03/16/15

Corps Étranger:Agata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soter/ 「奇妙な肉体」展

Corps Étranger
Agata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soter

13 Février – 14 Mars 2015
Maëlle Galerie
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アーティストたちは今日、割り当てられた性的役割を異化することが可能だ、ということを知っている。
これまで数多くの女性アーティストに焦点を当てた展覧会が、フェミニストや美術史家、批評家たちによって実現されてきた。女性のホもセクシュアリティへの着目もそのうちの比較的新しいもののひとつかもしれない。Centre Poupidou(ポンピドーセンター)では女性アーティスト200名を紹介した大規模な展覧会が2009年に既に開かれている。
本展覧会で選ばれた三人のアーティストAgata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soterはこれまで一緒に展示したことはない。三人とも親密で独自の世界への視線を表現する作家である。
共通しているのはAgata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soterの三人ともが、既存の性に対しての異なる身体のあり方を暴きだすことだ。自然としての性、本能的な身体、暴力の対象や主体あるいは破壊者となりうる肉体。これらはすべて、《Corps Étranger》(奇妙な肉体)であろう。
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Dani Soter:
Dani Soterはルイーズブルジョワに多くを学んだ女性アーティストである。個人的な世界観、家族の想い出やカップルの記憶。人間関係に蓄積した時間の形跡。彼女はブラジルで生まれ、ソルボンヌ大学でポルトガル語学と文学を学んだ後、現在も祖国で制作する。彼女はアーティストのフォーメーションは持っておらず、独学の作家だ。

彼女の作品《お入りください》(Entrez)は、家のような輪郭をもつシンプルな形がピンク色で塗られており、扉である場所、人々を受け入れるべき境界が男性器の形を成す。鉛筆で描かれた、Entrez(おはいりください)の文字があるだけの非常にシンプルな作品だ。鉛筆書きのEntrezの文字はとても頼りなくて、子供が書いたような、あるいは、人に聴こえないようにこっそりつぶやいたような、消えそうな言葉という印象を与える。もしかして、《お入りください》なんて、言いたくないのでは?と見る者を不安にするのだ。
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また、薄汚れたハンカチにさくらんぼの刺繍のある作品のシリーズ、これは近年Dani Soterが好んで取り組んでいるプロジェクトのうちの一つで、友人や家族の使い古しのハンカチを作品に用いる。ハンカチはしばしば酷く汚れたりカビていて、汚いのだが、それは個人の家に保存される中で生えたカビだとか、たまたま汚れを拭いたまま洗っても落ちなかったしみだとか、もしかして、食事の後に口を拭いたり、子供のよだれを拭ったりしたままながいことズボンの中に入れてわすれっぱなしになり、そのまま忘れられた布切れなのかもしれない。彼女はこれをキャンバスとして絵を描く。ハンカチは真っ暗な引き出しや物置からひっぱりだされて、眩しいギャラリーに展示される。
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Agata Kus:
Agata Kusは、1987年にポーランドのKrosnoで生まれ、クラコウで学んだのち、現在もポーランドで制作している。Agata Kusの作品ではしばしば、少女から大人の女性になる通過儀礼がテーマとなっており、少女としての自己が傷つけられる形で女性性を受け入れる《痛み》を繊細な方法で描くのが特徴だ。傷つけられながら大人になる少女も、生まれながらの女性であることに変わりない。傷つきやすく女性性の賛美が貫かれていることもAgata Kusの作品の特徴と言えよう。肉体はグロテスクなものである。

Agata Kusのデッサンの中に、内蔵をさらけ出して血を流して倒れている獣の赤い色と、白いワンピースを着た二人の少女の性器の部分が赤く塗られた作品がある。子供らしく可愛らしい真っ白なワンピースに保護された「肉体」は、地面に転がる非常に生々しい獣の死体と同様のコンポジションである。

