07/4/15

La soutenance du 30 juin 2015, Espace Deleuze de l’Université Paris 8, « Exposition de soi à l’époque mobile/liquide »

La soutenance qui a eu lieu le 30 juin à l’Université Paris 8.Merci à tous ceux qui sont venus pour me soutenir ! J’achève une fois ces longues recherches durant 5 ans. Je suis très honorée d’avoir travaillé sous la direction de M. Jean-Louis Boissier, mon directeur de thèse, qui m’a soutenue et encouragée énormément, et d’avoir eu la participation des membres du jury, M. Olivier Lussac, M. Hiroshi Yoshioka et M. Mario Perniola, à cette soutenance. Maintenant, je souhaite vivement contribuer au développement et à l’évolution des pratiques artistiques à propos de « l’exposition de soi » (comme c’était mon sujet de recherche) par divers moyens éventuels !

Titre de thèse : Exposition de soi à l’époque mobile/liquide
Membre du jury : Monsieur Jean-Louis BOISSIER (Directeur de recherche)
Monsieur Olivier LUSSAC
Monsieur Hiroshi YOSHIOKA
Monsieur Mario PERNIOLA

Résultat : Très honorable avec les félicitations du jury

Résumé (Fr) : La réalisation de l’expression artistique n’a jamais été si « facile » qu’aujourd’hui, et les enjeux de la création n’ont jamais été si « banals ». Il existe divers moyens pour satisfaire nos désirs expressifs, tels des moyens traditionnels et contemporains. Malgré cette facilité, nous avons peu de possibilité pour devenir un artiste célèbre. Nous sommes aujourd’hui bien conscients de cette situation difficile jusqu’à ce que nous soyons même parfois désespérés vis-à-vis de ce nouvel environnement médiatisé.
Cependant, selon les recherches archéologiques, cette situation n’est pas nouvelle ni particulière. L’art est depuis toujours un moyen possible pour surmonter des problèmes personnels. En cherchant une expérience partageable avec les autres, nous bénéficions de l’utilité de l’art pour sublimer la difficulté de la vie.
Le monde caractérisé par sa nature «mobile» et «liquide», donne naissance à l’art contemporain qui met souvent en lumière la question de l’intimité. Sa signification est en fait liée à l’universalité, qui semble pourtant s’éloigner de la notion d’égoïsme et d’individualité.
Cette thèse a pour but de considérer l’exposition de soi « plurielle » pratiquée à l’époque « mobile » et « liquide », afin de comprendre la véritable signification de l’acte expressif. À travers l’observation des réalisations artistiques telles la photographie, la mode, la littérature et d’autres créations, je fonde une étude sur l’esthétique de l’exposition de soi non seulement par les artistes mais aussi par les amateurs, pour interpréter son utilité des points de vue sémiologique, phénoménologique, archéologique, anthropologique et esthétique.

Résumé (En) : Artistic expression has never been easier to carry out than today. Engaging in creation has even become a mundane, commonplace undertaking. We have a vast array of mediums available to us to satisfy our desire for self-representation, including traditional and modern medias and advanced technologies. Despite this ease of access to platforms for self- expression, creators have no chance of becoming a celebrated artist. Facing this truth during our everyday interactions online and with modern media leads us to feel rather disheartened with today’s media environment.
However, from historical point of view, today’s context of creative work and exposition is neither new nor unique. Art has always been one possible way to process or overcome personal problems. In our search for shared experiences with others, art is useful in easing life’s difficulties.
Today’s world, characterized by its « fluid » and “mobile” nature, is giving birth to a contemporary art that often highlights the question of intimacy. Its significance is universal, while being distant from notions of egoism and individualism.
This thesis aims to consider “plural” self-representations practiced in our “fluid” and “mobile” world, in order to better understand the importance of expressive acts. Through the careful study of artistic activities such as photography, fashion, literature and other domains, I present a study on self-representation and exposition, found in both professional and amateur creative activities, to interpret how self-representation and exposition is useful and even essential, from semiological, phenomenological, archeological, anthropological and aesthetic points of view.

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06/27/15

SOUTENANCE DE DOCTORAT, Miki OKUBO

AVIS DE SOUTENANCE DE DOCTORAT
(Arrêté ministériel du 7 août 2006)

École doctorale Esthétiques, sciences et technologies des arts
Discipline
Esthétique, sciences et technologies des arts – spécialité arts plastiques et photographie

Miki OKUBO

Titre de la thèse
Exposition de soi à l’époque mobile/liquide

Membres du Jury
Monsieur Jean-Louis BOISSIER (Directeur de recherche)
Monsieur Olivier LUSSAC
Monsieur Hiroshi YOSHIOKA
Monsieur Mario PERNIOLA

Mardi 30 juin 2015 à 14h00

UNIVERSITÉ PARIS 8
2, rue de la Liberté
93526 SAINT-DENIS cedex 02

Salle des thèses
Espace Deleuze
Bâtiment A, 1er étage (Face à l’Amphi A2)

07/3/12

畑田久美 大きなパレットで描く、色彩の画家 / Kumi Hatakeda, Peintre

畑田久美の絵は、前向きで強く、そして鮮やかだ。一目見たら忘れない、特徴あるかたちの捉え方と、明るく確信を持った色の配置。大阪で国際商学を学び大学を卒業した彼女が、絵を学び始めたのはフランス、パリにあるポール・ロワイヤル・アカデミー(Académie de Port-Royal)でのこと。2005年、若き画家の卵だった畑田久美は、力いっぱいアカデミーの扉を開けた。

学校の美術の時間、嬉々として熱心に絵を描いていたことを除けば、日本では一切美術のエチュードはしてこなかったそうだ。つまり、畑田久美という画家は、フランスのアカデミーで育まれ、認められながら日々進化し続けている一人の日本人アーティストなのだ。

Kumi HATAKEDA, Les échecs, 70×70cm

彼女がフランスに渡ってから、画家として6年間の日々を過ごしたアトリエにおじゃまさせていただいた。(Académie de Port-Royalのsite) 学長は、畑田久美の師匠であり、彼女が最も尊敬する画家であるジャン・マキシム・ルランジュ(Jean-Maxime RELANGE)。バカンス前の妙な時期の訪問と、ところ構わずの写真撮影を快く受け入れてくれた。若きアーティストとのツーショットにも快く応じてくれた。(二人でバラの花まで持って、ポーズをキメようとしている。チームワークは完璧そうだ。)
なるほど、師匠を心から尊敬でき、信頼出来るということは、真似たり参考にしたりしながら自分の型を作っていくようなワザモノを学ぶ際には特に重要なのだ。

