09/24/13

奇形魚のクッキーを食べて、食べ物のことなどを思う。/Deformed fish cookies @Société de Curiosité

奇形魚のクッキーを食べて、食べ物のことなどを思う。

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今週末、9月28日土曜日、夜、パリの北のほうでパフォーマンスをする。
パフォーマンスといっても私はバターを泡立て小麦粉を混ぜて、大きくのばした生地にこまった魚の型をとり、それらをオーブンに入れて魚のクッキーを焼いて、イベントを訪れる人々にクッキーはいかがですかと、たずね回るかあるいは、デフォルメされたお魚の下手くそな絵をクロッキー帳に描いてみるのみである。おどったり歌ったりすることもなければ、素敵な詩をフランス語や日本語で吟じたり、オカリナを吹いたりもしない。そこでおこるのは、ココアやお茶の香りのする、何よりもまずフランスの恵まれた大地でのっしりと育った牛の巨大な乳によるバターの臭いのする、焼き菓子がふるまわれ、それを手にした人々が食べるという、それだけのことである。

それだけのことであるゆえに、ぜひ来てほしいと思う。

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人生には、忘れたくても忘れられないことが時々起こる。たいていのことは、年齢を重ねるに連れてどうでもよくなって、完全に忘れてしまうか、無関心になる。その瞬間には非常に悲しかったことも、非常に大切だったことも、時が流れるというサラサラとしたその働きによって、悉くどうでもよくなる。それでも時には、時に流されない強烈な感情に出会う。矛盾したことのように思えるが、じつは、強い印象というのは、たったひとつの感情によっては決して引き起こされない。そういったものは、それが怒りであれ、悲しみであれ、実はだんだん遠のいて行ってくれる。消えないのはそれがなんであるか、いつまでもはっきりと分からないような感情なのだ。

2年前の3月に東北の震災があったとき私は既に外国で暮らして一年半くらいが経過していて、それはとても中途半端な時期であった。新しい生活の場で人間関係を築きつつもそれは依然としてしっかりとしたものではなく、フランスという国の生活をすこし理解したような気もするが一方で日本にいつでも帰りたいと思えるような、そんな引き裂かれた気分で鬱々と朝から夜、夜から朝を迎えていた。ある日震災がおこり、その後はどこに行っても誰に会っても、日本の被害の現状と放射能問題について情報と意見を求められた。来る日も来る日も異なる人から同じ質問を受け、ときには私が将来日本に戻る気があるのかどうかといった質問を真剣に投げかけてくる人も会った。私は疲弊して、外に出るのも人に会うのも嫌になった。そんな中、たくさんの人と協力して一回目のチャリティーコンサートをムードンの教会で実現した。司祭さんも承諾してくれ、日本人の多くの音楽家が一生懸命練習した。地元の方にも来てもらうことや一緒にコンサートを行おうと言う主旨で、地元合唱団が協力•参加してくれることになった。私はこの日、抹茶のクッキーを差し入れに焼いて持って行った。彼らは喜んでくれた。一人の年配の女性合唱団員が、クッキーを配る私のトレーが目の前にまわってきたとき、「このクッキーは、放射能汚染されてないの?」とたずねた。私はどのくらいのあいだ、言葉を失っていたか思い出せないが、おそらく数秒の思索ののち、その女性の質問にはウイ、ノンで答えなかったのではないかと思う。私は演奏会開始前にものすごい泣いた。演奏会は、弦楽器、管楽器の演奏者、ホルンアンサンブルのグループ演奏、どの演奏者もすばらしかった。合唱団の連れてきたオルガン伴奏と共演のトランペット奏者の演奏が誰の耳にも分かるほど際立ってめちゃくちゃで、演奏途中に止めようとしたくらいであり、私は演奏会終了後も疲れるまで泣いた。

この年配女性の放射能汚染クッキー疑惑は、耳を疑いたくなるのは私たちが感じやすい日本人であるからで、ちっとも珍しいことではない。(誤解しないでほしいのだが勿論、この女性の無神経さを批判するフランス人もたくさんいる。)先ほど、あまりに日本の状況を尋ねられるので疲弊したと言ったが、それには時々まともに受け止めきれないヘイトスピーチの類いも含まれていた。日本は綺麗な国だったけど、もう汚染されているので旅行できない、日本の製品は買わない、レストランのしょうゆは汚いのではないか、できるならせっかく外国にいるあなたたちは帰らないほうがいいのではないか。

