09/13/14

エルヴェ・ギベールの文学創作について / Autofiction ou parler du « moi » : enjeux esthétiques pour la nouvelle création littéraire – les recherches à travers l’analyse des ouvres d’Hervé Guibert

フランス人のジャーナリスト/写真家/日記作家/小説家であるエルヴェ・ギベール(Hervé Guibert, 1955-1991)の文学について、現代の電子テキストによる私たちの書く行為を視野に入れて、日記を基軸にして私小説を書くという彼の文学創作の方法について、その着想や意味を考察します。9月18日に発表します!ぜひ聞きにきてください〜。

詳しくは:http://semio2014.org

スクリーンショット 2014-09-13 15.54.44

Autofiction ou parler du « moi » : enjeux esthétiques pour la nouvelle création littéraire – les recherches à travers l’analyse des ouvres d’Hervé Guibert

Quant à l’écriture contemporaine, nous sommes fréquemment témoins d’une attitude audacieuse de ceux qui écrivent, même plutôt exhibitionniste pour dévoiler leur vie personnelle, la confidentialité et l’intimité. Non seulement dans le domaine de la littérature mais aussi dans les activités des amateurs, cette tendance est très présente. Ce constat serait issu de la nouvelle situation environnementale dans notre société de l’information. Concrètement dit, nous avons souvent des moyens pour publier un texte sur un espace virtuel tels le blog et les réseaux sociaux, grâce à l’accès internet. Cette possibilité d’exposition de soi nous encourage de nous engager passionnément dans une activité à la fois ludique à la fois sérieuse : écrire sur le moi, ma vie et mon histoire intime.
Comme genres littéraires, le terme d’« autofiction » n’existait pas avant les années 1970. Ce fut Serge Doubrovsky, écrivain français, qui inventa ce nouveau genre littéraire pour définir sa propre œuvre, intitulée Fils (1977) dans laquelle l’auteur désira distinguer la fiction autobiographique d’avec l’autobiographie. Sa définition simple est celle-ci : l’auteur est aussi le narrateur et le personne principale. L’appellation du protagoniste peut être variée comme « je », « il » ou « elle ». Il y a toujours une complexité pour la déterminer puisque quand le récit basé profondément sur une vie réelle de quelqu’un, il est difficile de justifier si c’est une fiction ou une vérité, il n’est même pas important ni intéressant de le vérifier pour sa qualité littéraire. Dans tous les cas, la nature « autofictionelle » est toujours présente dans les expressions littéraires.
En France, Philippe Lejeune, théoricien de la littérature, notamment spécialiste de l’autobiographie, a réalisé ses recherches riches sur l’activité historiquement répandue en Europe, « tenir un journal intime » dans Le pacte autobiographique (1971). Il est évident que le journal intime n’est pas toujours un recueil des histoires vraies, comme démontra Sophie Calle, artiste française, à travers son ouvrage intitulée Des histoires vraies (2002). En jetant un regard sur les lieux de création littéraire, la relation entre l’écriture sur soi comme le journal intime et la littérature contemporaine est interactive et dynamique. À mon avis, il est temps de considérer une problématique : enjeux esthétiques de l’autofiction afin d’interpréter une dernière tendance puissante dans la littérature.
Dans cette communication, j’analyserai certaines œuvres autobiographiques d’Hervé Guibert son écriture expérimental de l’autofiction afin de réfléchir à la signification de la valeur esthétique de l’écriture de soi.

04/2/14

Young Pioneer’s Presentation vol.3

salon_DSC04908

Young Pioneer’s Presentation (YPP)Facebook YPP page

2014年3月22日、Young Pioneer’s Presentationに発表者として呼んでいただいた。この会は、京都大学交響楽団に所属していた折りお世話になっていた阿曽沼くんがオーガナイズしているこの会で、毎回複数の発表者(今回は二人)が自信の研究分野について話をし、共通ディスカッションを行っているそうだ。今回は、現代アートのコンセプトについて喋る私と、同期のヴァイオリニスト大谷くんの化学と折り紙の発表。阿曽沼くんが会の冒頭にも言っているように、私たちはなるほど、予想されている共通知識みたいなものを全く共有しない聞き手を前に話す機会にはそう恵まれてはいない。研究会も学会も、たとえば私のトピックでいえば、「芸術とは何か」、「作品とは何か」という問題そのものを話すことは稀であるし、それについて語るときにはそれに集中するかもしれない。しかし、具体的な作品について語りながら、それを捉える様々なシステムについても語るということはあまりない。感じると言うのがどういうことかそのものをあるレベルで定義しながら、ある特定の対象をどのように解釈するかを展開するのは、なるほど、七色に輝く小魚だらけの浅瀬の海の景色を3色の太いペンだけで描こうとするような、そんな思いがした。つまりは、相当悩んだ果てに、現代アートにおけるコンセプトと作品の鑑賞というトピックに関して、仕組みそのものを展開するよりは、普段わたしがこのブログを通じてお話しているようなことを、喋ることにした。

salon_DSC04912

salon_DSC04911

さて、事前にFacebookのイベントページに掲載された私たちの発表内容は以下である。

【発表者】
・大久保美紀
パリ第8大学非常勤講師。美学。同大学大学院芸術学科博士後期課程、ニューメディア美学専修。批評のウェブサイト »salon de mimi »に展評•作家評•エッセイを多数掲載。研究テーマは現代の自己表象。ソーシャルメディアにおける自己語りと日記の関係性、現代アート、ファッションにおける身体意識・身体的表象に着目する。