Jean-Maxime RELANGE and Kumi HATAKEDA

以前、毎年グランパレで行われるFoire (siteはこちら) に彼女が出展したときにも一度お会いしているのだが、この師匠がいかに生徒たちを熱心に指導し、個人を尊重しながら芸術を教えてきたか、彼らの関係をちらりと見るだけで、とてもよく理解る。彼女自身は「最も信頼している師」と彼のことを語る。

昨年2010年、畑田久美はパリのポール・ロワイヤル・アカデミーでグランプリを受賞する。グランプリ受賞者の個展は、パリの中心、シテ島内のギャラリー、Galerie LeHalleにて2011年2月3日より行われ、間の会期中、多くの美術ファン、畑田久美ファン、フランスの美術コレクターたちが訪れた。会場に黒いドレスに身を包み現れた小柄な画家は、大きなキャンバスいっぱいに明るくはっきりとした沢山の色彩を楽しく踊らせることのできる、超パワフルなアーティストだ。(会場の様子はギャラリーのHPを御覧ください。)

Kumi HATAKEDA, La Belle, 55×46cm

私はこの画家の色の鮮やかさが大好きだ。目にしたことのある風景であるのに、画家の視線によって異化されていて、描かれた対象について一生懸命思いを巡らせる瞬間も好きだ。その瞬間こそがまさに鑑賞者が畑田久美ワールドに引き込まれる瞬間であるからだ。作品を見るものが、絵を前にして、それが何か、何を意味するか、何を伝えたいのか、じっと考えているとき、鑑賞者は文字通り芸術家の世界の虜になっている。見えているものに対し、いまだ解釈を与えられずにいるその瞬間だけは、私は私の言葉を持っていない。提示されたものに率直に対峙している幸福なひとときである。彼女の作品は、豊かな色彩を伴いながら、このしあわせな時間を私達に経験させてくれる。

Kumi HATAKEDA, Eclats d'Aulx, 100×100cm

Kumi HATAKEDA, Rythmes de legumes, 100×100cm

フランスに来て、ゼロから絵を学び始めたことには大きなメリットがあったと彼女は語る。子供の時から学びたかったことを毎日疲れきるまで真剣に取り組むことのできる、日常的だがかけがえのないしあわせ。
ここからは私の勝手な推測に過ぎないが、信頼出来る師匠や話のできる仲間に恵まれてすら、制作とはおそらく孤独な仕事であるのだろうし、表現者は葛藤と闘いながら彼らの表現活動を行なっているのだと思う。描きたいもの、描かれるべきもの、それをどのように描くべきかという問題をめぐる6年間という時間は、彼女が悩みまくるために十分長い期間であっただろうし、これからも沢山の鑑賞者と「しあわせ」を共有するために、畑田久美の表現は進化していくのだろう。

彼女はシャガールが好きなんだそうだ。シャガールはご存知のように「色彩の画家」とか「愛の画家」と呼ばれる。生涯ロシアとフランスを行き来しながら、生涯愛した妻をアメリカで亡くしたあと、フランスで晩年を過ごした画家である。たしかにシャガールはとても素敵な色で素敵な構図で絵を描く。
彼女の色彩の源であるパレットは、パレットの板の部分から20センチ以上盛り上がっており、もはや絵の具の彫刻とも言うべき代物である。このパレット、実は作品より高価だとの噂もきく。「いちいち洗わないの〜。」と笑顔で説明してくれたが、毎回洗わないこととパレットを彫刻作品にしてしまうことは別次元である。次回個展をされる際にはぜひとも一緒に展示していただきたい、彼女の制作の思い出がぎっしりと詰まったパレットだ。

artist's palette

パリで6年間、日本と異なる光の色や緑や人々を目にした彼女はこれから、もっと新しいものを見つけるために旅に出るのかもしれない。シャガールが晩年を過ごした南仏の光を体いっぱいに浴びるために。もし仮にそうだとしても、この色彩の画家はずっと、パリが育んだ画家でありつづけるだろうし、パリの光の色を忘れることはないに違いない。

彼女の恩師であるジャン・マキシム・ルランジュは、2010年の畑田久美グランプリ受賞に際し、以下の様な言葉を述べている。

   畑田久美の絵において、もっとも驚かされるもの。それは、熟考された、しかしこの上なく素直な表現。彼女が主題とする静物、裸体、あるいは風景は彼女の効果的な表象の仕方と天才的な構図のセンスによって、完全に捉えられ、従順なモデルとなっている。(中略) 豊かな色彩を使い、彼女が見捨てる色は一つもない。すべての色を知っており、そのすべてを愛している。キャンバスがすっかり色で覆われた時、色調への深い愛をもってこれらを完全に、そして思慮深い方法で調和させる。それは彼女にしかできないことだ。

謝意:バカンス前に無理を言ってお邪魔させていただきありがとうございました!
(インタビュー:2012年6月28日)

06/6/12

日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。part2

2012年5月13日(世間は日曜日)、この日の朝は早い。京大の加藤くんの発表が午前10時、9時半には機材チェックで集合。

この日一番ドキドキしたのは、個人発表のレジュメが足りなくなって、ファミリーマートに走った時だ。準備しているうちに、要旨に載せた作品分析の内容が思いっきりはみ出し、やむなく長々とレジュメに載せた部分があったし、心を込めて作ったレジュメでもあった。それに、せっかく日本で発表できる!!とワクワクやってきて、コピー代をケチってレジュメが足りないなんて、色々とおわってる(と思う)。せっかくファミマに行ったのに、ホワイトチョコ&クランベリークッキーを買い損ねたことには後悔の念が絶えない。

「なぜ人は外国のファッションに憧れるのか」は、二日目のシンポジウムのテーマである。コーディネートの高馬さんとは、スペインのコルーニャの学会で二人でフランス語で発表したという楽しい思い出がある。今回のシンポジウムでは、企画段階から当日まで、大変お世話になった。リトアニアからスカイプ電話をかけてくださったり、準備もとても楽しく勉強になった。いや、私なんかほとんど何も働けておらず、高馬さん、皆さんに感謝の気持ちでいっぱいである。