奇形魚のクッキーは、美味しい。これらのクッキーは、フランスのバターと小麦、そして卵、および、フェアトレード製品のみで作られている。基本的にビオの品物からなり、一般的に身体にいいと信用されているものから作られている。食物の安全性と衛生、生産地がどこであるか賞味期限はいつまでか、どのようにどこでだれに加工され、どのようなルートで誰の手を伝わって、どんな風に保存され、洗われ、何と共に調理されて我々の体内に忍び込もうとしているのか。国産の商品は国によってそれを買うように奨励されており、フェアトレードの商品はフェアトレードのマークによってその安全性を保証されて、それを購入し食することは特定の国や人々を経済的に助けることに繋がるという意味を与えられて、購入するように奨められている。

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高嶺格さんの作品『ジャパン•シンドローム』の中に、非常に印象的な一節があった。福島産の桃には値がつかないというので、桃農家の人は仕方ないので非常に安い価格で販売されているのだが、あるいは、とれた桃は置いておいても腐ってしまうというので、ただで与えられており、一人の消費者が「お金を出してはぜったいに買わないが、ただなら」といって持って行ってしまうくだりだ。(うろ覚えの部分があって細部が厳密には違うかもしれない)買わないが、ただならもらってやるというのである。結局は、食べるということだ。この消費者は食に困るほど金がないわけではない。ここにきて、食の安全という前提と信じていたものが、いとも簡単に壊されるのを目の当たりにし、戸惑うのはとうぜんである。戸惑うのは、作品をみる我々だけではない、本当の情報というものがどこにあるのかあるいはどこにもないのか、分からないのは被災地の人々も同じだ。

日本を囲む海の周りで、奇形魚が増え始めていると言う情報、それらを我々がどこかで口にしているかもしれないという情報、それらが放射能被害であると言う情報、それらは養殖によるもので過去と比べて変化などしていないという情報、現にセシウム値が異常に高いという情報、そんなもんはデタラメだという情報。なせ我々は、こんなにたくさんのことを知り、たくさんの情報を受け止め、たくさんのことを学んでいるにもかかわらず、なにひとつ本当らしいことを知ることができないのだろう。

魚のクッキーはおいしいと思う。
だから、みんなで食べましょう。
28日の夜、イベント会場@Société de Curiosité, 123, rue de Clignancourt 75018, Paris でお待ちしています。

Je participe à l’événement Human Frames @Société de Curiosité, Paris le 28 septembre 2013. Venez nombreux pour partager le moment délicieux et inquiétant avec les cookies en forme des poissons déformés. Voici ma lettre.

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Deformed Fish Cookies

We are very sensible and nervous about
our foods’ safeness, hygiene and origin.
It sounds very reasonable for our health.
However,
Food production process is very visible to us ?
Not really.
It’s still in the darkness.
The fair trade is good
for helping developing countries financially.
These products are supposed to be well controlled, safe and delicious.

Radioactive contamination for foods in Japan is serious.
2 years after the Fukushima plants’ explosions,
deformed fishes are found in the sea.
You will reject buying these fishes.
Many fishers lost their jobs.
If they give you fishes,
will you have them ?
otherwise,
in order to help poor fishers,
can you purchase these deformed fishes ?

It’s a question.

What do you react
if someone ask you to buy strange foods
« to HELP PEOPLE IN DIFFICULTIES » ?

I hope your deformed fish cookies please you.

Miki Okubo

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Cookies de Poissons malformés

Nous sommes tous très sensibles à
la sécurité, l’hygiène et l’origine des produits.
C’est logique pour notre santé.
Cependant,
Les processus de fabrication alimentaire sont-ils vraiment visibles ?
Non, pas vraiment.
Ils sont dans les ténèbres.
Les produits équitables sont bien
pour aider les pays en voie de développement.
Ces produits seront bien contrôlés, en sécurité et bons.

La pollution radioactive de l’alimentation au Japon est grave.
2 ans après les explosions nucléaires de Fukushima,
les poissons malformés se trouveraient à la mer.
Vous refuseriez d’acheter ces poissons.
Les pêcheurs ont perdu leur métier.
S’ils vous donnait ces poissons,
les vous-prendriez?
Sinon,
pour aider ces pauvres pêcheurs,
achèteriez-vous ces poissons malformés ?

Ceci est une question.

Que feriez vous
si quelqu’un vous demandait d’acheter la nourriture non-conforme
« pour AIDER LES PERSONNES EN DIFFICULTÉ » ?

J’espère que les biscuits de poissons vous plairont.

