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完全なコンポジション 広さ / La composition absolue et la spatialité
とりわけ田舎暮らしを経験したこともないし、生まれ育ったのが自然環境が殊のほか豊かな地であったということもない。ただし、思うなら、広かったことは確かだ。
広かった。
広いというのは、向こう側が行き止りであるということが、たとえ本当はそうであったとしても、そのことに気がつかないほどに遠くまで見渡すことのできるような場所である。
どこを見ても視線が壁にぶつかるとか、外を見れば全ての辺がすぐに別の生活者の窓にぶちあたるとか、上も下も詰まっているとか、風がぐるぐる渦巻いてすぐにこちらに戻ってきてしまう感じとか。そういったことに、人はおそらく何十年経っても慣れることが出来ない。
アスパラ畑があり、アスパラは大きくなりすぎると実をつけて、木のようにニョキニョキ伸びていく様子とか、暑すぎもしないのに近くの木に止まった蝉が大きく鳴こうとしている気配とか、小さかったり、虫や鳥たちが味見したトウモロコシを包み込む葉やらひげやらを剥くのが度胸がいるのとか、ニラとタマネギの見分けがはっきりついたりつかなかったり、豆のツルがすばらしく巻き付いて横やら上やらに進んでいこうとする執拗な生命力をながめたり、奔放なきゅうりと鮮やかなナス、どうしてそんなに重い実に耐えることにしたのか茎の細胞の一つ一つの壁のかたさと耐え忍ぶ意志をかんじられるトマトの群。
あの畑のことを、いつか例えば簡単な数式とかシンプルな漢字の形とか行なってきた活動や出会ったことのある誰かを忘れるとしても、畑の土のすこし乾燥した粒のことや、トウモロコシの葉脈のこと、大根の葉が密集している緑色の表面のこと、すこしジャガイモが見えている部分が光合成を始めてしまっているなと思ったことなどを、忘れてしまったりしない。
あの畑はもうない。
実家では数年前から小さな家庭菜園で野菜を育てている。何度か食べた、ここのトマトはとても美味しい。野菜の味はこうやって育てたものでないとほんとうのことをいうと、何を食べているのか思考停止状態になる。味のしない野菜は、味のしないのでなく、どうやって育ったのか食べる私が理解できないためにあるいはそのことなどを身体的に受け入れることのできないために、有効な食物として摂取することができない。とはいえ世界の食べ物工場はいまや大規模なシステムとしてすばらしく機能していて世界の人間を養おうとしているのだから、そういやって私たちは日々土をいじることに膨大な時間を割くことなく、本を読んだり、テレビを見たり、その他の労働をしたりすることができる。
農業もまた、食肉のための動物を大量生産するのと同様に非自然的なことである。植物がクローンであっても品質改良されても、「麦が六倍体にされてかわいそう」と泣き叫ぶ人がおらないので、大麦やら大きな野菜の便利な恩恵を享受している。これも大きなシステムであり、便利で効率がよいことを断念すると、わたしたちは、別の人間とおしゃべりをする時間も、明日着る服のことを考えるひまもなくなってしまう。
真っ赤なトマトと棘の影まで鮮やかなきゅうり、アントシアニンの弾けそうなほどまぶしいナスのコンポジションが世の中にありうるもっとも美しいイメージのように感じられた。小さな実家の家庭菜園で育った野菜だそうである。
美味しいそうだねというと美味しいよと母がこたえる。
Décongélations Prématurées @ Atelier Alain Lebras, Nantes / 展覧会「未成熟な解凍」,ナント
Décongélations Prématurées
Du 8 au 26 mai 2013
Atelier Alain Lebras, Nantes
http://decongelationsprematurees.overblog.com
video clip here