高馬さんがお話しされたエキゾチズムと未熟性への着目はとっても興味深い。西洋の日本のファッションへの憧れは、常にエキゾチズムの視点に立脚してきた。未熟性と無臭性を強調する日本のモードは、「アジアで最も西洋化した国」というアイデンティティーを西洋にもう一度突き返し、その価値を問う、盾であり矛であるのだ。

ジェシカさんの発表内容は、私自身もゴスロリとロリータカルチャーの海外輸出について色々調べたことがあるので、めずらしくちょこっと予備知識があった。だが、彼女の提示する視点は、さすが西欧の女性のものである。Yoji Yamamoto Comme des Garçons などの80年代以降パリのプレタ•ポルテで活躍したジャパンデザイナーが提案していた、クールでカッコいいファッションに憧れて日本にやってきた彼女が目にしたのが、少女というか人形というか子ども?!のようなフリフリ•ロリロリのスタイル。この流行を目に前にして、「日本のファッション界に騙された!!!」と思ったらしい。この発言はなかなかカッコいいなと惚れ惚れした。日本という国は、しばしば、小さくて美しい繊細な箱に入った、ノスタルジックなおとぎ話のように、ヨーロッパの人々に妄想されている。(日本人が、フランスに行けばマリー•アント•ワネットの世界が広がっていると妄想するように。) そう言われてみれば、Rei Kawakuboのギャルソンのスタイルは海外のアクティブで格好良くてオシャレなそしてやっぱりややギャルソンヌな女性に心から愛されているようだけれども、そのスタイルは、国内でティーンズやヤングのファッション雑誌のページの大部分を占めるような、いわゆる「はやりのスタイル」には成り得ない。ニッポンの女の子は、可愛くなきゃいかんらしい。

池田さんが見せてくださった映画の抜粋に登場する大正ゴスロリ少女は凄かった。少女というか、本来のゴシックの未亡人のようですらある。フリフリを軽く着こなすというのがいかに難しいかわかる。あまりに感動したので写真を撮った。

日本の映画に初登場のゴシックロリータ。

 

私自身は、「キャラ的身体とファッション」というテーマで、現代的なメディア環境に生きる中で、私たちのボディイメージとファッションへの感覚が変化しているのではないか、という話をした。アバターやアイコン、プロフィール写真で自分の顔を常に覆いながら、ネット上でのコミュニケーションに長い時間浸っていると、自分の生々しい肉体はほぼ意識の外に追放されて、二次元的のキャラ的イメージとして「わたし」を感覚してる状況に気がつく。このことが、テーマ「外国ファッションへの憧れ」にどうか関わるのかというと、つまり自分をキャラクター的に認識している身体意識は、リアルな外国人ボディを熱烈に目指していた身体意識とはまったく違うということを指摘した。

身体意識について、考え始めて久しい。そういえば以前は、身体イメージにより焦点を当てていた。このテーマについて語るとき、幾つか割り切れないエレメントがあって、それは、国(文化圏)と世代(年齢)だ。あまりに当たり前の要素で申し訳ないけれども、「キャラ的だよね!」なんて、一つのことを爽やかに言ってのけてみたいときに、これは大きなダメージを及ぼす。現象や文化はものすごく強烈に国や世代に結びつけられているとは言え、「キャラ的身体、なんて、日本社会内だけで通じる内輪ネタだよね!」とか、「二次元的に自己像を認識してるなんて、ネット世代だけでしょう」とかいう風に、希少動物保護地区に隔離されてしまうともう負けである。

いや、これはそもそも戦いではない。私たちがこれからすべきことは、国(文化圏)と世代(年齢)を越境できるちからをもった言葉で語ることだ。日本のネットが、日本のケータイが、日本のサブカルが、この先どこにも着地すること無く、ふわふわと漂って独自でガラパゴス的な伝説となるのなら、私たちはこれを語り、書き、残す必要は無い。少なくとも私はそんなことに興味がない。

学会の反省からやや脱線してしまった。だが、海外からの一部の視線によって形作られる、日本のファッションやアートに対するエキゾチズム風のちやほやモードの上で浮かれることなく、そんなものをむしろ突っ返すくらいパワーのある議論なり、書物なり、物語なりが、必要とされていると思うし、そういうものを発信していきたいと思う。

時間がほんとうにやばいと話をしているところ。室井先生有難うございました!!!

05/28/12

日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。part1

かれこれ2週間も経ってしまった。2つ前のポストで(here!)、あるいはblog de mimiにおいても、日本記号学会第32回大会について宣伝させていただき、発表要旨も掲載させていただいた。そんなわけで、日本へは5月11日の午前中に到着し、その日一日は、時間がないなりに最大限楽しもう!と、京都国立近代美術館にて村上知義の「すべての僕が沸騰するー村上知義の宇宙ー」展を訪れ、その足で引き続き、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAの展覧会を訪れた。12日お昼から学会の総会、セッション、パフォーマンスという一日目のプログラムが始まる。事前調査では、関西は暖かい予想で比較的薄着しか持ってきておらず、この日はかなり寒い目に遭った気がする。ファッションをテーマにした学会なのに、色のごちゃ混ぜもありえない重ね着も寛容するしかないほどに、寒かったことには参った。

セッションの前に、実行委員長の小野原教子さんから挨拶があった。小野原さんとは、数年前にスペインのコルーニャで国際記号学会のセッションでご一緒して以来、彼女がロンドンにいらっしゃった際にパリから訪れてお世話になるなど仲良くしていただいている。小野原さんらしい、衣服を纏うことと記号学へのパッションに溢れる素晴らしい挨拶にとても感動した。

一日目のセッションは「(人を)着る(という)こと」というテーマで、人が衣服を着るあるいは脱ぐというのはどういうことなのか、あるいはそもそも人は完全にまとっているものを脱ぎきって、裸になることができるのか、という纏う行為そのものの定義を揺さぶるような興味深い着眼点だった。このことは、もちろん、2日目の最後に行われた、鷲田先生と吉岡先生の対談「〈脱ぐこと〉の哲学と美学」の中で議論された内容にも関わる。つまり、人が裸になるとはいかなることか、完全なる裸になることは本質的に可能なのか、身体にまとわりつく沢山の意味から一体人は自由になることができるのか、といった問題だ。

