまたの機会に書いてみたいが、これらは会田誠という表現者の天才的なところと普通の人っぽいところが出会うためにハンパ無くエネルギッシュな作品群である。そして、最後に、「自殺未遂マシーンシリーズ」に触れて終わりにしよう。自殺マシンではなく、あくまでも自殺未遂のためのマシンであるこの何とも言えないアナログの装置は、裏も面も無く、自殺の国の日本国民にこの問題を朗らかに提示する。試行者は、頑丈そうでちょっとやそっとじゃ切れそうも無い輪に頭を突っ込み、意を決して段から飛び降りる。彼は(不運にも/幸運にも)自らの肉体をを伴ったまま、バラバラと分解するマシンとともに床に崩れ落ちる。「自殺未遂マシーン」の体験を通じて人々が得られるのは、「あかん、こんなマシンでは到底死ねん。」という途方もない事実である。こんなに絶望的で希望に溢れた試行の存在を知っただけで、芸術の表現っていうのはやはりあっていいのだ、と思える。