未成熟な解凍?時期尚早の解凍? »Décongélation Prématurées »は、Anne-Sophie Yacono がキュレーターを務めるナント市美大出身の若いアーティストたちによる手作りの展覧会である。綺麗な脳ミソ(いったい何の?)がお皿の上で静かに解凍されているすてきな本展覧会のポスターをレストランに持っていくと、本来是非とも掲示していただき多くの人の目に触れて欲しい!!というアーティストたちの熱い願いとは裏腹に、悉く断られた。脳みそが解凍されているイメージの何がいけないか!もの申さぬそれは、我々の食卓に上がる鮮やかなタルタルや、美味しいハンバーグステーキの友達ではないか!…というのはあくまで私の個人的なコメントだが、そもそもこの展覧会、「未熟な解凍」と名付けられる前には、それは食に関わるコンセプトだったそうだ。下に幾つか紹介させていただく作品を見てみると分かるが、どうやら、 »Décongélation Prématurées »は、食(吸収•同化)すること、成熟(腐敗)すること、冷凍(仮死状態に)すること、それをもう一度解凍する(蘇らせる)こと、これらの一連のできごとをアーティスト達が様々な方法で取り組み表現した展覧会であったらしい。
5月7日幕を開けた本展覧会は中盤を迎えていた。5月18日、19日、展覧会も残すところあと一週間になり、様々なパフォーマンスやイベントが企画されていたその週末機会を得て、ナントのアトリエAlain Lebrasを訪れた。ナントの国鉄駅から歩いてすぐ、大きな通りから枝分かれする石畳の小道を突き当たりまで歩いていくと、オシャレでエネルギーに満ちた若者の群れが見える。パフォーマンスが行われたこの日の夜、スペースは賑わっていた。空間は広々としており、実に様々な作品形態、絵画、彫刻、ビデオ、ミックスメディアインスタレーション、写真、パフォーマンス空間等が互いにぶつかり合うこと無く共存しており、それでいて、全然異なる表現である作品同士が不思議とゆるやかに結びついているように感じられた。その様子は、会場の写真をご覧頂ければ明らかかと思う。さて、ここに参加アーティストのリストを記載しておく。
Boris Detraz, Evor, Makiko Furuichi, Emmanuelle Hardy, Heejung Kim, Laurence-Louise Landois, Benjamin Moutte, Angeline Rethore, Jean-Philippe Rykaert, Manon Maurios, Manon Rolland, Stéphane Menti et Romain Teule, Amandine Ronzier, Anne-Sophie Yacono, Ariane Yadan, Anne Carrique, Jérémy Segard
(参考 HP)
まずはじめに、もう一度展覧会タイトル、Décongélation Prématuréesに込められた意味と展覧会コンセプトに戻ってみたい。この展覧会は前述したようにキュレーターを務めた美術家のAnne-Sophie Yacono声かけで、企画当初「食べること」をテーマにスタートした。多くの参加アーティストは本展覧会のための作品を構想した。「食べること」がテーマの展覧会。「食べること」とは何だろう。
第一に、一般的な意味において、それはもちろん食事のことだ。食事とは、生き物が生命の維持のために行う義務的な行為であり、行わなければ生き延びられない、と信じられているところのものである。それ故に食べることは生き物にとって本質的で、野性的•動物的でもある。野蛮であることを嫌うエレガントな人間たちは、古来より「食べる」という行為に様々な付加価値を与えてきた。例えば、美食。より良いものを食べれば人生が豊かになる、あるいは身体と精神が美しくなるような妄想。そして食の過剰と不足。現代の神経性/精神的な病の中で過食や拒食の問題は深刻さを増しており、フランスも日本も例に漏れない。動物的行為である食が、異なる意味を付与される事態である。または、流行のエコとかビオという言葉。エコで生きることが自然のためになる?ビオを食することはクリーンで優しい?だれがその確からしい結果を証明してくれるのか。そして、食べ物は腐敗し、腐敗を止めるために例えば冷凍し、細胞を仮死状態にすることができる。どんな季節にどんな国のモノも食べられる我々の超便利な世界は、冷凍食品に溢れている。さいごに、「食べること」は吸収•同化することであり、異物を飲み込み、それを砕いたり溶かして、自らの内側に取り込む行為だ。その行為はあたかも、捕えられた対象が捕らえたものの中に吸収される、つまり捕食者の勝利のように見えるけれども、被食者が捕食者を内側から侵食し、時間をかけて破壊するようなことかもしれないのだ。食べることは排泄することを招き、通常この方向性は一方通行であり狂わない。我々は皆、それは時間というものが一方的にしかすすまないので、このテーゼ「食べることは排泄することを招く」すら不変であると信じる。だが時々、時間が逆に進まないまでも、体調不良や薬物の使用により、非日常的な状況が創り出される際、我々は嘔吐する。嘔吐は、この確からしい矢印の方向すらひっくり返してしまう点で、偉大である。