2日目の最後、学会を締めくくる対談の中で、吉岡先生は〈脱ぐこと〉に関わる幾つかのパフォーマンスや作品を紹介された。島本昭三の女拓写真、あるいは高嶺格のワークショップで参加者の女性が実現した裸写真もそのうちのひとつだ。

私がとりわけ興味深く聞かせていただいたのは、1960年代から数あるハプニング作品の中で、先生がおっしゃったように人々は脱ぎまくっていたわけだけれど、その中の幾つかの作品においては、たしかに、身体が見たこともない、あるいは別の存在として提示され、その瞬間、私達は普段「裸」の身体をみつめるのとは全く異なる視線でこれを見つめる。まさにこの時、身体はひょっとして、生まれてから死ぬまでこれをがんじがらめにする多重の意味のネットから解放されて、「真の裸の美」みたいなものとして現れるんじゃないか、という話だ。(ひょっとしたらそういう話じゃないかもしれないが、私はそのようなコンテクストで理解した。)

お話を聞きながらずっと、意味の異化とは何か、ということを考えていた。見慣れていないもの、見たことがないようなもの、ありきたりのものがびっくりするような仕方で提示される時、たしかに、普段私達が馴染んでいる「意味」を脱いでいるのだろう。その一方で、見たことがない新しいイメージもまた、完全にニュートラルであるということはなくて、おそらく別の一つの「意味」をまとっているのだろう。女拓は見たことがないという点で明瞭な意味を与えるのが非常に困難だが、美術家の語る言葉や見る人の反響、個人的な印象といった様々な要素がからみ合って、曖昧な意味を構成していくだろう。こう考えてみると、ひょっとして意味を脱ぐことなんか決してできないんじゃないか、と思えてくる。

いや、ちょっと待って。意味と意味の隙間には何があるか。2つの隣りあう意味と意味の隙間とは、異なるものの間であるのだから、必然的に「空虚」な部分がある。一つの意味からもう一つの意味に着替えるとき、やはり一瞬でも意味のない瞬間がある。なぜかわからないが、こんなことを考えていたら、子供の頃見ていたTVアニメ、セーラームーンで月野うさぎが変身するシーンが頭に浮かんだ。月野うさぎは「ドジで泣き虫な普通の中学生」だが、街に妖魔が現れると人々を守るために「愛と正義の美少女戦士セーラームーン」に変身する。問題はこの変身シーンだ。彼女たちが変身するのは危機に際してであるので、言うまでもなくアニメで30秒近くにわたって描かれるこの出来事は瞬時に完了する事象の引き伸ばしである。変身の間、コスチュームとアイテムが順序良く装着され終わるまで、彼女の身体はなんと輪郭線だけで表現されている。輪郭線の中の彼女の身体はレインボーカラーでベタ塗りされていて、そこには何もない。(変身シーンを御覧ください。here!) この瞬間の少女の身体は月野うさぎでもセーラームーンでもなく、さらに言えば、何者でもなく、存在ですらないかもしれない様態だ。

おそらく、人は意味を脱ぐことができる。脱ぎっぱなしでいることはできないけれども、瞬間的に、意味を着替える瞬間に、私達は気が付かずともいちいち自己をリフレッシュすることができているのではないだろうか。私にとっての意味をまとう身体イメージは、十二単のようなものではなく、ヒーローの変身シーンのようなものである。

さて、新聞女の西沢みゆきさんのパフォーマンスはとても面白かった。参加者全員を巻き込むパワフルなパフォーマンスの場に居合わせたのは初めてのことだった。室井先生も吉岡先生も(吉岡先生は更なるオプション付きで)、一緒にパフォーマンスを見ていた楠本さんも、新聞だらけになった。彼女はパフォーマンスを始める前、アートがいかに人を幸せにするものであるべきかを語った。彼女の語った言葉と表現行為の力強さと裏付けのあるポジティブなエネルギーに感銘を受けた。

アートに限らず、人が人を巻き込んで何かをしようとするとき、それはポジティブなエネルギーに満ちていることが素敵だ。それも強い願いや信念によって貫かれているならなお素敵だ。私がこれからたくさんの人達と成していくであろう活動もまた、誰かが元気になるエネルギーを生み出すことに貢献していけたらいい。

パート2もお楽しみに!
(二日目のセッション、個人の発表について)

実行委員長の小野原さんと会長の吉岡先生(イヴェント後の。)

05/8/12

日本記号学会 第32回大会 2012.5.12-13

日本記号学会第32回大会 「着る、纏う、装う/脱ぐ」
開催日:2012年5月12日(土)・13日(日)

会場:神戸ファッション美術館 第一セミナー室/第二セミナー室/ギャラリー

1日目:5月12日(土)
13:00
会場・受付開始(学会員のみ)
13:30
総会(学会員のみ)
14:00ー16:45
実行委員長挨拶・問題提起 小野原教子(兵庫県立大学・現代ファッション)
セッション1「(人を)着る(という)こと」第一セミナー室
鈴木創士(フランス文学者/作家/音楽家)/幣道紀(曹洞宗近畿管区教化センター総監/妙香寺住職)/塩見允枝子(音楽家)/木下誠(兵庫県立大学・フランス文学)
17:00-17:45
企画パフォーマンス 西沢みゆき(新聞女)

2日目:5月13日(日)
10:00-12:45
研究発表(※詳細はサイトをご覧下さい)
13:45-16:00
セッション2「なぜ外国のファッションに憧れるのか」 第一セミナー室
高馬京子(ヴィータウタス・マグナス大学アジア研究センター・言語文化学)/池田淑子(立命館大学・カルチュラル・スタディーズ)/大久保美紀(京都大学大学院/パリ第八大学・美学)/杉本ジェシカ(京都精華大学国際マンガ研究センター・マンガ研究)
16:15-17:45
セッション3 「〈脱ぐこと〉の哲学と美学」 第一セミナー室
鷲田清一(大谷大学・哲学) VS 吉岡洋 (京都大学・美学)
17:45
閉会の辞 吉岡洋

日本記号学会ホームページはこちら(プログラムもこちらをご参照ください)

*上記研究発表内、第一セミナー室において
「モビリティ概念と身体意識 〜現代の自己表象行為を特徴づけるもの〜」
および、2日目午後のセッション「なぜ外国のファッションに憧れるのか」において、
「ファッションとキャラ的身体」というテーマで発表します。
発表要旨は以下★★★