・大谷亮
京都大学大学院工学研究科合成・生物化学専攻北川進研究室博士後期課程三回生。日本学術振興会特別研究員(DC1)。錯体化学、超分子化学。趣味は折り紙とヴァイオリン。餃子と寿司が好き。最近はピザも好き。前向き。小さじ1杯の悪意。笑う門には福来たるのかをこの人生で検証中。「何とかなると思うんだけどなー」が口癖らしい。

【発表内容】
大久保美紀
「コンセプチュアルなアートとその鑑賞 ー つくる人、みる人、かたる人」
皆さんは現代アートが好きですか?
現代アートは難しくて分からない、一体何がアートなの? ――私にもはっきりとは分かりません。
それらの疑問は、現代アートがしばしば概念的(コンセプチュアル)であることに由来します。
展覧会や作品のコンセプトは一般に、作品を理解するためのカギとして重要視されますが、 »提示された作品それ自体 »と »説明された複雑怪奇なコンセプト »があまりに隔たっている場合には、鑑賞者は困ってしまうでしょう。一方で、そんなふうに鑑賞者を煙に巻かない素敵な作品も必ずあります。本発表では、「難しくて分からない現代アート」のその不親切さを前に肩を落とさず、楽しく現代アートを体験する方法についてお話したいと思います。そこではつくる人とみる人、かたる人が相互に関わります。今日注目されている美術家の活動にも触れながら、現代アートについて一緒に考えてみましょう。

大谷亮
「趣味から始まるChemistry~折り紙と錯体化学、と私~」
皆さん、鶴は折れますか?
日本の文化、折り紙。小さい頃に遊びつつも次第に忘れられてしまう折り紙。しかし、現在「超複雑系」と呼ばれる折り紙が発展しています。知る人ぞ知る現代”折り紙”の一端に触れて頂きます。
更に、本発表者の専門である”錯体化学”とは。錯体は、ユニット折り紙のように構成分子を自在にくみ上げることで作られる物質群です。どのようなコンセプトから錯体化学研究が行われているのか、錯体化学研究の基礎から最新トピックスまで、ものすごーーーーくざっくりと分かりやすく説明します。

salon_DSC04917

紹介した作品は、ソフィ•カルの作品より『Les Dormeurs』『Prenez soins de vous』。ここでは、コンセプチュアルなアートの一つの例として、アーティストのつくるゲームのルールのようなものを第三者がパフォーマンスとして遂行した結果を、テキストや写真、ヴィデオなどの記録を通じて鑑賞者に総合的に追体験させるようなものを紹介した。(参考:添い寝がなぜ気になるのか)あるいは、作品としての「モノ」を作っているにも関わらずその主題や問題提起によってしばしば「なぜこれがアートなのか?」という問いを投げかけられる会田誠さんの作品『シリーズ:犬』について、私自身の解釈を提示し、『自殺未遂マシーン』についても考えた。(参考:会田誠「天才でごめんなさい」)最後に、1980年代をニューヨークで過ごし、コンセプチュアルアートの手法を研究したアイウェイウェイの最近の作品、ヴェネチアビエンナーレで公開された二つの『Dispositions』について論じた。(参考:アイウェイウェイ3つのストーリー映画『アイウェイウェイは謝らない』

salon_DSC04919

アイウェイウェイの作品を紹介するのは、Young Pioneer’s Presentationのように「現代アートとは何か?」という問題意識を持って話を聞きにきてくださった人の中には、現代アートは単に「コンセプチュアルで難しい」というだけでなく「奇異なもの」「突拍子のないもの」、更に、そうあらなければならない、と感じている人もおられたからである。現代アートは勿論複雑でなくていいし、分かり易くて構わないし、ヘンでなくてよろしい。つまり、力のある現代アートは眩しくないかもしれない、大切なことを伝える表現は必ずしも複雑怪奇な暗号に自らを隠してない。世界を良くするようなメッセージがミラーボールのような輝きを放っている義務などない。それは、くすんでさびていても、重苦しく目立たなくても、それらが現代アートというからには、現代の社会、現代の世界の問題に関わり、それに出会う私たちに何かを考えさせ、あわよくば勇気づけたり、生きることは良いと感じさせる。その意味で、表現をすることは意味があり、それを享受することにも意味があるのだと思う。私が考えていたのは、そのようなことである。