Miki OKUBO

01/28/13

高嶺格のクールジャパン/ TADASU TAKAMINE’S COOL JAPAN @水戸芸術館

高嶺格のクールジャパン/ TADASU TAKAMINE’S COOL JAPAN

2012/12/22 – 2013/2/17
水戸芸術館現代美術ギャラリー/Contemporary Art Gallery, Art Tower Mito

 

昨年末に帰国した折、幸運にも日程がぴったり合い、12月22日から始まったばかりの水戸芸術館における美術家高嶺格さんの展覧会、「高嶺格のクールジャパン(TADASU TAKAMINE’S COOL JAPAN)」(高橋瑞木さんによるキュレーション)を観た。これまでも高嶺氏の作品には非常に興味があって作品が見られる機会があればうかがわせていただいていた。また、展覧会タイトルであるクールジャパンにも惹かれたし、そして3.11以降に撮影された映像作品「ジャパンシンドローム」をどうしても見たかった。そして、長いあいだ戸芸術館はぜひ訪れてみたい場所でもあったので、ついに訪れることが叶った。京都から始発の新幹線に乗り、スーツケースが破壊するなどのアクシデントを経て上野からスーパー常陸に乗って水戸へ。駅からは気持ちよく晴れた空の下を歩き、堂々と魚を盗んでいる猫などを撮影し、水戸芸術館に辿り着いた。

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「高嶺格のクールジャパン」はインパクトのあるタイトルであるが、このパブリシティのデザインも凄い。クールジャパンという言葉は、1990年代のクールなイギリスカルチャーを盛り上げようとブレア首相が名付けたクールブリタニアという言葉がもとになっているらしい。(Wikipediaによる)クールジャパンは、日本のポップカルチャーを « Oh, it’s so cool !! » と手放しに褒めちぎる態度で、それは日本の外側にいる人々がその内側を覗き込む視線によって作り上げたイメージみたいなものだと私は考えてきた。もちろんこの10年間、日本の大人たちが隣国の「パンダ外交」並みに真面目な顔をして、現代日本文化を代表しうるこのソフトパワーを国益のための外交戦略に利用してきたのは人々の知る通りである。ただし、それはフィードバックの一つの結果に過ぎず、外で騒がれている出来事の実態が分からないまま、どこを歩きどこに行くかも決めないまま、現在までなんとなく来てしまったのではないかというのが私の言いたいことである。「かわいい大使」とか、世界コスプレサミットとか、マンガ•アニメ、ケータイ、アイドル、そして、アート。数えきれない雑多で瑣末な物事も、それがともかく日本のタグをつけたポップな存在ならば、なんの熟考を経る必要もない。とにかくクールな現代日本文化の枠組みに突っ込まれればそれだけでうまくいく。19世紀の西欧におけるジャポニズムの大盛況以来の黄金時代を純真無垢に享受し、日本文化と言えばちやほやしてもらえるハッピーな10数年間を我々は眺めてきた。私はこの間、フランスに住んだ4年近くの期間とそれ以前も何度かヨーロッパで知人に会う度に、「クールジャパン効果」というべき無条件なちやほやを体験してきた。以前はそれを、大陸の人たちが小さ過ぎて見えない島国日本の文化の上にロマンティックな幻想色の絵の具を塗り付けた結果に過ぎず、所詮は自分たちの知らないエキゾチックなものを崇め奉るようなものに過ぎないのではないかと、距離を置いて考えていた。一方で、その熱狂的なラブコールは未だ収束するわけでもなく、一次的な流行でもなければ無視してやり過ごせるものでもないことに否が応でも気づかざるを得ない。しかし、それが何であるのか、それを目の当たりに私はどうしたらいいのかについては一向に考えがまとまらぬまま生活を送っていた。

 

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私にとって、この思考の単なる堂々巡りから少しズレるきっかけを与えてくれた文章に、吉岡洋さんがブログに掲載された「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか?」という記事がある。これは非常に多くの人に関心をもって読まれたようで、このことからも、かなりの人々が「クールジャパン」という現象と言葉の響きに対してうまく説明できない不愉快さや気持ち悪さを感じていたことが分かる。私自身、昨年に本ブログに掲載した「ゴスロリ衣装を外国で着ること。」というテクストにおいて、クールジャパン(あるいはジャパン•ポップ)の記号の一つであるコスプレ(ゴシックロリータ)を自分自身が纏うとは何を意味するのかについて書いた。しかし、実はこれは、クールジャパンをどう考え、それとどう向き合うのか、という自分自身への問いであったのだ。(余談だが、この当時私はこれをやはり多少なりとも「恥ずかし」く「不愉快」に感じ、同時にそれを言語化も他の手段でも表現化できないことに焦っていた。とりわけ、私はこのポップカルチャーにかんし、海外でプレゼンする誘いを引き受けて何度かこれについてレクチャーしていたし、2009年にはスペインのコルーニャにおける国際記号学会で、 »Cool Japan »と題されたセッションにも参加した。(Semiotix Cool Japan in Coruna )そういったわけで、この問題について、それがなんであるかを知らないまま無視し続けることはもはやできなかった。)

 

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「高嶺格のクールジャパン」に話を戻そう。そうそう、パブリシティのデザインの話である。アニメ文化のオノマトペ感が骨の芯まで染み渡った世代の人々なら、このレタリングをながめると自ずと、同じ音を内耳に響かせてくださるのではないかと思う。