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2012年5月 記号学会発表要旨

「モビリティ概念と身体意識 〜現代の自己表象行為を特徴づけるもの〜」

大久保美紀

本発表では、現代を生きる我々の身体意識とこれを特徴づけるモビリティ概念の関係について考察する。

モビリティとは文字通り可動的な性質であり、モバイル=可動性という言葉は、この20年間で瞬く間に技術的発展を遂げ、私たちの行動様式を再編成した携帯電話そのものをも意味する。また、エルキ・フータモは論文An Archaeology of Mobile Media(『モバイル・メディアの考古学』,2004)において、可動性を持ったメディア(ディバイス)をこれまでのメディア史において主として論じられてきた固定されたメディアと区別し、現代の速度論的社会(ポール・ヴィリリオ)の中で私たちの身体にいつも密着する形で移動するメディアとして定義した。

ウェアラブル・メディア、ポータブル・メディア、そしてモバイル・メディア。身体に密着し、いつも私たちの認識や経験と共にある新しいタイプのディバイスに対し、私たちは様々な呼び名を与えてきた。しかし、身体自体が運動し、メディアを介した情報コミュニケーションもまた潜在的なレベルで移動性を持っていることを鑑みれば、モバイル・メディアは適切な命名で、モビリティ概念こそが重要な意味をもつことが明らかになる。

さて、モバイル・メディアは身体意識(body consciousness)をラディカルに変質させた。ノートパソコン、タブレット、ケータイを通じてどこにいても常に外の世界に開かれ、そこに接続されている身体。 人々がディバイスをパーソナライズ化する行為はガラパゴス化した日本社会の特異現象と見なされてきたが、物質的な身体を離れた潜在的な身体のユビキタス的広がりを感覚する現代社会において、インターフェイスとなるディバイスを一つの身体の形代と見立てるのはむしろ自然なことですらある。

これらを踏まえるとき、現代の自己表象の特徴と傾向はどのように分析、理解されうるだろうか。表現方法は、テクスト、イメージ、パフォーマンス、オブジェ、それらを組み合わせたもの等様々である。今日では、絵画、小説、音楽、演劇、写真、服飾という芸術家の作品のみならず、ブログやmixiでの日記、写真共有サービス上でのアマチュア写真家のプレゼン、フェイスブックでの活動、ツイッターを介した交流もまた、現代的な自己表象行為を代表する重要な発表形態とみなすことができる。モビリティの時代における自己表象行為がどのような方法・形態で実践され、そしてそれは身体意識とどのように関係しているかという問題について取り組む。

本発表では、ハイ・アートの領域において身体をメディアとして扱ってきたオルランやぴゅ〜ピル、あるいはファッションにおける川久保玲らの活動を新たな観点から分析し、ウェブカムやデジカメ、インターネットの普及以降台頭したアマチュア・アーティストの活動やゲーム・コスプレの身体感覚にも言及し、その歴史的意味を読み解く。Mechanical Turkを利用した実験的作品の発表も行う。
以下、シンポジウム発表要旨
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キャラ的身体とファッション

 大久保美紀

人々は往々にして外国のファッションが好きだ。日本人は今昔フランスの老舗ブランドの重要な顧客であり、「パリ」「フレンチ」という言葉はオシャレで洗練されたイメージを想起させる。一方、フランスでは、日本語の形容詞「Kawaii」が未曾有のマンガ•アニメブームの中で堂々と市民権を獲得し、日本のKawaiiファッションもまたこの追い風を受けて熱心に受容されている。

さて、このように日本女子がヨーロピアンテイストを模倣し、パリジェンヌが着物やコスプレを愛好する今日の状況は、日仏の上流階級女性の間で19世紀後半に見られた洋装ブームやジャポニズムの流行と同様に「外国ファッションへの憧憬」であると見なされ得るのだろうか。本発表では、現代社会において経験される身体様態の変化に着目しながら、人々のファッションに対する今日的なスタンスがいかなるものかを明らかにする。

そもそも「憧れ」とは、理想とする物事や人物に心惹かれる有様である。また、自分自身が同一化したい対象、あるいは所有物として獲得したい対象を指す。現代社会を生きる人々は、ファッションに対して何を求め、どのような欲求実現を目指しているのかを具に分析すると、表層的にはかつての洋装模倣と同質で継続的に見える今日の外国ファッション受容は、従来とは全く異なる身体様態と対象意識に基づくものであるということが明らかになる。私たちは、一見外国ファッションを熱心に模倣し続けているかのようで実はそうではない。もはや「憧れ」てすらいない。

ゲームやヴァーチャルリアリティーという多様なシミュレーション体験、あるいは、既に日常的となったアバターや絵文字に依存するウェブ上のコミュニケーションを通じ、私たちの身体像は遍在的•虚構的で、極度に簡略化されたものとなった。シンプルで抽象的な図柄によって代表される自己イメージは「キャラ」的な身体様態を形成する。フェイスブックなどのソーシャル•ネットワーク•サービスに見られる特定のプロフィール写真は、アイコン化された自己認識を創り出し、ブログやミニブログのアイコンとそれを肉付けするテクストは、世界に「キャラとして私」をさらけ出すための自己演出を実践する。

キャラ化された身体は、自分自身の身体イメージを生々しいリアルな世界に置き続けながらも、他方でそれを記号的なモチーフとして作り直し、自分であり自分ではない別の存在として知覚する。このような身体的知覚を通じて得られるものが、ゲーム感覚的な人生観にもつながる、現実に対するある種の非直接的な意識である。自らと共にあるにもかかわらず、同時に無感覚なほど遠くにあるような身体。これが現在のファッションが依って立つところの身体様態の正体である。

人々は、西洋人のボディラインを手に入れることや、外国人らしい顔立ちになること、それをたとえば整形手術によって手に入れようと熱心に追求するのをもうやめてしまった。一方で、それに取って代わるアニメキャラやお人形、アイコン化された自己イメージが新たな憧れの対象として台頭してきている。それは、簡略化と修正を経ているにせよ、本質的には自分自身が関与するアイコン的イメージに還元されるという点で、逆説的にも、深い自己愛に満ちた愛されるべき身体様態であると言えるのではないだろうか。

02/20/12

Zani, artiste intéressée

Zaniというマケドニア出身のアーティストの作品が好きだ。Zaniは1989年にマケドニアの美術学校を卒業し、マケドニア国内でたくさんの展覧会やアートプロジェクトで仕事をした後、現在はロンドンに渡り生活している。パリでではCARRÉ D’ARTISTESというフランス各地に支部を持つギャラリーに所属し、このギャラリーのコンセプトである正方形の絵画を数多く制作している。