03/12/14

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション, Studies of « Post-Cosplay » Fashion

研究集会「コスプレの美学―コスプレ、ファッション、日本文化」

1796687_10202258553878747_228149007_n
日時:2014年3月16日(日)14時開場 14時30分開会 20時終了予定
会場:ウィンクあいち 1301会議室 http://www.winc-aichi.jp/(JR名古屋駅桜通口からミッドランドスクエア方面 徒歩5分)

内容:
第1セッション:コスプレ「コスプレの社会的意義と芸術的表現について」
座長:室井尚(横浜国立大学・教授)
講演:園田明日香(NPO法人コス援護会・理事長)

第2セッション:ファッション「『異装のモダリティ–充溢する意味、あるいは、ポスト・コスプレのファッション」
座長:吉岡洋(京都大学・教授)
講演:大久保美紀(パリ第8大学・非常勤講師・美学)

第3セッション:日本文化「コスプレをする・見る–オタク文化におけるパフォーマンスの記号と異文化」
座長:島本浣(京都精華大学・教授)
講演:ジュリアン・ブヴァール(リヨン第3大学・准教授・日本のポピュラーカルチャー研究)

入場無料、予約不要(定員80名)
主催:科学研究費基盤研究(A)ポピュラーカルチャーの美学構築のための基盤研究[研究代表者:室井尚(横浜国立大学教授)]

Facebook : https://www.facebook.com/events/409348502543982/?fref=ts

 こんにちは、大久保美紀です。さて、近づいて参りました、今週末は名古屋でお会いいたしましょう。〈コスプレの美学〉なのに、ポスト•コスプレなんて、一体どうなっちゃうんでしょう…。私の方からは、ファッションとしての「異装」にはどんなパワーがあるのか(歴史の中でどんなパワーがあったのか)、そして、これからのコスプレ実践はどんなもので有り得るのかを明らかにするため、「コスプレ」をスッパリ切り開きます!
 フランスのコスプレイヤーや研究者に行ったインタビューや対話の話もします。異装を通じたアート作品の分析もします。ぜひお越し下さい。

 さて、実はコスプレについてはこれまでも長ーいこと考えてきたのですが、長ーいトンネルを抜けて、この文化特有の“対話の難しさ”を越えて、これまでとは異なる考えに至りました。どうぞお楽しみに。

 

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション

(要旨)
本発表は、これまで多くの日本人および外国人が研究してきた「コスプレ」という現象を、人類の自己表現の手段の一つとして新たに捉え直し、「コスプレ」の行為者が「コスプレ」を介して何を実現し、その行為にどのような意味を与えているのかという問題を再考する。したがって、本発表では、「コスプレ」を、今日まで一貫して守ってきたコンテクスト:現代日本大衆文化(ポップカルチャー、しばしばクールジャパンと呼ばれる)から生まれたものであること、その代名詞であるアニメ•マンガのキャラクターを模倣したコスチュームを身につけた特定の集団がコミケやイベントに参加すること、という定義への固執を一度放棄する。これら固有の文脈から切り離された「コスプレ」とは何か。世界からも着目を集める奇異な文化現象としての「コスプレ」をという重苦しい仮装を脱いで、人類が今日まで、異なる文明、文化、国、宗教、社会の中で実践してきた、自己表現の行為の一つととらえたとき、抽出されるエッセンスは何だろうか。そこに残るのは、とてもシンプルだが、状況を逸脱した着衣行為である。私はこれを「異装」と呼ぶ。本発表では、「異装」のモダリティについて考えること―-つまり、「コスプレ」という行為の中核を担う「逸脱した着衣行為」がどのような目的でどのように実現されるのかを明らかにすること―-によって、日本的な「コスプレ」が蔓延し、希釈され、変容し、全く別のものとして生まれ直してしまう世界においても、なお楽しく逸脱した着衣を繰り返すことのできる「ポスト•コスプレのファッション」を提案したい。
38132_1496751664944_3180770_n

05/22/13

Mobilisable 2013 au Labo de l’édition, 30 et 31 mai 2013

Mobilisable 2013 au Labo de l’édition, 30 et 31 mai 2013

Mobilisable 2013, ouvrages expérimentaux pour écrans mobiles
Deux journées au Labo de l’édition*, jeudi 30 et vendredi 31 mai 2013, de 14h à 18h.
展覧会 « Mobilisable 2013 » @Labo de l’édition, 2013年5月30日、31日(14時−18時)
ラウンド•テーブル『モバイル•スクリーンのための実験的エクリチュール』、5月31日18—20時、同会場にて。入場自由。ぜひお越し下さい!