一枚の布に、足を崩して座る少女。少女は床に散らばった赤いビーズで遊んでいるように見える。それは勿論、初潮以降毎月作られては流れ出される、月経の象徴なのだが、少女は小さかった頃と変わらない、笑顔を浮かべていて、その赤い粒を集めたりバラバラにしたり、独り遊びをしている。彼女はまだそれが何を意味するか分からず分かろうともしていないのだが、その粒が妙に赤いことだけが、何となく不穏で見ている者を心配させる役割を果たしている。
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Kelly Sinnapah Mary:
Kelly Sinnapah Maryは1981年にグアドループに生まれた。グアドループ(Guadeloupe)というのは、カリブ海の西インド諸島の島嶼群の中にある所謂フランスの海外県(Outre-mer français)である。紀元前30世紀ほどから現地文明がさかえ、ベネズエラとの交易や、Arawaksと呼ばれるインディアンの生活があったことが明らかになっている。この地は後に15世紀以降スペイン人が訪れるようになり、1635年以降フランス人によって支配され、フランス領植民地となる。以降、数世紀に渡って、砂糖の大規模農場、タバコ農園等で奴隷労働に従事させられた歴史を持つ。フランス革命後の1794年、一度奴隷制は廃止されるものの1802年にナポレオンが復活させてしまう。グアドループは、もう一つの大きな海外県マルティニークと同様に、歴史的要因から行政的・社会的な多くの問題を抱えている。
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Kelly Sinnapah Maryの作品は、フェミニンなオブジェを利用し、一見ポップ印象を与えるデザインを特徴とする軽やかで美しいイメージを描く。昔はどんな家にもあったような刺繍フレーム。典型的なお家にいる女性を思わせるオブジェを絵画は彼女のキャンバスとなる。中心には白い背景に衣服のはだけて下着姿の女性。女性の頭部は顔はなく、筒状の空洞が開いている。周りに散りばめられた無数のモチーフは中心に一人だけいる女を取り巻く男性器だ。女性の肉体を注意してもう一度見てみる。鎖骨の当たりのメッセージは »Ne pas toucher »(わたしに触れるな)とある。Ne pas toucher(Ne touchez pas)は、美術館でよく見かける。作品の前に気分を害する保護色のビニールテープが貼ってあって、《お手を触れないでください》と書いてある、あれだ。おそらくは既に傷つけられ、顔は内部に男性器を受け入れる筒の形状に変形してしまってもなお、その肉体はマニフェストする。《わたしに触れるな》と。
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Kelly Sinnapah Maryの顔のない女は、かなり直接的なファム・オブジェの表象である。セックスのオブジェとして利用されるだけの女というモチーフは作品に繰り返し描かれる。彼女自身の個人的な苦痛に満ちた性的体験に基づく表現は、作品や文化的背景を伴って、社会における現行の問題へと鑑賞者の関心を開く。デッサンの持つ軽やかな色彩とスタイルは、その苦痛を伴ってもなおあり得る、ある種の希望のようなものを感じさせてくれるのだが。

女性性への関心、少女から女性への通過儀礼の苦痛の表象、ファムオブジェのマニフェスト、これらは今日もなお人々の関心を捉えるだろうか。もちろん、それはある程度普遍的な問題なので、関心ごとであり続けることが出来る。あるいは、今日的な問題に訴えるなら、傷つきやすく対話不能な苦痛を内側に描くのではなく、演劇的な雄弁さとすこしだけハッピーな結論が求められているのかもしれない。

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08/5/14

関係のないことを攻撃しない

関係のないことを攻撃しない

« On s’en fout. » という言い方がある。フランス語の代名動詞「s’en foutre(Sは◯◯に関心がない)」を含むフレーズであり、敢えて日本語にするなら「私には関係ね〜!」という感じである。ただし「私には関係ね~」は厳密には正しくなくて、なぜなら »On s’en fout. »の主語である「On」は、人一般を指すからである。 »On s’en fout. » はしたがって、誰にとっても当てはまる一般的事態として何かについて、「(んなもん)関係ね〜!」という感じなのである。

日本人は »On s’en fout. »と言わないように育てられ、社会生活でもそのようにあるように訓練され、さらには次世代もそのようにあるように教育している人々であると思う。「関係ね〜!」で済めばいいものが、「関係ね~!」とならない。「関係ね~!」などと言うことは無責任でデリカシーに欠けており、何かから逃れようとしており、社会生活を逸脱しており、したがって信用がおけない個体であると糾弾されかねない勢いである。とりわけ、多くの人がマス・メディアによって駆り立てられ、興奮させられているような状況下に置いて、「関係ね~!」などと口走ることは、生命を危険に晒しかねない暴挙にすらなりうる。
厄介に思われるこの集団的特質は、時と場合を選び、国際社会において驚きと賞賛を以て迎え入れられることもあるだろう。マナーのよい、ニコニコした、優しく気配りのできる日本人、という風に。数年前「KY(ケーワイ)」という言葉が一躍流行語となったが、言葉そのものはさておき、「空気を読む」ことの重要性の信仰は伝統的なものだ。「空気を読む力」は、しばしば、コミュニケーション不全の現代を批判的に論じるような文脈で、あたかも世界中でも類を見ないほどに日本人が卓越している持つ美しき能力のように崇められるが、この素敵な「国民性」と自滅的な暴力性は、一枚のコインの裏と面である。

「空気を読む」ことは特定の水準において美徳であれど、普遍的な善ではない。少なくとも、読まない個体を攻撃することは、善で有り得ない。それは、嫉妬と呼ばれるものである。

私たちの日常は、愛で溢れているという以前あるいは同時に、人々の緑の目の攻撃性に満ちあふれている。攻撃的な態度、攻撃的な行為、攻撃的な言葉、そして絶えず攻撃的であるように押しすすめる攻撃的な思考。攻撃が生み出すのは次なる攻撃であり、その暴力は他者に向かうか、さもなければ自己に向かう。それは消滅せず、どこかに向けられる。せいせいした矢先には弾を受けて苦しむことの繰り返しである。

だが、緑の目の攻撃者が無心に矢を放つその対象は、じつはさほど、彼らの大切なことに「関係ない」ことが多いのである。(大切なこと、というのは本質的に大切なこと、という意味だ。)

