04/7/13

The Fragile, Louise Bourgeois / ルイーズ•ブルジョワ 『The Fragile』

The Fragile, Louise Bourgeois / ルイーズ•ブルジョワ 『The Fragile』

MoMA
Inside / Out, The making of Louise Bourgeois’s The Fragile

installation

初めて訪れたニューヨーク近代美術館(MoMA)で、未だかつて見たことのないとても素敵な絵を見つけた。2010年に98歳で亡くなったパリ生まれのアメリカアーティスト、ルイーズ•ブルジョワのThe Fragilesという一連のシリーズである。スペースの壁に展示されていたのは36枚のドローイング。青や水色で描かれた女性の身体。それらはある時は妊娠し、あるいはその胸を我々に向かって解放する。またある時は、かの有名な蜘蛛の姿になって紙の上を滑らかにうごめく。彼女の作品の幾つかを知っていれば、一目見て「ブルジョワの作品」と気づかないわけにはいかないほど、明確に一貫し、繰り返されるライン上に位置する作品であると言える。しかし、なぜだか、以前のこのような作品とは全く似つかない予感をこれらのドローイングは隠している。

ルイーズ•ブルジョワは、嫌われたり愛されたりするのに、ややハッキリしすぎる。しかしその方法は、上述した「一貫し、繰り返されるライン」によって固定化されるブルジョワ的世界観に囚われているだけなのだ。グロテスクなもの、不安をかき立てるもの、女性性の歪められた表象、男性性への恐れと憎しみ、生きることの痛みのある意味での物質化…。これらは確かに、分かりやすく理解可能な説明だが、その過剰に明解な定型文たちはぐるぐると同心円を描いて軌道を回り続け、そこには抜け穴も逸脱の可能性も、ない。わたしがこの素敵な絵を見て感じたことは、むしろ、それらの化石のような理解可能な説明とは無関係に、ブルジョワは世界に生きているということだった。「ラディカルに」しかしひたすら同じことを繰り返すアーティストは、これらを描いた95歳のその時も絶えず生きて、彼女の内部が変わり続けていたということに他ならなかった。このことをもう少し具体的に述べてみたい。

突然だが、何の悪意もなくわたしの個人的な印象を述べることが許されるのなら、ブルジョワが大嫌いな人は男性に多く、このことは事実である。なぜなのか? その理由はごく単純で、ブルジョワが作品制作を通じて、世の中の男という生き物を裸にして晒し者にし、それだけでは気がおさまらずに滅ぼしても滅ぼしてもなお、復活させ痛めつけ、滅ぼすことを飽くなく繰り返してきたからである。ルイーズ•ブルジョワは男性が嫌いだ。そのこと自体はいくら聞き飽きたからといって覆そうと思っても意味がない。彼女がボコボコに解体しようとする男性性というものが彼女の父親像に端を発していると言うこともまた揺るぎない事実だ。彼女の父は彼女の母と家庭教師であったもう一人の女性と肉体関係を持ち、この二人の女性と同居した。ルイーズもこの一つ屋根の下にいた。ルイーズもまた彼女の父によって性的に望まない被支配的状況に置かれたことも言われている。ルイーズの残した言葉の端々に、父による自己の破壊が読み取れる。

father

Destruction of the Father (1974) という作品は、強烈な作品である。わざわざ読みほどくのも恥ずかしいほど明瞭だが、「父を破壊する」というタイトルについて、彼女は「父がわたしを破壊したので、今度はわたしが父を破壊する。それがいけないわけないじゃない。」と言い放つ。まことにカッコいいことである。破壊された父は、テーブルの上でルイーズに食物として食われたのでした。これではあまりに酷い説明であるため、もう少しだけ。Destruction of the Fatherは、ルイーズがすでに63歳の時の作品で、家族を苦しめた父をテーブルの上に引きずりあげて、あなたのせいで皆苦しみましたから、あなたは食べ物として食われてしまえ、という作品である。ヴィヴィッドな黄色の丸いスカルプチュアが薄暗く天井の低い部屋にたくさん並んでいる。その真ん中にはテーブルがあり、テーブルの上には既に人間の外見は留めていない、言うなれば臓物だとかエイリアンの断片として表象された父がいる。そのテーブルというのもインスタレーションに入ればすぐさま連想するように、ちょうどベッドのサイズなのだ。ベッドにぐちゃぐちゃに散らばった父。ルイーズにとってのベッドは、父と母の眠るところであり、父が浮気する場所であり、人が子孫を生み出すところであり、同時に人が死ぬ場所でさえある。この作品において、ルイーズ•ブルジョワはフロイトの女性性に関する理論(欠けた存在としての女性)を参照し、その理論に異義を唱えながらもそのことを不安に思うと言って、結局はそれを食べるのである。このことはフロイトをひとまず退け、彼女の父に対する距離を考えるならば、興味深く思える。破壊されるべき父を無惨にばらばらにしたのちに、彼女はそれを摂食することによって、自らの中に吸収•統合してしまうという行為。この一点において、Destruction of the Fatherは煮え切らず、気持ち悪いのであり、この一点においてのみ作られた意味があるとわたしには感じられる。

さて、それから彼女は長く生きた。2007年にそれらのThe Fragileシリーズを描くまでの33年の日々。まだ33年生きたことがないので、わたしはそれがどれくらい長いのか知らないが、どちらにしても同じ時間は流れないので、わたしには一生知り得ないことである。

louiseB

さて、The Fragileシリーズは、ルイーズ•ブルジョワの作品の中でずばぬけて平和的である。そこには攻撃性や暴力的なものがない。妊娠した女性の大きなお腹の青い色は丁寧で優しい。こどもを産む女性の膨らんだ胸から、赤子を育む母乳がほとばしるその様子なども、光が差し込むように明るい。赤などの色彩を帯びたときでさえ、そこにあるのは生命の温度である。あるいはまた、いまや世界中に点在する巨大な蜘蛛スカルプチュアの不気味を想起させる、中心に顔と放射線状に伸びた無数の腕をもつ生き物は、皆あっけらかんとしていて、かつてのようには苦しんでいない。それらは、フロイトによって「欠けた存在」と名付けられ、しばしば父なる存在に支配を受けながら子を産み続け、不運にも、世界の中に根を張ることのできるような普遍的に安定した場所を持たず、海の中をフワフワと漂う原始的な藻類の仲間のように、描き出される。それは、彼女がとても長い時間をかけて見いだしたひとつの生き物の形のことである。これらのドローイングが明らかにすることは、ルイーズ•ブルジョワが、恐れ続けていたものに対していっさいの恐れを失ったということであって、恐れがない彼女の作品は見る者に生き物の形を見せながら、それが酷くいびつなものであっても、いつかそれが怖くないのだということを語っているのが聴こえてくる。