今回の記事では、残念ながら全てのアーティストの作品に言及することは叶わず、6名の作家の作品を選ばせていただいた。ではさっそく見てみよう。
Fièvre ou Fontaine ou Ce que j’ai vu avant de vomir, Ariane Yadan (熱狂あるいは噴水、はたまた嘔吐の前に見たもの)
Ariane Yadanの作品Fontaineは、オープニングイベントのために作られたのだが、その彫刻から滴る真っ赤な液体が床などに飛び散ることもあり、その後の会期では展示されなかった。陶器で作られた精巧な頭部の上部が破壊され、そこから血の噴水がほとばしっている。壊れた頭部を持つ人物の表情は、作家が名付けたように、Fièvre興奮しているようであり、自らの内部を本来満たしていた体液が放出する様子に驚きを覚えているようでもある。幸いにも人間の感覚はそれぞれ独立して働くことができ、我々は目を閉じて静かにその噴水から液体が止めどなく流れてくる音に耳を傾ける時、それはまるで、我々の肉体を満たし、生き物を満たし、地球を満たす水の静かな流れを聴くことができる。
Scènes, Makiko Furuichi
Makiko Furuichiは、今回私にこの展覧会を教えてくれたアーティストで、水彩、油彩、コラージュで高い評価を受けるほか、パフォーマンスやビデオも制作している。彼女の作品に焦点をあてた記事は以前インタビューをした際に書かせていただいたのでどうぞお読みください。(salon de mimi, Makiko Furuichi)さて、この展覧会では体液や性器、腐敗や嘔吐という明瞭なアプローチが見られる中、Makiko Furuichiの「食」の捉え方はもっと総合的なものであった。彼女が描いたのは、生き物の相互作用の結果としての身体、「肉」である。様々なポーズをとり、多様な色と形をもつ肉体は、それらがもつエネルギーを世界に及ぼしているが、そのエネルギーは光合成を行う植物においてさえもじつは、外側からもたらされたものなのだ。彼女の描き出す世界では、そういった、人間と動物、動物と植物、内側と外側、世界と個体という、自明の区別が非常に自然に無に帰される。区別の無い世界は再度彼女の方法で統合され、表象されるのだが、その世界には、以前存在したような理不尽な選別や絶望的な差異の影はもはや見当たらない。むしろ、理想的な調和のイメージがそこにある。
Messagers sordides (Ange à la banane, Combat d’anges saouls, Ange nu), Boris Détraz
Boris Détrazは、本展覧会に我々が目にしたことも無い天使が描かれる3枚の大きなタブローを出展した。バナナをもった天使、酔った天使の争い、裸の天使がそれらである。彼らはいったい天使なのか?天使とは神の使いで、いたずらもするがピュアな心を持っていて、可愛らしい子どものイメージで描かれ、少なくとも我々は、そのような天使としか出会ったことが無い。直に会ったことがないにせよ、彼らは酔って乱闘するなど聞かないし、バナナをほおばらないし、淫らな意味で裸で描かれたりしない。赤と黒を基調に描かれたことも無ければ、顔面から水平に突き出す、ピノキオの鼻あるいはサギのくちばしのような突起物を持っていたりしない。Boris Détrazは伝統的な西洋絵画の中で天使の身体の真髄まで染み付いたステレオタイプをどこまで脱色、脱臭、解体することができるのか試みる。
Memento Mori, Benjamin Mouette
「食べ物を粗末にしちゃいけません」とはよく言ったものだ。誰のために?世界には食べられない人々がたくさんいるから。貧しくてお腹をすかせている人がいるから。作った人の心を踏みにじることになるから…。「人を殺しちゃいけません」という大前提が、突如拠り所を失ってしまう瞬間があるのと同様に、「食べ物を粗末にしちゃいけない」大前提はいとも簡単に崩れてしまうようなことがある。今日、スーパーに物が溢れ、総菜屋もレストランも、消費する量ぴったりを購入することなどあり得ず、常に過剰である。賞味期限が過ぎた大量の食物はそれを食べたい人の存在と独立して廃棄される。それがいかに理不尽に思えても、個人としての消費者には手に負えない大きなことであり、我々が捌かれたガチョウの胸肉の最も美味しいところだけを食べて残りをゴミ袋に入れようとも、あるいは隅々までキレイに食し、ガチョウに心からお礼を言おうとも、所詮は自己満足の問題である、言い換えると、それによって世界は変わらない。Benjamin Mouetteのビデオ•インスタレーション作品メメント•モリは、彼が生み出したマリオネットが狂ったように食事を貪る。暴食の様子を撮影したショート•フィルムが、その惨事の後のままに放置された汚れたテーブルの上のテレビ画面を通じて放映されている。壁にはvanitasの静物画が淡々と、生きているものは皆やがて腐って死んでいくという儚さ(vanité)を語っている。