関係ないことは、攻撃しないでよろしい。暴力の威力は、世界をよくはしない。すなわち、個体を楽しくもしない。人々を生きやすくもしない。
私たちは、生きやすくても生きやすくなくても、ドロップアウトはしないのだから。

08/25/13

About the violence / 暴力について

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暴力について

豊かな生活や便利さ、平等や自由、さらには平和や幸福さえも、普段私たちが使う言葉においてそれらはちっとも絶対的なものではなく、あくまでも相対的で、頼りないものでしかない。
暴力も、勿論そのようなもののうちのひとつだ。

2013年7月30日、ちょうどポーランドから帰国し、買い物に行くため駐車してあった車を取りに行くと、フロントガラスが割れていた。ボディの部分には、大きな足跡がはっきりとついており、ボディ自体もかなりへこんでいた。フロントガラスの割れた中心は、真ん中の極めて強く殴打したと見られる部分と端のほうにももう一つ同じような同心円の中心が見られた。車内はもちろんガラスの粉だらけになっており、さらには、このように内側に数センチ以上くぼんだ形でひび割れている状態で走行して振動等がきっかけで完全にガラスが崩れる恐れがあったので、自動車は走行不能な状態と見なされた。

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30日にこの状態で発見したということ以外、いつこのガラスが破壊されたのか知る方法はないのだが、誰かがよじ登って、硬いもので殴ってフロントガラスを割ったのだ。車が駐車してあったのは、決められたスペースで、私が住む市では、市によって決められた場所に無料/有料(場所による)で駐車することができるので、車庫をもたない市民は自宅にできるだけ近い駐車スペースを選んで停める。このとき私が駐車した通りは、住宅地で両側が一軒家やアパートの並びである。大きな音や騒ぎがあったのならば住人が聞いている可能性があった。住人の話によれば、私が留守にした数日の間のある夜、若い男数名が酔っぱらった様子で叫びながら、通り沿いの駐車スペースに停まっている車のうえによじ登り走り回り、そして、私の車のフロントガラスを瓶のようなもので割ったということだった。運悪くあなたの車が選ばれたのね、御愁傷様、といったことをその住人は付け加えた。真夜中に車を飛び歩いてガラスを割るショーはさぞスペクタクルだっただろうが、いずれにせよ、注意したり通報してくれることなく、それを目撃していた住人の思考にも吐き気がした。

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ご存知のように、外国ではしばしば「バンパーはぶつけるためにある」と言われているくらいで、フランスでも日本のようには車をピカピカに大切に保つことは難しいし、多少へこんだりこすられたくらいで警察は来ない。むかつく人の車に一周ぐるりとくぎで傷をつけたとか、ガラスにいたずら書きしたとか、サイドミラーをへし折ったとか、そんなことは日常茶飯事である。私自身、昨年一度、歩行者通路側のサイドミラーがへし折られ(つまり、故意に壊されたもの)、つい先日、また歩行者側のサイドミラーの部品が折られており、方向が固定できなくなってしまった。

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普通に考えて、酔っぱらおうとイライラしようと、そんなことはしたことがないしするはずもない人が殆どだろう。物を破壊することは、先に「日常茶飯事である」と書いたが、その状況自体がおかしいと誰もが思うだろう。しかし、おかしな事態が現実であるとき、そのことをどのように思考して行けば良いのだろう?暴力は、あなたがするしないに関わらず、リアルなことであり、あなたがするしないにかかわらず、あなたやあなたの大切な人に降り掛かりうることである。それゆえ、暴力のことは実は、自分と関係ないことのようで、つまりは、自分が思考すべきことからシャットアウトしてしまいがちなことのようで、しかし、絶対に排除できないものである。

少し前、何人もの女性を強姦し、殺し、刑期に服していた犯罪者が大赦を受けて出所したというニュースがあった。この犯罪者は出所するなりすぐに強姦事件を起こした。よく聞く話である。しかし、あなたは、自分が強姦されたり、自分の彼女や娘や家族がこのような目に遭ったとしたら、「よく聞く話である。」とは言わない。重大な犯罪を犯した人は死刑に処される。死刑が廃止された、あるいは存在しない国では終身刑に処される。あるいは、社会に復帰することが可能であると見なされれば、刑期を終えて出所し、再び社会のなかで、人々と関係を持ちながら生活をする。個人的には、強姦を繰り返すような人間は、再び強姦を出来るような環境下で生活することは不可能だと考えている。つまり、そのような環境に置くことが出所することであるならば、二度と出所できないというのが当たり前の処置であると考えている。

暴力はおしなべて非常事態である。物にふるわれる暴力と人間にふるわれる暴力の間に大きな一線があると信じている人もいるかもしれないが、そんな一線は本当はどこにも存在しない。これは妄言ではない。いかなる状況でも、どのような目的を果たすためでも、暴力を使う人間は、つまり暴力を手段として持っている人間である。現世界でそれらを排除するシステムはないし、それから潜在的に逃げる手段も実はない。どんな人もそれと共存しているのみであり、するべきであると同時にできるたったひとつのことは、それに晒されたときにあなたが取りうる覚悟について、考えておくことなのである。