(texte cité de site « mobilisable 2013 »)
On le sait, en l’espace de peu de temps, l’écran est devenu fondamentalement mobile. S’il vient du téléphone, installé sur les réseaux, il est à la fois un ordinateur et une  page. Ce qu’il affiche, et ce sur quoi il permet d’agir à la fois intuitivement et selon nos habitudes culturelles, est aussi bien de l’ordre du livre et de la carte, du film et de la télévision, de l’outil et du jeu. Ne pourrait-on pas regarder ce que l’écran nous offre comme une entité qui serait plus ou moins tout cela à la fois, et même dans une version « augmentée » ? C’est ce type d’« ouvrage pour écran mobile » qu’il est passionnant d’explorer aujourd’hui, sans se poser nécessairement la question de sa nature ou de son destin. Ce sont un certain nombre de prototypes de ces ouvrages expérimentaux qu’expose « Mobilisable 2013 » au Labo de l’édition, sur une proposition du laboratoire EnsadLab de l’École nationale supérieure des Arts Décoratifs, associé à l’Université Paris 8 et à la Haute école d’art et de design-Genève. À l’exposition et à la démonstration s’adjoint bien sûr la discussion : des rencontres et une table ronde.

La table ronde « Une écriture expérimentale pour écrans mobiles » (jeudi 30 mai, de 18h à 20h) invite des designers et chercheurs à témoigner et à débattre des nouvelles formes de consultation et de lecture, mais d’abord des questions d’expérimentation et de formation attachées à une écriture propre aux ouvrages pour écrans mobiles.
Liste des intervenants :

Jean-Louis Boissier, chercheur à l’Université Paris 8 et à EnsadLab
Dominique Cunin, artiste, chercheur à EnsadLab
Jean-Michel Géridan, professeur de design graphique et interactif à l’ESAD-Le Havre
Anette Lenz, graphiste, professeur à la HEAD-Genève
Camille Pène (Labo de l’édition, modératrice)
Étienne Mineur, designer, professeur à l’EnsAD et à la HEAD-Genève
Daniel Sciboz, graphiste, professeur de design interactif à la HEAD-Genève
Douglas Edric Stanley, professeur de design interactif à la HEAD-Genève

* Labo de l’édition
http://www.labodeledition.com/
2, rue Saint-Médard, 75005 Paris
Tél : +33 1 83 64 89 00
contact@labodeledition.com

mobilisable-2013-affiche-web

05/10/13

Conférence de Hiroshi YOSHIOKA / 吉岡洋 講演会 @Ensad, Paris

Conférence (en anglais) par Hiroshi YOSHIOKA

EnsadLab/EMeRI, en coopération avec l’Université Paris 8 — Cycle « Le Japon des nouveaux médias »
Mercredi 29 mai 2013, 18h30, amphi Rodin, EnsAD, 31 rue d’Ulm, Paris 5e (site d’Ensad, plan ici)

*Entrée libre, sans réservation! Vous êtes tous les bienvenus !!!

2013年5月29日、パリのエンサッド(Ensad)において、エンサッド•パリ第8大学主催、ジャン=ルイ•ボワシエの紹介による吉岡洋講演会を行います。入場自由、18時30分開始、是非お越し下さい。講演は英語、ディスカッションは英語、フランス語、日本語(など)可です。ご質問などございましたらこのブログを通じてご連絡ください。

pubconfe

When Interaction Reaches the Critical Point
The development of media technology normally parallels with the sophistication of the artificial world. In my thought, however, the most potentially significant impact of media technology on our worldview is that it radically refreshes our understanding of « nature, »  by blurring a conventional borderline which seems to have been sharply drawn between the natural and the artificial. The use of the computer in the science of complex systems, for example, does not aim at creating the exact simulation of a natural phenomenon, but it means to lead us to a deeper understanding of nature by revealing limitations of the numerical simulation. The important thing is not to overcome limitations but to focus on an interaction between nature and our intelligence. This is also the case with artistic attempts employing media technology. What we usually call « interactivity » actually means an accelerated (or « real-time ») chain of actions and reactions, which specifically cannot be distinguished from traditional understanding of « (re)action. » How, then, can we describe what we should call truly « interactive, » a framework to understand a human activity merged with media technology?  In my presentation, I will try to describe such a conceptual framework in the context of contemporary Japanese society and culture after the Great Tohoku Earthquake and the Fukushima Nuclear Disaster.

 

Quand l’interaction atteint un point critique
Le développement de la technologie des médias est vu comme parallèle à la sophistication du monde artificiel. Selon moi, cependant, l’impact potentiellement le plus significatif de la technologie des médias sur notre vision du monde est qu’il renouvelle radicalement notre compréhension de la notion de « nature » en brouillant la limite conventionnelle qui semble nettement tracée entre naturel et artificiel. L’usage de l’ordinateur, notamment dans les sciences des systèmes complexes, ne vise pas à créer la simulation exacte des phénomènes naturels, mais nous conduit à une compréhension plus profonde de la nature en révélant des limites de la simulation numérique. La chose importante n’est pas de surmonter ces limitations mais de se concentrer sur une interaction entre la nature et notre intelligence. C’est aussi le cas des tentatives artistiques qui emploient les technologies des médias. Ce que l’on nomme ordinairement « interactivité » signifie une chaîne accélérée (ou « en temps réel ») d’actions et de réactions, qui ne peut pas être spécifiquement distinguée de la compréhension traditionnelle d’une (ré)action. Comment, dans ces conditions, décrire ce que nous pourrions véritablement nommer « interactif » ? Un cadre pour comprendre les activités humaines confondues avec la technologie des médias ? Il s’agit alors de tenter de décrire un tel cadre conceptuel dans le contexte contemporain de la société et de la culture japonaises, après le grand séisme du Tôhoku et le désastre nucléaire de Fukushima.