The cherry on the top,Manon Rolland(Performance)
ヘンゼルとグレーテルは、森の中で迷子になっても、森の声が怖くても、お菓子の家を見つけて喜んだと思う。お菓子の家に心をときめかせない子どもはいない。カラフルなお菓子で組み立てられた彫刻に私たちはいつまでもワクワクさせられてしまう。クールなブラウス、エプロン、前髪をまとめる大きなブルーマリンのリボン、赤すぎる口紅にちょっとだけパントマイムを思わせる身振り。Manon Rollandのパフォーマンスは、展覧会のムードを突然パティシエのアトリエに変えてしまう。大きなテーブルに店開きしたアイテムを次々に積み上げていく。黄色、抹茶色、紫、ピンク、色とりどりのカステラや蒸しパン、パウンドケーキたちはうずたかく詰まれ、動物の飾りやロウソクと花火で飾り付けられて、さあ出来上がり。一見すごい色に見える全てのケーキは、彼女の手作りであり自然の色素や素材にこだわって作られ、所謂化学的な着色料のようなものを使用していないのだそうだ。ケーキはパフォーマンスを見守った人々によってたちまち切り崩され、貪られ、倒されてしまう。
Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono
本展覧会のキュレーションも務めたAnne_Sophie Yaconoは、パフォーマンス、絵画、彫刻など様々なメディウムを操る表現者であり、メディウムの特徴と向き合い、それらを自らの明確な目的に向かって産み直す彼女の作品には、強烈な性のコンプレックスがいつも影を潜めている。Les portes de Chattelandは、その陶器彫刻の精巧な色彩と形も、インスタレーションも、それがもつ小宇宙たるムードも、非常に素晴らしい作品である。彼女のリトグラフに、ダンテの神曲の地獄篇の一場面を描いた作品があるが、このフィクショナルな世界Chattelandの門(Les portes)という言い方も、我々のこの世界とは似つかぬ異世界への入り口としての門を想起させる。この「門」としての彫刻には穴があいていて、筒のような穴もあれば真ん中が裂け目のように細く開いたものもあり、切り株に据えられて固定されたものの他に、地を這う原始生物のような生命体が自由に動き回る。それぞれの彫刻は彼女の言葉では貯金箱(Tirelires)という存在から着想を得たそうだ。貯金箱とはその内部に異物をのみ込んで溜めたいだけ溜めることの出来る存在だ。私たちは、そこにお金以外のものも突っ込むことが出来る。そして蓄えて、ある日それがいっぱいになったら、金槌で破壊する。貯金箱の陶器彫刻はバリエーションある形態を持っているが、それらはすべて、中心にある最も立派な彫刻の子どもたちである。女性器の裂け目。我々はこれらの貯金箱がそのメタファーであったことを理解する。しかし実は、Chattelandの平和を保っているのは男性器の不在なのだ。貯金箱は自己充足していて、男性器を必要としない。Anne_Sophie YaconoはChattelandを女性性が優位に立つ世界として創造する。ただし、我々はその彼女の引き裂かれた欲望と悔悛をはっきりと目にすることになる。我々が中心にそびえる最も大きな女性器の裂け目を、その真後ろからのぞいたその瞬間に。
展覧会 Décongélations Prématurées
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食することとセックスをすること / eating and sex act
バナナをほおばりながら、もくもくと歩いていって、道ですれ違う人の視線が自分がバナナを食べる人に対して向けるのと比べ物にならないほど穏やかであることに気がつきながら、それでもしゅんとして食べようかがつがつと食べようか悩みながら歩いていって、ほっとすることにちょうどゴミ箱のある交差点で食べ終わってその黄色いバナナの皮をぽいと捨てたところ、ゴミ袋の一番上に私の捨てたのじゃない、私の捨てたのよりも酸っぱそうなバナナの皮がぽいっと捨ててあって、そうか、道で積極的にバナナを食べてもよいのだということに気がつく。部屋の外に出るということは、それだけで解らないことにたくさん出会うということであり、それを避けてはとおれないのであって、湿度が高くて目の奥が痛い日などにはそういったことは身にこたえる。