GALERIE CARRÉ D’ARTISTEじたい、多くの注目の現代アーティストの作品を扱う面白いギャラリーで、なんといってもの強みは同じフォルマの正方形絵画はすべて同じ価格で販売していることである。私が以前購入したのはそのうちの最も小さなフォルマで、10×10cmと15×15cmのもの。作家によっては一点ものであったり、シリーズ作品を出展している場合もあるが、すべてもちろんCertificat d’authenticité(証明書)が添付されている。取り扱いアーティストはバラエティに富んでおり、正方形というフォルマはモダンなインテリアや白い壁と相性が良いので、多くのアマチュアを魅了する潜在的なパワーをもっている。

さて、私はまだ実際のZani本人に会ったことは無い。彼女が作品を制作する際のマテリアルは、アクリル絵の具と珍しい画材のコンビネーションであることが多い。彼女が題材とするのは、人々の日常的な生活やどこにでもあるありふれた出来事。その一コマ一コマからインスピレーションを得たアーティストは、強く率直に鮮やかな色彩を伴って独特の世界を表現している。

次の作品は、「The butterfly’s pond」である。一人の女性が背を向けて池の渕に腰掛けている。遠く、女性の向こう側には白い家が並んで建っており、さらにその向こうには山が連なっているのが見える。女性は右腕を自分の頭にまわしており、ややうつむいている。手前にあるのは蝶とそして池の水だ。青い蝶は赤色の光と濃い色彩の球体の中に守られているように見え、実は女性が腰掛けているのは池の渕などではなく、その超をはらむ球体の上であるようにも見える。あるいはまた、女性の身体からその世界の中心が産み出されているかのような構図にも見て取ることができる。遠くに見える世界は妙に平坦で生気無く描かれていて、こちらで産み出される新しい鮮やかな世界と死んだような世界を対照的に描き出している。

the butterfly's pond, 15*15cm

私がいつも魅了されるのはこのアーティストの女性身体の表象である。率直に言うと、かたちそのものに強く惹き付けられる。背中から尻の部分にかかるカーブもその白いアクリル絵の具の質感もつうっとなぞられた背筋の一本のラインも、とても素敵だと思う。

そして、「Two women」は、私が数ヶ月前リールにあるCARÉE D’ARTISTESで購入したもう一つの小さな作品である。二人の女性が向かい合い、片方の女性がもう一人をうつむきながら抱き寄せている。二人の女性は茂みのような場所に立っており、そこには静かであるけれど身に染み入るような大粒の雨が降っている。

two women 1, 10*10cm

彼女のテクニックのなかで、下の層にさきに施された彩色が白のアクリル絵の具に寄って隠され、削られた部分においてのみ姿を見せるというのがよく使われる。二人の女性のお互いの身体が寄り添った部分には暖色が、外の世界に触れている互いの右半身には寒色が施されていて、けずられたボディラインがそれを明るみに出している。とてもシンプルだけれども、暖かい作品であるように思う。

彼女の所属ギャラリー、CARRÉ D’ARTISTEのサイトは以下、またZANIについての紹介ページも以下に添付した。
GALERIE CARRÉ D’ARTISTE
ZANI, ARTISTE

02/16/12

Jeff Wall展, White Cube in London

White CubeというロンドンのギャラリーでJeff Wallの展覧会が開かれていたので訪れた。White Cubeはロンドンの中心に位置するギャラリーで、これまでも何度か訪れたことがあった。一見見逃しそうなパッサージュの中を進んでいくと、まさにホワイトキューブ!と誰もが確信するギャラリーに出会える。

Jeff Wallの写真は何度か自分の目で見たことがあるはずだ。しかしどこで何をどのように見たのか思い出せない。おそらくイギリスとフランスで見たのだろうと思うのだが、中途半端に作家の名前や作品を知った気になっているとしばしばこういった信じられないことが起こる。作品を直に目にする行為とカタログやデジタルイメージで得た経験が無意識に混同しているのはとてもコワいことだ。

 

私が個人的にJeff Wallという写真家の活動について興味を持ち、カタログなどを見たり批評を読んだりするようになったのは、アメリカ人の批評家であるマイケル•フリードが2005年のパリ近代美術館 »Cahier »においてJeff Wallの作品について論じているということを知ってからのことである。マイケル•フリードはクレメント•グリーンバーグのモダニズム美術論を継承し、1960年代のアメリカにおける抽象表現主義の流れにあったジャクソン•ポロックやフランク•ステラの絵画作品、そしてアンソニー•カロの彫刻作品を擁護してきた。その一方で、ドナルド•ジャッドやロバート•モリスといったミニマリズムの芸術を「演劇的な要素を含むもの」として激しく非難してきた。

マイケル•フリードのクラッシックな主張によれば、「演劇的なものは芸術を堕落させてしまう」。(『芸術と客体性』)(1967)ここで批判された演劇性とは、作品経験の際の鑑賞者の身体を巻き込んだ演劇セットのような作品展示のあり方と、その経験に強いられる時間制であった。さらに、作品経験の本質が鑑賞者と場が関係を結ぶことのみによって成立している点のことである。フリードの理論は1960年代から現在という長い長い時を経る中で積み上げられ、変化もしてきているので、私なぞが短時間で語りうることではないので、今回は、フリードが美術における演劇性を批判的に考えていたという一言でやめておき、Jeff Wallの作品の話に入りたい。

Jeff Wallの写真はコンストラクテッド•フォト(構成された写真)である。一見自然なシーンを撮影したようであるが、実は何時間も何週間も時間をかけてよくよく構成されて、さらにはデジタル処理をほどこされ、モンタージュされて出来上がった写真である。『演劇性』とは「演劇的な性質」という意味であることからすれば、スナップショットのように偶然性を追求する写真に対して、しばしば綿密に演出されて、合成されて、よくシナリオが熟考されて、大きなフォルマで提示されて鑑賞者を引き止めてしまうJeff Wallの作品は「演劇的な」写真なのではないかと思ってしまいがちだが、先に述べた当のマイケル•フリードはJeff Wallの作品を高く評価する。このことについては、また別の機会に『演劇性』の定義とともに考えてみたい。