 

pastedGraphicHiroshi Yoshioka

Born in Kyoto in 1956. Professor of Aesthetics and Art Theory at the Graduate School of Letters, Kyoto University.  He is the president of Japanese Association of Semiotic Studies.  His books(Japanese) include The Present Tense of Thought: Complex Systems, Cyberspace, and Affordance Theory, Kodansha, 1997 and Information and Life: The Brain, Computers, and the Universe, with Hisashi Muroi, Shinyosha, 1993.  As well as being involved in the planning of exhibitions, such as Kyoto Biennale 2003 and Ogaki Biennale 2006, he has served as ICOMAG (The International Convention on Manga, Animation, Game and Media Art) Chair for three consecutive years.

Hiroshi Yoshioka
Né à Kyoto en 1956. Professeur d’esthétique et de théorie de l’art à l’École doctorale de la Faculté des lettres de l’Université de Kyoto. Il est président de l’Association japonaise d’Études sémiotiques. Ses ouvrages (en japonais) incluent : Le Temps présent de la pensée : Système complexe, cyberespace, et affordance, Kodansha, 1997 et L’Information et la vie : Cerveau, computers et univers avec Hisashi Muroi, Shinyosha, 1993. Il s’est occupé de divers projets d’expositions, comme la Biennale de Kyoto en 2003 et la Biennale d’Ogaki en 2006. Il a présidé trois années consécutives l’ICOMAG (Convention Internationale des mangas, animations, jeux et arts des médias) à Tokyo.
02/12/13

Pourquoi avoir honte du « Cool Japan » ? / « クールジャパン »はなぜ恥ずかしいのか(traduction en français du texte de Hiroshi Yoshioka)

このテクストは、「文化庁世界メディア芸術コンベンション」の座長をされている吉岡洋さんのブログに2012年3月6日に書かれた、「 »クールジャパン »はなぜ恥ずかしいのか」をフランス語訳したものです。第一回「メディア芸術の地域性と普遍性」、第二回のコンベンション「想像力の共有地(コモンズ)」について包括しながら、クールジャパン概念がどうして我々を不安にさせるのかを解釈したテクストです。きたる2013年2月16•17日は、そのコンベンションの第3回「異種混交的文化における批評の可能性」というテーマで開催されます。批評がテーマだそうです。

ネットに書いている以上、テキストは原理的にリンクやコピー・ペーストに開かれているのであり、やりたければ勝手にやればよろしい。(略)してほしいのはただ、著者名と出典(このブログのURL)をクレジットすること、明白な誤字脱字や誤変換の訂正以外は内容を改変しないこと、これは契約とかルールとかいう以前の、当たり前のことです。ぼくのテキストに関心を持つレベルの人は、当然そんなことはご承知だと信頼しています。

同ブログに先日掲載された記事で、上記のように書かれておられたので、繊細な内容を持つテクストですが、外国語話者にもぜひ読んでほしいと思って今回フランス語訳しました。フランス語読者でご興味を持たれる方には教えてあげていただければ幸いです。

 

Pourquoi avoir honte du « Cool Japan » ?

(sources: blog, hirunenotanuki , auteur: Hiroshi YOSHIOKA, traduit par Miki OKUBO)

 

La deuxième convention internationale du manga, de l’animation et du media art, «Commons, partage de l’imagination » s’est terminée. Cette fois-ci, grâce à l’appui de Jaqueline Berndt, professeur de l’Université Seika, nous avons invité des chercheurs internationaux sur le manga, d’Europe, de Corée, d’Indonésie. Les diverses discussions ont été très riches dans la durée limitée de la convention.
Comme je l’avais déjà décrit au début de l’article précédent de ce blog, intitulé « Que signifie le partage de l’imagination ? », en effet, le thème de la première convention de l’ICOMAG a été « le caractère local et universel des médias geijutsu » avec le sous-titre « au-delà du Cool Japan ». Voici ce j’ai déclaré en ouverture de l’abstract de cette deuxième édition :

 

Manga et Animation sont généralement considérés comme le secteur principal du « Cool Japan ». Cependant, en considérant certaines phrases employées pour présenter l’originalité et la subtilité de la culture japonaise à caractère industriel, je ne pense pas qu’elles sont COOL.