シャキーン! とか ピキーン! とかいう音である。

シャキーン!もピキーン!も何かが瞬時に凍り付く様子を表すオノマトペであるが、ピキーン!に至ってはものすごく硬くて厚みのある氷がキラリとするような様子を読者に想像させる音である。この「クールジャパン」の字体はつまり、シャキーンとかピキーンの音が聴こえるようになっており、ものすごく平たく言うと、クロネコヤマトの「クール宅急便」的な字体である。この展覧会で問題化される「クールジャパン」は、したがって上述したような、海外からちやほやされ愛されてホカホカのクールジャパンではなくて、美術家高嶺格が自国の問題として、彼の視線を通じて静かに距離をもって観察するクールジャパンなのだと判る。それは中途半端に冷えているのではなく、凍り付いて溶けないほど「クール」なのである。

 

この展覧会のコンセプトについて高嶺格さん本人が書かれたテクストをここに転載したい。(水戸芸術館、高嶺格のクールジャパン

「女は、女に生まれるのではない。女になるのだ」という、ボーヴォワールの有名な言葉があります。自意識が形成される過程で、個人に対しいかに社会の集団意識が影響するかを端的に言い表したこの言葉は、現在の日本でますます大きな意味を持つのではないかと思います。「日本人は、日本人に生まれるのではない。日本人になるのだ」あまりに身近にあったため、意識に上ることのなかった物事。あるいは巧みに操作され、意識に上がることを妨げられてきた物事。これらの物事に対し、私たちがついに当事者となったのが現在の状況だと言えるのではないでしょうか?

自分の中になにがあるのか?自分はどう作られてきたのか?3.11のあと、煙に燻されるように出てきたのはその問いだったように思います。「人はなんのために生きるのか?」古代から途切れることなく思想されてきたこの問いを、自分の生きてきた時間と重ねて、鑑賞者と共に考えてみようと思います。 高嶺格

 

展覧会は、上のコンセプトに従って8つの部屋に分かれていて、一つの部屋から別の部屋へ通過するためには、黒いビニールテープのフサやカーテンをくぐって行かねばならない。フサもカーテンも、其れ自体は一方通行ではないのだが、隣り合う部屋は分厚いフサや重たいカーテンでしっかりと区切られている。とりわけこの黒いフサの厚みは、通り抜ける途中、このままどこにも辿り着かないのではないかと一瞬鑑賞者を不安に陥れるような厚さなのだ。以下が8つの部屋の構成である。

 

クールジャパンの部屋
敗訴の部屋
標語の部屋
ガマンの部屋
自由な発言の部屋
ジャパン•シンドロームの部屋
核•家族の部屋
トランジットの部屋

 

まだご覧になっていない方もいらっしゃると思われるし、具体的な展示物についての言及は必要がないかと思う。何点かだけ、印象や記憶を付け加えさせていただきたいと思う。隣り合う部屋はしっかりとその二つの世界を隔てながらロジックに強く繋がっており、鑑賞にパワーを要する。

標語の部屋では、すべてが皮肉というよりはむしろ空虚に響いてくるように感じられる。日本社会はアナウンスや張り紙や標語だ大好きだが、それは言葉にすればするほど真実から離れていき、言えば言うほどそれが決して実現され得ない何かに変わっていく。よどみなく流れてくるたくさんの標語は、この国にはこんなにもできないことがあったのかと、静かに気がつき納得する。ガマンの部屋では、人々は色々な理由で色々なものを我慢していることが描き出される。他者にあるいは自分に色々なニュアンスで「我慢しなさい!」と言われたり言いながら私たちは生きている。実は、ここで光が当てられるひとつのことは、「我慢しなさい!」と言う人々自身が、さらに何かを我慢しているという冷たい事実だ。その声は苦痛に満ちていて、くるしい。じつは、我慢しているのは、そうするよう言われている子供や弱者などではなく、日本社会に属するすべての人がその中に、相対的な上位者も会社もみんなを取り込み、集合的に我慢をしいるような構造をとっている。それはなぜでそれからどうしようというのか?自由な発言の部屋は、いつも海外でニコニコしている私たちの他者への攻撃性が非常に工夫された方法で提示されていたのだが、やはりその意味するところのあまりの強さに、ジャパンシンドロームの部屋に辿り着く前に、少しだけ呼吸をととのえる必要があった。

トランジットの部屋に身を置いた時、とてつもなくはっきりしたデジャヴュ感に襲われた。その理由はわからない。私はこの直後美術館の階段をものすごい早さで駆け上がっていく高嶺さんの姿を目にした。あまりに驚いて、自分が会釈したかどうかもよく覚えていない。実はこの日、一時間の滞在が予定されている日であったらしい。