とにもかくにも今回、White Cube Galleryで紹介されたJeff Wall作品は大きく二つのシリーズに分けられる。一つ目はギャラリーのファーストフロアに展示された巨大な風景写真シリーズ、Siclly 2007である。

 

Ossuary headstone, 2007

ドキュメンタリー•ピクチャーズにカテゴライズされるこの作品は、墓石を取り巻く世界が刻々と年を取っていく時の流れを物語的に描いており、墓というもののもつ物質的な非永遠性と人の死の永遠的な事実をいわば対置することにより、つよいコントラストで描き出しているようにもみえる。えんじ色のタイルは剥がれ、その底から緑の草が芽吹いている。ちょうど上の方に見える別の墓石には一時的でその場しのぎでしかない非常に美しい花々が飾られている様がみえる。

Hillside near Ragusa, 2007

こちらは非常に大きな画面で構成された作品であり、ずっと向こうまで続いていく坂の向こう側は見えないが一番高くなっているところまでですら、かなりの距離があるのがわかる。丘の方に見える細かな石や手前に点々とした草花のひとつひとつが息をのむほどはっきりと写し取られている。

 

もう一つのシリーズは、New photographesというシリーズからの出品だ。あたかも日常生活における一コマを切り取ったようなシーン選択であるが、実は隅々まで綿密に計算され、演出され、準備され、合成されている。こちらからの作品を3つほど見てみよう。

Ivan Sayers, costume historian, lectures at the University Women's Club, 2009

1910年モノのイギリスの伝統的なドレスを身にまとった女性。写真はその瞬間に行われた出来事、その瞬間にそこに存在したものを記憶するが、この作品において、写真は過去と現在の間で混乱している。綿密なまでに過去の演出を施された現代写真は、もしそれが見抜けぬまでに完璧な出来映えで過去のものとして提示されたとき、一体何者になりうるだろうか。

Boy falls from tree, 2010

私がもっとも長い時間ぼーっと眺めていた作品がこちらだ。少年が木から落ちる、という作品名であり、その通り一人の少年が木から大胆に落ちている瞬間を劇的に記録した……というはずもなく、巧みに練られ、洗練された合成写真である。これを目にして考えていたことは、偶然の瞬間に潜む美を熱心に追求することで芸術活動を行っている写真家と、Jeff Wallのように計算され尽くした構成で物語を写し取っていく写真家の手法の違いについてである。前者の写真家が風景を撮影する写真家には圧倒的に多いのではないかと思うが、つまり、最高のオーロラの写真を撮るために何時間も何日もその待ちに待った瞬間を狙っている写真家がいる一方で、念入りに画面を構成し、イメージを合成し、色彩に手を加えてしまう写真家がいる。彼らはもちろん同じレースを走っているわけではないあまりに異なる手法を持っているが、普段我々が芸術を「作品」という単に我々の目の前に提示される結果として認識し、鑑賞していることを鑑みれば、このことは十分に興味深い違いであろう。

Boxing, 2011

さいごに、ボクシングをする少年を表現したこの作品もConstructed Photographesである。二人の少年の腕や身体のポジションはたしかに「本当の動き」という文脈を微妙に逸脱し、切り取られたかのようであり、不思議な印象を受ける。この印象が魅力でもあり、Jeff Wall作品の面白さなのだろうと感じる。

この展覧会は、2011年11月23日から2012年1月7日まで、ロンドンのWhite Cube Galleryにて開催された。すべての作品イメージは以下ギャラリーサイトからお借りした。

White Cube Gallery

02/6/12

Chiharu Shiota « Infinity »

Chiharu Shiota
« Infinity »
2012年1月7日〜2月18日
Galerie Daniel Templon, Paris

塩田千春の »Infinity »がパリで見られる。Centre Pompidouよりすぐのギャラリー、ダニエル•タンプロンにて2月18日までの展示が予定されている。塩田千春は現在ベルリンで活動するアーティストであり、パリでは2011年にメゾン•ルージュにおいて »home of memory »のインスタレーションを行っている。その際には、大きなドレスと部屋中に張り巡らされた黒い糸、そして400個のスーツケース作品が展示されていた。

maison rouge, home of memory
(アーティストインタビュービデオも見られる)

インタビューでも述べているように、彼女が表現の主題とするのは、不在の記憶、マテリアルが語るぬくもりや想い出、生や死や人間の感情の繊細さや普遍性であろう。つり下げられたドレスは、もうその場には居ない袖を通した人間の存在を想起させる。400個のスーツケースにはひとつひとつにそれぞれの人の旅の想い出が込められており、持ち主を失って空っぽにされて展示された400個のスーツケースは、400人の人々が過ごした旅の記憶を静かに語る巨大なアーカイブとして現れる。

塩田千春は、糸をマテリアルとして使用するアーティストである。糸は、結んだり、張ったり、切ったり、編んだりすることができ、彼女は、糸というマテリアルのこれらの性質について、人のさまざまな感情を移す鏡として認識している。

黒い糸で張り巡らされた部屋は、古い家にごく自然に時間が流れていき、そこに住んでいた人ももう居なくなってしまったけれど、その記憶とともに取り残されてしまった部屋という印象を与える。誰もおらず、何も無いのに、気配を感じざるを得ないような、強い印象を見る者にもたらす。

一方で赤い糸は全く別の印象だ。2008年、国立国際美術館で行われたインスタレーション作品『大陸を越えて』では、遺品を含む2000足の靴を赤い毛糸に結びつけた迫力ある展示を行っている。靴を使った作品では2004年の『DNAからの対話』があるが、『大陸を越えて』においては、2000足の靴それぞれに対して持ち主の靴への思い入れを綴った手紙が結びつけられているために、よりいっそう人々の思い出の集積を印象深く表現している。

Over the Continents, 2008, shoes, wool, yarn

ART IT 塩田千春インタビューより借用

 

さて、現在パリで行われているインスタレーションは、 »Infinity »、ギャラリーの空間をそのまま彼女のマテリアルである黒い糸で覆い尽くしてしまった。

古い家の不気味な蜘蛛の巣であるようで、繊細に張り巡らされた黒い糸は不気味でありながら美しく、蜘蛛の巣の中に静かに輝く3つの電球が床や壁に神秘的なまでにきめ細やかな影をつくりだしている。

