02/10/14

「リアル」になる「おしゃべり」

ツイッターやフェイスブック、あるいはブログやチャットに至るまで、ソーシャルメディアは、人々がある程度気が済むまで嘆き、怒り、語り、喧嘩し、捨て台詞や負け惜しみ、思い切りペシミスティックなレトリックを言い放つための、プラットフォームを与えることによって我々の心を穏やかにしてしまう最も恐るべき装置である。その覇気に満ちた言葉を発する「前」と発した「後」で世界は全体として何ひとつ変わっていない。我々がその充実したプラットフォームで繰り広げているのは、その程度の「おしゃべり」に過ぎないことを忘れてはならないのだ。

 誤解を避けて断っておけば、私は「おしゃべり」が世界を変えないなどとは一言も言っていない。むしろ、おしゃべりは世界を創りかえる。私たちの活動の多くはおしゃべりだ。私はよく何かを書き、大学や学校で様々な人と喋り、メールも電話もする。ブログも書くし、フェイスブックも使う。そのおしゃべりが無駄だとは思っていないし、喋ること、おしゃべりによって物事を解決すること(=和平)は、戦争の対義語として教えられており、そこまでの敬意をこめて、人間のおしゃべりは価値があると我々は生まれてからずっと教えられている。

 では何がよろしくないのか? それは、おしゃべりによって得られる予定された「満足」である。人はある程度言葉を吐き出してしまうと、それが、書いた物であれ、語りであれ、やり取りの有無や他者の反応を問わず、満足してしまう愚かで幸せな習性をもっている。

 江戸時代、8代将軍の徳川吉宗の治世に「目安箱」が設置されたことは小学生も歴史の授業で習う。将軍様が民衆の声に耳を傾けた、画期的な仕組みであり、町人や百姓の要望や訴えを真摯に検討するためのすばらしいシステムだった、などと教える学校の先生があるかもしれない。あれも一種のプラットフォームであろうか? などと考えては大間違いである。目安箱に投函されるのは訴状であり、現代のカスタマーサービスについてのアンケートなどとは緊張感が違う。江戸時代の町人や百姓の識字率は、寺子屋が本格的に普及するのが天保年間(1830年代)であったことからわかるように、その100年前に、百姓が身の回りで生じた困ったことについて、訴えることなどできなかったはずである。当然のことながらこの起訴は、住所•氏名を明記する記名制で、将軍が直接目を通して対応したと言われていることから分かるように、よほどの決意とリスクを背負う覚悟なしには使用されなかった。目安箱は一方で、「民衆の意思を汲む幕府」というプロパガンダには一役買ったに違いない。

 そのように、発言することが死の恐怖と隣り合わせであり、そもそも何かを書いたり語ったりするために伝播力あるメディアをもたなかった人たちに比べれば、現代の私たちは、自由である。いくらでも思ったままの荒削りの言葉を、それがどこに飛んで行くか見定めることなく放ることができる。ある大統領の顔写真を偽札に貼付けて、その紙幣の金額が示されるべき場所に「ゼロ」と記してソーシャルメディア上で拡散しても、翌朝獄中で手記を綴る危険などを覚悟する必要が全くないほどに、私たちは奔放だ。

 奔放な我々は激しく怒り、暴言を吐き、悲観し、慰め、勇気づけ、分かり合う。現実世界のそれと変わらず、インターネット上での他者との交わりもまた、抵抗を伴う。異なる意見、批判、議論、応答。人はこれらのことに疲労する。疲労はやがて充実感となってその人の、不満と怒りに満ちていたはずの心に穏やかさをもたらし、魔の満足は、忘れることを望まない心象を永遠に麻痺させる。本当に変えたかったそのものには何一つ届いておらず、現実世界はまだ変わっていないのに、勢いあった心象は突如希釈されてしまう。これが、プラットフォームの力だ。

 繰り返される衝動の麻痺と、現実世界で実現される結果への違和感。私たちは、このプラットフォームを、自分自身を慰めるためでなく、それが現実世界を震動させるエネルギーとなるよう、新たに考え認識するべきだ。サイバースペースが「ひみつ」を共有する、閉じられて匿名的な温室であったのは昔の話だ。我々は、ミクシーに飽きてフェイスブックやツイッターを始めたとき、「ひみつ」も同時に放棄したのだ。我々は、ソーシャルメディアには「アラブの春」を勇気づけるようなリアルなエネルギーへのキャパシティがあることを知っている。どれほどのフィジカルな動きが、それを介したかということを。

 我々のそれが、依然としてヴァーチャル(潜在的)なのだとすれば、それは、まだ我々が未だそれを使いあぐねているからである。それを利己的で繊細で虚飾的な道具としてしか使えていないからである。ネットは「リアル」に繋がる。傷つきやすく自己防御的なディスクールと、ドラッグに似た機械的満足感で、小さな世界を慰めようとするのを諦め、ほんとうのおしゃべりに身を乗り出すとき、ネットは「リアル」になるのだ。