 

Il n’est pas difficile d’imaginer que certains soupçonnent les organisateurs de cet événement, en dépit de leur préoccupation officiellement nationale, de détester paradoxalement le Cool Japan. (Car ces conventions sont organisées au nom du ministère de la culture.)

 

A mon avis, il y a pas mal de gens qui partagent une sorte de sentiment honteux pour le Cool Japan (pour le terme et pour le phénomène général) sans savoir pourquoi. A vrai dire, c’est moi qui ai présidé ces deux conventions internationales en les orientant audacieusement sur un message d’anti-Cool Japan. Il est donc logique d’ expliquer précisément moi-même, pas vaguement mais rigoureusement, pourquoi l’on a honte de cette notion de Cool Japan. C’est ce que j’essaie de développer ici.

 

Tout d’abord comme première raison vraisemblable, on se sent honteux du Cool Japan parce que cette expression a une odeur un peu trop commerciale. Autrement dit, elle est associée fortement à l’économisme et au mercantilisme, et elle est effectivement orientée par ces domaines. Á la base, il y a une sorte de foi traditionnelle qui rappelle aux gens ce sentiment d’infériorité (en même temps, je trouve cette « foi » elle aussi honteuse). Il ne faut jamais interpréter la CULTURE du manga et de l’animation du point de vue de l’économie. Dans le passé, ce credo a été souvent partagé par les intellectuels de gauche modérés. Certes, cette affirmation qui sépare la culture de l’économie n’est peut-être pas erronée. Cependant, il est irréfutablement évident que cette position n’est plus viable dans les conditions actuelles de la démocratie et de la globalisation. Puisque la réalité est que la culture a entièrement perdu son autonomie, ce serait une véritable duplicité que de trop insister sur l’existence abstraite d’une autonomie de la culture.

 

Dans une réunion que nous avons eue il y a quelques jours, M. Eji Oguma a remarqué cette vérité historique que la base sociale ayant permis au manga et à l’animation de franchir les frontières a disparu il y a très longtemps, et que cette infrastructure n’existe plus aujourd’hui. En effet, la puissante prospérité du manga et de l’animation résulte de conditions particulières de la société japonaise dans les années 1960 et 1970. Le Cool Japan est un simple héritage du passé. Non seulement le manga et l’animation, mais à vrai dire, la notion de « croissance économique » sont nées dans le même vieux contexte tout comme le Prix Nobel qui honorait les chercheurs japonais grâce à leurs positions libérales, il y a une trentaine d’années. Je vous assure qu’aujourd’hui il n’existe plus cette infrastructure qui nous a mené à toutes ces belles histoires de réussite, et il n’est plus d’optimisme pour croire qu’elle marche toute seule.

 

C’est aussi la raison pour laquelle, aujourd’hui, je ne considère absolument pas efficace d’encourager le peuple japonais en disant : « nous, les Japonais, avons beaucoup de qualités formidables, tout ira très bien, ne nous inquiétons pas ! » Promouvoir ce Cool Japan faisant partie du spiritualisme stérile qui est l’équivalent de l’esprit d’Yamato (Yamato Damashi : esprit national) symbolisant la période du totalitarisme et du militarisme n’est pas viable, puisque l’ensemble des conditions sociales n’existent plus.  Après toutes ces réflexions, on pourrait dire que le Cool Japan semble stupide aujourd’hui. Toutefois, en observant cette critique plus précisément, cela avoue simplement que le Cool Japan est démodé, mais n’accuse pas sa notion même.

 

À l’opposé de ce type de critique, je crois, personnellement que c’est l’idée même de Cool Japan qui contient quelque chose de très mauvais. Alors, qu’est-ce-que cela peut être ?

 

Chez Oguma que je viens de citer, il est relevé que les commentaires caractéristiques et assez fréquents des critiques occidentaux disant que la culture populaire du Japon est très intéressante alors que la haute culture japonaise serait sans originalité. Ainsi, la culture « populaire » du Japon, celle de l’Ukiyo-e (l’estampe de l’époque Edo), du manga et de l’animation contemporains est réellement impressionnante alors que la « haute » culture japonaise ne serait qu’une imitation de celle de la Chine antérieurement ou de celle de l’Occident depuis l’époque moderne. Il est vrai que, moi aussi, j’ai entendu plus d’une fois cette série de commentaires sur la culture japonaise non seulement de la part des Occidentaux mais aussi par les Japonais qui partagent leur opinion. Chaque fois, j’ai eu une forte répugnance pour ces compliments.