3つのランプのうちの一つが他の2つのランプに対してリズムを与えているのだそうだ。ランプの点灯のリズムは、ランダムであるようにも感じられるし、言われてみればインタラクティブであるようにも見える。心臓の鼓動や脈拍が静かに空間全体にリズムを与えるかのよう。あるいは静寂の中で繰り返される呼吸であるのかもしれない。

もう一点今回展示されていた『トラウマ』という作品。これは2007年に東京のケンジタキギャラリーにおける個展『トラウマ/日常』で展示された立体作品、子どもの純白のドレスや靴といったオブジェが非常に細い黒い糸によって宙づりにされ、絡み付けられ、束縛されている。糸自体は細くてもろい存在であるのに、無数に何重にも絡み付いた糸は純白のドレス、そしてそこに秘められた記憶をその中に拘束し、そこから自由になることを許さない。

ギャラリーの一室をまるまる黒い糸で覆い尽くすインスタレーションは作家自身にとアシスタントによって3日がかりで制作されたそうだ。3つのランプが代わる代わる静かに点灯する様子をながめていると、蜘蛛の巣のような不気味な印象が遠のいてゆき、なにやら懐かしい気持ちになってくる、不思議な空間がそこにある。

01/31/12

書くことの現在

大学のレポートや小論文、学位論文に至るまで、アカデミックな現場での「書く」行為にはたくさんのルールがある。この言い方はあまりぴったりとこない。つまり、アカデミックな文章を書くにはそれ専用のルールがあり、小説には小説のルールがあり、批評には批評のルール、雑誌記事には雑誌記事のルールがあるといったほうが、きっとよい。
ここ数日、フランスのニュースで学生のレポートや論文をめぐるコピペの問題が何をきっかけにか爆発したように紙面をにぎわしている。何を今更、若者のテクストの独自性のなさを嘆く意味があるのだろうと嫌気がさしながら、記事を斜め読みしていると、コピペ探知ソフトが開発され、その使用実施によって、コピペをした学生に処分を下したり、論文を否認するというフィルターがかけられるようになるといった展望についての、ホットな話題であるということがわかった。

そもそも、コピペをフィルターで発見するということが現実的にどれほど可能なのだろうか。コピペなのかコピペじゃないのかという線引きは一体どこでなされるべきなのか。
文字通り文章をコピーしてペーストし、一字一句が同一であるならば、それを自分の書いたものとして提出した場合、盗作と呼ばれるだろう。カギカッコのなかにいれて、引用と注釈をつけて、ソースを相手につたえて、これは私の作った文章じゃありませんと断ることがルールだからだ。ほんの少し言い回しを変えた場合は?品詞の順番を変えたり、文体を変えたり、少し意訳するというかたちで原文に手を加えるということは、ある言語を自在に操る能力のある人にとって、全く困難なことではない。この場合もこのコピペ探知ソフト(あるいは将来のコピペ探知ソフト)は、大学教員に向かって、親切にも何らかの警笛を鳴らしてやることができるのだろうか。

そもそもオリジナルな文章なんてあるのだろうか。きっとあるのだろう。どこにも見たことが無く、言葉が異化され続けているような、新鮮な文章がきっとどこかにはあるのだろう。
しかし、多くの場合、大学やあるいは教育機関によって求められているレポートや小論文と言ったものは、決められた課題が与えられて、その十分に限定された問題について作文することを要求されている。誰にもわからないような、見たことも無いような文章が求められていないことは明らかであるが、私がここで言いたいのは、そのように、すでに課題として出題されうるほど既に多くの人々によって考え抜かれ、書き尽くされてきた内容に対して(メタファーとしてのコピペを含む)コピペをすることなしに、「私の考え」を編み出すことなど、不可能であるということなのだ。いや、可能だとか可能じゃないかいうことではなくて、それ自体に価値があるのかすらわからない。

新しいことを書くことができないのなら、なぜ人はそれでも書かなければならないのか。
自分の書いていることが斬新であると信じることのできる人は、これまでの人生でよっぽど何も読んだことがないか、あるいは自他をポジティブに差異化する能力に優れていてそのうえそれを信仰することのできるナルシストである。
なぜ書き続けるのだろう。それは、ひとつには文章というかたちで思考を集積することにより、それはいずれ集積としてまったく別の何かを創りだすことにつながるかもしれないからだ。
生命には創発性という性質がある。ひとつひとつの細胞や組織はきわめて単純な化学反応や生命活動を行っているけれど、それが一つの器官という集積として働いたとき、神経細胞のあつまりである脳はその細胞の単純さからは予想もつかないような複雑な機能を果たす。
人が書き続ける理由はこれに似ている。集積された思考は、それまでの断片が単体では果たさなかった役割を果たすことがある。
これは全くもってオリジナリティーとは関係のない話なのだ。

大学生のコピペ事情から、遠いところに来てしまった。
そもそも、このコピペ探査ソフトは誰の為なのだろうか。
大学側は、若者の考える力や構成力の低下を指摘し、物事に関する基本的な知識や教養の不足を嘆いている。だから、コピペレポートは探査ソフトで発見されて、レポートを作成した学生は退学になり、学生達は恐怖におびえながら、興味があまりないテーマだけれども山のように積まれたレポート課題を、インターネットなんてなるべく使わないで、図書館の湿った本のページを繰りながら、すこしずつ言い回しを変えたり、引用を明記したりしながら、膨大な時間を使えばいいというのだろうか。
あるいは、こうも言える。大学の先生たるもの、生徒がいとも簡単にコピペしてきたものくらい、どうしてそれが彼ら自身で考えた文章ではなくて有名な理論家(批評家、研究者)のページから持ってこられたものだということを、見抜けないのですかと。
これはこれで不可能なのは明らかだ。そもそも現代、どれくらいの書かれたものがインターネット上にもっともらしく存在しているのか、想像して頂ければわかる。「読むべき本」や「共通知識としての云々」なんか、もう存在していない。あるいは、サイクルが早すぎて、すべてをさばききる前に、それは古いものになってしまっている。だから、星の数ほど散らばっている文章から、学生がどこをのなにをコピペしてきたかなんて言うことを、血眼になって探すだけの元気があるのはコンピューターだけである。

コピペを見抜けない教育者のも不幸であるし、コピペレベルの仕事しか求められていない学生達も同様に不幸である。

これが書くことの現在であると、認識した上で、コピペ問題についての生産的な議論が行われているのであれば、そういった話は大いに聴きたいと思う。