家の中にいても恐ろしいことは起こる。わたしはほとんどテレビを見ない。テレビから得られる情報や提示される物事の見方なんかにケッと思っているという訳でもなくて、それはたしかにもっとずっとずっと若いときにテレビ番組でコメントする人たちの恥ずかしげのない感じを見るにつけさらに恥ずかしくなるということをおぞましく思ったのだが、いまテレビを見ないのはただ単にみるチャンスがないからだ。大量の豚の死体が川から流れてくる映像が、それも大量の豚は川で溺死したのでまっさらに白っぽくなってフワフワに大きくなって、しかし川の流れの中でその身体はところどころに傷ついて、その生きていない肉の大量の塊をその川の近くに住む人が恐れながら、しかし乱暴に機械などを使って掃除しているという映像が画面を通じて音もなく次々に映し出された。システマチックに行われる家畜の管理などは、もちろん海の生き物を養殖することや、そもそも農耕も人間を養うという目的のもとに繰り広げられている崇高な営みであるらしいけれども、それは現代の人々の生活において、スーパーで食べ物を買う際にいろいろなことに気をつけるという以上に決して遡らないことになっており、大量の豚が運悪く病気になってしまったので燃やすのも費用のかさむことですので捨てられて川で溺死していることもとりわけ仕方なかったりやむおえなかったりするだけで、また今日もおいしく豚の生姜焼きなどが食べられるのである。わたしは肉を殆ど食べないけれども肉を食べて育ったし、魚は今でも食べることはあるし、植物は食べるし、いちいち何が混ざっておるか厳密に詳細に確認したりしないし、したがって自分を蚊帳の外に置いているのではぜんぜんない。それに、動物がかわいそうだから肉を食わないのでも何でもなく、それどころかどうしても摂取できないものなどはサーブされても放置しまくって日々を過ごしているので、もしそんなものが存在するならばだが「罪深さ」を競えば負ける気がしない。
ときどき、物を食するというサイクルから完全に逸脱することができたら、楽しいのではないかと思う。物を食するというのはサイクルである。だから、もちろんぐるぐる回る仕組みからぽーんと離れることができたら、それは楽しいに決まっているのである。たとえばお釈迦様も食物をどんどんシンプルにしていって、お水だけを飲んで、そのうちお水も飲まないでしばらくしばらくすると、それまでとは次元の違うことになったのである。人間のすることは中途半端なので、世の中にはずーっと続けるわけではない絶食なども存在する。宗教的な絶食も、健康のための絶食も、積極的な目的で行われる絶食のたぐいは、おそらく、そうやってサイクルから外れることによって、つまり今までただひたすら繰り返してきたことから決別するようなことなのだとおもう。つまりはそこで、決別したといっても完全に決別できないのは残念なことであり、身体を伴っているわれわれはこれがどんなに魅力的でも、とても意味のある形でこれと決別することがなかなかできない。一般に、身体を持ち続けるために食するサイクルを巡り続けることは必要不可欠であり、身体を持ち続けることが生きることのポジティブな意味と考えられているのは事実であり、大きな流れにしたがうことはある意味で楽であろうとおもう。
肉体が肉体としてやむおえず感じられるケースでふたつの強烈なものの例は、やはり、食べるサイクルに関わることが一つと、もう一つはセックスに関わることである。食べるサイクルは、異物が自分の(と思っている)肉体を通過して、なんらかの影響を与えてでてゆき、また入ってくる過程であり、セックスは異物との境界(があるならば)が破壊され、それが具体的な結果を伴う可能性を持つような過程である。食べるサイクルを逸脱することにたいして、セックスをするという営みから完全に決別することは比較的不可能ではないように思われる。ただし、セックスはしなければ死ぬというものではないために、逸脱したからといって、そんなに画期的に楽しそうでもない。
ひとつ言えるのは、セックスをしないまま食のサイクルに属し続けることはあるが、
食のサイクルから自由になったものにはセックスも必要ないということである。このことは、ありそうもないことに聞こえるかもしれないが、それはけっこうポジティブなことであって、ちょっとしたお札のように、それを遠くに想像するだけで、いろいろなことがもう恐ろしくない。