 

Pourquoi ? C’est parce que cette sorte de discours équivaut exactement au pire snobisme qui suppose que la culture « supérieure » apprécie une culture « exotique ». Imaginons des indigènes qui tentent désespérément d’assimiler à la culture occidentale, et face à eux, des Blancs qui chanteraient : « Ce que vous nous copiez est nul ! Le shamanisme et l’animisme de votre propre culture traditionnelle sont beaucoup plus extraordinaires ! C’est, en fait, votre culture qui arrivera à réveiller notre cœur perdu dans l’histoire. » Le Cool Japan est exactement sur le même principe. Pourquoi cette intelligentsia des Blancs serait-elle assez généreuse  pour tolérer cette étrange tradition ? Puisque ce fait se situe bien après l’élimination de la tradition de ces indigènes, qu’ils ne pourraient plus récupérer leur propre culture. La race supérieure n’a peur de rien car ces indigènes sont mentalement neutralisés et castrés en tant que peuple calme et obéissant aux Blancs.

 

Je n’ai aucunement l’intention ici d’agiter une antipathie contre l’Occident ni contre les Blancs. Toutefois, cette histoire a eu lieu dans le monde entier y compris au Japon  dans un contexte colonialiste (sans doute sous un processus moins douloureux que les autres). Nous ne pourrons jamais modifier le passé. Ce que je voudrais mettre en lumière en revenant sur le passé est le mécanisme préexistant et la mentalité colonialiste larvée qui soutiennent généreusement une culture exotique inférieure des subordonnés. Je vous signale cette vraie signification d’un point de vue tel que celui-ci : « La haute culture japonaise n’est qu’une copie, mais toute ses subcultures sont vraiment créatives ! ».

 

En effet, les dominants ont ce discours qui exprime une tentative de rédemption de la culpabilité liée au fait que ce sont eux qui ont détruit une autre culture. En revanche, quand les subordonnés le répètent, cela signifie autre chose, c’est le rêve qui répond à la motivation d’assimiler ce sentiment coupable pour fusionner avec les dominants. L’idée de base du « Cool Japan » doit être traduite comme « colonialisme incarné et assimilé ». C’est le vrai noyau du « Cool Japan » que j’appelais « quelque chose de très mauvais » et aussi le contenu authentique d’un sentiment insupportablement honteux enveloppant ce terme. J’exagère peut-être un peu, cependant, je considère ces deux conventions internationales qui s’engagent dans la problématique du « Média Art » (Media Geijutsu) comme des batailles culturelles sérieuses afin de parvenir à l’époque du post-colonialisme au Japon.

 

Remerciement:
mes sincères remerciements pour la correction du français
à Jean-Louis Boissier et à Liliane Terrier

06/18/12

国際シンポジウム téléphone mobile et création

téléphone mobile et création

2012年6月14日•15日、ケータイ電話とクリエーションに関わる国際シンポジウムがパリ2区のINHAで行われた。主催はIRCAVとパリ第3大学。IRCAV(l’Institut de Recherche en Cinéma et Audiovisuel)の中心人物は、映画とイメージの研究およびケータイなどのニューメディアのコミュニケーション研究のフランスでの先駆者としてパリ第3大学で教鞭をとってきたRoger Odin, そして今回のオーガナイザー、Laurence Allard, Laurent Creton, アーティストでありエンジニアであるBenoit Labourdetteの4名のエキスパートたちだ。ケータイとコミュニケーションに関わる国際シンポということで、今回の討論会の様子はツイッター中継および録画され、近々全貌がMobile Créationのサイトにアップされる予定である。
twitter Facebookはこちら

Roger Odin, Laurent Creton, Benoit Labourdette, Laurence Allard, Maurizio Ferraris

さて、プログラムは以下である。一日目は8時から8時半に受付を済ませて、8時半からイントロダクション開始、17時までというややハードな日程。2日目は9時から13時まで、5人の招待講演者による発表で幕を閉じる。

6/14
8h-8h30/ Accueil et inscriptions
8h30-9h/ Introduction : Laurent Creton, Roger Odin, Laurence Allard, Benoit Labourdette

Session 1/
9h-11h / Mobile, Ecriture et mNovel (Présidence : Roger Odin)
−L’explosion de la documentalité/Explosion of ‘Documentalité’, Maurizio Ferraris (Université de Turin)

−Le SMS entre forme et geste : analyse d’une pratique d’écriture/ Writing onmobile: gesture and forms: SMS/MMS
Joëlle Menrath (Discours et Pratiques) et Anne Jarrigeon (Université Paris Est)
m-Novels en Afrique du Sud : impliquer les lecteurs grâce aux téléphones portables/m-Novels for Africa: Engaging Readers through Mobile Phones, Steve Vosloo (yozaproject.com)

Session 2/
11h-13h / Mobile, politique et formats transmédia / Mobile, Politics and Transmedia (Présidence : Laurence Allard)
−Vidéos mobile et politique : Iranian Stories/Mobile Videos and politics: Iranian Stories, Cyril Cadars et Thibault Lefèvre (iranianstories.org/)

−Vidéos et voix des peuples : Crowdvoice/Videos and People’s Voices: Crowdvoice, Esra’a Al Shafei (crowdvoice.org/)
Session 3/ 15h-17h / Cinéma mobile et création/ Movie, Mobile and Creation (Présidence : Benoit Labourdette)
−Une nouvelle culture de la création/A New Culture of creation
Serge Tisseron (psychiatre)
Alain Fleischer, Le Fresnoy

Ateliers de films mobiles /workshops and video screenings mobile

6/15
Session 4/
9h-13h / Géolocalisation, mobilité, nomadisme et réalité augmentée / Geolocalisation, Mobility, Nomadisme and Augmented Reality (Présidence : Laurent Creton)

−Algorithmic visions: towards a new documentary practice, William Uricchio (MIT/Utrecht)
−Play -Mobile Immuable, Nicolas Nova (Near Future Laboratory-Genève)

−Bollywood’s Rythm’n Games : les adaptations de films indiens sur téléphone mobile/Bollywood on mobile games
Alexis Blanchet (Université Paris 3-IRCAV)

−La musique des portables du désert/Music of Sahara Cellphones Christopher Kirkley (sahelsounds.com/)

−Téléphone mobile et création: une approche conceptuelle/Mobile and Creation: a conceptual approach, Thomas Paris (HEC)

sculpture à INHA, Paris

ケータイ電話とクリエーションというテーマを掲げた今回のシンポジウムであったが、全体の印象として、ケータイ電話を用いたクリエーションに焦点を当てて、ケータイでこそ可能となる表現行為について掘り下げた議論を行ったセッションは無かったように思う。いっぽうで、現代のメディア環境における人々の行動学的特徴や社会学的分析は、「ユビキタス」や「モバイル」といったおなじみのアイディアを下敷きとして展開され、その内容は、2000年以降からスマートフォンの到来以前まで、日本において特殊化した現象として語られた「ケータイ文化」論をもう一度なぞり直したものに近かった。

それもそのはず、ケータイ端末を介して人々が大きなインターネットの世界に接続しつづけるという状況は、日本社会においてはimodeを先駆とする諸処のサービスのおかげで、2007年のiPhoneずっと以前から定着していたが、むしろこれは国際的にみれば特殊な状況である。一般的に、全ての人々が個人が所有する端末を介してネットに接続されたのは、スマートフォンの到来以降なのだ。国際的にみてみたならば、インターネットがパソコンからでなくケータイから一般の人々に普及した国々も実にたくさんある。たとえば近年ソーシャルネットワークを媒介とした政治的アクティヴィストの運動が相次いで起こっている、イランやエジプトといった中東の国々は典型的にそのような国に分類されるだろう。ケータイ電話の普及によってはじめて、インターネットを利用した政治活動が一般の若者に開かれた。さらにはシンポジウムでSteve Voslooによって紹介されたmNovelとは、南アフリカの子ども達にケータイのメールを通じて200語程度に区切られた小説を送り、読書経験を豊かにするための教育プログラムであり、独自のディヴァイスを利用した実験的実践をすでに展開している。読書経験を積むだけでなく、創作意欲のある書き手を育てることも同時に目的としており、この文学形態はまさに、日本社会で2002年ころから起こった、ケータイ小説という新しい文学のあり方にも深く結びつく。ケータイというディバイスは言うまでもなく、表現行為の敷居を取り払う。

Joëlle Menrath, Anne Jarrigeon, Roger Odin, Steve Vosloo, Maurizio Ferraris

2日間に及ぶシンポジウムで、おそらくは外国人としての視点から、あるいは独自のケータイ文化を育ててきた日本において1990年代と2000年代を過ごした世代としての視点から、目に留まったことが一つある。それは、フランスにおいて如何にイメージの問題が重要か、シネマというカテゴリーが重要かということである。つまり、ケータイはたしかに、Joëlle MenrathとAnne Jarrigeonによって社会学的に分析されたように、SMSに代表される「書く行為」を一変させたディバイスである。私の個人的関心の半分は、やはり文章表現のあり方を作り替えた「メール」に情熱的に注がれている。だが、今回のシンポジウムのウエイトは、文章でないもう一つの媒体、「イメージ」のほうにずっしりと据えられていたように思う。mms(写メール)を送れること、録画した画像や動画を即座にインターネット上で共有できること、そして何よりも、ケータイというディヴァイスが電話から録音機あるいはヴィデオカメラに変化したこと。たしかに、この点については、まだまだ色々な意味で分析されずにいる部分が大きい。

私のケータイ電話とその創作への関心は非常に単純だ。だいいちに、全ての人を表現行為に駆り立てることのできるディヴァイスの可能性と、その際生み出される新しくて面白い表現行為の性質や可能性を見極めること。そして、それが人々をどうやってもっとわくわくさせて、もっと幸せにさせることができるのか、考え、話し合い、たくさんの人と一緒にもっとたくさんの人を繋ぐ楽しい「できごと」を創り出すことに尽きる。

le ciel blue à travers le plafond, 天井窓ごしに見える空